はてなキーワード: 承認とは
小町や既婚家庭板のまとめブログへ移住したら?みたいな増田ネタ(anond:20200924185457、anond:20200925062730)に限らず、
ズーーーーーーーーーーーーーーーーっと
傷ついた傷ついた承認しろ承認しろ共感しろ共感しろってやっとるやんけ
過敏な人は自衛をしてSNSやるべきではない。自衛する判断能力が無いと言うなら尊厳の話になると思っているが、
一方で気軽に自身の個性や病状を気にせず、気軽に使えるSNSがあっても良いとは思っている
宗教によらず(告白・懺悔・赦し)、個人のモラルで現実的なコストで作れるかな?
創作含めたあらゆるワークは誰のためでもない自分自身のためにするものだ
いちいち交流だの承認だの言っている方がどうかしている(マーケティングとして意図的に戦略的に行っている場合は除く)
クリエイターはメンヘラが多いから拗ねて作品の制作や自分自身の命を投げ出されたら大変だから口にしないだけだぜ
ご機嫌取りはしなくても、作品に敬意を払って黙ることくらいは誰しもできる
他罰的は、自分の欲求不満の原因を外部に求め、他人を非難したり、外部の物・状況に対して攻撃反応を示したりする傾向のこというよ
語感がしっくりこないなら他責でもいい
元増田が同じこの増田とおなじ増田かは知らんけど大枠で話はいっしょ ↓
2020-07-12
他人への恨みが忘れられない人へ贈る言葉2選 (anond:20200712090100)
「 誰 も あ な た の 承 認 な し に 、あ な た の プ ライ ド を 傷 つ け る こ と は で き な い」
他人に恨みを抱いているということは、多かれ少なかれ、他人に尊厳を傷つけられたということである。
しかし、こう考えることはできないだろうか。
誰かの投げた言葉・行動をどう受け止めるかは、投げた人物ではなく、
それを受け取った人物が決めることだ
自分で傷つくって、決断してるわけだね、自分で決めたことだからそれはぶっちゃけ誰のせいでも無い
たとえば、名誉棄損・侮辱は犯罪は、法にそって処理すると良いと思う
親告罪だから告訴しなきゃ何も起きないっちゃ起きないけど犯罪は犯罪です
気にするとか気にしないとかの話ではないです
そんな時に自分自身はどう対応するか・どういう態度を取るかという話なのよ
頭口手足を使って、改善をする/関わらないように逃げる など、積極的に問題を解決しようとするか、
イッヌみたいに 😡(怒)や🥺(ぴえん) で相手攻撃・コントロールを試みるのか
ただ、イッヌタイプは、ジャッジせず、ただ人に寄り添うことができるひとたちだと思うよ
なので良い悪いでは無いね
ちょうど同じ時期にバズっていたけど似た話だなと思った
という意識を語る一文が、あまりにも扇情的な言い方だったのをきっかけに盛大に炎上したが
不思議だった。なぜ絶対に現実に手をだすことがないようにしようとする努力を周囲に訴えて燃えるのか
あの訴えに反対するやべぇショタコンが現れて現実のショタ犯しまーすって言ってそいつが炎上するなら分かる
人類とは、この香水は最高なのでうんこの匂いとはまったくちがういい香りがします
という文章をみるとうんこを嗅がされたと怒る人がたくさんいる種族で
そんな人達に漫画という伝達力がたかいメディアを見せてしまったことは配慮がたりなかったのだ
ショタにしか性的な興奮ができないよう生まれ持ってしまった人に対しても配慮が必要なように
飛躍ばかりが取り柄の脳ミソのくせに議論だけは重ねたがるような人たちへの配慮として
体験からエッセイ漫画を描けるだけの能力をもった人は鍵垢をつけて配慮してあげる必要があるのだ
そうしないと児童への性的加害を肯定していて過激さを競ってるとかなんとか
ありもしない態度からつくったありもしない論点による承認稼ぎツイートのネタにされてしまう
なんでもいいがキャッチーで憂いてる感じがだせるワードをつかって
シリアス大喜利でいいね稼ぎができれば本当は最初の漫画が何を言っていたかなんてどうでもいい人たちだ
さいしょは鍵垢をつけて隠れてやれって意見にも反対だったが
秋葉原通り魔事件。宮崎勤の事件。ああいう事件で「抑圧されて育った人間の歪み」を見聞きするたびに、他人事ではないなと感じる。
母親は教育関係の仕事をしており、子どもを立派な大学に入れたスーパーマザーである。
しかし、その子どもは、無事に無い内定引きこもり無職(一応学生)となっている。社会性が育つ場面で極端に制限をかけられた子どもがどうなるか。20年をかけた壮大な人体実験の記録を一つ読んで欲しい。
1.恐怖で抑圧させて勉強させられてきた幼少期
私は物心つく3歳の頃から、毎日「ノルマ」を課せられ、やりたくもない勉強と向き合い続けてきた。母親が帰ってくる前までに母親の決めた「ノルマ」を仕上げないといけない。このノルマが終わっていないと、「指導」が始まるのである。例えば、「なぜ今日は出来なかったのか」について一時間、二時間、と向き合う。答えられず無言でいると「そうやって私を無視するのか」と詰められ、「バカだったからです」と答えれば「勉強が出来ないバカは家から追い出す」、「離婚したダメ父親の元に送る」、などが提案される。この「話し合い」は深夜にまで及び、「なぜできなかったのか」答えさせられる「自己批判」の時間では「どのように答えればこの人は納得して寝かせてくれるのだろうか」をパニック状態の頭で考えることとなるが、どれを答えても地雷。最後には不甲斐ない自分に関する悔し涙を流す。すると「反省しているポーズをとるな」と詰められる。涙を拭けとティッシュを渡され、鼻水を拭いたティッシュを丸めて置いておく。
