はてなキーワード: モノローグとは
今年も一年ありがとでした。
年の瀬京子も迫り、各所で続々と2016ランキングが発表されていますね。自分も今年の統括的なモノをしたためたく、2016年一番励んだことってなんだろうと考えてノータイムで浮かんできたのが、ガールズ&パンツァーの同人誌を買い集めることでした。
劇場版公開から怒涛のようにリリースされた2016年発行のガルパン同人ベスト10をお送りします。
筆者は一部好きなキャラに偏りがあること・百合オタクであることを踏まえた上で読んでいただけると幸いです。
(各本にリンクを貼ろうとしたのですが9個までしか貼れないと書いてから気づいたため一部を除き割愛しました。作品の詳細についてはおググり願います。また、18禁はここには書けないので除外しています)
これを貼りたくてランキングを書き始めたと言っても過言ではない一品、逸見なだけに逸品です。ガルパン公式よりもびくドンに怒られるのではというほどに作中ふんだんにっンー店内及びハンバーグの実写(しかもなぜか画素が超粗い)が使用されています。「なぜエリカとナカジマ!?」と一瞬考えてしまうキラーカップリングも百合的みどころです(書いてる途中で気づいたけど普通に決勝で乗った乗られた仲でした)。
もともとお酒を飲むシーンが気軽に描ける(そして大学生百合では出せないしっぽり感がある)社会人百合が割と好きというのもあり、しほ千代のこうしたババア…年増百合ってほんと最高ですね……。『西住しほが高校生だった頃』という二次創作伝家の宝刀である過去百合も連作として進行中で目が離せません。
最強のノンカチュ本です。公式でも結構大概なのに二次創作では過剰にクレイジーサイコレズ(すっかり死語)として描かれがちなノンナ・そしてその煽りを受けてレズギャグ要員にされがちなカチューシャですが、そんなふたりでここまでエモーショナルに振り切って描けるのかと甚く感激しました。あとこの本に限った話ではないのですが、A5の百合同人誌って佳い打率8割くらいなので買うだけでドキドキします。
意外と少ないももゆず本、大変貴重な一冊です。というか、筆者の観測範囲だと序盤の強引かつ高圧的なやり口のせいで、一部ファンからは生徒会の評判が悪いようです。そういった悪評を『生徒会を快く思っていない一般生徒』に担わせるところから始まり、当事者である西住みほのひとことで締めることで、生徒会および河嶋桃の懊悩と救いが短いながらに描かれており、欲しいやつぜんぶきちゃったな~という一冊でした。リンク先調べてて気づいたのですがこの御方、響ユでなかよし川も描いてたのですね、アレもとても佳かったです……!
にわかに活気づいている(と思いたい)さおまこ界のスラッガーです。武部沙織という乙女なキャラクターを百合で動かす際に、こういうレディコミ風の絵柄と一人称モノローグを使うとバツグンに佳くなります。あとこれもこの本に限った話ではないのですが、ラブライブ百合やってる人がガルパン百合に来ると確実にホムーランなんだよね……ラブライブ同人の地力がもともとすごいという話でもあるけど……。
角谷杏メインの同人誌は良作が非常に多く、どれをベスト10として選出するか熟考しました。この本、飲みの席に持っていってその場で読んでもらったのですが、人がまんがを読みながら涙ぐんでいるところを初めてリアルタイムで見てしまいました(心当たりのある方申し訳ない…)。なお、冬コミまでの期間限定でフリーリリース(https://chu-gyo-g.booth.pm/items/389763)されているので未読の方はリンク先を今すぐご参照あれ! このランキングを年末までに急いで書いてるのもそのためなんだけど、冬コミまでっていつだ、開催までなのか、冬コミ終了までなのか、どっちなんだ……?
過去百合といえば大人キャラだけの特権ではなかったですね、幼馴染であるさおまこにも為せました。長年ガルパン二次創作を描いてきた岡先生の筆致に泣く『ゆめのかよいじ』ですが、実は激突!女子高生お色気戦車軍団6巻にも収録されているため、厳密に言えば2015年末が初出と言えなくも……でもこの本は今年の夏コミが初出だからOK!
河嶋桃メインの同人誌というだけでなく、そこに西住みほをぶつける超爆発のガルパンまんがです。これはもうサンプルを読んだ時点で涙を流してしまいました。なんというか、桃ちゃんを描く人って桃ちゃんが考えそうなことを考えるのが本人かよってレベルで上手いし描きっぷりも尋常じゃないのでこれからもどんどこ桃ちゃんメインの同人誌出てほしい……ほんまみんなたのむで……。
この方は他にも『Ladyspiker』『バトルクライ』などのエモーショナルガルパンまんがを描いていますが、その中でも特にドキドキしながら読んでいた『ミュージック・アワー』がついに紙媒体でリリース! その当時は鼻息がとても荒くなっていました。ウサギさんチームはもちろん大好きなのですが澤梓の佳さがここまでやるかってくらいに全開で引き出されています。ちなみに筆者がガルパンまんがを描こうと思い立ったのはこのガルパンまんががきっかけでした。
叙情的な表紙の通り最初の一編は継続メイン回なのですが、最後に西住みほと河嶋桃の最強タッグ『冬来たりなば』が収録されています。こたつシーンやヨッパライシーンがあるため、冬場に読み返すとまたいちだんと空気が澄んできます。夏コミのときにこれをスッと買えたからよかったけれど、ぱんっあ8ではオンリーイベントで見たことのない長蛇の列が数時間続いていた光景が目に焼き付いており、これを書いている今も冬コミのさおまこ新刊が買えるのか不安で眠れません。
以上、駆け足ですがガールズ&パンツァー同人誌オブジイヤー2016をお送りしました! 見事に百合同人ばっかりになってしまいましたね……冬コミもいっぱい買えるといいけど! なんで2日目なの!!
吹き出しの内外を問わず、台詞とそれ以外のモノローグや傍白すべてに句点がつけられています。
何気なしに読んでいて一度その存在に気がつくと、これが気になって気になって仕方がないのです。
この違和感をおぼえる一例を挙げると、
漫画家・楠みちはるは『湾岸MIDNIGHT』というシリーズ漫画を、
この2社にまたがって描きつづけています(※)。
後者の最新作『銀灰のスピードスター』では、その傍白にもきっちり句点がつけられています
(三点リーダー「……」やダッシュ「——」のあとにはつけられておらず、それだけが救いです)。
自分の場合、特に吹き出し外の傍白は登場人物の内面の詩的なあらわれ(文字どおりのポエム)として読むので、
そこに句点をつけられるとどうにも決まりが悪いように思われます。
そこまで気になるものだろうか、と思われる方は、
ぜひ集英社や講談社など漫画に句点を使っていない出版社の単行本をご用意いただき、
試しにそこに句点を加えて読んでみてください。
内容によっては、句点の有無で台詞の印象が変わってくることがあるように感じられると思います。
もちろん小学館には出版社としてのポリシーによってこの方針をとっていると思います。
それをあらためてほしいなどと大それた要望をするつもりはないのですが、
最近好きな漫画家のウェブ連載作品が小学館から物理書籍として発売され、
やはり句点が気になってとても残念な思いをしたことをきっかけに、
ここでこの悩みを吐き出してみました。
連れを「君の名は。」に連れて行った。
11月4日に金曜ロードSHOW!で「となりのトトロ」を見せたが、
前半は「話が進まない、眠い」とこぼしていた。
後半はそれなりに見てはいたが……。
ただ、RADWINPSの曲は好きだという。
そして、映画を見ないままオーケストラ編曲を聞いたこともきっかけになり、
なんとか「君の名は。」に連れて行った。
だが、連れの方を見ると、表情がよろしくない。
「絵は確かにきれいだったし、曲も場面にあっていた。
ストーリーがまったく把握できなくなって、場面場面の連続になった。
あれは何?どちらかが空想?だったら私には無理。疲れた。1000円損した。」
そんなことを言った。
不満をなだめていたときに、引っかかったポイントがいくつかあったので、書き留めてみる。
→飛騨地方までははっきり表現しているが、その後は知らない、おそらく架空と思う、と答えた。
・瀧、三葉はどうやって連絡をとっていたのか?メールしていたのか?
