はてなキーワード: つのとは
まだまだ呑み込めないでいるアイプリマイク。
その愚痴を。
・見た目
(マイクのトップ部分はサイリウムジュエルマイクと同じ質感だと思うから妥協として触れないものとする。それにしても色濃いなと思うけど。)
まずマイク本体の王冠と羽と鍵穴ハートボタン、それから一番下の装飾部分がメッキじゃない、50歩くらい譲ってもパールじゃないのは何故なのか。
アニメや筐体のライブシーンで見られるアイプリマイク(以下、本物とする。)の該当部分は少しピンクの入ったゴールドに見える。
し、そう思ってた。なんなら商品紹介動画で使われてるCGでは全体的にパールっぽい出来になってる。
それから一番下は装飾の下に濃いピンクのジュエルのようなものがあったはずだけど、それも無くなって柄と同じ薄ピンクになってる。
これはバズリウムチェンジ後にビビッドなシアンに光るはずなんだけど、光る光らない以前にこんなクリアですらない…何故…。
次にハートPodの下敷きになってるリボン部分が光るものではなくただの紫プラスチックなのは何故なのか。
本物は明らかに電気が消えてる時のLED電球のようにグレーアウトしていて、バズリウムチェンジ後に濃いピンク…それこそハートPod本体のような色に光る。
アイプリマイクがおもちゃで出るなら絶対ここは光ると思ってた。
画面とか機能は後に書くとして、まず色。色というか質感というか、とにかく外観。
本物はピンクですよね。バズリウムチェンジ後は基本は白だけど、他にはバズリウム蛍光の色に合わせた色に光るようになってる。
透け感はない。
で、これは赤っぽいピンクのラメ入りクリアプラスチック。ラメ!?ここにラメ!?どうせここに使うならマイク本体に使えよ!
失礼、抑えられなかった。でもこのクリアラメをさっきのリボン部分にもってくるべきと私は思った。
思ったというかそうしてほしかった。
ほんで今時miniUSB!?!?!?!?!?!?いつの時代を生きてる???????
さすがにびっくりした。もちろんType-Cであれと思うけど百歩譲ってもmicroUSBだろ。。。。。。。。。。
次、コーデ遊びに関して。
プリパスやデザインパレットのようにコーデ獲得して筐体で使えるのかと思いきや、付録カードと全く同じバズリウムパープルしか筐体で使えないというオチ。
じゃあカードのほうが使えなくてハートPodからしかコーデ利用できないのか?と思うでしょう。
>アミューズメントゲームで使える、きらめきMAXの☆4アイプリカード3枚付き!! (商品ページから引用)
本当になんなんでしょうね。
そしてそれに付随して収録楽曲について。
上で書いてる通りシークレットフレンズ∞バズリウムパープルのカードが3人分ついてくるのにWe're The Worldが収録されてないんですよ。
なんで?本当になんで?
その分ひみつマイソングはひまみつの2曲じゃなくて、カラオケverをいれて子供が替え歌できるようにすればよかったのにとも思った。
・価格とか
とにかく高い。
上で書いてる光らないとかコーデ使えないとかそういう所を見ちゃうとやっぱりたっけ~!と思うんです。
最初にも書いたけど、ブレス・リップ・ネイルコロンにメッキ使ってるのに一番高いマイクにメッキ無しは予想できなかった。
あとやっぱり本物と見た目が違いすぎ。
個人的にはマイクは原作忠実再現マイク、ハートPodはデザインパレットみたいな別端末で欲しかったです。これに関しては他にも呟いてる人が居て安心しました。そっと感謝。
子供は原作再現じゃなくても大人と違ってそこまで文句言わないだろと言われるかもしれないが、私は女児時代にシュガルンの杖が原作と違いすぎてギャン泣きしたのでそういう子供もいると思う。
ツイッターを見てると今のおもちゃは高いんだからとか、キラニコトランクに比べたらとか、そういう意見も見たんですけどね。
まずアイプリは他社のそういう電子玩具と違っておもちゃだけで勝負してない。筐体が2種もあります。
少なくとも自分が子供の頃はこういうおもちゃとかが出たら、買ったら価格分数週間はゲーセン行かないからね!と親に言われました。
大人は好きに買えばいいけど、子供目線はそういう懸念があると思います。
じゃあどういうところで価格抑えれたかっていうと、たまごっちユニを買った人はわかると思うんだけど
振動センサーでのモーション感知ってめちゃくちゃ難しいんですよ。
指示通り動いても判定してくれないことが多いです。
しかもハートPodに関してはマイクに付けて降るから動作中はたぶん画面見ません。目から画面まで距離があるから。
というか子供って別にこういうゲームにされなくても勝手に真似します。
今はCGライブが公式でyoutubeに上がってるし、それ見ながらでも真似すると思う。
から、これセンサーもゲームもいらなかったと思うんですよね…。
こういうところを削ってでも手が出しやすい価格にするべきと思います。
まあラブベリとコラボしちゃうくらいだし最初から大きなおともだちしか見てないのかもしれない。
姪にラブベリをDSで見せたときはキャラ可愛くない!とあまり反応よくなかったけど、世の女児たちの反応はどうなんですかね。
逆にどうだったら価格に納得できたのか。
先に書いたように収録コーデを筐体で使えるべきでしょ、過去作がそうだったように。というのは前提すぎるので置いておいて。
まず他社電子玩具はカメラがついてたり、ネットに繋げたりしてるんですよね。
このお金かかってるであろう部分をアイプリマイクというかハートPodに置き換えるなら、おそらく楽曲収録されてるところになるのかな?と思っていて。
e-kara、イーカラって知ってますか、覚えていますか。タカラから出ていたぴちぴちピッチのマイクみたいなテレビに繋げるカラオケおもちゃ。
実際ピッチモデルも出てたし、きらレボやモー娘。のも出てましたね。すみません、逸れました。
ああいう感じでテレビに繋げてカラオケできたら、Wiiのリモコンみたいに赤外線でモーションゲームができたら。
そうだったらきっとこんなに本物と外観差があっても買おうかな~と思ってたと思います。
ていうかできただろ。e-karaはタカラから出てたんだから。なあ!タカラトミー!
