はてなキーワード: ブログ記事とは
この文書で何が批判されているか知りたいだけの人は、一番下の節「まとめ」までジャンプ。
清水先生の講演についてここ一週間くらい悪口をTwitterで書いてた江口先生に、それブログに纏めてよと言ったら気が乗らないと断られてしまったので
「うまい人びとは、前に書いた辞書的定義や約定的定義や明確化定義や理論的定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます」
と最新のブログで書かれているのを、清水先生の講演を題材に自分なりにスケッチしてみる。
続き、というか中間にあたるのだが「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセル・カルチャーってなんだろう」を書くかは未定。
つまり、この記事は書き起こしで言う「Part1 〜学問の自由とその濫用〜 」の検討が中心だが
最後の方で全体を対象にする前に他のPartの検討を書くべきところ、途中で力尽きている。
とはいえだいたいPart1の検討とほぼ同じものを繰り返すだけ
を先に見ていることが前提。
の説明はほぼ書かないので、分からなければブログを参照するように。
1998年 国際大学協会(IAU)声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」による定義です。
「学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由」
人びとがその言葉をどう使っているかを国語辞典の載っているような形で説明している。
「一般的には、〜〜、というふうに考えることができる。」
「従来はそして一般的には、〜〜、というふうに理解されています。」
世間一般の用法という文脈なわけですから、当然、スライドの引用の言い換えに相当する語釈が、聴衆には予期される、
同じく 辞書的定義 が与えられようとしているものと解釈されます。
実際に与えられた定義を見てみましょう。
ある種の公の定義であるIAU声明に対する言い換えとして、清水先生による定義を読んでみると一つ気にかかるところがあります。
と非常に具体的な形になっています。
世間一般の用法として紹介される割には、議論のあり得るところで
「こういうのは多数派も少数派もない、学問の独立って話なんですが、多数派からの圧力は特に抵抗しにくいので」
というふうに説明するほうが世間の認識とあっているように思える。
とはいえ、ここまでならば、代表的な「外部からの圧力」を並べただけ、ただの例示ゆえに言い換えの範疇であり、辞書的定義のままだと受け取ることもできる。
ただ、ここで私が書きにくくて困ってしまうのが、清水先生が「具体的に」何を批判されているのかさっぱりわからないことです。詳しくは後の節でも取り扱います。
「現代の誰かが主張している「学問の自由の侵害」とは、〜〜だ」と、清水先生が定義していると読める箇所を、少し文言を修正の上、抜き出します。
見事にすべて 説得的定義 ですね。江口先生のブログで挙がっている
「中絶とは、女性を望まない負担から解放する安全な外科的処置である」
などと同じ形式となっている。
ただ、読みながら何を論じているのかわからなくなって辛くなってしまうのは、
中絶の例ならば、中絶の 辞書的定義 は共有されているという前提のもとで、 説得的定義 を用いているのに対し、
清水先生は、この文脈での「学問の自由の侵害」とは 辞書的定義 の学問の自由の侵害とは全く異なるものだと論じていることです。
(下の2節は「どう論じているのか」という細かいレトリックの解説なので
どう辛いのかについては、「批判対象の曖昧さ、具体性の欠如」でページ内検索してジャンプ。)
これらは学問の自由の侵害の定義として読むことができるものであり、
先に導入された説得的定義「社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立て」とは対義の関係にある。よって等号で結ばれることはありえない。
ゆえに、「従来から論じられてきた一般的な節(辞書的定義)」学問の自由ではない、という論証。
しかし、これはIAU声明にはなく清水先生が付け加えた箇所のはずですね。
先程はただの例示と見ればという限定をつけて辞書的定義と認めました。
逆に言えば、「そうでなかったら学問の自由でない」というふうに使うならば、もはや例示ではなく、清水先生の独自見解です。
すなわち、この時点で辞書的定義として導入された学問の自由という概念が
「学問の自由を〜と私は定義します!」という約定的定義へとすり替えられているのです。
一旦まとめると、
「よくわからないものを」「なんか悪そうに定義して(説得的定義)」、
「その悪そうな要素にぴったり当てはまらない要素を、一般的な定義の中に紛れこませる(定義のすり替え)」
学問の自由とは
「力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、 研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのもの」
まさに、
「うまい人びとは、前に書いた辞書的定義や約定的定義や明確化定義や理論的定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます」
そのものですね。
この一節は憲法学の理論を援用しているため、少し強引ですが理論的定義を示したものとも言えるでしょう。
実際、この定義を根拠に「学問の自由の侵害」を「なんか悪そうに定義した」説得的定義に対し
これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
なぜかけ離れているのかというのは詳しく述べられていませんが、
要は憲法学の理論「憲法は原則としては国家権力を監督するものであり、私人間効力の議論も私人相互に大きな権力差がある場合の話である」という話でしょう。
権力差をどう捉えるか、例えば「学界から事実上キャンセルできたというのは、権力差があったといえるのではないか」というのが憲法上の論点になるわけですが、
そこを 説得的定義 から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図でクリアするわけです。
ここまでいろんな種類の定義を用いたレトリックが使われてきましたが、
正直なところ、説得的定義から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図を用いた時点で
直感的にはそれは学問の自由ではないでしょうという話になります。
ゆえに最も問題になるのは、そう定義されるのが具体的になんなのかです。
清水先生は「こういった言説が具体的にどう現れてきたのかご説明したい」と30分近く説明してくださっているのですが、
書き起こしを全文検索してもらえればわかるのですが「学問の自由」を直接的に濫用している例として挙げられているといえるのは、
Horowitzによる、Academic Bill of Rights (ABOR) のみです。
ほか間接的な繋がりとしては「ポリティカル・コレクトネス」「キャンセル・カルチャー」の事例が話されているのですが
これも抽象的な定義の操作に時間を割いていて、具体的な文脈はほぼない。学問の自由とどう関係するかも全くと言っていいほど書かれない。
詳しくはそれぞれをどう定義しているのか、という点を検討する必要がありますが、
これは別の記事「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセル・カルチャーってなんだろう」に譲り、
当記事「(1) 学問の自由ってなんだろう」では、直接的な例、ABORに絞ります。
清水先生はABORを曲解して参照しているのではないか、という指摘もあるのですが、
とりあえずここは論点にせず、清水先生の解説をそのまま採用します。
ABORの主張は、
「ナチスの政治哲学の擁護であるとか、あるいは進化論の否定であるとか、 そういうものを学術的に正当な主張の一つとして教えるべき」
「ナチス肯定論文を学問の自由で擁護することはできない(マルコ・ポーロ事件)」じゃないですよ?