→お互いがアプリや日記、顔を使って記録を残していたことを説明すると、一応納得したようだった。
・どちらかは空想なの?空想ならちゃんと「ここは空想」のように表現してほしい。
→これに答えるのは難しかった。
「どちらかが“空想”というわけではないんだ」
「2016年東京を生きる瀧の世界では、2013年に糸守村は壊滅したことになっていたが、
実は以前の上京した三葉と瀧の間につながりができていて(※)、
その後、2013年の糸守・三葉と2016年の東京・瀧が入れ替わるようになったが、
「それでも、違う時間を生きる人間同士が出会える、一瞬の黄昏に二人は再会し、
三葉が死んでしまう世界と生き残る世界の2つがあるのかは映画からはわからない」
実際にはもっとつっかえつっかえ話したこともあり、納得はしていないようだった。
(※)どの時点の三葉がどの時点の瀧に会ったのか、あえて検索せずにずっと考えているが、私にも分からない。
そもそも「体の入れ替わり」という表現自体を受け入れない、というほど頑なではないようだが、
「時空を超えた平行世界」的なお話、考え方に一度も触れたことがなかったりすると、
逆に、観客の多くはそれなりに理解できたのだろうか。
雰囲気で感動しているのだろうか。
たとえば、マンガを読むときのルールに「吹き出しの形で台詞とモノローグを区別するし、背景に稲妻が走っても本当に天候が悪いわけではない」というのがある。
http://ddnavi.com/news/215595/a/
「君の名は。」を鑑賞するには、どういったルールの理解が必要だったのだろうか。
今連れは「中国でもヒット?信じられん。ホントに分かって見てるの?」と言っている。
もちろん秒速5センチメートルが強い男性目線からの作品であったのは事実だと思うし、
どういう部分でそういう評価になってるの?
「君の名は。」で口噛み酒のシーンが気持ち悪いと言う話になっている。
http://togetter.com/li/1029154
口噛み酒自体は新海監督のある種のフェティシズムの発露であるというのはインタビューでも言っていたのでまぁ気持ち悪く感じる人がいるのもわからなくはない。
本来性癖は人によって千差万別でかなり慎重に扱うべきものだからだ。
一方でエロは万人にほぼほぼ普遍的に存在するものなのである程度の公約数的な部分を確保してしまえば多くの人間にフックするという強みもある。
新海誠監督は今まで過去作においてエロティックな場面をほとんど描いてこなかった。
その理由は私にはわからないがある種の特徴の一つでもあったと思う。
そういった点がこじらせた「童貞」臭さと言われる一端でもあった。
※ちなみに新海監督は童貞臭いと言われることを一定程度評価している旨をラジオ番組で発言している。
おそらく童貞臭いという評価に内在する純粋さ・ピュアさが新海監督がターゲットにしている思春期の男女にまさにクリティカルにHITする部分だと思っているからだろう。
今回はそこから一歩踏み出し、フェティシズムや一定程度健全なエロさを作中に含ませようと考えたのは恐らく言の葉の庭の足フェチ描写が観客に評価されたからであると思う。
ということに気づいたのだと思われる。
東宝に出した最初の企画書の時点で三葉の胸を揉む描写が既にあったことが見て取れる。
一方で性欲を丸出しにしてしまうと下品すぎて観客が引いてしまうことは恐らく既に把握していて、言の葉の庭では足を触る描写をエロティックだが徹底的に崇高かつ審美的に描き下品さをかき消すと言う手法を使った。
それに対して今回使った手法はベタベタと言っているように定型的で既に出来上がった文脈の手法をそのまま持ってきた形だ。
つまり笑いを使うことでエロさに健全さをくっ付けることで観客が引くことを回避させようと言う手法である。
つまり観客にこのシーンを見て笑ってもいいんだぜ?
というわけだ。
最近エロの手法を取り入れたにしてはこの辺の技巧に非常にしびれたし、単純にうまいなと思わされた。
なんとなくこの辺で瀧君を「ちょっとエッチな東京から来たイケメン」という卑近さを生み出すの成功しているような気がする。
股間に手を出すのはアウトだが、胸ならギリギリという非常に危ういラインだ(瀧が三葉の状態でトイレに行く描写がないのはそういうことだろう。三葉in瀧ではあるのに)。
その他こまごました部分を含めてその辺の舵取りはかなりきっちり詰めたのだろう。
お見事でした。
しかし、この入れ替わりシーンは置いておくとして問題になっているのは口噛み酒のシーンである。
と言うシーンである。
ここにオタク男性的感性をどうしても感じてしまうと言う点である。
四葉が女性の性的価値を少女でありながら感じていることに違和感を感じると言うことだろう。
しかし、正直この点に男性性をいきなり感じてしまうというのは少々飛躍しすぎではないだろうか。
実は作中に少女向けのファッション雑誌が部屋に転がっていると言うカットが存在する。
つまり、四葉はそういう点にわりと自覚的であるのではないかというエクスキューズをわざわざ用意してあるのだ。
あるいは三葉の言うとおり「思春期前のお子様」であるのでそういった視線に知識はあるものの無頓着である。
という解釈もできるかもしれない。
いずれせよ、安易に一方的な男性性を見出すには少々待ったをかける必要はあるはずだ。
ネット上の論評をいくつか見て回って、少し思ったことがある。
思ったのは新海誠が男性であるからといった点が論評において強く作用しているのではないかという点だ。
もちろん秒速5センチメートルが強い男性目線からの作品であったのは事実だと思うし、実際作中のモノローグの量はタカキの物が大半だ。その様な作品で男性性を強く見出すのはわかる。
しかし、だからといって一足飛びに「君の名は。」をすぐに男性的であると決め付けすぎるのはすこし早すぎる気がする。
もちろん過去作の文脈をまるごと無視するというのはさすがに無理があると思うが、言の葉の庭における雪野の描写や彼女と彼女の猫が女性主人公であるという点を無視しすぎである。
一方で日本では従来の男性ファンがあまりにも多すぎた気来がある。
そのせいかどうも、評論すら男性的目線から見たものが多すぎる気がする(特に上白石萌音が秒速でどちらかというとコスモナウトに感情移入したというのは示唆的だ。ネット上であまりその視点から言及した記事を見たことがない。)
女性が自分の性的価値を認識していないというのは少々一方的過ぎるだろう。
女性受けを狙ってアイドルをやっている人もいるという説明もまぁそういう人もいるだろうが、皆男性からの目線を意識していないなどというのは少し純粋性を女性に求めすぎだ。
特に三葉が口噛み酒販売に対して斜め上の回答をしたのはまともに回答するのが恥ずかしいからであり、それは三葉に対するジェンダー的抑圧の強さを示している部分でもあると思うし、「イケメン男子にしてください」という台詞にもつながる。
わりと重要な部分だと思うので安易に監督の男性性に固執するのは危険だと思う。
勅使河原の口噛み酒の部分もあれは作品のメッセージではなく勅使河原の認識とみなすのが相応だろう。
同じ縁故に縛られた立場として土着にまつわる行為を否定されることにある種のシンパシーからの擁護であるとも取れる。
※つまり、必死こいて神事を行ってるのに友人まで否定するのは酷ではないかという同情的心理。縛られていることに息苦しさを覚えていながら糸守に愛着があるという描写を事前に行っているのはその辺の示唆なのではないか。三葉がどう思うかは別である。
写実的で実存感に溢れる流麗な映像と共にかかるThe WHOのMy Generationに、山田尚子監督と京都アニメーションの円熟と"私(達)の時代の話をしているんだ"という監督の高らかな宣言を感じた。
単行本7巻分の原作を2時間にシェイプアップされた映像は、大胆な再構成と説明要素の排除で進行される。
原作で描かれた硝子の主観はほぼほぼ排除されている。硝子は聴覚障害があり、手話と不明瞭な言葉でしかコミュニケーションを取ることが出来ない。
それは劇中でもありのまま描かれ、我々健聴者は彼女が何を言っているのか正確に理解できない。
将也や、その他の登場人物の反応で保管できる部分はあるが、原作のように硝子の視点も用意されておらず、想像の範疇を出ない。(なんとモノローグすらない)
つまり観客は彼女に同化することを構造上許されていないのだ。(これは字幕上映を観ることで考えが変わるかもしれない)
物言えぬ硝子を介して、将也はコミュニケーションを、人の間で生きていくことを学ぶ。
しかし原作で大きく扱われていた周辺登場人物との関係(欺瞞に満ちた映画作り〜かつて失くしたコミュニケーションの復活・その崩壊・硝子による再構築)も排除されている。
将也の成長物語のみに徹底的にフォーカスした結果、将也の成長を促す硝子を含むすべての周辺登場人物へのフォーカスを切り捨てたのだ。
それでは山田尚子監督及び京都アニメーションのスタッフ陣はどのような物語の演出方法を取ったのか?
