はてなキーワード: 原初とは
Who knows, maybe Xiao will stops by Cat’s Tail in future for another one of Diona’s drinks. → もしかしたら魈さんはこの先、ディオナのドリンクをもう一杯飲みに キャッツテールへ行かれるかもしれへんなあ、知らんけど。
純水精霊の祝福の能力が「夢」と関わりがあるのなら、ディオナの飲み物が美味しくなるのは「夢」の味を与えられているからやろな。
人間の食べ物は基本好まないが「夢」の味を好む魈にとっては、杏仁豆腐と同質のフェイバリットフードになる可能性があるわけやな。
この「夢」っちゅーんはおそらく、スメール編前後で散々やってきた「漆黒」「深淵」の類と対をなすエネルギー世界みたいなもんかもしれんな。
あるいは淵下宮で言っとった、三界、人界・虚界・光界のうち、元素奔流に満ちた原初の世=光界と関係あるかもしれん。
元素生命や元素魔神を通して人間が光界を知覚するとき、「夢」のような形になるって風に考えたら辻褄が合うな。知らんけど。
魈が言う、というか璃月で言う「業障」はアビス、虚界のエネルギー侵食やろから、対になる「夢」が癒やしになるんやろ。
甘露花海と同じようにな。知らんけど。
というかなんで杏仁が「夢」の味になるんやろな。
埼玉県川口市でクルド人の犯罪が激増して問題になり、その対策が川口市政の中心的課題になっている!というエントリが度々ホッテントリ入りしている。またyoutubeのゆっくり動画等でも「クルド人」「川口」のテロップが入ったサムネの動画が投稿されている。
川口市は『広報かわぐち』という広報誌を配布しているが、この10月号で犯罪認知件数が過去最低を記録しているとの広報を打っている。
https://www.city.kawaguchi.lg.jp/material/files/group/3/202310-04.pdf
この一年で白昼の強盗事件、沿道商店に突っ込む大事故や死亡ひき逃げ、クルド人による病院での喧嘩騒乱などの事件が報道されて体感治安が低下している故だ。でも実際には治安は過去最高となっている。
この問題を喧伝しているのはagora出身の石井孝明というライターで、産経新聞と夕刊フジがそれを元に記事を書くという構造になっている。
石井のやり方は、川口、蕨を中心として、肌の浅黒い中央アジア、東南アジア系の人間が事故や事件、不法な業務、反マナー行動をしたものにクルド人を匂わす文言を付けて宣伝するという方法だ。それ故クルド人が毎日事件や不法行為をしているように見える。そんなにクルド人は増えているのか?日本にクルド人は何万人いるのだろうか?
だが実際のクルド人の数は2000人程度である。人口60万人の川口市人口の0.3%だ。「あれもこれもクルド人」の安物ネガティブキャンペーンが成功しているのである。
それで今回はちょっとこの問題の背景を説明するよ。「クルド人とは何か、どういう民族か」などは産経以外の大マスコミや大学人が記事を書いてるからそういうのを参考してくれ。
「埼玉県川口市」でgooglemaps検索すると川口市の県境が表示される。
https://www.google.com/maps/place/%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E5%B8%82
まず、駅の東側にやたら細かい碁盤目で緑の線が入った地域があるのが判るだろうか?ここは芝2丁目と芝4丁目という地域になる。
ここは一見整備された住宅地に見えるが、実は都市計画に乗っ取ったインフラ整備が間に合わなかったスプロール地域なのである。
この碁盤目は元々は大正時代に田んぼを整地したものだった。緑の線は用水路跡で、今でも暗渠化された水路敷きになっている。この付近は江戸時代に作られた見沼代用水が通り、その分水も充実していた。そこで碁盤目に畔と用水路を整備して土地の権利も整理したものだ。
ちょっと脱線するが、こういう整備された元田んぼ住宅地の近くにはL字の道と変形交差点を組み合わせたような地区がある事が多い。またそこには寺や神社がある事が多い。その場合、そこら辺は嘗ての村の集落があった場所である。行ってみるとせせこましい建売の中に突然田舎の農家のような大きな庭付きの家、時に藁ぶきだったりゴルビジェのサボア邸のようなやたらハイセンスの家が建っていて驚かされる事があるのでおススメだ。そこは付近の建売の元地主やマンションの大家である。
この田んぼが戦後の高度経済成長期に売りに出され宅地化されたのがこの芝2、4丁目地区なのだ。
元あぜ道は公道化されているのが多いが、そこから奥に入る道は幅が狭い砂利道のままだ。これは私道だからであり「その道路の権利は細切れになって付近の家の持ち主が持っている。故に権利関係がごちゃごちゃなので
更にこの路地は通り抜けが出来ない。真ん中に水路敷がある為だ。水路は元々の地主が権利を持っている筈だ。通り抜けにはそこに橋を掛けなきゃならないが、誰もその費用を負担したくないので碁盤目に見えて行き止まりの路地ばかりという事になっている。
1990年代初頭に建築基準法が改正されるとセットバックの義務と接道義務が定められた。接道義務とは、幅4m以上の道に2m以上接していない土地には建物建築不可という事である。
これでこの路地の奥にある家というのは建替えが不可能になった。
また、水路敷は舗装されていて道路に見えても道路じゃないのでセットバックの義務が無い。だからいつまで経っても道は広がらないから接道要件を満たす道にならない。散歩する時はこのせいで魅力的なのだが不動産的には不良である。
この路地をストビューで見れば判るが、公道に面した家は新しい低層アパートで路地は4m拡幅、その奥の一軒は新しい戸建て(公道側隣家のセットバックで接道要件クリア)、その奥は築30年以上の古い戸建てや古アパート、となっている。奥の方の家は建替え出来ないので古いままなのだ。
奥の方の家やアパートを借している場合、家が古くて車も入れない砂利道なので客付けが困難である。蕨駅から徒歩5~10分という好条件なのだがこういう状態なのだ。