「今日のノルマをやってから寝るよ」。勉強をしていて情けなさに涙をこぼすと、「泣くな!」と怒られ、鼻水を拭いたティッシュを口に入れられることもあった。彼女自身、子どもを支配するのに必死だったように思う。子どもの一日というのは大変長く、誘惑に満ちているので、ついつい遊んでしまうのだが、昨晩課された、あるいはノルマ棚に置かれたプリントを見て勉強をするほど私は賢くはなく、この「指導」の時間が辛く無駄な時間だったと感じる。
そんな物理的な圧で勉強に向かわせてくる母親であったから、うちはゲームが禁止だった。周りの友達が全員「たまごっち」を持っている中、買ってもらえずに輪に入れないということもあった。何度かお願いをしてみたのだが、ダメだったし、この人には何を言ってもダメだと分かっていたから、諦めた。現在、「スーパーマリオ」や「ポケモン」は基礎教養だと思うが、私はそれらで遊んだことが無く、アクセスできなかったため、それらに関する話題が出た時に全くついていけないのがかなり困っている。一生困ると思う。「ポケモンの金銀並みだな~」とかいう比喩表現を聞いたとき、「そうですね」とへらへらと笑って合わせていくスキルを20過ぎに身に着けたが、付け焼刃感というか、相手の言っていることが何も分からないので悲しい。
友達の家でやればいいというお声もあるだろうが、「母の目の敵にしているゲームを触ること」は私にとっては「大麻にトライすること」くらいハードルが高かったのである。今でもゲームをしている人を見ると謎の居心地の悪さを覚えてしまう。
漫画は、年の離れた兄弟が大量に所持しており、そこからこっそりと借りることが出来た。捨てられたジャンプから、好きな漫画をカッターで切り抜いて、単行本を作っていた。ただし見つかると「私刑」である。生命活動を勉強時間に全振りすることで東大に合格できると思い込んでいた母親は、勉強以外の活動をしていると烈火のごとく怒った。弟の気に入って隠し読んでいた「純情パイン」は八つ裂きにされて捨てられてしまった。
幸いにして私は小説を読む方にはまっており、私のメインの趣味である読書は「推奨」される行為だった。(ただしノルマをやった後、寝る時間を惜しんで読書を優先すると叩かれる)図書館のお気に入りの本は読みつくしたし、母親の検閲(中身には興味がなく、文字かそうじゃないかが重要だった)をクリアする「涼宮ハルヒの憂鬱」等ライトノベルには大変お世話になった。グロ系や耽美、18禁のものも、「本」なので良かった。ここに関しては寛大な処置を頂いたと思っている。
そんな読書少女に育った私は、頭でっかちの、言語性だけが身に付いた、悲しいモンスターだった。小学生の頃、女子特有のクラスのトラブルに悩んだ時、最高指導者である母に相談してみた。すると「増田ちゃんはそんなレベルの低い子と無理して仲良くしたいの?」と一刀両断。そうか。周りの子はレベルが低いから、関わらなくていいのか。誤解した増田ちゃんは「基本的に物腰は柔らかいが、トラブルにすら巻き込まれないように一歩身をひく付き合い」を心がけるようになる。また、友達と遊ぶことは制限されており、家に友だちを呼んではいけなかった。新しい友達も「どこの、誰で、何をしている親の、どういう子」かを説明するという責任があり、母親に認められない子と遊ぶことは良い顔をされなかった。そんな中でも文通をしたり、こっそり会うといった方法で仲良くしてくれた友人には頭が上がらないのだが、やはり「友人と遊ぶ」ことがダメなので、せっかく仲良くなったクラスメイトとお祭りや、ショッピングなど楽しいイベントに出かけることは出来なかった。(そもそも自由なお金がなかったし、バスにも乗れなった)
高校では、最初は素敵な友人グループに属させてもらった。友人たちと仲良くしてもらって感謝しているが、その中でも「この間のショッピングモールで~」のような会話にはついていけないことが増えていく。ついに深い交流をすることは出来なかった。今でも交友関係を続けている同級生同士がとても羨ましい。
そういった抑圧の下で生きてきた結果、やはり20代半ばで実感しているのが、「勉強だけ出来てもダメ」ということだ。
最近の教育分野では「非認知能力(社交性とかもろもろ)」が重視されているが、詰め込みノルマ型の勉強の成果をどうにか形にしたり、就職して社会に還元したりする上ではこの能力が必須である。元々ASD傾向がある上に、社交の一切合切を無駄と切り捨てられて育ったことは大変大きな損失だった。そもそも母親も社交スキルが低く、同級生のママを見下しながら、自分が適応できないことの憂さ晴らしをしていた。母親も、社交スキルをどう教えて良いか分からなかったのだと思う。その結果、「コミュ強を見下す」という戦略に走ってしまった。結果はどうか。増田で長文を投稿し、コロナもあって友人関係が更に狭まり、就活で全滅の、「無敵の人」予備軍の出来上がりである。
母親は上記のようなことをほぼ忘れ、「でも〇大に受かったから、よくママ頑張ったでしょ」と承認を求めてくる。〇大に受かっていなかったら、今よりも肩身が狭い、バカのコミュ障が出来上がっていたかもしれない。
ただ、〇大に受かった後、うつになり、頭の良さがかなり下がったので、結局「何もできないコミュ障」が完成してしまった。
20年をかけ、社会的なコミュニケーション能力を切り捨てて詰め込み教育をするとどうなるか??うつになり、頭も悪くなる。
「アルジャーノンに花束を」のチャーリィよろしく、どんどん阿呆になっていく様を記録して後世に残すことが私の役目なのかもしれない。
マジでそろそろほっとけない所まで来てる。
まるで、政治団体やカルトが大学のサークルや地元の老人会を支配するかのように、氷河期世代の連中がはてなを自分たちの為の活動拠点として改造しつつある。
