はてなキーワード: モダリティとは
三重交通の件で改めて思うのが、実世界でこれやったら「ちょっとこれは今時どうなんすかね〜」という話になりそうなジェンダー的または性的な記号を過度に強調した表象(表情・体型・服装・姿態など)の形式が、二次絵であれば/あるから許容してよい、という考え方が、我々の社会で一定の定着を見つつあるのかもしれないな、ということ。
実世界における表象と、萌え絵・二次絵という表象に対する捉え方を、我々自身が切り替えて鑑賞している。モードが変わっている。俺はふとした瞬間…たとえば改札前で唐突に駅娘の立て看板に遭遇した瞬間に、「なんでこの絵はこんなにオンナオンナした記号性を振りまいてんのかな」という思いが脳内をよぎったりもするけど、その違和感は一瞬で消え去ってしまう。
このとき俺の脳はたぶん、「二次絵はそもそも『そういうもの』だから、疑問に思わなくてもよい」という判断停止によって、よけいな思考のエネルギーを節約している。楽しんでいるわけではないけど、俺の中の常識との衝突を避けて、平穏な気持ちでその異物感を見過ごすことができる。文楽で後ろにいる黒子をいないことにして鑑賞するように。ミュージカル映画でそれまでシリアスなシーンで唐突に歌と踊りが始まることにも驚かずに鑑賞するように。「二次絵鑑賞のモダリティの一般化」という風に言ってもいいのかもしれない(意味的にはモダリティよりリテラシーという言葉のほうがふさわしいのかもしれないけど、リテラシーには「身についてるほうがエラい」というニュアンスがあるから、使わない)。
海外でもオタク層などでこういうモダリティを持つ人々が一定数出てきているのは伺えるんだけど、では今後そういうモダリティがそういう国々でも一般化するんだろうか?ということを考えてしまう。
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3920s
Sara Ahmed, "You Are Opressing Us!"
「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うためのプラットフォームを与えられ続けたり、あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時、そこにはいつもパフォーマティブな矛盾がある。しかしそれだけではない。そこであなたが目にするのは、権力のメカニズムなのだ。」
「自分がすでに抱いている信念を裏付ける証拠を求める欲望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。
侮辱的な言語行為が次々と述べられるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだという証拠を望んでいるから、である。」
この枠組みを非常に早い時期に的確に指摘したのが、イギリスのフェミニストとして知られるSara Ahmedです。
2015年のブログ記事でAhmedは、ガーディアン紙に掲載された、これ別の書簡なんですがこれも公開書簡です、
「個人に対する検閲や口封じを許すことはできない」というタイトルの公開書簡を取り上げます。
トランスジェンダーについてあるいはセックスワークについて特定の批判的見解を持つフェミニストたちが、
大学で沈黙させられているというふうに主張するものでした。ちょっとここ分かりにくいんですけど、
2015年の英国のこの文脈では、沈黙させられているというふうに主張しているフェミニストたちというのは、
階級的にもそれからジェンダー・モダリティという点でも、いわば多数派の側になります。
Ahmedは、公開書簡で取り上げられている例というのが実際には、特定の見解を理由にした検閲だったりノー・プラットフォーミング、
ノー・プラットフォーミングっていうのはイギリスの運動なんですけど、
イギリスの学生運動の中で採用されてきた戦略で、非常に危険で受け入れ難いと見なされた見解とか信念、それこそネオナチとかです、
そういうものを公開する機会そのものを提供しない、そういうのがノー・プラットフォーミングといわれるんですが、
ただAhmedは、この公開書簡で取り上げられている例が実際には、
そういう検閲とかノー・プラットフォーミングには当たっていなかったということを、事実を確認した上で、
にもかかわらずこれをあえて、キャンセル、検閲、口封じ、ノー・プラットフォーミングという形で主張することで、
これAhmedの引用なんですが、
「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うために
そういう発言をするためのプラットフォームというのを実際には与えられ続けていたり、
あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時に、そこにはいつもパフォーマティブな矛盾がある。