むしろ、何が相手だろうと自由であると肯定する、過激な自由論者ほど否定する内容です。
「大学でナチスの擁護を正当な主張の一つとして教えるべき」、自由でもなんでもないじゃないですか。
まとめると、
最終的には、そして本質的には、清水先生は「学問の自由」について議論の余地のないことしか言っていません。
じゃあなんで議論になるのか。
清水先生の立場からすれば、「学問の自由」の濫用だと当然問題視しているであろう例が
清水先生にとって非常に身近な例であるはずのそれは2例あります。
このちょうどいい2人については講演では全く触れない。
特に後者の呉座先生については質疑応答で「学問の自由」を求めている人として名前が挙がったにもかかわらず、
「ちょっとわからない」「詳しくない」「法律の専門家ではない」「裁判をはっきりきちんと見ているわけではない」「労働争議であって学問の自由ではないんじゃないかなぁ」
との返事。
「そうです。呉座さんの事例こそが私が批判した「学問の自由」の濫用です」ではなく「詳しくない」。
訴訟の原告の1人であるからには詳しくないわけはないのですが、文字通り解釈するならば
この「学問の自由」の濫用批判において、呉座先生の事例は検討すらされていない、ということになる。
またこの回答の続きとして、呉座のことを言っているわけではないという注釈付きで、「学問の自由では擁護できない」例が出されました。
せめて多少は「学問の自由」と文脈がつながるように「酷いセクハラ・パワハラを長年犯してきた超一流哲学者が大学から追放されたことを、学問の自由で擁護はできない(ジョン・サール事件)」くらいにしましょうよ。
文脈がわかるくらい解説をつける具体的な例については、当たり前を超えてもはや関係のない例しか出さない。
それでいて、批判対象に対して一般に共有されるような辞書的定義には触れないで、
何を批判しているのかも厳密には不明確なまま、説得的定義に対する抽象的な定義操作を元に議論を行う。
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3920s
Sara Ahmed, "You Are Opressing Us!"
「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うためのプラットフォームを与えられ続けたり、あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時、そこにはいつもパフォーマティブな矛盾がある。しかしそれだけではない。そこであなたが目にするのは、権力のメカニズムなのだ。」
「自分がすでに抱いている信念を裏付ける証拠を求める欲望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。
侮辱的な言語行為が次々と述べられるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだという証拠を望んでいるから、である。」
この枠組みを非常に早い時期に的確に指摘したのが、イギリスのフェミニストとして知られるSara Ahmedです。
2015年のブログ記事でAhmedは、ガーディアン紙に掲載された、これ別の書簡なんですがこれも公開書簡です、
「個人に対する検閲や口封じを許すことはできない」というタイトルの公開書簡を取り上げます。
トランスジェンダーについてあるいはセックスワークについて特定の批判的見解を持つフェミニストたちが、
大学で沈黙させられているというふうに主張するものでした。ちょっとここ分かりにくいんですけど、
2015年の英国のこの文脈では、沈黙させられているというふうに主張しているフェミニストたちというのは、
階級的にもそれからジェンダー・モダリティという点でも、いわば多数派の側になります。
Ahmedは、公開書簡で取り上げられている例というのが実際には、特定の見解を理由にした検閲だったりノー・プラットフォーミング、
ノー・プラットフォーミングっていうのはイギリスの運動なんですけど、
イギリスの学生運動の中で採用されてきた戦略で、非常に危険で受け入れ難いと見なされた見解とか信念、それこそネオナチとかです、
そういうものを公開する機会そのものを提供しない、そういうのがノー・プラットフォーミングといわれるんですが、
ただAhmedは、この公開書簡で取り上げられている例が実際には、
そういう検閲とかノー・プラットフォーミングには当たっていなかったということを、事実を確認した上で、
にもかかわらずこれをあえて、キャンセル、検閲、口封じ、ノー・プラットフォーミングという形で主張することで、
これAhmedの引用なんですが、
「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うために
そういう発言をするためのプラットフォームというのを実際には与えられ続けていたり、
あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時に、そこにはいつもパフォーマティブな矛盾がある。
しかしそれだけではない。そこであなたが目にしているのは、権力のメカニズムなのだ。」。
検閲され口を封じられたはずの側がより力を獲得する、そういう目的のためにされていると。
だからこそ、検閲され口を封じられること、言い換えればキャンセルされることというのは、ここではむしろ求められている。
キャンセルされたいんですね、どっちかっていうと。
次の引用ですが、
「自分がすでに抱いている信念を裏付ける証拠を求める希望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。
侮辱的な」、これoffensiveですね、「侮辱的な言語行為が次々となされるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、
他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだというその証拠を望んでいるから、なのである。」。
だからキャンセルされると、そのキャンセルされた人ということでどんどん力が集まって、むしろキャンセルされたい。
キャンセルされるために、より侮辱的な、よりoffensiveな言葉が発せられるという、そういう仕組みができてるというのが、
Ahmedの見立てなんですね。
「この書簡は、フェミニストの発言は自由になされるべきで、健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話を可能にするものだ、と考えている。しかし、トランフォビアや反トランスの発言を、ハッピーなダイバーシティの食卓で自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消するべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、対話などしようがない。あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議や対話」をするとしたら、「討議や対話」はそれ自体が抹消のテクニックになる。特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである」
学問あるいは言論の自由というものを支点とした、抑圧側と被抑圧側の逆転の構図、
表現を変えるのであれば、抑圧されて周縁化されてきた側からの異議申し立てを封じるための口実、
今日の報告では、90年代からこの図式が少しずつ洗練されつつ引き継がれた様子っていうのをざくっと見てきたわけですが、
その図式が現時点で到達しているのが、自由が侵害された口を封じられたという主張が、
実は封じられることもなく自由に繰り返され拡散されることで、力をさらに獲得している、
クリックとアルゴリズムの時代のキャンセル・カルチャーというパワーメカニズムだ、ということになります。
だからこそ私たちは、国家や強力な組織、経済あるいは社会規範の要請などから、学問の自由というものを守ると同時に、
現代の今2022年時点の学問の自由というのが、もろ刃の剣であること、学問の自由の特定の利用には警戒すべきであるということを、
忘れてはならないと思います。
最後にこういう自由の濫用というものをサバイブするためにAhmedが提唱した戦略を引用して、私の報告を終わりにしたいと思います。
健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話を可能にするものだ、というふうに考えている。
ハッピーなダイバーシティの食卓で自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。
食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消すべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、そこに対話など存在しようがない。
あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議あるいは対話」をするとしたら、
特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである」。
ありがとうございました。
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
2022.7.24 一般公開シンポジウム 「フェミ科研と学問の自由」
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI
長いため講演部Part1~Part5+質疑応答の6部に分割する。
