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はてなキーワード: イエイヌとは

2019-04-09

anond:20190408230305

人が動物の上に立つモチーフイルカアシカイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキ絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思います

けもフレ2における、人間動物迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります

リョコウバトとトキ比較ですが、けもフレ1のトキ場合絶滅危惧動物であること、人間によって傷つけられたことに関する言及はないわけです。一方、リョコウバトの場合絶滅を暗示する演出がいくつもあり、先のフウチョウの問いかけもあったわけです。

イルカアシカについてですが、ネットを眺めた体感では、そこまで気にされてないように思うので、これが気になるのは俺自身問題であって、そこまで気にしなくても良いかもしれません。

ただし、フウチョウの問いかけにある通り、全体的に人間動物関係性の負の面に掘り下げるならば、イルカアシカも一緒に掘り下げたほうが脚本の完成度が上がるでしょう。

イエイヌについては、あれは監督交代のいざこざ抜きでも、居心地悪いかと。

詳しくないのですがハリウッドヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアル表現模索したのでしょう。

マーベルやDC映画場合叫び声でパワーアップはしないわけですが、強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫がありますフレンズセルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。

まあファンタジー蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います

まず私の立場は「多分、脚本の穴だろうが、寓話世界観と取れないこともない」というものです。ラストバトル前の葛藤(フウチョウ)と、ラストバトル勝利ギミックビースト)という重要な部分の両方が、ファンタジーな流れで解決されるので、その印象が非常に強いんですよ。

しかし、たつき監督けもフレ2をやっていたらそのカット問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています

点が三つあると人の顔に見える、と言う話がありますが、人間は、基本的意味のないところにも意味を捜す生き物です。現実には意味のないことは幾らでもあるのですが、作劇でそういう部分を作ると、視聴者は無理矢理意味を見いだそうとし、結果、制作者にとって不本意な受け取り方をされることがある。それを避けるためには、意味・印象が散漫なシーンを作らないことです。

結局、セルリアン型フレンズにあまり意味がなく、戦闘も盛り上がっていないのが、あら探しされやすい大きな原因だと思いますフレンズ型になった意味もさほどなく、あまり怖い印象もなく、なんとなく倒されていくという(このへんは脚本だけでなくアクションシーンの問題でもあります)。

けもフレ1の集合シーンは、ここからフレンズが、それぞれの個性を生かした連係攻撃を開始するわけです。例えば、それを踏まえて、セルリアンが巧みな連携を仕掛けてきて、「これまでのセルリアンと違う! なんて強いんだ!」とすれば、そこには一つ意味が生まれます

そういった点をクリアしても、ケチつけられる可能性は否定しません。結局、最終話評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。

この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。

「優しい世界」に込める意味は、人それぞれで、深く考えてない人も多いでしょう。なので、最大公約数を取れば、まさしく「感じが良くて人気だった」くらいの意味になると思います批評として使うなら、定義必要になるでしょう。

私自身が「優しい世界」という言葉を使ったのは、「素直なキャラ面白いドラマを作ること」くらいの意味です。

けもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。

スギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。ギスギスを狙ったのなら、作品の出来とは別にマーケティングミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。

逆に言うと、ここまでギスギスな作品だと受け取られる、とは制作側は思ってなかったんでしょうね。

論理同意できません。自由意思はどちらの選択をとっても自由ときにのみ現れるものです。

そこはおっしゃるとおりですね。書いたことに矛盾があったので書き直します。

まず、1話からのヒキである、キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。

キュルルが「おうち」を捜す動機として、フウチョウに対して、「そこには、僕にとって大事な、なんかすごく大切なものがあった……気がする……」と言ってるんですよね。この「大事な大切なもの」が不明なまま、おうちより仲間と言われても、とってつけた感が出ます

それがパークのどこにもなく手がかりの絵も尽きて絶望したことが示されているので

何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーンが見当たりませんでした。教えていただけると幸いです。

でもそうするとセンちゃんアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。

思いつきプロットですので、詳細まで詰めてないのはご容赦ください。作劇において、尺やバランス問題は常につきまとうので、やりたいことの優先順位を決めて整理すれば良いかと。

優先すべきものイエイヌとキュルルの関係なら、他のキャラの出番を減らして調整しますよね。逆にカラカルとキュルルが仲直りして関係性を深めるほうがメインなら、プロットが重くなりやすイエイヌでなくて、別の困ったフレンズにしたほうが、すっきりするかもしれません。

キュルルちゃんホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります

通常、主人公とは「こいつがどうなるか見届けたい」と視聴者に思わせて、物語ドライブする存在です。そのためには視聴者を引きつける魅力が必要になります。魅力がないと、作品を見続けるモチベーションが湧かない=つまらないとなるわけです。魅力としては「いいやつ」から「かっこいい悪」「人間欠点があるが、どこか憎めないボンクラ」まで様々です。

さてキュルルは、別に「かっこいい悪」や「憎めないボンクラキャラではなく、概ね、フレンズを助ける心優しいキャラとして描かれてたわけで、それをこういう下げ方したら、キュルル自体の魅力が損なわれ、作品自体への評価が下がります。さすがに制作者が意図してそういう風には描かないと思います

キュルルが落っこちた回でニコ動アンケートちょっと上がったのは知ってますが、主人公がそこまで嫌われてる時点で、作品としては末期症状でしょう。

しろ話の流れのメインだったのは”スケッチブック最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテル海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。

長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌ彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。

この解釈は私が気づかなかったもので、なるほど、と、思いました。

ただ、「スケッチブック最後のページの行方」がメインだったとすると、エピローグ的な部分で登場しても、もうその時点では、セルリアンは倒され、キュルルのおうち探しも終わっており、ドラマとして盛り上がらないかと。

イエイヌの「おうちへおかえり」と、キュルルの「おかえり」を重ねて、メインテーマに結末をつけたいのであれば、もうちょっとそこに重点を置いた作劇にしないと視聴者に伝わらないと思います

一般的エンタメの作劇上のセオリー評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。

作品の出来、不出来は、究極的には個人の好みになります。その上で、「多くの人が好む/嫌う最大公約数」というものもあります。それをまとめたのが、エンタメセオリーと呼ばれるものです。

けもフレ2の一般的評価が低い論拠として、そうしたセオリーを守れてないから、という点を指摘しているわけです。

もちろん、セオリーをぶっちぎって、面白い作品はあります。私から見る範囲で、けもフレ2に、セオリー無視したが故に面白くなってる点は見当たりませんでした。ただこれは私の意見なので、「そうではない。ここが面白い」という意見は拝聴します。

2019-04-08

anond:20190408180028

人が動物の上に立つモチーフイルカアシカイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキ絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思いますしかけもフレ1でカフェを訪れるフレンズは別の鳥でも良かったわけで、トキ選択されたのは何らかの意図があるでしょう。以前に書いたような「テーマとして昇華していない程度の示唆」でとどめても善いのではと思います不快になるまで強調されるならドラマに絡めて決着を付けるべきだということですね。ならばイルカアシカイエイヌでそこまで不快になるということ自体製作者の想定外なのではないでしょうか。俺もグロテスクさは感じましたが話が入ってこないほどは気にならなかったです。「そこに居心地の悪さを感じるのは当たり前」とおっしゃいましたが、監督交代のいざこざ抜きでもそう言えると断言できますか。

ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからない

これまでそういう表現が主流だったというだけです。戦闘ときに技名を叫ぶのはフィクション的です。攻撃タイミングがバレてしまうし、叫びに使うエネルギーを拳の乗せろよ、です。詳しくないのですがハリウッドヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアル表現模索したのでしょう。「サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、『同じ系統のパワー』に見えるんですよね。」とのことですが、同じ系統でよいと思います。常時強制的に野生部分が開放されているのがビーストだと俺は捉えてます

私の意見は「内面世界の外への進出自体は、多くの作品共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。

俺はケムリクサの最終話での細かいつじつま合わせに納得していません。「盛り上がり」とはリンが赤い木に対峙するシーンからですよね。ケムリクサでは草周りが特に緻密に組んであるので引っかかっているのかもしれませんが、矛盾していてノリで処理するの範疇に入っていますけもフレ2でのキュルルちゃん葛藤は「盛り上がる」部分ということでいいですね。とすると問題はフウチョウよりむしろ吹っ切れた後にタイミングよく飛んでくるビーストのような気がしますが… ただそこに至るまでに作品評価は決してしまっていたし、葛藤をフウチョウという便利な舞台装置で処理したところで全体がファンタジーということにはならないのでは。むしろケムリクサは柔軟性のあるギミックやしがらみのないプレーン舞台を用意していることで矛盾をでなくしているように思います。まあファンタジー蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います

1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。

しかし、たつき監督けもフレ2をやっていたらそのカット問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています

視聴者視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います。...(中略)...「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます

この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。批評文脈でそのようなものを論じるのは意味がないのでは。作品制作において(俺は関係ないですが)、優しい世界を目指すというのは単に売れるよう頑張る以上のものであって、今のところは曖昧ですが、これから更に研究していく必要があるほど奥の深い領域だと考えていますけもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。そこはメリットだったのですが他方優しい世界性は減じてしまったということです。スピリットは二作品継承されましたが、休日リピートして癒やされるのはやっぱり一期ですよね。

話が前後して申し訳ないのですが、作劇論について…

ドラマとして盛り上がる重要ポイントで誤解を与えてはいけない

なるほどこれまで俺は不備を、設定の矛盾のようなものに絞っていましたが、重く捉えてらっしゃるのはプロット上の未消化や演出上の目論見の失敗、などですね。この方面は完全に素人なのですが、胸をお借りするつもりで議論に足を踏み込ませていただきます

「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットします。そうしたほうが「自分意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。

論理同意できません。自由意思はどちらの選択をとっても自由ときにのみ現れるものです。事実上その選択しかないのにそれを選ぶのを決心するのは意思ではなくて屈服ですよ。敗北したのではなく自分で選んだと言い聞かせるために自分発破をかけているわけでしょう。けもフレ2のキュルルちゃんは諦める必要がないときに諦めの決断をしているので、そこに確かに彼女自由意志があると判るはずです。響くか響かないかは決意の重さを事前に示しているかでしょう。リリの「会えないのはもっと嫌だ!」は赤い木を生み出した(観念的な)責任彼女にあるし、あそこで「好きに生きて」などいわれて逃されて、わかりました楽しく生きますは納得感が全く無いので、戦線復帰が可能だとわかった時点で行動は一択なわけです。でもワカバとの日々でお化けになることを怖がったり、ワカバが倒れるのを心配したりしていたので、彼女自身が消えることの怖ろしさは十分に示されてる。それでも積極的に行くところに決意の強さが見て取れるわけですよね。キュルルちゃんはそれまで三人でおうちを探して旅をしてきて最後に、それがパークのどこにもなく手がかりの絵も尽きて絶望したことが示されているので、諦めるということがそれなりに重い決定であることは判っているわけです。それで充分だとは思いますが、まあ死ぬほどの重みではない。先々週にリリの決断をみているのでそこからすると見劣るのは否定できないです。

増田さんのプロット案は面白いですね… そっちのバリエーションも観たかたかも(実はプロの人なの?)。

最初イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。

でもそうするとセンちゃんアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。このときのキュルルちゃんが横暴に見える、とまでは俺は思っていませんが、視聴者の多くはそう捉えたようです。おかしいと思わない人はサイコパスとまで言われていました。素人考えなんですけど、あそこでキュルルちゃんが(観点的な)非道を働いてしまうことには狙いがあったのではと思いますお話の上でキャラクターが何らかのミス悪事を働いて被害を作ってしまった場合、それに悪意がなくても、天災的な事故観念的な罰を受ける。視聴者の溜飲を下ろすためなのか、そういう処遇はよくあると思います。でないと消えざるを得なかったリリ・ワカバがただひたすら不遇ということになってしまう。キュルルちゃんホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります

