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はてなキーワード: 小田さんとは

2021-05-29

anond:20210529035109

草刈:そこは小田さんの作った設定で。ただ、当時のガンダムの色からすると意外な色ではあるんだよね。

川口:当時はMSで白もあまりなかったね。

草刈:赤は小田さんが「シャアに間違えられた」っていうのを書きたいがために(笑)

ってことらしいよ

2020-12-21

見取り図ネタは「正統派」でも「ちゃんとした」漫才でもないのでは

先に書いておきますが、私個人の考えとしては、M-1決勝に上がった方々は皆さん「漫才」をしていたと思っているし、どのネタもとても面白かったと感じています。 

このエントリーは、マヂカルラブリーやおいやすこがを「漫才ではない」と断定し、「ちゃんとした漫才をした見取り図が優勝すべきだった」とする意見への違和感きっかけとして書いたものです。

  

2020年M-1終了後、Twitterトレンド「見取り図」が上がりました。その中で多く散見されたのが、「見取り図が一番面白かった、優勝してほしかった」というもの

その気持ちはとてもよくわかりました。笑いの感性は人それぞれ。自分のツボにハマった人が最も面白いし、勝って欲しいと思うのも当然です。

ただ、その中で気になる意見がありました。「最終決戦に上がった3組の中で、『ちゃんとした、正統派漫才』をしていたのは見取り図だけだったから、M-1と冠するなら見取り図を勝たせるべきだった」というものです。決して少なくない方々がそのように呟き、トレンドを盛り上がらせる一端を担っていました。

  

ですが、その感想は的を射ていないと思うのです。

なぜなら、その方達が言うように「漫才」の定義にこだわるべきなら、見取り図そもそも最終決戦に上がれなかったことになるからです。

  

漫才は、辞典において下記のように定義されています

  

コトバンク

寄席演芸一種。2人で一組になり,滑稽な話題掛合で聞かせるもの

https://kotobank.jp/word/漫才-137921 より

  

Wikipedia

漫才(まんざい)は、2人ないしそれ以上の複数人による寄席演芸一種目。通常、コンビを組んだ2人によるこっけいな掛合いで客を笑わすものを言う。

(中略)

漫才基本的に、演者が「演者自身」として発話し、その会話の流れによって観客の笑いを呼び起こそうとする演芸であり、その点で、何らかの役柄や舞台設定を、扮装や簡単なセットによって提示するコントとは異なる。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/漫才 より

  

  

複数人間が、演者自身として滑稽な掛け合いをすることが漫才なのです。会話の掛け合いでなくてはならないとは書いていません。

マヂカルラブリー野田さん自身としての動きと村上さん自身としてのツッコミ。おいでやすこがは、こがさん自身としての歌と小田さん自身としてのツッコミで、しっかり掛け合いをしていました。

  

対して見取り図は、最終決戦では盛山さんとしてのツッコミリリーさんとしてのボケで掛け合いをしていましたが、1回戦では挨拶もそこそこにマネージャー大御所としての設定に入り、締めまでキャラクターを演じ続けていました。「ちゃんとした漫才」という定義にこだわってしまえば、1回戦のネタ正統派とはいえず、決勝の決勝には上がれなかったことになります

  

ただ、上記のようなスタイルの、いわゆるコント漫才というものは、サンドウィッチマンパンクブーブーなど、過去王者達も採用しており、漫才の1つのスタイルとして確立されていますほとんどの人が、漫才であるということに異論はないでしょう。私ももちろんありません。

  

私が言いたいのは、漫才正統派なんてないんじゃないか、ということです。

漫才スタイルは、時代に合わせてどんどん変わっていきます

コント漫才が、本来漫才定義とズレながらもスタイルの一つとして定着していったように、これからも多くのスタイルが生まれ定着していくことでしょう。

サンドウィッチマン伊達さんの言葉を借りれば、「センターマイクに向かって舞台から出てきて『どうも』と始まれば、それは漫才」なのです。

演芸としての枠が大きいからこそ、時代ごとの芸人さん達が新しい発明をしていき、内容を進化させ、思いもよらなかった角度で私たちを笑わせてくれるのだと思います

  

改めて書きますが、2020年M-1では、マヂカルラブリーもおいでやすこがも、見取り図も、もちろんその他のメンバーも、内容やスタイルが違っただけで、皆間違いなく素晴らしい漫才をしていました。

からしませていただきました。ありがとうございました!

