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2018-04-26

欧米の一部の学校親友を作ることがポリティカルコレクトネスに反するという考え方がされ始めたのも

今言われているような人種属性に依らないキモい差別問題になるということを予見しているからでしょうね

差別ではないけれど皆が気持ち悪いと思い誰も友達になろうとしないというような形でキモい存在社会から排除され

実質的差別が温存されるということが起こるわけです。

そういう文脈で考えると日本の(平仮名だったころの)おたく差別というのはすごく問題を先取りしていたのだと思います

しか上記のようにこの問題キモい人とも平等に付き合えというディシプリンによって解決しようというのは正直LGBTなどの問題の比ではない相当な困難でしょう。

個人的には現金支給による手当、キモい差別の解消は不可能だけど金はやるからそれでほどほどに幸せに生きてください、程度のことしか政治にできることはないんじゃないかと思います

2018-03-17

上遠野浩平オタが非オタ彼女上遠野世界を軽く紹介するための10

まあ、どのくらいの数の上遠野オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、

世界の敵ではまったくないんだが、しか自分のMPLS能力肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らない統和機構世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」

ような、スキャッターブレインの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、上遠野のことを紹介するために読ませるべき10本を選んでみたいのだけれど。

(要は「VSイマジネーター」の正反対版だな。「恋をするのは人の勝手だ。私としてはそれが互いの精神の潰しあいになることを祈るだけだ」)

あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う30巻、40巻のシリーズは避けたい。

できれば単発として読める作品、長くても4巻にとどめたい。

あと、いくら上遠野的に重要といっても捻りを感じすぎるものは避けたい。

伊福部昭好きが『サロメ』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。

そういう感じ。

彼女の設定は

ラノベ知識はいわゆる「ライト文芸」的なものを除けば、西尾維新程度は読んでいる

クラスもC9だが、階級あくまでも目的を分けるためのもので、下は上に絶対服従というわけじゃねえ!

という条件で。

まずは俺的に。出した順番は実質的には意味がない。

ブギーポップは笑わない電撃文庫

まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「ブギポ以前」を濃縮しきっていて、「ブギポ以後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。長さも283ページだし。

ただ、ここでブギトーク・ポップライフ全開にしてしまうと、彼女との関係崩壊ビートかも。

この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて――我が身を必要最小限の“情報”に変えて、今、彼女に“報告”を送れる!かということは、上遠野オタ側の「真の俯瞰認識者(オーバースケール)」の試験としてはいタスクだろうと思う。

殺竜事件講談社ノベルス)、ソウルドロップの幽体研究ノン・ノベル

アレって典型的な「上遠野オタクが考える一般人に受け入れられそうな上遠野(そう上遠野オタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの

という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな。

上遠野オタとしてはこの二つは“ミステリ”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。

冥王と獣のダンス電撃文庫

ある種のSFラノベオタが持ってるポストアポカリプスへの憧憬と、戦場ロミジュリ的なボーイミーツガールへのこだわりを彼女に紹介するという意味はいいなと思うのと、それに加えていかにも上遠野浩平な

童貞的な鈍感ハーレム主人公」を体現するトモル

童貞的に好みな無口ツンデレ女」を体現する夢幻

の二人をはじめとして、上遠野オタ好きのするキャラ世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由

ぼくらは虚空に夜を視る(徳間デュアル文庫

たぶんこれを見た彼女は「ゼーガペインだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。

この系譜作品が『虚人』のその後続いていないこと、これが星海社から再版されたこと、徳間レーベルなら劇場アニメになって、それが日本全国で公開されてもおかしくはなさそうなのに、2018年でもこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。

酸素は鏡に映らない(講談社ミステリーランド)

「やっぱり上遠野子供のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「はりねずみチクタ」でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、このレーベルにかける宇山日出臣の思いが好きだから

断腸の思いで削りに削ってそれでも2000円(税別)、っていう定価が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、その「箱入り・クロス装」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから

ミステリーランドの価格を俺自身は高いとは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが角川や富士見だったらきっちり1400円にしてしまうだろうとも思う。

なのに、各所に頭下げて迷惑かけて2000円で作ってしまう、というあたり、どうしても「かつて子どもだったあなた」としては、たとえ宇山がそういうキャラでなかったとしても、親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを、彼女に、話してみたい――と思うか……?

