はてなキーワード: 一人区とは
もしかして本気で「自民の対抗馬に入れる」って投票行動の意味がわかってないんか…?(困惑)
自民の対抗馬なんて選挙時の状況次第で変わる。どこの党が対抗馬って決めたとしても意味はない。いざ選挙ってなってもその時には情勢がガラリと変わってる可能性あるし投票日当日まで事故災害報道などの要因で何が起こるかわからない。希望の党みたいに直前に誰かが新党立ち上げて野党大再編何てことも実際にあったわけだし。
選挙区はTPO次第だが比例なら投票時に野党の中で一番勢いのあるとこに入れれば自民への一番の牽制になるし他の野党に入れても自民は脅威だろう。
ウチの選挙区なんか一人区だから贅沢言えないんだぞ。最近ほぼ一騎打ちだから自民以外の立った候補に「ありがてえ!300万円も払って立ってくれて!俺にはとても真似できねえ!」ってクララが立ったときのハイジのような気持ちで入れてる。票が少ないと払った供託金300万円も没収されちゃうしさ…
俺自身は支持政党はあっても特にこだわらずその時有利に働きそうな1票の使い方考えて党派性に関係なく入れてる。そういう戦略だから割り切るしかない。
候補者多い選挙区なら当確ボーダーライン以下で厳しそうでも比例重複立候補してて惜敗率で復活しそうな候補とか、そんなん関係なくこの候補者だけは落ちて欲しくないとか色々入れ方はある。
冷静な数学的視点で入れるのもおもしろいが、我が生涯に一片の悔いなしで落としたくない候補に入れるもまた一興。
むずかしいよ、悩むのめんどくさいよ、というなら、とりまざっくり自民以外にいれりゃいい。
維新、N国は自民の補完勢力になりうるからあんまりオススメはしないが自民の票は削れるので他の野党で妥協できないなら維新、N国でもいいと思う。
どうしても与党に入れて勝ち馬に乗る気分が味わいたいなら公明という手もある。悪手ではあるが白票よりはマシ。
確実に言えることは自民に入れたら自民への全面的肯定票ということにして「国民から全権委任を得た!」ってことにされるってこと。(ナチスの手口)
桜もモリカケも移民も水道法も北方領土割譲も拉致問題が進展しないのも「国民の意思!」ってことにされるってこと。
国民の意思なんかじゃねーよ、全権委任なんかしてねーよって言っても自民に票を入れた以上は無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァァァァ!
いくらアンケ結果で消極的支持だってわかってたってアンケは物を言わない。物を言うのは票と金。
自民がダメなのはわかっているがというが、ダメにさせてるのはそのダメな自民に票を貢ぎ続けてる増田自身だよ。
子供のためと言いつつDV夫の暴力に耐えるメンヘラ女かよ。我慢してたら子供も自分も身の破滅だぞ。DV夫に家庭内で頑張っても無駄、逃げるか弁護士頼んで離婚調停か警察に駆け込め、でないと死ぬから。
でも安倍政権の政策にストップかけられず桜で自分の支持者招待して旨い汁吸わせた共犯者にさせられてるから安倍に強く意見できない。だから自民に入れても安倍の肥やし、つまりうんちになるだけ。
それよりは野党に入れろ。いくらかでも自民が改心するきっかけになるし自民内のパワーバランス変わるから。少なくとも野党に入った票は自民への圧力と自民内の心あるまともな議員への応援票になるので自民に入れるより二度美味しいし自民にはダメージ倍返し効果がある。
あるなら教えて欲しい。
暑気厳しき折柄、参議院選挙まことにお疲れさまでした。これで亥年選挙も、年末解散とかいう法螺が実現しなければ概ね終了、何人の同志が再び議席を得、何人の同志が涙を呑んだことでしょうか。一部には議席の食い合いに終わっただけという評もありますが、ともかくその努力には敬意を払いたいと思います。
戦勝気分に水を差すようですが、共同通信試算によれば、この参院選、同日選だったらもう一回2/3の議席を自公側に与えるような大敗北です。いえ、もちろん同日選だったらもうちょっとうまくやっていたでしょうが、それはいつもの死児の年を数える行為です、生産性がない。