2020-09-24

ハロコン2020中野公演(2巡目2日目)の感想メモ


全体的な感想

  • チケットが取れたのは8/23午前開演のCチーム公演のみ
  • 矢島舞美さんの最初アナウンス「お足元の悪い中」で,会場内に笑い
  • 曲目が変わって2日目(即ち2回目)ということで,皆まだ習熟し切っていない様子が感じられた
  • 曲目変更で当然変更前に他の人が歌っていた曲を歌う人もいて,双方が比較されるという意味ではなかなか厳しいなと思った

以下各チームの感想だが,表記は下述の通り:

  1. 歌唱者名: 『曲名

Cチーム: 0823

  1. 横山玲奈: 『あなたに会えてよかった
  2. 山﨑愛生: 『さよなら好きな人
  3. 竹内朱莉: 『最後の雨』
    • 出だしは緊張感が感じられた;1番のサビから調子が出てきて最後はさすがの歌唱だったと思う
  4. 岡村美波: 『M』
    • 低音があまり綺麗に出ていなかった;1番サビで声が裏返った
  5. 小田さくら: 『ロビンソン
  6. 植村あかり: 『会いたい』
    • 音程は良かった;中盤で声に少し震えがみられた
  7. 橋迫鈴: 『キミを忘れないよ』
  8. 笠原桃奈: 『雪の華
    • 竹内版に比べて,声の豊かさは不足気味に感じられた;高音は(一部不安定だったが)綺麗に出ていた
  9. (岸本ゆめの: 『糸』)
  10. 宮本佳林: 『First Love
  11. 山崎夢羽: 『香水
  12. 一岡伶奈: 『明日へ手紙
  13. 谷本安美: 『もしもピアノが弾けたなら』
    • 声量以前の,おそらく肺活量の問題で声が出ていない
  14. 工藤由愛: 『未来へ』
    • 音程良かったと思うが,棒歌唱に感じた;川村版と比べて情感に欠けていたように感じられた
  15. 牧野真莉愛: 『卒業写真
    • 声がベッタリしている以外スキル的に問題はないが、情感が謎に欠けていた
  16. 清野桃々姫: 『手紙拝啓 十五の君へ~』
    • すごく良かったのだが,唯一地声裏声との切り替えに課題を感じた
  17. 浅倉樹々: 『オリビアを聴きながら

この回は前述の通り全般的クオリティが低く感じられたが,その理由はおそらく曲目が変わって2日目(2回目)のパフォーマンスということで,まだ習熟度が低かったためではと考えている。

そんな中であえてベスト歌唱を選ぶとすると,清野さんと宮本さん。清野さんは難度の高い奇曲を高いレベルで歌い切っていた。宮本さんは少しリズムに揺らぎを感じたが,基礎がしっかりしていて,何よりも声と歌い方に特徴があり,何を歌っても「宮本佳林の歌」になるのは強みだと思う。

次いで序盤の前2人からの流れを立て直した竹内さんと,難曲を高いレベルでこなした山崎(夢)さん,浅倉さん。その後に植村さん,小田さん,笠原さんが続く,というのが個人的感想

cf. anond:20200801054353

2020-09-11

フェミニスト無視する男性性犯罪被害

>>小田さんが抗議すると、馬乗りで顔を殴られ、口を使った性行為強要された。

>>「嫌だ」と言うたびにペナルティーのように殴られた。

>>病院電話し「性被害に遭ったので診断書がいる」と伝えると、男性なのに産婦人科につながれ、断られた。

>>たらい回しにされるSOS。もうやめよう、と思った。

https://www.nishinippon.co.jp/item/o/342357/

2018-09-12

パジャマパーティーしたい

マンガに出てきてふと思った

一番は女の子になってすることだけど、2番めは子どもに戻ってすること

小学校修学旅行で夜同クラの男の子とふとんに入って好きな女の子を言い合ったことは今でも覚えてる

男でも夜好きな子トークするんだぞ!!!女の子専売特許だと思ってるやつは謝罪しろ!!!!!

きな子・・・ほんとは橋爪さんが好きだったけど恥ずかしかたから2番めに好きな小田さんって言っちゃったんだよなあ・・・

大体他のやつもそれで、なんとなくみんなが、ああ・・・ってなったあの微妙雰囲気・・・

小学校高学年の性に目覚めた男の子、いいよねえ・・・

パジャマパーティーしたいなあ・・・チラッチラ

2018-09-10

[]2018/09/09

海外のグレートレースに出てる

トップタラタラ走ってると足先に痛みが走る

ヘビにかまれた!なんか意識が遠くなってくる気がする

慌てて、レースに出場してた小田さん小学生ときクラスで2番めに好きだった子)のお兄さんに電話する

それをなぜか俯瞰で見てる俺

小田さんのお兄さんはかなりのペースで走っててこりゃ追いつかれるなと思う

オチは覚えてない

グレートレースの別場面

小学校とき友達と二人で走ってる

夕方になったから休もうかっつってそいつに聞くと、そいつは愛犬のシベリアンハスキーと深夜0時からまた走り出すっていう

から仕方なく自分もそれについていこうと考える

ただちょいっとまって!といって旅館荷物取りに行く

旅館には荷物たくさんあるけど誰もいない

2017-11-24

ナイス忖度!!