しずるさんと偏屈な死者たち(富士見ミステリー文庫)

今の若年層で富士ミスたことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。

星海社版よりも前の段階で、しずるさんのトンデモ推理とかよーちゃんL・O・V・E!とかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、こういうクオリティの「とってもミステリーで、ちょっぴり百合。」が富士見ミステリー文庫でこの時代に出ていたんだよ、というのは、別に自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく富士ミス好きとしては不思議に誇らしいし、いわゆる国道12号版でしかしずよーを知らない彼女には読ませてあげたいなと思う。

ビートディシプリン電撃文庫

フォルテッシモの「能力」あるいは「クレープ好き」を上遠野オタとして教えたい、というお節介焼きから読ませる、ということではなくて。

「この厳しい試練(ディシプリン)に死神ブギーポップ)は現れない」的な感覚上遠野オタには共通してあるのかなということを感じていて、だからこそアニメ版『ブギーポップは笑わない Boogiepop Phantom最終話浪人決定の卒業式以外ではあり得なかったとも思う。

能力バトル化したブギポを読む」という上遠野オタの感覚今日さらに強まっているとするなら、その「バトル寄せ」の源はディシプリンにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。

戦車のような彼女たち(講談社

これは主砲だよなあ。主砲が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。

こういうファウスト系風味の恋愛をこういうかたちで単行本化して、それが非上遠野オタに受け入れられるか「太田が悪い」を誘発するか、というのを見てみたい。

涼宮ハルヒの憂鬱角川スニーカー文庫

9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にハルヒを選んだ。

ブギポから始まってハルヒで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、このラノ以降のラノベ時代の先駆けとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。

というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。

「……なァにが“上遠野オタ軽10”だ! そんなものはオレの増田で上書きしてやる!」という炎の増田は大歓迎。

こういう試みそのものに関する意見も聞けたらまあいいじゃん。

2018-02-06

10年来の鬱とADHD傾向が改善した

 今年で28フリーター


 幼少期(小学校の低学年頃)に脳に疾患が見つかって、以来十年近く投薬治療をしていた。

 また、高校の頃からずっと鬱を患っていた。頭の中が鉛のようになって自由に動けなくなる。生活の上でそういうことが多々あった。


 ADHDも併発している。破壊的な過集中を経て朝まで眠れないことが多かった。

 バイトシフトにはちゃん遅刻せずに行く程度の社会性はあったけれど、やはりと言うべきかミスが多く、恐らく責任者も俺のことを発達障害者として認識していたみたいで、指示を出す時も俺にだけ妙に細かい明確な指示を出してくれたりした。それはそれでありがたかったのだけれど、時々ヒスを起こされることとなった。自分が主原因になっていることは分かっていたから、どちらかと言えば申し訳ない気持ちの方が強かったけれど。


 現役で地方駅弁大学入学して、卒業が近くなってから資格試験講座に通っていた。で、途中から引き篭もるようになる。

 一応何とか大学卒業できたけれど、定職に就くことはできなかった。


 自分は、根本的に人生ディシプリンというか一種の訓練期間だという固定観念を持っていて、それと同時に、より効率的自身を訓練できる人間がより優れた人間なのだという価値観を持っていた。だからと言うべきか、高校時代は朝5時に起きてジョギングを繰り返していた。恐らくその頃が、自分学力ピークになっていたと思う。

 確か当時の全国模試総合偏差値は70を超えていたはずである

 でも、そういう訓練が破綻を来たすのは思っていたよりも早かった。

 何年も日課にしていたジョギングが、高校生活半ばに突如として億劫になったのが始まりで、それ以来上手く眠ることができなくなったのだ。

 その頃から学力の減退も生じていて、自分自分コントロールできない感覚に苛まれるようになっていた。志望校ランクを一つ落として、何とか国立大学合格することはできたものの、今にして思えばあれが自分人生の最盛期だったのではないかと思う。


 大学に入ってからは、過密的な訓練期間と白痴のように生活崩壊する期間を繰り返すようになった。訓練期間には、暇があればジョギングに出かけ、膨大な量の学術書に当たった。また、複数語学習得を目指し大学ゼミを幾つも掛け持ちしていた。そして、大抵はそのような訓練期間は三ヶ月と持たずに破綻し、再び自分コントロールできずロクに睡眠も取れない白痴のような生活が始まるのだった。

 俺はそうやって訓練期間が破綻する度に、自分計画の建て方や訓練の方法に恐らくは問題があるのだと考えていた。実際、その考えにはある程度事実に沿う部分もあって、当時の俺はその自分が打ち立てた訓練方法の細部を限りなく修正し続ける作業に集中することとなった。そして、その細部を修正したトレーニング理論に基づく何ヶ月かの訓練タームを集中的に実施し、そしてその訓練タームの後には、訓練タームよりも更に長い破滅的な破綻の期間を迎えるということを繰り返していた。そのような生活大学卒業してからも戻らず、そんな具合に二十代の半ばを迎えた。