独裁安倍政権が樹立されてから、彼らの主張するには国政選6連勝と驕っているそうです。とりもなおさずそれは野党系にとっては6連敗。いや敗北はないとおっしゃるかもしれませんが、打撃を与えるほどではありませんでした。思い出してください、あなた方は嘗て政権を取っていた。にもかかわらず、今や議会の1/3を抑えたことに狂喜乱舞して勝利と喧伝する、この精神的退廃は一体なんでありましょう。
加えてこの選挙で明らかになったのは、国民の政治不信が飽和点に達しつつある、という点です。左右のポピュリスト政党が急激に伸長したのはひとえに「もはや既存政党、就中旧民主党系が占める野党勢力は過去の経緯から全く信が置けない」という国民的な意志の発露です。これは少なくとも近代民主政治の信奉者としては看過できません。これが飽和点に達した時どうなるか、まさか過去に欧米に学べないとは言いますまい。
思えば、私たちはあなた方の政権に3年間耐えました。さらにあなた方が何も考えずにアベガーアベガーと玉砕選挙を繰り返し、空費したこの年月も耐えてきました。もう沢山です。
今度は私たちが要求する番です。せめて3年ぐらい「アベガー」を言わないで、粛々と政策論争をする、そのぐらいのことはしていただけないでしょうか。
無論悪の権化極右安倍政権からは今にもまして罵詈雑言が飛んできましょう。内調のハッカー部隊がネトウヨを煽って卑劣な攻撃を仕掛けてくることでしょう。それによって次なる選挙もまた劣勢に陥るかもしれません。しかしそれに対して歯を食いしばって只々無言の抵抗をする、憲法9条を正に生かすが如くの気高い精神性は必ずや国民に受け入れられましょう。同時にきちんとした政策を練り上げることで、次期政権の受け皿たる力があるということを示してください。
競うべきは政策であって、トップ屋が持ち込む怪しい不祥事のケツを嗅ぎ回ることではありません。そんなことは共産党にでもさせておけばいい。アベの首さえ取れればいいのですか?で、取った後どうするんですか?取った後考える? またこの前の3年を、劣化させて繰り返すんですか? 地に足の着いた議論はできないのですか?
次の参院選は3年後、総選挙は間に挟みますが、そこで勝っても参院の構成が変わらななければ何一つできません。ならば石の上にも三年、真っ当な言動というモノを見せてください。
繰り返しますが、もう沢山です。無論今までの運動律から逃れるのは困難でしょう。無責任な社会党の地位は確かに楽しいでしょう。分派行動をしたあいつらは憎いでしょう。結局は取れもしない一人区の擁立国盗り合戦は面白いでしょう。ぬるま湯に浸り続けるのは楽です。現に国民も今の体制というぬるま湯から暑いとも冷たいとも知れぬ次の湯に入ろうという気概は湧きません。ましてその湯の色すら、湯船が現にあるのかすら判然としないのです。そんな霧の中にそこに清水の舞台から飛んで入れ、とは誰にも命じられる謂れはありません。せめて湯がちゃんと入ってるのだ、ということは見せてください。そのために土台を作り、まきを割り、水をくむ、そういう作業をちゃんと見せることが必要です。
あなた方はこの間政権を嘘と妄想で簒奪した時言いました。「一回試させてください」と。我々は試し、そして失敗しました。
ならばこんどはこちらが言います。「一回、政策議論をちゃんとする道を試してください」と。あなた方はそれを容れる度量すらもう失いましたか?人に要求するだけですか?妄執の繰り言をいつまで続けるつもりですか?
今こそが、国政はちゃんと議論ができるのだということを示す最後のチャンスです。極右安倍政権は変わりません。ならば変わる一歩は社会の前衛である勢力こそが踏み出すべきです。
出来ないなら?ならば、滅びるだけです。しかし、それが単にあなた方だけの自死だけで済むでしょうか。あなた方が無残に死んだあと、その生態ニッチを埋める者が果たして何者か、良くお考えください。それが果たして我が国のためになるのでしょうか。
御英慮を期待しております。
地方の一人区でダブルスコア以上の差を付けて自民党が圧勝しているエリアなんだけど、この圧倒的な勝因は何なの?