肩すかしなのは、キュルルちゃん出自と、最終話に至るドラマキャラ動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要があります

キュルルちゃん疑似不老不死説は俺の自説で、そこまでの確証はないことは一応留意してください。むしろ話の流れのメインだったのは”スケッチブック最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテル海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌ彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。

通常、作品における伏線・回収は、プロット重要なメインの部分についてやるものだと思います

一般的エンタメの作劇上のセオリー評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。不勉強ながら俺はそれを知らなかったし、多くのファンも同じではないでしょうか。視聴者には考察班的に楽しむ人もいるし、癒やし目的カジュアルに流し見る人もいるでしょう。教科書的な表現から逸脱することで芸術進歩してきたのではないですか。

anond:20190408152438

けもフレ2のメインテーマは「おうち探し」だと思ってました。

おうち探しの結論が「大好きなフレンズと一緒のここがおうち」であるなら、「人間フレンズにひどいことした」は、避けて通れないかと。

イルカアシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える

元々の話は、人間動物ねじ曲げてしまたことの悲劇、罪悪感、グロテスクサが表現されてるか、でしたよね。それらは一つの責任の取り方かもしれませんが、そうしたニュアンスは、存在しないかと。リョコウバトの場合、「君の家族は全員死んだけど他にも仲間はいるよ。殺したの俺の仲間だけど」というのが「責任」かと言われると、ちょっと。もちろん、絶滅動物に対して人間が償うべきなのか、どう償うのかは、大きなテーマであり、けもフレ2内の1エピソードとして処理するのは限りなく無理です。しかし、だったら最初からリョコウバトを出さなければ良いかと思うわけです。そのあたりが深く考えてないという話です。

余談ですが「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットします。そうしたほうが「自分意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。

イエイヌ不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います

キュルルが、イエイヌ孤独、寂しさを理解しつつも、「飼い主の責任」のために去って行く、と、取れる描写があればよかったですね。また飼い主の責任の話を強調するなら、イエイヌが「ヒトなら誰でもよい」と言ってしまってるのがダメでしょう。イヌは「ヒトなら誰でもよい」生き物ではないわけで、そっちのほうが誤解が大きいし、「イヌは人なら誰でもいいんだから、他の人に、あげればいいじゃん」という無責任に繋がりかねません。

私なら、最初イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。

野生解放を明言しないの目的が引っかからないようにするため。

何歳くらいを対象に考えてるのかわかりませんが、「ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからないと思います

サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。

あの時、サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、「同じ系統のパワー」に見えるんですよね。一期の野生解放と同じものか、ちょっと混乱する。

内面世界の外への進出、この観点で二作品の差を論評するのはいささか無理があるのではないでしょうか。

念のために確認しますが、私の意見は「内面世界の外への進出自体は、多くの作品共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。

けもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。

通常、作品における伏線・回収は、プロット重要なメインの部分についてやるものだと思います。一つの作品で、画面に映ったこと全部に完璧説明をつけようとすると、かえって面白くなくなるので。それを理解した上で「すべてに筋を通すべく没頭」するのは一つの楽しみ方ですが、作品単体にそれを要求する必要はない。わからないことがあることを含めて楽しめば良いかと。もちろん、楽しめないほど大きな矛盾があれば別ですが、私はそれは感じませんでした。

他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合意識しなくてはならなくて、キャラクターかぶらないようにしなければならない。ヘラジカプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテル位置時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。

続編作品のほうが様々な制約があり、オリジナル新作ほど融通が利かないのはその通りだと思います現場の方々は整合性を取ろうとしたのだと思いますけもフレ2で、派手でない部分で、筋、整合性を通してる部分があるのも、もちろんだと思います

その上で、重要な部分で、フウチョウが出てきたりするあたりはファンタジーであるなと。「記憶ケムリクサが不自然に発動したこと」にご都合性がないとは言いませんが、「幻想だか現実だかもよくわからないフウチョウコンビが、どこにでも現れて説教する」は、後者のほうがファンタジー度が高いでしょう。

キュルルちゃん出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。

肩すかしなのは、キュルルちゃん出自と、最終話に至るドラマキャラ動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要がありますベタなのは、それによってセルリアンを倒す助けになるとかですね。そうでなくても構いませんが、そういうのが必要です。けもフレ1で、かばちゃんミライフレンズ化だったというのは、「セルリアンに食べられたかばんちゃんが復活した理由」というドラマと結びついてるから意味があるわけです。

ワカバ場合ワカバリン関係性、ケムリクサの赤い霧の世界がなぜ生まれたか姉妹達とはなんだったのか、という、キャラ動機起源世界の成り立ちが解かれて、それが最終決戦の盛り上がりに繋がるところに意味があるわけです。ワカバが、宇宙人なのか、天使なのかの細部は、想像に任せるで良いのです。

牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空から俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。

合理性があろうがあるまいが、1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。

それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃん誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラ基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界概念スピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思いますけもフレ1でも博士サーバル図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウ能力表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズ酷使して、かばちゃんを、りょうり要員として使役しています視聴者全面的エンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない

視聴者視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います

そして「”キャラ基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしま」うこと自体簡単かもしれませんが、その結果、出来上がった作品面白くなるか、評価されるかというと、それはまた別問題ですよね。「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます

一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。

不備について、いくつかは、これまでにも書いたと思います。この記事だと、イエイヌ周りとか、キュルルちゃんの「おうち」「正体」周りですね。

細かな不備はさておき、大きく重要なのは、おっしゃっていた「視聴者視点では行動が横暴に見える。」という点が、印象に残る点だと思います。作り手の意図として「視聴者に対して、キュルルを横暴に見せたい」と思っていたわけではないでしょう。だとするのなら、意図に対して演出脚本が失敗しているわけです。

初見ではわからいかもしれないが、よく考えるとわかる」部分があるのは作品に深みを増しますが、それは細部にやる話で、ドラマとして盛り上がる重要ポイントで誤解を与えてはいけない、というのが普通の作劇かと。

anond:20190408014023

広い意味調和し、繋がる必要はあります。さもないと単に、とっちらかった話になってしまます

けもフレ2の場合、キュルルが「みんなのことが~大好きなんだー!」と叫び、これが多分メインテーマなわけで、だとすると、「リョコウバトを絶滅させ、イルカアシカにショーをさせ、イエイヌ人間なしには生きられなくした人間の業」はメインテーマと真っ向からぶつかるアンチテーゼなわけで、その業とどう向かい合うかは、避けて通れない話でしょう。軽く触れるだけで終わらせるのは構成的に不備があります

けもフレ2のメインテーマは「おうち探し」だと思ってました。そうだとするとヒトの業はアンチテーゼとしては機能しないです。ただ、テーマについて、議論を受けて改めて考えなおしてみたのですが、それぞれ責任の取り方を示唆する決着にはなってたと思いますイルカアシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える。イエイヌ不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います木村監督仕事受けたあとインタビューで「娯楽なので、ぶっちゃけ監督なんて誰でもいいんですよ」とお話したそうです。この言葉謙遜、およびプロとしての矜持だった、道具に徹するという意志の現れだったのでしょうが騒動で傷ついていたファンには「たつき監督への侮辱か」と受け取られてしまったようで、残念なことです。作劇のプロとしての基準がどのようなものか存じませんが、一般的エンタメ方法論の尺度では、(見得を切った割には)十分な水準に達していなかったということでしょうか。俺としてはとっちらかっているとまでは思えなかったです。

「野生解放と言わずに野生解放で急に強くなる」は、わかりやすさ優先ではなく、むしろ、わかりにくくなっています

野生解放を明言しないの目的が引っかからないようにするため。性格自己申告の目的がわかりやすくするため、と申しました。サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。むしろ俺は貴方レベルでそれを見落としたことに驚いています。すくなくとも演出の目論見は失敗したと言っていいでしょうね。

ミドリケムリクサ自体回復できるのに、なぜ、赤を回復してしまわないか、は、複数の葉を重ねて作られた赤を「治す」ことで、元に戻してるのかもしれません。

いただいた他の論はあまり説得力を感じませんでしたが、この解釈は的を射ていると思います考察によって筋を通すことができる、それに耐えられる作品になっている。そういう信頼がたつき監督にはあり、木村監督には無かったのでしょう。見返しておられるとのことで詳しくは控えますが、あらゆるポイント伏線と回収があります。りんが記憶の草を触られて居心地悪くしているシーンは流し見るとなんかエッチ雰囲気に見えてしまますが、きちんと意味のある描写です。内面世界の外への進出、この観点で二作品の差を論評するのはいささか無理があるのではないでしょうか。俺はけもフレ2もSFアドベンチャーとして設定を考察していますしかし先に触れてらっしゃいますが、全体的な伏線-回収のスタイルには2つの作品は確かに大きく異なっています

「さぁとっとと野生解放するのです」… かの名言を忘れているとは。おっしゃる通りで返す言葉もないです。やれやれ咀嚼が足りてないですね。噛めば噛むほど味が出る、これがたつき監督けもフレ1以後の作品凄さでした。個人的には、けもフレ2もそのスピリットを色濃く受け継いでいるように思えます

ただケムリクサという作品は、全体を通して様々な伏線があり、矛盾意味不明に思えた描写が「なるほど、こういうことだったのか!」と思う瞬間が何度もありました。だからこそ、矛盾と思える部分についても「もしかして、これはこうなのでは」と考えたくなりますけもフレ2は、そういう作品ではないので、

これには異を唱えておきますけもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合意識しなくてはならなくて、キャラクターかぶらないようにしなければならない。ヘラジカプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテル位置時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。ボスウォッチでキュルルちゃんを探すことができてしまうと、けもフレ1で海に落ちたボスラッキービーストは探せなかったのと矛盾が出る。伏線だけでなく視聴者の印象にも配慮しなくてはならない。最終話唐突ボートが出てくると、あれ? けもフレ1のかばちゃん出立でバスを使ったのはなぜだよ、というショックを与える可能性があるので、うみのフレンズ回で予め出しておく。”うみのごきげん”はそのタイミングで合わせて出す。パーク内でのボスウォッチの在り方は、けもフレ1では”脳みそソコについてんのか!?”というビックリ要素でしか無かったですが、バスハンドルディスプレイウォッチをかざせというようなGUIがあるところからみて、ウォッチボス形態の一つだったと考えられます。そして引き出しに大量の異型筐体のボスウォッチ。「コレを持っていって」っと手渡す。様々な疑問に筋を通す解釈を俺は見つけることができました。見逃してしまうような設定開示を考察で結ぶことができる、これはたつき監督お家芸だったはずですが、継いだ最初仕事再現できる手腕には舌を巻きます

このようにけもフレ2では設定が矛盾しないように、しかもそれを前面に押し出さず(制作が苦労している感が出ないように)背後で処理している。考察を進めると考える上でヒントになる(あるいは制限になる)情報があちこちにあるわけです。視聴時の情報の引っかからなさが、けもフレ2の優れたポイントです。キュルルちゃん出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズなら、コレは擬似的に不老不死を実現していることになる。そうすると、けもフレ1の山頂の戦闘機にも理屈がつけられるような気がしませんか。よくある批判に、キュルルちゃんの正体が最終的には謎じゃないか、というものがありますがそれを言うと、わかばの正体も最終的には謎でした。俺から見ると、どちらも読み解くのが… とても楽しい貴方ほどのレベル視聴者にこの作品メルヘン扱いされているのは、勿体無いことこのうえないです。”義憤”や”同調圧力”などがそうさせてるとしたら… ううむ、最初の諍いのとき制作プライドを曲げてでも頭を下げて、互いに許し合うべきだった。残念です。