しかしそれだけではない。そこであなたが目にしているのは、権力のメカニズムなのだ。」。
検閲され口を封じられたはずの側がより力を獲得する、そういう目的のためにされていると。
だからこそ、検閲され口を封じられること、言い換えればキャンセルされることというのは、ここではむしろ求められている。
キャンセルされたいんですね、どっちかっていうと。
次の引用ですが、
「自分がすでに抱いている信念を裏付ける証拠を求める希望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。
侮辱的な」、これoffensiveですね、「侮辱的な言語行為が次々となされるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、
他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだというその証拠を望んでいるから、なのである。」。
だからキャンセルされると、そのキャンセルされた人ということでどんどん力が集まって、むしろキャンセルされたい。
キャンセルされるために、より侮辱的な、よりoffensiveな言葉が発せられるという、そういう仕組みができてるというのが、
Ahmedの見立てなんですね。
「この書簡は、フェミニストの発言は自由になされるべきで、健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話を可能にするものだ、と考えている。しかし、トランフォビアや反トランスの発言を、ハッピーなダイバーシティの食卓で自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消するべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、対話などしようがない。あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議や対話」をするとしたら、「討議や対話」はそれ自体が抹消のテクニックになる。特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである」
学問あるいは言論の自由というものを支点とした、抑圧側と被抑圧側の逆転の構図、
表現を変えるのであれば、抑圧されて周縁化されてきた側からの異議申し立てを封じるための口実、
今日の報告では、90年代からこの図式が少しずつ洗練されつつ引き継がれた様子っていうのをざくっと見てきたわけですが、
その図式が現時点で到達しているのが、自由が侵害された口を封じられたという主張が、
実は封じられることもなく自由に繰り返され拡散されることで、力をさらに獲得している、
クリックとアルゴリズムの時代のキャンセル・カルチャーというパワーメカニズムだ、ということになります。
だからこそ私たちは、国家や強力な組織、経済あるいは社会規範の要請などから、学問の自由というものを守ると同時に、
現代の今2022年時点の学問の自由というのが、もろ刃の剣であること、学問の自由の特定の利用には警戒すべきであるということを、
忘れてはならないと思います。
最後にこういう自由の濫用というものをサバイブするためにAhmedが提唱した戦略を引用して、私の報告を終わりにしたいと思います。
健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話を可能にするものだ、というふうに考えている。
ハッピーなダイバーシティの食卓で自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。
食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消すべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、そこに対話など存在しようがない。
あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議あるいは対話」をするとしたら、
特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである」。
ありがとうございました。
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
わかるよ。便利だ。めんつゆは便利。
私だって未だに使う。ほうれん草のおひたしなんかはめんつゆ使うし、炒めものにつかったりする。
でも考えてほしい。
彩りを。
ある界隈で「めんつゆばかりを使う女性とは結婚したくない」という話があったが、彼らのそれも真の話。
そして、めんつゆが便利なのも真の話。
料理好きの一人として、めんつゆを使いつつ、他人に飽きられない料理方法を記しておく。