 何かが間違っていることには気付いていたけれど、何が間違っているのかはもはや分からなかった。考えつく限りの細部には工夫を凝らしてきたつもりで、主に食事における栄養バランスの調整には念入りという以上に念入りになった。卵、バナナ、木綿豆腐牛乳納豆青魚、葉野菜。こういうものバランスよく摂るようにしていた。でも、自分自分コントロールしているという感覚はついぞ訪れることはなく、相変わらず愚にもつかない趣味に熱中しては朝を迎え、疲弊しきった精神バイト先に行き、そして週末は48時間家に引き篭もって過ごすことも多くなっていた。


 いわば、この辺りが人生の暗黒期だったと言えるだろう。むしろ、そう言わずして何と呼べるのだろうか? もし他に呼び方があるとすれば誰か教えておくれ。


 さて。

 結論から言えば、この生活は現時点でかなり改善している。

 いわゆる躁鬱の躁期に入っただけの可能性も有ると言えば有るのだが、しか実証的に体系的に改善を目指した結果として、根本的に自己コントロールしているという感覚が数年ぶりに戻ってきたので、そこに関してはある種の信頼を置いている。


 原因というべき原因については既に見当がついていて、つまりそれは脳に対する血流の低下である身体におけるありとあらゆる不調や、自身コントロールを掌握できていない感覚殆ど場合、血流の低下に基づいているのであるADHDや鬱の改善に血流を効率よく増やす有酸素運動有効であることはとっくに知られていることで、つまり結局は脳の血流の有無が自己コントロール能力の有無へと繋がっているということなのだ。これを改善する為の様々な手段を講じ続けてきた結果、その中で極めて有効もののみが残ったので、それらについて以下に紹介していきたい。


 シンプルながら散歩ADHDや鬱の克服に大変役立つ行為である普段自転車原付で移動する距離を、例えば自転車原付を手で押しながら移動することで、とにかく歩く歩数を増やすことに集中した。iPhoneヘルスメーターも一応活用しており、実際に散歩した分の歩数が如実に数値として現れることにはかなりモチベーションを刺激されることとなった。


 腰の尾てい骨の下に柔らかいタオルを敷いた上での足の上げ下げなど、身体を横にして安定した状態にした上での筋トレは圧倒的に脳への血流を増やすことができる。これで週末の鬱傾向が随分と改善している。なお俺は心肺能力に二十代の半ばからかなり不安を抱えるようになったため、そこまで負荷を掛ける筋トレ実施していないが、自分の体調と相談しながら負荷を増やしていくことが肝要であるようだ。


 ドストエフスキー夏目漱石などといった純文学が望ましい。これらを読む際に脳に鋭い拒否感(としか呼びようのない感覚)が走る人間ほど、読書はうってつけの鬱・ADHD改善法となると俺は思っている。大抵の場合活字を読んだ際に訪れる決定的な拒否感は、脳に対する血流が急激に増えることに由来しているのである。そのように活字に対する拒否感が生じる際にはそっと目を閉じて、左前頭葉辺りに意識を集中してみると、はっきりと自分の脳への血流が増大している様子を感じることができると思う。特に、血流を増やす為には身体を横たえた状態でいることが望ましいのだけど、当然屋外や座った状態での読書も随分と効果を発揮する筈である。また、外国語の読解などもこの読書カテゴリーに加えておく。


  • 絵を描くこと(普段行わない趣味を行うこと)

 基本的に鬱の人間は、日々変化に欠ける生活を送っている場合が多い。

 同じパターンというか、悪い意味で安定しきった生活を送っていることが多いのである

 すると行動の多様性や、積極的な行動への意志が驚くほど抜け落ちていくという事態に遭遇した鬱持ち・ADHD持ちの人間は非常に多いのではなかろうか。というわけで俺はどちらかと言えば趣味としては読書文章を書くことに取り組むことが多く、空間的に物事を把握しそれを描写する絵などにはあまり集中力を払わないことが多かったのだけれど、これがどうやらいけなかったらしい。最近は、漫画イラストを模写したりだとか、積極的に絵を描く時間生活の中に設けるようにしている。ファミレスハンバーガーショップなどに行った時にサッと手帳を取り出して、軽く文章やそれに付する絵を描いたりすることも日課となっている。