あのシーン(引用者注けもフレ1の全員集合シーン)を、フレンズセルリアンで再現した、けもフレ2は本当に何をしたかったのだろう……。

牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空から俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。

「優しい世界」と呼ぶかは意見が分かれるかもしれません。ただ、ここで書いたようにキャラ基本的な優しさ、裏表のなさなど、けもフレ1とも共通してる作家性があり、だからこそ、全体として、けもフレファンの人にも人気が出た、くらいは言えると思います

それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃん誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラ基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界概念スピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思いますけもフレ1でも博士サーバル図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウ能力表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズ酷使して、かばちゃんを、りょうり要員として使役しています視聴者全面的エンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない

その上で、けもフレ2の設定や伏線に不備がない、とまでは私は言えません。

一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。

anond:20190407225535

まり関心を持ったことのないポイントなので、勉強になります僭越ながら、グロテスクさが感じられうる示唆的なシーンが、人物の行動の結果などに繋がって作品としてのテーマになるまで昇華されていなかったとしても、芸術的意味はありうるのでは、と考えています。例示していただいたアイデアのように正面からこれをテーマに据えてしまうと、作品自体目的が”説教”になってしまうので避けたが、示唆したいことは確かにあった、という可能性です。別の方の増田引用します。

芸術というものは非常に幅広い概念であり、故に、善し悪しを語るのは、非常に難しくなります。話が拡散しすぎてもしょうがないので、ここでは、いわゆる一般的エンタメ(これ自体もかなり広い概念ですが)の方法論に沿った評価します。

あるモチーフをメインテーマに直接繋げると説教臭くなる場合は確かにあります。メインテーマ一本調子にならないように「Aの正しさ」を中心に描きつつ、「A以外の正しさ」にも軽く触れるといった構成はよくありますね。ただ、その場合でも広い意味調和し、繋がる必要はあります。さもないと単に、とっちらかった話になってしまます

けもフレ2の場合、キュルルが「みんなのことが~大好きなんだー!」と叫び、これが多分メインテーマなわけで、だとすると、「リョコウバトを絶滅させ、イルカアシカにショーをさせ、イエイヌ人間なしには生きられなくした人間の業」はメインテーマと真っ向からぶつかるアンチテーゼなわけで、その業とどう向かい合うかは、避けて通れない話でしょう。軽く触れるだけで終わらせるのは構成的に不備があります

私は、それを「深く考えないで出した」と考えますが、「示唆したいものがあったが描ききれなかった」と考えることもできるでしょう。意図はわかりませんね。

それを仰るなら、けもフレ1の黒いセルリアンとの戦闘でも多くのフレンズは野生解放していないです。

「さぁとっとと野生解放するのです」「我々の群れとしての強さを見せるのです」からの、闇に光る数々の目、は名シーンであったと思います。あれを見ると、「ここが正念なのだから、野生解放できるフレンズは全員した」という流れが伝わるかと。

それはそうと、あのシーンを、フレンズセルリアンで再現した、けもフレ2は本当に何をしたかったのだろう……。

ところで「野生解放を言わない」ということには、けもフレ制作陣の明確な狙いがあると思いますけもフレ2では他にも「ちほー」や「フレンズ」といったタームがほとんど言われません。推測ですが、これは一般受けを狙うために途中から入ったりぼーっと観てる視聴者キッズが引っかからないように配慮したものだと思われます。逆に明確に説明するようになったものもありますキャラクター性格です。「私、体が丈夫なだけじゃなくて記憶力もいいので」「私は用心深いから」… などなど、けもフレ2ではキャラクター自分性格自己申告します。作劇技術的な難度という点ではこのような表現はおそらくレベルが低く、エレガントでもないのでしょう。しかしそれが直ちに作品として悪い、ということにはならないでしょう。解りやすいというメリットは確実にあります。あざといくらいハッキリ言うので、おそらくここを起点に自分でも動物性質を調べてほしい、という願いも込められているのかもしれません。

全体としてキッズ向けのノリで、わかりやすくする意図はあったかもしれません。それはそれで一つの方向性ですよね。ただ「野生解放と言わずに野生解放で急に強くなる」は、わかりやすさ優先ではなく、むしろ、わかりにくくなっています子供なのだから、そのへんの脈絡を気にしない……と仮に制作者が思っているとしたら、それはそれで、子供馬鹿にした話です。子供向けにわかやすくするというのは、そういうことではないでしょう。

ケムリクサ周りは、まだまだ見返して伏線を捜しているので、勘違いしてる点もあるかもしれないことを先に述べて起きます

おっしゃる点、それぞれについて、説明はできると思います。例えば、ミドリケムリクサ自体回復できるのに、なぜ、赤を回復してしまわないか、は、複数の葉を重ねて作られた赤を「治す」ことで、元に戻してるのかもしれません。あるいは、ワカバが苗床になった時に、ミドリに赤に対する抵抗力を与えたのかもしれません。リンの中に、リリの記憶漏れていることは、わかばロックを解除して、そのまま開けっぱなしの状態だったのかもしれません。光については、木を倒して、残った全部の力を、わかば治療に使った描写に思えました。

このへん、贔屓の引き倒しというか、脚本ミスの部分を無理矢理、好意的に見てるものは混じっているかもしれません。好意的に見れば、けもフレ2の矛盾点とおぼしき部分も説明をつけることができるとは思います

ただケムリクサという作品は、全体を通して様々な伏線があり、矛盾意味不明に思えた描写が「なるほど、こういうことだったのか!」と思う瞬間が何度もありました。だからこそ、矛盾と思える部分についても「もしかして、これはこうなのでは」と考えたくなりますけもフレ2は、そういう作品ではないので、その点は一緒にできないなと。

しかし「優しい世界」では全然ないでしょうということは主張しておきます(でもりつ姉はオアシス)。

ケムリクサは、けものフレンズ1に比べて全体的にダークなわけで、それを「優しい世界」と呼ぶかは意見が分かれるかもしれません。ただ、ここで書いたようにキャラ基本的な優しさ、裏表のなさなど、けもフレ1とも共通してる作家性があり、だからこそ、全体として、けもフレファンの人にも人気が出た、くらいは言えると思います

設定や伏線において、けもフレ2に不備があるように思えるのは錯覚で、実態作品の狙いと得意な表現範囲の違い「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」、で済むレベルなのではと考えているのです。

作品の狙い、得意な表現分野の違いにすぎない点が、1との比較で、不当に欠点とされてる部分は多いと思います。その一端は、一連の記事で書いています

その上で、けもフレ2の設定や伏線に不備がない、とまでは私は言えません。もちろん、どんな作品にも瑕疵はあるわけで、減点法だけで評価するのも、考え物です。どこを重視するかの違いかもしれません。

2019-04-07

anond:20190407105941

当初イエイヌはヒトであれば誰でも良いということを言っていました。結果的には「別れた大切な人を待ち続ける」ことになるのですが、ヒトであればよいと思っているという設定は、不憫さを誘うためものだった思いますイルカアシカについても芸の報酬をねだるのは(三人も引いていたし)どこかグロテスクさを感じました。ホテルぬいぐるみが売り切れる描写は、リョコウバトが孤独になっていくさまを強調したものでしょう。確かにドラマとして悲劇・罪悪感が押し出されているわけではないですが、全編に渡ってそういう表現がある点で、そこには何らかの狙いがあるように感じます。深く考えていないということはないと思います

このへんは、主観的な話にならざるを得ませんが、個人的にはイルカアシカエピソードに、自覚的グロテスクさは感じませんでした。リョコウバトのエピソード絶滅悲劇意識してるのは確かですが、そこがどこにも繋がっていません。

一般的な作劇として、不愉快イベントは、単体だと「単に不愉快なだけ」で終わるので、作品テーマ性として発展させ、そこに意味を持たせるわけです。キュルルが人類の罪深さを知って、それを贖罪しようとするとか、あるいは、キュルルの態度のほうが正しく、かばんさん的な人とフレンズ区別しない態度が偽善であることが示される、とかですね。

けもフレ2では、そういうテーマ性は見当たりませんでした。やろうとしてまとめきれなかった可能性もありますが、個人的には、そこまで深く考えていなかったようにも思えます。「シリアスエピソードを置くことで、作品に深みがでる」くらいのノリで置いて、それ以上は考えていないように思えたのです。

しかサーバルカラカルが急にパワーアップしたように見えるシーンは、最終回での戦闘だけだと思います

あれが野生解放なら、筋は通りますね。野生解放といえよ、とか、他のフレンズは野生解放しないのか、とかは、内面世界問題ではなく、脚本の不備の問題ですから

しかしそうすると、けもフレ2は全体としてはリアリティラインは低くはなかった、ということになりませんか。けもフレ1の紙飛行機石橋の下に落としたりは納得感が高かったのはわかりますが、けもフレ2での内面世界の漏出は最終盤で起こったということでしょう。

リアリティラインの高低に関わらず、作劇のセオリーとして、クライマックスでは、内面世界が強くシンクロします。

主人公絶望と、強大なセルリアンの登場、友情パワーの高まりと、主人公の復活、セルリアンの撃退、などです。

この時、けもフレ1は、内面世界を繋ぐ筋、理屈を、うまく作っていました。

けもフレ2は、そのへんがあまり機能しておらず、内面の高まりが、なし崩しに外面に出てしまったと考えます

これは、脚本の不備と捉えることもできますが、けもフレ2単体で見た場合、そこまで気にならない。ただ、けもフレ1と比べると、目立ってしまう、というわけです。

最初に、「ただ、けもフレ2は、全体的に伏線の回収がうまくいってないので、意図的リアリティラインを低めに保とうとしたというよりは、設定について深く考えてなかったり、伏線を消化しきれなかったりして、そうなってしまってると考えられる」と書いた感じです。

ところで、ケムリクサにおいてもリアリティラインは低くなっていったと考えていますケムリクサは”優しい世界”でもないです。視聴者は同監督ということで同様のものを期待したはずですが、ギャップが大きく評価を下げたという感じはありません。もちろん悪意を見出している人もいません。

ケムリクサに置いて、内面世界シンクロする際は、ケムリクサというギミックを使っており、SFとしての筋は通っていると考えています。ここでいうリアリティラインは高めです。また生存が厳しいという意味では優しくないですが、悪意のあるキャラがいない、という点では「優しい世界」を継承しているでしょう。りんがわかばを警戒するのは自然なことですし、それ以外は全員が素直で、また世界破壊の原因も優しさに起因し、わかりやすい「悪役」はいないわけです。

思うんですけど、そもそも「悪意をもって作られた創作」というもの過去あったのでしょうか。

人間創作には色々な気持ちを込めるので、「あいつに負けたくない」「あいつの作品が、ここがダメなのを暴いてやる!」といった対抗心を作品に入れ込む場合はあると思います。そういうのは悪意と呼べなくはないでしょう。そうした悪意を高いレベル昇華して、優れた作品になることはいくらでもあります。逆に言うと「悪意を持って作られた創作」と言われるものは、悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらいものなわけです。普通、そういうのは商業では、否定されます。なので、おっしゃるとおり、「商業メリット以前に、悪意を想定する」のは常軌を逸した話であると思います