高度成長期中期の昭和30年代後半からこういうスプロール現象が問題になって規制が強化されたのだが、その前に家が建てこんだ地域なのだ。私有地である用水路の暗渠化は市が行ったが、これは下水道整備が間に合わず、水路に垂れ流しとなった為の代替政策だ。
さて、外国人というのは部屋が借り難い。これは差別の問題もあるが、家主としては万が一の時の連絡の問題、家賃不払いや退出後の内装補償、突如国に帰ってしまうリスク、それと土足の問題などがある。室内に靴を脱いで入るのは日本だけなのだ。最近じゃ米国都市部も日本式になって来てるが。だから土足で生活されて畳床等がダメになるリスクがある。
故に外国人が部屋を借りるのはとても大変だ。一方、建替不可で古くて前が砂利道で引っ越しのトラックも入れない、なんていう借家やアパートの大家は客付けが全然できない。この両者の利害が一致して賃貸借契約、とあいなる。お互い「こんなボロ屋なのに高いが…」「外国人でリスクが高いが…」という妥協の産物だ。
このやたら細かい碁盤目地区はもう一か所ある。駅の反対側に線路で分断された川口市の飛び地みたいな三角の土地があるだろう。
ここは芝園町と芝富士という地区なのだが、そのうち芝園町は元鉄道車両工場のUR団地(電車から見える屏風みたいな建物)、芝富士は元田んぼの細かい碁盤目地区だ。この芝富士地区は先の芝2・4丁目地区と全く同様の特徴と来歴を持っている。
路地のセットバックが進んで4m以上が確保されて建替え可能になっている所が多いなど、スプロール化の程度は2.4丁目よりも改善されているのだが、それでも水路敷による路地分断などはあり、また建替不可家屋が密集する地帯もある。更にここは飛び地状態なので見捨てられた感もあり市政が行き届きにくいという特徴もある。中学校や幼稚園が線路の反対側で遠いのだ。
「蕨」なのに「川口市」であるのはこういう事で、駅の左右に川口市の不良宅地地区がありそこのアジア系の住民が住む事が増えたというのが原初としてあったのだ。
「川口市は小規模の鋳鉄工場があり外国人工員を必要とした」という説明をしている記事もあるが間違いだ。鋳鉄工場地域は西川口から南側であって、蕨周辺は田んぼから住宅地に転換している。その転換が早すぎてスプロール化してしまったのだ。
クルド人問題がおかしな奴らの飯のタネになっている問題の根幹は在特会のヘイトデモに遡る。
2009年に在特会はオーバステイフィリピン人の子息が通う中学校付近で「叩き出せ」といシュプレヒコールを上げるデモを行うようになった。この中学校や居宅は蕨駅の南側、西川口駅寄りだ。
このデモに左翼運動からの転向者が合流すると一気に過激化し、「殺せ」「殺しに来た」というコールになり、警察に掴まらないような巧い仕方の暴力や、近所のヤジに対して「○○人の家だ」「お前日本から出ていけ」「殺せ」と連呼したり、お散歩と称してデモの後に落書きをしたり通行人に因縁を付けたりという行動をするようになった(後に警察官が解散地から駅まで随行するようになった)。転びアカが合流すると大抵こういう事になる。
これに呼応して掲げられる旗も日章旗から旭日旗やハーケンクロイツとなっていった。
そんな中で在特会は芝園団地付近でクルド人に住民が迷惑しているという情報を掴む。
そこでヘイトデモの開催地は蕨駅~西川口駅から蕨駅北方になる。そこで鍵十字の旗が沢山はためき、「悔しかったらクルド野郎出てこい殺してやる」などのデモがされるようになった。
但し、彼らは居住地区を知っていたから疑問なので警察がそこから外れるルートを許可していても判らなかったかもしれない。
こういう経緯で中東系や中央アジア系の人間の犯罪、不始末を「クルド」と称する動機が生まれてきた。事件が有る度に「これは在日朝鮮人」という差別デマがずっと流れていたが、それの中央アジア版だ。
もう一つの理由がトルコの少数民族問題で、トルコは親日国で、そこで問題化している少数民族のクルドは敵だ、という単純な世界観によるもの。元々国際問題を親日反日でしか捉えれない人間の頭の中なのでこれ以上はバッファオーバーフローである。そもそも少数民族問題は国家の宿痾であって国際政治学では必ず履修する項目であるのにそれを焚きつけて利益にせんとするあたり、ガソリンスタンドでタバコを吸うバカの如しである。
故にそれよりこの方ずっと「クルド」はやべぇ奴らの間の符丁となり、民族問題を理解するという動機にはならずに、彫りが濃い人間の不祥事は「クルド」とする文脈が生まれたのである。
ネタバレ注意!
この物語の基本的な原理は次の通りだ。「宇宙の資源は有限である。しかしすべての文明は成長し・生き残りたい。よって、自分が生き残るためには相手を皆殺しにしていい。さもなくば相手に殺される」。そこから出てくる結論は「相手の位置がわかったら即座に抹殺するのが最適解」。「相手と対等の立場に立って交渉するには、いつでも相手の文明の座標を全宇宙に晒す装置を作ればいい」。
これが適用されるのは地球人対エイリアン・三体人だけではない。宇宙戦争ののち、孤立した地球人の宇宙船同士も相互不信に陥り、突然殺し合いを始める。この原理原則に例外はない。
どうしても攻撃したくなければ、相手の脅威にならないと示すため、限定された空間の中に引きこもるしかない。
エイリアンのたった一つの水滴という兵器に、地球の最強の兵器であってもまったく歯が立たない。あるいは、エイリアンが数百年の偽りの平和ののち、地球人を何の共感もなくジェノサイドする・餓死させることを宣告する場面。主要なキャラであっても容赦なく殺してしまう命の軽さ。無意味に死んでいく人々。愛し合うカップルであっても、異なる早さの時間に引き裂かれる。この絶望感こそが本作の醍醐味だ。
さらに、地球人の文明が通りすがりの三体人とは別のエイリアンの作った名刺大の兵器で、三次元から二次元の物理世界に落とされて再起不能になるまで破壊されるシーン、これは最も美しく壮絶な太陽系・人類滅亡の場面だ。これを読むためだけに「三体」を買うだけの値打ちがある。
それだけではない、現在の宇宙が四次元時空で光速が有限なのも、本来は十次元で光速無限だった世界が、宇宙戦争で使われた次元兵器による「堕落」の結果だと示唆される。感動的なまでの悲観主義!