 ここで言いたいのは、必ずしも絵を描くことが鬱やADHD改善に役立つといったことではなく、同じ行動パターンや同じ行動に固執することが如何に脳に悪影響であるかということなである。なので俺は最近文章を書き、絵を描き、詰将棋を解き、読書をし、と、とにかくやる事を一つに限定せずコロコロと変えることを意識して生活するようにしているのだ。

 鬱持ち・ADHD持ちにありがちな思考の切り替えや行動の切り替えが上手くいかない人間には、是非絵やその他普段行うことのない趣味を増やすことをオススメする。


 上で書いた通り、卵や牛乳青魚といったナチュラルフードが脳のパフォーマンスに影響することは学術的に証明されて久しい(と俺は思っている)。これはもう殆ど記述する必要性がない事実だが、しかし敢えてここに記述するからには、そこには当然ながらそれなりの理由がある。

 つまり、俺のような鬱・ADHDの併発した人間には、料理を行う際にとある事柄が圧倒的なハードルとして持ち掛かってくるということなである。つまりそれは、そう、料理煩雑さや億劫である

 基本的に鬱傾向やADHD傾向を持った人間はありとあらゆる行動に億劫さを感じるもので、よほどその行動に高い利益や見返りが見込めない限りは、その行動を行いたくないと思うものなのである。そういった面から言って、料理は味よりも栄養価と手間の少なさを重視するように俺は心がけている。準備や片付けの手間をできるだけ減らすために、単に塩焼きにしたり茹でるだけだとか、できるだけ工程の少ない料理(というか殆ど調理)で済ませられるようにしている。

 また、週末になれば殆ど外食で済ます

 脳に一定以上の煩雑さや負担押し付けないことが、ADHDや鬱改善の要点である。時にはサボることも非常に重要だ。


 追記。瞑想効果あると思う。瞑想時に、個人的には脳への血流が如実に感じられることが多く、恐らく脳に対してかなりポジティブ効果が起こっていると思われる。

 読書の後など、脳に負荷を掛けた際にその情報の整理や休憩の為に、短めのカジュアル瞑想を行うことがある。これもまたオススメ


 など


 こんなところだろうか。

 思い出し次第追記を行いたいと思う。


 今年に入って、文学小説の脳に対する効能が非常に大きいことに気付けたのは重要発見だったと思う。読書の際に襲ってくる倦厭感がむしろ血流の増大と関わっていることに気付けたのは、自分としては非常に大きな発見だったと思っている。というわけで、かなり重篤な症状持ちの人間としては、以上のような改善法を進める次第である

 上では書かなかったが、俺は重篤インターネット依存症持ちでもある。

 しかしその依存症もこの数ヶ月で劇的に改善した。俺という人間は、言うまでもなく長所よりは短所欠点の方が随分多く付きまとう人間であるからには、そんな人間にすら効果がある対処法は、恐らく全人類的に効果のある対処法となっていること請け合いである

 是非とも、皆さんにも実行してもらいたい。

 自身病癖を繰り返すようで悪いが、やはり疑いなく、「よい訓練こそが、よい人生なのだ


 それでは。

2017-09-11

anond:20170911125049

研鑽を積むみたいなノリで書いちゃったのかもと思った。

それにしてもディシプリンってプリンとかゼリーみたいなぷよぷよした物体想像してしまう。

ディシプリンを積む」ってそんな言い方あるのかと思ってググっちゃったじゃないか

規律意味解釈すると、ディシプリンがあるとか保持してるとかいう言い方が正しい。

世の人間すべからく勤勉で有能であるべき

妻と夫の、互いへの思いやり。普段からしっかりと相手を慮っていれば問題は起こらない。

相手感情機微を互いに充分に把握し、そしてその場にふさわしいふるまいで相手自分の意を伝えなくてはならない。

さらに言うなら、結婚するのであれば当然そうした問題は出来するわけで、事前にそういう事態に対して充分に予習しシミュレートしていなければならない。

そもそも、家庭生活においては金銭的余裕や、会社福利厚生がモノを言うことがある。

から立派な企業就職したり、堅調な個人事業主にならなければならない。

そのために、良い大学に入ったり専門技術を学んだりして勤勉に努めなくてはならないのは当然だ折る。

そして困ったとき夫婦間だけで問題解決を図るだけでなく、両親親戚、あるいは町内会会社の同僚や同業者趣味であう人々など人的ネットワークをしっかりと構築しなくてはならない。