特定の集団によるポジショントークがイデオロギーとなり、それに迎合することで承認が得られ、反対の方を向くと袋叩きにされる流れは遊び場として非常によろしくない。
国内外から安倍政権に対する評価が出てきているけれど、安倍政権を支持するか/しないかの間には、埋まらない断絶があるなと改めて思った。
評価しているポイントが全く異次元なので、互いに、そもそも会話すら出来る気がしないのではないかとも感じる。
リベラルサイドからは、戦争法案の呼称で反対され、かの有名な「女の盾」作戦で女性議員に触れたらセクハラと叫ぶことで議決を阻止しようとしたり、SEALDSが国会外でラップを歌って大活躍した法案だ。
集団的自衛権によって日米同盟が強固になり、その後の中国(尖閣諸島への言動)と、それに対する米国の反応を考えれば、
日本の安全保障にとっておおきな恩恵をもたらしていることは明白で、防衛費の増大という課題はありつつも安倍政権の大きな成果といってもいい。
安全保障が強固になった点は、日本人の経済活動や生活にとって計り知れない利益があるし、安倍政権がのこしてくれた大きな成果だろう。
リベラルサイドからは、特高が出来て逮捕されるぞ、自由がなくなるぞと、国民が監視されると反対されていた法案だ。
これも結局のところ、ファイブアイズとの間で情報を交換する上で、ファイブアイズが納得するだけの法整備が必要であったと言うだけにすぎないと私は理解してるし、
現にシックスアイズにしてもいいよ?という反応が出てくるようになったのは、この法案のおかげでもある。
我々が実感できる機会はないだろうけど同盟国との間で情報共有がしやすくなれば安全保障の上でのメリットは大きいはずだ。
心配されたような恣意的な運用どころか、機密情報漏洩による立件も数件しかないようなので、外交的なメリットだけが残ったと言ってよく、安倍政権の成果の一つとなった。
リベラルサイドからは、共謀罪だ、国民が監視されると反対された法案だ。
これのメリットはシンプルに、TOC条約の締結と加盟だった。これによって犯罪捜査、テロ対策において国家間で協力しやすくなったことで、
当時は予定されていた東京五輪開催に向けての不安材料の一つが解消されたと言ってもいい。
反政府活動家にとってはさぞかし窮屈だろうと思うが、我々にとっては日常の安全がまた一つ保障されたわけで、これも安倍政権の成果の一つと言える。
当時は、アメリカが承認しない可能性が濃厚となることから、強く反対しないまでも私にも疑問はあった。
だが、TPP11加盟を推進して以降の、日本の国際的な地位の向上や、英国が加盟を望んで接近してくるなどの外交面でのメリット
知的財産権の保護、政府調達、国有企業の改革などでルールが定まった事によるメリットを考えると、これは正解だったなと思える。
株価、GDPなど経済的な指標が軒並み大きく回復し、雇用状況も改善された。
個人的には、壊滅的だった金融資産が復活し、所得が10%以上伸び、賞与も毎年5か月分受け取れるようになったなど、大きすぎるメリットがあった。
GDP600兆円未達で達成までの道のりも示されたとは言えず、大成功だったとまではいわないが、アベノミクスの成果には個人的には高評価しかない。
説明不要だろう。これによって長らく続いた不毛な議論から解放された事は大きい。
その後、日韓慰安婦合意を無効にしたがる、日韓請求権協定を無視するなど、国際法違反連発するに至って、国内外に韓国の実態が知れ渡った功績は小さくはない。
他の功績に比較すれば、大きなものではないが、国民的には拍手喝采を送りたい成果だろう。
何かと批判があったアベノマスクにしても、その後にはWHOもCDCも布マスクにも有効性を認めマスクを推奨するに至った。
施策を打ち出した当時はマスクの流通がなく、買い占めを抑制する意味でもマスク配布決定そのものに意味はあったし、経済対策にしても世界的に見ても屈指といっていい規模のものになった。
国民に10万円支給はやりすぎかつ不要だと私には思えていたが、それによって助かった人もいるのだろうし、まったくダメとは思わない。
被害者数も世界的には非常に少なく、強制的なロックダウンを憲法違反になるために行えないという制約がありながらも、世界的に高い評価が得られる防疫実績を残している。
他国を見た時に、非常によくやった国の一つになったことは、専門家を信じ切った安倍政権の成果だろう。
仰る通り。維新の党も含めて、与野党の折衷案に携わった政治家はいい仕事をしたと思う。維新のおときたが動画で手柄を自慢してたね。
訪日観光客の増加、対インド外交、消費税増税なども成果とは言えるか。
消費税増税は、2050年には医療費が年間50兆円に達し、医療の崩壊は確実視されるなかでは避けられないものだったし、いつかは誰かがやるべきものだった。
その点では、野田政権もそうだし、泥をかぶった政権を高く評価したい。50年後に私たちの孫や子供の負担軽減の為にも消費税増税は必要だったと思っている。
振り返ってみると、とりわけ大きな話題に限っても安倍政権が残した実績は小さくない。
10年未来の方向性を定めることは出来たし安倍政権で良かったと思うが、懸案事項だった改憲が達成できなかったなど、更に未来にまで残る大きな功績は残せなかったなとも思う。
また、対露・対北朝鮮外交においては、北方領土問題、拉致被害者問題解決に向けて失敗したのではないかと思う。この点では評価を下げざるを得ない。
「関与していれば首相を辞める」と言わなくてもいい発言をしたことで、その後、モリカケ桜でくだらない時間を浪費して、首を最後まで狙われ続ける事になった。
ストレスが病状の悪化の一因になっていた可能性は高いだろうし、その意味では野党は嫌がらせの目的は達成したのかもしれない。