非自民党がそこを拾えていないのは何?
県の人口のほとんどがそこの特産品の農家とか、そういう状況なのかな?
非正規、低賃金、貧困、職業団体、労組、種々のマイノリティ(セクシャルに限らず)も多いはずだし、お上の政党に反対票を入れたくなる人って多くないのかしら?
自民党支持層がずっと自民党を支持し続けることで、手堅いメリットがあるわけだよね?
言ってることはそれなりに分かる。
葬式の格好で国会に出て牛歩してたバカとは思えないくらいまともだ。見直した。
書いてあることを実行できるなら基本的には支持できる。
だが一点、「これだけは駄目」と思うことを言ってる。「野党共闘に参加する」ということだ。
私は、もちろん野党共闘に賛成です。
参議院選挙の本質は、安倍内閣vs野党です。私は野党の一員で、全力で安倍内閣に対抗します。
一人区では、当然、野党候補を応援します。いっしょに戦います。
山本太郎よ、考え直せ。
お前が味方につけるべきは「リベラル」じゃない。
どうもこんにちは。反表現規制派として有名である山田太郎議員への比例区への投票を呼びかける声は投票日も近づいてきた事からか、日に日に高まってきています。特に今回は投票年齢が18歳に引き下げられてから初めての国政選挙という事もあり、ネット上では熱気を帯びてきており注目に値する事だと思います。個人的には当選してほしいものです。私も比例区では入れました。
最初に一言だけ。自分は政治には全くの素人で、wikipediaやネット上のニュース記事程度しか漁らない程度の浅い人間です。ツッコミどころは多々あるでしょうが、そこら辺はご容赦頂けると幸いです。あとはてブへの投稿も実質初めてですので至らない部分も多いです。すいません。
さて、タイトルを見て「山田太郎議員を否定する記事なんじゃないか」と思う方も少なくないでしょうがその意思は(全くではありませんが)有りません。むしろ支持者層についての感想と疑問がメインのテーマとして書かせていただきます。
山田議員の名前がネット上で大きく取り上げられるようになったのはいつ頃だったでしょうか。私の環境だと1年半前くらいからだと記憶しています。国会内でも秘密保護法の制定など小さくない動きがある中、独自の路線でアピールする山田議員はいつしかかなりのネット有名人になっていって行きました。従来の反表現規制派とは異なった考え方もその要因でしょう。私個人としても「オタクのために戦ってくれている議員がいるのか」とその存在を知った時にはある種の感動を覚えたものです。やたら所属政党が変わってたのが気になりはしましたが。
その山田議員も前回の当選から参議院議員の任期満了を迎える季節となり、再選するために選挙へのアピールも少しずつ増えてきました。おおさか維新の会を入党から2日で離党するなど危なげな動きもありましたが、新党改革の統一名簿から全国比例区で出馬する事が決まり(小政党ではありますが)全力で当選するために選挙活動を始めるスタートラインに立つ事が出来ました。元々所属していた旧みんなの党の分離・政界再編の激流に巻き込まれる、という不運が無ければ一番良かったのでしょうが。
それで、本題の山田議員支持や投票を表明するネット上の支持者の話です。ネット上(主にTwitter)で見る限り、全国比例で山田議員個人への投票をお願いしているのが基本のスタンスのようです。まぁ全国比例区で出馬しているのですからそれは当たり前ですね。ただ、ここからが私の疑問点で、選挙区に関する話題が全く出てこない、それどころか野党議員叩きを山田議員支持と一緒に発信してる人間も少なくない、という点です。野党叩きに関しては仕方ない部分もあります。そもそも山田議員がメインとして話をしているのは表現規制反対であり、野党共闘が(これは統一候補によってかなりバラツキがあるでしょうが)主に格差問題や経済問題、先の国会で成立した安保法制への反対など被っている部分は(主観ですが)かなり少ないように思えます。被ってる政策がなきゃ組いる必要ないしね。個人がそれに関してどう反応をするのは、個人個人の考えであり私が口出しする事ではないでしょうし。自分も「反安保や反原発だけ言ってるだけで自民に勝てるわけないだろ」とか「戦争反対とかお前いつも同じ事言ってんな」とか「あんだけ分裂合併繰り返して一人区の半分しか統一候補を擁立できなかった民進はまず身を固める事から始めろよ」とか思ってます。ぶっちゃけ。