ただ商業メリットの話をしていくと、けもフレ2に関して「それ商業的に悪手じゃないの?」と考えられる部分は、作劇に限らず色々あるわけなので、それを正当化する理由として悪意を置くのは、あながち否定できない。なので、そうした悪意なしでも、けもフレ2という作品が生まれることは説明できる、という記事を書いたつもりです。その上で、もちろん、みんなちょっと落ち着いたらとは私も思います

そういえばtogetterで吉崎さんの出したプロットからたつき監督が「トゲ」を抜いた、というエピソードが紹介されていました。俺は結果をみて、なるほど! と思ったのですが、ああいうことを狙ってやっていくのは唯の視聴者が思う以上に難しいのでしょう。

難しいと思います。単に優しくするだけでなく、優しくした上で、キャラを立てないといけないわけです。

例えば一期のメインキャラが、十数人として、それが全員、根が素直で優しいとするなら、「根が素直で優しいキャラを十数体、キャラを立てて描き分ける」ことになるわけで、えらいことです。もちろん、素直なやつばっかりじゃないですが、それにしても想像すると怖くなりませんか。

anond:20190407054347

当初イエイヌはヒトであれば誰でも良いということを言っていました。結果的には「別れた大切な人を待ち続ける」ことになるのですが、ヒトであればよいと思っているという設定は、不憫さを誘うためものだった思いますイルカアシカについても芸の報酬をねだるのは(三人も引いていたし)どこかグロテスクさを感じました。ホテルぬいぐるみが売り切れる描写は、リョコウバトが孤独になっていくさまを強調したものでしょう。確かにドラマとして悲劇・罪悪感が押し出されているわけではないですが、全編に渡ってそういう表現がある点で、そこには何らかの狙いがあるように感じます。深く考えていないということはないと思います

リアリティラインが低い

これは誤読していました。単にご都合主義的ということではなく、内面世界の反映を問題としているのですね。しかサーバルカラカルが急にパワーアップしたように見えるシーンは、最終回での戦闘だけだと思いますカラカルが「本気だすわよ」といってサーバルが”野生解放”をする。”野生解放”はけもフレ1でセルリアンハンターらが行っていますが、「最初から野生解放で行くぞ」の言い方から察するに、疲れる・コントロールできないなど常時その状態はいられない事情があると考えられます戦闘も終盤で2対2になったので解放したというのは筋の通る展開ではないでしょうか。他方、フウチョウについてはおっしゃるとおりで、異論はありません。加えて最後でのかばちゃん告白も、いままでサーバルとの関係が積み重なっているようには見えないので、強い思いが伝わりあの反応を引き出した、という見方をするしかなく、貴方の論に叶うものでしょう。しかしそうすると、けもフレ2は全体としてはリアリティラインは低くはなかった、ということになりませんか。けもフレ1の紙飛行機石橋の下に落としたりは納得感が高かったのはわかりますが、けもフレ2での内面世界の漏出は最終盤で起こったということでしょう。ところで、ケムリクサにおいてもリアリティラインは低くなっていったと考えていますケムリクサは”優しい世界”でもないです。視聴者は同監督ということで同様のものを期待したはずですが、ギャップが大きく評価を下げたという感じはありません。もちろん悪意を見出している人もいません。

思うんですけど、そもそも「悪意をもって作られた創作」というもの過去あったのでしょうか。いえ差別的ヘイト創作はもちろんありますが、それは攻撃するターゲットが他にいるケースであって、今回は視聴者キャラクター攻撃する意図を疑われているわけでしょう。商業メリット以前に、悪意を想定する時点でもう、どこか常軌を逸しているように思えます。俺は実は監督交代の顛末に明るくなくてツイッターのTLにもその関連は流れてこないのですが、一連の感想ブログなどを追っていくなかで、俺にはなにか見えていないエネルギーがあるのではと思うようになりました。一般視聴者の間で凄まじい義憤が渦巻いていて、極めて高い同調圧力が生み出されていて、それが感想批評論理さえ捻じ曲げている。ナイーブな仮説ですが、そんな疑念を持っています

たつき監督の作劇は、たつき監督技術によって成り立ってるので、監督が抜けると再現が難しくなる、というのが考えられます

よく言われる、たつき監督の「優しい世界」ですが、これは脚本技術的に高度なものです。ドラマを作る時に、普通の作劇では対立構造や誤解などを利用します。逆に言うと、たつき的な、悪意がなく素直なキャラだけで、面白いドラマを作るのは、高い作劇技術必要になります

この論点は目ウロコでした。そういえばtogetterで吉崎さんの出したプロットからたつき監督が「トゲ」を抜いた、というエピソードが紹介されていました。俺は結果をみて、なるほど! と思ったのですが、ああいうことを狙ってやっていくのは唯の視聴者が思う以上に難しいのでしょう。けもフレ1ではサーバルかばちゃんの表情を覗き込むシーンが多かったように思いますけもフレ2になってキャラクターの造形は表情豊かになりましたが、キュルルちゃん探偵二人が誘拐した騒動で、キャラクターを体ごと大きく動くのが難しかったのでしょう、ギクシャクした感じが出てしまっていました。たつき監督しかできない演出は確かにあったと感じています。作劇においてもそれがあって、避けるために得意な方向性に変えた(結果、戻った)という説は納得できそうです。(追記たつき監督の「素直なキャラだけで面白いドラマ」を作る作劇技術、というトピックはとてもおもしろそうです。優しい世界説はメジャーですが、けもフレ1の作劇技術解説した記事は見たことがありません。いつか語ってくれないかな〜〜という図々しいオネダリ

anond:20190406221010

イエイヌ顛末悲劇的で、罪悪感を…キュルルちゃんは抱かなかったけど、視聴者は感じることになったと思いますいかがですか。

イエイヌエピソードは、悲劇として描かれてますが、あれは「別れた大切な人を待ち続ける」ことの悲劇であって、「人間に歪められたイエイヌという生き物」の悲劇については、制作者は描いてないと思うのですね。

そこに自覚的であるならば、同じく人間に歪められた生き物であるイルカアシカについても、悲劇性を描くはずですが、そういう描写特にないので。

リアリティラインについて、個人的にはけもフレ1,2ともに同じ程度のレベルだと感じています。短納期プレッシャー3D制作に慣れてなかったなど、脚本演出連携不足、未熟としがらみで説明できる範囲ではないでしょうか。

かにけもフレ1にも、曖昧なところはありますね、そこは贔屓が入ってたかもしれません。

その上で、ここでのリアリティランは、内面世界の繋がりに関する部分です。

たとえば、けもフレ1のラストは、大雑把に要約すれば「友情パワーでセルリアンに勝つ」なわけですが、具体的にどう勝つかは、サーバルが、かばちゃんから学んだ紙飛行機の技を使う、等、現実としての筋、理屈があるわけです。

一方、けもフレ2のラストは、同じく「友情パワー」なんですが、サーバルカラカル友情に目覚めると、急に強くなって、苦戦してたセルリアンをあっさり倒したりしています内面世界が、そのまま現実に反映している。

フウチョウコンビは、キュルルの深層意識の声を代弁するキャラとして描かれていますが、彼らが、なぜキュルルの行く先々に現れるのか、キュルルに説教するのか、といった部分はなく、ここでも、内面現実距離が近くなっています

内面現実距離が近い、という意味で、けもフレ2は、つまり童話ファンタジー的な世界であると考えられます。それをここではリアリティラインが低いと表現しました(用語の使い方がまずかったかもです)。

追記・首肯したと書いておいてツッコミばかりですが💦 アプリ版のコンセプトに戻したのはどのような動機に基づくとお考えですか。現時点で悪意があったと考えてしまっている視聴者は「ワザワザ戻した意図」を邪推してしまうと思うんです。

現場の状況がわからない以上、動機については推測しかできません。悪意がなくても説明はつくというだけで、悪意がないという証明は難しいのです。

その上で、「戻した意図」ですが、いくつか考えられます

まず視点を変えて見ると、アプリ版のキャラを変更したのは、たつき監督達なわけで、たつき監督がいないなら元に戻す、というのは、普通に、そういう判断もあるでしょう。

次に、たつき監督の作劇は、たつき監督技術によって成り立ってるので、監督が抜けると再現が難しくなる、というのが考えられます

よく言われる、たつき監督の「優しい世界」ですが、これは脚本技術的に高度なものです。ドラマを作る時に、普通の作劇では対立構造や誤解などを利用します。逆に言うと、たつき的な、悪意がなく素直なキャラだけで、面白いドラマを作るのは、高い作劇技術必要になります。他にもそういう点はあるでしょう。

1期のシナリオは、たつき監督と、吉崎観音さんが、話し合って作ったものであると考えられますたつき監督が抜けたことで、たつき監督らしさが抜けたり、再現が難しくなったりして、結果、吉崎観音色が大きく出た=アプリ版に近付いた、という線が考えられます

2019-04-06

anond:20190406182228

論評を首を縦に振りながら読みました。特に動物園とのコラボとの関連は説得力を感じました。けもフレ1があの形になった理由としてありそうに思えます

人間がいないのに、人間を崇める動物」は、気持ち悪い。そこを敢えて描くなら、その悲劇性や罪悪感も描くべきだが、特にそれはない。

イエイヌ顛末悲劇的で、罪悪感を…キュルルちゃんは抱かなかったけど、視聴者は感じることになったと思いますいかがですか。

リアリティラインについて、個人的にはけもフレ1,2ともに同じ程度のレベルだと感じています。短納期プレッシャー3D制作に慣れてなかったなど、脚本演出連携不足、未熟としがらみで説明できる範囲ではないでしょうか。

けもフレ1でも、飛ばされてサーバルに偶然に直撃するスナネコや、ビーバーはなんで丸太を立てて並べてたのかとか、ぺパプチケットプリンタで刷ったのかとか、バスの充電ステーションが山の上のカフェにあるのはどうしてとか、いろいろお話のノリで流すべきシーンはあったと思いますけもフレ2でより目立ったと判断できた問題矛盾点は、どのようなものでしょう。

追記・首肯したと書いておいてツッコミばかりですが💦 アプリ版のコンセプトに戻したのはどのような動機に基づくとお考えですか。現時点で悪意があったと考えてしまっている視聴者は「ワザワザ戻した意図」を邪推してしまうと思うんです。

「悪意」の解体けもフレ2のアレ~

けものフレンズ2について1への「悪意」があると良く言われる。あるいは悪意ではなくとも、「1の優しさと相互認証に対して、孤独自己肯定物語を描こうとした(筆者要約)」(http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52306934.html)といった意見がある。

かに、そう受け取れる描写はあるのだが、その多くは、1と2の思想基盤の違いから来てるのではないかと思うのだ。

動物園サファリパーク

 けもフレ1のジャパリパークは、人間がいなくなって長らく経つ世界で、動物たちが気ままに暮らしている世界である。「ヒト」というのもフレンズ一種であり、対等の存在として描かれる。

 一方の、けもフレ2では、人間動物の違い、人間動物の上に立つモチーフが強調される。拍手とご褒美を要求するイルカしかり、イエイヌしかり。ここに居心地の悪さを感じるのは当たり前の話であり、「悪意」を見いだす人も多い。

 これはしかし、けもフレ2が、けもフレ1を否定しているというよりかは、アプリ版等の大本のコンセプトに近い。今からなら漫画版が一番手に入りやすいだろうか。そのコンセプトは、昔風の「動物園」であり「飼育員と動物」「飼い主とペット」の友情物語である。飼い主とペット上下関係はあるが、お互いそれに満足しており、飼い主は責任持って、ペットの世話を世話をし、ペットは飼い主を喜ばせ、芸をする。それはそれで、一つの関係だろう。