それは徹底的なリアリズムと情感を託された映像密度と、そこにあるもの以外語らない、という選択だったのだと思う。
ノイジーでインダストリアルな劇伴と静かに喋る将也と物言えぬ硝子。大きなカタルシスを用意するでもなく(物語上には存在するが、ここで挙げるのは演出上のカタルシス)、ただただ丁寧に心の機微は描く。
その役割は言語化されたコミュニケーションが大前提な劇映画では異常なほど、人物(言語)ではなく映像に委ねられている。
象徴的に繰り返し映し出される様々な花のモチーフにも、それぞれ意味があり、雄弁に語る。しかしそこに言語はない。
とても静かな映画だった。
それは聴覚障害・コミュニケーション・少年の成長、という大きな主題を映像化する上でベターな選択だったし、原作モノを再解釈して色を付ける、しかしあくまで原作の範疇から出ることはせず、映像化にあたっての最良の選択だった。
「けいおん!」で見せた山田尚子監督のバケモノ級の構成力がいままさに円熟しているのを感じずには居られなかった。
もちろんその演出を選択できる体力としての京都アニメーションのスタッフの技量があってのこの映画だったと思う。
「響け!ユーフォニアム」で到達点を見せたと思われた、写実的で被写体とキャメラの存在を追求した京都アニメーションのレイアウト〜撮影までの画作りの更なる進化があってこそ、将也の心情に寄り添った雄弁な映像は生まれたのだ。
先週観た「君の名は。」で新海誠が描いていた、印象だけで構成された陳腐で空虚でしかないセンスの欠片もない映像と退屈で死にそうなほど単純なボーイミーツガール、ポストエヴァ世代の終わりなき呪縛を今作は問題外と言わんばかりに完璧に凌駕していた。比較対象が雑魚すぎるきらいもあるが、あらゆる意味で次元が違った。
新海誠に代表されるセカイ系の次世代として2000年代後半に登場した、近景に特化した所謂空気系の旗手として君臨した「けいおん!」は物語の歴史の中でノスタルジックかつアブストラクトなエポック的作品だったが、その監督である山田尚子と京都アニメーションがさらなる次世代を紡ぐ、体制側・システムとしての完成をみたのが今作だったと思う。
オルタナティブとしての物語を自分のストーリーとして受け取る現世代のための物語装置を創りだすシステムとしての京都アニメーション。
圧倒的なクオリティと確実なチョイスで、先陣を切りそれを体現していく山田尚子。恐ろしいことに今回は萌えを武器にもしていないのだ。
派手な爆発も、世界を救う大いなる力も、悩める個人と直結したセカイも、今作の持つ超弩級の冷静さの前では旧態依然とした使い古されたアイデアでしか無かった。
それでも丁寧に丁寧に人の手で作られたアニメーションは、絵が動き、実写以上の実存感を持って我々の心に寄り添い訴えてくる。
同時代に生きられることに感謝し、最大級の賛美を持って新時代の幕開けを向かい入れたいと思った。
必見。
今回はガンガンオンライン
まあ、タイトルはどうせミスリードだし、予測に対して期待は特にない。
というわけで、その正体はボッチ、と。
ただ卑屈さや悲壮感はなく、箱入りな生活でできなかった様々な遊びを謳歌するってテーマね。
まあ、執事のモノローグで場を繋いでいるけれども、やっていること自体に大して面白みはあまりないかなあ。
勝負に場慣れさせるために一般人が指している店でやらせて精神を鍛えさせるか。
素質を見るためのポイントが「将棋で一番楽しいのは勝つこと」、つまり「勝つことへの執着」で奇麗事じゃないのもいい。
何だか、あいのときよりすげえ漫画の講師っぽい指導をやっている気がする。
あと、見た目だけじゃなく、声を聞いても性別が不明な大阪の中高年ね。
ステレオタイプではあるし、ヒョウ柄の服ともなると今や希少種なんだが、行くとこ行けば実際に存在するんだよなあ。
樹視点ばかりだと思ったけれども、遥視点でのエピソードもちゃんとあるのか。
意外にも、遥の本位ではない態度ぐらい分かる人が多いってのは驚きだった。
むしろ、兄弟なのに樹が分からなさすぎってことの裏返しともとれる。
で、いくら意識が変わろうとも、本質的な部分までは変わらない以上、不備が色々と出てくるってことも描写されたか。
私の解釈では、樹側のエピソードが「見えなかったものを見ようとする」。
対し、遥は「やらなかったことをやろうとする」という印象。
とにかく絵面を優先させるためにありとあらゆる条理を無視していく。知識がある人間ほどツッコミがあたまをもたげて作品に没頭できない。
物理クラスタからニュース画面の彗星の軌道について突っ込みが入っていたが、そもそも彗星の核が分裂して破片が地球に向かっているとき、それを地球から見たらどう見えるかについて根本的に勘違いをしている。
登山をしてる人間からも、あの山道を老人を負ぶって登ることの非現実性やらに苦言がでるだろう。迎えの打ち合わせもせず、弁当だけわたしてトラックで人里はなれた山中に放り出すあの親父は主人公殺しにかかってるよね?とか、雨具持たずに山に入るなとか、雨に濡れて一晩山中で過ごして死なないのはおかしいとか。
だれでもわかるツッコミ点はこれ。
http://cinema.ne.jp/wp-content/uploads/2016/08/e40fe7b77c41e40c997c1f32246b4ab0-760x428.jpg
監督、一回でいいから自分の顔にマジックで「バカ」とかいて、それを鏡で見てごらん? あと主人公もヒロインも右利きだよ? あれじゃ自分ではなくて他人に書かれた「バカ」「あほ」だよ?
それなのに、こんな穴だらけの素人臭い脚本でも、ラストでは圧倒的な絵と音楽とモノローグで力業で泣かされる。なんか泣いた自分がバカみたいじゃないか。プライドずたずたですよ。
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「だれでもわかる」が分からないというブコメが多いですが。利き手の側の頬にガムテープでもラップでも貼って(鏡を見ても見なくてもいいので)そこにマジックで「あほ」と書いてみて下さい。はがして文字を見たときに、それが鏡文字になっていなかったとしたら、あなたは特殊な才能の持ち主です。
褒めて欲しい気持ちをチラつかせながらメールを送ると、すぐに望み通りの答えが返ってきた。
彼の考えていることが理解できる。
元々、仕草や言動を細かく観察して、相手の思考をあてたり好みを把握するのが得意な方なのだ。
友人の誕生日にプレゼントをあげて、「これちょうど欲しいと思ってたやつ!!」と言われるようなことが何回かあったし、この感覚には結構自信をもってよいと思う。自分で言うけれど。
彼の考えることも割とわかる。
彼は素直なのだ。
そして目が悪いのだ。
だから私のようなものを好きになる。
何かの本に、「男は自分のことを好きな女を好きになるけど、女は自分なんかを好きになる男なんて」と書いてあった。
安野モヨコの『ハッピー・マニア』には「こんなのじゃないの もっとカッコイイ人がいいの あたしみたいな女の子スキになんかならない カッコイイ男の子」というモノローグがある。「わああぁん」と泣き叫ぶ主人公の絵が印象的だ。
この、自分の存在を根っこのところから痛めつけて阻害してしまう感覚が、多くの人に共通の感覚ならば少しは気が楽になるなぁ。
私は彼のことを把握しているし、私のことも把握している。
自分の底の浅さ。見え透いた餌をまいてしまうところ。
それに素直に引っかかってしまう彼の美徳が、どうか自分とは関わりのない世界で保たれますように。
・劇場で予告編を見て面白そうと思って観に行ったんだけど、予告編と内容ちょっと違い過ぎない…??
・おかしいなと思ったので家に帰ってきて予告編見返したけど、あれだと出てくる俳優役の人物達が誘拐されたスターを捜すのになんか尽力してるみたいに見える(特にスカーレットヨハンソン)
・主役の何でも屋さん(ジョシュ・ブローリン)のことを映画のプロデューサーと勘違いしてていつ何でも屋(というか探偵みたいな感じかと思ってた)が出てくるんだろうと…もうすでに出てたとは…。
・1950年代の話なので、劇中映画なのか、そうじゃないのかたまに区別がつかなくなるというか、モノローグが劇中映画の中の話なのかなんなのかたまによくわからなくなった。1950年代って次代設定がもうなんか映画の世界だったので。
・字幕版だとモノローグが詩的で意味を把握するまでのタイムラグがきつかったな〜。英語が理解できたらよかったのに。意味がわかるころには次の字幕へみたいな感じでちょっと辛い。
・でも吹き替えだとなまりの面白さわかんなくなっちゃうしな…。
・昔のハリウッド映画あるあるなのかな?という話題もちらほらあって、赤狩りとかアメリカ文化を障りしか知らないと「???」となる場面があったり。
・なんか散らかり方が凄かったな…という印象。劇中劇(ダンス、歌)とかやってみせたかっただけで、本筋になんの関係性もないよね?
・誘拐はなんの謎でもなくて、割とさらっと問題解決するので、「誘拐事件」を本筋と思って観に行くとちょっと肩すかし食らう。
・「誘拐事件」を本筋と思ったらスカーレットヨハンソンの部分は丸ごとなくても大丈夫だし。
・正しくは、1950年代、ハリウッド俳優たちが起こすドタバタ事件を敬虔な何でも屋が問題解決していく!映画って刺激的で面白い!!が煽り文句だと思う。
・そう思ってみるととてもユーモラス溢れて、エッジの効いた俳優達がみんな愛おしく見えるし、主役の何でも屋の気苦労がわかる。
・ジョージ・クルーニーの無駄遣いかな…と思ったけど、最後の劇中劇、大作映画の締めの台詞を言うためだけに起用されたんではないかと思った。あそこはジーンて胸にきた。
・または阿部寛(テルマエロマエ)と同じ理由で…古代ローマ顔だから??