理想を言えばきりがないが、お前らの言いたいことはこういうことだろう。私もそう思う。

個々人がしっかり多種多様ディシプリンを積んで有能でなくてはならないのだ。

その割にはのんびりと生きられる社会を、とか、逃げたっていいじゃん、とか言う意見もよく見かけるが、まー折り合いが難しい。ネットでは個々の事象に対して理想を言いやすいが、実はその個々の事象は裏側では綱引きをしている。あるいはシーソーの両端にある。

それにどんなに努力をしたってダメときダメだ。

なんだか書いててどう着地していいかからないんだけれど、色んな出来事があって相手に不満があったり、あるいは自分の至らない点を自覚したりしても、それは仕方がないことだ。

ディシプリンを積むのはもちろんだけれど、それでダメだったときちょっと相手を許したり、あるいは自分の至らない点をま、仕方ないかと許したり。

甘えではないんだけれど寛恕の精神というか。

まれ時代に生きているから、何もかもがうまくいくような幻想を抱きがちだ。

それに実際上手くいっている人も目に入りがちだ。

でもそうじゃない。

2016-05-29

日本の慣習について

何日か前にもブログで書いていた人がいた。日本の慣習のなかのあるものデメリットを感じて、「いらない」と思うものを挙げる内容だったと思う。

時代の移り変わりの中で、不必要とされたり、変更が必要因習は確かにあると思う。

例のブログはそこまで至らず、自分が思う「いらない」ものをただ列挙するにとどまっている。だから中学生みたいな印象を受ける。

挙げた因習について、

①何故、今不要なのか? 不要たる社会的要因は何か(例えば年賀状は、インターネットで連絡が密になったために書簡による賀礼の重要性が低下したため、だとか)。

②あるいは、なぜ不要とも思える慣習が存続しているのか。慣習のメリットは。

③廃した場合どういう影響があるか。

現実的廃止するにはどういうアクション必要か。期間やコストは。

というような要素を検討して、実現可能か論じないと意味がない。

そこまで妥当思考を出来ないと、あの文章ブログにする意味がない。中学生でも、あるいはだいたいの大人でもふと思うことだからだ。

そこから突っ込んで、何が今の社会必要で、何が不必要かまで考えなくてはならない。繰り返すがそこまで考えなくてはならない。あの文章を書くならば。

その思考をせずに、文章ネット開陳して恥ずかしくないのだろうか。

色々ある、一見すると不要とも思える因習にも、何か意外なメリットがあったりする。

あるいは、廃することが妥当因習でも、取り除くことが現今の社会では難しいものもある。

そういうところを吟味したブログを読みたいのに。一般人が書いているのだからそこまで求めなくても、と思う人もいるかもしれないけれど。

でも、ふだん働いたり学んだりするなかで、誰しもそういう知見って得られるのではないかと思うのだ。

ただ駄目なところを挙げるんじゃない、そこから思考することは誰もが出来ることだと思うんだ。というか今の社会では、思考力はかなり重要だと思う。

一般人だって自分仕事学業から考え、立論することが大切だ。


日々の生活からディシプリンを積むべきだ、というのが私の意見

そしてあのブログにはそれが微塵も感じられず残念だ、というのが私の意見です。

2016-03-09

http://anond.hatelabo.jp/20130224175755

うちは教授方針たくさん学外から取ってた。俺は学部東大の工で修士は新領域に行ったんだけど、新領域ってまあ名前の通り新領域なことをやるのが本義なのね。本郷の○○学部でやっていけなかった先生が流れてくる場所じゃいけないんだよ。それ○○学部でできるじゃん、って研究ばっかりな中で尖った研究してたのは外部から入ってきた人たちだった。研究室内でも議論するときにはとてもいい刺激になった。修士くらいってまだまだディシプリン身につけなきゃいけないレベルなことが多くって、やっぱその意味で粗削りすぎるだろって感じになったことは自分研究についても反省するところだけど、まあその分学んだことも多かったよ。

まさに君が問題を指摘している「研究テーマだけは壮大ですが、その実質は…」というやつだね。要はバランスだと思ってる。分散が大きい中で、良いバランス相互作用を出すように配分したら、そういう例が出てきて当然だし、その担い手が「ロンダ」っぽい人に偏るのは必然だね。構造的欠陥ってやつだ。

