はてなキーワード: 前座とは
お前座頭市に同じ事いえんの?
音ゲー好きな素人が試行錯誤しながら楽しむ場の雰囲気が好きだった
今は違う
如何にしてプロ、有名コンポーザー、DJ、VJをゲストで呼べるかがメインになってしまった
それはもう有志の会なのか?
プロが来る、来てもらえる事は素晴らしいかもしれないが、好きな曲をデカイ音で聴いて楽しむ事にプロは必要なの?
プロを呼ばない、呼べないイベントは下の下、呼べたらようやく及第点
気軽にどうぞと言いながら、スタッフや主宰がやっている事はただの自慢、マスターベーションにしか思えなくなってきた
プロ、コンポーザー、有名人が全くいない音ゲークラブイベント、今どれだけあるの?
誰かしらをゲストに呼ばなきゃ、もうイベントとしてカウントされないのかしら
それがイベントの精度、内容を濃くする為の事項で、これからもどんどんその要素が濃くなるならば、いっそのことゲストで呼んだプロのオンリーイベントにしたらどうだい?
音ゲー好きな素人が頑張って作った30分や45分のMIXより、プロが流す1曲の方が優先度高いんでしょう?
僕らがやりたかったのは、聴きたかったのは、音ゲーが大好きな、DJで飯を食ってる訳ではない至って普通の音ゲーマーがデカイ音で流して共感して、楽しむ事だったはずだ。
各種イベントの主宰に問いたい。回答は無くて構わない。繰り返しになるが、
まずはじめに言うと私はアスペルガーでもないし、発達障害でもない。数回検査をして、違うと診断が出ている。
小さい頃から太っていて、カンが強く、思い込みは激しく、怒りっぽい。友達は少なかった。中学は半分不登校だった。高校はランクが低いところをだましだまし通っていた。ニート、引きこもり、の前座としてはよくある話だ。
20代はずっとフリーターだった。10~15万円の給料をもらって、実家からでないまま遊んだり、勉強もすこしはしただろうか。一年務まればいい方で、数ヶ月でクビになった。クビを宣告される前は私も体調を崩すようになっているので、ショックはあったけれどもう通わなくていいのだと思うとほっとしていた。そして何ヶ月かニートになり、また金がなくなると働き始める。その繰り返しだった。職場では、遅刻とまではいかないが、いつもギリギリに到着していた。同僚との仲も徐々に悪くなっていった。それでも大きく態度に出さなかったのはとてもありがたかった。もしかしたら鈍感すぎて、いじめには気がつかなかっただけかもしれない。
そんな中、20代後半になって唯一長く務まるバイトに出会った。数年続いた。給料もまぁ、仕事の時間を考えればそこそこ貰えた。趣味や、ツイッターでできた友達と遊んだり、楽しかった。それでもこの仕事も突然ダメになった。体を壊したのだ。
原因が分からずに、病院に行った。いくつも病院を回って、どうやらこの症状はメンタルから来ているらしい、とわかった。意味がわからなかった。この仕事でストレスを感じることは他の仕事に比べればほとんどなかった。
仕事は体力仕事なので、体が動かなかったら働けない。けれど仕事は溜まっていて、人が足りなかった。出られないか?と何度も言われた。私も、行ったところで仕事にならないのを認めなくなくて仕事に行った。仕事は終わるはずもない。誰かに肩代わりしてもらうしかなかった。そんなことをズルズルとやって、結局数ヵ月後に退職した。
なおしたかった。働きたいと思っていた。しかし、それが何年も続くとどうだろう、私の中にあった怒り、欲求は薄れて、ただのボンクラが出来上がってしまった。もともとボンクラだったのかもしれないが、それが輪にかけてボンクラだ。
動けないならネットの仕事をすればいいのに、と思ってサイトに登録してもみたが、結局ダメだった。趣味を仕事にしてみたら?ダメだった。
トライアンドエラーを繰り返すうちに、どんどんと自分がダメなものなんだなぁと自覚させられる。自分が自分に期待をして、頑張ってみないか?と思うのももう嫌になってしまった。
それでも不幸なのだろうか、と思ってもそうではない。通院の結果少しずつ動くことはできている。趣味の友人とネット上で楽しく交流させていただいている。両親はいるし、持ち家もパソコンもスマホもある。月に少しおこずかい(30代が!ここは笑うところだ)を頂いている。
大変あまっちょろいと本当の不幸の方にお詫びする。私は、ただ障害を負っただけのクズなのだ。辛いことも、未来のことも何一つ考えない。今が楽しければそれでいいとバイオリンを弾き鳴らすキリギリスなのだ。
…本当は、未来のことを考えないこともない。でもわからない。時折、家族と喋る。これから何をすればいいと思う?どうすれば?そんなことを言われても、何をすればいいかなんて全く考えが浮かばない。本当に、何一つ、わからない。
小説だったらこういうとき、主人公は血のにじむような努力や優秀な頭脳を使って困難を打ち負かしていくんだろう。素晴らしいハッピーエンド。私はどちらもすることができない。私のような人間は物語には登場しない。
夏にバイオリンを弾くキリギリスは、冬には寒さで死んでいく。私の家も決して裕福ではない。両親からは、私たちが働いているうちは援助もできるが、定年になったら無理だ。と言われている。定年まではあと数年だ。きっと私の夏もあと数年なのだろう。願わくば冬の辛さを味わうのは、少しだけがいいと祈らずにいられない。
(多数の暴言あり)
なんかもう各所で言われてる気がするけど、やっぱり最近の9mm Parabellum Bulletおかしいです。そろそろ限界です。
当方9mmは小学生から聞いていて、高校生で初めてライブに行き、そこで音楽への道に開かれました。9mmが自分の音楽にまみれた人生を開いてくれた訳です。要は開祖です。それくらい好き。今でもTermination聞いたら良すぎてゲロ吐きます。音が細胞に染み付いてる。
ライブ自体はそんなに数多く行っている訳ではありません正直。メンバー四人が揃っているライブは2、3回しか見たことないんじゃないかなと思います。
初めて滝がいないライブを見たのは確か太陽が欲しいだけツアーのアンコールです。サポードギターの武田さんを迎えた四人でTerminationをやったんですね。一音目が鳴った瞬間の、あの衝撃。後ろから膝カックンされたみたいな拍子抜け感。嘘だろと思いました、まさか滝がいないだけでこんなにうっすい音になるのかと。それが初めでした。
それからというものの、もうそのRevolutionary(薄口)がトラウマのようになってしまって、しばらく9mmのライブに行きませんでした。ツアーでも近場でも行かなかった。あんなのはもう聞きたくないと、すごく申し訳ないんですけど思ってしまったんです。コピーバンド聞きに行ってるんじゃねえんだぞと。思ってしまったんです。
で、時は流れ、BABELが発売されました。私は好きなバンドにお金を落とすの大好きマンなので買いましたが、多分一回も通して全部聞けてないんじゃないでしょうか。すごいメタルなところは最高だと思うんですけど、歌詞と音に味がない感じがするというか、歌詞に至ってはJPOP聞いてる気分になって何回も途中で耐えきれなくなって飛ばしてます。まあこの辺の話は好みの問題だと思うんで割愛しますけど。で、ライブやりますとなるわけです。そうしたら追加公演、東京、滝が出ますという情報が出ました。これは行こうと思って、即チケットを買いました(これがまた後から普通に買えちゃったのもショックでした。余ってたってことですからね)。あの日から結構な間9mmのライブ見てないけど、もしかしたら今のサポートありの9mm、別に悪くないんじゃないか、なんやかんやでうまくやってるんじゃないか、自分は食わず嫌いしてるだけなんじゃないか、という淡い期待を抱きながら夜行バスに飛び乗りました。