ただ選挙区によっては事情が異なります。選挙区の野党議員が反表現規制派である場合において、特に一部議員は山田議員自ら「表現の自由を守ってやってきた先輩議員」と発言しているにも関わらず多くの山田議員支持者から「もしあなたの選挙区で反表現規制派の議員が出馬しているならば、投票して頂けると有難いです」とか「議員一人の力には限界があります。少しでも山田議員に共闘者を」とかそういう発言が全くと言っていいほど出てこないんです。(ソース:http://getnews.jp/archives/1479281)
山田議員自身も「政党人には党議拘束もあるからどれだけ力になってくれるかわからない部分もある(要約)」って事は言ってます。民進党もなんか逆風っぽいと捉えられかねない公約も出してしまってますし。それでもこういった党所属の反表現規制派議員の存在を無視して野党総叩きをしている人を見ると私は違和感を感じてしまいます。別に野党議員に投票してくれなんて言いません。しかし特定野党に所属しているというだけの偏見で、その議員への投票をするという可能性を消してしまうのがどうしても私は違和感を覚えてしまうのです。要は「まず選挙区の議員の公約を大規模政党だけでもいいので見てから判断しようよ」ってのを私は言いたいんです。それをしっかりしてからなら自民党でも民進党でも幸福実現党でも真理党でもいいので「良い」と思った議員に入れて下さい。選挙区の議員の公約を見るくらい5分10分で終わる話でしょう?まずは偏見を少しでも減らす努力をしてから投票に行っても遅くないのではないでしょうか。「いいな!」って候補者がいなければ選挙区は白紙で比例区にだけ投票したっていいんですから。
新党騒ぎで自民党オワタみたいな意見をよく見かけるが、民主党は複数区は2人擁立だから民主が自民にダブルスコアで表割をきっちりやれるという奇跡的に都合のいい展開にならない限り自民は楽に勝てる。世論調査でどの党に入れるか(≠政党支持率)の調査でも自民と民主で2倍も差はないし、みんなの党や公明共産が自民を上回ったという結果もない。民主党がこの低支持率なら一人区は自民勝ち越しも可能になってくる。自民以外で民主に勝てそうな野党ないし選挙は消去法だから結局内閣不支持層は自民に入れることになるから。この期に及んでまだ民主が一人区で勝ち越せると思ってる人はなぜ自民のときは低支持率だと一人区で負けて民主なら負けないと言えるのかの根拠はあるんだろうか。今は枡添とかが首相にしたい人ナンバーワンで谷垣は空気だが、参院選に勝てば急浮上するはず。小沢とかだって不人気だったが勝ったら浮上した。世論は勝ち馬に乗るのがいつものパターンなので現時点で谷垣の人気がなくてもあまり気にする必要はないだろ。こんな楽に勝てる状況なのに離党する奴はルーピーとしかいいようがない。勝っても谷垣続投なら意味ないからさっさと出て行って民主と組もうってことなんだろうけど。
2010参議院議員選挙について、私は具体的に
が現与党の最低ラインだと思ってます。
一人区は98橋本参院での自民の勝率67%を今の一人区数(29)に当てはめたもの。複数区は全18区で1議席のみしか獲得できなかったと仮定。比例は民主が総得票数第2党になった場合を想定しています(07自民なみ)。現体制(民社国連立)維持も前提なので社民か国新どちらかで1議席獲得するだろう分も加えてます。何れもこれが最低値で、これにプラスαはあってもこれを下回る事は「支持率一桁に下落か野党共闘による大連合でも起きないとないだろう」という考えです。
ちなみにこの52議席は現在の非改選分の与党系勢力(民国66+社2+無2)と合わせて122となり、江田議長の分を抜いても参院過半数となる数です。また、公明は非改選を10持っており、改選でも比例で5は確実だと思われますので、改選非改選合わせても10に届きそうもない社国ととりかえも可能でしょう。みんなの党は15獲れれば連立候補に浮上できると思いますが、おそらくそれ以下になって、選挙後の出番もなくむしろ解党の可能性すらあると思います。