ここまで書いてたら3時間くらい経ってた。
こんな愚痴を最後まで長々と読んでくれた人、居たらありがとう。
原作再現マイクはハッピーセットか食玩かガチャか、なんでもいいからどっか別のところで出ると信じて待ち続けます。
最後に…
ベアリング、回転摩擦係数、びゅんびゅうん
👩🎤ベアリングのイメージを宇宙規模に膨らませると、巨大な星々や惑星が宇宙空間で「びゅんびゅうん」と回転している様子が浮かびます。これらの天体は、まるで巨大な宇宙のベアリングのように、重力の力で絶妙なバランスを保ちながら回転し続けています。
もし、宇宙自体が一つの巨大な機械であるとすれば、銀河や星雲がその内部で回転するギアやベアリングのような役割を果たしていると考えられます。回転摩擦係数が限りなくゼロに近いこの壮大な空間では、エネルギーが無駄なく伝わり、宇宙の広大な空間をスムーズに駆け巡る力が「びゅんびゅうん」と響き渡ります。
そして、その音や動きは、私たちが知覚することはできないけれど、まるで宇宙のメロディーの一部のように永遠に続いていく…。この壮大な回転のリズムは、宇宙の調和そのものを象徴しているのかもしれません。
こうして考えると、ベアリングの小さな回転から宇宙の壮大な回転まで、すべてが一つの巨大な仕組みの中で繋がっているように感じられますね。
これさあ、なんで映画の中で明確に悪として描かれている異常連続殺人犯の行為をもって、作品自体の問題点かのように批判してんの?
鬼滅の刃を読んで無惨を作者と同一視したり、ジョジョを読んで作者とディオを同一視して叩いたりしているようなものじゃん。
@momo25397038
最近、「セブン」っていうブラットピットの若い頃の映画を観てたんだけど、
その中で異常連続殺人犯に娼婦が七つの大罪の肉欲の罰として殺される展開があるよね。
そこで私はモヤモヤしたんだけど
『セブン』の犯人って悲しき悪役とかもう一つの正義とかそういうのではなく完全な悪役扱いだし
最後に主人公の妻を殺して生首を見せつけてくるような異常者じゃん
ていうかフィクション作品に出てくる男女混合の七つの大罪ネタだと、
色欲担当が女性なのってポリコレ的に持ち上げられてる『鋼の錬金術師』や『エクソシストを堕とせない』がそうだよね。それはいいのか?
(鈴木央の「七つの大罪」や、由貴香緒里の「天使禁猟区」、VOCALOIDの曲の大罪シリーズ、SoundHorizonのアルバム「Märchen」では色欲担当は男性であり、男性に割り振られている作品も普通に多い)
定食屋の片隅で朝定食を頂戴していると、トイレの前で人がうろうろしている。
どうやら食後にお手洗いを済ませる算段だったらしいが、すでに誰かが入っているのでそのまま店を出て行ってしまった。
すると、その数秒後にトイレから人が出てきて、同様に店を後にした。
あと数秒待っているだけで、トイレを求めて彷徨わず済んだのにと思うと、
わずか数秒で揺らぐ運命というものに畏敬の念を抱かざるを得ない。
これがトイレの満室や電車の乗り過ごしならまだしも、もっと大きい何かをいつの間にか失っているのかもしれない。
きっと、知らない方が幸せであろう。
「ベストセラー本はくだらない」「大ヒット映画はくだらない」みたいなのが常識だった時代あったよな?
2000年くらいまでかな。
「ハリウッド映画」がクライマックスで大爆発するだけのくだらない映画の代名詞だった頃だ。
SVD (特異値分解) について、異なる難易度で説明します。
SVDは、大きな絵を小さなパーツに分ける魔法のようなものです。この魔法を使うと、複雑な絵をシンプルな形に分けることができます。例えば、虹色の絵を赤、青、黄色の3つの基本的な色に分けるようなものです。
SVD (Singular Value Decomposition) は、行列を3つの特別な行列の積に分解する線形代数の手法です。
A = UΣV^T
ここで:
SVDは次元削減、ノイズ除去、データ圧縮などの応用があります。主成分分析 (PCA) とも密接な関係があり、多変量解析や機械学習で広く使用されています。
SVDは任意の複素数体上の m×n 行列 A に対して以下の分解を提供します:
A = UΣV*
ここで:
1. A の階数 r は、非ゼロ特異値の数に等しい
2. A の核空間は V の r+1 列目から n 列目によってスパンされる
3. A の値域は U の最初の r 列によってスパンされる
5. ||A||_2 = σ_1, ||A||_F = √(Σσ_i^2)
応用:
1. 低ランク行列近似 (Eckart–Young–Mirsky の定理)
高度な話題:
6. 量子アルゴリズム:
7. 非線形SVD:
星野智幸氏の『言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル』(ttps://digital.asahi.com/articles/ASS8V026WS8VUPQJ006M.html)が話題である。その主張の要点は、以下の通りである。
最初これを読んで思ったことは「何を今さら」である。欧米における近年のリベラル派の度を越した正義依存問題は、ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(Social justice warrior)やバラモン左翼といった批判や自省の中で、多かれ少なかれ言及されてきことである。それにも関わらず星野氏が、さも苦悩の末に新しい認識に至ったかのような筆致でリベラル派の正義依存を問題提起していることに、正直驚いた。
しかしさらに驚いたのは、リベラル派からの反応である。星野氏が何を問題視しているのか、全く分かっていないようなのだ。
ttps://x.com/kentarotakahash/status/1828424826039738677
ちなみに、貴方の言う「カルト的に「正義」に依存し個を捨てる」というのは、実際にはどういう行為を指しているんですか? まあ、個人の判断よりカルトの熱狂に飲み込まれるなんてことはよくありますが、それが「正義」と何の関係が?