弁明しておきますが、サポートの方を叩く意図は一切ありません。9mmのピンチをスケジュールの合間を縫いながら助けてくれたことは確かにありがたいと思います。でもそういう話じゃないんですね、サポートの技術が高いとか低いとか、そういう話じゃないと思うんです。多分このサポートが超有名ギタリストだったとしても同じ感想が出たと思います。滝の代わりは誰にも務まらないんですよね。あの四人が揃って初めて9mmが9mmの音を出せるんだと思うんです。そこに足したり引いたりしたらもうそれは9mmじゃないんです。7mmとか1cmとかなんです。
BABEL東京公演、確かに良かったです。まず曲が良かったですよね、古参ファン垂涎もののセトリでしたからね。光の雨とか会場しばらくざわついてたもん。あとギター増やしてやたら爆音にしたり、石毛呼んだりね。石毛のサポートは本当に良かったです、だって電話の曲やっちゃったんだもん。もうそれで全部持ってっちゃったんで、代わりにならねえよとか言えないです。あれはずるい。
良かったんですけど、アンコール、滝が出たほんの数分を見た後は、本当に何も見えなくなりました。本編が全部まるごと前座でアンコールが本編だったんじゃないかと思いました。本編とかもうあれ学芸会?みたいな。それくらいの衝撃をもって吹っ飛ばされました。ギター3本?なにそれ?みたいな。明らかに滝一人入った時の音圧のほうが上なんですよね。音圧っていうか、なんでしょう、音の飛び?みたいなのが良すぎる。なんだあれ。私だけかなと思って同行者に聞いてみたら、「アンコールが本編だった」って言ってました。私の耳に滝フィルターかかってるわけじゃなかった。
そこで確信してしまったわけです、やっぱり滝のいない9mmのライブは観れたもんじゃないと。
そこからはずっと、な〜〜〜〜んでライブ活動休止しないのかと散々愚痴をいろんな知人に言って回りました。マキシマムザホルモンがナオ姉妊活の時活動全面休止したみたいにさあ全部休止でいいじゃんと。音沙汰のないところから滝復活・新譜発表・ツアー決定の三連攻撃を突然出してくれる方がよっぽどかっこいいと思うんですけど。なんで無理矢理にでもライブやろうとしてるのか本当にわからない。なんか、風邪ひいてるのに無理に出勤してくる奴を見てる気分。帰れよ。お前が来たら全員に感染の危険があるから。全員に迷惑かかるから。優しさとかじゃないから、帰って寝てろよと。そういう気持ちになる。
新しいレーベルを設立したばかりなのでお金がいるんだろうな、っていうのもなんとなく予想しました。分かる、分かるけど、でもやっぱりやめてほしい。これ以上惨めな姿をさらして欲しくないというのが正直なところです。メンバー全員リスペクトしてる海外バンドとの対バンとかなんで受けちゃうの?それこそ万全の体制で受けないと失礼なんじゃないの?と思ってしまうわけです。CDでもDVDでも出してくれたらなんでも買いますし、他のところで金策してほしいんですよ。
この金策の為説、日に日に信憑性が増していってて。もう段々アイドル商法みたいになっていってますもんね。BABELの時も、メンバーとの撮影会つきチケットを高額で販売したり。今やってるPOP UP SHOPでは、メンバーの秘密が聞けるボイスが流れたり。なんかもう、ハァ???という感じなんですね。アイドルかお前らは。撮影会ってなに?地下アイドルなの?ボイスってなに?声優なの?
そう、これなんです。9mm Parabellum Bullet、アイドル化してる。これに尽きると思います。もう音楽誰も聞いてないんじゃないかってくらい。サポート入りの9mmの音を聞いて「最高!」とか言ってるやつがいる。しかも昔からずっと9mm好きです!みたいな人。本当にちゃんと聞いてますか?顔ばっか見てるんじゃないですか?ちなみに私の周りの9mmを知っている人は全員「滝のいない9mmはじゃがいものないポテトサラダみたいなもんだ」って言ってました。
昔の9mmってこんなんでしたっけ?確かにラーメン作ったりろくろ回したりゲーセン行ったりしてましたけど、でもなんというか、もっとちゃんとバンドしてたような気がするんですけど。もっと音楽してた気がするんです。どうでしょうか。いい加減彼らをアイドルばりに持て囃すのやめませんか?ファンも、レーベルも。
私には今のところ9mm解散の未来しか見えていません。義務感でツアーを続けているのは本当によくない兆候だと思います、解散の兆候だと。メンバー四人が揃ってるところ、ライブ以外でいつから見てませんか?このままだと貴重なモンスターバンドがまた一つ消えてしまう気がしてならないんです。本当に。
いや、ホワイトモルフォってなんだよ。
なんでしょうね、ミラージュマーク、ショウメ(=ブリッツの幼生、タワー)って共通点から考えると、カイゼリンのミラージュバージョン?
まさかね、ゼノアアプターブリンガーって名前があるから、それはないか。
となると、うーん、そもそもミラージュマシンの新設定がいまいちまだ飲み込めてないぞ、えーっと、もういいやNTの表紙がマグナパレスなんで、ついになってるアトロポスの方のKOGで。
中身はアウクソーちゃんに関する伏線も貼られているので要チェックです。
まあ、おそらくこの伏線はタイカ宇宙のあれそれやマキシ死亡からのあれそれと関わってる伏線なので、カラミティ侵攻辺りまで回収されないんだよなあ。
このままのペースだともう現実世界で今までの連載と同じぐらいかかりそうですね。
魔導大戦前半がまだ終わってないの、すさまじいよね。
この後何しなきゃいけないんだっけ。
マグダルが目が見えない中でカーマインで頑張る話?(カーマインってなんだっけ、映画の舞台があそこだっけ?)
「おかえりなさい、プロミネンス」をしないといけないから、サタンどもが攻めてくる?
ナインもいるから、超帝国時代の剣聖復活?(クルマルス、オージェ、プロミネンス以外はどうすんのかね、さすがにジュノーンはコーラスVIまで待ちだろうけど)
あれ、この後エストってどうすんだっけ、レーダー9世のあと、4代目黒騎士? 4代目黒騎士のあとレーダー9世?
ぼっちゃん死亡。
ショウメのエピソード、エピソードってなんやねん、何するんだっけ、そもそもブリッツって旧設定のサンダードラゴンであってる? あってるなら、静とミューズの出番?うわこれ「ミューズがヒッターの正体をしる」が描かれたやばいな、これを思い描くだけで涙出てきた。
やらなあかんこと多すぎへん?
いやこれでもだいぶ削ってるで。
破裂の人形をサヤステ家の人が乗るエピソードとかもあるでしょ確か。
もうさ、いろいろ書きたいのはわかるし、ジークボゥのエピソードやらんとカラミティ侵攻に繋がらないのはわかってるけど、
魔導大戦を描き出したころは「マグダル、デプレ、マキシのカイエンの子供三人が頑張る」的なちょっとしたエピソードで、あくまでアドラー侵攻とかの前座じゃなかった?