官公庁の問題が明るみに出たから、全く無駄な時間だったとまでは言わないが、官庁の問題を正すに必要以上の時間を使い、生産性の低い難癖に終始するだけで時間を浪費した原因は不用意な一言にあったと言っていい。
国会運営において老練の手腕を示すどころか、青いなと思わされる発言もあった。その点が悔やまれる。
長期間にわたって国会運営を邪魔され、時間を空費してなければ、より大きな成果を遺せたはずだ。
既にいくつも報道があったように海外メディア、政治家の安倍政権にたいする評価はおおむね高い(朝鮮は除く)。国内世論調査でも70%の人が肯定的に評価している。それも当然だろう。
私も同様に概ね安倍政権を高く評価しているけれど、安倍政権を評価できない人の頭の中にはモリカケしかなく、互いにまるで理解できないだろうとは思う。
恐らくは、この記事のブコメを見てもそう感じる事になるだろうし、両者には相当な断絶がある。
安倍を評価しないという人々にとっては上記は成果ではない。政権を支持すれば、偉大な知性ではない死んだほうがいい、とまで博士号を取得した大学教員に言われるほどだ。
博士を取得した最高の知性の持ち主まで、出てくる言葉が「死んだ方がいい」となると、相互の理解など、まず不可能だろう。
政権を吹き飛ばす証拠として修正液で名前を消したように見せた書類を持ち出すくらい妄想にまみれた彼らからはモリカケ以外の語彙が失われている。
彼らの感情に寄り添えない私は諦めたよw
全て見てないけど、見る感じではブコメは想像通りに、モリカケでしか安倍政権を評価したくない人々が並んでるはずだ
一方で、他国からは世界の損失とまで評価され、日本でも私とは多少の違いはあってもプラス評価と言う人も多くいるのは事実ではある。
断絶は明白だし、次元の低い方へ高い方が歩み寄らないと会話は成立しない訳だけど、ただの官僚のミスや民主党政権時代もあった官庁の欠陥(それを知ってたから利用したのだろうが)
を大袈裟に騒いで首相のクビを狙うどころか、官庁における出世を絶望的状態にして自殺に追いやって、しかも無自覚な連中の視点に降りるのもね・・・
(大学教員が、死んだ方がいいと公言して、まともな謝罪も出来ない程、死に無自覚で残酷なリベラルらしいと思うが)
取るに足らない事を言い続け、多数派を説得できるどころか、支持を失い続けている少数派など捨てておいて問題ないのが民主主義
https://anond.hatelabo.jp/20200901143750
を読んだ。
『今では誰に褒められても、「ああ、社交辞令だな」としか思わない。それどころか「馬鹿にされているんじゃないか」といらいらしてくる。』
という文に強く共感し、悲しくなった。
私には両親は出来がいいと信じ続けている兄が1人いる。
兄は結局地元の偏差値50そこそこの私大に入り留年しつつも卒業した。
今はフリーターをしている。
そんな兄を両親親戚は今でも賢い子だからいい高校に入り地元の大学に行けたと褒めている。
もちろん留年することもなく、理系だったが学部で卒業し、誰もがよく知る企業に総合職として入社した。
兄と私を比べると一般的に褒められるのは私だと思うのはいけないことなのだろうか。
幼少期を含め今まで親、特に母親に褒められた記憶が一度もない。
持ち帰っても何かを言われたことはない。
兄は80点でケーキを買ってもらうくらいには褒められていた。
これについても何かを触れられたことはない。
兄は部活を頑張っていることを理由に平均取れば頑張ったなと褒められていた。
高校受験で志望校を決めた時、そんな無理なところにと最後まで言われ続けた。
ずっとA判定だったのに。
「たまたまだ、これから頑張らないと周りについていけなくなる」が合格が決まってからの母親の第一声だった。
今の会社の最終面接が決まったことを報告した時も鼻で笑われた。
兄よりも学費もかけず、いい学校、いい会社に入って今も親孝行と言われることをし続けている。
私の何がだめなのだろう。
私は褒められたかった。
頑張ったねって言われたかった。
否定された記憶しかないせいで、人の裏を勝手に想像してしまう。
上司に褒められてもモチベーション上げようとしてるだけでそう思ってないんだろうなと感じてしまう。
承認欲求が強い中高時代に一番承認されたい人に否定され続けた記憶に縛られ続けている。
今子育てをしている人は褒めてあげて認めてあげて欲しい。
身内以上に褒めてくれる人なんていない。
自己肯定感を持たせてあげて欲しい。
生きてていいんだと思わせてあげて欲しい。
まず最初に警告しておく。
タイトルにもある通り、私は殺虫愛好家であり、今から始めるのは基本的に殺虫の話だ。
もしあなたに潔癖症の傾向があるか、名前を聞くのも嫌な虫がいるのなら、どうかこの先を読まずに引き返してほしい。
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ここ数日ネットの各所では、大雑把にまとめてしまえば「社会的に認められない性的嗜好をどう扱えばいいか」という話題が飛び交い続けている。
これに対して「社会的に嗜好としての理解はされずとも、行為に対しての感謝はされる」立場、殺虫愛好家の私にも少し思うことがあったので、拙いながらも書き連ねてみようと思う。
先程から繰り返している通り、私は「虫」を「殺す」のが好きだ。
アリンコを踏み潰し、羽をむしったトンボをカマキリに食わせて楽しんでいた子供時代の精神をそのままに、罪を犯さない程度の社会性を身につけて成長した。
まだ性的興奮を覚える域には至っていないが、虫を殺すことで多幸感を得ている自覚は十分にある。
そして運良く、殺虫行為が日々の業務として認められる職種……飲食店で働いている。
はっきり言ってしまうが、飲食店の厨房から虫を根絶するのは無理に等しい。