宇宙戦艦、超兵器、エイリアン、コールドスリープ、超構造体(メガストラクチャー)、ネトゲなど、絵になる風景ばかりだ。確かにSF的モチーフを大量に詰め込むと粗削りになりがちなので、作品によっては一つに絞ったほうがいいと思うこともあるんだけど、これはいい。
これは欧米のSFではほとんど見られない。中国が扱われるとしたら古代文明の謎であるとか、悪の共産主義陣営とかで出てくることが多いので、まず中国が舞台であるというのが新鮮だ。始皇帝とか荊軻とかいう名前が出てくるだけでもうれしい。中国から見た日本文化ってのも、なかなか見られないから楽しい(ケン・リュウも書いているけどね。あと、中国人からしても日本と言えばカミカゼと忍者と茶道なのね。あとは雀魂とか)。
関係ないけど、英語版のウィキペディアは概して日本よりも記事が多いし細かいことが書いてあるが、中国の歴史については日本語版のほうに一日の長があることもある。
あと、文化大革命が背景になる中国の小説とか映画とかって、面白いのが多い。
クラークとか小松左京とかじゃないとやらないくらいの発想がぽんぽん出てくるのが素晴らしい。
SFはリアルさを求めて、技術革命とそれによる社会の変化を描くこともあるし、現実の社会問題に肉薄することもある。雑食の僕はそれはそれで面白くて大好きなんだけど、定期的にSFのルーツにある「人類の、そして宇宙の終局的な運命とは」「不可解なるエイリアンとの出会い」みたいなテーマの作品をどうしても読みたくなる。
第一部でエイリアンの軍勢を地球に呼び寄せてしまうのは人類に絶望した女性科学者・葉文潔だ。「いっそ愚かな私たちを滅ぼしてくれ」と宣言してしまう。第二部ではエイリアンに対抗するために地球の資源を使い放題にしていいと許可された「面壁者」羅輯が、どうすればいいかわからずに、かわいいだけの理想の妻を求める(一緒に問題を考えるパートナーではない!)。さらに、第三部ではエイリアンと和解した人類が、数百年の平和を経て穏やかになっており、「日本や韓国のアイドルのように」「女性化」していると描写される(前に「原神」のキャラとか”男らしくない”俳優とか実際に規制されてたよね)。
そして、コールドスリープから目覚めた主人公の女性・程心もエイリアンの文明を破壊するための報復装置を、弱気さから起動し損なう(これがさっき述べたエイリアンによる人類のジェノサイド宣言につながる)。
同時にコールドスリープしていた軍人は「この社会はもっと雄々しくあるべきだ」という趣旨のマッチョなことを述べる。2010年のSFだけどこれでいいのか。このシリーズを普通に面白いと褒めていいのかオバマさん。僕はジェンダー意識がかなり保守的なほうだと自覚してるけど、これはちょっと弁護できないな(というかこれだけ女性の扱いが悪いと、作者には過去につらいことがあったのか? って心配になる ※1)。
さらに、第三部の主人公・程心は、使者として脳だけになってエイリアン文明に入り込んだ恋人・雲天明が、エイリアン文明の中枢から伝えてきた、人類文明を救うための暗号化されたメッセージを解読し損ない、これも人類滅亡の遠因となる。
つまり人類の滅亡の契機は、ほぼすべて女性に起因している(いずれエイリアンに見つかっただろうけれども、直接の契機は女性)。寡聞にして、この点を検討している評論を見かけていないけれど、ググればどっかにあると思う。
三部作全部ドラマ化するとしたら、この辺テコ入れされるんじゃないかな。
※1 同じ心配をしているのが「たんぽぽ娘」のロバート・F・ヤングで、若くてかわいらしい女の子といちゃつく小説がやたらと多い一方で、「ジョナサンと宇宙クジラ」では年上の女性たちや・女性の上司に日常的に暴力を振るわれている描写がある。成熟した女性に対する嫌悪と恐れを読み取ってしまうのは、気のせいだろうか。
エイリアンとの戦争に勝つためにはどうすればいいかと軍人が議論する中で「エイリアンに負けるかもしれないという精神的敗北者を追放する」「エイリアンのシンパ・スパイを排除する」という結論が出てくるの、なんというか現実の中国共産党の発想なんだけど、エイリアンに対してこういう態度を取るのは欧米だと冷戦時代のSFが多い(この前のホーガンとかね。でもホーガンは「未来からのホットライン」が面白いよ。「シン・エヴァ」の元ネタだし)。なんというか、「三体」が悪いというより、中国政府がいまだにスパイ大作戦な冷戦の世界観で世界を見ているという感覚が生々しく伝わってきて幾分げんなりする。マジで共産党が「最善の防御は皆殺し」とか考えていませんよーに。さっきの女性の扱いと含めて、数十年前のSFを読んでいる気分になってしまった。
第一部からエイリアンの超粒子で地球文明が監視されて物理学の発展が阻害されるんだけど、これも敵のスパイに見られているという被害妄想的な感じがする。
深読みすれば、共産党に監視されている国民の恐怖・心象風景なのかもしれないけどね。
SFってのはある程度ブラフが必要で、トンチキな場面も出てくるんだけど(それをどうやって読者に悟らせないかが仮定の文学であるSFのテクニック)、たとえば第一部で地球文明を隅々まで監視できるだけの技術文明を、地球のナノワイヤで倒せるってのは、ちょっと無理があるんじゃないか?(追記。せめて向こうでナノテクが発展していないエクスキューズがほしいよね)
人類に対して敵意を持っている宇宙の中での、人類の行く末について最後まで描き切った蛮勇がとても好き。三部作の壮大さのおかげで、隠せない欠陥にもかかわらずこの作品を気に入ってしまっている。第一部よりも第二部、第三部の順で面白くなっているのもいい。自分の中では★二つから★四つ半くらいまで評価が上がっていった。作家として器が大きくなったって感じたよ。
ラストの逃避にも似た、小さな農園を備えた小宇宙も、中国の伝統的美意識・神仙思想・隠遁に繋がっていていい。美意識が共有できると嬉しいよね。
全体として思ったのは「これって炒飯とラーメンと餃子の特盛セットじゃん」ってことだった。みんながSFと聞いて思いつくネタをがっつり取り込んでいる。読んだSFの冊数が増えると、青椒肉絲とか麻婆豆腐とか黒酢酢豚とか、燕のスープとかフカヒレとかいろいろあるのがわかってくるし、全部乗せを馬鹿にしたくなる気持ちも出てくるけど、なんだかんだで小さい頃に食べた大味な全部セットが無性に食べたい日もある。
時々どうしても受け入れられない価値観に出会うこともあるけれど、なぜそう考えるようになったのか? なぜ自分は不快と感じるのか? と考えると、共感的に理解できるかもしれない。少なくとも自分の価値観があぶり出される。
過去は批判し、そのうえで現代をよりよくしていこうと思うが、だからといって過去を見くだしたいとは思わない。好きなところ、好きになれないところ、両方を検討するのは楽しい作業だ。