もうすっかり話の本筋とかしているけど、ジークって全然ぽっとでのキャラやん。
落語聞きに行くのは、寄席よりも落語会の方が好きだ。寄席は当たり外れが大きい。好みじゃない人が出てくると眠くなるし眠みと戦うのが疲れてしまう。
思えば、子供の頃からまんがも雑誌派じゃなくて単行本派だったし、ミュージックステーションをぼーっと見ながら
お気に入りのアーティストが出るのを待つより、CD1枚聞く方が良いなぁと思っていた。
寄席の木戸銭は若手の栄養、ひいては落語全体へお金が回ることになるので云々ということを、落語家の皆さんは言ったりするのだが、
席主の取り分だってバカにならないはずで、それなら2、30人の小さい落語会なら直接好みの落語家の懐を潤せる割合が高くなりそうだし、
落語会の前座や客演?でも色んな落語家を見ることができるし、元々好みの演者を見に行っているという保険もあるし、
何だかんだでストライクゾーンを外さないことが多いから、寄席でカタログを見る必要がないかなと思ったりしている。
寄席文化が、と言う人もいるのかもしれないが、寄席の客は年寄りだらけだし、マクラが終わりかけるや否や「○○だね」とか言う、
割とうっとおしいのが少なくなかったりするのが、割とウンザリする。
タイガー&ドラゴン」に出てくる尾美としのりのそば屋は、それでも愛嬌があったが、小汚いごく普通の通ぶった中高年老人のドヤなんて誰も見たくない。
同じようにマンガや雑誌の連載も、気になって追いかけていたマンガ1本のためだけに数百円を毎週払って買うのがなんか違和感がある。
読みたいものが2,3本入っていたとしても、「興味がないその他大勢」も結果的に所有してしまった、というすっきりこない気持ちである。
そして、読みたいものが5,6本やそれ以上入っているマンガ雑誌には、まずお目にかかれない。
紙の雑誌だったころは捨てればよかったが、電子書籍の場合はなおさら「興味がないその他大勢のデータがあるなぁ…」と思いながら暮らす羽目になってしまうので
大学の同期が成人式をむかえる前に書こうと思っていたが、結局こんな時間になってしまった。
この時間になって成人式ねーうん・・・みたいに思ってネット見てる人間が見ればそれでいいや。
「成人式に行かない人って、いったいどんな理由があるんでしょうかね」というのは、改めて考えてみるとこれがいまいちよく分からない。
あるいは自分がなんだかんだ言って結局行った方の人だからなのかもしれないが、行くのを結局決めたのは前日の夜になって「ああやっぱ行こうかな、一応準備だけしておいて寝坊したらあきらめるか」といった具合でいたら当日きっちり目が覚めたので、ええホントに行くの俺?みたいな思いを抱きながら行ったという有様だったので、その辺のところ行くまではかなり割れていたのだが、実際行った後になってああやっぱ行ってよかったなとなるような強い価値観の変化があったので、そのあたりのことがいまいちよく思い出せないし、結局行かない側の人ではなくなったので、行かない側の人としての物言いをしなくなったからだと思う。
というのも、その成人式人生三回目のセンター試験の一週間前だったし。
その頃の自分に何があったかというと、まあなんだかよくわからないことになっていた。少し本題とずれるので、結論だけ見たい人は読み飛ばして構わない。
単にシンプルな物言いで表したり表されたりしたくないだけなのかもしれないが、一年目も二年目も、センター利用で受かった大学にそれぞれ親に入学金と半期の学費、それから半期の休学費用をハタかせておきながら大学受験をおかわりしていたからである。
結局一度目はもっと高いランクの大学に行きてえと抜かす自己肯定感の欠如と、それでいて自分の有様をよくわかっていないが生きる上では大切な若者特有の貴重な熱意を、18,9年生きててそれだけしか身に付けなかったんかとばかりの崇高な偏差値という単線的指標に振り向けて、それさえ達成できればこれまでも中高大と一度たりと第一志望というものに受かったことのない過去の自分の救済になると信じて突っ走ったものの、大元の問題が何一つ解決されてないがゆえに何一つ解決するはずもなく、終盤完全に行動の伴わない支離滅裂なメンヘラという訳の分からない人になりながら本試は全て落とし、所属するが故の苦い部分から解放されもはや生きてるだけで自己肯定感を補填できる依存先と化していた元の大学と、唯一受かった1ランク上の、しかも受験が終わった後になってどうやら自分が本来大学でやりたいと思っていたものと違うらしいということが分かった大学のどちらにすればいいか迷っていると口にし親父を激怒させて終わった。
二度目のほうはもはや凄惨と言う他はなく、元の問題、つまりは自己肯定感の欠如であるとか偏差値以外の指標を実のところ持ち合わせておらず、大学受験というそういうことの最後の振り分けが終わった後でじゃあ自分が何をすればいいのかがわからない、自分に好きなことややりたいことがあるんだかないんだかわからない、ましてそいつを新しく見つけ出すこともできちゃいないし、前の大学の専門や多分野性は楽しかったし、自分のやりたいことのような気もしていたがそいつは自分でかなぐり捨ててしまった。そうこうしているうちに時間は過ぎ、周囲にいる一つ年下の人間はめいめいにそれを見出したり、あるいはそうでなくても仲間を見出していく。新しい人間を迎えるムードやチャネルは閉じていき、ただ一人、コミュニケーションに長けているわけでもなく、まして19になって未だ携帯電話さえ持ったことのない現代人にあるまじき自分は人間関係からも完全に弾かれたまま過ぎゆくただ時間に溺れ流されていた。前期の単位は夏前に再受験が決まって期末を受ける必要もなくなっていた前の大学のさえ下回り、初めてのバイトもクビになり、夏が終わるころには高校のころ深刻であった鬱状態が完全に再発状態となり、対人恐怖に加えて社会恐怖に陥り、狭いキャンパスの狭い学科で知っている人間と会うのも、知らない人間がそれぞれ彼らなりの為すべきことや適応を見出しているさまを目にするのも耐えられず、大学は来てもまともに講義に出ることもなく普段人の来ない大学の非常階段で横になりながら、人の話し声や足音におびえ、ただ一日中耐えぬ眠気と抗うつ薬の副作用からくる体調不良でくたばっていた。
そのような状況を見かねてか、というより、自身も家族も学生相談室もお手上げ状態と化しており、少時に発達障害でかかっていた大学病院の心理士やら全落ちした中学受験時代の予備校の先生にまで話に乗ってもらい、しまいに温情で元の大学に戻るなり、また別のところに入りなおすなり、リセットの機会を与えてもらったというのが11月、という有様であった。
というような具合だったので、高校を出てから二年間の間で、自分の人生は高校を出るまでは同期で同い年の(自分の周囲にいた)人間が辿っていたそれからは大いに逸脱していた。
二度目の大学の同い年の同期とも、ましてや歳の違う同期からも逸れていた。少なくとも、当時の自身にとってはそうだった。
もとは転勤族で住んでいる地元にそれほど愛着があるわけでもなく、昔から付き合いのある人間もいない。親類ですら、精神・物理的に最も長い付き合いがあり、肉親としての付き合いらしさを覚えはじめていた爺さんは最初の大学受験の途中で突然死した。ましてや住んでいるところの人間など、地理的なり関係性的になり分断が続いたので、初めて親しいらしき人間関係が三年を超えたのは、電車で一時間の高校を出てからのことである。
↑以上読み飛ばし
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↓読み飛ばし了
そんなわけで当時の自分は、血縁・地縁または精神的な人間関係という側面において、また学年や同期など社会的地位としての側面において、そして以前より自分が持っていたイメージ(と現状との乖離)という三つの面において、一般的な「20歳」という存在群から離れていた。(すくなくとも、当時はそう自覚していた)
とはいえ成人式のハガキというものは、本人のそうした事情や自意識とは全く関係なく、ただいつ生まれてどこに住んでいたかということ以外何一つ問わず、だれの元にも届くものである。
ハガキが届いた時点で、すでに自分の人生が同年代の多くの人間が歩んでいるのと同じような人生など望むべくもないと思ってはいても(事実そうだとしても)、である。
これは生まれて20年の1月を迎えるまでの経緯がどんなに平凡であろうが特殊であろうがおそらく同じことだが、成人式というものは、義務教育を終えた人間に来る、「ただ同じ年(度)に生まれたというだけで世間から全く同じ扱いを受ける」最後の機会だろう。ひょっとしたら最後ではないかもしれないが、少なくとも当分同い年というくくりではこれほどの等しさと無差別性を持った体験をする機会はないだろう。たとえ義務教育をどっかでドロップアウトしようが、義務教育後に社会に出ようが、小中高のどっから私立なり特殊な学び舎に通っていようが、あるいはそういうことのなかろうがである。
分かりやすいので義務教育を例にとってはいるが、それ以外であっても人間この国で20年も生きていれば意識しようがしまいがなんがしか本人なりの本人しか持たない(あるいは似たような人しか持たない)部分というものが出てくるものだし、そんなことはないと思っていてもそう思えること自体がそうである。
これは多分行く前はあんまり分かりにくいことだと思うが、ともかく成人式というのはそういうものを可視化してくれるこの上ない機会だと思うんすよね。
自分が変わっていようが、あるいは変わっていなかろうが、それがどう変わっていて、どう変わっていないのか。会場に集まった普段どこに住んでたんだみたいな70年代の珍走団の生き残りみたいな連中やら、無数にいるスーツにトレンチコート羽織った黒い大群やら、量産型みたいな晴れ着の女やら、(ときにキンキラキンの)紋付袴決めた男達やら、そこにいる連中すべてがまぎれもなく自分と同い年という光景は、少なくとも成人式以外にあるまいと。自分が前日にやっぱ行ってみようかなってなったのは、そういう風な光景って実際どんななんでしょってのを見てみたかったのが一つある。これ考えても実際に見てみないと絶対分からないぞと。少なくとも、行ったことは何かの話のタネになるが、行かなかったら何にもならない。あとでやっぱ行けばよかった、がシミのように残ると思った。
成人式のハガキをなくしたのならなくしたと言えば現地で何とかなるし、着ていくものがないならまぁ少しでもちゃんとしてそうな格好をしていけばよいだろうし、そういう成人式だってあってもよいだろう。別に地元に友達がいなかろうが、それはそれで自分にとっての成人式はそういうもので、そっから見える光景というものがあるだろう。ひょっとしたら、意外な出会いというものがあるかもしれない。俺の場合は誰一人知り合いとすれ違うこともなかったが、それはそれで面白かった。久しぶりにでも会いたくないやつがいたとしても、そいつと会うのはその日が最後だ。遅刻したって別に会場に入れてくれないということはないし、まあ既に終わってても贈答品くらいは貰えるだろう。
いずれにしても、成人式に行くことによっぽどの、それこそ生命の危機が伴いでもしない限り、積極的に行かない理由をひりだすことはないんじゃないか?