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ある夜、喫煙所で ―君が言うロンダ組は喫煙率もやったら高いんだよね― ひと悶着あったんだ。あんたみたいな人が、そのままそういう内容を本人たちに向かって口にしたわけよ。結局、みんな適当スルーしたけど。場を離れた後、学部東大出身の先輩がブチ切れてて。「あんなクソみたいなやつらの言葉に耳貸す必要ないわよ!」ってね。他大出身の後輩の中には、萎縮しちゃった人もいたので、迷惑ーって思ったね。

「多様なバックグラウンドを持った学生による、革新的で斬新な分野の研究」という理想の実現はそう簡単じゃない。せっかく賢いなら、その「ロンダ」に対する視線の代わりにもう少し建設的なことをお願いしたい。もし、入ってきた人間が、その研究室に関わりのあることで君が学ぶべきところが全くないとしたら、そもそも十分に研究議論をするような雰囲気を作れていないとかそういうことを疑って改善すべきで、その研究科入試が極端に杜撰だとか、君が perfect human だとか仮説立てるのはセンスが悪いと思うよ。もちろん雰囲気とか機会とかの問題教員問題も大きいのだろうけれど。

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ロンダがしやすいと言われている場所ってのは、教員たちが既存ディシプリン一次元的に測れる能力以外の部分をなるべく推し量って、政府流行用語つかえば「イノベーティブ」な研究教育志向して体制組んでるんだよ。それがロンダ揶揄されるのは、その試みが十分に成功していないという問題でもあるんだろうけれど、少なくとも既存ディシプリンに浸かった上にそれに反省がなさそうな君(「学部継続修士に進み」というあたりを自信たっぷりに言ってるあたり)が批判しているのを見ると、君みたいな学生を取ったことの方が間違いだと思う。それは君が無能だという意味ではなく、相性の問題で。別にディシプリンしっかり身に着けているに越したことはないけれど、「多様なバックグラウンドを持った学生による、革新的で斬新な分野の研究」を目指すのに一緒にやっていける学生を取るべきだから。もちろん、冒頭で少し漏らしたように「本郷の○○学部でやっていけなかった先生が流れてくる場所」という側面もあるし、現実はそう単純じゃないけどね。境界いたことをしてきた大物の先生たちに飲み会でどういう道筋をたどってきたか聞いてみるのも面白いよ、いろんな転換をモノにしてきている先生が多い。

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元増田批判的な書き方になったけど、学際領域が抱えるあるある問題で、ちょっとその点に関する研究教育の在り方が進歩しなさすぎだよね。もう少し研究室間とかで良い相互作用を起こすための知見とかが共有されるべきだとか、研究科としての改善必要だと思う。元増田関係しそうな読者もロンダと言われている人たちへのマウンティングではなく、学際領域での研究教育問題として捉えなおして考えて欲しい。