本を読んだときはたった一つの気に入った言葉があればいい。映画を観たときは一つでも好きな場面を見つけられたら良しとする。美術展に出かけたら、一枚だけでも気に入った絵があれば外に出た甲斐がある。
こうして欠点もあるけれども面白かった作品について書いてみて、「もういいや」って思ってた外伝にも、手を出したくなってきた。
それではまた。
「三体」人気すごいなあ。久しぶりにバズったよ。
これは外国文学を読むときの鬼門で、自分は三国志にゲームとか小説とかで親しんでたからなんとかなったけど、そうでないとしんどいかも。
おすすめのロシア文学もなかなか読んでもらえないのもこの辺りに理由がある。
基本的にはメモしたり声に出したりしてその国の言葉のリズムに慣れるのがおすすめ。マニアになってくるとジョンとヨハネとイワンが同じ起源だとか気にし出すけど、これが通用するのはアラブ世界までだしね。
SFじゃないのも含むけど、
必読書コピペにマジレスしてみる・自分のオススメ41冊編(1)
必読書コピペにマジレスしてみる・やっぱりオススメの21冊編 (1)
あとは、
これはちょっと思った。原初のSFにある奔放な想像力、よくそんなネタ思いついたな! みたいなのがたくさんあるのが「三体」のいいところ。
で、それがモヤモヤする理由でもある。SFが洗練されてくると科学的正確さとか政治性とかを無視するわけにはいかなくなる。自分と異なった属性に対して誤った知識が広まらないよう、表現にルールがあるのは大切だと信じる一方、気持ちの面では想像力が羽ばたくのを少しも邪魔されたくない自分もいる。だから、反発する人の気持ちもわかる。
なので、正確性とかに気をつかったSFに慣れた身からすると「こんな粗削りでもウケるんだ! 売れるんだ!」という意外さと、先を越された悔しさがある。だから、元増田みたいにSFの外にまで広がった作品を「センスがない」とディスりたくなるのかも。
でも、僕も最初はそういう作品から読み始めたわけだし、重箱の隅をつつくような外れ値の古参よりも、作品を買ってくれる新しいファンがどんどん増えたほうがジャンルは育っていくし、若いファンは「にわか」呼ばわりするのを恐れずどしどし読んでほしい。
そういえば第三部でアボリジニのおっちゃんが出てくるけど、欧米の作品だったらもっと白人文化に対して批判的だっただろうし、なんだったら三体人に押さえつけられるときにももっと痛烈な言葉をはかせていただろうな。より強い文明と出会ったことによる悲劇のメタファーとしては扱いが若干雑だ。
以上。
フォンテーヌの世界任務はそれぞれが関連しあっていることが分かるようになっている。
内容も世界観の根幹に関わる、各国の横断的な要素もあって興味深い。
また、これらはメインシナリオが残している謎にも示唆を与えているはず。
不思議な本のページ・12を読んでいた時、突飛な発想が浮かんできた。
これは、諭示機のプロトタイプなのでは?
諭示機の位置は四象限の一角、あるいは鍵である剣の位置だとしたら?
その下はきっと原初の海に接続していて、水に溶けた過去のフォンテーヌ人の意識に接続している――
憶測にすぎないが、諭示機がまるでシビュラシステムのように機能している原理を説明できる。
10ページ目が脱落しているが、ここにルネの結末の核心があるはずだ。
9ページで人間としてのルネは死に、水と融合したが、11ページからの書き手はルネとは同じようで別人のような書きぶりに見える。
これを水に溶けたがゆえの統合意識、あの噴水の声のようなものと解釈することもできるし、やはりルネ的な意志を継いで先導しようとする、結社側の人間のようにも見える。
また、溶けたあとに地上に何らかの形で顕現することが可能なようにも受け取れる書き方になっている。
現時点では「マリアン」に扮した純水精霊と化した水の記憶ソースは、リリスのように思われる。
純水精霊の形を取ることで人間(の記憶)が実体(投影?)を伴って顕現可能なのはヴェルーリヤ・ミラージュや、安眠の地で見てきた通り。
もっと遡れば、テイワットの地下を這っている地脈は過去の記憶の奔流であり、その投影が現れることがあるのは稲妻編以降、度々目にしてきた。
フォンテーヌにおいては、地脈にあたるものがおそらく、海、というかグレート・フォンテーヌ・レイクなのだろう。
海がせり上がり、文明を飲み込んでいくという地域特有の歴史があるのは、だいぶ深刻な現実だが、噂レベルまで矮小化されている仕掛けも気になる。
あと、一般的な湖は下に凸だが、フォンテーヌ全体で見るとそれは上に凸で、その上に文明が築かれているのは壮観ではあるが、それ以上の意味がある。
俺ね、最初、ジャニーズファンが今回の虐待に寛容なのは、ファンとジャニーの間で好みの顔や身体が一致してて、性的嗜好に対する共犯者意識で寛容なんだと思ってたんだよね。
ジャニーさんがこういう顔や仕草が好きって子を、ファンも好き。それを直視したくないから見ないフリしてるのかなーとか。
最近になって、それは違うなと。シャネルやコーチ、ブルガリみたいなブランド価値でジャニーズっていうブランドが好きって話なんだと理解した
いや腐営業(腐売・BL売)って言葉がジャニオタで使われるくらいだったから、元増田の最初の認識で合ってる
腐女子はマジで日本の原初の闇なんよ(こんなのが子にまともな性教育するわけが無い)
地下やコンカフェに比べたら健全そのものだけど、全通爆買いのガチ恋勢もいるしなぁ・・・
あと、『生きづらいちゃん過ぎて人とまともなコミュニケーションが取れなくて、ジャニーズが唯一の人と繋がるコミュニケーション手段の人』のケースだと、
どっちなのかは不明
あと頑張っている人が好きは世の中によく見られることだから、
大変な状況にある人が、ジャニタレのなんらかのものが刺さって、唯一の心の支えにしているから、都合が悪いことはぜんぶ無視したいというのもあるのかも
増田のお仕事創作記事は気が滅入るレベルで酷い化石が多いけど、
キャバ・スナックなどで働いている水商売やっている人(当事者)の思考のそれらしさ、
風俗嬢(アプリのフリーの立ちんぼも含む) やっている人(当事者)の思考のそれらしさ、
ズバ抜けているだけあるわ
「夫が子供欲しがったから産んだだけ」「子供なんか産まない方がいいぞ」でしかないんだよね。
こんな事言ったらもろ毒親だけど。
だからそういう強制力がなくなった今の若い世代には「セックスなんかしなくていい」「結婚なんかしなくていい」「子供なんか産まなくていい」しか言う事ない
こんなの「正しい」教育ではないが
これは、BS民放やアニメ業界どもに対する怒りと憎しみと悲哀が入り交じった訴えだ。
何でアンタらはもっと早くとらドラをBS無料chに持っていけなかったんだよ!?