・とにかく変な編集された予告に騙された。先入観なかったらもっと面白かったかも。
・
・次に見たいのは「マネーモンスター」http://www.moneymonster.jp/splash/
オーシャンズファンとしてはこの二人見ておかないと。ただミケランジェロプロジェクトとといい、ヘイルシーザーといい、大好きなジョージ・クルーニー出演作で微妙だな〜作品連発したので少し心配だけども監督がジョディフォスターなので信じて劇場に観に行く。
・今日の予告で気になった映画…「怒り」http://www.ikari-movie.com/
・滝藤賢一が気になるだけかもしれないけど…「SCOOP」http://scoop-movie.jp/ 滝藤さん出てるだけで全部見たくなるからほんと困る。
『累』という青年漫画がある。
大女優の娘でありながら、非常に醜い容姿の「かさね」という少女が主人公である。
かさねは、ある日《接吻した相手と、一時的に顔を取り替えられる口紅》を手に入れ――
彼女は己を「女の身体にバケモノの顔がついたよう」と表現する(実際絵的にもそういう描かれ方をする)。
髪は己の顔を隠すように長く、いつもビクビクと人目を気にしている。
道で誰かにぶつかって、会釈をする程度のことさえ「滑稽」に思えてできない。
《口紅》の力で美少女と顔を取り替えたとき、美しさを得て彼女は呟く。
劣等感のない…うたがいのない“自信”…!
それ一つ持っている事が
こんなにも快感だなんて…!
彼女にとって、世界とは、容姿によって著しく姿を変えるものである。
醜い顔のかさねが見る世界と、美しい顔の人間が見る世界は別だ、と
そしてかさねが「美しい顔で見る明るい世界」に焦がれることによって話は続いてゆく。
「俺は見た目のせいで、人間としてさえ扱ってもらえなかったんだ!」という叫びである。
おもにミソジニーの人とかが言う。
正直に言うと、この作品の主人公かさねに対しても、そういう増田たちに対しても、私は同じ気持ちを持っていた。
って感じだ。
だからといって、己の人生の不幸すべてが容姿に由来すると考えるのは不毛に思えた。
作中、かさねは非常に美しい容姿を持つ「無二の友人」を得る。
かさねも彼女が「不幸のただ中にいる」ことは薄々気がついている。
男のひとが……
私の顔を見て「美しい」とか「きれいだ」
とか言って
近づいてきたけど
皆 私をまともに
人間として扱っては
くれなかった……
あるひとは私を
“見かけだおしの欠陥品”と罵り
またあるひとは
どんなに避けても言い寄ってきて
あとをつけられたり…
襲われかけたこともある
使い方次第だわ
私なら……
○○の美しさを
もっと上手く
使いこなせる…!
私は、これを読んだときに驚いた。
前述の通り、彼女はかさねにとって無二の友人だ。
ほかの人ならともかく、友人の不幸に持つ感想それかよ!
かさねの美しさに関する執着はもはや修羅のごとしなので、まったく自然ななりゆきともいえるし
さほど重要なモノローグでもなさそうなのだが、この言葉は強く印象に残った。
それは、かさねや「容姿コンプレックスの増田」に対して私が持っている思いと、全く同じものだと気がついたからだ。
しかも彼女たちは、実際に顔を取り替えてさえ、互いの苦しみを理解できないのだ。
かさねは美しさによる苦しみなど理解できない。
「友人」である彼女も、かさねがビクビクと人目を避ける理由を理解できないし、
己がその顔になっても「他人に嘲笑われた」などの苦しみを感じない。
互いの中には己の苦しみだけがある。
人の苦しみに寄り添うのはどうしてこんなに難しいんだろう。
原作の遊戯王最終回を読み返す度に、一抹の寂しさを感じる。漫画の最終回なんてものは大抵、もう漫画のキャラ達の物語が見れなくなるから、そりゃあ悲しいだろうと思うかもしれない。しかし遊戯王にはまた違った悲しさがあるのだ。
それは恐らく闇遊戯が冥界に旅立ってしまうという一点が原因なんだろう。他の少年漫画の最終回は、キャラの明るい未来の示唆で終わることが多い印象だ。例えば金色のガッシュの最終回は、ガッシュと清麿、他の魔物とパートナー達はそれぞれの世界で自分の道を歩いていくという希望的なイメージで終わっている。
遊戯王の最終回も少し似ている。表遊戯は闇遊戯を乗り越え、自立する。そして「僕の物語は始まったばかりなんだ!」というモノローグと共に物語は表遊戯の未来、これからの物語を示唆して終わる。読者がこの最終回を読了後、表遊戯は闇遊戯と決別した未来でも力強く生きていけるんだろうなーと想像可能な終わり方だ。
そしてこの最終回では闇遊戯、アテムの進路も描かれている。それは彼が仲間と別れ、自分の在るべき場所、冥界へ帰るという未来だ。この進路には悲しさを感じさせる。作中では冥界の扉の中には、3000年前のアテムの仲間、神官達が描かれていた。だから冥界と言っても一般的な暗い死の世界というものよりかは、アテムの元いた3000年前の古代エジプトの世界と解釈出来るのだろう。アテムは表遊戯のもう1人のボクという位置付けから、アテムとしての人生を歩み出せたのだ。その点ではとても明るい未来だ。
しかし、アテムの人生がそもそも年の割に過酷(若い王として悪と戦い、自分諸共悪を千年パズルに封印する。3000年もの長い間ずっと封印されるも、表遊戯の体を借りて復活することが出来た。表遊戯や城之内達と仲間となるも、自分の正体が3000年前のものであると知り、別れを選択する)なのも相まって、これまで作中で表遊戯と共に主人公として活躍してきたアテムの行き着く先が冥界という事実は、やっと記憶も取り戻して在るべき場所に戻れたんだなと安堵しつつやはり悲しいものがある。ガッシュの場合は清麿とは別れたが、それまで出会った魔物がガッシュの側にいるし、ガッシュが王として輝かしい未来を送ることも示唆される。また清麿に手紙を送ることも出来、清麿はガッシュにいつか会いに行くと残して物語は終わる。もしかしたらガッシュと清麿が再会できるかと…と思わせる終わり方だ。
しかしアテムの場合は城之内や表遊戯と学園生活を送ることも、海馬と決闘で熱戦を繰り広げる未来も作中では絶たれてしまったのだ。しかもガッシュの場合は魔界だが、アテムの場合は死者が住む世界である。
これまでずっとアテムの華々しい活躍を見てきた一読者としては、彼の行き着く先が死者の世界なのも、もう表遊戯達や海馬と同じ世界にいることはないという未来なのも少し寂しいのだ。といっても原作の「遊戯 王」の物語として考えるとこの結末が最良で最高なのも事実である。
しかしそんな原作で感じていたもの悲しさは、昨日から公開された遊戯王劇場版で大分緩和された。詳しくはネタバレになるから言わない。だがアテムは表遊戯達と今でも仲間で、海馬とはライバルであることを知ることが出来たのだ。表遊戯達も自分の世界でしっかり生きているし、社長も元気にぶっとんでいた。久しぶりに元気な彼らに会えてとても嬉しかった。最後も中々衝撃的なオチで驚いた。
だからこれから原作を読み返しても、アテムの結末に悲しさを感じることはないだろう。
原作の続編としてこれ以上ないアンサーを叩きつけてくれたような重厚な作品だったので気になってる方は原作読んで是非見に行って欲しい。
S&Mシリーズはみなさんご存じ森博嗣の小説だ。ゲーム、漫画、ドラマ、アニメ化になっている。どれもキャラデザが原作イメージと違うのが特徴だ。
犀川創平と西之園萌絵という二人の天才が議論していたら、いつの間にか事件が解決していたというシリーズ。不適切なあらすじで申し訳ない。
96年発行なのに、VRについて現代レベルに迫っていたり、ツイッターやマイナンバーの登場を予言しちゃっているところも面白いと最近思う。SFでは無いのだが。
メインキャラ二人ともが天才なのだけど、ずば抜けている犀川に比べて萌絵はかなり劣った設定になっている。
これは、そうしないと話が動かないからだ……とメタ視点を持って読みたい。
とにもかくにも、西之園萌絵が主人公の作品だ。彼女はワトソンでは無いのだよホームズくん。
(※作者談)
中盤までを見て、彼女を嫌いだと思った人→わかる。アニメはモノローグ無いから何考えてるか分からないし。