今年の流行語大賞候補にもなっている「忖度」という言葉

元々の意味は「(相手気持ち、望むことを)思いはかって」行動するというものなので、

決してマイナスなことだけではないはずだけれど、

大物政治家やら、大手芸能事務所やら、権力を持つもの迎合するような

「しなくていい」忖度ばっかりが目立ってしまい、

正直良い印象を感じることは少ない。

そんな中で、昨夜、思わずナイス忖度!!」と叫びたくなるような出来事があったので記しておきたい。

世間はい夫婦の日勤労感謝の日というこのタイミングに、

私は妻も放置し、仕事に追われており、

ラジオを聴きながら、仕事場で机に向かっていた。

流れていたのはNHK-FM祝日にの放送している今日は一日〇〇三昧」

一人のアーティスト特定テーマについて、

日中、そのテーマに関する音楽をかけ続けるマニアック番組

アニソン特集ときなどはネットでもかなり話題になるので、

ラジオを聞かないという人でも、なんとなく知っているという人も多いかと思う。

で、昨日のテーマは「今日は一日、小田和正三昧」

オフコースとしてデビューしてからまもなく半世紀

古希を過ぎた今もなお、あの澄んだ歌声武器

第一線で活躍している小田和正さんを

実に10時間以上にわたって特集するという。

番組MCを務めたのは、

今春までNHKの朝のニュースの顔であった阿部 渉アナウンサー

実は学生時代からガチオフコース小田和正ファンでもあるらしい。

今夏にもNHKBSで放送された番組で、

小田さんへのインタビュー担当しており、

それに続いての登板である

通常、この〇〇三昧というシリーズでは、

そのテーマアーティストにまつわるゲストスタジオに多数登場し、

賑々しく放送されるパターンが多いのだが、

今回はなんとMC阿部さんと小田和正さん本人のみ!!

小田さんは途中休憩を挟んだものの、

から夜までほぼ出ずっぱりで、

その他のゲストは一切なし!!

年に一度、TBS系で放送される「クリスマスの約束」を除いては、

滅多にテレビラジオに出演しない小田さんが、

これほど長時間にわたって、しかも生番組にでるなんて・・・

(しかも正直この年齢で)大変思いきった番組だった。

が、そんな番組にもかかわらず、

特に大きく宣伝もされていなかったせいか

事前にはあまり話題にのぼっておらず、

私もたまたま偶然ラジオをつけて知った口である

(ある意味今日仕事をしていてよかった・・)

番組はひたすら小田さんの曲をかけて、

その曲にまつわる話をしていく

合間合間にリスナーからメールツイートを紹介したり、

小田さんにゆかりのある人物から

小田さんにあてたメッセージを流していた。

大学の元同級生、植樹しにいったという被災地の人、

さらに同時代活躍した元チューリップ財津和夫さんといった音楽仲間

心地よい歌の数々に癒されながら、

仕事を続けていたら、

終盤にさしかかった夜9時前

わず手を止めてしま事件が起きた。

オフコースとして1982年まで一緒に活動した鈴木康博さんが登場したのだ。

オフコースを知らない世代にはピンとこないだろうけど、

これは結構大事だ。

例えるなら先日のabemaTVにおける元SMAP3人と森くんの"21年ぶりの邂逅とでも言おうか・・。

小田さん鈴木さんは、中学高校同級生で、

そのころから一緒に音楽をはじめ、

それを母体に作ったバンドオフコースである

当時は大学進学率も低く、

まして国立上位の大学を出ているメンバー

ある意味エリートとみられ、

音楽の道で夢を追って生きていくなんて・・とかなり咎められたそうだ。

特に鈴木さんは上場企業への就職内定していたそうで、

その軋轢は大変なものがあったという。

当時のインタビューによれば、

そうした親や周囲の反対を押し切って進んだ道だからこそ、

絶対に「成功しなければならない。」という意識を強く持っていたそうだ。

小田さんもそれは同じで、建築を学んでいたのに

なんといっても卒論タイトルが「建築との決別」である

全てを投げうって音楽の道をまい進する決意を固めた二人は、

1976年に追加メンバーを迎えるまで、

二人組として活動した。

「僕の贈り物」、「でももう花はいらない」、

「眠れぬ夜」、「愛の唄」など今もよく聞かれている名曲もたくさん生まれているし、

それなりにファンもいたのだが、

今を基準にすればまったく無名といってよく、

今日番組でも、さだまさしさんからメッセージの中で、

「(当時)よく一緒にライブに出ていたが、オフコースの方が先輩にもかかわらず、

(さだの)グレープの方が先にヒット(精霊流し)して有名になってしまい、

前座のような状態にさせてしまって恐縮していた。」というような話が出てきていた。

苦労時代が長く続いたあとで、

オフコースデビューから10年経った

1979年に「さよなら」という曲が大ヒットしたことで、

一気にブレイクを果たした。

そこからヒット曲を連発するようになり、

武道館での連続10日間にわたるコンサートなど、

当時、日本一の人気バンドとなった。

しかし、その「さよなら」をはじめとしたヒット曲は、

すべて小田さん作品であり、

世間オフコース=小田和正というイメージ認識していく

長く続いた人時代は二人の関係は対等で、作品もそれぞれ作っていた。

そもそもレコード会社がつけた二人組時代キャッチコピーは、

(男二人にかかわらず)