ttps://x.com/hiranok/status/1828581602613666289
僕は星野さんは友人だと思っていますが、敢えて書きます。星野さん自身の言動はその通りだったとして、だからと言って、「リベラルな思想は疑う余地のない正しさを備えていて、そのような考え方をする自分には否定されない尊厳がある、とリベラル層は思いたいのだ」云々の雑な話をどうして出来るんですか? それがリベラルの大多数ですか? 自分だけは、例外的で思慮深い真のリベラルであるかのように話されていますが、内容は、昨今のリベラル批判の大波にスッポリ呑み込まれて、その尻馬に乗っているだけじゃないですか。リベラルの弱体化が歴史的にも危機的なこの時に。自分の政治的発言が「消費」されていると感じるなら、「消費」されない言葉を工夫すればいいじゃないですか。瀬戸内さんだって林京子さんだって大江さんだって、みんなやってきたことでしょう。自分は、小説があるから、もう政治的発言は止めた、でいいでしょうけど、他の人たちはどうなるんですか? しっかりしてください。
このリベラル派の反応を見て、「何を今さら」という認識を改めた。星野氏がリベラル界隈の空気にどっぷり浸かっている中で、リベラル派の正義依存問題を認識するに至るのは大変な知的苦痛を伴うことであり、それは意義深いことではないか、と。
星野氏の論考には具体例がほとんどないので、リベラル派は問題提起の要点を理解できないのかもしれない。そこで、あくまで自分の理解に基づくものであり星野氏の真意と完全には一致しない可能性はあるが、「リベラル派の正義依存」問題の具体例を補完してみたい。
ネット上の反応をざっと見ると、高橋、平野両氏の先の引用のように、リベラル派の批判は次の二点に集約されるように思われる。
2. 仮に正義依存問題の具体例があるとしてもそれはリベラル派の特定の個人又は集団の問題であり、広くリベラル派一般の問題としていいのか
リベラル派の正義依存問題の最も分かりやすい具体例は、草津町長性犯罪虚偽告発事件(ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B2%A9%E4%BF%A1%E5%BF%A0)において町長を糾弾したフェミニスト達であろう。この事件は、新井祥子町議(当時)が黒岩信忠町長から性犯罪を受けた、という虚偽の告発をした件である。以下、吉峯耕平氏のTogetterまとめを引用しつつ説明する。
ttps://togetter.com/li/1973629
新井氏は2015/1/8に町長室のソファーに座っている時に、黒岩氏に机との間に押し倒された、と証言した。しかし、実際の町長室を見ると机とソファーの間が狭すぎて押し倒すスペースが無い。これに対して新井氏は「当時は机とソファーの配置が全く違った。新井議員が記者会見をやった後、町長が証拠隠滅のために模様替えをやった」と反論したが、実際には模様替えは行われておらず、この反論も虚偽であった。
ttps://togetter.com/li/1973629?page=2
それにも関わらず、例えばフェミニストの北原みのり氏は新井氏の証言を信用した。当初は北原氏も信憑性を疑っていたようだが、三井マリ子氏の「現代の魔女狩りだ」という発言に感化されたようである。最終的に北原氏が証言を信用した理由は、被害者は沈黙せざるを得ず「ミソジニー社会」では女性の言葉は軽視されるという一般論と、新井氏が知的だったという印象論、この二つのみである。
ttps://togetter.com/li/2278947
北原氏の変遷はまさに、「『正義』に依存するために個人であることを捨てて」証言の信憑性を精査しなかった具体例であろう。
北原氏は「町長が性犯罪を実行した」と事実摘示してはいない点に留意する必要はあるが、恣意的な切り取りと印象操作をしている。例えば、2020年12月1日の町議会において、湯本議員は①模様替えが虚言であること、②新井が現場の録音の一部を公開したことを指摘し、新井氏の告発の信憑性が低いことを説明している。
ttps://x.com/kyoshimine/status/1737202101842059771
しかし、新井氏はこのことに触れず、以下のように印象操作を行った。
ttps://x.com/kyoshimine/status/1737210416521220255
ttps://dot.asahi.com/articles/-/13943?page=2
その様子はこのコラムでも記したが、傍聴席には高齢男性たちが並び、新井氏にむかって「うそつき」「(あんな女とは)犬でもしない」など激しい言葉で罵っていた。それは議会というより、新井氏が裁かれる現場のようだった。
その後、新井氏は名誉毀損と虚偽告訴の罪で在宅起訴されたが、この期に及んでも北原氏は次のように言う。
ttps://togetter.com/li/2278947?page=4
ttps://dot.asahi.com/articles/-/13943?page=3
SNSでは、支援者やこの件についての記事を書いた者への謝罪を求めるような声もあがっているが、支援者たちに謝罪を求めるのは間違いだ。支援者は被害者を選ばない。少なくとも私は、フラワーデモを通して、被害者は選ばないと決めた。
「リベラルな思想は疑う余地のない正しさを備えていて、そのような考え方をする自分には否定されない尊厳がある」という星野氏の指摘は、一連の言動をする北原氏の動機を上手く説明しているように思われる。
吉峯耕平氏のTogetterまとめを読むと、北原氏の他にも多くのリベラル派が上記の虚偽告発事件に際して正義依存問題というべき糾弾をしている(ttps://togetter.com/li/2283797)。しかし平野啓一郎氏が疑問視するように、正義依存問題はリベラルの大多数に当てはまるものなのだろうか。確かに上記糾弾に参加していないリベラル派も多い。
自分の理解ではやはり、正義依存問題はリベラル派一般に当てはまる事象だと思う。その根拠は、リベラル派の中で上記の町長糾弾者を批判した人が皆無に近いからである。
日本にリベラル派は何人存在するだろうか。立憲民主党の支持率が5%、有権者総数が1億人程度いるので、500万人が立憲民主党の支持者であり、少なく見積もってもその1割の50万人は意識的なリベラル派であろう。少なく見積もってもリベラル派は50万人もいるのに、件の草津糾弾問題を批判した人は何人いるのか。この内のさらに1割の5万人が糾弾に参加した人を批判していれば大きな話題になっているはずだが、実際にはそうはなっていない。
「『正義』に依存するために個人であることを捨てている」、要するにリベラル派は党派的な動機で、糾弾に加担した同じリベラル派への批判を避けたのではないか、このように疑われる状況なのである。
それでもなお正義依存問題はリベラル派一般には当てはまらないと反論したいのであれば、件の糾弾者達を批判したリベラル派を5万人挙げろとは言わないが、まずは5人程度は挙げる所から始めるべきだろう。
推敲してないので途中で口調が変わるけれど許して。ブームが去る前に公開しておきたい。
2000~2001年の話です。そのとき生まれた娘は健康に育ち独立して離れた場所で生活。私は当時の夫とは娘が1際の時に離婚し、その後、娘の高校卒業と同時に別の相手と再婚しました。
前情報だけでおわかりの通り、産後の恨みが原因で離婚しました。そして産前から出産の時も含めて広い期間ダメダメだったので、『産後の恨み』どころか『出産前後およびその他諸々の恨み』が正しいかも。今はもう相手のことを恨んでいることはありませんが、それはスッパリと関係を断ち切ったからであり、今でも共同生活を送っていたなら、頭の中でグチグチと恨みを反芻させ骨髄に入るまで温存させていたでしょう。