すべF全部読んで、それでも彼女が嫌いだと思った人→わからなくもない。
この違いについては見れば、読めば、分かる。
萌絵が奇抜だったり感情的だったりするのは、一応理由がある(自分だけ運よく助かった、両親の突然の死)。
前者に関しては、それを知らないで、序盤でキャラを掴んだ気になって「ビッチだ!」と彼女を嫌いだと言う人に、最後まで見ろ!と言いたくなる。萌絵はバリバリの清純派キャラだ。
アニメや、原作1巻読んだだけで彼女の(犀川の)キャラを捉えるのはとても難しい。あまりにも複雑に作られてしまったキャラクターなのだ。「すべてがFになる」は元々5連作の4作目として作られたというエピソードからしても、「すべF」だけでどうか西之園萌絵のキャラクターを把握しないでほしい。という原作読者の重い想いを、誰か受け止めてほしいのだ。
S&Mシリーズは年を取らないサザエさん方式では無く、キャラはみんな確実に歳を取っていく。
とりあえず時系列を追って考えよう。
S&Mシリーズ10作全て見て、なお西之園萌絵が嫌いだと言う人。
嫌いなのによく読んだな、あんな長いの……というのは(四季の)百年譲って許そう。
S&M、つまり犀川&萌絵(四季 真賀田だったりもする)はシリーズを通して、二人の関係や性格が微妙に変化をしていく。
犀川は次第に優しくなり、社会にほんの少し馴染むような様子を見せている。
まぁそれにも理由があってのこと。ちゃんと全部読めば分かるが、簡潔に言えば彼女は自ら危険に関わることで、自殺願望を満たしているのだ(だから犀川が余計に優しく心配性になる)。
(※補足。萌絵も一応友達が出来たり一般庶民に馴染んだりと、かなり人当たりはよくなっていきます。犀川よりは)
最終巻「有限と微小のパン」での萌絵は、とにかくヒステリックだ。
要するに萌絵は、すべFの時に自らの過去の嫌な記憶を呼び起こした『四季』を恐怖、負そのものと認識してしまった。犀川が四季にとられてしまう、という恐怖もプラスしている。
犀川&萌絵シリーズとしては、四季の介入でスッキリしない終わり方をする。
嫌いと言う人が居るのも……仕方が無いかな。だって萌絵の最後の見せ場がヒステリックなのだ。
犀川が望む生き方を妨害してるのが、萌絵なのかもしれないし(書いてる人はそんな感想抱いていないが)、事実萌絵が話を引っ掻き回すので推理に邪魔だと感じる人が、もしかしたら居たのかもしれない(いやそこもメタ視点で読めよ、という話なのだけど……)。
じゃあ、S&Mシリーズを読んだ人はVシリーズを読んだのだろうか。
このシリーズは時系列こそ違えどS&Mと同じ世界観で、西之園萌絵をメインとした話が一作ある。「捩れ屋敷の利鈍」だ。
(これを読んだ人が、助手の国枝桃子を嫌いな人がさらに嫌いになるか、好きな人がさらに大好きなになるのかも気になる……。)
でもこの話はどうでもよくて、それ以外のVシリーズを読んだか読んでないかでS&Mシリーズへの見方が大きく意見が分かれるところがあるのだ。
『犀川が萌絵を好きになれるのか、もしくは何故好きになったのか』
正直S&Mだけ読んでもここは謎だ。彼の気持ちは分かりにくいし、S&M最終巻時点で彼が萌絵にどうしていくのかはハッキリ見えない。好きなんだろうが、犀川先生はロリコン、で片付けれられても仕方が無い程度にしか書かれていない。
だからこそ萌絵の犀川への気持ちが、あまりにも一方的に描かれてきたのだ。
しかしVシリーズを最後まで読むと、それがとてもよく分かってしまう仕組み、トリックになっている。
犀川の好みの女性が明らかになるのだ。つまり萌絵は犀川にとってドンピシャだったのだ……。
とにかく、犀川は萌絵を選ぶと再確認できるシリーズ、とでも言える(大げさだし、そんなにキャラクターは出てこないのだけど)。
ここまで読んでなお、西之園萌絵が嫌いだと言う人。
マジでなんで読んでるの?このキャラどうやっても主人公だよ?なら紅子も嫌い?よくここまで読んだね!
と言いたいけど、分からんでもないのだ!!(だって森さんの話おもしろいもんね!!)
萌絵の恋愛脳、四季ヒステリックは「四季秋」を経ても変わらないままだし。うん、ヒステリィはうざいもんね。
(ここまで読むと、萌絵が可哀想で犀川酷い男だ!という感想も、当然だと思う。犀川はなかなか酷い男だ。萌絵くらい積極的にならないと関われない。)
じゃあ、短編集「虚空の逆マトリクス」から「いつ入れ替わった?」は読んだだろうか。時系列的には「四季秋」の中盤だ。刊行時期的に「四季秋」は読んでもソレは読んでないという人が多いかもしれない。
それとも萌絵嫌いな人にはどうでもいい話なのだろうか……重要だと思ったのだが……。
そして、「四季秋」の終盤で萌絵は犀川への接し方に対して、ある解答を得ていたりする。今後彼女が彼に対しどうなっていくのか、読者は少しだけ予測することができる。
……それでも嫌い?じゃあGシリーズは読んだ?「キウイγ(ガンマ)は時計仕掛け」、読んだ?
このシリーズ1巻では萌絵の後輩たちという別キャラクターが動く話だと思って読んでいたのだけれど、もはやもう、S&Mシリーズの続編なのだ(ところどころVシリーズが影を見せるし)。
犀川が出てくるだけではなく、確実に萌絵がメインキャラを食っている(海月と加部谷が主役向きじゃ無い)、裏テーマは萌絵の成長奮闘記だろう。
髪もロングになり、美人で優しい先輩だし、しっかりと自分を分析し、過去とちゃんと向き合って、大人しくなって。
(幕間に、Xシリーズを挟み)
「すべてがFになる」で最初に犀川が言ってたとおりの、彼女の本質的な性格に戻ろうとしているのだ。
超良い女、って感じになっている。お子ちゃま萌絵ちゃんは、もう居ない。多分。
犀川にはもったいない!けれど、犀川もこのシリーズで随分丸く素直になっている。なんか禁煙までしちゃってる(読者的にいまだに信じてないし、理由をずっと考えているが)。
萌絵が落ち着いたことで、犀川と距離感すら生まれた。会えない時間が愛育てるのさと、よく言ったものだ。
本当の本当に、彼女はしっかり大人になったのだ。
Gシリーズまで読んでもなお、萌絵が嫌いですか。……残念です。あなたとは趣味が合わない模様。
読んでない方、ぜひ読んでよ。
Gシリーズ相変わらず謎のままだしトリックは浅い(というか、書きたいものがミステリィでは無いのかもしれない)けど、森博嗣が好きに書いてるのは分かるから。
目標地点までキャラクターを育ててあげよう、という意思が見えて、気持ちよかったりもするしね。
そんなこと思ってないって作者に言われたら、「あそう……」だけど。
大人しくなったと書いたけど、今後の展開が読めないので、本当に萌絵が落ち着いてくれるのかは謎です。
ただもう死にたがり萌絵ちゃんは卒業してますし、犀川先生とはあははうふふで、西之園先生になりました。
(ただし結婚していないという謎状況)
萌絵がGシリーズのメインキャラ食うどころか、主役交代劇が起こっているGシリーズの運命を、四季が握っているのは確か……最新刊を、待つ。
※追記
意外に反響あって作品人気を知るのですが、どのキャラも人間味あって可愛くて好きですよ。
特に特化して萌絵批判について考えてみた結果、愛をぶつける形になりました。
加部谷と海月…とくに海月については短編集と合わせて推理中なのですが、やっぱり主人公としては描かれていないのが、私気になります。
Gシリーズで彼の謎が解けるとも思えない…。
★★★☆☆
これ読む前に読んだのがやまむらはじめだったから、それに比べるといい意味ですごくわかりやすいマンガだなあって思った。
序盤はよかった。
選抜試験後は、面白く無い訳じゃないけど、中だるみがすごかった。
まあ簡単に宇宙にいけるわけじゃないってことを描くにはこれでも短いくらいだってのはよくわかったけど。
週間で追いかけるのはちょっとこれしんどくねーかって感じ。
アメリカ編はやっぱり取材が難しいのか、訓練がほとんど描かれてなくて、メンツが仲良くなるまでをそういった試練の中で描くというような描写がなかったのが残念だった。
途中で最新刊近くのやつをパラっと見ちゃって、日々人死んだの!?って思っちゃったけど、今のところ27巻では死んだって描写はないからよかった。