日本カーペンターズである

私はそれを言うなら、本来日本レノンマッカートニーだろ!!と思うのだが、


それこそ同時期に、同じ東芝レコードに在籍したチューリップレコードに、

財津和夫さんが「和製ポールマッカートニーを自認」と書かれているので仕方がなかったのかもしれない。

それはさておき・・


レノンマッカートニーのような関係だったはずが、

メンバー、バックのギタリスト扱いになってしまたことは、

鈴木さんを相当に傷つけてしまったようだ。

鈴木さんはオフコースからの脱退を申し出て、

事実1982年6月武道館コンサート最後バンドから離れ、ソロへと転向する。

小田さんはその後も残ったメンバーオフコースを続けたが、

結局1989年バンド解散し、その後、本格的にソロ活動を開始。

そして「ラブストーリーは突然に」を手始めに、

小田和正としても大ヒット曲を連発していく

のちにオフコース解散について、

ヤス(鈴木さん)が抜けた時点で、もはやオフコースではなかった」と認めており、

解散までオフコースに残ったメンバーの一人、松尾一彦さんも

「僕らではヤスさんの抜けた穴は埋められなかった」と語っている。

脱退後、二人の間では交流はなくなった。

もともとは同級生で友人だったはずだが、

オフコースとして活動していたときも、

飲みに行ったり、一緒に出掛けたりといったこともほとんどなかったという。

実際、脱退の直後には、

鈴木さんが「別に友達ではない。電話番号も知らない」的なことを言っていた時期もあった。

そこだけ切り取ってよく不仲という見方もされるが、

どちらかといえば、仲のいい友達同士というよりは互いに一目置き、

切磋琢磨して、真剣音楽に向き合ってきたライバルであり、仲間だったのだろう。

(そのへんもなんだか、最近SMAPの一件と重なって見えないこともない。)

はいえ、

元・赤い鳥山本潤子さんや、

後輩・THE ALFEE坂崎幸之介さんなど、

小田さん鈴木さんの両者と仲がよく、共演するミュージシャン仲間がいたりもして、

願わくばオフコース再結成・・・ という声はあった。

しかしそうした話題がのぼるたびに、

ことなくピリピリした空気が流れていたのも事実

実際に数年前、TBSの「風のように歌が流れていた」というテレビ特番の中で、

暗にオフコース再結成は「もう、ないよ」と否定する発言もしている。


ただ、音楽を愛し、真剣に向き合ってきた二人だし、

互いにその存在を認めていた二人であったことも事実

から不器用で意地っ張りで、口下手な二人を

誰かが再びくっつけてくれることを、

ファンとしてはどこかで期待していたのだけれど、


それがまさに昨日で、

その誰かが阿部 渉アナウンサーだったというわけだ。

事前に小田さんにはまったく知らせていなかったらしく、

本当のサプライズであったようで、

鈴木さんからの肉声のメッセージが流れてきた直後、

「すごいところをついてきた」、「消化するのに時間がかかる」と動揺を隠せず、

そのあと思わず涙がこぼれていたようだ。

(ラジオなので見えないのだが、阿部アナも同じく)


鈴木さんからメッセージは、

オフコースとして一緒に音楽をやっていた時代が今では「宝物」に思えるとし、

あの澄んだ歌声や才能が羨ましかった、たくさんのことを教えてもらったと、

当時どんな想いで小田さんとその音楽を見つめていたかを振り返りながら、

最後は(お互いにいい年となったけれども)

それぞれの音楽を頑張ろう という形でまとめたもの


「もう一度いっしょにやろう、再結成しよう」みたいな発言は一切なし

それでも・・・、雪解けというか、

35年もの間、伝えられなかった気持ちが伝わった瞬間というか、

何かが変わるような期待と空気に包まれた瞬間だった。

人の気持ちを思いはかることはとても難しい。

でも誰かが動かないと、

動かないときもあるし、動けないときもある。

昨日はそんなことを考えることができた。

仕事の方はちょっと遅れ気味になったけど・・

(ごめんなさい。)

2017-04-21

[]2017/04/20

覚えてるのは大きく2つ

1個目

閉店間際の駅の売店にいったら、こんにゃくピザが半額になっていた

よくカロリーオフこんにゃくラーメンとかあるけどあれのピザ

生地が全部こんにゃくからもちあげるとふにゃふにゃしてる

直径10cmくらいのピザが4つ入った真空圧縮パックみたいな感じ

迷って、買わなかった

2個目

学校プールくらいの大きさの室内プール

泳いでるのは自分とあと2,3人

途中でスク水の子が入ってきた

俺が小学校ときクラスで2番目に好きだった小田さん

目の端でちらちら盗み見てた

そしたら小田さんが、にこにこしながら急に何かをポーンと投げた

それは小田さんから5mくらい離れた水面に落ちた

なんだなんだと近づいたらおっぱいだった

(正確には人間を寝かせて輪切りにした胸部部分)

うひょっ!!!と思って興奮した

その後すぐ、いや待てよ・・・ここにおっぱいがあるってことは・・・と思って小田さんを振り返った

そしたら小田さんが、

おっぱいはいいけどさすがに股間はダメだよ~」みたいに言いながら股間を両手で隠してた

そっかー残念って思った

小田さんの胸部はポッカリあいてて向こう側が見える状態だった

なんでこんな夢みたかと考えるに、

小田さん小学生にしては胸が大きいほうだったのと、

たまたま同じスイミングスクールに通ってて偶然同じ時間のレッスンだったとき乳首が立ってたのに興奮した、子供時代まばゆい記憶が、今こんなゆがんだ形で夢となって現れたと思うと、何か不思議な感じがする