仮に生命の危機があっても相手は少年法の適用外だ。別に贈答品目当てだってよかろう。地方によっては金券まであるらしいし。ぶっちゃけ、ほかの自治体のでも潜ってる人はいるし、そういう手もあるだろう。
成人式という上に述べたような場で何が起こるか、あるいは自分にとっての成人式がどういう場で、どういう体験をしたかってのは、これまでの自分を同じ年齢の違う人間という物差しで照らし合わせて改めて見直すことができるいい機会になりうると思うし、あるいはこれからの自分がどうするかを決める上で一つの観点を得られる機会となることもあるだろう。
俺の成人式の話をすると、その日の朝は普段より早く起きて、普段予備校に行く格好のまま家を出て、最寄り駅のトイレでカバンに忍ばせたスーツと革靴(最初の大学の入学祝い)に着替えて行った。
贈答品は会場に一番近いマクドナルドのクーポン券なのは事前情報で知っていたので、特に期待はない(要らねえけどなんかムカついたから二枚使った)。
日本で最も規模のでかい成人式のひとつなので、夥しい人間がいた。その中で明らかに事前の期待を裏切ってよかったこと・面白かったことが3つと、クソだったことについて書いて終わろう。
まず前座で良かった点、開式の国歌と市歌の斉唱。これは完全に盲点だった。いや、人生であれだけの人数で国歌と市歌を斉唱するという機会は以前もなく、おそらく今後もそうないだろう。規模は地元によって変わるところなので一般化はできないが、大勢で国歌だとか市歌だとかをまともに歌ってみるというのは、歌というもの(または斉唱)が持つ効果について体感することができたし、本人の政治的スタンスによって様々に見方があるものだと思う。
クソだったのは、少しは面白い話するかとほんのちょっぴり期待していた林文子(市長)が死ぬほどつまらない話しかしなかったこと。マジで役に立たねえ話しねえ。1行で要約すると
「携帯電話が普及して直接コミュニケーションをとれる機会が私たちの世代より減ったと思うので密接な人間関係を築けるよう頑張りしょう。」
いやもっと役に立つ話しろとは期待が高すぎたかもしれんがせめてなんかそれについて掘り下げた話はできないのかよなんだそのお手本みたいなお年寄りのお手本トークは・・・というもの。これはこれで、ある種の貴重な機会かもしれない。毎年使いまわしてる可能性があるから横浜市民は要チェックだ。
輪をかけてクソだったのがその次の新成人のスピーチ。まあ新成人代表なんぞに選ばれてスピーチを打つやつはまず間違いなく模範的成人みたいなやつかそれに類するものだと思っていたのだが(それ以前のスポーツ選手みたいなのの紹介とかもそうで)、そいつの語り口が聞いていて気に食わなかった。正直後のインパクトで話してた内容をあまり詳しく覚えてないのだが、まあ今はボランティアとかいろいろやってます系の大学生が自分の人生を語るというものだったんだが、その途中で(当人の人生が実態としてどうであれ)妙に「こいつスピーチの話術として落としをやっているな?」というところがなんか聞いていてイラついてくるのである。「いじめられもしました」の言い方が湿っぽいんだよなんか。でもお前いい人に囲まれててよかったねいい人生だねと市長のスピーチに続いて半ば来たことを後悔し始めたのだが、ここからがとてもよかった。
これは行く前と行った後で最も価値観が変わったことである。かねてから成人式の乱入というものはまぁおよそまともなものではないと思っていたが、しかしその場ばかり、その場の自分にとっては違った。
むかし怪獣特撮で怪獣が町を破壊するシーンで喝采があがったとかいう話が少し分かった気がした。
成人式というのは、その主役は新成人である。そこにいる、会場に座っている全ての人間が主役である。彼らの社会的日向日陰此方彼方近郊遠方、全てを問わず、しかし彼らのものであり、選ばれた新成人と、一世一代の晴れ舞台乱入を試み壇上へ駆け上がった名も知らぬ煌びやかな和装姿の彼と、私と、あるいはすれ違うこともないがしかしそこにいるはずの知人どもとの間に、いったい何の違いがあるというのか。誰が彼と彼らと分かちうる権利を持ちうるのかと。成人式とは、生きてきたこと、為してきたことの如何を問わず万人がそこにいる場ではないのかと。
ひとり私は拍手し、心の中で喝采をした。壱萬の大群と自ら選んだわけでもない代表者という構図の中に包まれていた会場を破戒し、否、そうではない、と示した彼の姿に。
そのように見出した彼の姿に心打たれ、ある種の感謝と、自らの肯定を覚えたからだ。彼の行動によって、万人の場としての当市成人式は成立をなしえたのだから。
最後に。これは来ていちばんよかったと思えた光景なのだが、式が終わって駅に行くまでが死ぬほど混んでいたので見物感覚で大回りして駅の空いてるほうに向かっている途中、まあいかにもあまり中学の休み時間窓際で話してそうな感じのイケていなさそうな感じの風貌のダウンジャケットの男二人が、しかし久しぶりに会ったと思わしき感じで、いかにも久しぶりにやるその頃の二人のやり取りという感じで楽しげに歩いている、その光景を後ろから見ているときだった。
こういう成人式も、あるのだと思った。
のでここに書き留めておきます。
それに気づいたのは、突然、馳さんから「お前、明日デビュー戦な」と告げられたからである。
「あ、おいっすー分かりました」と軽く返答した。小さい頃から知っている馳のオジサンに。
先生にさんざんイヤーなお叱りを受けて、その後帰宅するんだが、
いつもと違う道を歩いて帰ろうと思い立った。Ingressをするためである。
あー全然ないわー、と思いながら道すがら、やっとポータルを見つけた。
あーこれ、東京ドームか。俺、明日ここでデビュー戦だったなあ。
え? 東京ドーム?