 なぜ、それが、けもフレ1で変わったか理由はいくつか考えられる。

 大きな理由は、舞台が「人間がいなくなってる世界」だからだろう。人間の世話に答えて動物人間を好きなのは良いとして、人間がいなくなってる世界で、それでも一方的人間を崇める動物というのは、まぁ、あまり気分のいいものではない。

 もう一つ。現代的な動物園は、見世物的な展示、ショーは避け、動物になるべく野生に近い生活をさせ、ありのままの生態を見せる方向へ進んでいる。フィクション上の動物園がどういうものであっても良いと思うが、現実動物園コラボ、協力する作品において、旧時代的な動物園肯定したくない、というのもあっただろう。

 けもフレ1は、サファリパークだったり、行動展示だったりする現代風の動物園アプリ版、けもフレ2は、旧来の見世物的な展示をする動物園と言った具合だろう(参考:http://kemono-friendsch.com/archives/77528)。

 けもフレ2は、おそらくは、アプリ版の「飼育員と動物関係に基づいて話を作ろうとしたのだと思う。が、けもフレ1の続編という形も取ったため、前述の矛盾点が噴き出してしまっている。アプリ版の路線を復活させるならさせるで、どうすれば良いかを練るべきであった(それが許されない環境は多々ある)。

人間がいないのに、人間を崇める動物」は、気持ち悪い。そこを敢えて描くなら、その悲劇性や罪悪感も描くべきだが、特にそれはない。多分これは「悪意」ではなく、「深く考えていなかった」ことだろう。

 同様に「人間と対等な知的生物」としてのフレンズを描いた続編で、「人間に芸を披露して喜ぶフレンズ」を出すのは、えぐい。これも「悪意」ではなく以下略

リアリティライン

気持ちよいお話セオリーの一つとして、内面世界と外部のシンクロというものがある。

主人公が悩んで心が暗い時は、夜だったり、雨が降ったりして、世界も暗くなる。

主人公が悩みを克服すると、夜が明けたり、空が晴れたりして、バトルで勝利したりする。

リアリティラインが低い作品場合、深い理由がなく、そのまま内面世界に反映する。

魔王が復活する時は、黒雲が渦巻いて雷が鳴ったりする。悩みを克服した主人公は、勢いで超パワーアップしたりする。

現実レベルが高い作品場合、そうはいかないので、偶然で説明できる範囲ささやかなことであったり、なんらかの理由必然性があったりする。

主人公が悩んでる時に、雨が降ってるのは、「たまたま」「偶然」の範囲であり、悩みが吹っ切れて、主人公がバトルで勝つ時は、「悩みのせいで今まで気づかなかったけど、あいつにはこんな弱点が」という閃きがあったりする。

けもフレ2では、カタカケフウチョウ、カンザシフウチョウが、内面の声を代弁しまくる。キュルルの「思い入れ」が、絵を通したり、通さなかったりして、直接、セルリアンに反映するらしい。これらの深い理由解説等はない。

ホテルでは絶滅動物のリョコウバトのぬいぐるみが売り切れてたりする。「たまたまリョコウバトだけ売り切れだった」なら「作中現実としては偶然」で済むが、「レッサーパンダとオオアルマジロとリョコウバトが少なく、ハブはいっぱいある」までやると偶然では説明できなくなる。が、これも理由特に語られない。

ここからわかるのは、けもフレ2は、リアリティラインが低めの、「ふわっとしたファンタジー童話的な世界であるということだ。

一方、けもフレ1は、作品論理整合性は、SF的に取っている部分が大きかった。ラッキービーストが人の声にだけ反応する、ジャパリカフェに、太陽電池がある等、SF的なガジェットがあり、崩壊世界日常がどう維持されてるかが目配りされている。もちろん、作中で全部の設定を説明するわけにはいかないにせよ、目につく範囲での、あからさまな矛盾は減らし、それによって、「かばちゃんの正体」と言った謎に緊張感が残った。

けもフレ2単体で見た場合リアリティライン低めの作品だと受け止められるのだが、リアリティラインが高めの1を見たあとに2を見ると、アラや問題が多く見えてくる。

ただ、けもフレ2は、全体的に伏線の回収がうまくいってないので、意図的リアリティラインを低めに保とうとしたというよりは、設定について深く考えてなかったり、伏線を消化しきれなかったりして、そうなってしまってると考えられる。ここもまた「悪意」ではなく以下略

キャラ周り

イエイヌの報われなさっぷり、ビーストホテルの下敷きになったことを誰も気にしてない等は、悪意として描くなら、もっと強調のさせ方、後への繋げ方があるはずなわけで、ストーリーとして処理しきれなかったと考えたほうがよさそうだ。

サーバルちゃん周りだが、以下の証言がある。

かばんさんに何があったかはわからない、偉い人が作るだろうと

かばんさんの経緯は知らないが、再会の喜びを描いた

内田さんも間に起きた事を知らない為、自分の落し所を探られたとのこと

http://kemono-friendsch.com/archives/78566

サーバルがなぜ、記憶をなくしたっぽいのかも、かばんさんとの間に何があったのかも、監督自体知らされてないのなら、「それっぽい」シーンでお茶を濁すくらいしかできないだろう。

もちろん設定がないだけなら、他にやりようがあったかもだが、こういう状況だと設定がないまま、あーしろこーしろと言われた可能性が強い。ご愁傷様である

結論

自分が見た範囲では「けもフレ2」に見いだされる悪意は、1,2のコンセプトの差(およびそれに対する無策)、脚本演出技術の未熟、現場のしがらみ、などで説明がつくものであった。

から良いという話では、別にない。

けもフレ2の擁護論を見ながら

なんていうか、イエイヌから最終話まで出てしまたから、どんどんと擁護立場を守るための擁護になっていってるんだよな


作品に悪意はない

悪意があった場合、まだしも製作者にテーマに沿った作品を仕上げる能力はあったことになるが

悪意をなくしてしまうと、一貫性のなさや、矛盾点など、ただの無能ってことになる


・人のエゴ表現した作品なのだ(ドヤァ

かに最終回までの演出から、無理やりテーマのようなものを導こうと思ったら、そうなる

というか、そうとしか取れない表現になってしまっている

だが待ってほしい、制作陣はこう言っているのだ

基本的に、前のシリーズ自分面白いと思ったところは全部残すようにしています

普段アニメを見ない人が見ても面白と思えるような作品にしたいと、常に意識して作っています

・僕自身、前のシリーズリスペクトを捧げて作っていますので、「けものフレンズ」が好きだった人は面白いと感じてくれると思っています

・いいところは引き継いでやっていますので、安心して見ていただけたら嬉しいです。

日常を見ることで現代人が忘れてしまった優しさや純粋さ、どこか懐かしくほっこりするような思いを共有できたらと思います

・そして、子供たちにも「けものフレンズ」を通して、動物に興味を持っていただき、幅広い方々に動物園に足を運んでもらえたら幸いです。

おまえら、これ全否定か?

やはり、制作陣は無能しかならない


なんていうかさ、いわゆる「真フレ」と呼ばれる層がなんとか作品としての粗を誤魔化しつつ、自身の論を守ろうと喋るたびに、どんどんと制作陣をけなしているという

ある意味アンチより酷い様相を呈してきているのだが、これじゃ木村監督擁護者をブロックするはずだよ


制作陣に何があったか知らんけど、作品がクソであることはキチンと認めた上で、クソにならざるを得なかった干渉があったのだという方向で擁護しないと

何を守ってるんだかわからない感じになってきてるぞ


擁護するにしても、あの作品自体はきちんと否定してやるべきだ

anond:20190405115606

オーダーを満たしても、イエイヌちゃんアムールトラちゃん

普通に救えるだろうがよおおおおおお!

特にアムールトラちゃんは、普通にホテル崩壊から助けて

その流れでビーストからフレンズ浄化されるENDで良かったじゃねえか!!

2019-04-04

けものフレンズ寓意メモ(加筆)

ビースト

 1期の狂信的ファン。誰彼構わずいかかる

 その最終カットビーストである事を示す黒きオーラが消える

 が、制作陣の淡い願望だろう。

 ホテル崩壊(2期の商業的な失敗)程度で死に(消え)やしないかと。

 

イエイヌ

 1期で切ったソシャゲファン

 もしくは、

 2期を擁護しようと振る舞い、誹謗中傷され心が折れた通期ファン

 ビーストにズタボロにされて引きこもる(隠れファン化)

 

うみのごきげん

 インターネット風評

 

ミライ  … ヒト

かばん  … ヒトのフレンズ

キュルル … 素のヒト(過去のヒト)?

 

 空腹…欲望(儲け)こそがヒトのヒトたる所以

 欲望によって消費する者達が居なければ2期も無かった

 

 ミライソシャゲファン投影先で、

 そのフレンズである かばんとはソシャゲ勢の生き残りの寓意

 でありつつも、1期のみのファンとして乖離、別の主体へ。

 キュルルはネットを知らない素の(旧来的)視聴者を想定か。

 2期の"かばんさん"は、1期を普通に「卒業」したファン

 

サンドスター

 素材(リアル)をネタ(キャラ)に変えるもの

フレンズ

 作られた作品

セルリアン

 物語駆動させる動因としての障害

 商業的な炎上も含むのか?

セルリウム

 ヒトの思いに反応して姿形を得るもの

 視聴者の側で潜在的に抱えている葛藤寓意か。

 それは常に強く出口を探し求めているが故に、

 象徴的に類似性のあるものに反射的に投影され、時に

 全人格的に同化されてしまえば、これの否定人格否定にも

 受け取られるように…。

 ビーストセルリアンの違いは、純粋ファンを経るかどうかか。

 

火山

 サンドスターを産み出す火山とは、出資者制作陣か

 地上は、運営コントロール下のソシャゲ空間

海底火山

 1期とは別の財源?

 海底は、運営コントロールの効かないSNS空間

 

もし仮に、

 ネットでの1期狂信者等によるバーサーカー状態が、

 10制作中時点くらいまでに止んでいたのなら、12話の展開は、

 ビーストセルリアンとの化学反応によって黒オーラが消え(ここまでは描写がある)、

 アムールトラガレキの向こうに消えるのではなく、こちら側に残る…

 という展開も予定していたのかもしれない。

 

 そうだったかもと思える理由は、

 最終話エンディングに1期のオープニングを準備していたこと。

 

 キュルルの願い通りアムールトラをも、ともだちとして対立は溶け、

 その歌詞通りに「♪のけものはいない」と歌い上げたかった故だろう。

 その願いも空しく、2期バッシングはなお苛烈さを極めている。

 その現状を前に安易ハッピーエンド描く事ははあまりにも空々しく、

 現実をそのまま反映するかのように、アムールトラガレキの向こうに

 そのまま残さざるを得ないと判断したのではなかろうか。

 敗北を、厳しい現実を素直に認め、残酷なこの世界の姿をありのままに、

 その通りに提示された訳だ。まさに鏡として。

 

 リアル原作だ …というコンセプトそのままに。

 

 セルリウム  + ヒトの思い = 攻撃する複製体

 セルリウム  + 生 → 死

 セルリウム  ─加工処理?→ サンドスター

 サンドスター + けもの = フレンズ

 サンドスター + 無機物 = セルリアン

サンドスターロウ)

 

 セルリアン ─破壊(生→死)→ サンドスター(多数)

 けもの + くさり + サンドスター = ビースト

    (ヒトの造りしモノ)

 

要素:無機物 姿 細胞 命 人の心 人の思い

 

 人の作った道具=無機物+人の思い(弱い)

 書かれた絵  =無機物+人の思い(強い)

 フレンズ=生きた動物+人の心(サンドスター)

 かばん=ヒトの毛髪(生きてる?)+サンドスター(+α?)