当時の夫とはデキ婚でした。この時点で当時の自分を説教したいのですが二十歳そこそこの世間知らずの恋愛脳だった自分には、説教したところで、どんな言葉も右から左に貫通していったこと間違いなし。ほんとにしょうもない。体験して失敗しないと脳に染み込まない。本当のうえで理解したのは全部が終わって数年たったころだったと思う。相手もまた1歳年上の二十歳過ぎたばかりのペーペーです。
この時点でアカンと思うでしょ。私も書いてて「こりゃ、アカンわ」と思ってる。
とにかく妊娠をきっかけに結婚し、新居として安アパートを借り新生活開始。妊娠による体調不良であれよあれよと働けなくなり退職。
田舎だったこともあり『育休産休』という制度はあっても実際に取っている人が周りに居なかったため、辞める以外の選択肢があるなんてその時の自分には思いもよらなかった。男性だって明らかな労災でも自己負担で病院に行ったりしていたのが普通だったため、そういうものだと思ってました。
というより育休とる以前に、安定期入る前に何度も貧血を繰り返し、ホルモンバランスが崩れて顔・体全体にアトピーが出てしかも赤ちゃんのために薬も飲めず、肌がグルート(ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーにでてくる木のやつ)みたいな見た目になって人前に出るのがまず精神的に無理になった。膿んで乾いたカサブタが、振り向くたび、お弁当を食べて大きく口を開くたびにこぼれてデスクの周りが汚れた。客前に出ることはおろか、お茶を淹れることも、書類仕事にも支障が出た。上司(女性)からはその都度迷惑そうに「もうお茶淹れなくていいから」「書類汚れてるので、長袖かつ手袋できないだろうか」「また貧血? もう帰ったら?」と言われた。
「働きたかったけれど、働けなくなった」という気持ちは微塵もなく、逃げ出すように退職して、もう人前に出なくて済むと思ったのが当時の心境。自分視点で書いてるから被害者っぽい書き方になっちゃうけれど、上司視点から見て私は困った対象だったと思う。ギリギリの人員で回している仕事を私の都合で滞らせていたので、迷惑だっただろうなと。当時は優しい言葉をかけて欲しかったけれど、求め過ぎな気がする。今、自分は同じ立場になって、昔の自分のために当事者に気遣いの言葉をかけるようにしている。
ホルモンバランスが不安定で誰にも会いたくない状態で病院通いだけしていたころ、夫の友人がお祝い持って当日にアポ無しで現れた。
こんな顔で人になんて会いたくなかった。しかし部屋が汚かったので、リビングに座ってもらいながら大急ぎで片付け、その周りの掃除機をかけた。すごく迷惑そうな顔をしていたと思う。夫友人が少しだけ話しをして申し訳無さそうにお祝いを置いて帰ったあと、夫には「せっかくお祝い持ってきてくれたのに」と小言を言われた。自分自身も申し訳ない気持ちになって落ち込み、具合が悪いからと部屋で休んだ。
8時過ぎに目が覚め、夕飯を用意してなかったことを思い出して、「ごめん、夕飯用意してなかった」とキッチンへ行った。夫は優しい気遣う声で「気にしなくていいよ。もう食べたから」と。シンクにはカレーヌードルの汁だけ入った箸の刺さった容器と、お湯を沸かしただけなのに、そこら中にお湯が飛び跳ねている状態になっていた。もちろん外装フィルムもそこに横たわっている。なんならストックしてないはずのパックご飯のカラもあったし、ゲームしてる夫の脇にはポテチもあった。コンビニで買ってきたのだ。そして私の夕飯はもちろん買ってきておらず。
その光景だけ見て、私は脱力し再び寝室に戻った。夫から「〇〇(私)の分どうする?」という言葉もなく、朝起きたら、ゴミはゴミのままそこにあった。私のことを気遣ってほしかったし、自分で出したゴミは自分で捨てて欲しかった。けれども、当時は言葉にするのも面倒で、ただ黙ってゴミを捨て、キッチンをキレイにしてから朝ご飯を作った。
夜の生活も続いていた。妊娠のある期間は中出しOKのボーナスタイムという知識はあったらしい。
それで妊娠はしないものの、出されたものがそのまま留まってくれるでもなく、しばらくして排出されたものをトイレで流す必要があって億劫だった。ゴムをしているときより滑りが良いと判断したのか、回を重ねるごとに前工程が雑になっていって辟易した。ついにはキス、胸、即挿入になってビックリした。今、書いてて不思議に思うけれどグルート肌の女を良く抱けたな。
そして臨月。お腹が大きくなって寝返りもうてなくなった。腰も痛いし、便秘になるし、車に乗れば車酔いするし、妊娠期間中は種類の違うあらゆる不調が手を変え品を変え一身に降り掛かった。体型が変わって服も替えなければならなかったが、幸いなことにホルモンも安定期に入ったらしくこの頃には、「ちょっと肌荒れが酷い人」くらいまで回復した。買い物している時、重い荷物など明らかに大変なものは持ってくれたが、かがむ必要がある軽いダンボールなどは放置され、お願いすると「これくらいでも?」と言われ、「これくらいでも」と返した。夫のぺったんこのお腹が恨めしかった。
そして出産。予定日になっても生まれず、あらかじめ病院に入院して陣痛促進剤を打って臨む運びとなった。前もって出産日がわかるというのはありがたい。夫は有給をとって分娩直前まで一緒に居てくれることとなった。(立ち会い出産は断られていた。このころ周囲でもテレビでも今のように「立ち会いがむしろデフォルト」のような時代でもなかったので、そういうものかと受け入れていた)
朝一番から付き添ってくれるハズが夫は来なかった。夫が居なくても処置は進む。促進剤を入れ、やがてジワジワと兆しらしい変化が現れ、そして昼過ぎには痛みは最高潮。それが夕方まで続いた。
夫が現れたのは14時過ぎ。あとで聞いたところ朝方までゲームしていて寝過ごしたそう。出産までの陣痛マックスの時も夫は病室の隅っこの椅子にちょこんと座り、手を握ることもしてくれなかった。原因不明で子どもの心音がとまり、慌ただしく右往左往する先生や助産師さんの邪魔にならないようにしたかったのかも。メチャメチャ苦しがってる私に何をすればいいのかわからなかったのかもしれない。夫は部屋の隅で怯えていた。
原因不明の心停止は、あるとき突然原因不明のまま復活。そして分娩。生まれた。
いざ、産み落とす!となった瞬間から急に助産師さんが鬼軍曹になって叱咤してきて、まじでビビった。命に関わることなので、それくらい追い立てなきゃスムーズにことが運ばないんだと思う。それは出産後の入院時期にも続き。いろんな助産師さんがいる中で、比較的若い人は穏やかに、経験値の高そうな人ほど厳しくビシビシと授乳や寝かしつけ、沐浴などの指導がされた。(そして点滴やらおっぱいマッサージやらは、そういう厳しい人ほど巧い) 結婚する以前までは、自分の目指すべきところは『プリンセス』にぼんやり置いていたけれど、出産した直後からは『ソルジャー』になることを求められた。そうしないと子供が死んでしまう。強く賢く逞しくならないといけない。生まれたての弱々しい我が子を抱いて、自分の目がカッと見開いたような気持ちになった。
入院中、夫はあまり見舞いに来なかった。義両親が来た時に案内して少し話してすぐ帰宅。2~3週間の入院期間の内、来たのは3回くらい。夫が毎日会社帰りに寄って、面会時間ギリギリまで一緒にいる同室の夫婦たちを眺めていたので羨ましかった。
退院の数日前、夫に「◯日の◯時に、車で迎えてにきて欲しい」とお願いしたら、「出産日に休んだので、会社に申し訳なくてもう休めない」と言われた。は? 真冬に、新生児を抱えて、2週間分の入院の荷物と、これからのためにと持たされたオムツやら何やらを一人で家に持ち帰れと???? 私、ついこの間、股が裂けて縫っているので、重い荷物とか持って踏ん張れないんですけど?