ここで事の重大さに気がついた。
ドロップキックもできない。
いくら馳のオジサンでも、こんなしょっぱい相手をどう料理もできないだろう。
後悔先に立たず。備えあれば憂いなし。
どうして俺は、こういうチャンスをモノにできない人生なのか。
いつプロレスデビューの話があってもおかしくないように鍛えておくべきではなかったのか。
プロレスが家業だからと、いつでも鍛えられると、甘えてはいなかっただろうか。
そんな忸怩たる思いで、俺はこのだらしない腹で、情けない体力で、
顔にペイントして、奇声を上げて、毒霧でも吹くか。グレート・ニタの要領で。
さすがに馳のオジサンも怒るかもしれんが、仕方ない。
やればできる、悲惨な結果になろうとも。何かやらなければならない。
なんとかしなければ。。。
というところで目が覚めました。寝汗びっしょりでした。
元々の意味は「(相手の気持ち、望むことを)思いはかって」行動するというものなので、
決してマイナスなことだけではないはずだけれど、
大物政治家やら、大手芸能事務所やら、権力を持つものに迎合するような
正直良い印象を感じることは少ない。
そんな中で、昨夜、思わず「ナイス忖度!!」と叫びたくなるような出来事があったので記しておきたい。
流れていたのはNHK-FMが祝日にのみ放送している「今日は一日〇〇三昧」
一日中、そのテーマに関する音楽をかけ続けるマニアックな番組だ
ラジオを聞かないという人でも、なんとなく知っているという人も多いかと思う。
今春までNHKの朝のニュースの顔であった阿部 渉アナウンサー
実は学生時代からのガチなオフコース、小田和正ファンでもあるらしい。
通常、この〇〇三昧というシリーズでは、
そのテーマやアーティストにまつわるゲストがスタジオに多数登場し、
昼から夜までほぼ出ずっぱりで、
その他のゲストは一切なし!!
年に一度、TBS系で放送される「クリスマスの約束」を除いては、
が、そんな番組にもかかわらず、
その曲にまつわる話をしていく
さらに同時代に活躍した元チューリップの財津和夫さんといった音楽仲間
心地よい歌の数々に癒されながら、
仕事を続けていたら、
終盤にさしかかった夜9時前
オフコースとして1982年まで一緒に活動した鈴木康博さんが登場したのだ。
例えるなら先日のabemaTVにおける元SMAP3人と森くんの"21年ぶりの邂逅とでも言おうか・・。
当時は大学進学率も低く、
音楽の道で夢を追って生きていくなんて・・とかなり咎められたそうだ。
当時のインタビューによれば、
そうした親や周囲の反対を押し切って進んだ道だからこそ、
絶対に「成功しなければならない。」という意識を強く持っていたそうだ。
全てを投げうって音楽の道をまい進する決意を固めた二人は、
二人組として活動した。
「眠れぬ夜」、「愛の唄」など今もよく聞かれている名曲もたくさん生まれているし、
それなりにファンもいたのだが、
「(当時)よく一緒にライブに出ていたが、オフコースの方が先輩にもかかわらず、
(さだの)グレープの方が先にヒット(精霊流し)して有名になってしまい、
前座のような状態にさせてしまって恐縮していた。」というような話が出てきていた。
苦労時代が長く続いたあとで、
一気にブレイクを果たした。
長く続いた二人時代は二人の関係は対等で、作品もそれぞれ作っていた。
(男二人にかかわらず)
私はそれを言うなら、本来、日本のレノン=マッカートニーだろ!!と思うのだが、
それこそ同時期に、同じ東芝レコードに在籍したチューリップのレコードに、
財津和夫さんが「和製ポールマッカートニーを自認」と書かれているので仕方がなかったのかもしれない。
それはさておき・・
事実、1982年6月の武道館コンサートを最後にバンドから離れ、ソロへと転向する。
結局1989年にバンドを解散し、その後、本格的にソロ活動を開始。
そして「ラブストーリーは突然に」を手始めに、
「ヤス(鈴木さん)が抜けた時点で、もはやオフコースではなかった」と認めており、
「僕らではヤスさんの抜けた穴は埋められなかった」と語っている。
脱退後、二人の間では交流はなくなった。
もともとは同級生で友人だったはずだが、
飲みに行ったり、一緒に出掛けたりといったこともほとんどなかったという。
実際、脱退の直後には、
鈴木さんが「別に友達ではない。電話番号も知らない」的なことを言っていた時期もあった。
そこだけ切り取ってよく不仲という見方もされるが、
どちらかといえば、仲のいい友達同士というよりは互いに一目置き、
切磋琢磨して、真剣に音楽に向き合ってきたライバルであり、仲間だったのだろう。
(そのへんもなんだか、最近のSMAPの一件と重なって見えないこともない。)
とはいえ、
小田さん・鈴木さんの両者と仲がよく、共演するミュージシャン仲間がいたりもして、
実際に数年前、TBSの「風のように歌が流れていた」というテレビ特番の中で、
暗にオフコース再結成は「もう、ないよ」と否定する発言もしている。
誰かが再びくっつけてくれることを、
ファンとしてはどこかで期待していたのだけれど、
それがまさに昨日で、
事前に小田さんにはまったく知らせていなかったらしく、
本当のサプライズであったようで、
「すごいところをついてきた」、「消化するのに時間がかかる」と動揺を隠せず、
そのあと思わず涙がこぼれていたようだ。
オフコースとして一緒に音楽をやっていた時代が今では「宝物」に思えるとし、
あの澄んだ歌声や才能が羨ましかった、たくさんのことを教えてもらったと、
当時どんな想いで小田さんとその音楽を見つめていたかを振り返りながら、
最後は(お互いにいい年となったけれども)
「もう一度いっしょにやろう、再結成しよう」みたいな発言は一切なし
それでも・・・、雪解けというか、
35年もの間、伝えられなかった気持ちが伝わった瞬間というか、
人の気持ちを思いはかることはとても難しい。
でも誰かが動かないと、
昨日はそんなことを考えることができた。
(ごめんなさい。)
2017年10月14日(土曜日)に、「Ray'z Music Chronology」が無事に配達されました。
いい機会なので、レイシリーズの楽曲ランキングをまとめておこうと思います。
今まではこういうことをやると、ランキングに入った曲を全て聞くためにはいくつもアルバムを揃える必要があったわけですが、これからはクロノロジーをひとつ買えば全て揃いますからね。これは買うしかないですね。
注意事項
購入したのが「通常版」のため、Disc11は聞いてないので、選考からは外されています。なぜ特典版ではないかというと、購入手続きを面倒がって後回しにしていたら売り切れていたからです。その程度なのです、はい。
ランキングといっても、データを集計したり投票を募ったりしたわけではく、ひたすら私が独断と偏見により順位をつけていきます。ひとつの順位に一曲とは限りません。明確な上下を決められない場合、複数曲が入ることがあります。また、同率の場合に後ろの順位を下げるやつ(たとえば1位に2曲入った場合、次の曲が3位になるやつ)はやりません。あれは同率が例外の場合はうまくいきますが、本ランキングでは多用するので、数字が穴だらけになって意味不明になりそうなので。
音楽用語の使い方は適当です。
メロディもさることながら、音色が素晴らしい。突き抜けるような寂寥感。あの寂しい感じは、フォルクローレに通じるものがあるような気がします。そういえば rayons de l'Air でも民族楽器がフィーチャーされていました。
破滅する運命に向かって突き進んでいく荘厳な感じがして、エモいです。エモすぎて死ぬかと思いました。