分割の境界はスライドにある番号に従うが、副題は増田の判断である。
スライドはすべて図表のない文字ベースのものであったため、引用記法を用いて本文に組み込んだ。
講演部については、「女性スペースを守る会」が公開している文字起こしをベースに、
増田が誤字の修正や、句読点の変更、改行の追加などの編集を行った。
まず、江口聡先生による、8/9のブログ記事は必読だと考える。
加えて、講演に対する批判として書かれたものではないが、一般論として「キャンセル・カルチャー批判」的な立場で書かれたベンジャミン・クリッツァー先生の記事、
なども参考になる。これら2記事は、江口先生も講演に欠いている「ミルのタイプの言論の自由の擁護」として紹介されている。
また、あまり整理がされていないが、この講演に対するTwitter上の批判的な反応を一覧できるものとして、
他、法学の専門家による分析という点で他になく注目に値するものとして、
(あと、この書き起こしを編集している私自身も手前味噌ながら批判記事を書いている。「清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう」anond:20220809001101 )
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2457s
40:57~48:23
清水さんは東京大学大学院総合文化研究科で教鞭を執られています。
研究関心としては非規範的な身体と性の政治、とりわけ身体の他者性、自己表象と生存の戦略、可視性を巡る問題などがあります。
最近は英語圏のフェミニズムおよびクィア理論史を改めて辿ることにも興味があるとのことです。
主な著作に、
Lying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision、英語の本です、2008年、
「埋没した棘――現れないかもしれない複数性のクィア・ポリティクスのために」、2019年、
『フェミニズムってなんですか?』、2020年、などがあります。
清水晶子:
はい、ご紹介ありがとうございます、清水晶子です。もうそのまま入っていきますが、
本日は「学問の自由とキャンセル・カルチャー」というタイトルで報告をしたいと思います。
少し方向性が違うかもしれないんですが、よろしくお願いします。
学問の自由とは
「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」
学問の自由というところからいきたいんですが、学問の自由とは何を指すのか。
政府なり場合によっては非常に強力な宗教だったり経済的な権力だったりというところからの圧力を受けることなく、
さらに言えば個々の研究者が、大学当局だったりとか大学の経営陣あるいは多数派の社会的通念・経済的な要請などからの
不当な干渉や抑圧を受けることなく、学問的良心と手続きとに従って真理を探究する自由、というふうに考えることができる。
例えば、1998年の国際大学協会声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」という文書があるんですが、これによると
「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者・教員・学生が、
倫理的規則と国際的水準に関して学術的コミュニティが定めた枠組みの中で、
そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」というふうにされています。
学問の自由というものの基本がここにあるというふうに考えると、フェミ科研裁判の文脈における学問の自由の主張というのは、
ある意味まさにここに相当するもの、王道の部分というふうに言うことができるというふうに思います。
「過激な性教育・ジェンダーフリー教育調査プロジェクトチーム」
残念ながら、日本でフェミニズムとかマイノリティの政治に関わる研究者にとって、
今言ったような意味での学問の自由というのは、必ずしも安定して保障されてきたものではない。
だからこそ、その必要性というのはしばしば痛感もされてきましたし、主張もされてきました。
2000年代前半のフェミニズム女性運動へのいわゆる「バックラッシュ」いうのがありまして、
ここでは与党自民党のプロジェクトチームにおいて、ジェンダーという語それ自体の使用に疑義が提示されたりしている。
2014年には、いわゆる「従軍慰安婦」問題を取り上げた広島大学の研究者の授業というのが、
先ほども産経新聞出てきましたけど、ここでも産経新聞ですが、産経新聞によって吊し上げにあって、
批判や抗議が大学に殺到し、日本科学者会議広島支部幹事会が学問の自由の侵害であるというふうにして、
産経新聞に抗議をする、声明を出すという事態になったりもする。
もちろんさらに記憶に新しいのは、2020年日本学術会議の会員任命拒否ですね。つまり当時の菅内閣総理大臣が、
日本学術会議が会員候補者として推薦した内の6名の任命を拒否した、というかしなかった件ですよね。
この任命拒否については、憲法23条の保障する学問の自由を脅かすものであるというふうにして、
2011年11月に、日弁連が「日本学術会議会員任命拒否の違法状態の是正を求める意見書」というものを総理大臣に提出をしていると。
この意味での学問の自由の重要性というのは、本日のシンポジウムのいわば前提になっているものだというふうに考えます。
差別的・抑圧的な言説に対して政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを「学問の自由の侵害」とする言説
その前提をご確認いただいた上で、私の報告は少し角度を変えて、学問の自由という主張や枠組みがどう利用されているのか、
もう少し強く言うと、どう濫用されているのかでもいいかもしれないんですが、それを考えたいと思います。
今申し上げたように、従来はそして一般的には、学問の自由というのは、
国家とか、強力な宗教団体、経済団体、多数派の社会通念や経済的要請、などなどの圧力を受けることなく、
研究者の社会的通念と研究の手続きに則って真理を探究する自由を指す、というふうに理解されています。
力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、
研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのものです。
ところがこの学問の自由の主張が、全く逆のベクトルで利用されることがある。
すなわち差別的・抑圧的な考察や言説に対して、政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを、
これは「学問の自由の侵害」であるというふうにする言説、というのが見られるようになっている。
これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
けれども法的な解釈とは別のところで、こういう言説上の戦略というのが一定の効果を持ってきているのも事実です。
二面での闘い
結果として、フェミニストとして学問の自由を考えるにあたって、
私たちは一方では、フェミ科研裁判のように国家による学問の自由の明白な侵害というものと闘わなくてはいけない。
けれども同時にもう一方で、学問の自由というのが、差別的あるいは抑圧的な現状を追認し、
抑圧されてきた側からの異議申し立てを封じる目的で動員されるということに対して警戒をしなくてはならない。
学問の自由を巡っては、フェミニストには現在そういういわば両面での闘いというものが要請されている。
この現状は忘れるべきではないと思います。
実は今日、私からお伝えすべき論点はそこに尽いているので、ここで報告終わってもあんまり問題ないっていう感じなんですが、
ちょっとさすがにそれでは簡便過ぎるので、この後の時間を使って、
こういうタイプの、マイノリティの権利主張を抑圧する目的で動員される「学問の自由の侵害」という枠組み、
この言説というのが具体的にどう現れてきたのか、
これが非常に大きな論点になってきた英語圏の動きというのを中心に、簡単にまとめてご説明したいと思います。
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
今日は週末明けでまんぼうでたりするのかしら。
昭和生まれにも平成令和にも、生きるのが難しい世の中でこまる。
もっとお祭りとかして生きる喜びを味わい(味わわせ)たいのにな。
あとコロナでジムにいけてないことがマジでいのちにかかわってる。脂肪肝。
それと最近ゲーム攻略だの政治だの表現規制だのについての感想をたくさんメモっただけの弊ブログ記事を
昭和前期生まれの親が細かく見ていることが当たり前になってて(電話で内容についてむこうから切り出してくるもんね)、
なんだか居心地悪いし申し訳ないんよね。
こんど帰省したときこっそりブクマ削除してやりたいくらい(いじわるって泣かれるからやらんけど)。
でもその電話で親の妹が空調なしの部屋で倒れた話されたんよ。
私は統一教会2世として生まれて、成人してから徐々に信仰が薄らいでいまでは信仰は無い。死ぬほど貧乏だったり精神病んだりで色々とツラい思いもした。
だから統一教会とも関わりたくないしたくさん愚痴を言う場所もほしい。
でも、反カルトにも近づきたくない。反カルトの核心に近づけば近づくほど、統一教会信者を暴力的に拉致し監禁してきた「拉致監禁ビジネス」と縁のない者の割合は薄れていく。いまテレビで活躍している弁護士だってかなり怪しい。下の資料は「青春を返せ訴訟」(統一教会を霊感商法関連で訴えた有名な裁判)で原告側代理人だった伊藤弁護士の証言だ。彼が統一教会の信者側に立って証言するのはあまりにも不利益が大きい。それゆえに真実性がある。本当にあの弁護士たちは大丈夫なのか??