退院日なんて入院する前から決まってた。しかも出産日に休みをとったって、お前現れたの午後じゃん! ゲームして寝坊してきて、来たあとも全っっっっ然、役に立たなかったじゃん! 実際の処置は医療者じゃなきゃ無理にしても、励ましの言葉もかけてくれなかったじゃん。さすがにキレて怒った。そしたらキレ返された。「お前に俺の何がわかる!」
全然わからない。苗字も体調も体型も仕事も生活も変わらず、私がこれまで持っていて失ったものをほとんど失わず、健康体で子供のことを気にせず働けて、余った時間でゲームを楽しめる人の気持なんて何一つ。
結局、退院日は母にバスで来てもらい、帰りはタクシーを使った。
帰宅後、愕然とした。部屋が寒かった。お互い地元で結婚し、新居を構えたのでそれぞれの実家が近い。私の入院中、夫は実家に帰ってご飯を食べそのまま寝泊まりをキメていた。人の住まない北国の部屋はひときわ寒い。そしてうっすらとそこら中に積もった埃。休日は家でゲームを過ごしていたらしい場所だけ埃はなく、人型にそこだけ綺麗だった。ゲームもドライヤーもコップも出しっぱなし。何かあればうっかり死んでしまう新生児が私の腕の中に居た。「赤ん坊をウィルスから守って」と言われた退院していた。ストーブを焚き、母に子供をみてもらいながらそこら中を掃除をした。この件に関しては怒ったら素直に反省してくれた。キレ返さないだけでも嬉しかったのを覚えている。
さて、ここから季節が変わるまで記憶が定かじゃない。どうやって新生児期を乗り越えたのかとんと思い出せない。若くして子供を産んだこともあり、体力があった。「母親になった。子供を死なせちゃいけない」という、これまでにないプレッシャーにアドレナリンみたいなものがドバドバ出ていたと思う。夜泣きも平気だったし、数時間おきの授乳も辛いとは思いながらも、病院で指示されたとおりにやれた。私は助産師さんからの指導の甲斐あって『ソルジャー』にクラスチェンジしてたのだ。ある時、友人に誘われコートを着て買い物に出たら、「え、なんで暑いの? 空気が張り詰めてなくて穏やかなんですけど!!?」となって春の訪れを知った。
夫は沐浴とか『これは父親の役割』という分かりやすいことはやってくれた。混合で育てていたので、哺乳瓶での授乳もお願いすれば嫌な顔せずやってくれたし。夜泣き対応も、私の腕が限界になればやってくれた。当時はありがたいと思っていたけれど、今の価値観だと足りてないですね。
ある時、子供に急な発熱があって、でも保険証は夫のカバンに入っていたため、職場に行って受け取り、その足で病院に行こうとした。夫の職場で子供を抱えながら自己紹介し、夫を呼び出すようお願いしたら「この一週間、無断欠勤してます」と。
夫には結婚前から借金があった。遊ぶ金欲しさにどうするアイフルしていたのが発端。会社に返済催促の電話がかかってきて、そこから居づらくなって行ってないと言う。どうして黙っていたのかと問いただしたら「◯◯(私)や、生まれてくる子供のことを考えたら言えなかった。二人を幸せにしないと……と思って、隠し通さなきゃと頑張ってた」と。当時、ニュースで取り上げられてた多重債務の地獄に落ちていた。闇金だ。
それから義両親も巻き込んで話し合い、アパートは引き払って夫の実家で暮らすことになった。生まれて半年くらいの子供は私の実家に預けて私もパートに出た。
この時、社会問題化していたものの、今のように銀行は個人ローンはお断り(家や車を買うのや学資はOK。債務の一本化などは受け付けられませんと審査すらしてもらえなかった)、弁護士が『債務整理承ります!』と宣伝打つようになるのも、もっと何年も先の話。家族ぐるみでひたすらその月、その月の返済に追われた。
正直、アパートでのほぼ子供と二人きりのような暮らしに飽き始めていたので社会に出られることはありがたかった。新生児がいては気軽に出かけられず、夫は帰宅して夕飯を食べたら即ゲーム。こちらから話しかけないと会話が始まらないことがストレスだった。今のようにスマホがあったわけでもなく、重いデスクトップPCを起動して、ピーヒャラーと電子音ならしてネットに繋いでいた時代。世間とのつながりはほぼテレビで感じていた。『ダサいダンナ改造計画』とか、今となっては炎上しそうな内容ですら、貴重な娯楽となっていた。もともとソロ活が得意な方だったものの、自分から一人で過ごすのと、強制的に社会から断絶させられるのとは違う。いつの間にか「外で働きたい人」になっていた。もちろん、子どもは可愛かったけれど、ほとんど寝るか泣くかご飯を食べるかの暮らしで、コミュニケーションが取れるようになるのはもう少し先だった。
それと専業主婦の立場に居心地悪さも感じていた。自分のお金で稼いだものじゃないので、ちょっとしたおやつや趣味の雑誌を買うのも躊躇していたのだ。
自分の稼いだお金で子供の服を買ったときにちょっと感動すらしてしまった。結婚前は当たり前だったのに、自分の稼ぎで必要なものを買うことの『当たり前』に『誇らしさ』がオマケでついてきた。とはいえ、結局稼ぎの殆どは夫の借金返済に充てられていたのだが。
あと外に働きに出て、ある程度自分の裁量で物事を決め、今後の見通しが立てやすい作業は子育てに比べてとてもやりやすかった。
そして夫実家で近居の義兄からこっぴどく叱られたことがあった。義兄もまた夫の作った借金のため金策に励み、会社をクビになった夫の働き口を探してくれていたのだ。それを知らず、夫婦で食材の買い物に行き、やってきた義兄に対して、義父が『二人で遊びに出かけてる』と伝え、激怒された。
こっちが苦労して東奔西走している間に、遊びに行くとは何事だと。家庭を持つことに対する自覚がなさ過ぎると。