近辺3年どころか10年間を見てもあるべきでない悪貨コンテンツが、とらドラよりいい画質ビットレート条件のBS無料放送でたれ流されてきた悲劇が何度あったか?
とらドラが何故放送画質での冷たい待遇を放送業界から受けなきゃいけないのか…
この10年を見てみろよ
ガンスリンガーストラトスもどき、ゴッドイーターアニメ版(意識高いな映像作り込みが裏目に)、
しゃちばと、リアデイル、
いせにど、人間不信、fromTVanimation惑星のさみだれ、
艦これいつ海、おさまけモドキ、
セブンナイツ、Dコードトロイメライ、エクスアームもどき、ジビエート…
これら全部なんだと思う?
BS無料で松竹東急さんより高いビットレートまたはフルHD、4Kサイマルでかつ国民生活不安が今より悪くなる前の放送を得てきた、
とらドラの足元に及ばない存在でしかないくせに。な作品連中だよ。
とらドラだけでなくBS未放送および初放送からインターバルが長い作品はろくに再放送とかして貰えないのおかしくないじゃないか。
クラナドシリーズは2期のBS-TBSでの放送終了から14年3月、
カウボーイビバップはBSアナログWOWOWでの放送終わってから四半世紀、
続く
他にもBS無料局にBS初放送リクエスト出してるのに無視されてる作品色々…
ある時期からBS未放送作品にろくに目を向けず同じ作品の繰り返しになって、観れるの精々サンライズ旧作枠ぐらい、そのサンライズ枠も廃枠されやがった。
BS日テレも20年〜21年にトライナイツ・はてなイリュージョン・ブレイドアンドソウルの頻繁な放送ばっかして
他の良質旧作放送に目を向けてくれなかった。
そしてBS11。
新作すし詰め状態いつか来てBS日テレが容量オーバー分担当するような状態を予期しない上に
21年の春夏秋に視聴者を舐めた安上がりな近辺作再放送ばっかしやがってきた。
神なたシグルリ偽ひぐらし俺100ラスダン裏世界スケートの失望の9ヶ月を超えたら次は何?
アイツこそBS日テレがやれよ。
で春クールになったら空き枠使用が続編前の前作再放送に使われて激萎え(無職転生1、死神坊ちゃん)
で夏クール(今期)は?
続編は1月放送なら10月クールで良かったのにそうしなかったり
こんな他局の不甲斐なさと業界の怠慢な新作作り放題の結果がこのザマ。
とらドラのBS無料初放送は地デジ以下のビットレート数のchという悲劇。
業界は良貨に対して卑しく悪貨を尊んでやがるようになってるとしか思えない。
それにBS機器やケーブル放送持ってないMXエリア圏内はとらドラを羨ましがってんじゃねえよ。
2020年の下半期にハナヤマタとニャル子はさぞ美味しいものだったんじゃん?
あと、私の作品適正属性トップ3はこの数年間(加速したのは近辺1〜2年)で激しく激変しました
必要以上に「ステレオタイプシリアス・鬱イベント」に対して顕在的に怯えるようなことが増えて(のんのんびより製作委員会がテレ東と組んで一期二期は東名阪のみ、それらの再放送をスカパー無料の日に投げ売り、で三期はBSテレ東でサブchで通販やってるせいで2kは地デジ以下の画質だということでの「ステレオタイプシリアスそのものに対する逆恨みからの八つ当たり」でもある)、
恋愛ものに対しても嗜好が変わりました。(男女間恋愛よりも百合のほうが大事)
あとこのすばリゼロオバロ転スラへの庇護も弱くなった、21春以降からの異世界乱発が原因で今の異世界のひとつの原初ポジションへのモチベも下がった。
ついでに、盾の勇者もリゼロもヒプマイもBプロもみんなBS日テレに移籍すればいい、なんてレベルにまでBS11に対する捻れた感情を持つようになって行きましたよ。
つまり今回のとらドラの件で私の業界全体に対する憎しみは大きく一つ増えたことになる。
せっかくのBS初放送が地デジ以下のビットレートのチャンネルの上にウクライナ・ロシア紛争起きてからという遅さだったことから。
「君たちはどう生きるか」感想。
具体的なネタバレはそれほど無いと思うが、作中のかわいい一キャラクターのみ個体言及する。
一言で表すならば、眠りの浅い時に見た夢。
ナウシカ、ラピュタ、トトロ、魔女の宅急便、紅の豚、もののけ姫、ハウル、ポニョ、そして風立ちぬといった宮崎駿歴代作品イメージボードをブンブン振り回されて巡らされた。
呆然とした。
映画が終わった時には、なるほどね、と口から漏れていた。何故広告を打たなかったのか、得心したからだ。むしろ広告が打てなかったと言う方が正しいのではないかと思う。
ストーリーが訳がわからんかったのは別にいいというか、この作品自体が夢みたいなもんだからどうでもいい。
まず引っかかったことの第一、台詞回しが説明的だったのに結構なダメージを受けた。
映像だけで説明できているはずのシーンで重ねて行動の意図を口に出して「今この台詞言う必要あったか?」となったのが、覚えている限り少なくとも二回はあった。
他にも感情の流れの描写がなく、どうにも唐突に結果だけが放られる台詞が多かった。細田守を彷彿とさせる台詞回し。辛かった……
私はキャラクターへの共感については特に必要性を感じない方なのだが、感情の流れだけはしっかり描いてほしいと思っている。その流れがブツブツ途切れていて、最後に繋げたい結論だけを口にさせていて、気持ちが悪かった。
それも意図的なのかもしれないが。
第二にショックだったのは、ワラワラがただ可愛いだけのゆるキャラだったこと。
駿の中にはもうマスコットになりうる「可愛くて、でも不思議な」キャラクターはいないんだなと痛感した。
安直でなんの捻りもない造形には、宮崎駿の原体験や自然の中にある生命の伊吹を感じることができない。そこに「いる」必然性は描かれず、ただ丸く、かわいい、特徴の廃された「マスコットらしいマスコット」でしかない。
子供向けにフックとしてマスコットが要るだろうという「思いやり」もしくはジブリと言えばという商業的要請から出されたキャラクターにしか感じられなかった。
DNA螺旋なことは分かるが、それにしたって安直なデザインには宮崎駿の興味・関心が感じられない。
まあそこは今の宮崎駿にとってはどうでも良かったのだろう。でもシンプルながら風変わりで、動物や幼児の見せる原初の感情や愛嬌を細やかに描いたキャラクター達を愛していたので、個人的にショックが大きかった。
現在の宮崎駿の中で鮮やかに表現されるのは、戦争であってファンタジーではないというのは今作を観て強く感じられた。