http://antihogosettoku.blog111.fc2.com/blog-entry-112.html
相手がいくらカルトであろうと、信者を路上で10人がかりとかで無理やり車に連れ込み、窓やドアも全て南京錠をかけて部屋に閉じ込めて何ヶ月も時には十年以上も監禁するのは、人権侵害以外の何物でもない。
この拉致監禁を直接に実行するのは親族だから、反カルトは「家族との話し合い」などと言うが、近い知り合いに被害者が複数いて内情をよく知っている自分としては、こんなもんは「話し合い」ではなく「拉致監禁強制棄教」としか言いようがない。反カルトの例外的な逸脱でもなく、これが常態化していた。だから、近い知り合いに被害者が複数いるのだ。被害者は数千人に及ぶはずだ。ツイッターでも拉致監禁経験者(統一教会を脱会したから統一教会にも批判的だが拉致監禁にも反対している人達)は探せばいる。
いま話題になっている統一教会関連の学術書を書いている人だって、著書の中で拉致監禁に関与した人物を「脱会カウンセリング」の専門家として紹介している。アカデミアの腐敗もいいところだ。
どうせこの機会に統一教会の闇はたくさん暴かれるからそれはそれでいいのだが、反カルトの闇は放置されるのだろう。
こんな状況じゃ信仰を棄てた2世としては誰も頼れない。正義の味方のふりをしている社会が憎い。
追記1
これは統一教会側の人のブログ記事ではあるけれど裁判資料に基づいているので無視もできない内容。統一教会研究第一人者の櫻井義秀は、「拉致監禁強制棄教」経験者を「自発的脱会者」としてカウントしているという告発。事実なら研究不正。統一教会も関わりたくないが反カルトの欺瞞はもっと気持ち悪い。
http://suotani.com/archives/2198
追記2
拉致監禁されて脱会した人の中には監禁の時のトラウマでずっとPTSDで苦しむ人もたくさんいる。監禁中に脱会説得者(牧師であることが多い)にレイプされたケースもある。餓死寸前に追い込まれた人もいる。自殺した人もいる。人権侵害のてんこ盛りみたいなものだぞ。これじゃどっちがカルトなのかわからない。
クリスが病院へのクレームを書き込んだ医師へのブログ記事に反論出来るものならしてみろや!
https://mhlworz.blogspot.com/2018/08/blog-post_10.html?m=1
2018年4月30日づけで、ブログにコメントを頂いておりました。ありがとうございます。
ある病院に入院したら、不本意な形で家族を失ったことが切々と書かれています。
非常に長文でした。最初はですます調だった文章が、しだいに生々しい感情がほとばしる強い文体になります。
ただ、これはよくある話ですので、取り上げたいと思います。別に私は全国の医者代表ってわけでもないですし、その病院を擁護するつもりも糾弾するつもりもありません。 一個人として好きに書かせていただきます。
●経過
投稿者の身内の高齢者が、インフルエンザ後に「肺炎」と診断されて入院しました。
受診した理由は書かれておらずわかりません。年齢も基礎疾患も不明です。
ただ、もともと元気な方らしく、「まだまだ普通のものも食べられてたし、歩くこともできていた」程度のADLで、普段から「ストレッチや散歩、体操等」のほか、誤嚥しないよう食事に気をつけており、いつも「120歳まで生きて新聞に載ろうね」と話すほどの健康意識の持ち主でした。家族としても、入院の理由が納得いくものではなかったようです。
そんな方が、入院で「医療的な拷問」を受け続けた結果、亡くなったというのです。「元気でまだまだ生きる気力のある人をちゃんと手を尽くしたのではなく、故意にさんざん傷つけ弱らせ弱らせ亡くなるようにされた」と。
病院のみならず、市役所の対応にも不満を訴えます。入院中に要介護認定を受けることとなり、市から認定調査員が来ました。「今の季節は?」と質問され、4月なのに暑い日であったので、本人は「夏」と答えました。そうした木で鼻をくくった対応で、書類を仕上げて出ていった市職員の態度も屈辱的だといいます。
●誤診?
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おかしいなと思ったがインフルエンザは治ってしまったし、CTの影は上のほうは全く綺麗なものだったのにだから全く延命なんて段階じゃなかったし、
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呼吸器専門医の資格を持つ私としては、肺炎を侮るなということにつきます。
素人目には下肺野だけに異常があったとしても、たちまち悪化することもしばしばです。
第二位:心疾患
第四位:脳血管疾患
第六位:不慮の事故
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最初にお年寄りというだけで全部一緒にしてすぐに緊急時の延命治療の話である。
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朝、にこにこ家族と面会していた高齢者が、夕方になって呼吸状態がみるみる悪化して今際の際をさまよう、ってことは経験しないとわからないかと思います。緊急時には挿管して人工呼吸管理をするほかないのですが、医者の判断で処置した後で、「こんなこと頼んでない」とか「家族の総意ではない」とか言われると我々も頭を抱えます。こういうわけで、入院したら最初に今後どうするのかを聞く病院も多いでしょう。
たしかに信頼関係もできてない中で、「急変時の対応はどうします?」と医者にいわれたら、「貴様、うちの家族を治す気ねえだろ!」と憤るのもわかりますけどね。
●喀痰吸引
肺炎だと痰が出ます。高齢者で心不全を合併しているとさらに痰が増えます。通常は吸引して気道を開通させます。
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部屋にいると「いきなり痰を取ります」と、「痰を取らないと窒息の危険がある」と管をどんどん突っ込む拷問。それによりまず口封じ。悪くなる種作り。
アッと気づいた時には管を目いっぱい突っ込んでる。肺や声帯がどれだけ傷つけられてるかもわからない。その後はどんどんどんどん痰がたまってくる。そのたびに痰取りの拷問。患者が何か言えば痰取りの拷問、何か要求すれば拷問で声を出せなくされ、伝わらないようされてる。
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まるで看護師が喀痰を吸引したから痰がたまったか、のような記述です。
「口封じのため」とか「痰取りの拷問」とか穏やかではありません。
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喉から入れる管が入れすぎていないかなどと言うと、鼻から入れてさらに苦しめる。
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コミュニケーションがうまくいかなかったようですね。面会時間帯に張り付いている家族がいたら、医療職はひと声かけてから処置します。無言でゴリゴリ吸引するような看護職はまずいないでしょう。
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(とろみであまり好かないお茶ではあるがあまりに痰取り方法が酷いので)痰をお茶で(胃のほうに)流し込みたいと言った時も、看護師に完全に否定され、また管をつっこんで痰取りの拷問、どうしようもない。
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痰を胃に流し込む、という新提案です。
まず基本的なことがわかっていませんね。
「痰」は口の中にある唾液とは違います。気管や気管支の奥をふさぐ分泌物です。それが口の中に上がってくると、道路でおっさんが「カーッ、ペッ」と吐いているあれになります。この方はそこらへんを取り違えているのでしょうね。
口の中に出てくる前の気道分泌物を吸引するには、相当深くまでサクションカテーテル(いわゆる管)を突っ込む必要があります。介護職が実務者研修で習うのは、せいぜい口の中とか鼻腔の中とかまでですから、そんなに悶絶することはないでしょうが、生き死にがかかった病院だと、奥深くまで容赦なく吸引せざるをえないこともしばしばです。痰づまりを解消したいと思っても、外勤先で気管支鏡が置いてなく、カテを奥深くまで突っ込んで救命したこともありました。
絶食にされているようですので、嚥下機能も相当落ちていたのではないかと思われます。むせることもなく、静かに誤嚥するわけです。お茶を飲めば、胃ではなくて肺に押し込むことになり、肺炎の再発・悪化やむなしとの判断かもしれません。
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息が詰まってはいけないと当たり前のように言われる吸痰ですが、私の親が高齢にもかかわらずもんどりうっていました。入院前は取ってもらったこともないのに急に奥まで突き刺すように入れられて。何か間違っていませんか?