水道管、換気扇、近隣の家屋、届いた段ボール、侵入経路はいくらでもある。
それに奴等は生命のスパンが短すぎる。いくらでも生まれていくらでも産む。
だからこそ、私のような殺虫愛好家はこの仕事を飽きなく楽しめる。
私の業務は手洗いがてら洗面台にたかるチョウバエを泡で捕らえることから始まり、店を閉めた後で厨房の床に湯を撒いて彼らの子供たちが力なく流れていく様をせせら笑って見送りながら終わる。
それまでの間にも、醤油の匂いを嗅ぎつたショウジョウバエにアルコールを吹き付け溺死させたり、積荷に紛れたチャバネゴキブリを段ボールごと踏み潰したりもする。
定期的な殺虫剤の撒布も、死骸の後始末まで含めて喜んで行っている。特にゴキブリワンプッシュ。あれはあえて隙間から明所へ出てきて死ぬよう設計されていることもあり、私との相性は最高だ。力なく這い出てくる大小様々なゴキブリをモグラ叩きのように仕留め続ける。正直テーブル拭いてるより楽しい。
毎日ではないが、野菜をおいしく食べていた青虫を虫食い共々ゴミ箱に叩き付ける日もある。電灯につられて入店してしまった蛾をそれとなく握り潰す日もある。屋根の下で横たわるセミファイナルに引導を渡す日もある。
……それ以上となると飲食店として必要な業務ではないので、わざわざ外に飛び出して殺したりはしない。それといついかなる場合もその後の手洗い消毒は忘れない。
そうした私の殺虫行為は、少なくともこの飲食店という小さな社会では満場一致で「善行」と見なされている。
店長やオーナーからは、汚れ仕事も進んで引き受ける点を評価してもらえている。
同僚からは、急に湧いた虫を始末すれば、例え社交辞令だろうとも感謝は必ずされる。
客からは、逆にもし虫が料理の中に入ってしまえばクレームを入れられているわけで、それを防げている以上は相対的に良い心象を持たれているはずだ。
と、ここまでは「私自身の頭の中で考えている以上は」美談なのだが。
この場のように、こういった話を人に打ち明けてしまうと、少なからず次のようなことを考える人は出てくるだろう。
「命を弄んでいる奴のどこが良い奴なんだ?」
「虫を殺して楽しんでる奴は、欲求がエスカレートして犬猫や人間まで殺し始めるんじゃないか?」
私だって殺虫行為そのものを、手放しに善行だとは思っていない。
どんな虫にも生きる権利が認められる世の中なら、私は快楽殺虫鬼として裁かれるだろう。ジャイナ教に従えば、来世の私は虫以下の存在になっているだろう。
しかし私は、人の飼っているカブトムシを籠から出して引きちぎるような、殺虫に狂った人間じゃない。
童心に帰り、野山の虫を惨たらしく殺してやりたい気持ちも否定できないが、社会人としてあるからには、社会として許されるまでの殺虫をしているだけだ。
それが「虫」なだけでは殺さない。それが店にとっての「害虫」ならば、実害がなくともその状況に於いて「不快害虫」として認められるならば、殺すだけだ。
仕事として認められ、誰かから感謝される行為だから、私は白昼堂々……とまでしてはいけないが、縁の下で率先して虫を殺し、それで満足している。
そして、これは私に限った話だとは自覚しているが、私は虫以外の動物を己の手で殺したいとは一切考えていない。
端的に言うと血や骨、臓腑の処理をしたくないのだ。オタマジャクシ一匹だろうが死なれたら困る。ホイホイに引っかかるヤモリとか本当にやめてほしい。
私が楽しみながら触れられる脊椎動物の死骸は、血管や臓物と切り離された、おいしい食肉やあたたかい毛皮だけだ。私の職場が調理肉の状態で届く店で良かった。
そんなように、「虫を殺して楽しい」と「飼われた犬猫や人間の殺害」みたいな、一見段階的な関係にも見える嗜好と犯罪行為との間には、社会的な規範や、倫理的な了解や、個人単位の好き嫌いなどいくつもの細かい隔たりが存在しており、それらが人を犯罪行為に走らせぬよう機能しているはずだ。
それでも、私の場合はただ、恵まれていただけだ。私が殺虫の認められる社会に所属して、私が殺虫で喜ばれる仕事を得て、私が殺虫以上の欲求を持たないから、全てが噛み合い今の今まで機能しているだけだ。
これが、物議を醸した先の人物のように、社会として認めらなかったり、正統な仕事として実行できないものだったり、満足せずに発展しうる欲求だったりしたならば、私はとてもじゃないがこんな話を増田にしたためている場合ではない。私が起こしうる犯罪について真剣に考えなくてはいけない。
いや、殺虫に関してもそれが犯罪になりうるものではないか、誰かの権利や尊厳を損なうものではないか、立ち返らなければいけないことに変わりはないが。
みたいな言い回しを多少見かけるのだが、それは違うんじゃないかな。
ロリコンは立場的に対等な相手を性愛の対象にしているわけではないので、つまりはもともと権力勾配が必須の関係性を望んでいるわけだ。
簡単に言えば植民地がほしい、奴隷がほしいという20世紀前半のヨーロッパや、中世の貴族様的な思想である。
決してブラックではない。
ロリコンは100年以上時代を間違えている白人の貴族様である。
性愛の対象も、同一人物で考えてみれば、せいぜい5年といったところだろうか。10年だろうか。
犯罪にならないギリギリの年齢である13歳女性と真剣交際をしたとして、淫行に引っかからないためには婚約や親の承認が必要になるが、
それも20歳を目処にポイ捨てするなら、上辺だけの口約束に過ぎない話である。
人権意識がない時代の貴族が、同じく人権意識がない時代の民衆からその後どのような末路をたどったかはご想像におまかせする。
もちろん現代では同じようなことにはならないわけだが、それでも自分が他者の人権を無視した思想をもっている以上、自分達の人権を蹂躙されたところで何が不服であろうか?