最も切実にこちらに訴えかけるのはやはり空襲のシーンであったし、街が燃え、人が炙られ彷徨うシーンだった。
主人公が自らを傷付け、結果二兎を得るが上手いこと加減できず割と深い傷になる小賢しさと迂闊さも少年らしく良かった。
背後に不穏さが漂う陰鬱な現実こそが「今」の宮崎駿なのだろう。現代情勢からも必然だろうとも思う。
私は宮崎駿の、普通エンターテインメントに乗りきらない切実で繊細なものを、エンターテインメントという砂糖をまぶして結実させ、本来のターゲット外の人までより広く世に送り出す手腕にこそ心酔していた。
「風立ちぬ」なんかはその真骨頂で、あんな純文学を大々的にお出ししてきたのは正気ではないと思いつつ狂喜乱舞したし、そこに込められた宮崎駿の諦念を目の当たりにし、これで創作活動を終いとするのは悲しすぎると涙した。庵野が棒すぎて頭に入らないから嫌と内容以外の部分で周りに否定されたのも悲しかった。
結果的に言うと「風立ちぬ」は宮崎駿の終点とはなり得ず、私の望みは叶えられた。
「君たちはどう生きるか」を鑑賞し、ここまでただ狼狽した心情を書いてきたが、今の宮崎駿に非常にショックを受けつつも、なんとなく心穏やかになった部分もある。
宮崎駿作品から既にひりついた表現への欲を感じなくなったのは、それはそれで救いであるとも思う。
そういう意味では、私にとっても「宮崎駿」への餞というか、終活になった。
どんなに作品の底に込めた意味があろうと、こちらに伝えようという意思が感じられない、というか作品を観ながら「伝えたかったもの」を考える余地がある、物語に没入できない時点で出来の悪い作品と考えているので、作品単体で言うと★1なのだが、監督が宮崎駿ということを加味すると★3になってしまう。
「君たちはどう生きるか」を宮崎駿ではなく、例えば米林宏昌あたりが作っていたら私は激怒し、オマージュを大義名分にジブリブランドを体良く利用して棄損するなと気炎吐き散らして暴れ回っていただろうが、宮崎駿ならばこれを作る権利がある。
去年ご店主夫婦が高齢でとうとう閉店したインベーダーゲームがテーブルになってるような近所の喫茶店に、子どもの頃たまに母に連れられて行ってた
そのお店の壁一面の白い本棚に「ぼくとフリオと校庭で」が置いてあって、多分小学生のときに気になってそれを手にとったんだよね
表紙の絵とタイトルが妙に心に残ってて、増田は若いからわかんないと思うけど山崎まさよしの「僕と不良と校庭で」って曲があって、あれを聴いたときにそのときの記憶がばーって蘇ってきてあれなんか似てる、でも変なタイトルじゃん?そんなもの本当にあったかなと思って検索したらサジェストで出てきたので驚いた
でもなんか夢みたいな記憶だから念のためその喫茶店に本当にあったか確かめに行った、もう19か20だったから今度はひとりで
そしたら年数分古びてるだろう同じその本がちゃんとあったのでまた妙な感慨を味わった、よっぽど印象的な本のたたずまいだったんだなって思った
よく見ると他の短編集とかもあって、普段は端正な松花堂弁当とか出してる喫茶店のご店主夫婦のどちらかが、あるいは二人共がこの変わった感じの作品たちが大好きなんやな……と思って不思議な気持ちになった
隣に整体があって、そのしばらくあとからその整体へ腰を手術したあとの祖母が通うようになったので付き添いで待ってる間私もしばらくその店に通うようになった
その店の諸星作品読みながらリプトンの出過ぎた紅茶と業務用ケーキを食べつつ待ってた思い出この増田みてまためちゃくちゃ鮮明によみがえってきたわ
以降自分で買い集めて諸星作品読むようになったけど、私は結局とっつきやすい栞と紙魚子シリーズが一番好き
私家版魚類図譜みたいなのもいいけどね、栞と紙魚子はいつでも繰り返し気楽に読める
ただこれもなんか大昔に読んだ記憶があって不思議なんだよね…紙魚子のこと知ってて幼稚園くらいのときにすごく好きだった気持ちがあったような気がするけどその頃まだ上梓されていない…
「子供や家族連れで賑わう公園が突然の閉鎖。そのきっかけは、子供の声がうるさいという近隣住民からのクレームだった」
そんなニュースを聞いてあなたはどう思う?
――そいつは何て心の狭いやつなんだ!せっかくの遊び場を、どうせ使いもしない奴が文句言いやがって!
――死にゆく老人がこれからを担う子供の遊び場を奪うな!
そう感じるだろう?俺も同感だ
子供はしっかり外で走り回り、きゃっきゃと声を上げ、草や土を掴み、全力で遊ぶのが何よりだ。本当に心からそう思う。
だが、そんな俺も公園を管理する市に対してクレームを入れたことのある1人なんだ。勿論、騒音について。
つまり傍から見れば、俺は「公園で大きな声を上げて遊ぶ子供を愛しながら許容しない」不思議な存在だということになる。
日本各地にあるこの問題、まず確実に言えることがある。
「公園クレーマーと非公園クレーマーが見ている公園の姿は違う」。
そして、「現状、公園クレーマーたちはクレームを上手に世間に伝えられていない」。
次に、これを読んでいるあなたが「公園クレーマーってちょっとオカシイよね」と思っていることを前提に、以下の事実を列挙したい。
・公園クレーマーは必ずしも子供の声が無条件に嫌いな偏屈ジジイではない。
・非公園クレーマーが公園クレーマー化するのは、一部の非常識な利用者のせいである。
・非常識な利用者だけを除外する仕組みを、行政は持ち合わせていない。よって、公園クレーマーは全ての利用者を敵視するしかなくなる。
・公園クレーマーは、クレームをつける行為に負い目がある。
さて、じゃあ早速冒頭の文章をニュース原稿だとして、続きを想像してみよう。
――子供や家族連れで賑わう公園が突然の閉鎖。そのきっかけは、子供の声がうるさいという近隣住民からのクレームだった。
とすれば、次に来るのは男性ナレーションの低音ボイスであえて野暮ったく読み上げられる次の語句だ。
――「子供の声が、うるさい」
その次は行政の記者会見のシーン。
――「近隣の方との話し合いを続けてまいりましたが、双方の納得には至らず、やむを得ず閉鎖の判断を致しました」
で、そこからが問題だ。恐らくここで、普段の公園の様子か、或いはイメージ映像などで、元気よく遊ぶ小さな子供たちが映し出されることになる。
――「家族連れで賑わう平和な公園で、何が?」
これが大問題なんだ。
少なくとも俺は、こうした元気よく遊ぶ小学生、保育園児、幼稚園児は、好きなんだ!癒される!