それと、ラストちょい前にコイン投入音がするのがよいアクセントです。ラスボスを倒す前に全機なくなってコンティニューしたとか考えるとまた一段とエモいですね。
この曲の構成は1位の曲と似ている気がします。開始からしばらくはビートの反復が主体で、途中に一回劇エモなメロディーを挟み、またビート主体になり、最後に劇エモメロディーの無限ループに入り、フェードアウトして終わり。ということで、自分の中でこの二曲はシリーズになっています。
1位と2位の曲は最後の盛り上がりが一番ですが、この曲は盛り上がる箇所が多いです。
この曲には強烈な「飛翔」のイメージがあり、レイシリーズで最も「高度が高い」曲です。飛翔感というのが重要で、高度が高いといっても宇宙空間まで行くと浮遊感が出てきてしまいます。大気圏内にいて、それで一番高度が高い、というのがポイントです。
この曲が似合うといえば、なんといっても空中ステージのボスですね。
レイシリーズの終わりを過去形で感じる曲です。もう終わってしまった、と。
悲壮感はあるのですが、ゲーム設定やタイトルから、人がワラワラいてデスゲームをやっている光景が想起されます。悲しげだけど賑やか、という。
プレステ版レイストームをプレイしているとき、この曲聞きたさに面セレで何度も選んでいました。1分30秒あたりから始まる曲のサビとゲームの進行のシンクロ具合がとても好きです。
50秒から始まるサビの部分が好きすぎる。
ところで冒頭のほうで「クロノロジーをひとつ買えば全て揃います」と書きましたが、あれは嘘です。クロノロジーに入っているこの曲の音源は、セガサターン「レイヤーセクション」用のマスターテープと、レイフォースの基盤なわけですが、私が一番いい音だと思うのは「Ray'z PREMIUM BOX -BEYOND-」のアルバム音源のやつです。はい。というわけでビヨンドも買いましょう。やや出費は増えますが、レイシリーズの楽曲は出会って以来ずっと私のプレイリストで現役なので、あなたも今後ずっと聞き続ければ元はとれます、誤差のようなものです。
真っ暗な空間で水晶(クォーツ)がRayの光に照らされてキラキラしているような、そんなイメージ。
アンビエントを基調としつつ、5分15秒あたりや7分10秒あたりに派手に盛り上がる部分があるのもよいです。
レイシリーズで最も「巨大さ」を感じる曲です。とても巨大なものと対峙しているような、かつ、浮遊感のあるイメージ。まあ、つまりはレイストーム4面ボスです。
特に高音のパートは、自分の能力の極限まで搾り出すような緊張感があり、バトルBGMの白眉ですね。
レイシリーズの終わりを進行形で感じる曲です。終わる、終わってゆく、と。
ゲームの進行的には「聖母マリアよ、二人を何故別々に」であるとか「童話の消えた森」の方が後なのですが、なぜかこっちの方が終わりを感じます。この曲はプレステ版アレンジモードで流れるので、ノーマルモードからプレイしていった場合に、はじめて聞くのはこっちの方が後になりますから、それもあるかも。
そして、レイシリーズで最も「暗い」曲です。他に暗い曲としては「彼女の目的」もありますが、あれは光の無い暗さで、こっちは心理的にも暗いです。4分6秒付近の、ピアノのデン↓デン↓と下がっていくのなんかもうどん底ですよ。
コンヒューマンのためのレクイエム、といったところでしょうか。
この曲を初めて聞いたのはプレステ版レイクライシスをプレイしたときですが、ちゃんと聞き込んだのは「Ray'z PREMIUM BOX -BEYOND-」を購入したときで、その際、これに歌声が乗ったら良さそうだなあ、と思って歌詞を考えたりしました(出来が良くなかったので削除しましたが)。もしも公式に歌がのるならビヨンドみたいに BETTA FLASH がやるだろう、と思っていたので、クロノロジーでまさにそれが実現すると知ったときは震えました。ひょっとして私は TAMAYO 氏の楽曲を聴き続けることにより、氏との思考のシンクロニシティを獲得したのではな(以下略)。
Intolerance のプロトタイプのように感じます。個人的にレイストーム→レイフォースの順に触れたので。
ところでアルバム上では「The Fates」「Doomsday」「Q.E.P.D.」の並びなわけですが、この三曲はなんだかクラシック音楽っぽいなと感じる部分があります。
レイシリーズの楽曲には「アーバンで退廃的なムード」を強く感じるものがあります。アーバンと言っても、都会の中にいるのではなくて、都会を遠くから眺めているような、それも黄昏に、という感じです。なんのことかわからない方もいるかと思いますが大丈夫です、私の中でもフワっとしています。なんというか、この曲のような雰囲気ですよ。
ジャジーですよね。この曲のような、ベースがドゥンドゥンいってる感じは好物です。
おー、テクノだ、って感じですね。
レイシリーズのゲームをプレイしていて、最初に衝撃を受けた音楽はこの曲でした。まだスタート画面なのにすげえの来たぞ、なんだこれ、と。
普通にゲームプレイをしていると絶対に聞けないところでなんかとんでもないことになってるぞ、と、衝撃を受けました。ステージクリア後に次はどこへ行くのだろうというワクワク感を増幅させたような曲。
クロノロジーのロングバージョンではこれまで無かったパートがあって、それもポイント高いですね。
A,Cについては概ねアルバム版に取り込まれているわけですが、このBの後半のループは跡形もなくなっています。聞けてよかった。
アルバム版を聴いてきた経験が長いので、このバージョンは何か、歌謡曲のカラオケバージョンを聞いているような肩透かし感がありますね。
クロノロジーの新曲であり、まだ自分の中で消化できてないので、暫定的にこの順位です。(と書いてて、ふと「消化できたと言い切れる曲などあるのだろうか?」という疑問が湧いてきましたが、さておき。)
7分33秒あたりは「むーにゃにゃー」って歌っているように聞こえるのがちょっとかわいい。
Metaphor とは違った巨大さを感じる曲です。巨人がズンズン近づいてくるみたいな。
曲のタイトル見てると、アストロシティ(1990年代を代表するゲーセン用の筐体)を思い出します。
ジャジーですよね。
一番好きなのは、3:55付近からはじまる「ラーラー」の部分です。
初めて聞いたとき「原曲の音を変えただけのようなものか」と思ってました、すみませんでした。
アルバムの最後の曲がフラッシュフォワードしていたり、レイストームのメニュー操作音みたいな音が聞こえていたりと、小ネタも面白い。
ずっとノイタンツ版を偏愛していましたが、ビヨンドのボックスで改めて聞いてたら、やっぱりいい曲だなあと。
明るい曲調なのですが、「楽しい遊びの時間は終わりだよ、もうお家に帰りなさい」感があって、寂しくなる一曲です。セラミックハートよりもエンディング感があるような気がします。
アコースティックな曲はこれまでにもありましたが、フラメンコを踊ってる現場で録音しているような趣があり、意外な場面でレイ楽曲を使ってるなあという驚きを疑似体験できて面白いです。
セラミックハートのアレンジバージョン。通常版よりもこちらのピアノの方が好みです。
冒頭のほうで「クロノロジーをひとつ買えば全て揃います」と書きましたが、あれはやはり嘘で、このバージョンはレイストームの通常アルバムにしか入っていません。iTunesで普通に売ってるので入手難易度は低いです。買いましょう。
レイシリーズで最も「アーバンで退廃的なムード」の曲です。また、最もアーメンブレイクな曲です。
最も「深さ」を感じる曲です。まったく光のない深海のような。