2017-04-08

アイアムアヒーロー、最終巻読んでから1巻よむと、てっこがもってた英雄漫画PNになる前の初版のやつで、地味にそんな細かい所にこだわって書かれてたんだなあとじんわりした

んで続けて、てっこのアシ時代ビジュアルが、小田さんとクリソツで、ああそういうこともあったのか・・・と今更発見して、さらにじんわりした

1巻よみおうぇあった

やっぱり1巻おもしろいなあ

発売当初何も知らずに立ち読みしたときの衝撃を思い出すわ・・・

最終巻でひでおハゲてるwwwやっぱ帽子ぶってるとはげるんだな、みたいなコメントあったけど、

2巻の最初てっこから髪の毛つかまれときに、頭皮弱いんだってばって言ってるから帽子ってのもあるかもだけど、ひでおのもともとの体質ってのもあるんだなってまた再発見

2009-07-24

佐野元春の「ザ・ソングライターズ」Vol.1 「小田和正・1」(2/3)

(1/3から) http://anond.hatelabo.jp/20090723033558

佐野:で、小田さん、ぼくね、オフコース時代からの曲、それから小田さんソロ時代の曲、ずっと聞かせていただいて、ぼくなりに、あ、この詩はいいな、と思ったものを一曲選びまして、ね、スポークンワード・バージョンメロディーなしでその詩をリーディングするっていうのを試してみたんです。

小田和正の「the flag」(アルバム個人主義』収録)の背景の説明)

小田和正の「the flag」の、佐野元春朗読

佐野:どうですか?

小田:いやあ、人の詩みたいな。ちょっと自分が書いたっていう感じがしなかったですね。不思議なもんで。

佐野:そうですか。

小田:ぼくが読まなくてよかった(笑)

佐野:そんなことないですよ。

小田:いやほんとに。

佐野:ぼくらつねに言葉音楽がついているので、音楽言葉を切り離すっていうのは普段はしないわけでね。こうして第三者が、ぼくのような他人が、詩だけ切り取って作者に見せるっていうのは、なかなか勇気のあることだったんです。しかられるんじゃないかって。

小田:いえいえいえ、すばらしかったです。てめえの詩が、ねえ、はなはだ横柄だけど、いやあ上手に読まれましたねえ(笑)

佐野:はい(笑)

(会場笑)

ゲストに同じ質問をしていく、定型質問のコーナー)

佐野:ぼくね、もうものすごく聞きたいことなんだけど…、ソングライターを志したきっかけは、なんだったのか。

小田:そもそもは音楽が好きだったっていう。自分が曲をかくようにななるなんて思わなかったわけですからね。それでも音楽やりたいっていう。たぶんその、音楽がほんっとに好きだったんですね。

佐野:影響を受けたソングライターは?

小田:それはもう数限りなくいるから…。絞れないですね。出会った音楽全て、っていう。

佐野小田さんの世代だと…、ごく一般的ですけど、ビートルズ

小田:はい、ビートルズですね。

ビートルズ「A Hard Day's Night」)

佐野:常に空気のようにあったんじゃないかっていう。

小田ビートルズ

佐野:はい。

小田ビートルズはねえ、もう何回も…、だからもうビートルズはもういいか、みたいな。今更ビートルズっていう…、おれらにはいつまでたってもビートルズがいるのね。すごいなと思うね。

佐野:一種の古典のような。

小田古典だね。すごくシンプルだし。シンプルだけどよく聞くとタダのシンプルじゃない。おれはビートルズを聞くと必ず思うことは、もちろん力はあったと思うけど、若者が中心となったっていうかなんかのグルーヴみたいのが、なんかの現象でうわーっとなってあそこに集まっちゃったんじゃないかなっていう気がするんだよね。

佐野60年代の中盤。テレビメディアなんかが一般的になりましたから、あのビートルズの持っている楽しいグルーヴが、一気にこうメディアを通じて、全世界に広まって。

小田:その、力以上っていっちゃうとちょっと語弊があるけど、その以上のものがどんどんできちゃったんじゃないかっていう。しか思えないような曲がいっぱいあるもんね。

佐野奇跡グループだよね。

小田奇跡だよね。

佐野デビューシングルについて。ヒットしたんでしたっけ?

小田:ヒットしなかったんだよこれが(笑)

佐野:あー

小田(笑)

佐野:でもやっぱり最初にかいた曲ってことで、何気ない愛着のようなものがるんじゃないですか?

小田:いや、それはね、その、どうやってかいていいかわかんないし、手がかりを何かに求めるしかないんじゃないかなって…。それで、ぼくはもうしつこく日記を書いていたんですよ。何年間ももう。休まずにかいて。そこになんかヒントはないかなっておもって。そうしてこうやって探しているうちに、ちょっと手がかりがあったんで、あこれいいんじゃないの、って。

佐野日記がひとつのヒントになったわけですね。

小田:その後もなんか日記ネタが、って、でもそれ一曲だけだったですね(笑)

佐野(笑)では、好きな言葉は?