きゃっきゃきゃっきゃと楽しそうにおいかけっこをして、たまにミ゛ャー!と寄声を発して、あーあーと泣き出して、しばらくすれば何でもなかったかのようにまたギャーギャーと走り回って…
心から平和を感じるんだ。
精一杯走りたまえ。あーあー、転んじゃって。大丈夫?
俺はこれを、うるさいとは思ってはいないんだ。
じゃあ、「子供の声がうるさい」と言ったクレーマーの気持ちはなんなんだ?
俺はそのクレーマーの気持ちを理解しようと努めることができる。恐らくその人も、最初からそれがダメだったわけではないんだ。「ダメになった」んだ。
(一応補足しておくが、この日記では「俺」と「公園クレーマー」という主語をほぼ同一として扱う。いわゆる「主語がでかい」状態だが、便宜上許して欲しい)
俺が公園クレーマーになった原初のきっかけは、とある夜のことだった。
当然すぎて端折っていたが、俺の家の目の前には公園がある。住所はとりあえず北関東ということでボカさせてほしい。
大きくはないが、追いかけっこは勿論、キャッチボールやフットサルくらいなら十分できる広さがある。
2階の窓からすぐ見下ろせるところにベンチがある。そこに、夜な夜な中学生か高校生くらいの男子連中がたむろし、談笑しながらボール遊びをするようになった。
変声期を終えた男子の声は、かなり通る。そして、ボール遊びの中でもとりわけサッカーボールを蹴る音というのも、実はかなーり、通る。
少なくとも俺の家の窓は全く防音性という面で貢献しなかった。
ボン、ボン。ギャハハ。ボン。ボス。ギャハハ。ボン。
不規則なリズムで、しかし短い間隔でリビングに響くその音を聞いていると、30分も経たないうちにまるで面白半分に自分の頭を蹴られているような気分になり、怒りが湧いてくる。
ここで、自明の事実を書く。
こうしたたむろ連中は、必ずしも「迷惑をかけるつもりで」やってはいない。
彼らは、「自分達の発している音が、目の前の家の中にまで達していることを想像できない」のである。
壁を隔てた向こうに、自分たちの存在が察知されていることを知らないのである。
これは誰しもが陥りがちなことであるが、どうも人間と言うのは「見えていないならば聞こえていない」と認識しがちである。
自分から見て、近くの家の中など当然透視はできない。ならば聴覚も届かぬ場所であると錯覚するのだ。
要は、「想像できないことは認知できない」のである。
結局その日は警察を呼び、お帰り願った。(夜9時台だったので世間一般的にも迷惑案件だと判断した)
翌朝、その場所にはペットボトルやカップ麺などの大量のゴミが散乱していた。
夜の騒音はその日で終わらなかった。
ここでのポイントは、「同じ連中が毎晩たむろしに来るわけではない」ことである。
とにかく色んな人が来る。
金もなく公園に行くしかないカップル。
夜しか時間が取れないのであろう、子供を引き連れてバッティング指南をするおっさん。
花火をしに来た家族連れ。
先程の件と別の男子学生グループは幾つもいた。
中には缶チューハイで酒盛りする中学生男女グループというのもいた。世の中的に見れば全く珍しくもない、可愛い非行の一種だが、目の前で見せつけられるのはさすがに弱った。
そしていずれの人達も、当人らが思っている以上にその声や動作音は聞こえてきた。
中にはTikTokの流行りの動画を大音量で流す奴もいた。
ただ、それですら、彼らはこちらのことを認識していないのである。
単に「流行りの音楽を好きな音量で鳴らす俺」という環境を欲しているのであり、それが他者に聞こえているとは思っていないか、考えたこともない。
彼らにとって俺の家は書き割りの背景と同じなのである。
そのうち、夜に公園に来るすべての人間がバカに思えてくるようになった。
先ほど書いた通り、「自分の出した音がどのくらい遠くまで聞こえているか」「それが思いもよらぬ誰かの耳に届いているか」というのは「想像力」の話である。
なので、彼らは「想像力の無いバカ達」だということになる。
一方こちらは常に公園の音が耳に入ってくる。
自分の感知エリアの中に公共の場があるのだ。自分の感知エリアの中にバカが入り込んでくる可能性が常時あるのだ!
これは結構大変なことで、つまり自分自身が「公園の24時間警備システム化」してしまったのである。
これは良くないと思い、市に電話を入れた。
クレームではない。「夜間の大声やボール遊びを禁じる看板を立てられないか」という要望としてだ。
「あくまで自分は要望のつもりだったんですがねえ」と言い訳したいのではなく、あらゆる体裁において実際要望として伝えた。
いわゆる公園クレーマーとしての立場になりたいわけではないし、日中の利用のマナーは良く感じているというようなこともできるだけ言った。
結果、1週間内には夜間早朝のボール遊びや集会、騒音を立てる行為はご遠慮ください、といった旨の即席看板が立った。
この看板にはある程度の効果があった。
ありがたいことに地域の全体的な民度は低くなく、夜の利用者がこの看板を見て「もう1個の広い公園行こうか」などと発言する様子も見られた。
だが、それでも無視する者も少なくなかった。
そして、俺ももう手遅れだった。
警備システム化した神経は、最早日中の音ですら気になるようになってしまったのだ。
常時テレワークであるため、在宅せざるを得ない中、ボールを蹴る音や子供の騒ぎ立てる音が聞こえる。
いや、それでもやはり冒頭書いたような、「小さな、天使のように朗らかな子供たちの駆ける音」は何の問題もなかった。
中高生男子の声とサッカーボールの音が、いかにもたむろ連中を想起してしまい、聞くだけで頭痛がするようになった。
大半の少年たちは育ちが良く、騒ぎ立てはするものの、辺りが暗くなればささっと帰ってくれる。
だが恐ろしいことに、「そもそもいること」が許せなくなった。夕陽が沈みかけ、薄暗くなったあたりで「早く帰れ早く帰れ」と念じるようになった。
そして――どうにかベンチを撤去出来ないか?一部の区画だけでも閉鎖できないか?