遊びに行ってたわけではないのだが、自覚がないというのは最もだ。もっと『夫を』怒ってくれ……と思っていたら、私も一緒に叱られた。夫が私に黙ってこさえた借金は、親子三人の生活費にも使われていたため、周囲から見れば私も同罪だったのだ。今となっては「それはそう」と思うけれど、その当時の自分にとっては「そうなの?」という気持ちでいっぱいだった。私は自覚のないまま、分をわきまえない借金をこさえた大馬鹿者になっていたことにこのときようやく気付いた。一緒に買物に行って、私のカバンに商品を入れて万引きした絶縁した友達を思い出した。夫は私が叱られている間、ずっと「カミナリがこちらに降りかかりませんように」と空気になっていた。義兄の帰宅後もフォローはまったくなかった。この時、夫の中では「お前のせいで借金が膨らんだ」と思われていたのだ。
その後も夫は新しい職場でもうまくいかず、家出もした。もうこの頃には「怒って詰めたら、話し合いまで発展しない」と分かっていたので、諭すようにこれからのことを話した。……が、「もう無理。人間はそんな簡単に変わらない」と弱音しか吐かなくなり、ついには「お前、変わったよな」と言われた。私は出産をキッカケに『ソルジャー』になった。しかし夫はまだ私に『プリンセス』を求めていた。
家出中に何をしていたのか、今後のために携帯のチェックをさせてもらったら、出会い系に登録していた。この頃は『メル友募集』とかそういうヤツだ。実際に出会うところまではいってなかったけれど、出会おうとしているところまでは確認した。夫は自分を慰めてくれる『プリンセス』を探していた。
そこからは自分の実家を頼り、出戻ってお互いの両親を交えて話し合い。養育費が払えるとは到底思えなかったので、最初から請求せず。代わりに面会もさせない運びとなった。夫はその頃にはもうとにかく「自分だけがかわいそう。この世のすべてが自分を傷つけにくる敵」みたいな状態に陥っていたので、子供に執着もなく揉めることはなかった。生活の中で新しく二人で買った家電や生活雑貨はすべてこちらで引き取ることとなった。ほとんどは私の独身時代の貯金から出していたので異論はでなかった。しかしプレステ2だけは譲ってくれなかった。それくらいの執着を私と娘にも向けてほしかったと思う。
若気の至りで周囲の人に迷惑をかけた。その恩返しではないけれどやがて訪れた実父の闘病生活はできる限り付き添い、実父が亡くなり一人暮らしになった実母にも、今も頻繁に実家を訪れ日常の買い物や困り事を解決したりしている。(義父除く)義実家は一緒に暮らしている間によくしてくれたので、今でも申し訳ないと思っている。孫の成長も見せたかったが、連絡を取らない取り決めに巻き込んで会わせていない。
いろいろ私視点から書いたので夫の言い分もあると思う。振り返ると二十歳過ぎたばかりのアンチャンには荷が重すぎたとも思う。
夫には良いところももちろんあったし、私にも至らない点が多々あった。さらに離婚することで借金から逃げたとも言えるし、今の価値観で判断すると、子どものために養育費は請求するべきだったかもしれない。
長々と書き綴ったアレコレもそれぞれが離婚の原因にはなったものの今となっては大方許せる。時が経てば大抵のことはどうでも良くなるし、人を恨み続けるほどの胆力は、その後のシングルマザー人生で別のところで必要になったため雲散霧消した。
でもそれでも出産日に寝坊して遅刻してきて退院の時に迎えに来てくれなかったうえ逆ギレしてきたことと、借金を隠して、さらにその理由に「私と娘のため」と発言したことは、今でも絶対許さないと思っている。
よく知られている方の「リーナスの法則」は、「十分な目ん玉があれば、全てのバグは洗い出される」と言われるが、今述べたいのはもう一つの「人生の意味」についての「リーナスの法則」であり、どちらもリーナス・トーバルズが主張している。
リーナスの法則は、人間の動機づけを3つの段階で説明する考え方である。この法則は、人間の行動や動機を理解する上で洞察を提供している。
1. 生きること(Survival)
3. 享楽・娯楽(Entertainment)
リーナスの法則は、単なる欲求の分類にとどまらず、人間の進化と社会の発展を反映している。生存から社会生活、そして享楽へと至る過程は、人類の歴史そのものを表しているとも言える。
トーバルズは、この法則を通じて技術開発の本質を捉えようとした。彼の視点では、真の革新は「楽しみ」を追求する過程から生まれるのである。
「ただ楽しいからやる」という動機は、創造性と革新の源泉となる。この考えは、選択理論心理学の「楽しみの欲求」と共鳴する。楽しみの欲求は、ユーモア、好奇心、学習・成長、創造性といった要素を含み、人間の精神的欲求の重要な部分を構成している。
リーナスの法則は、オープンソースソフトウェア開発の哲学と深く結びついている。Linuxの開発過程は、この法則の実践的な例証となっている。開発者たちは、生存や社会的地位のためではなく、純粋な楽しみのために貢献し、結果として革新的なソフトウェアを生み出している。
この法則は、現代社会における幸福と成功の再定義を促している。単なる生存や社会的成功を超えて、個人の内面的な満足や創造的活動の重要性を強調している。これは、持続可能な社会発展と個人の幸福追求の両立を示唆するものである。
若き頃のリーナスは、人生の意味について、ある種の確信を持っていた。だから著書ではこの理論について最初に述べていたというわけである。
それは私が他の反ワクとアプローチが違うから、そう思うだけでしょ。
バカを恐怖支配して、病院通いや薬の処方で金を巻き上げるサブスクビジネス。
ワクチン接種は不可逆。ワクチンを推奨し自分でも打ってしまった、はてな民を見れば分かるでしょ?