小田:「やってみようぜ」ってのが好きなんですね。

佐野:例えば、歌詞の中で何回ももう繰り返して、どうしても使ってしまう言葉、なんていうのは、ないですか?

小田:それはもうね、とっても風好きなんですよ。風がどうしたとか。

佐野:風、多いですか(笑)

小田:風、多いですね(笑)風好きなんですよ風ね。風好きだから、「また風かよ」って言われても、ほんと平気なんだけども、まあやっぱりいろいろなんでもかんでもでてきてもあれだなと思って…。ほんとは全部風でもいいんだわ(笑)

(会場笑)

佐野:次は、映画。好きな映画は?

小田映画はね、「ローマの休日」好きですね。

佐野:ずいぶんロマンティックですね。

小田:あー(笑)

佐野:他にやりたい職業は?

小田:ちっちゃいときはほんとに野球選手になりたかったですね。

佐野:どこのファンでした?

小田ジャイアンツでしたね、やっぱり。でも、足もそんな速くないし、遠投もたいした事ないし。なんといってもやっぱりいちばん、挫折したいちばん大きな理由は硬式の野球部がなかった、っていうのが。軟式しかやったことがなかったんで、これじゃだめだろうなあ、と。

佐野:絶対やりたくない職業は?

小田音楽やっても、その、いつまでにかかなくちゃみたいなのがあるともうほんとに辛くて。まあみんなそうだと思うんですけどね。

佐野:締め切りでしょ? ぼくもヤですね。

小田:ね。連載をかかえている漫画家っていうのはね、ぼくはね、いっつも漫画見てて思うんだけど、この人毎週大変だなーと思って。

佐野:でも、小田さんは、いついつまでにかいてくださいって言われれば必ず約束を守る、って。

小田:守るんですねー(笑)

佐野:そう聞いています。

小田:ぼくはね、期限とか守らなかったことないですね。

佐野:すばらしい。

小田:守る方ですか?

佐野:ぼくはね…

小田:へへへっ、守れそうもないね(笑)

(会場笑)

佐野(笑)ぼくはね、締め切りがあるとどうしてもそれがプレシャーになっちゃって、逆にこう、なんかね、集中できなくなってしまって。だから、できたら渡すから、って。

(会場笑)

小田:そうすると、でも、ねえ、組み立てようがないよねえ。

佐野:そう、いつまでだってもビジネスに結びつかない…

小田:じゃあその、詩なり曲、作り上げて、自分としちゃイマイチだなーと思いつつも出さざるをえない、だから出した、みたいなのはある?

佐野:ない。

小田:あ、ない?

佐野アルバムの中で、12曲入れようって、で16曲くらい録って。で、アルバムに全部入れたいって言われても、この4曲は気に食わないのでアウトテイクにします、って、自分の入れたい曲だけを入れる。

小田:えらいね。

佐野:うん…。でも、後になって聞くと、そのアウトテイクになった曲がよかったりして、なんで入れなかったんだろうって。

小田:あぁー。

佐野:でも、そうだね、約束は…最初っからあんまり取りつけない。

小田:そうだよね。

佐野:はい。

小田:その方がいいよね(笑)

佐野:はい(笑)

(会場笑)

3/3ヘ続く)http://anond.hatelabo.jp/20090723033748

2009-07-23

佐野元春の「ザ・ソングライターズ」Vol.1 「小田和正・1」(3/3)

佐野:死ぬ前に、愛する人に残す伝言は?

小田:もうイメージ近いからね…。へっへっへ(笑)あー、やっぱり「ありがとう」でしょう。

佐野「ありがとう」

小田:うん…、ありがとう、でしょう。

佐野:そうですね。

小田;うん。

佐野:はい。…じゃあ、最後の質問。小田さんは人のために曲を書いてるのか、それとも自分のために曲を書いているのか。

小田:…まあ、人のためにはあんまり曲をかかないだろうね。…でも最近は、タイアップとか、そういういやらしい要素が絡んできて(笑)、要するに、ドラマをやっている人たちが発注してきてとか。でも、その、ドラマをやっている人の思いっていうがあるだろうから、できるだけそれに近く書いてあげたいな、っていう。…だから自分から、その、進んで曲を書くときは、なかなか誰かに向かって書くっていうことは、まあとにかくあんまりないですね。

佐野:まあ、自分のために書くときは作家性を重視して、で、人のために書くっていうときは、あるいは商業性を、ね、取り入れているのかななんて思って。もちろんぼくらは大衆音楽ポピュラー音楽エンターテイメントに接しているわけだから、誰かのこと楽しませることが、一義にありますよね。でも、そうした環境の中で、どうしても自分作家性、アーティスト性がエゴとして片鱗に出てきてしまう。それを押さえつつ、商業性も考えつつバランスよくできる人…、仲間たちをみてるとね、様々だなあって思うんですけどね。小田さんは、どのへんで?