 セルリウム細胞の素?

 細胞+思い(遺伝子的な?)=思いに応じた姿?

 

 セルリウム…生・死、聖・邪、愛・憎を反転させる?

 

2019-04-03

けものフレンズ2期最終回

まるで一連の騒動を見ているようだった

イエイヌ(1期監督) → おうちに帰らされ(監督降板)、決戦(2期)にも呼んでもらえない

ビースト(1期ファン) → 暴徒化炎上マーケティングに利用され、最後放置

キュルル、サーバルカラカル(2期製作陣) → 多くの犠牲を出しつつも、本人たちは大団円かばちゃん(1期)ともお別れ

どうしてこうなったのか

2019-03-31

けものフレンズ2の最終話を当てに行く

ケムリクサでは悔しい思いをした。最終話の内容を推理することは十分可能だったはずだ。種が赤霧で成長しない。にもかかわらず離脱したあとニョキニョキ生えてくるミドリの木、「たぶん発芽まではうまくいく」。そして記憶の草にはロックが掛かっていた。このあたりを重く捉えていれば、メモを書き換えた「存在しない7人目の姉」を探して時間を浪費することもなかった(むしろ6人である証拠がたくさん集まってしまった)。2つの謎は有機的に絡み合い、シンプルだが残酷な起点に至るのだが、答えを観て「なるほど!」と思ったときに初めて、伏線が浮かび上がった。すべては目に留まっていたはずだったのにも関わらず、気が付かない。パズルピースはすべて事前に提示されていた。アニメ小説ではないから、そういうもんかと軽く流しても気持ちよく観続けられるのが気楽だけれど、しかしそういう態度でいて失うものもある。りな達がブワッと消えて一人に戻るのはコミカルでまるで手品みたいだが、ここを見落とすと桃ちゃんを手放して覚醒する「りなむ」の含意をスルーしてしまう。ありとあらゆる表現意味がありえるのだ。この意識でもって視聴しなければならなかった。

けものフレンズ2の最終話が目前だ。同じじゃないかでは済まない。次は全力で当てに行くぞ。

今期の監督ミスリードを狙ってくるということに気をつけなければならない。俺は伏線管理はしっかりされていると判断している。前期の細かいところまでフォローされてる。かばちゃんが「おうち」を知ってたのはスナネコ意味を教えたからだし、サーバルに与えた砂時計図書館にあったものだろう。アライさんが命の恩人といったのは、掛けた橋で救われた経験を受けてのこと。今期はさらに異なるフレーバーが加わる。襲ってきたセルリアンをいきなり現れて一蹴して去っていった謎のフレンズヒーローは味方でなく実は「ビースト」。誰彼構わずいかかり、フレンズに怖れられる強力なバーサーカーだった。アリツカゲラが再登場したと思ったら、サーバルとも初対面の反応でかばちゃんとも面識が薄い、すなわち別個体だった。かばちゃんから手渡された四角い筐体のラッキービーストは、「三人での旅、楽しかったよ」とつぶやいた後沈んでいった”あの”ラッキーさんか? そうかもしれないが、ひとつの端末に過ぎないって線が濃厚だ。居なくなったヒトを想いだして月を見上げるイエイヌフレンズ… ならば人類は月に消えたのか? なんのことはない、ただの人工衛星だった。未発掘の伏線の絡み合いの中に、ミスリードが混ぜられている。注意して潜るとしよう。

今期最大の謎は「キュルルちゃんは何者か、どこから来たのか、どこへ行くのか」ということだ。ここに焦点を絞って推理する。

キュルルちゃん一行の旅路は「復路」だろうか。パークの廃墟施設の中で目覚めたこども、キュルルちゃんは、カラカルサーバルを連れて施設に戻る。「ボクは長い間ここで眠っていたみたいなんだ」。温かい「おうち」を思い浮かべ、「帰りたい」という。キュルルちゃん自分が眠っていた岩の殻のようなものの中にあった自分の持ち物のスケッチブックを開く。最初の一ページ目には施設の前の池の様子が描かれていたーーただし、池のモニュメントは健在で周りには風景にない建物が建てられている。「ボクは獣じゃないよ、たぶん」というキュルルちゃんに対して、カラカルは「この子もヒトなんじゃない?」と言い切る。3人はモノレールの駅にたどり着く。キュルルちゃんは言う「ここ来たことあるような気がする、あの乗り物、多分ボクもあれに乗ってきたんだと思う」。ここまでの描写で、キュルルちゃんはパークに来た観光客で、何らかの理由施設コールドスリープし、いま目覚めた。そう読み取っていたが、よくよく考えると違和感がある。最初の1ページが池だったのはよく考えるとおかしい。

まっさらスケッチブックを思い浮かべてみて。そこに旅の風景を絵に次々に描いていく。だけど突然に旅は中断してしまう。さてこのとき最後に描いた絵はスケッチブックのどの位置にあるだろう? キュルルちゃんスケッチブックには以前に描いてきたと示唆されるたくさんの絵があった(一連の絵の最後のページは破られていて、その先は白紙が続いている)。もしパーク内の施設に至る往路の過程で絵を描き連ねて来たというのなら、最後の絵の先は白紙のページが続くはずだ。最初のページにはならない。スケッチブックの表紙は裏表とも同じようなデザインだが、キュルルちゃんはページの片面にだけ絵を描いていたので逆さにめくっているという可能性はない。これにより、キュルルちゃん一行の今回の旅路は、実は、おうちに向かう復路ではなく、二度目の往路であるという推測が成り立つ。

最初の往路をなぞるように、旅をする。ケンキュウセンター(廃墟施設をそう呼ぼう。モノレールの次の駅は「アズアエン」だが、列車の行き先表示が切り替わるときに表れた直前の駅の表示が「ケンキュウセンター」だった)を出て池を描き、花畑に囲まれ風車を描き、竹林の中で公園施設を、海に浮かぶ観光施設、闇夜に輝く蟻塚、ジャングルの奥で玉座に座るゴリラフレンズ荒野をかけるなんだかよくわからない影、ステージでショーをする5人のアイドルたち。最後に、観覧車のある遊園地風景。絵に描かれた風景を順に追う道のりで、キュルルちゃん一行は最後にジャパリホテルにたどりついた。ホテルの窓からは今は水没した観覧車が見えていた。ホテル支配人によると、”うみのごきげん”が悪くなったときに、遊園地は水没してしまったらしい。ホテルも半分は水浸しである(ところでホテル最上階にはヘリポートがある)。

まりこういうことではないか観光客だった女の子ケンキュウセンターの池を描くために新しいスケッチブックを開き、モノレールに乗ってパークを旅した。しかセルリアンが止められなくなる流れで、観光客はまず退避しなくてはならなくなり、ホテルヘリに乗り込む。セルリアンは宙に浮くものがいる。離陸時に襲われてヘリの飛行能力障害が出て、荷を軽くするために物を捨てなければならなくなった、女の子スケッチブックから最後に描いた家族の絵だけをちぎり、バッグもろとも泣く泣く海へ投げ捨てた。時がたって、防水のスケッチブック(今期の11話より。スケッチブックは海に落ちても平気だった)は海流に乗って海底火山へたどり着く。海底火山からは大量のセルリウムサンドスター流出している。サンドスターに包まれスケッチブック溶岩に飲み込まれ、そこで海底火山が大噴火する。噴石となった岩は遠くサバンナちほーのケンキュウセンターに落下し、廃墟となりかけていた施設にとどめを刺す。

この仮説を裏付け証拠がある。一話のケンキュウセンターの描写でキュルルちゃんの居た岩の卵のようなものの周りには同じように前面が破壊された同じ大きさの卵のような物が並べてあった。これらをコールドスリープ装置と捉えてしまっていたが、これがミスリード。並べてある方はよくよく見ると表面がツルツルで、サンバイザーのような覆いがあり、中には椅子が備え付けてあった。いわゆるゴンドラのような見た目だ。キュルルちゃんの岩はそれと異なり、表面がゴツゴツしていて、中はサンドスターと思しきキューブで満たされていて、そして床が砕けている。ゴンドラの方は台座に載っている。この二種類はじつは違うものなのだ。暗い施設のなかで岩の卵は陽の光で照らされていた。つまり天井は空いている。ケンキュウセンターは遊具研究施設だった。コールドスリープではなく。噴石としてケンキュウセンターに落下した岩の卵は殻が崩れ落ちる時を待つ… なかでフレンズ化→飢えて死亡→フレンズ化→飢えて死亡… を繰り返しながら。まあそれは残酷だが、あるいはサンドスター空気に触れて初めて機能する、のようなことがあるかもしれない。

以上が仮説「スケッチブックちゃん説」である研究施設スケッチブックのめくり方などを伏線としての帰結としてフィットしていて、破られた最後のページに説明がつけられた。キュルルちゃんは絵をフレンズに渡すとき、丁寧にページを切り取る。最後のページが破られていたのは火急の状況下で焦っていたからです。皆さん納得できましたか? ボクはできません。なぜなら「ペパプが5人いる」から

一連の絵の中でライブステージで描かれたものを思い出してほしい。そこにはステージで歌う五人のペンギンアイドル、ペパプが描かれていた。しかし前期のペパプ復活祭ライブの話によると、初代ペパプは4人、二代目は3人、三代目が5人になった。三代目を結成したフレンズプリンセスは以前に居なかった五人目であることを気にしていたんだった。だからパークに来ていた観光客がペパプを見ていたとして、その人数が5人なのはおかしい。かつて観光客で賑わったジャパリパーク廃園し、パークガイドミライさんも職員を引き連れパークを去った。時が流れ、彼女が遺した帽子サンドスターが降り注ぎ、かばちゃんが生まれた。そんな時代になって初めてペパプは5人になった。実はペパプはコピーバンドだという可能性はありうる。開演時代にはオリジナルたる5人のペンギンアイドルがいて、閉園後に彼女らをパクってペパプが結成された、でもコピーバンドを人数減らしてやる意味があるだろうか? あるいは初代ペパプは5人だったということもありうる。プリンセスがパークの異変の中で夭逝し、だがその後の4人で長い期間頑張っていたので後世の記録には4人として残った。期せずしてプリンセスが救われる結果になりましたね。でもこの仮説、理屈は通るが、当たっていたとしても些末すぎて、説明されないだろうことが予想される。

時代に幅のある絵の内容。これを説明するうまい理屈はないだろうか。キュルルちゃん過去世界から来たのではないか。前期でミライさんが説明した、山頂のサンドスターロウフィルタリング装置の「四神」は説明の感じからすると、パーク職員が作ったものではないらしい。四神を作った古代人がそのサンドスター制御技術を応用してタイムトリップ装置を作った。これがケンキュウセンターの岩塊である。キュルルちゃんはそれに乗って過去からやって来た。しかし… なんのために? かばちゃん一行は四神位置を直すことでフィルタ機能正常化した。だが海底火山から漏出するセルリウム制御する装置は、おそらくあったのだろうが機能をなくしてしまっている。もし四神装置の修理のために過去からキュルルちゃん派遣したとすると、かばちゃんの奮闘のときに何もしなかったのはおかしいし、未来幻視できるレベル古代文明が、将来の位置のズレを考慮して装置保全するつもりなら、修理要員を派遣する前にまず固定装置を充実させるべきだろう。というかキュルルちゃんエンジニアには見えない。年齢が低いし、そも記憶を失ってしまっているではないか。ならばキュルルちゃん未来から来た。しかし… なんのために? 考古学者にも見えないので、パンフなどの資料を読んで好奇心をそそられたキュルルちゃんタイムトリップしてきた線は考えられるが、タイムマシンセキュリティが気になる。強固に利用者制限されているなら、キュルルちゃんはどうやってセキュリティ突破したのかということが引っかかるし、逆にガードがゆるいなら、なぜ一人しか来ないのかが疑問になる。並行世界から来た可能性はどうだ。しかし… なんのために? 絵に描かれていたペパプは楽しそうで、パークの様子には廃墟感はまったくない。なぜわざわざ廃墟の方の世界線に移動してくるのだ? 納得行く説明はつけられそうにない。

