はてなキーワード: 戦隊ものとは
5歳以上、12歳以上とか分類して手が届くようにしておけばわざわざ18歳以上に手を出す子は減るし
すぐ飽きるから
既存コンテンツにレーティングかけて徐々に手に取れるようにした方がいい
大抵の子はやり返すしそんな遊びをして育ってきた
しかしトラウマになるほどの被害者もいるというのは増田の言う通りだろう
https://anond.hatelabo.jp/20220720134218
この増田に対する反応を見て思ったのだけど、みんな子供の性欲について真面目に考えているのだろうか?
まず気になったのはエロ漫画以外で同様の事が起こった場合をどう考えているのだろう?と言う事だ。
仮面ライダーや戦隊ものや鬼滅の刃等の真似をして暴力を振るう子供が居た場合、同じリアクションなんだろうか?(つまり、仮面ライダーや戦隊ものや鬼滅の刃をゾーニングまたは規制しろ、と?)
もしそうなら徹底しているし一貫性が有ると思うが、残念ながらそういう意見はあまり見ない。
という事は大多数は
するのだろうか?
当たり前だけど、そういう暴力も性的な嫌がらせ同様、被害者にトラウマや精神的なダメージを残す。それらを「仕方ない」と思うのか、まずはこれを聞きたい。
私自身の見解としては両者に本質的な違いは無いと思うので、他の暴力と同じ対応をする以外に無いと考えている。(つまり、「人の嫌がる事をしてはいけない」等の教育、またもし性的コンテンツの規制、ゾーニングで対応するなら、他の暴力でも同じ対応をする)
もう一つ考えたいのは子供の性欲をどうするか、だ。
元増田のケースは性欲が原因なのか怪しいと思っているが(だから他の暴力と分ける事に欺瞞を感じるし、基本的に他の暴力と対応を揃える以外に方法が有ると思えないのだが)、小学生なら可能性も一応有るとは思う。また元増田以外のケースでそういう事はありえはするだろう。
しかし性欲が原因だったとしても、はてなの人達はじめ多くの人が出すのはゾーニングや規制等、子供の性欲の解消は全く考えていない方法ばかりだ。
これは何故なんだろう?
当たり前の事だが、子供にも性欲は有る。
それを解消せずに我慢だけさせて置いて、問題が解決すると本気で思っているのだろうか?
恐らく大部分の子供は、そうした大人の目を盗んで18禁コンテンツにアクセスし、勝手に性欲を解消して犯罪を起こさずに成長してくれるから問題は無い。
しかし一部は問題を起こし、加害者になる。その一部への対処をどうするのか。規制やゾーニングが何の役に立つ想定なのだろう?規制もゾーニングもその一部の子供の性欲を解消してくれはしないのだが。
どうも多くの人達は「子供の性欲」から目を逸らしている様にしか見えない、子供が勝手にルールを破って18禁に触れるのに甘えて、考えるのをサボっている様にしか見えない。
大人が子供に(それも子供のルール違反に)甘えている、あなた達はそれでも大人なのか?
子供にも性欲は有る、この単純な事実から目を背けないなら、対処は一つではないか?
逆にそれ以外に性欲を解消する方法が有るなら教えて欲しい。薬で性欲を消すとか?
そしてその性欲解消コンテンツの中で「相手の同意を得ずにデリケートな場所に触れてはいけない」「相手の嫌がる事をしてはいけない」と教えるのが、誰でも思いつく最もシンプルでストレートな方法ではないか?
エロ漫画を潰すのでは無く、それとは別に安全なエロコンテンツを作る。そうすれば「お勉強」が嫌いな子供にも性教育をインストールする事が出来る。
この一番単純な方法を何故かわざわざ避けるから、意味の分からない効果も期待出来ないおまじないじみた方法をわざわざ考え出さなきゃ成らなくなってるのではないだろうか?
幸いフェミニストの中にも同人含むBL作家や男性向けエロの作家も居るし、別にフェミニストでなくても協力する人ややりたい人は居るだろう。法の準備さえ整えば不可能では全然無い。
性欲が有るなら解消する、ついでに性教育もする。それが一番では?