1度でも打ってしまえば、どんなに害のある毒でもサンクコストが働き、害に目が向かなくなる。
ワクチンの害を認めてしまえば、その後「いつ死ぬか?」の恐怖を抱えながら生きなきゃいけない。
そんな恐怖には耐えられないから、いつも批判してる政府(厚生労働省)にすがり、ワクチンに懸念を示す人たちを「この反ワクが!」と非科学的に罵ることで心の平安を保つのです。
https://dissolvingillusions.com/wp-content/uploads/2021/07/G11.2-UK-Deaths-1838-1978-1.png
上下水道の整備や栄養状態の改善によって、感染症の被害者は減っていきました。
抗体誘導するのに水銀やらアルミのような毒を使うのに、安全なわけないでしょ。
mRNAワクチンに至っては、免疫抑制しながら自然感染の400倍から1000倍もの異常なSタンパクを作る。
どれもこれも、ワクチンの機序を調べないで自称専門家を妄信するバカをターゲットにした悪質な詐欺。
医者や医学者のような自称専門家や、それにぶら下がってメディアビジネスで稼ぐインフルエンサーをバカ共が疑って相手にしないようにならない限り、ワクチン薬害の根絶など夢のまた夢です。
第二次世界大戦の1億総玉砕は、軍部の暴走だけではなく朝日新聞の煽りに乗っかったバカ(一般市民)が空気を形成したことが原因だと言うのは、誰もが知ることだと思います。
ワクチン薬害も1億総玉砕とまるで同じ構図。バカが煽られるから、いつまでも何度でも薬害なのです。
私が反ワクじゃない?いい加減にしてほしい。
私は生粋の反ワクです。
ワクチンを推進したことで大量に死者を出し、これからも死者を出し続けるこの社会を憎む生粋の反ワクです。
でも、現実は厳しい。
https://anond.hatelabo.jp/20240829195553
を読んだ。部コメもたくさんついて、ツリーでも教養のメリットって何よ的な話題が盛り上がっているので、個人的になぜ教養が必要か感じていることをざっくりまとめてみる。
話のきっかけとして全国の地名や名所・名物を知っていれば、初対面の人との会話のきっかけになる。
「××市のご出身ですか、カニがうまいところですよね。え、地元の人は漁師さんから余ったやつをタダでもらえるんですか?うらやましい!」
的な感じで無難な話題の引き出しのストックが増えるので、うわさ話や下ネタのような『ゲスい』話題に頼らずに関係構築ができるようになる。
地理的な知識だけでなく、文学や映画、音楽等のカルチャーでも同じことは言えるけど、古典作品に限らずファーストガンダムや北斗の拳といった昔のアニメや漫画も現在では教養扱いになっているといえると思う。
また、テーブルマナーのような知識を知ることで、場にふさわしい行動をとれて恥をかかないという側面がある。一例として、フィンガーボールは指を洗うものという知識があれば、中の水を飲んで会食に居合わせた人たちから奇異の目で見られずに済む。
そんなわけで、教養は人と仲良くなるためのプラス要素を増やす材料にもなるし、不快な行動をとって嫌われることを避けるためのマイナスを減らす材料にもなる。
コロナ禍後に旅行支援の企画がたくさん行われたので、その機会に旅行に行った人も多いと思う。
旅行に行く際に、教養がなければ新し目できれいなホテルや温泉に泊まって、「あー温泉入って飲み食いして楽しかったな」で終わってしまうと思う。 (それでも十分な娯楽だと思うけれども)
この時に、高知のカツオとか、氷見のブリとか、地域の特産品を知っていると東京や大阪といった都市圏では体験できない食の奥深さに触れることができたりする。
また、建築に関する知識があると、駅前の建物が建築家の○○の作品だとわかって旅先で散歩するだけでも楽しくなったり、その町出身の小説家を知っていれば、作家の△△はこの環境で育ってあの作品を書いたのだなと感慨にふけることもできる。
岩をくりぬいた住居が立ち並ぶ不思議な光景があったとして、「カッパドキア」という地域を知っていれば「カッパドキアのような光景」というだけでカッパドキアを知っている人同士には話が伝わる。
シェイクスピアのヴェニスの商人を知っていれば「シャイロックのような強欲な商人」という表現だけでどんな人物か伝えることができる。
まあ、この文脈で差す教養のメリットでもやはり、オタクカルチャーが教養化しているなと思う。「シャイロックのような強欲」という言葉も、「範馬勇次郎のような怪物」という言葉も、イメージが沸く人の間で概念を簡潔に伝えるという目的は同じだからだ。
ネットミームにしてもそうで、事故が起きうる危険なシチュエーションの概念を指すネットミーム「現場猫」なんてのは広く使われるようになっているし、これも現代では教養の範疇になっているといってよいだろう。
ここ数年の間に、世界では新型コロナウィルスが流行したり、ロシアのウクライナ侵攻といった事件が縦づ付けに起こった。
こういう大事件が起きた時には専門家がメディアに登場するわけだけども、どんな専門家の発言が信頼できるか見抜くのにも教養は役に立つ。
「大喪の礼」ということばを「たいものれい」と呼んだ政治学者がいたが、教養があれば「この人は基本的な知識が不足しているのにメディア露出しているんじゃないか?」と疑うことができる。
また、研究者がどういうライフスタイルを過ごして、どういう活動が実績として評価されるか知っていれば、専門分野外の話題にも軽々しく回答する有識者や、メディア露出を優先するあまりに研究業績が一切ない「ひやっしー」のような人を怪しいと判断することができる。
この増田のように、ロジカルじゃない人間が人の上に立っているのはおかしい!ロジカルな社会じゃないのはおかしい!というロジカルバカは一定数いて、なぜか男のほうが目立つのだが(それこそQkの伊沢の免許の話題で湧いてた有象無象もそうだね、何なら掛け算の順序もそうかも)、世の中はロジカルを基準に回っていないのはイスラエルやロシア中国、何なら運転免許試験問題過去問を見ても明らかである。
ロジカル全能主義は上のような文章を見て悪文であると見做すだろうが、これこそがロジカル全能主義の欠点である。思えば文章力テストの問題を見てわかりにくいといった指摘をしていたのも彼らだった。曰く、このような悪文を読めることには意味がない、このような悪文を解かせることは一種の虐待である、云々。
論理的な思考力は必要であるが、絶対ではない。論理的な整合性を優先順位の第一位に据える人々はこの事実を受け入れられない。論理的な社会において無駄な思想、文化、感情を包摂する多様性は存在し得ないのだ。人々の揺らぎこそが余分であり、それは整えられるべき脂肪でしかない。ある意味で彼らはストイックであり、マッチョイズムの体現者であり、パターナリストなのだ。
発達障害のやつ、好きやけどほんまに嫌いやわ
常識ないし、自分のことばっかりやし、大した能力ないのに自分のこと特別と思い込んでるし、自意識過剰やし、八方美人やし、気持ち悪いねんな
で生きるの苦しそうにしてるし、自業自得やろ。
大人やのに成長してないんやろな
それを悪びれもないねんな なぜかそれを正当化できないのにしようとして乖離と矛盾が生まれて気持ち悪いだけの生物になってる自覚がない。
顔も整形がないとどうしようもないのに
整形のおかげでまともになって 図に乗る
見た目は大人、頭脳は子ども その名も発達障害 ガイジ この自覚がない時点で病気
劣ってるって自覚してそれを乗り越えようとする努力が美しくてその結果が賜物である
何もできないどころか落ちこぼれの分際で