うまくいかないが、一連の絵は風景を実際に目で見たものではない、というアイデアはまだ活かせると思う。ジャパリパーク世界に、エリアを超えて通信する無線技術はなかった。そういうものがもしあったなら、かばちゃんがキョウシュウエリアを出立するときに、ボスが先の情報を教えてくれただろう。イエイヌが見上げた月を背後に人工衛星が浮かんでいた。この衛星最近打ち上げられたものだとしたらどうだろう。これを使って、ある職員がパーク内のラッキービーストネットワーク侵入し、パーク内の写真を入手した。父のディスプレイの映る写真を見て、幼い娘はスケッチブックに絵を描いた。写真に今昔が入り混じっているのはそのためである。この想像面白いが、写真があの道のり上に並んでいたことが解せない。ネットワークから引き上げたパークの風景写真を見ていたなら、それは時系列に並ぶか、ランダムになっているかするのではないか。なんでケンキュウセンターを起点とした特定ルートにそった並びになる? だめだ。わからない。

しかしわかることもある。けものフレンズ2はイエイヌ物語でもあった。探偵の二人、センちゃんアルマーさんはイエイヌの命を受けてヒトを捜索していた。捜査が強引なところもあってイエイヌは悪の黒幕のように描写をされたことがあった。キュルルちゃんイエイヌちゃんストーリーラインは二人が邂逅することで交わり、しかし結局二人は別れてしまう。別れは両者の納得したものではあったがすれ違い感は強かった。これが「おうちにおかえり」回である最終話タイトルは「ただいま」だ。イエイヌはキュルルちゃんの元へ向かうかばちゃん一行に加わってはいないが、ポッと出のゲストフレンズではない。

イエイヌはキュルルちゃんを見送ったあと、夜空を見上げ、ひとりドアを開けて自室に戻った。ドアには耳を模した飾りがついており、まごうことなイエイヌのための部屋であることが明示される。このシーンは驚いた。これは一体全体、どういうわけだよ? 「イエイヌの自室にドアノブがある」だと?

(続く)→ anond:20190318002745

2019-03-29

anond:20190328210627

1、2、4つ目はここ好きじゃなくてただの批判批判あるいは批評からなあと思ったけど、忠犬イエイヌ(まわりの人はおいといて)の話が好きってのは普通にありなのかなと思った。

3つ目は新しい視点が得られて面白かった。

カルガモが好き→わかる

イルカアシカケンゼンエロい→わかるけどあいつらあざとさも合わせて質悪くない?11話で助けてくれたけど。

ペパプライブがよい→不満点もあるがまあわかる

一撃でやられるセルリアンが好き→初めて気付かされた。けものフレンズ2の典型的な雑さの一例なんだけど、雑にやられるの確かにかわいいかも。

リョコウバトとキュルルは同族家族)がいなくて(かばんさんはノーカン?)寂しいもの仲間って視点もなるほどと思った。キュルルが旅を続けるならリョコウバトさん仲間にしてもいいんじゃないかと思ったけど、雑な脚本からイエイヌ同様置いてっちゃうんだろうな。

2019-03-28

けものフレンズ2のファンって煽り抜きにどこがいいと思ってるの?

アンチは、ゴマちゃんのクソ煽りかわいいとかイエイヌヤンデレかわいいかいろいろ言ってるじゃない?


でも2のファンは「叩くのはやめてー」って言うだけで具体的にどこが好評なのか全然見えてこない。

特にインキャラや叩かれてるキャラ性格ビジュアルのここが好きみたいな萌えポイントがあったら普通に教えて欲しい。

ありがとうけものフレンズ2

一期は1話しか見てない状態けもフレ2の1話10話、11話を見た。色々と考えた結果、感謝したくなって忘備録も兼ねてこれを書くことにした。

ゴマちゃんイエイヌなどネットでは脚本被害者を救おうとする風潮がある。二期主人公すらリデザインののち、ともえちゃんという新しいキャラクター誕生している始末だ。個人的には二期主人公よりともえちゃんキャラデザの方が好きだ。

アニメ版と比べると、漫画版の二期主人公はあまり嫌われていない印象がある。二期が無くともアプリ版で存在していたカラカルを始めとする二期新キャラクターとは違って、アニメが初出でファーストインプレッションに失敗した二期主人公もある種脚本被害者と言えるのだろう。

10話、11話通して見た感想として、脚本構成12話終了アニメにしてはひどいと思った。二期主人公自分のおうちを探して、サーバルカラカルに手伝ってもらうと1話を見て解釈した。けれど11話になっておうちは本当にあるのかという話を持ち出され、スケッチブックの中に本当に二期主人公のおうちの絵があるのかもわからない状態じゃないのかと思ってしまう。内容としては悪くないと思うが、残り1話でやる内容だろうか。11話ではスケッチブックは取り戻しても、二期主人公の描いた全フレンズの絵という敵たるセルリアンに渡ってはならないものの回収はできずに談笑するところで終わる。その間二期主人公所在のわからないフレンズを探し続ける。おそらくライブ最終回にやる以上、もう少しやるべき内容はあったのではないだろうか。

また、フレンズとして登場したキャラクターがそのキャラクターである必要性がわからないところが一つあった。10話、11話冒頭のフウチョウコンビだ。11話では二期主人公に、「人間によって迷惑したもの(動物)もいるかもしれない」などと夢の中で揺さぶりをかけて退場する。10話でも暗い森の中で登場するなど物語として割と重要ポジションにいることは明確であるしかし、それがカタカケフウチョウとカンザシフウチョウでなければならない必要はないのではないかと思ってしまう。極楽鳥の由来は視聴後調べて、運搬のために足を取られた標本を見た人間によって天国いるから足が必要ないと解釈されたこから天国の鳥と名付けられたと出てきた。精度の甘いネット検索ということもあり、フウチョウ全般極楽鳥と指すと理解したが、フウチョウの中でカタカケ・カンザシが選ばれた理由としては11話の黒さ自慢を入れても甘い気がしてしまう。10話、11話にリョコウバトが出てきていることで、人類の犯した罪としてはリョコウバトの方に重さを感じてしまったのだ。コンテンツ看板たるサーバルはともかく、フウチョウコンビは入れたいからと我を通すべきポジションだろうか。元ネタのあるキャラクターが多くいる中でフウチョウコンビにするだけの理由説明付けられるのか。

さてけもフレ2になぜ感謝したいのかとしては、シナリオ重要性を改めて考えることができたかである出会った作品に対し自分だったらどんな表現をするかを考えたりする中でけもフレ2を視聴した。キャラデザ声優が悪くない中でなぜここまで酷評されるのか。様々な解説動画を見ていくうちに、シナリオに対する表現や引き算の重要性に辿りついた。例えば11話では急な方向転換で車からフレンズが落ち、走って追いかけるそのフレンズを別のフレンズが手を差し伸べて助けるというシーンがある。ワンシーンとして入れてもいいかもしれないが、重要度は全く高くない。色んな書きたいものを詰め込んで構成不足等で終わるより、こうした必要性重要性の低いシーンは創作上削るべきなのだと思い知らされた。一期の構成のどこがすごかったのかや二期はなぜ受けないのかの解説動画など創作をしようと考える上で非常に役に立っている。ありがとうけものフレンズ2。おかげで面白いものに少しでも近づける気がする。

無駄に長くなってしまったが、創作をする上で教材として良質なアニメでした。けものフレンズ2ありがとう。それだけです。

あと最終回の内容次第ではけものフレンズ2だけの謎を全て明かされる可能性があるから世間評価が変わるかもしれない。二期主人公の正体や1話で眠っていたポッドの謎、フレンズセルリアンの強さなど2が終了し、二期主人公が主役でいるうちに解決しなければならないものはできれば知りたいし、単純にサーバルカラカルは他のフレンズに比べてどのくらいの強さだとかそういうのを約23からopedライブシーンを除いた時間でやってくれたら素直にすごいと思う。評価駄作から現場無茶振りをされた超低年齢向けアニメになれるかもしれない。そうなってもやっぱりけもフレ2は良い教材にできるから、やっぱり感謝することになるだろうな。キャラ萌え以外に面白いところを見つけられない自分反省するかもしれないと思うから、全ての評定が下される最終回が待ち遠しいです。

2019-03-23

けものフレンズ2に対する批判的なネット世論について思うこと

まず本稿はけものフレンズ2(以下「けもフレ2」とする。)を擁護するわけでも批判するわけでもない。アプリから見てきた自分が今のけもフレ2やそれに対して思うことを述べるだけである(割と長いので、最後の方に自分が言いたい事をまとめたので、とりあえずそこだけ読んでくれればいい。)。

今の制作陣の方には申し訳ないが、やはりけもフレ2はけものフレンズ1(以下「けもフレ1」とする。)と比べると、一段劣ると言わざるを得ないだろう。それ程にたつき監督の作るけもフレ1は面白かった。

ただ、けもフレ1期を楽しんだ層のうち、アプリ版に触れたことのある層はそう多くはないだろう。だからアプリ版の人気からすると1期は出来すぎであり、2期くらいの評価妥当な所だと思う(アプリ版は面白かったが大人気になる事は無かった。)。

けもフレ2の最新話で登場した観覧車けもフレ1で登場した観覧車であり、その観覧車朽ち果て海に沈んでいたこからけもフレ1の否定だ」等という意見を見たが恐らくそれは的外れ意見だと思われる。そもそもけもフレと言う物語出会いと別れというテーマが根幹にある。恐らく観覧車が海に沈んでいたのは、けもフレ1とけもフレ2は同じジャパリパークではあるものの、時間が経過しているということを表現たかったに過ぎない。

そもそもアプリからけもフレ1が出るまでの間にジャパリパークは壊滅している。アプリ版ではジャパリパーク運営されていたが、けもフレ1ではヒトが珍しいという状況になっている。けもフレ2に対してけもフレ1の否定だと言う人は、アプリからけもフレ1になるにあたってアプリ版の否定だと言ったのだろうか。

イエイヌの回だって、自ら別れを切り出しイエイヌに対して、一緒に行こう等という事が本当にイエイヌにとって幸せな事だろうか(ただ、制作陣の表現の下手さがあの超低評価を招いた事は否定出来ない…。)。それは恋愛系の作品で敗れたヒロイン主人公に付き纏うような物である

けもフレ1終了後にたつき監督が解任され、けもフレ2は当初からアンチが多数存在する危険コンテンツになった。そんな火中の栗は誰も拾いたくない。そんな中でどういう経緯か分からないが木村氏が監督になる事になった。そんな木村氏のTwitterにはけもフレアンチ粘着している。それって本当に意味がある事なのか?