改憲派の先鋒でありながら護憲の要石を地中深く打ち込んだ安倍総理が辞意を表明された。改憲に向けて日本がやってきた道のりをガキの泥遊びで全て台無しにした安倍閣下は護憲派にとって駐印イギリス軍にとっての牟田口に等しい。
ここにその輝かしい業績を記したい。
WWII以後も熱戦の時代は続き、世界は民族自決、植民地独立、冷戦下での大国介入に伴う戦争を経験してきたが、敗戦で武装解除された日本は関係のない話で、経済成長に邁進してきた。この路線を決めたのは吉田茂である(吉田ドクトリン)。
その冷戦下で9条の改正を目指すのが自民党、護憲が革新という図式が定着した。数で劣る革新だが思想的には優勢で、冷戦後期には自民党は改憲路線を表に出せなくなっていた。冷戦により国際政治的にも日本の専守路線が固定化されていた事と他国では熱戦が続いていて海の向こうでは若者の戦死が伝えられていた事もある。憲法学者と言ったらほぼ全てが革新で護憲派だった。
ところがここに「憲法フェティシズム」的な趣向が定着して行く。つまり現憲法は良いものだから朗読しましょう的な考えだ。反リアリズムである。
その為護憲=お花畑、空想平和主義という評価が出てくる。そして冷戦の終結により日本の立場は流動的となった。
そこに降って湧いたのが湾岸戦争で、ここで戦後初めて日本は戦争への協力を求められる事になり、世論は右往左往する事になった。秩序維持の為の戦争であるという大義名分もあるし、憲法9条が前提にしていたのは国連軍が結成されて国軍は縮小されるというカント的な世界観である。多国籍軍は国連軍とは違うが名分的には相似だから護憲派も一概に否定しにくい。
湾岸戦争を戦費拠出という形でお茶を濁した日本だったが、戦争に寄らず国際貢献をすべきとの議論が高まってPKO活動に自衛隊が参加するようになった。その第一弾はカンボジアの民主選挙の監視である。
また同時にそれまでタブー化されていた改憲の機運も上がり、護憲派ばかりだった憲法学者にも改憲派が現れ、メディアに出るようになってきた。その筆頭は小林節である。
先に書いた憲法フェティシズムのせいで、憲法学には「微妙」な空気が取り纏っていた。
憲法も法学なので法学部で扱う。だが法学一般は最終的に実学に接続しているのに憲法はそうではない。例えば国民主権の自由主義的な思想的意味が延々とこね回されたりする。
国民主権の主権は元は絶対王政の国家の正統性の為のフィクションであって、統治権、外交権、交戦権などを示すが、こういう肝心な事はスルーされて国民主権が思想的に称揚されるばかりだったりする。
例えば国際政治での人権の扱いなどが憲法学周囲から出て来ない。国際政治では人権は国家に対する対外的権力だ。
統治の問題は主権の壁によって外部から干渉できない。この前提が共有されないので人権がその壁を突破できる国際権力となっているという事が扱えない。特にコソボ紛争ではNATOの軍事介入の理由に人権が挙げられた。国民主権は扱うのにこっちに接続できない憲法論というのはリアルを欠いている。
コバセツはこんな左翼神学的な憲法学に割り込んで行って安楽椅子を蹴り飛ばして塗り替えたと言って良い。
改憲問題でエポック的な出来事があったので紹介しよう。2003年の朝ナマで西部邁がコバセツに追い返されたのである。
西部は改憲派のテーブルに座り「憲法9条や前文の精神が日本人に悪影響を」と長々語っていた。これはモロに憲法フェティシズムだ。憲法を唱える事で精神が浄化され理想的市民や国民が出来ると言う考えだ。
それでイライラMAXとなったコバセツは「そんなの相手にしなくていいから」と侮辱。衆前で面子を潰された西部は退出した。
これは左翼神学の単に裏返しで、コバセツはそういう神学的安楽椅子を蹴散らしてきたんだぜ。そんなを見たら撃てと訓練されたコバセツの前でそんな事言ったらバカ扱いされるに決まってる。
それでリアリズム的にもう9条一国平和主義は困難だし、ちゃんと改正しようという機運が高まっていたのだが、これに疑問符を付けたのがイラク戦争であった。
当初から戦争の理由は疑問視されていたのだが賛同者達は「アレは最初から予防戦争だった」等と誤魔化していた。だがISISが勢力伸長すると彼等も黙りこくるようになった。
これによって米国主導の国際秩序維持に付いて行くという路線を留保すべきという流れになるのは当然だ。しかも国連の影響を抑える為の政策を米国はしまくった。この為に国連路線を旨としていた日本の国際貢献もイマイチリアリズムを失ってしまった。国際貢献路線の空白である。
改憲の旗艦となった彼は新右翼の学生運動流れの学者を重用、党内の勉強会でコバセツは対立するようになった。
彼等の憲法観は嘗ての左翼神学の裏写しであった。コバセツが蹴散らした椅子に座りだして頭の悪い理想論を語るようになったのだから当然だ。
すると2007年にコバセツは自民党の憲法勉強会に呼ばれなくなった。パージである。
ここでリミッターが外れ、改憲論というのはお笑いでリアルと全く接続しない理想論を語るだけのものとなっていく。
例えば若者がチャラチャラして国家について考えないのは怪しからんので徴兵するなど。
日本会議の中枢に居るような新右翼の学生運動家には就職せずに大学に残った者も多い。また六本木にあった生長の家などで寮生活を送った者も多い。その集団的生活史が投影されている。
吉田茂は後に吉田ドクトリンは撤回して海軍力を増し海洋国家となるべきだと主張していた。これは日本の海岸線は長いので防衛力をそこに集中すべしという考えと、当時の日本が重厚長大産業国で造船がその筆頭だった事もある。
徴兵は海軍に向かず陸軍歩兵に向く。つまり海兵隊のような外地でのの占領などが多い事が前提になるが彼等にはそんな考えは無い。国家意識が希薄な若者は怪しからんから集団生活をさせろ、国を守るのは美しい行為だから戦争に従事させろというだけだ。
またいつのまにやら立憲主義は否定されて憲法は国民が守るべき事柄になっていった。
コバセツを追い出して何年も顔をつき合わせて「現憲法には国家を統制するような事ばかりかいてある、おかしい」とやっていたのである。
何年も何百時間も掛けてバカの思いつきを言い合って論議のつもりだったんである。機械ばらして直せなくなるガキかよ。
それに対する言い訳は「家族愛は良い事だ」などであった。良い事だから朗読しましょうというのが憲法だと思ってたんである。良い事を書くと良い国になると思ってるんである。