ありのままの自分を他人に受け入れさせようとしたり、迷惑極まりないよ
ちゃんとしようとしてる人も沢山見てきたし
好きやけどって書いてある。
ただ8割が性根腐ってる 先天性以外の部分
後天的にどうにでもなる部分や何でも発達のせいにしたり、発達障害と思ってない私は普通ですみたいな顔して他人傷つけたり、生き様の話
それを正当化しようとしてる時点で
虚言癖やから嫌いやねんな。
すぐ空気入れて話膨らますし あと自分がガイジって自覚してない所もうざいねんな 2択やろ
いい友だちなんだな。
やろうぜって気持ちになってる所で違う視点からコメントくれる人は大事にしよう。たぶん敢えて違う視点を提供してるのだと思う。
俺みたいな「なんでもやっちゃえやっちゃえ」って煽るだけ煽って役に立たない風見鶏よりよほど大事だからね。わかってると思うけども。
https://anond.hatelabo.jp/20150324232028
何年か前、フェミニストのルームメイトとオランダ版の『サバイバー』を見て面白い経験をした。この番組は、二つの島に女だけのチームと男だけのチームに別れて、それぞれでサバイバルをするというものだった。フェミニストのルームメイトは、俺や他の学生達にこの番組について何週間も前から喧伝していた。彼女によると、「家父長制の悪から無縁の、女性によって治められた社会がどのようなものであるかを、この番組は見せてくれるでしょうよ」ということだった。
そして、始まった。ああ、番組はそれを見せてくれた。
番組はまず両グループがそれぞれの島に降ろされ、いくらかの食料や装備を渡され、あとは自力で生き残ってくれというものだった。両方のグループでまずチームの体制をどうするかで口論が起こった。それから男達は彼らが必要だと感じたことを何でもやっていくことにした。そこには命令を下すリーダーはいなかった。狩り、採集、漁が必要だと感じた男達はそれをやった。別の男は砂の上に座るのにうんざりしてベンチを作り始めた。他の男達は小屋を建てた。その小屋は徐々に大きく発展していった。別の男は毎晩調理をした。男達の島には数日の内に、小綺麗な文明が出来上がっていて、生活は日を追うごとに少しづつ豊かになっていった。
女達も同様にルーチンに落ち着いた。タオルを乾かすための物干し竿を掛けた後は、日光浴と口論を始めた。男達とは違い、女達はグループ全体のコンセンサス無しには何もすることができなかったからだ。そして12人の女達の間でコンセンサスが得られることは一度も無かった。続く数回の放送の間に、女達は最初に与えられた食料を全部食べつくしてしまった。暴風雨で何度もびしょ濡れになり、砂ノミに喰われ、どんどんみじめになっていった。一方男達は非常に満足していた。もちろん意見の相違もあったが、それらは徐々に解決されていった。
これをフェミニストのルームメイトと見るのは最高だった。彼女も始めのうちはこの男島と女島の違いをなんとか正当化しようとしていたけれど、その主張も段々弱くなっていった。結局、番組側が助け船を出すことを決めた。女達を助けるために、3人の男達が選ばれ女島に行くことになった。その代わりに、3人の女達が男島に行くことになった。この回を見ていた時のフェミニストのルームメイトの顔はプライスレスだった。
選ばれた3人の男達も当然有頂天になっていたんだけど、彼らが女島に到着し女達に迎えられるまでだった。
「小屋はどこだ?」
「小屋なんて無いわ」
「食料は?」
「全部食べちゃったわ」
それで結局3人の男達は犬のように働くことになった。彼らが最初の数週間のうちに試行錯誤して得たスキルを使って、小屋を建て、魚を捕った。女達にも食料探しをしてもらおうとしたが、女達は文句を言って日光浴を続けた。
男島に送られた女達3人は喜びに満ちていた。食料もあるし、雨風をしのぐ小屋もある。男達からはチヤホヤしてもらえる。彼女達もまた日光浴を続けた。
たかが2年目半の時点でどんなこと偉そうに書いてるんだと思って読み始めたけど
「教養」って知のデータベース(と、それへのアクセス権限)なので、
・教養があることで省略できることが多い(いちいち車輪から発明する必要がない)※1
・新しい出来事に対しても自分一個でなく結集された英知を結集して思考できる ※2
・それらの経験を通して自分という一個の人間の能力自体も成長が期待できる ※3
……みたいな効果があるっちゃある。ぶっちゃけ教養があることで「できること」の範囲は広がるし、その「できること」の範囲が拡大すれば、大げさに言えばその「人」自体も変化する。そんな感じ。
言ってみれば、教養のある無しというのはネットにつながってるスマホとつながらなかったころのガラケーくらい違う。だから「教養なんて無くても別によくね」とか言われると、「俺のガラケーは辞書機能もあるし写真も撮れるし音楽も聴ける、ネットとかつないで何すんのw」とか言われてる感じがする。批判とかそういうのじゃなく「気の毒に…」「つなげばすぐ分かって顔真っ赤になるだろうに…」「でもつながない限りこの人には永遠に分からんのか…」「かといってお金ないとか事情があるなら無理に勧めづらいし…無くて死ぬものでもないし……」「本人が納得してないのに押しつけるわけにもいかないし……まあ放置しとくか……」みたいな、同情というかスルーというか、そういう微妙な反応しかできない人が多いと思う。あなたが、「教養って必要かも」と少しでも思ったのなら、たとえあなたが何歳であっても躊躇せずさっさと教養を身につけるよう努力した方がいいと思う。
まあ、教養を身につけた上で「こんなもん、俺の人生には不要!」と言っているのなら、あー、そりゃまあそういうこともあるかもね、Not for youだったんだね、ネットの無い世界にも人生はあるもんね、という感想かな。ただ、教養ある人が回してる世界の恩恵を受けて生活している以上、「俺には教養はいらん」とは言えても「世の中に教養は不要」とは言えないかもな、ということは理解していただけるとありがたい。
※1 … たとえば「標的のシステム内に、一見無害又は価値あるデータを装って取り込まれたあと、気付かれないうちに活動を開始して、標的システム自体に致命的な影響を与えるプログラム」のことを「トロイの木馬」と名付けられるのは教養のなせるワザだし、それで話が通じるとメチャクチャコスパいい。いちいち毎回「標的のシステム内に…」から説明してまわったり、それに全く新しい名前と概念を与えるのは不便過ぎる。
※2 … 一般的に、人生で人が出会うであろう悩みなら、過去数千年間の中で膨大な人が悩んできており、相当な数の人がそれについて人生をかけて思考してきている。それらを用いて自分が思考するだけではなく、同じ「教養」を身につけた人同士であれば、それらを前提にして議論や新しい発展を図ることもできる。ネットの集合知じゃないけど、そうやって関わる人間の数が増えれば、思考や決断のスピード、深さが桁違いになる。
※3 … ここまで教養の「幅広さ」の利点だけを述べたが、教養の真価は、それを使いこなすことで人間自体が深まり、成長できるところにある。物事の「深み」を知ることは、「深く知る」ことへの欲望を生み行動を変える。深みを知るなら、実は幅広さというものはそこまで重要ではない。世界中のワインを飲み比べる人の見ている「世界」の広さに、一つの村に住み同じハウスワインだけを数十年飲み続けて出来年とそうでない年の微妙な味の違いを判断できる人の知る世界の「深さ」は、決して劣るものではない。そして、その両方を身につけることができるなら、ワインを知らない人とはもはや見える世界も違えば経験する人生も異なってくるだろう。