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それもそのはずで、入院する前は痰の量が多くないのですから、取る必要はありません。
状態が悪いから痰が貯まるのであって、それを放置していたら換気不全→低酸素血症→窒息死でしょう。スタッフとしても吸痰しないほうがよっぽど楽ですよ。夜勤なんか特にそうです。なにより、わざわざ手間のかかる喀痰吸引を「拷問のため」にする医療者がいるとは考えにくいですね。私が看護学校で教えるときには、「1 回の吸引時間は最大でも10秒以内。処置を始めるのと同時に、息を止めてみましょう。相当苦しいのがわかります」と伝えます。むやみやたらと行うわけもなく、モニターを見たり聴診器で呼吸音を聞いて、必要な限りで処置するものです。
吸痰を「必要がない」「納得できない」というのなら、退院すればよいのです。
好きなものを好きなだけ食わせて、誤嚥するならすればよく、そうやって想いのままに人生を閉じるのがよいと考えているのなら、自宅で大往生すればよいわけで、病院をご利用頂く必要はないのです。そういう方こそ、責任を取りたくないのか、文句を言いまくりながら病院にいたりしますが。
●超理論
独自の理論にこだわる身内は、必ずいます。そして私らが説明してもあまり理解を示されません。理解を超えると陰謀論に及ぶことがあります。
うちのじいちゃんは病院に苦しめられている。命を狙われている。
↓
【1】必要性も考えず、ひたすら手を動かすことだけで「やっべ、私すげー仕事してる。超イケてる(死語)」と満足感にひたる看護職がいる
【2】患者を苦しめて喜ぶようなサディスティックな看護職がいる。
【3】患者を苦しめて状態が悪くなると、検査だ処置だと余計な出費ができるので、病院が儲かる。
(1)も(2)も、医療職がずいぶん信用されてないなーと思います。まず(1)ですが、処置やらなにやらをすれば記録したり、物品補充などの手間が増えます。若いうちは仕事を覚えようと必死でしょうが、ある程度の経験を積んだらあまりやりたくないのが本音です。(2)は人間の内面まではわかりませんからなんとも言えませんが、怪しい行動をしていたら組織内でチェックされます。看護師の世界はピラミッドのような序列がありますから、同調圧力も半端なく、そういう人は端々に異常さが見え隠れしますので、まず浮くでしょう。
(3)は、寝たきり老人がいるような療養病床では、パック料金(包括払い、いわゆるマルメ)なので検査や処置をすればするほど赤字ですから誤解です。
実際、こんなコメントもありました。
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アホなことをした。バカなことをされた、悔しくて仕方がない。
こっちは治療と思うから病院を信じ医者や看護師の言うことを信じて色々次から次、伺いを立ててきたのに禁止ばかりされてそれがただの拷問だったとは。まだまだ考えられるあらゆる治療とされてきたことが全部病院の策略だったななんて。治るように治療してもらえるはずの専門の技術を持った病院じゃないのか。
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そんなことをして一体なんの得があるでしょうか。
ヂアミトールを点滴しまくって「殺戮の天使」になったナースも中にはいますが、我々は基本、患者のためにと仕事する生き物です。心身ともに楽な仕事でもないのに、せっせと人殺しをしていて何のやりがいを感じられましょうか。
●クレーム
思路が独特な方に対しては、何度も何度も説明しても理解が得られないことがあります。それゆえにトラブルになることも多いです。担当医で納得しないと、「院長を出せ、土下座しろ」から始まり、保健所に通報、警察や県などに相談、Google mapに☆1つをつけてコメントで誹謗、ブログやツイッターで書き散らすなどもしばしばです。ベストと思うことをやった上でも、「人殺し」だのと罵られますから、メンタルを保つのはなかなか大変です。
ヂアミトールを点滴した容疑者の心情はまったくわかりません。が、彼女が働いていた終末期医療の現場でも、余命幾ばくもない方を静かに看取るというはずが、忍者屋敷のようにあちこちから思わぬ横槍が飛び出してくるために心身ともに疲弊し、看護職としての仕事に絶望し、倫理観も麻痺し、やってはいけない行動に出てしまったという側面があるのかしれません。
医療職も患者・家族の側も、お互いにリスペクトする間柄になれればいいのですが。
日本でもできる「安楽死」「尊厳死」について、医者として質問に答えます。
https://docs.google.com/forms/d/1nwfWK0bg3ILwCWzdYpF1eu4MjgRpuTn5Szb6-uMQo4s
数ヶ月前のことだ。少し前から体を悪くして医者を探していた母が、面白い医者を見つけたがどう思うかとLINEでYouTubeのURLを送ってきた。動画を再生すると画面の中で吉野敏明と名乗る人物が、科学と愛、そして波動について講演を始めた。
波動と愛の話 吉野敏明先生8月1日講演会ダイジェスト - YouTube
…
- 「宇宙全体とは、実は波動です。色即是空、ブラフマンは全て振動だというインドの考え方。2000年以上から分かってた。薬で治るというのは洗脳」
- 「蛇口から流れる水に24Hzの周波数を聴かせると形が変わります。周波数をかけると水の形すら変えられるんです」
- 「これは周波数を測定するメタトロンという機械で、みなさんが出してる周波数が測定できるんです。これで体をスキャンすると、正常なところは黄色で、悪いところが赤や黒で出てきます。これは遺伝子のところの周波数ですが、これがつながって人間になる、つまり波動の集合体がみなさんなんです」
- 「波形を調べると、統合失調症の周波数とか、腎臓がんの周波とかが出ている、でもまだ病気になっていないというのが出てきます」
- 「波形で感情もわかります。忍耐・愛・悲しみ・安らぎetc。癌の人は皮肉とか嫉妬。この波形は愛の周波数です。嫉妬や親切心も波動でわかるんです」
- 「ある人、私じゃないですががね、吉○敏○さんという人は、以前は不平不満や嫉妬、復讐心といった感情でいっぱいでした。メタトロンで心臓の血管の波動の色を見ると真っ黒!心筋梗塞の周波数が出ていました。でも心筋梗塞と同じ周波数の漢方を飲みまくったらきれいに!感情の周波数も羞恥・洞察・冷静沈着・勇気に変わったんです」
- 「ペットは死んだ時、死ぬまでは苦しみや痛みが出るが、死ぬと大体友情が出る。最後は愛になって波動検知できなくなる」
- 「知り合いの保育園で園児を測らせてもらったが、生まれた瞬間は愛しか出てこない。神様がそう言う周波数を出すプログラムを作ってあるんです」