念の為補足しておくが、この話は「既存のエロコンテンツに性教育を入れろ」という話では無い、
小学生でもギリギリ分かると思うが、物には所有者が居て、その物をどうするか決めるのは所有者であって他人である私達では無い。
他人の作ったコンテンツの中身を勝手に決める権利は私達には無い、それは他人の物を勝手に盗んだり、他人の食べ物を勝手に食べる様なものだ。所有という概念が抜け落ちている。
自分がやりたい事は自分でやる、自分で作る、それが当たり前の事だ。
子供に性教育をしたいなら、他人の所有物を勝手に乗っ取るのではなく、自分でその為のコンテンツを作る(もしくは既存のコンテンツを自分で組み合わせて望みに叶う物を作る)、それが当たり前であって、既存のコンテンツへの注文では無い事を念押ししておく。
いくつかコメント頂いている「性欲や恋愛感情ではなく加害欲や支配欲が原因ではないか」という話は本文でも書いている通り同意。
そしてその場合は「そもそもエロ漫画の問題なのか」の部分に書いた通り、他の暴力と同じ対応になると思う。
(加害欲や支配欲は他の暴力の原因にもなっている筈なので、それらと対応を分ける意味が分からない)
性欲や恋愛感情ではなく加害欲や支配欲が原因であれば尚更、エロ漫画等の規制やゾーニングで解決できるとは到底思えず(規制やゾーニングで加害欲や支配欲が無くなる訳が無い・・・・)、漫画その他表現に批判が向くのは問題を見ない様にする為のスケープゴートにしかならない、と思う。
昭和のころはまだメタ設定があったにせよ多少抑えめだったと思うんだけど
平成はそれが加速というかふざけてるだろみたいなレベルになって
俺的には子供だましにみえるんだけどガチ勢はどう思ってるの?(まぁガチ勢は好きだからガチ勢にまでなったんだろうけどさ)
例えば昭和でいうとウルトラマンタロウをDVDかなんかでみて子供のころ笑ったんだよね
宇宙のはるか遠くの星からやってきたのになんでタロウなんだよって
なんていうかゲーム内のキャラがAボタン押して!みたいな感じだよね
それいいだしたらウルトラマンって英語じゃーんとか言えるんだけどとにかくタロウっていう名前に納得がいかなかない
というかウルトラマンシリーズがその後どうなったのか知らないんだけど
俺の周りにオタが多くて聞くたびに、それでいいのかって思うことが多いのよ
https://anond.hatelabo.jp/20220125183017 が何か盛り上がっていたので思いつくままに追記...しようと思ったのですが、私の話より先に、いただいた「やりたいこと」をまとめさせてください。
たくさんのコメントありがとうございます。拾えてなかったらすみません。
いただいたものを眺めつつ、この週末に新しいリストを作ってみようと思います。
私のリストは、結構個人的なものも含むのでそのうち整理して、気が向いたら公開します。
...とは書きましたが、だからといって不幸な気分ではありません。
たとえばクイズのバラエティ番組を見てて、世界遺産とか地域の名物がクイズの答えになってて、そこに行った思い出の話を楽しんだりとか、普通にあります。行ったことがない観光地が紹介されていて、行ってみたいなーと思うこともありますし、実際に行くこともあります。ただ、それは「死ぬまでに絶対に行きたい」から行ったというよりは、暇だしまあいいか、という感じです。そういう細々としたやりたいことはたくさんあるので、それほど不幸でもないし退屈でもありません。
ブックマークで「子供がいたら、無限にやりたいことは出てくるはず」というコメント(ブックマークはコメントなの?わからん。)を多数いただきましたが、全く同感です。ただ、年齢的に子供はいませんし予定もありません。少し羨ましく思います。
それから「奥さんと幸せな老後を暮らす、という項目はないの?」というコメントもいただきました。項目にはありませんでしたが、そうなるといいなとは思っています。
122個目をやるときの気持ちを知りたい。「やったるで!」という感じだったのか、「アカン終わってまう…」という気持ちだったのか
粛々と...という感じでしたね。やり終わった時は感慨深かったです。ものすごい達成感を味わいました。
じゃあ死んだら?