いつしか「クレーム」を入れるようになったのだ。
ここで、非公園クレーマーであろうあなた方に問いたい。
あなたが想像する公園クレーマーが「子供の声がうるさい」と言った時、あなたが想像する声の主はどんな姿だろうか?
小学生や、幼児たちを想像していないだろうか?
そのうえで「まさかこんな子供たちを排除するなんて!」と憤っていないだろうか?
また、「勝手に昼間で想像している」のではないだろうか?
違うのだ。
もう少し上の年齢の、「自我が目覚め、夜遊びもしたい、生意気盛りの子供たち」なのだ。
そして、俺には今自宅の目の前にいる利用者が「良い利用者」なのか「悪い利用者」なのか判別がつかない。
全ての音を拾うしかないのだ。
そうなれば俺が言うことはただひとつ、「子供の声がうるさいんだ」である。
しかしその言葉から逆引きされる「子供」とこちらのいう「子供」には隔たりがあるし、経緯はいっさい伝わらない。
さて、そろそろあなたには幾つかの疑問、というより「ツッコミ」が生じていることだろう。
――引っ越せばいいのでは?
――家の防音性能を上げればいいのでは?
――イヤホンとか耳栓でなんとかならない?
――他の住民が気にしてないなら気にし過ぎなのでは?
引っ越しはそう簡単にできるものではない。膨大なローンが残っているし、自分ひとりの問題ではなく家族を巻き込んだ話になる。
窓を増設するという手がある。しかしこれも公園に面した各窓に処置するだけで100万円はカタい。マインクラフトみたいに素材があればポンと設置できるものではない。
イヤホンや耳栓というのは応急処置として有効である。しかし「自分の家で行動を制限される」ストレスの方が強い。なぜ自分の家で、家族との会話もシャットアウトし外界の音に我慢させられているのか、ということになる。
それに、これはまた派生的な「症状」なのだが、俺のようになると音だけでなく「窓を開けたら人がいる」という状況ですら悩みの対象になるのだ。目の前のバカがいつバカをやり出すかわからない恐怖が発生してしまうのだ。
大体、「夜間の集会はご遠慮ください」という看板がある状況で集まっている時点でそいつはルールを自己都合で無視できる人間なのは確定しているのである。
そんな奴が自宅から10m強先にいること自体がストレスになってくるのだ。
そして最後。
ここがまた、公園クレーマーと非公園クレーマーの隔たりの原因である。
公園クレーマーとは、恥ずかしいものなのだ。
だって、公園は良いものである、という世間の認識があるのだから。
そして既に、公園にクレームを入れるのは「わからずやの偏屈ジジイ」だとする一般通念があるのだから。
俺だって、もし街を歩いていてテレビの取材にあたり、「公園にクレームを入れるのってどう思いますか?」と聞かれたら、
「ウフ、うん、まあその、公園って子供たちがねえ、元気よく遊び回る場所だからねえ、その、それをねえ…」
などと口ごもるだろう。
「アッ、こいつ公園クレーマーの仲間だぞ!」と思われたくないので。
恐らくだが、インタビューで公園の騒音を肯定的に捉えている人の中にも、「実は参ってるんだけどね…」という人がいる可能性はゼロではないと思う。
こうして、公園クレーマーの印象は「誰にも理解できないキチ○イ」へとどんどん先鋭化されていく。
とはいえ、この日記では解決策を示して欲しいわけではない。
あくまで公園クレーマーとは何なのかを公園クレーマーの立場から書いているだけである。
ということで長くなったが、それでも、俺のような公園クレーマーに対して「偏屈」「気にし過ぎ」と感じる人は多いだろう。
それはそれで問題ない。何せ事実、神経過敏になっている。
最早俺は、バカが来て騒音を出すのがダメなのではなく「常にバカが来て騒音を出す可能性がある」ことがダメになっている。
もしかすると、今はまだ俺が愛おしく思っている小さな子供たちすら、今後は煩わしくなっていくのかもしれない。
そうなれば、次にニュースに登場し、世間から罵られるのは俺ということになるだろう。
だが、非クレーマーたる皆さんには、少しだけ想像をしてもらえないだろうか。
あなたがイメージする「公園」「公園の騒音」は、クレーマーの思うそれとは時間帯も対象人物も在り方も違っていないだろうか。
また、あなたは公園の目の前には住んでいないのではないだろうか。
ならば、「自分が自宅に居ながら公共の場の音を感知する警備システム化する」という感覚を知らないはずである。
何も公園クレーマーを理解しろとは言わない。
ご推察の通り、精神疾患的な症状は少なからずあるので、そこを含めて理解しろというのは傲慢であろう。
ただ、公園の騒音という社会問題について何か語ろうと言う時、少しだけ、想像をしてほしいのである。
最後に余談として。
あなた方が考えるツッコミにはもう一例あると思う。
――自分が若い時もやんちゃしたのに、今の若い子のそれは許せないの?
これはこれでデカいテーマなので書くなら別の日記として書くべきだろうことだが、正直に言えば「許せない」が「心の慰めにはなっている」という程度だろうか。
俺も学生のころ、男子連中で友人の家に寝泊まりし、近くの公園でバカ騒ぎした記憶がある。
下校時に彼女を連れ立って、公園の木の陰でいい思いをしたこともある。
迷惑をかけたし、その近隣の住民に我慢を強いたうえで「仕方なく許された」のが今の俺であることは解る。
実際それらは個人的には「いい思い出」として処理されているし、懐かしく思うこともある。
だが、「ならば自分も許そう」はそもそも道理でない。単に個人の思想の一種でしかない。
あえて極端な例を言えば、過去にゲーム感覚で万引きをした経験のあるヤンチャ坊主が成長して小売店の店長になったとして、自分の店の万引き犯に対して「でも自分もやったことだしなあ」と許せるかという話である。
学生の頃イジメを働いた人間が社会人になって会社でイジメられて「でも俺もイジメっ子だったしなあ」となるかという話である。
そういう因果律で人生を捉える人がいてもいいが、それがイコール正しい考え方ではない。