小田:結局、歌うのは自分だからね、その、なんいうか、商業性になんかすごくこう浸食されたようなものは、歌ってて自分がその多分気持ち良くないと思うんだよね。

佐野:そうですよね。

小田:だから、歌うときの自分を考えると、どうしてもどっかに作家性が、素直に歌うためにはね、出てくるわけで。それを無理矢理、こう、しといて…、誰かに歌わすっていうとまた別のものが出てくるかもしれんだろうけど、自分が歌う限りはそれをいつも考えて。素直に歌えるものが、まずは辿りつきたいな絶対、なんて。

佐野:(質問終了して)どうもありがとうございました。

小田:いえいえ(笑)

(会場拍手

ナレーション1979年「さよなら」からのオフコースについて、「生まれ来る子供たちのために」について)

佐野:「生まれ来る子供たちのために」これは1980年作品だと思うんですけど、これはシングル曲としてリリースしようとしたときに、なんかレコード会社から文句を言われたって話、聞いたんだけど…

小田:ぼく…、ぼくは言われてないけど

佐野(笑)

小田たまたまその前のシングルが「さよなら」で。

佐野:大ヒットしたシングルだよね。

小田:「さよなら」っていうのはね、別に否定はしないんだけども、でもなんか自分にとって、その、もちろんオレが作ったに違いないんだけど、いつまでも他人の顔をしているような、なんかそれこそ商業的な、なんかこう歌ったら喜ぶのかなって…。もちろん自分が歌ってて不快なことはないけども、なんかこうちょっと自分から距離があるような…。それがまあ最初に売れたシングルだったから。

佐野:うん。

小田:で、次のシングルっていうことで、レコード会社はそれに当然、それに準じたものがすごく売りやすいんだよね。あまり考えないから。「さよなら」第二弾みたいなのが一番売りやすいわけね。聞く方もけっこうそれを待ってたりするから。で、オレは…、けっこう理屈っぽい人間だから、こんなときは必ずみんなが、次の曲はどんな曲だろうって聞いてくれる一番のチャンスだと思ったから、ある種本来っぽいものを、まあさっき言ったような、同級生に聞かせるような、小難しい、問題定義みたいな、やっぱりずっとそういう生活だったから、だから問題定義をするような、…「さよなら」はあんまり問題定義してないからね(笑)

佐野純粋な愛の歌。

小田:問題定義をするようなのが自分が学んできた路だから、そういうのが常にあるんだろうね、こういうチャンスだし、それはそれでユニークだし。レコード会社はそこを組んで欲しいなと思ったりするんだけど、まったくそういう懐の深さみたいなのがある人なんていうのはほとんどいないわけで。

佐野:ああ。

小田:今は時代が変わってきたからね。でもまあ当時はそんなこともあって、で、何考えてんだ、みたいな。で、ぱっと聞いたときに、ああこれはこう来たなみたいに理解してくれる人はなかなかいなかった。

佐野:なるほど。この「生まれ来る子供たちのために」小田さんの中ではどのような曲として位置づけていますか? 先ほどから、なにか同世代にアピールしたい曲だったっていうふうにおっしゃってますけど。

小田:この曲に関しては、日本、っていうことを、すごく、純粋に…若いときはプライド持ちたいし。欧米はかっこいいなと思っているその裏で、なんとか日本を、本気で日本を好きになりたいっていう思いがあったりして。こういうテーマは常にありましたね。この先いつまでもこんなんじゃしょうがないだろ、みたいな。だからわりと本音の、そういうふうに思って書いた曲です。

ナレーション:「生まれ来る子供たちのために」について)

小田シングルとして出しててよかった、ってね、時間が経つとね。…その、シングルを出した当時は、うんともすんとも反響がなかったけれども、今年20年30年経ってから「あの曲が好きだった」とか言ってもらえると、なんかね、ああ良かったんだ、みたいな。

小田和正「生まれ来る子供たちのために」スタジオライブ映像

(了)

佐野元春の「ザ・ソングライターズ」Vol.1 「小田和正・1」(1/3)

こんにちは佐野元春です。

毎回、音楽文学に興味がある学生達が参加します。

テーマは歌詞。つまり、音楽における言葉一体どのように産み出され多くの人に届いていくのか、学生達と探求していきます。

ぼくは、ポピュラー音楽のソングラーターこそが現代の詩人なんだと思っています。

記念すべき第一回のゲストは、シンガーソングライター小田和正さんです。

(始業のチャイムの音)

ポップソングは時代の表現である。時代を超えたポエトリー。ぼくはそう思っています。

佐野元春の「ザ・ソングライターズ」、それでは開講です。

(生徒達の拍手の音。ジングル

佐野:こんばんは。「ザ・ソングライターズ」、今日は第一回目ですけれども、一回目に相応しいゲスト今日は呼んでいます。紹介します。小田和正さんです。

学生達から拍手

小田:こんばんはあ(と言いながら登場)

佐野:こんばんは。どうですか、大学の雰囲気は?