アルバム版においては、ラスボス曲の前座だなあという感じで印象が薄かったのですが、アーケード版はまるで印象が違います。
レイクライシスの設定的に、ダイブしていたのが現実の近くまで浮上してきて、心臓の鼓動とか医療機器の発する電子音が聞こえてくる感じがします(コンティニューするとまた潜っていく)。ビヨンドのムービーでも医療機器の電子音が鳴ってたりしてましたね。
はい。以上です。これ以降をやると大半の曲を入れることになってしまうので、ここまでです。
いかがだったでしょうか。「あの曲が入ってないのおかしいだろ」という感想を抱かれたかもしれませんが、これは私のランキングですからね、仕方ないですね。あなたも自分のランキングを発表しましょう。待ってますよ。
それにしても、客観的なランキングなぞ端から諦めていますが、主観的なランキングとしても正確なのか自信が持てません。「この曲、本当にこの順位でいいのだろうか」などと考えだすとキリがないですね。まあ、極論を言えば序列をつけること自体が不可能といえます。みんな違って、みんなRAY。ですが、それを振り切ってあえて順位を決めてしまう、そんな蛮勇を振るうのもまた、RAYと対峙する一つの方法だといえるでしょう。
レイシリーズは三部作なわけですが、音楽的にはレイフォースとレイクライシスの方が近い印象があります。ストーリーの連続性もさることながら、 RUBBING BEAT が出たのは NEU TANZ MIX よりも後というのも影響しているかもしれません。
ランキングで何度か出てきた「アーバンで退廃的なムード」の曲は、レイストームには無いと思っています。
クロノロジーを聞くにあたり、レイシリーズは、面クリア型のシューティングゲームであり、自機が戦闘機でラスボスが人工知能、というのは押さえておきたいところです。
音楽が作られる背景には、たとえば宗教の儀式のためであるとか、祭りで踊るためであるとか、戯曲の劇伴であるとか、クラブで踊るためであるとか、そういった理由がある場合がありますが、本作の場合はそれがビデオゲームだということです。
面クリア型のシューティングゲームは、いくつかのステージ(面)で構成され、ステージの中はさらに「道中」パートと「ボス」パートに分かれます。
道中は概ね固定時間で終わり、ボスは倒すまで続きます。(概ね、と書いたのはコンティニューの仕様によっては少し延びるからです。全機失うと、ゲームがポーズしてコンティニューするかどうか尋ねられますが、このときBGMは止まらないゲームもあります。)
なので、ゲームをプレイしているときは、道中の曲はいつも同じ場所で終わり、ボス曲は何度もループする、ということになります。
曲が短かったりステージが長いと道中曲でもループするのですが、そうでない場合は曲の後ろの方が聞けないため、サントラを買って聞くのが楽しみになります。(まあ、聞けている部分であっても、ゲーセンだと音が鮮明に聞こえないのが普通なので、サントラで聞きたくなるものですが。)
レイクライシスのBGMは道中とボスがシームレスに繋がっているので、Disc8のアーケード版は、道中は固定時間でボスはループ、というのが顕著ですね。
近現代の戦場においては、機械が主役です。人間は生身で存在できず、機械のアシストが必要です。
人を戦場へと運ぶ兵器のなかで、戦闘機は特権性を持ちます。人間との関係性が、他の兵器と違うのです。
まず、兵器にとって人間は部品でしかありません。戦艦や潜水艦を航行させるには多くの人手を必要とします。主役は兵器であり、人間は兵器を下から支えるモブでしかありません。
誰も搭乗している敵兵を殺そうとは思っていません。目的は敵の兵器の破壊なのですから。人が死ぬのは機械の巻き添えを食ったときです。民間の船や飛行機ではありえないような危険な運用を求められるため事故も多いでしょう。
人間は兵器の都合によってすりつぶされ死んでゆくのです。
しかし、単座の戦闘機は兵器と人が一対一なのです。そう、単座であるというのが重要なポイントで、爆撃機には複数人で乗りますし、戦闘機でも複座のものもあります。
人間が機械に奉仕させられる戦場において、戦闘機とパイロットの関係は対等に近い。そういう意味で、戦闘機にはロマンがあるというわけです。
過去において、ロマンといえば剣でした。兵器としての剣は決して最強だったわけではない。にもかかわらず(いや、であるが故に?)、力の象徴となっていました。銃の時代になって以降も、文化として継承されています。現在、剣のような象徴性をまとっているのが戦闘機なのです。
フィクションにおいても戦闘機(と剣)は他にない存在感を放ちます。(ここで具体的な作品などを論じるのは、キリがないのでやりませんが。)
レイシリーズにおける戦闘機は、ロックオンレーザーというオーバーテクノロジーを搭載した唯一無二の存在です。
面クリア型のシューティングゲームのプレイヤーキャラクターは、唯一無二の存在でなければ務まりません。敵キャラクターとの武装の非対称性が顕著ですから(対戦格闘ゲームやFPSなどは、逆に敵と味方のキャラクターに対称性がありますね)。
面クリア型のゲームでは、ステージをクリアするたびに難易度は上昇します。
難易度の上昇にともない、対決する敵のスケールも大きくなってゆくことが求められ、その到達点がラスボスです。こいつを倒せば敵勢力は瓦解する、というスケールの敵でなければラスボスは務まりません。
現実においては、国家の最高責任者といえどもただの人であり、いくらセキュリティが厳重であってもゲームでいえば2面あたりで登場するような通常兵器でしかありませんし、倒したところで国が滅びるわけでもありません。
そこで人工知能です。人工知能ならば、ゲーム難易度と敵スケールの頂点であることに説得力があるような気がしてきます。
剣を携えた戦士と神や悪魔、に替わる神話的なモチーフとしての、戦闘機に乗るパイロットと人工知能。
レイフォースとレイクライシスは、主要キャラクターとして認識できるのはパイロットと人工知能だけであり、非常に個人的なストーリーだとみることができるでしょう。一方でレイストームは個人のキャラクターは用意しておらず、モブの人がたくさんいる印象があり、そのへんが「アーバンで退廃的なムード」の有無に出ているのかもしれません。(ビヨンドのムービーは、複数の作品の設定が混ざっている感じがして面白いですね。)
戦闘機を強く感じる曲といえば「生命の風が吹く場所」です。前述のとおり「飛翔」のイメージですし、ゲームの記憶から「翼」も思い浮かびます。
「The Fates」「Intolerance」はラスボス曲なわけですが、この二曲には壮大さや聖性があり、ラスボスへの畏怖の念をかきたてるようになっていると思います。一方、「安置 -Antithese-」は、畏怖よりも滅んでゆくところに重きを置いている気がします。ラスボスの終焉とレイシリーズの終焉が重なって、とても物悲しい気分になります。
最後に。
レイシリーズの音楽は、私の胸の中で決して消えることのない光です。
クロノロジーにより、その輝きはより強くなりました。
今またこうして新作が出たことに感謝します。
あとで追加された屋根なんだけど
ドーム球場のこけら落としでお馴染みのジアルフィー兄さんたちが
まあ、いまはお察しの通り、
無理してでも行くべきよね。
無理矢理でも行けばよかったわと後悔先に立たず後の祭りよね。
みんなも後悔しない夏を、
なんてね。
もう9月だけど。
ヘビーローテーションでかかるから、
セプレンバーな気分を一気にかき立ててくれるわよね。
ラブの所に線を引いて返すわ。
セプテンバーと言えば
それも楽しみね!