月での第一声もよかった。
捨てキャラがいなくて序盤のキャラも後でちゃんと出てきたりするからいいね。
序盤の展開とかも後でうまく活かされてたりとか。
なんかどんどんムッタが都合のいいスーパーマン的な存在になっていったのはちょっと微妙。
序盤のダメ男っぷりがまったくなくて、感情移入がかなりしづらいキャラになってしまった。
ムッタがみんなを巻き込んで味方にしていくような展開がちょっと続きすぎた。
周辺キャラもそれぞれ濃い設定を持ってて、それをだらだらしすぎることなく入れてくるのはよかった。
でもクールメガネの過去編とマフィアのところは内容の割に長すぎる気はした。
せりかのネット炎上と日本の悪いとこーみたいなのが出てるけど、結局都合よく実験成功しちゃうのが、うーんって感じ。
うまくいきすぎて・・・うまくいかなかったらそれはそれでフラストレーションたまるんだろうけども。
ある程度落として都合よく持ち上げてってのの繰り返しすぎてちょっとなあ・・・
ふたつのスピカが国内の訓練的なやつだけで終わったのがちょうどいいあんばいだった気がした。
でも国内選抜終わった後を描いたマンガは確かにこれまであまり見たことなかったから、それは面白かった。
モノローグは私、会話は俺
回顧録みたいなもんなのかな
最初に読んだときは7,8巻のムッタが宇宙飛行士に選ばれたところまでだった
ふたつのスピカ、度胸星と宇宙飛行士選抜ものをすでに読んできてて、選抜試験にはもう飽き飽きしてて、
なんとなく選ばれたところで一区切りと思って読むのやめてた
今回は他に読むものがないなーと思って何気なく手にとって改めて最初から読んだ
やまむらはじめのあとだとやっぱりすごくいい意味での差を感じるなあ・・
マンガなんて単純に相対比較できるもんじゃないけど、やっぱりマンガとしての完成度はこっちが高く感じる
こんなん絶対一般受けするやんって感じで宇宙兄弟自体にひねくれもの的な生理的反感を抱いてしまう俺ですらそう思っちゃう
前やまむらはじめの感想で書いたけど、作者の伝えたいことは1/10000しか伝わらない
宇宙兄弟はそれを承知の上で、丁寧に丁寧に描かれているから、こっちにもほぼストレートに伝わってくる
わかりやすいのがすべていいわけじゃないけど、やまむらはじめと対比するとこっちの親切さが身にしみる
あと個人的にすごいと思ったのは、メインキャラクターだけじゃなくてサブキャラクターにもしっかり設定があって、なおかつそれがマンガの中で描かれてること
俺は街の灯を見てその一つ一つに人がいて人生があってって考えて気が遠くなるタイプの人間なんだけど、
マンガのキャラクターでそれを描くのは、人気や尺の関係でだいたい難しいことが多い
よくてそういうバックグラウンドをにおわせることができる程度
まあほかがよければそれでも十分なんだけど
でもやっぱりにおわせるだけの描写と、実際に回想として描かれるのとでは全然重みが違ってくる
それもダラダラ長過ぎることも、必然性を感じさせないこともなくっていう絶妙なさじ加減で入れてくれるからすごいし、違和感を覚えない
ワンピースとかブリーチで回想に入ったまんま連載期間で数ヶ月なんてのが好きじゃない自分の飽きっぽさを、熟練した執事みたいに理解して用意して次へ進めてくれる
○朝食:なし
○昼食:おにぎり三つ
○夕食:カップヌードル(通常)
○調子
仕事は順調。
今日も通勤時間や帰ってきたからのプライベートな時間は、心ちゃんのことを考えていた。
心ちゃんの魅力とは? みたいなことをボンヤリと考えていた。
その強さの「質」みたいなのが、凄い魅力的に感じた。
モノローグが多いから、何を考えているのかわかる、実力だけじゃなく巡り合わせみたいなものが描かれてる、
辺りが魅力的に感じた理由かなあ。
もちろん、麻雀が強いところだけじゃなくて、ビジュアルや、遥さんとの関係性や、喋り方なんかももちろん魅力的。
そして何より、シノハユ、ひいては咲の世界観とか物語自体が魅力的なんだよなあ。
明日も心ちゃんのことを考えながら、頑張りたいと思う。
公開初日の今日、確か府内の上映館はここ一館な筈なのに予想よりも観客は少なかった。
主な感想としては、セリフとモノローグが多すぎる気がするということが一つだ。
大抵のとき、誰かが喋っている。
最後は、水色っぽい死んだ筈のやつが主人公に撃たれて、環境映像みたいなものが賛美歌と一緒に流されて終わるという原作を中途半端にしたみたいなものだが、水色っぽいやつが出てくるシーンがウザくて仕方がない。
くるっくる動いたり、ピアノ弾いてたり、プールに飛び込んだり、主人公と接吻したり、胸を揉んだり。
水色っぽいやつの神秘性みたいなものを出したかったはずなのだろうけど、単にイタい人間にしかみえない。
そして、えらい老人たちの会議がエヴァンゲリオンのゼーレみたいだった。SFアニメ映画なら珍しくない。
あと、原作でも思ったことだがやっぱりネーヨと思うことがある。
水色っぽいやつが、
とか言っていることだ。
言葉で殺せるなら、自分の前の席に座っていたカップルなんてとっくのとうに死んでいる。
男はイケメンだった。顔も肌も髪も綺麗で、目は大きくて、鼻が通っていて、顔が小さかった。
女の顔も良かった。
美醜というのは遺伝する。恋愛結婚が重んじられるようになったので、顔がいい人間がこれから増えていくのだろう。
アフタヌーンの短期連載系だと「弾丸ティアドロップ」(稲見独楽)は好きだったな。全2巻。
古本屋の主人——は世を忍ぶ姿の殺し屋のお姉さんにほれちゃった高校生の男の子が、お姉さんを守るためにふたりで逃げ出す話。荒唐無稽な設定なんだけど一応非現実要素(魔法とか)は入ってなくて、主人公の頑張りでどんどん物語がドライブされるのが気持ちよかった。おそらく最初から2巻の予定で作られてて、密度が高くてテンポがいい。
http://kc.kodansha.co.jp/product?isbn=9784063107050
って絶版かよ! つらいなー。
あと申し訳ないがこの表紙あんまりセンスよくない。気になった人は試し読みまでしてみてほしい。
ついでに思い出したのでもうひとつ。
これはまたかよの部類かも知らんが「はるかリフレイン」(伊藤伸平)。全1巻。
高校生の主人公はるかは彼氏であり幼馴染みでもある啓太を交通事故で亡くしてしまう。ところが葬式の日に見かけた不思議な黒猫の力で、はるかは気がつくと事故当日の目覚めた時刻に戻っていた。ここから自分がうまく立ち回れば啓太は死なずにすむかもしれない、とはるかが延々と試行錯誤する話。いわゆるループものなのだけど展開そのものにある種の人生観がこもっていて、それがはるかにある変化をもたらしていく。最後のひとこまのモノローグがその変化と対応していて印象深い。ベネッセの「高1challenge」という雑誌に連載されていたらしい。
そこそこ面白かった。
全体通しての軽妙なやりとりが魅力かな。あーいえばこーいう的な。
でもそこそこだったのはやっぱりちょっと納得いかない部分があったから。
阿部寛があまりにもわがままで駄々こねてばっかりのオコチャマっぽく描かれすぎててフィクションにしてもやり過ぎだろって感じとか。
最後女医とくっつくところも、阿部寛の心境の変化がよくわからなかったから素直に祝福できない感じとか。
心境の変化を描くのにまるまる一話使ってもいいくらいだったと思うから、なんとなく消化不良感は否めない。
まあ基本的にモノローグがないドラマで、コンビニ店員のバイト女とかレンタル屋のヤンキー男までが結婚してるってことを初めて意識した、とかいう描写で表現するしかなかったんだろうけど。
まあそこメインにしちゃうとドロドロになるけど。
親からも結婚のプレッシャーかけられてるとかいう一般的なところを表現したかっただけかな。
結局最後女医とくっつくにあたって母親がどうなったかとかもまったく語られないし。
国仲涼子は可愛かったけど、苦手なタイプの女だったから好きにはなれなかった。
高島礼子はなんとなくもっとすっごいおばさんのイメージあった(50超え?)から、なんかイメージとのギャップがあった。