小田:いやあ、緊張しましたね。

佐野:そうですか。

小田:はい。

小田和正の曲をバックに、プロフィール紹介)

ナレーション:…小田和正さんのソングライティングの世界に、佐野元春さんが迫ります。

佐野今日は集まってきてくれたのは大学生ですので、小田さんを紹介するのにまずここからぼくは紹介したいなと思ったのですが、神奈川県横浜市出身、東北大学工学部、その後早稲田大学理工学部建築修士課程卒業、なんですね。ということは、若かりし頃は建築勉強をなさっていた?

小田:そうですね。ぼくは建築科になる予定でしたね。

佐野:そうですか。

小田:うん。

佐野:ぼくちょっと単純に思うんだけれども、建築デザインっていうのは、音楽デザインと共通するところがあるんでしょうか?

小田:まあ何もないところから作るっていうのは、まあ一応共通しているけれど、やっぱ最終的にディテールを決めていかなくちゃいけないいっていうところ、具体的に言うと、ぼくは、音楽は、たとえばサビへむかっていくときはこう盛り上げてってサビにはいるみたいのが、そこは最後に決めばいいじゃんみたいにほっとくことが多かったんだけど、その、建築課題で、トイレ階段を必ずつくらなくっちゃいけないって。

佐野:ああ。

小田:で、階段とか面倒くさいじゃん? で、そこを最後に描いて、で二階に繋がっていく感じとか、そこがずごく「トイレ階段」に似てるなと思って(笑)それで、最終的にそういう規格に入れてやるとき(?)「ああ、後はトイレ階段だ」って自分に言い聞かせてやったりしてたけど、だんだん、もう30年もやってくるとそういう感じもなんかなくなってきたね。

佐野:うん。ぼくと小田さん関係は、だいたい小田さんがぼくの10歳くらい年上、そうすると、60年代末から70年代、そのころの時代背景はよく言われるところの団塊の世代、ですよね。そうすると、政治の季節、世代はその中でもスチューデント・パワーなんて言ってずいぶんと荒れていて授業なんかできる状態じゃなかった、と。学生達が理想を強くアピールした、まれな時期だったと思うんだけど。そう考えると、歌の、取るべきテーマがたくさんあるような時期だったと。

小田ストライキとかやってた時期だったからね。大学立法もあったり。でもそれは歌にならなかったね。

佐野:そもそもぼくたちが詩をかく、曲をかくっていうのはきっかけがあると思うんだけど、最初に曲を作る、詩をかく、作曲をなさるのは、いろいろと苦労しました?

小田;しましたねー。

佐野:ぼくも。

小田:しましたか。

佐野;はい。

小田:ぼくらは、その、オリジナルを書く、ということを、ようやくまわりがスタートしだした時期だったから、まあ拓郎さんが出てきて、なかなかこう神秘的なね…。それでね、実はぼくは早稲田に行ってるころ、そこのすぐ近くに千歳橋、っていう交差点があるでしょ、あの近くのアパート借りて、そしてそっから早稲田に通ってたんだけど。で、学生しながらそんな仕事をやってたり。で、バンドで部屋に集まってオリジナルを書こうって話になって。

佐野バンドっていうのは初期のオフコースメンバー

小田:はい。で、曲なんて書いたことないからどうかいていいかわかんない。でも作ろうって言って。でね、まだ覚えてるんだけどね、「いーつでもー♪」って、いうの、作って、「おうできたじゃん」って。で、その後なんにもできないで一日終りました(笑)

佐野:あー(笑)

小田:どうにもにっちもさっち(笑)コピーすることと作ることは全然違うじゃない? 

佐野:はい。

小田:全然違うんだよね。アマチュアのときはうまくコピーできればできただけウケる、みたいな。まあ、プロっぽくなったときに、どんなに洋楽をうまく演っても全然ウケないんだよね。

佐野:初期は、小田さんが独占的につくるというよりは、4人による共同作業?

小田:けっきょくね、同級生がひとりいたんだけど、そいつと二人で手分けして作っていくっていうのが最初のスタイルで。で、基本的には、歌いたいことないから、

佐野:そうだったんですか?

小田:全然なかったですね。で、コピーしてきた曲は、まあ、たわいのない愛の歌か、それからまあ当時の反戦フォークみたいな。で、戦う相手みたいなのがはっきり見つかる時代じゃなかったから、戦争もないし、だからなかなかメッセージソングっていうのは…。それでもまあ泉谷にしても拓郎にしても、青春ののたうちまわっている感じを歌にして。でもなかなか無理があって…。で、そのときいつも意識にあったのは同級生のことで。

佐野:あー。

小田:同級生が聞いたらどう思うだろうって。あいつ、建築やめてまで何やってるんだろう、って思われるんじゃないかってね、脅迫観念みたいのがあるから、それも書けない。じゃあ何を書いたらいんだろう、みたいな。それで…。今は聞いてくれる人がいるじゃん? その人たちに対して書くっていう、なんかその横暴性みたいなのが。当時は聞いてくれるやつなんていないわけだから。だから、同級生がどう聞くんだろうみたいなことが大きなテーマだったね。

(続く)

 
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