焼き秋刀魚を思い出すわ。
しみじみ呑みたいわね。
だけど残念なことに
フルーツはあるというのにね。
うふふ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
パズドラの攻略動画を見るのでyoutube動画を見ることが多い。
https://www.youtube.com/watch?v=LgvvL6FXZL8
ここで感じたことについて
会場のS嶋氏への感情は暖かいものだった。引退を惜しまれて、仲間同士でも感謝を述べあっていた。
しかしマッ○スむらい氏が出てきてた瞬間会場が押し黙ったのである。
その瞬間を私は見てこれを流行っているお前じゃない感と感じたのである。
観客の反応のドライさに自分もこういう扱いを受けたらどうしようとかなり引いたのである。
確かに、マッ○スむらい氏は自分をこういう人間であると語ることが多い。ビックダディの俺はこういう人間だのように。
その語りがいいときは英雄譚のようにもっと聞きたくなり、悪いときは話を聞かない人間のように感じるのではないかとも思う。
自分の立場としてはマッ○ス村井氏は好きである。(最近変なコメントを視聴者に返しても笑)
長年見てきたのは抜きにしても、パズドラでの芸みたいなたまに出る奇跡みたいな攻略が面白かった。
これと似たようなことがあって、昔、湘南で見たライブに前座でカラテカの矢部太郎にひげが生えたようなラッパーが出てきたことがある。
ライブを見る前にそのガリガリでハゲて悲哀のある風貌に思わず「かっこいいラップが見た目で入ってこないから何か食べて」と心の中でツッコミを入れてしまった。
「おれはこうで、やるぜ金儲け!ついてきな、皆 put hand up!」(のようなないようであったと思う笑)
全然入ってこないんじゃーーーーー!と思った。
この時は観客の立場だった。
・良い点 一生懸命にプレイするスタイル、友達のようなフランクな人柄
・悪い点 スパッと判断できない、社員がトリマキみたいになってしまった
アンチグレアフィルムを動画でちょこちょこ宣伝するより、子供たちが求めているものをシビアに見極めないといけないんだろうなー
このぐらいの時期になると大体出て来るだろうなとは思っていたが、ついにいじめのような出来事が起こるようになった。しかしターゲットにされているのは自分ではなく、とある女子だ。
田舎なので自分の属する学科はたったの1クラスで生徒数も20人程度しか居ない。
学校の方針によりゼミ学習制度を行っているので、分からない事はグループ内の学生から教えてもらうというのが基本の学習方法である。
内容が全然頭に入ってこないからか先生が「○○さん、こっちを見て話を聞いてください」と言ってるのにも関わらず、いつも退屈そうに授業を受けているのでとてもじゃないが授業態度が決して良いと言えるものではなかった。
それだけではなく学んでいる分野の基礎的な事が全く理解できていないようで、分からない所を自分含め同じグループ内の人が教えるのだが全然分かってくれようとしないので教えるのにかなり苦労するような人だった。さらには授業以外では誰とも話そうともしないのでクラスでは明らかに浮いている。
やがて一部の男子がその女子の事を本人が気付いていないだろうと思って仲間内で馬鹿にするかのような行動を取るようになったのだ。
ドラゴンボールのアニメを定期的に見る。
別に熱狂的なファンなわけではないが、子供の頃から何度も再放送は見ているので何が起こるかは大体解ってる。
引き伸ばしの連続で毎回毎回やってる事はほとんど変わらない。
戦いのシーン⇒それを見ている解説者⇒別の場所でバカやってるギャグシーンの繰り返しだ。
とにかく進まない。進まないってもんじゃない。
界王様は「ナメック星が壊れるまであと5分!」とか何週間も言う。
戦いでは岩や地面の破壊が多用され、割れるにしろ落ちるにしろやたら時間がかかる。
山はとりあえず噴火するし水は間欠泉の様に吹き上がる。やっぱり時間がかかる。
カメラはとにかく舐めるようにキャラクターを写す。これもとにかく時間がかかる。
ようやく戦いが始まったと思ったら動きが早すぎるという理由で画面に映らなかったりする。
合間合間にとにかくにらみ合う。あるいはカオナシのようにあ…あ…っ!と繰り返す。
観戦者はそれをプルプル震えながらなんて戦いだ…っ!!なんて言う。
かと思えばブルマやチチがやかましく喋るギャグシーンが入る。
進むのが遅いので冒頭に入る前回のあらすじを見れば前回を見なくても内容は解るし、
次回予告を見れば次回を見る必要なんて無い。
ストーリーだって要するに、○○より強くなった××よりも強い△△が…の繰り返し。
天津飯やヤムチャはいくら修行しても前座にもならないし、
ピッコロはキーパーソンではあるが扱い程役に立つわけでは無く、
ベジータは流石にそこそこ強いので敵を一度は圧倒したりもするが学習しないので結局負けて、
結局のところ悟空と悟飯が覚醒してなんとかしましたって形にまとまる。
設定なんてあってないようなものだ。矛盾なんて山ほどある。
戦闘はグーで殴って強い方が勝ちで作戦も何もあったものじゃない。
ストーリーはご都合主義そのもの。行き当たりばったりで困った事はドラゴンボールで解決する。
どうせ生き返るのが解ってるから死人が出ても驚かないし悲しくもない。
名称 | スマホ対応 |
---|---|
落語協会 | してない |
落語芸術協会 | してる |
鈴本演芸場 | してない |
浅草演芸ホール | してる |
新宿末廣亭 | してない |
池袋演芸場 | してない |
国立演芸場 | してない |
上方落語協会 | してない |
天満天神繁昌亭 | してない |
芸協のサイトはスマホ対応しているし、PCサイトでは文字サイズの変更にも対応していて(もう少し大きいサイズがあってもいいとは思うが)好感が持てる。高齢の方には嬉しい配慮だろう。初心者向けのコンテンツやメルマガの内容も充実しており努力が見て取れる。いっぽう落語協会はスマホ対応しておらずコンテンツも芸協に引けをとっている。今後積極的に更新していくつもりはないらしく(金銭的な問題らしいが、このご時世にウェブを切るという判断は終わっていると思う)以前存在した落語家の紹介動画もどうやら削除されたらしい。見たことのない落語家をチェックするのに重宝していたのだが。
どこの協会も前座の情報が少ないのも気になる。おそらく前座の情報など出す必要はないということなのだろうが、これも時代を考えれば積極的に出していくべきだ。どこからファンがつくかわからない。個人的にはSNSの利用も解禁すべきだと考えている。年季明けや二つ目になってから始めるよりもよほどネットとの付き合い方がわかるだろうし、自主的に情報を出すことのできない芸能系の人間は今後生き残っていくのは難しいだろう。特に芸協は客が少ないと言われているのだから、新しい施策で落語協会との差別化を図ってほしい。
落語が伝統芸能かどうかには議論の余地があると思うが、少なくとも私は歌舞伎のように解説が必要な芸能にはなってほしくない(別に歌舞伎を貶める意図はないが)。古い世界なのだと思うが、時代についていこうという努力を強く求める。
【追記】
SNSの利用は特に禁止されていないはずだとのコメントがあったが、明文化されてはいないだろうが不文律や同調圧力のようなもので禁止に近い状態だろうと判断した。「前座に対してSNSの利用を積極的に促すべき」とするべきだったかもしれない。また前座がウェブ上で積極的に情報発信している例を一例しか知らないので(私が書いたような理由だったと思うが弟子にツイッターアカウントの開設を義務付けている師匠をひとり知っている。立川流の師匠だが慧眼だと思う)前座のSNSアカウントなどがあれば教えてほしい。落語家の名前を使わずに、本名で主に知り合いを対象に情報発信をしているのは積極的な利用とは言えないと思う。
自己プロデュース力も才能の一つというのはまったくもって同意するが、だからと言って協会が手を抜いていい理由にはならない。情報をまとめて閲覧できる環境の整備は必須と考える。
前座はプロではないという見解が、業界に古くから伝わるものなのか、どこかが公式で出している見解なのか、ブコメ主の見解は知らないが、これも個人的には意義を唱えたいところだ。人は立場に伴って責任を感じる。プロでないからプロになれるようにがんばれ、というよりは、もうプロなんだから立場に見合うようにがんばれ、というほうが人は育つというのが私の考えだ。
ツイ4っていうTwitterアカウント(以前座談会で炎上した)の連載陣のなかに
百合風味(可愛い女の子たちが仲良くしてる)の表現がある漫画と
BL風味(BLなんじゃね?と疑われてるネタとしての描写とか)の表現がある
百合の方は「もうこの2人がくっつけばいいのに~」「可愛い~」と概ね大歓迎なムードなのに
「普通BL描くときはアカウント分けるだろJK」とかボコボコに叩かれてる。
私の見た感想としてはどちらも漫画のなかの一つのネタに過ぎないのに、
こうも百合とBLで評価が違うとそれがノイズになって漫画自体が面白いのか
これってツイ4のユーザー層の傾向?
BL表現は無条件で叩いてOKっていう常識が広がったんだろう?
必要以上に隠れようと訴える一部腐女子がいるのは現状がそうさせるのかな。
【追記】
思ったより反応あったので頂いたコメントに対する雑感。
◯ 叩く人の声が大きいだけ
→ なるほど
→ あっ…ここでジェンダー論とか出ちゃうの凄くモニャる…(切っても切り離せないんだろうけど…)
女の人っぽいアカウントもあったから、一概には言えないですよね。
◯ 百合も叩かれている
→ お互いがんばろうね
→ 圧倒的納得!
考えたらツイ4ていうシステムの性質上、好む好まないに関わらず
百合・BL風味の漫画が強制的に目に入ってしまう。(タイムラインで流れてくるから)
普段は好んで読まない人を触発しやすい環境があるからBL叩きが顕在化してしまうのかな。