ようは私はまだ民主有利と見てる皮算用なんですが、民主敗北と考えてる方はどのような皮算用をされてるのか教えて欲しいのです。
アンチ民主党とか自民党やみんなの党シンパとか、とにかく今度の参議院議員選挙で「民主党が負ける」と思ってる方は、票読みでなく選挙区比例区各区分での議席予想レベルで良いので、トラックバックなどでレスポンスお願いします。
私は中高一貫の女子校に通い、そこはそれなりの進学校(東大医学部現役合格が出ても騒ぎにならない程度)だった。
校則がほとんどなく(自主性に任せられていた)、教師も個性だらけの学校であったため、すこし浮いた学校だったと今ならわかる。
生徒は自主性を重んじられるあまり大変気の強い人間に育ち、教師に対しての反抗心も露骨だった。
そんな私達がみな慕っていた教師がいる。
おおらかで、先生らしくない能天気さを持ち、えらそうでないのに尊敬したくなるほど人柄がよかった。
そういえば在日だったなあ、と思い返すぐらい、そのことについては印象が薄くて(先生は名前を韓国での読み方にしていたし、在日であるがゆえにうけた差別などについて話してくれたこともあったはずなのに、だ)今思うと不思議でたまらない。
これはどういうことだろう?
私はひとつずつ、先生の言動を思い出していくことにした。
ある日、日数が余ったかなにかで(私の学校は勉強に力を入れていないのでそういうことは日常茶飯事)特別授業として人権や差別のことについて話してくれたことがある。(人権問題の講座の担当もしていたので)
先生が自分が在日であることを自分の口で述べたのもそれが初めてだった。
名前読みは韓国での読み方になっていたので、在日であることはうすうす感じていたけれど、私達は特に意識もしてこなかったので、先生の話にちょっとドキリとした。
先生の話は名前のこと、自分の出生のこと、そして大学時代、友人だと思っていた人から差別されたことや(しかしそれを笑い話にして話してくれた)、それを救ってくれた別の友人との出会い、最後には差別がどれほど人を傷つけるか、けれどそれを救ってくれる人はいるのだ、というものだった。
先生は日本と韓国の歴史に対しては何も言わなかった。むしろ、「日本」「韓国」なんて単語を出すこともなかった。
話では常に自分と友人が登場人物であり、国家の話に摩り替えられることはなかった。
先生は個人と個人の間で起きた差別について実感してもらうためにまず私達に自分の体験を話してくれたのだ。
その後、先生は日本にあった「女人禁制」や他国の差別問題などの話をはじめ、きっとそれが本題だったのだろうけれど、
私達は導入部分であったはずの先生が受けた差別についての話にかなりショックを受けていた。
泣く学生も続出していて、でもそれは自分が先生を差別した友人と同じ日本人だからショックだったとかそういうものではなく、
いい人が不条理な扱いを受けた、という事実に涙していた。差別というものの残酷さに泣いた、それだけだった。
別に先生がアメリカ人で、その友人がイギリス人でも同じ反応をしただろう。(アメリカとイギリスにそんな関係があるのかは知らない)
差別の経験を話す際、偶然先生が「在日」だっただけ。そこに重きは置かれていなかった。
その先生の差別の話を聞いたところで、私達の頭に歴史がよぎるわけもなく、
ただ私達が過去に経験した話を今の友達にするのと同様、その人の財産である経験を見て、さらに信頼を築いている、それだけのことだった。
先生のスタンスは常にこんな感じで、国家や立場を、人と人の関係より重視することは決してなかったのだ。
だからこそ私は、先生が在日であるということを、さほど意識してこなかったんだろう。
こういった状態には賛否あるんだろうと思う。問題意識が足りないとか、そういう点で。
私の学校には在日の子もいて、でもそれも同じように気にならなかった。名前が見慣れないってぐらい。
彼女達も自分が在日であることを隠すわけではなかったけど、それで関係がどうなるってことでもないし、国の名前が会話に飛び交うこともなかった。
問題意識が足りない、と言われればそうなのかもしれない。