つまり彼等は憲法どころか毎日やっている立法の仕組みも判っていない。法律が肉付けされて権力を持つ仕組み=政令省令の事や閣法の提出過程も判っていない。
これは左翼神学的で実学に接続しないので憲法学者が微妙な扱いされていた20数年前の完全に裏焼きであろう。
そういえば日本会議の活動家たちが動いて成立させた国旗国家法や年号法などには政令が無い。普通の立法プロセスが付いていないのである。
こうして「改憲」は厨房タームとなり、現実に即した意見を言う人との評価が欲しい人は避けるようになってしまった。「南京虐殺は朝日新聞の捏造によるもの」とか「地政学的にナンタラ」と類似のコンテンツとなってしまった、
南スーダンの情勢が悪化し自衛隊がPKO活動をしている地域が危険に晒された。他国から派遣されている軍を置いて撤収していいのか?これは改憲上の一番重大な局面だ。
今回は撤収するにしろしないにしろ「国民の皆さん、憲法の枠内に納まるよう戦闘地域では活動しないという区切りでPKO活動をしてきましたが、コソボ以後のPKOは変化し、戦闘状況では積極的な介入により平定を維持するというポリシーになっています。今後もこのように情勢が悪化して危害射撃をする必要に至るでしょう。憲法とPKOポリシーを変える為の議論をする時です」というのが改憲派の筋である。そしてその時である。
なのにたかがその場の政局が荒れる事を忌避した聖帝閣下はそんな事に興味は無かった。日報を破棄させる圧力をかけたのである。現実に即した改憲に至る正統な道筋と思わなかった。改憲は既にガキ臭くて老害じみたルサンチマンを集合させる事でその手の固定票を集めるフワついた寝言であったから自衛隊と憲法の問題なんて気にも留めなかったんであるな。そしてその寝言化を成し遂げたのも聖帝閣下とお仲間の努力の賜物であった。牟田口閣下が前線から離れて芸者遊びを続けたような血の滲む努力の。
更にこの件では防衛大臣が辞任する運びとなった。
だが隠蔽の責任を率先して取ったのではない。後から無くなった筈の日報が出てきたのだ。
つまり自衛隊に後ろから刺されたのである。制服軍人をスーツの政治家が統制するのが文民統制であってこれが失われると国家は破滅に突き進む。そんな憲政上の大問題だ。
だがこの自衛隊が成した暴露は正当な行為である。やってはならぬ不正を成さしめそれを是正した事で文民統制上の問題となった。
しかも自衛隊の活動が蓄積された一部であって、改憲への正当な道筋ど真ん中の事を無きものにするという不正であって改憲派として正気の沙汰ではない。
だがこの時既にこの政権にまともな責任を取らせようという国民の意識は無くなっており、子供の間違いのように擁護されて忘却された。
ど真ん中改憲問題はこうして消え去り「家族は大事とか良い事が書いてある憲法を朗読しましょう」という流れは保護された。
アイドルのような還暦女性にポストを与えた防衛大臣が軍に後ろから刺されるという事態の深刻さにも晒されずに相変わらず神学徒達は安楽椅子でロリポップを舐め続けることができた。
だが集団的自衛権への移行に就いて憲法論議を国民に投げかける事はしなかった。
2013年に盛んに言っていたのが「戦後レジームからの脱却」だ。更に年末に靖国神社を参拝したところ、日米関係は戦後最大の冷え込みとなった。
太平洋地域の戦後レジームが米国のなした国際秩序という事に気が付かなかったんである。靖国参拝は英霊への感謝という言説に自家中毒になりA級戦犯合祀から問題化したという事を忘れていたんである。バカな…と思うがそれが聖帝閣下とその友達だ。
因みに日本会議中枢などの「新右翼」とは反米主義の右翼の事だ。戦後体制はYP(ヤルタ・ポツダム)密談による分割であるから打破するというのがその趣旨だ。
こうして2014年には聖帝はオバマに擦り寄るようになった。そんな中で米議会で発表されたのが集団的自衛権への転換である。
米議会であるのも理由がある。湾岸戦争以後、日本の憲法を改正させて米国の戦争をサポートさせるというのは共和民主問わず共同認識になっていたのだ。
集団的自衛権が必要なら当然改憲の重大な理由の一つになる。だが解釈変更という形で現憲法で合法としてしまったのだから改憲のカードは無くなった事になる。
PKOの歴史を知っていたらそのエポック性は無視できない。「日本が軍事的な国際貢献への一歩とした国であり憂慮している」ぐらいは言うべきだがそうはしていない。
尚、日本は民主選挙以前は外国に逃げたポルポト政権を承認していた。あの虐殺で国民の半分近くを殺しまくったポルポトを国家承認したままだったのだ。選挙監視にはそういう理由もある。
こういう風に改憲上の最大の障害は聖帝閣下とお友達なんであるが、この状態は方々に都合がよろしい。
護憲派は憲法9条が国際状況にそぐわなくなっている事を考えずに済む。あんだけのバカ草案を出したら改憲反対は当たり前であって、PKOポリシーの変化にどうするかなんて問いを考えなくて済む。コバセツ含む嘗ての改憲派の憲法学者も全て護憲派に寝返った。
一方、米国主導の軍事秩序賛同派はイラク戦争賛同の総括をせずに済む。ISIS支配地域にあの連中置いてくるべきだ、なんて意見に晒されずに済む。
そんな情況の空白地帯で先人の積み上げた蓄積の意味が判らんかった聖帝閣下は友達と泥遊びに明け暮れ、田んぼをぐちゃぐちゃにしてしまったが意味が判っていないからなんという事もない。お友達の稲田防衛大臣は制服に後ろから刺されたのににこやかに軍事パレードを行い、胸に手を当てて国家への忠誠を示したので上機嫌で去っていった。
バーチャルYouTuber事務所大手のホロライブプロダクション(カバー株式会社)所属の魔乃アロエ氏が本日卒業した。
※魔乃アロエ本人の発言も全て運営の責とする(謝罪配信の台本がセルフ作成でない前提とする)
個人的に魔乃アロエの中身(以下演者)に付き合っているパートナがーがいるかどうかはどうでもいい問題ではある、のだが⋯⋯。
謝罪配信にて「(パートナーとされる方とは)デビューする以前より既に関係を断っている」と発表したのだが、このパートナー疑惑の方のSNSでの口がなかなか軽く、その方が自身を演者の彼氏だと思いこむ狂人でなければ中々真に迫った匂わせ暴露をする方なのである。
最終的に今日の卒業まで予言(と呼ぶのが適切かは知らないが)しており、報道発表の信頼性を著しく損ねている。
同社がコントロールできる立場にない人物に関する言及は控えるべきだった。
というかなんで言ったの?