2015-11-06

小学生の考えていることが分からない

来春、息子の小学校就学を控え、地元公立校に足を運んだ。一人授業参観である

授業を見てどうなるというわけでもないが、全く知らない場所に愚息をホイっとやるのは快いものではない。

職員兼来訪者用玄関で受付を済ませ、1年生の授業を参観した。

おそろしく退屈であった。

教師教科書に書いてあることをそのまま板書し、教科書に書いてあることをそのまま読み上げる。

子供たちはおとなしく座っていたが、私の集中力はすぐに切れてしまった。

算数の授業では、持参したノートPCYouTubeを観ていた。私が。

ネットに転がっている解説動画の方が授業より分かりやすいのだ。

ほんの少し検索しただけで、授業よりはるかにマシな動画が見つかる。

通信教育、有料サービスならもっと多くの、高品質な""授業""を受けられるだろう。

子供たちの心情が分からない。

授業の質が低いこと、Google先生の方が優秀なことくらい、子供でも理解できる。ネタ割れているのだ。

学校が終わったあと、青いバックを背負って塾に通う子ならなおさらだろう。

バカバカしくなって、親に良心登校拒否を宣言する子供が8割くらい存在してもいいはずである

しかし私が見た子供たちは実におとなしかった。席を立つ子、大声でおしゃべりする子はいない。

日本学校制度軍隊モデルにして作られたが、授業で得られるものはまさにディシプリンしかない。

ひょっとしたら、子供たちは規律を身体に叩き込んでいることを自覚しているのかもしれない。学校デタラメさもググれば分かる。

さて、どうしたものか。

私学? 同じでしょ。

できることなら、オドレイ・トトゥ演じるアメリみたいに、親自ら勉強を教えてやりたい。

でも、うちは共働きなのだ詰んだ

2012-09-18

http://anond.hatelabo.jp/20120918151150

大きな成功という括りにすればするほど測る目盛りがドンドン荒くなってくから抽象化するしかなくなる

具体的な成功体験を語るとなると小さい目盛りの定規でしか測れない無数のディシプリンの束が必要なのだけれども

マイケル・ジョーダンシュート9000本外してるとか聞いてなるほどと思う

2011-02-09

高校時代

地方の、あるトップの公立高校にいた僕は、ドストエフスキーの「地下室の手記」の主人公よろしく病んでいた。周りの同級生達は、とりあえず旧帝大医学部、ってノリだけで生きている連中だった。教師は学歴の崇高さをアジることしかしない。全く、憎いほどに均一的、よく出来た社会と成員。「ディシプリン?あぁ、discipline? シス単第何章だっけ?」ってね。僕だけは違った。僕は彼らにはない、「教養」を持っていた。文学作品はおそらくそ学校の誰よりも読み込んでいただろうし、人文学社会学古典もなるだけ消化使用としていた。古典芸術に思いを馳せながら、少女漫画や古いアニメ作品は必ず手の届くところに置いておく。つまり僕は「崇高な」悩める17才だった。ま、それだって、今からしたら、ばからしいことでしかない。周囲との何となく縮められない距離感に対する幼稚な当てつけだったんだ。周りの愛すべき同級生達、教師も、それぞれの現実を生きようと必死だったのだから。僕は虚しい観念論者だった。

反省しているようで、まだ相変らずだけれど。

2010-11-03

http://anond.hatelabo.jp/20101103122257

ウンコに見る疎外のシステム論」

観念と実在、ウンコにおける疎外の構造

観念論的存在者、ウンコに見る表象の変遷」

ディシプリンとしてのウンコ

「肛門期を突き抜けて―精神制度としてのウンコ

スカトロジーークィア理論からの汚物愛好論」

どれでも論文一本書けそうだ。切り口はフォイエルバッハマルクスからフーコーまで行けるな!

ウンコ哲学、むしろ哲学ウンコだと言っても過言じゃない。

2010-10-11

目的論的生命

生命目的が子孫を残すことだ、っていうのは実はちょっとおかしな話なんだよね。

だって、じゃあ自己複製型の増殖をする生命は『子孫』を残すんだろうか。生物スタートラインはむしろこっちだったはずで、

自己コピーが際限なく継続することを「子孫を残す」とはちょっと言わないよね。

その過程の中で「無性生殖遺伝子のヴァリーエションに乏しいんだよな」っつーことで有性生殖が出て来た。

実はここで生命目的論的展開がすりかわってるんだよね。

自己の反復・継続が主目的だった生命がある程度自己を捨て去って多様性にシフトしてる。

この時点で「あれー、生命ってなにしたいねん?」って話に普通はなる。だって、幾ら遺伝子の一部が残るとしても

それは自己じゃない。単性生殖生命は明らかに自己の保存を重要視してる。

そこで、不意に母性の話なんだけれども。

最近研究で「母性本能」っていうのは神話に過ぎないことがわかっている。

ちょっと面倒な言葉を使うと「遺伝由来ではない」じぇねりっくえんどうめんとじゃないんだよね。

あれは、高等な生物サル以上くらい)に於いては社会生活によって形成されるもので、遺伝子上からはデリートされてる。

社会由来の生態なんだ。人間にしてももちろんそうで、実は人間アプリオリ母性本能なんてものはない。

教えてもらわなきゃわからないことなんだ。

そういうわけで、「子孫繁栄」ってのは人類にとって生物としての要請ではなく

社会的要請」なんだ。固体の要求ではなく、社会的存在としての人類が要求しているってこと。

だから、「子孫を残す」ことは生物としての勝ち負けではなくむしろ人類としての勝ち負けなんだ。

子孫を残したいという欲求は、本能ではなくむしろ制度に近い。ディシプリンという奴だ。

生物学という神話と結びついて強固化された制度に過ぎない。「直観的」とどっかの増田は言ってるけど、それは先験的なものでは全くなくモダン以前の人類史によって形作られた制度なんだ。どっかのハゲホモがそう言ってた通り。