- 「私は毎朝4時半に起きて、『今日も、創造主である神様おはようございます』と瞑想します。そうすると感情の波動が知的洞察冷静沈着勇気に。これやると体の病気の周波数も消えるんです。だから、毎日毎日こういうことをやるってことが、医学的にも正しいんです。科学と宗教はおんなじもの。創造主を崇拝する。種の掟という因果を研究する量子物理学なんです」
- 「食べ物で猛烈に感情は変わります。食品添加物とかトランス脂肪酸とかの人工物、石油から作ってるオーガニックじゃないものを食べてる人はガンが多くて、心も汚染してるんです」
…
……頭を抱えてしまった。
吉野の講演の巧みさは、個々の事実が全て嘘というわけではないところだ。提示される断片的な事実には正しいものも少なくない。だが事実と事実をつなぎ合わせる論理が支離滅裂で、スピリチュアルな「波動」「メタトロン」「創造主」に繋がっていく。食品に関する危機感を煽るのも忘れない。
いっぽうで吉野は講演中「ホースから流れる水に24Hzの周波数を聴かせると形が変わる」という動画を引用している。以前ネットでバズって、私もどこかで見たことがある動画だ。「周波数の不思議な力」をアピールする狙いだろう。しかし残念ながらこれはストロボ効果を利用したトリック映像だ。トリックの原理は ここ で読めるが、 こっちの動画の方がわかりやすいかもしれない。つまり、原理的には車のCMでホイールの回転が止まって見えるのと同じで、ホースの振動とカメラのフレームレートが同期していれば周波数自体は何ヘルツでも良いし、肉眼では単に震えるホースから水がビチャビチャ放たれているようにしか見えないのだ。
調べるとこの吉野なる人物、波動療法を標榜する「誠敬会クリニック銀座」の院長であることは確からしいが、同HP掲載のプロフィールによれば医大も出ておらず、歯科医師の免許しかないようだ。講演内で自分の専門は再生医療で年間200症例のオペと紹介していたが、それは嘘らしい。
さらに、どうやら吉野敏明は「参政党」なる政治団体の共同代表を務めているという。初めて聞く団体名だ。参政党は「神谷宗幣」「吉野敏明」「赤尾由美」「武田邦彦」「松田学」ら”ゴレンジャー”と呼ばれる中核メンバーからなる政治団体らしい。ホームページやその他周辺の主張を見ると、若者向けを装ってはいるが「日本人のための」「天皇を中心とした」「歴史認識」を訴えており、思想的には極右に近い。
赤尾由美は大日本愛国党の党首の姪で、先程のセミナーの動画を配信していた「株式会社Amour」のYouTubeチャンネルに頻繁に出演している。この会社は『日本の文化「和」の心の継承をめざす』と銘打ち、Webデザインや映像制作とともに和の心系スピイベントの開催や祈祷済みの塩などグッズの販売のビジネスを展開しているようだ。他にも放射能デマ、ワクチンデマで有名な武田邦彦が参画している。なるほど、どうやら参政党はスピリチュアルと愛国、陰謀論を基盤に国政政党を目指す政治団体らしい。吉野敏明は支持者から「よしりん」と呼ばれ親しまれているらしい。よしりん…。
吉野敏明周辺をもう少し掘ったところ、吉野は「メタトロン」の他にも新型コロナに効くという「シオンテクノロジー」という水を、「新型コロナウイルス対策はこれだ! シオンテクノロジーで不活性化」と題して「世界日報」web誌上およびYouTubeのViewpoint公式チャンネル「国益ネット放送局パトリオットTV」上で宣伝していた。こちらも内容はめちゃくちゃで、ノイズキャンセリングで使われる逆位相の原理を医学に応用して、コロナウイルスに量子力学的に「シグナル」を与えて不活性化するのだそうだ。
この動画の中でも、司会者から「今日も手術をされたんですか?」と問われた吉野は「さっきまでしてました」などと答えている。お前ただの歯医者だろ。ちなみにこの司会者は元・自由民主党政務調査会調査役の田村重信氏である。
ところで世界日報の発行母体は統一教会で、Viewpointも世界日報社が運営している。とすれば吉野は統一教会と繋がっているのだろうか?それはわからない。出演も一度きりのようだ。しかし「メタトロン」とはユダヤ教・キリスト教・イスラム教における天使の名である。シオンテクノロジーのシオンとは、いうまでもなくキリスト教における神の御国という意味だ。朝鮮のキリスト教を起源とする統一教会との関連性が強く想起される。
では、その吉野が共同代表を務める参政党は統一教会のフロントなのだろうか?その点もはっきりはしない。参政党事務局長である神谷宗幣は彼自身についての統一教会、森友学園、ネットワークビジネスへの関与の疑惑についていずれも否定するブログ記事を公表している。ちなみにその記事ので神谷は「参政党の党員の中には信仰を持った者がいるかもしれないが、個人の自由だから特に問題はないと考えている」と、党員と教団の繋がりについては事実上認めている。これらについての判断は読者に委ねたい。
ともかく、母には他にもっと信頼できる医師を探した方がよいと忠告した。
それから数ヶ月経ち、参議院選挙が始まった。気掛かりなことがある。実家に帰ると、母がスマホで熱心に「神谷さん(神谷宗幣)」の動画を見ているのだ。一度目と二度目のコロナワクチンはなんとか厚労省のデータで説得して受けさせたが、三度目のワクチンはなんだかんだと理由をつけて拒否している。やたらと食品添加物を気にし始めた。今回の参院選では、参政党は全国全ての選挙区に候補者を配置して国政政党を狙っているようだ。アンケートではNHK党に迫る支持を集めている。彼女も参政党に票を投じるのではないか。もちろんそれは自由だし結構なのだが…スピリチュアルと愛国が融合した国政政党が登場し、私の周囲でじわり浸透してきているという事実に、私は暗澹たる気持ちになった。
そもそも母が吉野を知ったのは他の女性の親族からLINEで勧められたことがきっかけだ。恥ずかしながら二人とも以前から、いわゆる「スマホのYouTubeでネトウヨになってしまった親」というやつだ。似たような中高年はここ数年急増していると聞く。さらに母はお察しの通り頭も悪いが、むかしからストレス耐性が低い。ここ数年は不景気の煽りで父の稼ぎも芳しくなく、経済的な不安で感情をコントロールできなくなることもしばしばだ。
おそらく、そのような中高年はありふれているだろう。私が心配しているのはそこだ。失われた30年でこの国は緩やかに、しかし確実に没落に向かってきた。一億総中流社会はとっくに崩壊し、自己責任の名の下に社会保障は切り崩され、蓄えのない親世代の不安はかつてなく高まっている。
そんな彼らの目に、YouTubeで供給される、ありのままの自分の存在を肯定してくれる「愛国」と「スピリチュアル」という癒しや、心地よい陰謀論はどう映るだろうか。魅了され、その幻想に取り込まれてしまうのではないか。「愛国」の暴走はすでに相次ぐヘイトクライムという形で現実のものとなりつつある。人口でも投票率でも優位に立つ中高年がその幻想に取り憑かれたら…。そのときこの国はどうなってしまうのだろうか。
…それでは聞いてください。『参政党マーチ』(作詞作曲:吉田敏明)
https://www.youtube.com/watch?v=8Cj_9tTnipY
イチ、ニ、参政党!