味の情報は、見た目や香りからの情報が強い。これをまず理解してほしい。
逆に言えば、「めんつゆ味」なんてものはこの香りや見た目でどうにでもできるという話です。
一番重要な話です。
めんつゆ料理初心者の人の料理はなにかと料理の色がめんつゆ色(茶色?醤油色的な)になりがちです。
例えば煮物なんかわかりやすいですよね。その芋の色が、めんつゆ色です。
この色に類似した色は、料理をする上で絶対に出てしまう色です。例えば、肉を焼いたり魚を焼いても茶色になりますし、チャーハンなんかもお米は最終的にこの色になります。
この色は「料理の基本色1 茶色」と勝手に自分は読んでいます。
1があるということは、2もあります。
料理の基本色2は「白色」のことです。
簡単に言えば、お米、豆腐、パン、素麺なんかはわかりやすいですけど、お皿も白ですよね。後は、上記で肉や魚を書きましたが、茹でたりすると白色に近くなります。
めんつゆ料理初心者がやりがちなのが、この基本色しかつかっていない、ということ。
ここでさらに「3色」足してみましょう。
黄:卵(卵黄)、かぼちゃ、とうもろこし、さつまいも、カリフラワーなど
青(緑):葉っぱ物(キャベツ、レタス、ほうれん草など)やブロッコリーなど
考えてみればこれは色んな料理がそうです。
例えば肉じゃがも、肉とじゃがいもだけでなく、にんじんが入っているはずです。
オムライスをレストランなんかで頼んだ時に、中のチキンライスにはグリーンピースやとうもろこしなど、赤色以外の物が入っているはずです。
できる限り、この三色を意識しましょう。それだけで「めんつゆ色」の比率を下げることができるはずです。
めんつゆ味の一番の要因は個人的にはこの香りだとおもっています。
このカツオだしの香りは実はものすごく美味しい香りなので、めんつゆ初心者がめんつゆ料理を作った時に美味しく感じる一番の理由だと私は思っています。
しかし、この美味しいカツオだしの香りも毎日食べていれば流石に飽きがきます。
例えば、夏の日に素麺が出てきた時、毎日素麺が続くと飽きますよね。でも、素麺自体に飽きたのではないはずです。素麺を作った炒めものを作るとあんなに飽きたとおもった素麺が美味しく感じるように。
なので、飽きが来ないようにに香りを変えるか加えてやる必要があるのです。
ただし、めんつゆを使う以上香りを変えることはできません。(まぁ、にんにくなどを使い無理やり匂いで上書きする方法もありますが…)
と言うよりも、めんつゆ料理が美味しい理由の1つがこの香りなので、下手に変えると美味しくなくなる可能性のほうが大きいです。
なので、一品増やして、カツオだしの香りを毎日中和することが必要です。
それが「脂質」つまり「油」です。
一品作成時にこの「油」をローテションすることで比較的用意にカツオだしの感じ方を変えることが可能です。
私の場合は、「ごま油」「オリーブオイル」「サラダ油」の三種類ぐらいでローテしています。
ごま油であれば、根菜と相性が良いです。土の匂いが強い根菜もごま油で調理するとクドくないよい香りになります。
オリーブオイルは大体の生野菜と相性が良いです。エクストラヴァージンって書いてあるやつなら火を通さなくても使えます。
サラダ油は卵料理や、天ぷらに相性抜群です。普段お使いかとおもいます。
なので、料理としては「めんつゆを使った料理1品」+「各種油で調理した料理1品」を意識するだけでも全然飽き方が違います。
よくやりがちな「野菜炒め(サラダ油+味付けめんつゆ)」と言った一品料理ではなく、なるべく分けてあげたほうが良いです。
そうなった時は最悪、スープでもいいのです。かつおだしを他のだしで相殺してしまえばいいのです。
私はよくコンソメを使います。同じぐらい味覇(鶏ガラだしベース)も使います。
ただ、これで万能だからってコンソメと味覇を使い続けてはいけません。あくまでもローテすること。コンソメも味覇もだいたいなんでも美味しく仕上げてくれるはずです。最近CMでよく見る創味シャンタンもよいですね。
当然、私も料理するのはめんどくさい、できればひたすらに外食にしたいと思っていますが、でも作る以上、食べてくれる人がどうやれば喜んで食べてくれるだろうということを考えると「毎日、味を変えてやる必要があるな」という事を考えたのです。
確かに、働く人間に対して、料理というのは唯のエネルギー補給なのかもしれません。愛を込めても1/3さえ伝わらないかもしれません。確かに、料理はめんどくさい。上で書いてあることを読んで「結局料理はめんどくさい」と思う人はたくさんいると思います。そして、食べてくれる人はそんな苦労も知らずに「今日はなんでもいい」「簡単なものでいいよ」とメチャクチャを言います。報われないです。
でも、「食」という唯の作業も楽しみがなければ拷問だと、私は思います。
私は「あなたに苦しんでほしくて料理を作っているんじゃない」と考えました。その結果、食べててきっと楽しいと思ってくれると信じて弁当も作りますし、晩ごはんを今日も作ります。