んーアットホームダッドも興味あるけどさすがに続けてみるのはなあ~
追記
あーそんな描写は確かにしつこくあったね。
あの年になるまでかたくなに結婚しなかった男があれほどまでしつこくアプローチ?(好きな子にいじわるしたくなる男の子的な)をするってのがまずなんか・・・
それくらい惚れっぽければその年までにはすでに結婚してそう
みたいな
http://anond.hatelabo.jp/20150818063520
「女審神者」「女攻め」あたりのタグで刀剣乱舞の二次創作を探すと、
"男性が単なる竿役にならず、男性が受ける様子に一定の紙面を割いている"
刀剣乱舞は性的嗜好博覧会と化しているので女×男に限らずなんでも結構見つかる
女主人が刀剣男士にどぎつい淫語を言わされる小説が1000users入りしたり
刀剣男士が主人に攻められてどぎつい淫語を言いまくるのも人気
女性向け作品=プチ鬱雰囲気モノローグで尺を稼いでるという偏見があったけど、
女性向けでこんな露骨にエロいんだなあと思うようなとにかくねちっこいエロ描写もある
本当になんでもありといった様相で、控え目に言っても最高
「俺の勝ちだ、アーチャー」
「―――ああ。そして、私の敗北だ」
100万回見返したFate屈指の名シーンがついに来たな
UBWはある意味でこの瞬間を迎えるための物語だから、今回の演出は特に力が入ってた
・・・よし、来週は別の意味で大注目の回だな!ufoさんには期待してますよ~(ゲス顔)
素晴らしい点
決着のシーン。士郎がまっすぐにアーチャーへと突き進んでいくのがすごくよかった。
結界内の空の描写。士郎とアーチャーの心情を上手くあらわしている。空が晴れる描写は、士郎が理想を張り続けるということと、アーチャーが
それを思い出すという両方をあらわしていると感じた。
セイバーの描写。うまくFateルートの文を組み込むことで、セイバーの変化を示してTrueにつなげられる。まさかここからGoodはないよな……
不満点
蹴っ飛ばされた後、士郎が倒れてしまったこと。「倒れれば起きあがれないと、体が頑なに転倒を拒否していた。」のはずが、倒れてしまったの
で、モヤモヤした。
その後、立ち上がって間がかなりあったこと。士郎がかなり休んでいるように見えて、我武者羅さが半減されてしまった。
UBWでは士郎がアーチャーの背中を押し、HFではアーチャーが士郎の背中を押す
この構図がほんと好き
そうなんだよ
UBWは士郎にとっては自分を救い出す物語で、アーチャーにとっては自分を取り戻す物語なんだ。偽りの正義を為していく内に自分を失ったエミヤ(切嗣含めて)を救えるのは、いつだって士郎なのだと思い出させてくれる回だった。
アーチャーが士郎に追撃かけないのは、
士郎が立ち上がるのを諦めるのこそが見たいから。
そこには自然と間が発生するから、上手いこと必要なモノローグがねじ込めると。
こういう流れだから、なんか、士郎が立ち上がるのに藻掻いてる間があるのも
社会システムにとっての善は個人を救わないよ的な話、及び現実論諸々。
士郎の助けたい人は顔の見える個人だけど
対象を個人として認識してるからこそ「一人も取りこぼしたくなくて」
結果、「より多くを」助けようとしだすと、
最終的にシステムにとっての善を行うことになるっていう自己矛盾。
助けたいのは個なのにな。
その矛盾の極限が守護者なわけで、そこに至ってとうとうアーチャーは
「そんな願いはそもそも間違ってるし、そもそもからして借物じゃねぇかー」
とか言い出したわけだ。
で、対する士郎の答えは
達成できないのは願いの正しさを否定しねぇだろ俺は届かなくても歩み続るぞ、と。
EMIYAの使い方が面白かった。
最初流れた後に一瞬止まって、再び始まるというちょっと変わったシーン。最初のものと再開後のもので音楽が微妙に違う。
思うに最初のEMIYAはアーチャーが士郎から影響を受けて響いてきたかつての理想。そのシーンで彼は月下の誓いを思い出しかけるが、認められず拒んだために、EMIYAが消える。
再開後のは間違いではないとする士郎の理想。音が増えて厚みをましたそれは、アーチャーに届く確固とした思いを表現している。アーチャーはその姿をみて、一度拒んだ誓いを完全に思い出す。
つらい。このつらさの理由が、上司がウザい、親がウザい、といった外部の中に存在するのであれば、その対象から距離を置き、なるべく近寄らないようにするという対処法があるのだろうが、このつらさは外部ではなく内部において根を張っていて、自分が自分であり続ける限り、切り離すことが出来ないものなのだと強く感じる。
そして、「どうせ切り離すことなんて出来ないのだから観念してつらさと共存しろ。みんなそうしているのだから」と口にする、対話相手が見えていないモノローグを饒舌に語り上げることで自分を安心させたいだけのニヒリスト気取りの三流しばきあげ論者の説教に耳を貸す気はない。
自分自身のことを振り返っても、精神状態が比較的良好である時に降りかかる災厄と、精神状態が不調である時に降りかかってくる災厄とでは、自身に生じる感情の質、量には雲泥の差がある。それを自他の区別が付いていない曖昧で朧げな視点から、「俺も耐えられているのだからお前も耐えられる」と無根拠な楽観を振り撒いて他人を不幸に陥れるような人間の説教が益になるとは思っていないので、そういう人間にはさっさとブラウザの戻るボタンを押すなりウィンドウを閉じるなりしてお引き取り願いたい。
そこで、自他の区別がきちんと付いた、しばきあげ人間ではない、明晰な頭脳の持ち主であるはてなの皆さまにお伺いしたいのですが、私はこの耐え難い苦痛(実を言うとうつ病を患っています。)から逃れ去りたいと思っています。それもしばきあげ以外の方法によって。今のところ死にたいとは考えていないので、生きながらにしてなんとか苦痛から逃れる方法を模索したいと思っています(多少の無理は覚悟しています)。薬も飲みましたが、それでもなかなかよくはなりません。
皆様自身の対処法でもアドバイスでも構わないので何か有益な話をお聞かせ願えればと思いここに書き込みさせていただきました。よろしくお願いします。
『さんかれあ』という漫画がある。とても面白かった。面白い物を読んだら、その面白さについて語り合いたい。だけど俺にはそんな気の利いた友達は居ないから、いつもはネットで他の人の感想文を読んで満足することにしている。だけど、『さんかれあ』については、ちょっと検索した程度では語っている人が見つからない。だから俺が書くことにした。増田に。この感想文を読んで、一人でも多くの人が、この作品を手に取ってくれたらいいな。
では早速『さんかれあ』の魅力を語って行きたいのだが、ネタバレなしで語ることはできないので、そういうのが気になる人は先に『さんかれあ』を読み終わってから続きを読んで欲しい。
などと言うだけで本当に本が売れるなら苦労はないので、まずは立ち読み感覚でこの物語を紹介をしようと思う。
主人公はゾンビが大好きな男子高校生。死んだ飼い猫を生き返らせようと、廃墟で夜な夜な怪しい書物を元に蘇生薬を調合していた。その夜も薬の調合に精を出していると、同じく人に言えない秘密を抱えたヒロインと出くわす。ヒロインは良家のお嬢様なのだが、父親の偏狭的な愛から来る過度な束縛と、性的虐待ともとれる行為に打ちひしがれ、しかし誰にも相談できずに、ただ古井戸に向かって内心を叫ぶことで心のバランスを保っていた。彼女も主人公の作っている蘇生薬に惹かれ、二人は薬を作るため深夜に密会するようになる。それを知ったヒロインの父は二人の仲を引き裂こうとするが、逆に不慮の事故から彼女を死なせてしまう。だがなんと、主人公の作った蘇生薬を飲んでいたおかげで、彼女はゾンビとして生き返ったのだった。これは人の道を外れ、やがて腐り果てる体となりながらも、ゾンビとして刹那の人生を楽しもうとするヒロインと、その期望を叶えながらも、彼女を救う道を模索する主人公が織りなす、ボーイ・ミーツ・ガールな、ちょっとラブコメで、だいたい妖艶にエロくて、けどちょっと物悲しい、そんな青春物語──
さあ、続きが気になるなら即Amazonでポチろう! アニメにもなってるからDVDもいいぞ!