イチ、ニ、参政党!
イチ、ニ、参政党!
ぼーくらは うまれてきた
みーんな何かをするために
この世にいらない人なんていない
みーんな 必要な 人なんだ
生きるって すばらしい
心って すばらしい
しーあわせを しらないまま 終わるなんていやだよ
ゆーたかさを しらないまま 終わるなんていやだー
なかったら 諦めずにつくるんだー
さあ、Do it yourself!サーンセイトー♪
FirefoxのサポートやめたとかニュースでChrome一色になることにブラウザの多様性がどうこういう言ってる人がよく出てくる
それよりもChromium内蔵系しか新規参戦がほぼ無理な状況をどうにかすべきじゃないのって思ってる
MDN見てるとdeprecatedって書かれた、いわゆる廃止された関数とかが多くある
しかしウェブブラウザは互換性を重視するせいで廃止されても何年も残ったまま
たぶんこのまま行くとずっと残るんじゃないかな
実装済みブラウザはいいけど新規で作ろうとしたらこういう大量にある変な仕様で廃止された関数の山まで作らないといけない
しかし、互換性重視で削除されることはほぼ無いのをいいことに気にせず使い続けるユーザーは少なくない
単純に置き換えられる関数があるならいいが、そういうのがなく手間がかかる手段に置き換えるしかない場合は廃止されてようが使えるものは使う人が多いだろう
●●が廃止になったみたいなブログ記事のブクマで知らなかったとか言ってる人はかなり多い
そのせいで廃止済み機能を実装しないブラウザが出てきたとしても多くのページでは動かない
Chromium系ブラウザならそういう部分はすでに実装されてるからちょっとだけカスタムだけして新規ブラウザとして出せる
だから新しくなにか出てきてもChromium系ブラウザばっかり
今はIE が死んだなんてめったにないよい機会なんだからこのタイミングで廃止機能は完全に削除したり歴史的経緯でイマイチな挙動になってる部分を一新してもらいたい
三十代半ばまでプログラマーだったけど、やりたいことがあって別の業界に転職した。
自分が新卒のころ、その業界の知名度は今よりもずっと低かったから、どうすればその道に進めるのかずっとわからないでいた。だから、おっさんになってから転職した。
大企業から案件のおこぼれをもらって、それで基礎を学んだ。仕事量は多いけど、手取り 20 万なかった。
仕事に慣れたころ、会社の経営が傾き始めた。他部署の業績悪化が足を引っぱり、テコ入れに精神論を売りにする外部のコンサルを雇うようになった。
自分のいた部署は堅実に売上を伸ばしていたのだけど、そのことが逆に経営層から疎まれ、最後は部門ごと他社へ移籍することとなった。
営業部の力が強く、どの営業担当から案件を回してもらうかで社内での立ち位置が変わった。
営業担当も互いに自分の影響力を伸ばそうと躍起になっていたから、社内はコップの中の嵐というより序列を争うホストクラブのようだった。
ここでも基本的な仕事内容は変わらなかったけど、プログラミングでの開発やブログ記事の執筆もやった。資産管理や部屋の掃除(引き出しはGの排泄物でいっぱいだった)なんかもやった。
書いた記事はまずまずの PV だったと思う。業務上の必要から ISMS も取得したし、案件入札に必要になるからと自前で資格も取った。給料は 5,000 円アップした。
半年くらいいると、世事に疎い自分にも徐々に社内の様子がわかってきた。要は自社経営の IT スクールの受講生を、自社運営の就職サイトで他社に斡旋する、あるいは IT スクールの講師をさせる、そういうカラクリをエコシステムと呼んでいた。
ある日、上司に昼飯に行こうと誘われ、料理を待つ間に派遣先を告げられた。社内にいる人間は人件費がアレだから外に出て稼いで来い、そう営業からお達しがあったと言う。
こうして入社から一年で派遣社員となり、送別の昼飯はワリカンだった。
プロパーどうしは人間関係がちょっとギスギスしており、派遣社員はプロパーに取り入りつつ、ちょっとした手抜きや仮病は見逃してもらっているようだった。
自分は自社の喧騒から距離をおけるようになった分、業務に集中するよう努めた。ただ、毎月サブロク協定の上限まで残業させられるので、月によっては時給換算で 1,000 円ちょっとになってしまうのが痛手だった。
生活のため食費を削っていたし、職場は密閉状態だったから、風邪やインフルで倒れないよう健康にだけは気をつけた。
自分以外の派遣社員はみな二十代で、業務中もゲームに興じる廃課金ユーザーが多かった。意外だったのは、自分たちを派遣先に送り込んだ上司は何のケアもしない高給取りの無能呼ばわりされていたことだった(自分は非常に高スペックな人だと認識していた)
年を越して、4/1 から自社に引き揚げて開発プロジェクトに投入されるという話が進んでいることを知った。どうも次年度の契約で派遣先と折り合いがつかず、交渉が決裂したようだ。派遣先の課長が「あなたの会社の営業さんはなんであんな(強気)なんスかね?どうにかなんないんスか?」とこぼしていたが、何の権限もない自分にはどうしようもなかった。
ただ、自社に戻って開発をしたり、上司や営業と顔を合わせてやりとりをする自分はどうしても想像できなかったので、自社の場当たり的な方針に依存するわけにもいかないだろうと強く自分に言い聞かせていた。
タイムリミットが迫るにつれ、次年度の希望を聞かれる機会が何度かあった。自分は業務優先で返事を先延ばしにしながら、周囲に悟られないよう履歴書を用意したり、面接を申し込んだりして少しずつ転職活動を進めていた。
年度末を迎え、担当営業からメールで次の配属先の発表があった。自分は最後まで希望を伝えなかったこともあり、おつかれさまでしたの一言だけだった(これは自分が悪いのでしかたがない)上司とは結局、送別の昼飯以降は会うことがなかったように思う。
数日後、本社に出向いて退職手続を済ませ、4 月中旬までに希望の 1 社に絞って面接をくりかえしたり、SPI を受検したり、必要書類を揃えたり、そこそこ忙しかった。
ここまでくるのに 4 年ほどかかったけど、正直言うと本当に大変だったのはここからだったと思う。
まわりの若い同僚はこれまで見てきた人たちと違って教えられたことをすぐに再現できたり、適切に応用することができる人たちばかりなので、そこからさらに 4 年間は取り残されないよう無理をしたと思う(実際、ちょっと体を壊してしまった)
今の職場も仕事量が多くて辛抱の毎日だけど、もう少しがんばってみようと思っている。
……
ちょうど 10 年くらいになるので、これまでの整理の意味で振り返っておこうと思った。
就職氷河期世代だから貯金だけはするようにしていて、老後の備えは何とかなるかもしれない。
おっさんになって人生をやり直す形になってしまったけど、いつも懸命だったし、自分との約束は守れたんじゃないかな(と思いたい)
眼の前の翁は憂いを帯びた目でディスプレイを見つめながらコーヒーをすする。