歴史問題を考えるいい機会だったのかもしれない。
バックボーンをきちんと理解することが礼儀だって思う人もいるのかもしれない。
でも、私達はそんなことを意識する以前に仲良くなっていて、その関係が密接であるために、国家という大きすぎる定義を取り上げる必要性を感じていなかったのも確かだ。
もちろんそれは日本人である私達がのんきに考えてあげなかっただけだ、ということなのかもしれないけれど、
別に在日の生徒がだんまりをしていたわけでもなく、自分や家族が受けた差別の経験などについては、人権問題のイベントなどできちんと意見する人ばかりだった。
そのさいでも、被差別者だからといって私達が態度を変えたこともないし、それが友人関係に影響を与えることはなかった。
それと同様、私達がただ友達で、青春時代をともに過ごす関係である上で、国家や歴史は特に持ち出すべき問題ではないと私達も、彼女達も考えていたんだと思う。
私達の中で、彼女達に日本人として申し訳ないとか思う子もいなかったし、あなたたち韓国人ってなんで歴史捏造するの?と思う子もいなかった。
私達は学生番号XXXXX1とXXXXX2で、仲がよくて、クラスメイト。
それでよかった。
これがいいことだったかはわからない。最後までいい先生、いい友達、で彼らとはいられたし、差別だとか思いつかないほどだった分、歴史問題について意識が薄くなってたかもしれないことは確かだ。
世の中にそんなに在日を嫌う人や、在日の中で日本を嫌う人がいるんだって考えもしなかった。
はっきり区別するものだということ自体に驚いた。
世の中の状況をネットなどで知って、私も国家についてすごく考えるようになる。
その反応する人に反応する人もいるし、
あの学校生活と反対に、国家というものが人間関係ですごく重視されているのがネット(特に不特定多数が出入りする)だと思った。
学校では校舎という狭い世界に閉じ込められていて、クラスや学年で個人個人がちゃんと識別できていたし、「あいつ1組だし」とか「あいつ三年だし」とかでちょっと冗談で偏見持ったこともあったかもしれないけれど、国家なんて大きすぎるものさしで人を考えることはなかったのに、不思議だと思った。
広すぎて、人が一人一人区別できなくなってくるし、クラスや学年でちゃんと整理されているわけでもない。むしろわざと匿名や不特定多数の出入りでわからなくなっているところもある。
そんな中で、ちゃんとはっきりとわかる「個」というものは、ネットを構築している言語だろう。
日本語のサイト、フランス語のサイト、フィンランド語のサイト、英語のサイト…。
日本語のサイトを見たとき、その人がどこにいてどんな人なのか、なんてわからないことも多いけれど、
日本語があるのだから、きっと「日本人」なんだろうと思うことができる。(例外ももちろんあるけど)
そこにいるのが誰かまったくわからない世界に飛び込めば孤独感で人が不安になるし、なんとか判別できる個性を見つけようとするだろう。
けれどネットは混沌としすぎていて、ちゃんと分けるとき重視してしまうのが「言語」、そして「国」ぐらいしかないのではないだろうか。
日本の土地に住み、日本の学校や職場に通っている間、頼るはずもない「自分も相手も日本人」という意識が、
こうした広大な世界に入るととても重視されていき、
結果的に「自分は日本人」という自覚が、どんどん大きくなっていく。
国家はこうしてネットの中で重要視されていくんじゃないだろうか。
私も今は「自分は日本人である」という意識、そして「○○人は好き・嫌い」だとか考える気持ちが芽生えている。
でもそれはあくまで、不特定多数が出入りし、そして個があいまいになった集団の世界にいるときだけだ。(あと、政治問題もこちらかな、と思う。人一人ではなく、国と国の問題だから。)
個人で向き合ったときそれは払拭すべきで、学校生活のおかげか私はそれが自然とできるようになっている。
人一人と向き合ったとき国家関係や歴史というものの影響がすっかり消えてなくなるというのはすごく不思議な現象で、当たり前のことのはずなのに、すごく平和に近いんじゃね?とか思えてしまったりするのは、私はまだまだ平和ボケしているからなんだろうか。
違うと良いな。