では、以降は『さんかれあ』を読み終わったことを前提にして語っていこうか。この物語は難病系の一種である。サナトリウム文学って奴である。俺は『世界の中心で、愛をさけぶ』とか『イリヤの空、UFOの夏』とかも好きだ。我ながら分かりやすい消費傾向である。パターン一緒じゃん。けど好きなのだから仕方がない。
しかしその二つと違って、『さんかれあ』は読んで号泣してしまうような物語ではなかった。端的な表現をするならば、読めば自然に目に涙が滲んで、でも流れない。そんな物語だった。思うに、これは登場人物に感情移入できないことが理由ではないか。だって俺はゾンビっ娘に萌えないし、好きな人を食いたくなって葛藤することもないし、千紘にも礼弥にも感情移入は難しい。だから、自分事ではなく他人事として物語を眺めることになるし、きっとどこか遠い世界でこんな美しい物語があったのだろうかと思うと、憧れや寂しさが複雑に混ざり合って、心臓の裏側と背骨の間にシンシンとした冷たい痛みを感じるのである。ああ、たまらない。
ひとまずは物語の全体の流れを振り返ってみることにする。『さんかれあ』は全11巻の物語で、展開はわりとはっきりしている。序盤はヒロインの家庭関係における悩みが原動力になって物語が進み、一応の決着を得る。中盤はいよいよ難病物の顔が現れてきて、主人公たちの奔走も虚しく終盤に悲劇が訪れる。
各巻ごとにもうちょっと詳しく展開を追うと、1巻目は起承転結の起で、千紘と礼弥の出会い、礼弥のゾンビ化という物語の中核を担う事件が起こり、暗に陽に物語の今後の方向性が示される。2巻目ではこの作品におけるゾンビの設定を読者に紹介しつつ、ヒロインの父親と対決し、勝利する。3巻目ではダリンからゾンビの運命が告知される。4巻目で礼弥に症状が発症し、5巻目で奇跡的な回復から小康状態を楽しみ、呑気にラブコメなんてやって、ずっとこのままでいられるかと思わせておきながら、6巻目ではばーぶを使って、千紘に生な体験としてゾンビの宿命と礼弥の未来の姿を見せつける。7巻目から8巻目でZoMAに出向いて謎の巨大な組織との戦いを経験しつつ、新たな希望を提示して、9巻目から10巻目で残っていた謎に説明を着け、その間にも礼弥の病状は深刻化し、ついに日常は崩壊し、11巻目でバッド・エンドかと思わせながら、どんでん返しでハッピー過ぎないハッピーエンド、となっている。
俺は何かと戦う姿を書いた物語が好きである。戦うとは、今の自分の境遇を少しでも良くしようともがき苦しむことである。結果として自分も人も傷つくかもしれない。だが止めるわけにはいかない。そういう、どうしようもない衝動の事である。
『さんかれあ』には主に二種類の戦いを描いた物語である。一つは自分を取り巻く周囲の人間関係との戦い、そしてもう一つは死別という生命にとって避けられない運命との戦いである。物語の始めから終わりまで、一貫して千紘は死別と戦っている。普通の難病物では、死にゆく人を死なせないために戦うのであるが、この物語では既に死んだ人を取り戻すために戦うのが、オリジナリティであり哀愁を誘う仕掛けである。一度死んだ者に仮初の生を与え、やがて失う事の決まっている仮初を、どうにか逃すまいともがくのである。生きる者は全て死ぬ。その絶対的な運命を一度回避してしまった代償に、二度目の死別はより悲劇的で凄惨な物として描かれている。
この戦いの周囲を彩るように登場人物の様々な戦いが描かれる。礼弥は父の強すぎる愛情と戦い、わんこは恋敵と戦い、ダリンは父の気を引くために戦い、じーちゃんはあらゆる死別と戦い、戦い、戦い疲れて引退している。
面白いのはこの物語に描かれたぞれぞれの戦いは、全部バラバラに並列に起こっている戦いであり、基本的に全員が自分の戦いは自分でケリを着けているところである。千紘は他の登場人物の戦いに巻き込まれはするものの、せいぜい手を貸すといった程度で、最終的な幕引きは必ず本人が行っている。例えば序盤に大きなウェイトを占める礼弥とその父との戦いだが、千紘は父側に拉致されたために巻き込まれる形になったが、本人が積極的に散華邸に乗り込むようなことは無かった上に、父の妄執を断ち切ったのは礼弥自身である。千紘が能動的に行動するのは、自分がゾンビにしてしまったばーぶや礼弥に関してのみである。これらの戦いがその時々で出たり引っ込んだりして、作品全体の緊張感を一定に保ちながら物語は進行する。
分析してみると、俺はこういう、死別と戦う話が好きなんだなぁと改めて思った。
さて、物語の骨格を分析してみたけれど、ちょっと理屈っぽくて退屈な感じになってしまったから、今度は物語の肉にあたる部分を見ていこう。いくらご大層なテーマがあっても、作品に魅力が無ければ読まれやしない。この物語を読者に読み進めさせる魅力は、やはりヒロイン、散華礼弥がとびっきりかわいいからだ。壮絶に色気を醸している。まじやべえ。
彼女は死のメタファーである。第1話の1ページ目からして腹から腸はみ出させている。まじやべえ。次の登校中の登場シーンではありきたりな、つまらない美少女キャラかな? と思うが、千紘が蘇生薬の調合なんつー怪しい作業をしている雰囲気の中で再び現れ、傘から死んだような顔をのぞかせて、何をするのかと思えば井戸に向かって大声で愚痴を叫びだす。この落差にくらくらする。静から動の変化。死から生への変化でもある。しかも、実の父親に裸の写真を撮られているらしい。アブノーマルで背徳的で、ひたすらエロい。エロいが見た目は清純キャラだ。というか彼女はエロくない、ただの被害者だ。同情すべきだ。だがしかし、劣情をかきたてられるのは、いたしかたない。
そんで、胸チラしながら千紘と一緒に蘇生薬を作りたいとか言い出す。死体をゾンビとして生き返らせる薬なんて、イケナイ物を作る作業を、一緒にやりたいとか言うわけだ。背徳的だ。こんなの絶対に二人だけの秘密だ。美少女と誰にも言えない秘密を共有? たまらんがな。優越感と自己肯定感をかきたてられる。羨ましいな!
そしてこの短いやり取りの中に「死んで別の人間に生まれ変わりたい」「実験台になってくれよ」「私がゾンビになったら」などと不穏なセリフが散りばめられている。第1話の最後のページも、可憐な笑顔と不吉なモノローグが対比して、どえらい色気なのである。なぜだろう。スイカに塩をかけると甘くなるのと似た原理かもしれない。うん、やっぱ影のある美少女っていいよね!
もーこれだけでもノックアウトなのに、第2話もエロかわいい姿を見せてくれる。特に千紘にゾンビとして生き返らせてくれと頼む時の表情はたまらない。何かを思いつめているわけだが、一度死んでゾンビとして生き返る、なんて眉唾であまり気分の良い話じゃないものを真剣に頼む様子に、やはり死のイメージを感じる。紫陽花で作った蘇生薬をばーぶに飲ませるが、生き返らなかった。そこには静かな、ただただ静かな死が表現されている。そして夜出歩いていたのを父に見つかり、自宅での軟禁生活が決まった彼女は、その夜、涙を流しながら紫陽花の毒で自殺を試みるのだ。なんともいじらしい。
そしてついに事は起こり、彼女は崖から転落死する。そのシーンがまた凄い。彼女は落下の途中に腹部を木の枝に引き裂かれ、血まみれになりながらも立ち上がり「責任取って…下さいね…」と来るのである。言うまでもなくこれはセックスを暗示する。しかも処女喪失である。暗示されているのはセックスなのに、しかし実際に描写されているのは腸のはみ出た死体である。ここで脳の認識野が多少の混乱をきたす。この混乱の結果生まれるのが、ゾクゾクするような壮絶な色気である。今まで丁寧に積み上げられてきた描写が、この血まみれの満面の笑みに集約して、散華礼弥というキャラクターを固定する。読者は完全に恋に落ち、もはや彼女から目が離せなくなる。
こうして『さんかれあ』という作品の最大の魅力が作られたというわけである。ゾンビになった彼女はむしろ生き生きとして、短くてもいいからささやかな幸せを楽しみたいと言う。いい娘すぎる。いじらしい。かわいい。それでいて、意識の混濁したゾンビとして、欲求に素直な妖艶な姿を見せたりする。たまらない。また、この表現は楽しい時間が限られている事を否応なく読者に思い知らせ、切なさを一層かきたてる。この思いは彼女の体に、癒えることのない傷が増えていくに従って強くなる。彼女は必ず失われるのだ。ああ、悲しい。切ない。彼女と一緒にいる、今この時が尊い。
もちろん魅力的なキャラクターは彼女だけではない。千紘の幼なじみにして姉さん女房役のわんこは、生のメタファーである。ゾンビとなった礼弥とは対称的な存在である。生きた生身の女なのだから当然である。それだけでなく彼女は千紘や礼弥が落ち込んでいたり、物語の分岐点で、彼らを引っ張り上げる役割をする。死の世界から救い出してくれるのである。
ダリンは患者に病状をつきつける医者の役割をする。甘い事を一切言わない恨まれ役でもある。だが間違った事も言わない筋の通った人間である。
じーちゃんもまた、いい味を出すキャラクターである。最初に蘇生丸を調合し、全ての物語の元凶となった人物。一番最初に礼弥を見た時、彼女を貞と呼び、「わしが悪かった」と謝っているが、後になってこのような細かな伏線がきちんと回収されるのが心地よい。普段はボケているのに時折見せる鋭い視線にも魅せられる。いくつもの死別を乗り越え、傷つかなくなっているのではなく、傷を飲み込み共に生きる事を覚えた成熟した男を思わせる。最期に元妻のゾンビと一緒に逝くシーンは思わず涙ぐむ。
書ききれないが他にも魅力的なキャラクターが満載である。このキャラクター達が魅力的な物語を作っているのである。
さて、長々と語ってかなり満足した。『さんかれあ』面白いからみんな読むといいよ! ああきっと、紫陽花を見る度にこの物語思い出すんだろうなぁ。