社会に出れば誰も悪くないが色々な事が重なってプロジェクトダメになる事なんて日常茶飯事だ。けもフレ1のたつき監督の解任に関しても、誰かが全部悪くて誰かが完全なる被害者なんて事は無いだろう。

最終的に自分が言いたいのは

けもフレ1は傑作

けもフレ2はけもフレ1と比べれば劣るが、アプリから続いてきたテーマ踏襲している

監督に凸しても監督メンタルがすり減るだけでなんの意味も無いからやめた方がいい

という事だ。

ここまで読んでくれた人がいたら本当にありがたい。

2019-03-18

anond:20190331000659 (続き)

イエイヌはキュルルちゃんとのやり取りの中で、このおうちには「ずっと昔」何人ものヒトが居た、彼らと一緒遊んでいたと言っていた。ある日居なくなった彼らを待ってずっとお留守番していたんだと。かつての経験をなぞるように、フライングディスクを投げるさまを指示したり、紅茶をよく飲んでいた、とも言ったりした。俺は今期9話を観たとき、なるほど、イエイヌは飼い犬だったんだな、と読み取った。博士曰く、サンドスターを奪われてフレンズ化が解かれたら、再びフレンズ化しても、前にフレンズだった時の記憶は戻らない(といっても少々の例外はある。ミライさんとともにいる先代サーバルの声を聞いて涙したり、ともに旅したかばんちゃんの後ろ姿を思い出したり)。しかし、フレンズ化したときに、どうぶつ時代記憶がどうなるのかは明言されていない。飼い犬が飼い主が去ったあとにフレンズ化して、むかしを回想しているのだと、勝手にそう考えていた。だがこれはミスリードだった! 飼い犬だったならあるべきは犬小屋で、人間の手の位置にドアノブがある部屋が自室のはずがない。そのようなドアはヒトか… フレンズのためのドアだ。だから結論は明白だ。イエイヌフレンズはヒトと共に暮らしていた。「ずっと昔」と言ったが、カラカルサーバルかばちゃんと旅していた時期を「むかし」と表現している。フレンズの言う「むかし」はせいぜい10年・20年というオーダーではないか。この伏線はパークに割と最近までヒトがいたことを意味している。

三代目ペパプ結成の後にヒトがパークに来ていたとすると、どうなる? イエイヌかばちゃんを知っていたが、ヒトと再び会ったのはキュルルちゃんが初めてだったようだ。キュルルちゃんがパークに現れたときイエイヌただちに探偵派遣した。ペパプ復活後にヒトがパークに来ていたとすると、彼女イエイヌが捕捉しなかった理由はなんだ? そのときにはイエイヌの村にはまだヒトが居たのだ。満足していたなら更に求める理由はない。つまり三代目ペパプ結成 → パークへのヒトの来訪 → イエイヌの村からヒトが消える → 十数年経過? → 今、という順になる。しかしペパプ結成後に村からヒトが居なくなったとするのは無理がある。当時パークではかばちゃん率いるセルリアンハンターが巨大セルリアンを退治するという事件があって、そのとき四神サンドフィルター装置を修理したのだった。それでセルリアンの騒動は一旦は収束したはずである。ふたたび大型セルリアンが出るようになったのはかばちゃん助手博士らと共に研究するようになった、最近のはずだ。イエイヌは飼い犬ではない。考えてみてほしい。一緒に暮らしていたヒト同様の知性を持つ家族であるべきフレンズ放置して、当の飼い主だけが逃げなければならないのはどれほど切羽詰まった状況だろう。セルリアン強襲以外に考えられるのはもうひとつ、”うみのごきげん”の悪化、すなわち海底火山噴火だ。遊園地が水没するほどの大災害、逃げられる人数が限られてる、だから家族であるフレンズを置いていかざるを得ない。その判断は… かなりキツイが、ありえないとは言い切れない。しか安心してほしい。この結論おかしいからだ。リョコウバトは以前にもジャパリホテルに来たことがあると言っていた。パーク中あらゆるところを旅するリョコウバト。前回の来訪が最近であるはずがない。リョコウバトは言っていた。「これほど変わったホテルは他にない」。ジャパリホテルの変わっているところはもちろん、支配人のオオミミギツネが売りにしているように、水没した風景が美しいというところだ。すなわちリョコウバトが前回ジャパリホテルを訪れたときにはすでにホテルは水没していた。海底火山の大噴火最近ではない。飼い主だったヒトが消える理由はなくなった。すなわち前提が間違っているということだ。ヒトはパークに来ていないのだ。

しかしここで推理頓挫してしまっていた。時系列バラバラだがルート上に並んだ絵(写真?)。しかしヒトはパークに来ていない… これら矛盾して見える伏線を結びつけるラストはどのようなものなのか… 本当に可能なのか? わからない。だが信じろ木村監督信じろ


そうやってウンウンうなりながら過ごしていた休日だった。前置きが長くなったが、俺が支持する仮説はこれである。「ラッキービーストフレンズ説」。

キュルルちゃんはヒト、これが最初から仕組まれた罠だ。キュルルちゃんガイドするラッキービーストに、ヒトとして認識されている。だがラッキーさん達は何を基準にヒトを判定するのか。前期でかばちゃん初見からヒト扱いだった。かばちゃんとキュルルちゃんの見た目上の共通点はなにか。帽子である。羽をつけた帽子画像認識して、ラッキービーストはパークの客だと判断するのではないか。赤と青の羽をつけたかばんちゃんを暫定パークガイドとして認定したシーンを思い出してほしい。イエイヌはヒトを求めたが、アルマーさんによるとかばちゃんでは駄目だと言っていたらしい。かばちゃんフレンズ命令対象ではなく対等の存在として扱うからだ、というのは聞こえの良い理屈だが、しかし現状の助手博士助手博士助手の扱いはほぼほぼ従僕であるジャパリパークは実際には厳しい世界だった。パークの掟の元で自律するフレンズ達は親切ではあるがエゴイスティック振る舞うことがある。危険ビーストもいる。フレンズたちと渡り合い、パークの長を従わせるためにはある程度強い態度をとっていく必要があったのだろう。イエイヌかばちゃんの相性は良いように思われる。なぜかばちゃんでは満足できないのか。かばちゃん自分が「ヒト」そのものではなく「ヒトのフレンズ」だと公言していると思う。だがキュルルちゃん情報イエイヌの耳にどのように届いたのかを考えていて気がついた。キュルルちゃん本人は自分がヒトだとは実は一度も宣言してない。最初にそういったのはカラカルだった、カラカルは推測でそう言った。ロバはそれを聞いていた。カルガモも。うわさはパークに広がりやがてイエイヌの耳に届いただろう。パークにヒトが現れた、と。

キュルルちゃんは「おうちを探すためでなく、フレンズが好きだから絵を描いている」と言ったが、スケッチブックに元から描かれていた絵には、しかし奇妙にフレンズの姿がない。キュルルちゃん本人は楽しそうにしているフレンズを描くのが画風であるジャングルの絵の中のゴリラ背中を向けてさえいる。画風の違いは何が原因か。ラッキービースト有事でない限りフレンズ積極的にはかかわらない。ヒトをガイドする仕事や配給、各種設備保守管理以外には。「生態系の維持が原則からね」は前期最終話ラッキーさんのセリフである最初旅路での荒野の絵はなんだかわからない残像だった。残像でぶれて映るのはシャッター速度の遅いカメラの特徴であるラッキービーストは高速で接近するフレンズを察知するセンサーレーダーのようなものを備えている。メインカメラの性能に頼る必要はない。

あるラッキービーストは持ち場を離れ、ふたたび旅を始めた。かつての任地、ジャパリホテルへ向かって。風車写真を撮った、竹林公園写真を撮った、ジャングルゴリラ写真を撮った。シッポを振って歩いていくゆっくりとした旅の間に、いろいろなことが起こった。過剰に放出されたサンドスターの影響で気候が変わり、パークの荒廃が進み、海底火山噴火ホテルが沈む。ペパプが再起し、かばちゃん達が旅に出る… ようやく桟橋にたどり着くも、ホテル海水の向こうだ。ラッキービーストは足を滑らせ、海に投げ出される。やがて海底火山に至り… サンドスターの温かい光に包まれる。ラッキービーストの旅の写真ランダムに吸い上げられて、スケッチブックとして顕現した。

[]2019年3月17日日曜日増田

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2019-03-17

けもフレ2のイエイヌ

録画してるのやっと見たけど、これで感動になると思った奴らの神経がマジでからない

けもフレ2はずっとフレンズ達が言い合いの喧嘩ばっかりしていて、見ていて疲れる

1はほのぼのしててよかったのに

あとキュルルが何を考えているのかさっぱりわからない。人となりが見えてこない

たつきを降ろしたのには理由があったんだろう。許せない理由が。

たつきがいなくても前ほどじゃなくてもそれなりの人気は保てると思ったんだろう

でもこれじゃあ。

巨大IPをぶっつぶしてまでもたつきにまかせられないほどのことっていったいなんなんだ?

けものフレンズ2

イエイヌエピソードで喧喧としてる2だが、なぜ2がこうなったかと言えば主人公キュルルのキャラ付けに(現状では)失敗してるからに他ならない。

そもそもキュルルは放送前の発表では名前を伏せて「子供」という表記クレジットされていた。

子供というからには子供なのだろうが、けも2ではキュルルの子供という属性表現するにあたって描写すべき重要な要素が(意図的になのか)欠如している。

それは両親の存在だ。

そもそも、目覚めて場所時代もわからない「子供=キュルル」が一番に思い浮かべるのが「おうち」というのはかなり突飛なように思う。

なぜ両親の存在無視するのか?おうちに帰りたいと思うのはそこに家族いるからでは?

おうちの件を飲み込むにしても、それ以降で家族存在を思わせる描写を入れないのは如何にも解せない。

製作にその気があればいたって簡単描写できるはずだ。

例えば、キュルルが寝言で「お母さん」とこぼすのをサーバル達が目撃する。これだけで済むことを何故しないのか?尺的にも構成的にもいくらでも入れるタイミングはありそうなものである

この描写不足により、哀れにもキュルルは視聴者に良い意味での「子供扱い」を受けられずにいると思う。

本来庇護されるべき子供大自然に一人取り残されたという状況ならば普通視聴者には同情的に見られる。

ある程度、不合理な行動をとっても子供という立場と状況の不条理さで視聴者の受ける印象は変わる筈だ。

ところがけも2ではその前提となる「庇護されるべき子供」という描写が欠けており、現状ではよくわからんクソガキと思われているに過ぎない。

これが可哀想なクソガキぐらいの印象だったのなら、クソガキの成長ストーリーとして本作を捉えることも出来たような気もする。

製作はあえてミスリードを誘っているのかもしれないが、9話に至るまで大した盛り上がりも作れず、キュルルの魅力をそこまで描けていない現状を見ると、それは単なる出し惜しみとしか思えない。

けものフレンズ2、9話ばっかり話題になる理由とは

ずばり突然のウェット&メッシー表現だと見た。

何あのテクスチャー。

ストーリー破綻セリフの間の悪さ、脚本問題点なんかより、あのイエイヌの汚れテクスチャーが原因だろう。

あのイエイヌ常軌を逸した汚れっぷりさえなければ、9話がこんなに話題になることはなかっただろう。

ここまで、道端で転ぼうが山道を駆けずり回ろうがチーターに跳ね飛ばされようがキャラクターが汚れるという事態はおこっていない。

あと水に入っても出てくれば濡れてない。そういう表現はしないアニメとして見ていたわけだ。

ところが9話においてイエイヌけがいきなりドロドロに汚れてみせた。

テクスチャーの透明度は適正だっただろうか?

9話に怒っている人のかなりの割合は、あのドロドロを、傷を含んだ汚れとして見ている。

しろ作品中であんなに汚れて見せたキャラクターが他にいないから。

まあまったく汚さなかったとしてもキュルルのあの態度はないけどさ。

本当に製作者はせっかくのオリジナルキャラをどう思ってもらいたいのかわからん

[]2019年3月16日土曜日増田

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