女主人公の仮面ライダーを作れって言ってるやつ、男主人公のプリキュアには文句言いそうだから一切信用できないんだよな……
日本の若年者向けコンテンツの特徴はジェンダーによって分離されていることだ、という大衆文化研究上での常識がある。つまり、「男も女も見る」ようなコンテンツはアンパンマンなど幼児向けのもので終わり、一定の年齢から上の子供たちは「少年漫画/少女漫画」のように男女で明確にカラーが違うものを楽しむことになる。
この分離が良いか悪いかはひとまず措くとして、こうした環境の下で、日本では「男の子向けの戦隊もの・ヒーローもの」に対応する「女の子向けの魔法少女もの」が存在してきた。男ばかりでたまに女も交じる仮面ライダーが戦う横で、セーラームーンやプリキュアといった女だけの戦士たちも活躍してきた。ある意味ではこれは男女平等な環境だったのだ。
それは、表面的に見れば、女児向けコンテンツが不足している国でヒーローものに女主人公がいない、と同じ現象であるかのように見える。しかし、日本には女児向けのヒーローものがあるのだ。個々の作品のジェンダーバランスはいびつかもしれないが、全体としてみればジェンダーバランスが取れている。それが現代日本の大衆文化だ。
男性向けエロ漫画もあれば、女性向けBL漫画もある。女性を客体化した表象もあれば、男性を客体化した表現もある。男の目線で描かれた美少女を愛でるライトノベルがあれば、女の目線で造形されたイケメンに恋する少女小説もある。
個々の作品を見れば、「男性目線だ」と評価しうるかもしれない。でも、その反対側に「女性目線」の作品もあるのが日本であり、全体としてはある種の男女平等が実現されていて、天秤のおもりが釣り合っている。
そういう背景があるのに、「仮面ライダーに女主人公を」なんて言うのは、天秤の片側にだけおもりを乗せようとする行為だ。それは平等とはいえないように感じられる。もしも片側におもりを乗せるなら、もう片方にも同じだけの重さのおもりを置くべきだ。つまり、「プリキュアに男主人公を」だ。
これに反対するのだとすると、それは本当に男女平等を求めての意見なのか? という点が疑わしくなってしまう。だって、天秤の両側は釣り合っているべきでしょう? 天秤を平衡に保つのが男女平等ってことなんじゃないの?
そもそも、ここ最近の仮面ライダーには継続的に女ライダーがいる。それに対して、プリキュアに男プリキュアがいたことがあるのか? いや、キュアゴリラみたいなネタ枠とか、全人類がプリキュア、みたいな話じゃなくて、もちろん、変身バンクがあるレギュラーキャラとして、って意味だよ。ジェンダーバランスを言うのなら、まずはプリキュアの方が糾弾されるべきじゃないのか? まさか、ジェンダーの平等を謳う方々が、男のグループには女を入れるべきだが女のグループに男を入れる必要はない、などとは言うまいね。
ひょっとすると男が「女の親密圏」に立ち入ってほしくない、という素朴な気持ちがあるのかもしれないけど、そういうのホモソーシャルっていうんじゃないの? いちおう言っておくと、「ホモ」は「同じ」って意味だからね。
いや、毎週プリキュア見てるおじさんとしては、別に男プリキュアがいなくても構わないし、プリキュアが女のホモソーシャルでも何も悪くないと思うよ。思うけど、だったら女ライダーが主人公じゃないとだめとか男のホモソーシャルはけしからんとか言うべきじゃないでしょうよ。これそんな難しい話じゃないよね。賛否は別にして理解してもらえるはずだと思うんだけど。
男女平等は大いにけっこうだけど、その実現の仕方にはバラエティというか多様性があってもいいだろう。「すべてのヒーローものを構成員を男女同数に!」だけが男女平等じゃないと俺は思う。「男だらけのヒーローものもあれば、女だらけのヒーローものもある」というのも立派な男女平等の形じゃないだろうか。
それに納得できない、賛同できないってのはまあいいけど、だったら一貫性を持って男プリキュアを出せと強硬に主張すべきだよね。
【追記】
https://anond.hatelabo.jp/20210807215837
>もうさ、お惣菜買うのを止めて挽肉で生きて行けばいいんじゃね?