「わざわざ言わなくても、そんなのいつものことでしょう。インターネットなんて有象無象が罵詈雑言を浴びせ合うつまらない場所です」
「昔はそうでもなかったのだよ」
翁はゆっくりと首を振り、そしてため息を吐いた。
「集合知やweb2.0といった言葉が持て囃され、ゲーム系2chまとめwikiは充実し、数々の名コピペやブログ記事が日々刻々と生み出されていた。
今の腐海に沈んだインターネットしか見たことのない君には信じてもらえぬだろが、かつてのこの場所は、殺伐としながらも輝きに満ちた場所であったのだ」
「とてもじゃないですが信じられませんね」
「アーカイブすら失われた今となっては、それを証明する手段もない。仕方のないことだ」
翁はコーヒーを淹れてくると言って席を立ち、後には俺だけが残された。
検索結果はゴミのような記事で汚染され、人々は争いを求め、自分こそが正義でありお前らは悪なのだと糾弾しているばかりの、踏み潰された犬の糞のような日常。
人間の本質の片鱗が表出せずにはいられない場所、それがインターネットだ。
いや、たしかに中には人格者もいるだろうが、それは大多数の愚かで醜悪で、かつ自分がそうであると認識できない、そんな救いがたい人間たちの濁流に飲まれてしまう。
私はコーヒーカップの縁をなぞりながら、自分はあのような人間共のようには絶対にならない、と思いを新たにする。
やがて戻ってきた翁は、空になっていた私のカップに素晴らしい香りのするコーヒーを淹れてくれた。
ああ、願わくばインターネットなどには関わらず、いつまでもこのような穏やかな日常を過ごしたいものだ。
しかし、そのような日常を私に提供してくれる翁もまたインターネットから生まれた存在ということも事実なのである。
その矛盾に私は目をつむる。
ブックマークコメントってのは本来はタグ機能の亜種でしかない。
個々人がブックマークするに当たって管理のために残すコメントでしかなかった。
でも10年前は今みたいになんでも100文字に圧縮して語ろうとして滅茶苦茶なレッテル論や茶化しに走るだけの連中ばかりじゃなかった。
何故か。
それは「具体的に言及したいときは自分のブログに記事を書いてそのURLをコメントする」という文化があったから。
特定の話題について本気で語ろうとする連中は皆なにかあるとこぞってブログに記事を投稿してそれをバチバチに投げつけあった。
主戦場はブクマじゃなくてそれぞれのブログであり、あくまでブクマはそこに誘導するためのリンク集でしかなかった。
それがいつからかブログなんていちいち投稿しているよりも適当に100文字で下記散らかして絨毯爆撃的にスターを集めたほうが気持ちいいって考える連中の巣窟になっていった。
あんまりにもその有様が酷いものだから、はてなブログをメインで使ってたユーザーは他のSNSへと逃げていって、ブログ記事への誘導もそっちでやるようになった。
結果として今ブクマカとして元気にやってる連中の大部分は100文字以上の文章を書けない白痴の群れと化した。
こう言うと「あの人がいる」「この人もいる」って名前が挙がるわけだが、同じ程度の投稿頻度を持っているブクマカのうちでそうやってブログも一緒に使っているユーザーの割合を考えてみて欲しい。
昔と比べて驚くほどに少なくなっているから。
不射の射の如く技を極めてその必要がなくなったというわけではない。
単に楽な方へ楽な方へと進んでいくうちに能力が退化していっただけなんだ。
でも今のはてなで楽しく遊ぶにはソレで十分なんだな。
だがな、それは酷く幼稚で知性を感じさせないクソの投げ合いに落ちぶれているんだ。
既に便所の落書きでさえなくなってるんだよ。
https://wezz-y.com/archives/94620
ジェイダも怒ってないみたいだし(怒ってたらなんか言うだろう)
ウィルスミスは全面的に謝罪したし、これでまだクリスロックに問題があると言うのなら…
それは同じ病気を抱える視聴者への罪だ。観ている人を傷つけてしまって申し訳ない、と。
アカデミーは特に問題視していないようだから、観客が声を上げる必要がある。
「観ている私たちが傷ついたぞ!!」
あるブログ記事の主張、誰も傷つかない笑いなんてない、に対して人気のコメントが
開き直るな!
だった。オレは「どうとでも言えるよな🤔」と感じた一方で、可能性にも思い至る。
榊英雄に続いて園子温、是枝裕和と映画監督の性暴力が問題視されている中、何故「レイプゾンビ」の友松直之が無視されるのかわからない。有名監督ではないからか?カルト映画だからか?
彼は「女に男を選ぶ権利・拒否する権利を与えるから少子化になる」「レイプ合法化して少子化解決」
「男の自殺率は女の三倍。レイプされた女性よりやらせてもらえない男の方が三倍苦しんでる」「ヤらせてもらえなくて死ぬくらいならレイプしろ。ヤらせない女の罪はレイプと同じくらい重い」など、独特で異常な思想を持ち、自らの息子にも「自殺するくらいならレイプしろ」と教えているらしい
「レイプゾンビ」の友松直之監督「女に男を選ぶ権利・拒否する権利を与えるから少子化になる」?
https://togetter.com/li/739000
また、彼はブログで「性犯罪は前科二犯」で、レイプした事があると明かしている
「こちらは片思いの末に刑務所も覚悟しての決死のレイプだったのですが、不起訴どころか泣き寝入りされて、そんな事実さえなかったことにされてしまいました。傷ついたのは誰の心でしょうか?」などと、自分が被害者のように書いている
http://blog.livedoor.jp/n_tomomatu/archives/39696964.html
女性にセクハラを指摘されて逆ギレしている他、『何が「レイプしてもいい女性なんないません」なものか。女の三割は「レイプされても文句の言えない」女だし、残りの七割は「レイプされるべき」女だろうが。』『「レイプしてもいい女なんかいません」とは女にヤラせてもらえなくて自殺してゆく哀れな男たちへの配慮のカケラもない暴言であろう』
『折りにふれて思い出し、怒りに震えがくる。そのまま戸外に飛び出して最初に目についた女を可能な限り残酷な手段で殺してやろうかと思う』『女が絶滅せずにすんでいるのは、一重に俺を含む男たちの寛容さのお陰であることに女どもは気づいているのか。思うに殺人罪という法律は、これがないと、あまりの女どもの馬鹿ぶり暴虐ぶりに腹を立てた善良なる男たちが、女どもをすべて殺してしまうから、それを抑止するために作られたに違いなかろう。』
などと、激しいミソジニーを炸裂させている
https://ameblo.jp/n-tomomatu/entry-11268438285.html
こんな危険思想を公言しているにも拘らず、否、だからこそ、彼は一部でカルト的人気を博している。
ミソジニスト達に支持を受けている
だが今、こんな性暴力を扇動するレイプ監督をのさばらせておいて良いのだろうか?