しかし、最近になって人類は増え過ぎた。地球のキャパを越えて増え過ぎる我々は社会的要請より「多過ぎるわボケ」って

ことに問題を感じたりすることもある。まぁ、わが国は少子化なんだけれども。

要するに、人間の生存に「個体数」が大きな影響を及ぼさなくなってきてるんだ。少なくとも、先進国の中では。

では、元来が社会的要請であった「子孫を残す」もっといえば「殖える」っていうは、現在になってそれほど大きな要請じゃない。

子供作んなきゃ全滅しちゃうよ!誰が畑を耕して獲物を狩るんだよ!なんてコミュニティはあんまりない。

なにが言いたいって全ての生命を貫く大きな目的論なんてないんだよね。

もちろん、ガイア仮説からさらに引っ張った「人類地球精子だ、人類宇宙に出て行く生殖細胞だ、地球は大きな精子バンクだ」みたいなトンデモ仮説を出すことは出来るんだけど。生命目的論なんてのは結局確定できない。誰に聞いてもわからない。

そういうわけで、もっとずーっと階層を落として考えると、生命の「目的」というか明らかに共通する「目標」みたいなものはある。

それは欲求の充足ってこと。メシを食うとか性欲を満たすとか(≠生殖。同性もオナニーもアリ)そういうこと。こればっかりはどんな生物もあんまり関係なくある。もっと高い階層の欲求、社会的な欲求も含めて。

これをカッキリ満たした人が勝ち組なんじゃないかなぁ、生物学的に考えて、と俺は思う。だって、これくらいしか生命の共通する価値原則ってないんだから。だから、美味しいもの食べて楽しく生きて満足して死ね勝ち組だよ、生物学的に考えて。

・・・と哲学専攻出身の人間うろ覚えの知識で書いてみた。

ガチ生物学畑の人添削してくれ。

まとめ。

・「子孫を残す」っていうのは生物学的な要請ではなく人類史的な社会的要請だよ。

社会的要請っていうけど、それはちょっと古い時代のことで現在ではそんなに要請されてないよ。

・楽しく生きて満足して死ね生物学的には勝ち組だよ。

・子なしは負け組み、という観念生物学的というよりはむしろ宗教的だよ。

・子なしは近代以前の人類として負け組、なら割と合ってるかもしんないよ。

2009-09-21

ディシプリンって美味しそう

なんだか、Wiiウェアの『ディシプリン帝国誕生』ってゲームが人気だそうなのでちょっと調べてみた。http://www.famitsu.com/game/coming/1226321_1407.html

2 you液を発射

Wiiリモコンを画面に向けると視点が切り替わり、“オレの世界モード突入。ここでプレイヤーは、壁やトイレなど収容所設備にyou液を発射できる。解消される欲求は設備によって大きく異なる。

プレイしてないので推測するしかないけど、これどう考えてもオナニーじゃん! ええええええ、Wiiってこういうのも赦しちゃえるんだ。ずいぶんと懐が深いのう。次はもっと、暗喩的でもかまわないのでエロな方向の作品を一つお願いしたいところだ。

2009-08-12

被る経験の少なさ

男性はさあ。女性に比べて、

「被る」っていう経験をする機会が少ないんだろうなあと思う。

痴漢とか、

ブックオフ少女漫画立ち読みしてると、後ろから変な親父がぴたっとくっついてきて

私の尻に勃起したチンコをあてるわけよ。

短パンから出して、生の、湿ったチンコを。

私はそのとき「被った」んですよ、そういう経験おそらく女子ならしょっちゅうですよ。程度や回数は多かれ少なかれ

その経験したときから半年くらい経つけど、

ブックオフに行くたびに、後ろを振り返るようになった。

だから男性全員は痴漢に間違われないように注意しろ、ということではない。

俺が初対面で、ブックオフにいたような野郎と似た系統の人を見たときに、その人がどんなに本質的にいい人だろうが、「こいつぁ私よりも強い力を持っている」と感じてしまうことがあって、それは問題であると同時に、仕方のないことのようにも思う。

男女が逆になったパターンもあって、

スイーツ(笑)系の女子を見たら、頭の中もえびちゃんなんだって、俺が第一印象で思ってしまうのは、

いたしかたないことなんだと思う。

そしてそういうディシプリンをすでに持った状態で、私たちは、関係というものを始めるのだ、ということを、認識しておくことが大事なんじゃないかと思う。

だから、吠えるフェミニストを頭ごなしに否定するのではなく、

なぜ彼女たちが吠えているのかを、彼女たちが私が経験したことのない恐怖(ブックオフでのできごとは、恐怖としか言えないような事態だった、うまく言語化できないが、自分の無力さ、何をすることもできない絶望感を味わった)を、感じたことがあるのだと、それだけは受容しようと思うんだけど

どうなんでしょうか。

 
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