ミートサプライはひき肉も出している。丸大からは逃げられない。
「子供がキャラクターのおもちゃや流行ってるゲームなどを欲しがるのを無視しナチュラルでアーシーな主張のあるおもちゃを与える母」の毒もさることながら、私の母は真逆で「キャラクターもののおもちゃや分かりやすいおもちゃを欲しがらない娘を不審に思う母」だった。
物心ついた頃から、同世代の子供たちの間で流行っているTVやゲームのキャラなどにまつわるおもちゃやグッズが苦手だった。
4つ上の兄は戦隊もののキャラグッズやゲームやを欲しがる子供だったらしいのだが、私はTVやゲーム由来のおもちゃに興味がなく(TV番組自体やゲームをすることは好きだった)、分かりやすく女の子らしいおもちゃ(リカちゃん人形とか魔法少女系のキャラグッズやお姫様系のグッズなど)も、デザインがダサくていやだな…と思っていて、誕生日やクリスマスのたびに欲しいものを探すのが難しいと思っていた。
子供だった私が「ダサくてイヤ」と明確に思っていたわけではなく、理由は分からないけどとにかく「そういうのは、何かあんまり欲しくない…」という強い気持ちだけは確かにあった。特に魔法少女系やお姫様系のおもちゃについては「だってそれ持ってても本物になれるわけでもないし、なくてもごっこ遊びは十分楽しめる、というかむしろ”にせもの”がない方がごっこ遊びはもっと自由にやり易い」と思っていた。
クリスマスは、親はイベントとして「子供から欲しいものを探り出して事前に用意しておく」イベントをやりたかったようなのだが、分かりやすいおもちゃを欲しがらない私は、時節になると入るおもちゃ屋さんのチラシやデパートのDMを穴が開くほど眺めてみても、欲しいおもちゃを見つけることもできないし、ましてや欲しいおもちゃを指名することもできず、さらに言えば幼稚園の低学年で「サンタはいないよな」と何故か思っていたので、子供心に憂鬱だった。幼稚園の年長の年の冬に「もう来年は小学生だからいいよな」と思って、母に「私は欲しいものが欲しいからサンタさんのことはもういいからお母さんと一緒に買い物に行きたい」というようなことを言ったらしいと母から聞いた。「もう小学生になるからいいよな」と思ったことはとてもよく覚えている。それで、ちょうどピアノ教室に通い始めた時だったこともあって、アップライトピアノを買ってもらった。
その後は、誕生日もクリスマスもそれなりに楽しみになった。きれいな紙(折り紙とかシールとかきれいなラッピングペーパーとか)やクレヨンや色鉛筆や、あとは触り心地が良くてかわいい動物のぬいぐるみをデパートで見つけて買ってもらってピアノの上に並べていた。お友達たちはTV番組のごっこ遊びとかも好きだったので、まぁそういう遊びをするときはもう帰るねと帰ってきちゃって、一人でピアノの練習をしながらぬいぐるみたちとごっこ遊びをしたりしてた。ゲームは好きだったから家で兄や友達とやったりしてたが結局それほどは熱中はせず、いつまでもゲームをやめずに怒られるのは兄の方だった。
母はクーヨン母的なものとは真逆の人で、むしろクーヨン母的なものを嫌っていたような気がする。娘の私も、ああいう極端なものは、それはそれで全然嫌なのでそういうナチュラル教徒みたいな親じゃなくてよかったと深く胸をなでおろす一方で、「分かりやすく流行っているものを欲しがらない娘」にしばしば圧をかけてくるのがどうにも嫌だった。母から、分かりやすく流行っているものを温和に好み、さらに言えば大勢の中で悪目立ちせず埋没してくれることを願われていたのだと思う。
残念ながら娘の私はそういうタイプに生まれることができなかった。
「みんなが好きなもの」を素直に受け入れて好きになることができず、自分の好きなものについてのこだわりと主張が強い。母の眉をさらに顰めさせたのは、そのように素直に埋没できない私のこだわりと主張は、子供の狭い世界の中でオピニオンリーダーのようになりがちなことだった。子供は「〇〇ちゃんも持ってるから買って!」と言いがちな生き物でもあるが、私はこの引き合いにだされる「〇〇ちゃん」になりやすい、悪目立ちをする子供だった。素直ではなく、大人しくなく、主張が強い。勉強が出来て、目立っていたせいか割とモテてもいた(とはいえ所詮は狭い子供の世界の中での話)。そして私のそういうところも母は嫌がっていたように思う。
私は母が望むような、温和で優しくてニコニコしている女の子になりたかった。けど、どうやったら「そう」なれるのか、全然なり方が分からなかった。大人になった今になって、そうかあんまり我を出して強く自己主張しちゃだめだったのだろうな、とぼんやり考えたりするが、大人になった今になっても「それ」は上手くなってはいない。
もっとも大人になった今になっては開き直ることができている。運がいいことに私の我の強さや悪目立ちする個性は人に好かれやすい面もある(一方でこっぴどく嫌われることも少なくない)し、幸いなことに人より頭が良く生まれたらしいこともあり我が強く悪目立ちしていても今のところ生きていられている。ほとんどの人から嫌われない温和さや優しさはないが、少ない数ではあるが強い好意を持たれてその人たちと良好な関係を築きそこから世界を広げることもできている。でも、開き直る前までは、自分はろくでもない恥ずかしい人間なんだな、と思っていたし、今でも割とその思いはぬぐい切れていない。