あと疑惑の方の口から魔乃アロエの事情がペラペラと出るのは情報筒抜けで極めて好ましくないだろう。現在進行で情報漏えいなのでは?と訝しんだが今日は運営の話なのでこれ以上の言及は控える。
noteでブクマされている件にもあるが、謹慎の原因は演者のやらかしであり魔乃アロエのやらかしではない
※魔乃アロエのアカウントで疑惑の方と相互フォローしてしまった件は問題だが内規の問題に過ぎない
※演者のアカウントでデビュー前の魔乃アロエをファンに向けて公開した件は以下略
よって魔乃アロエの演者として謝罪すればよかったところが、魔乃アロエの口から演者と自身が同一人物であるというキャラクター設定ブレブレの謎謝罪配信を実施したことこそが大きなミスと言っても過言ではない。
先に書いた「演者のアカウントでデビュー前の魔乃アロエをファンに向けて公開した件」だが、謹慎時のリリースではマネージャー承認の下実施したと記載があった。
しかし卒業に際しマネージャーひいては運営としての責任問題に関する記載は一切ない。
Live2Dの機密情報漏洩(卒業リリース原文ママ)にカバー社員が関与しているにも関わらず、演者の卒業のみで総括している。
これをどう取るかは材料が無いので断定を控えるが、稚拙な嘘をついたかさもなくば演者の切り捨てに図ったと見られても仕方がない。
誰かから凄い人だと思われたいのだろう。でも母親には得意なことが何もない。
掃除や料理は父の方が得意だし、電子機器・技術的な事は上の子(増田)の方が得意で、学問・勉学はエリートな下の子が得意。
そのくせ私SUGEEEムーブをやるので痛い目に遭う。例えば似非科学本の知識をドヤ顔で披露して論破されるとか。
元増田の母君の凄いと思う所はアメーバピグで交流できていたこと、人に評価を付けられるブログが書けているという所だ。
うちの母親にはそれすらできない。(まあ丸コピ記事なのはよくないのだが……)
母親は承認を得たいが、人に何かを与えることは極端に嫌がる。giveはしたくないけどtakeだけ欲しがる。そら無理やろ。
それから人に与えられても怖くなってしまう。例えばいいねなんてされた日には「怖い!」になってしまう。でも無いと拗ねる。矛盾しとるやろがい。
思うに、母のような世代は「結婚して寿退社し専業主婦になる」というのが当たり前で、個人的なアイデンティティを全く形成しないままここまで来てしまったのだろうと思う。
今でも母は、高校時代テストでいい点を取ったことを、武勇伝のように語る。
でも家族の中で特に褒められることはない。増田兄弟の高校偏差値がいずれも70手前である一方、母の出身校など40あるかないかだからだ。
でもそれがあの人の最新の自慢。
恐らく、要領のよくない母親がここから何か劇的に凄い特技を身に着ける可能性もそんなに高くないのだろう。このまま老いて死んでしまうのだろう。
のだけど、どうだろうか。
この歌は”find me somebody to love”という歌詞が繰り返し出てくるわけだけど、大抵の場合ここの対訳は「誰か僕に、愛すべき人を見つけてくれ」という風になっている。でも、どうにも俺には違和感がある。
この曲の主人公(僕)は、報われない日々を送ってきている。
I have spent all my years in believing you. But I just can't get no relief, Lord!
(神よ、僕はこれまでずっとあなたを信じ続けてきたのに、何の救いもない!)
I work hard every day of my life. I work till I ache in my bones.
(僕は毎日一生懸命働いている。骨の髄まで痛むほどに。)
Everyday - I try and I try and I try. But everybody wants to put me down.
(毎日毎日、僕はトライし続けているのに、それでも奴らは僕を抑えつけようとしてくる。)
そんな人間が、「ああ、僕には人を愛するということが足りないんだ」なんて思うだろうか。「誰か僕に、愛すべき人を見つけてくれ」なんて叫ぶだろうか。
俺は思わなかった。俺が求めたのは他者から愛される(=承認される)ことによる救済だった。
もうひとつ、気になることがある。
主人公が愛すべき人を求めているのであれば、歌詞としては”I need somebody to love”のように、主人公が主語となるような一節があって然るべきだと思うが、それに類するようなものはどこにも現れない。
その代わりに繰り返されるのは、”Can anybody find me somebody to love”という、特定の人物ですらない「誰か」への投げかけだ。
つまり、”find me somebody to love”は「誰か僕に、愛すべき人を見つけてくれ」ではなく、「誰か、僕のことを愛すべき人だと気づいてくれ」なのだと思う。
さらに言い換えると、「誰か僕を、愛するに値する人間だと認めてくれ」なんだと思う。
と、ここまで長々と思い入れたっぷりに語ってきたけど、俺は残念ながら英語を使いこなせるわけではない。
「そんなわけねーだろ」といいことがあれば、ご指摘頂けると有難い。