はてなキーワード: クラスタとは
そろそろ四年目に差し掛かるジャンルの、というかグッズの収集そのものをやめる。きっかけとかはなく、とにかく溜まりに溜まったものが原因だ。ここには、その溜まりに溜まったものを吐き出していこうと思っている。溜めたままにするのは、とても辛いので。
先に述べておくが、私がグッズ収集を辞めるのは私がコミュ障で、運がなかったのが多いにある。そして私の僻み根性と負けず嫌いのせいだ。私はグッズ収集を始めるまでここまで私にそんな性格があるなんて知らなかった。要するに私の心が弱かったのだ。
このブログは上記の通り私のグッズ収集が嫌になった愚痴の言わば掃き溜めなので、嫌な予感がする人、あと、特に一番人気キャラ以外が好きな人間は自己責任でお願いする。
私が一番好きで好きで集めていたのは、そのジャンルでダントツで人気のキャラだった。
イベントには出来るだけ遠征して行ったしランダムもとにかく沢山買った。ダントツ人気だから中々交換も難しいけど頑張った。
で、イベントに行けば、そこでTwitterで知り合った人なり列で並んでた人なりで話す事がある。その時に一番苦手なのが、言い方は悪いが求めてる人が少ないキャラが好きな人。
最初は、たしかにそれで仲良く慣れば交換して貰えるかもしれない。数ある声かけの中で選んでもらえるかもしれないという下心もあった。それは認める。でも、ほとんどは同じジャンルが好きだからそのジャンルについて話したいって気持ちが大きかった。
でも、その人が話す事って、要するに9割自慢話なのだ。
例えば、私がランダムを買ってきたとする。
「どうでした?」と聞かれて、「いやー全然でした。推しは出ませんね」と内訳を教える。そしたら、「私も推し出なくて~買ったらこうでした」と私の推しを見せられるのだ。そして、続く言葉が「交換どうするか悩んでるんですよね」だ。
私からしたら、じゃあ交換してくれませんか?と言うのは当然じゃないだろうか。だって、お互いの推しが出てるのだ。でも、大抵は笑って誤魔化されるか求めてるのでこれなので、と言われる。複数出てるから、他と含めた複数とで、とか、それもありますよ、といっても断られる。
交換迫られる怖いって思われるのが嫌だから、へぇ~そうですか、と言って流そうとしても、そうするとでもこの前もね、と私の推しが沢山出て困ってる(超笑顔)って話が続く。
じゃあなんで聞いた?もしくはなんで言った?って思う。
直前で出ない出ないって言ってた推しなのに、それと交換を、と言ったら苦笑い。正直殺したろかと思う。
そりゃたまに、オッケーしてくれる人もいる。そう言う時は神かってくらい感謝する。
でも、そういう人って10人に1人とか20人に1人とかそういう世界。4年近くやってきてほとんど出会った事ない。
そういうキャラの推しの人ってよく内訳言ったらすぐ交換って言われて怖いとか言うけど、よく言うよね。言われて当たり前じゃない?自慢みたいに○○ばっかり出るんです~って言ってる癖に何言ってんの?ってなる。
ちょっとでも変な事言ったら人気キャラ推しは叩かれ易いから余計に気を使ってるよ。こっちが○○沢山出て困るって言ったら速攻で「推しを馬鹿にされた!」って怒るじゃん。
すぐ○○推しはって言われるもん。
でも何でそういう事されてるのずっとこっちが我慢しなきゃいけないの?
ゴミ押し付けられるみたいって言うけど推しに対して一番ゴミって思ってんの貴方じゃない?って人を何人見たかわからない。
はじめは普通に気安く接してくれてても、段々こっちの足元を見た態度を取ってくる人も沢山。もういやだ。
思ったより長文になったのでとりあえずここで今日の愚痴は終わりにしようと思う。こんな乱文、ここまで読んでくれる奇特な方、ありがとうございました。
なんか偏ってない?
ネットだとネトウヨが多いイメージだったのに、左寄りのはてサ?が圧倒的に多い気がする。
https://anond.hatelabo.jp/20180426102121
俺の脳内では、ここ2、3年は質、量ともに史上希に見るほどゲームが面白い時期なのね
どんな感じかというと、映画「カリオストロの城」の冒頭、ルパンと次元がカジノから大量の札束を車一杯に詰め込んで高笑いしてるシーン、あんな感じ
現役のゲーム機がPS4だけの俺ですらこれなんだから、ゲーム用PCも持ってる人なんて、札束の山のてっぺんからゴキゲンに滑り降りる「ダークナイト」のジョーカーみたいな気分なんだろうな、と思ってるし、ゲームをあまりやらない人達の間でもそれは当たり前の事実として共有されているもんだと思ってた
なんだこれなんだこれなんだこれ。
あまりにスッキリしなくて映画館でてからも身震いのような気持ち悪さが引かず肩を縮こまらせてみたり腕を拭ったりぴょんこぴょんこ跳ねてみたけどそれでも気持ち悪い感覚が引かず最寄りの喫茶店に駆け込んでカフェラテを飲みながらこれを書いてる少し落ち着いてきた。
アニメ映画に限らずエンタメであることが求められるこのご時世にこれだけ監督が気持ちいいもの垂れ流しました的な物語が劇場公開できてかつ絶賛されてるのをみると世の中健全だなあというか捨てたもんじゃないなあと思うけどやっぱ許せそーにねーわっていうか辛い(言えたじゃねえか)。
でまあ何が気持ち悪いかっていうと希美なんなのアイツってことなんだけど。
本音言わないにもほどがない? ずっと嘘くせー笑顔うかべてるしさあ。一番「あ、こいつキチガイだな」って思ったのは優子がキレてるところでもニヘラニヘラしてたところだな。あそこは普通なら申し訳ない顔をするなり逆ギレするなり何なりリアクションがあったはずなんだよそれを普段と変わらない笑顔でやりすごすとかさすがに何なのコイツってなるわ。
そういう本音を一切語らない希美が描かれた末にみぞれが羽ばたいてあーこっから変化きますわ変化って思ってたら何も起きずむしろ語らなさが強化温存されてENDってさすがにねーわ音大行くのやめたのみぞれにけっきょく言ってねーだろ何だコイツ。
それでもメタ的にそれを指摘するパースペクティブが用意されてるならいいんだけど(嫌だけど)でも作品として「disjoint→joint」ってやっちゃうわけじゃん。いやこれで解決されてるとか主張するのはさすがにソシオパシス疑うわwww
もう少し話を整理する。
この話はTVシリーズからずっと続いていたみぞれの希美に対する一方通行的な気持ちにどう決着をつけるかって話だ。
みぞれは希美に対してオンリーワンだけど、逆はワンオブゼムにすぎない。お互いがお互いに抱いている感情が等価ではないという問題はこのふたりにずっと横たわっていて、TVシリーズ2期の序盤でこれを取り上げることによって一定の解決をみた(が、実はTVシリーズは視聴者を慮ってか原作に比べてかなり手加減したつくりになっている。原作ではこの落差を青春が持つ残酷さとしてストレートに描いており、解決がつくどころか希美の無理解さが強調されるエグみを持っていた)。
さて『リズと青い鳥』においては同名の架空の海外小説とそれを原作とした吹奏楽曲を補助線とすることでふたりの距離に改めてスポットを当てている。
『リズと青い鳥』はひとりぼっちのリズのところに彼女を哀れんで青い鳥が少女となってやってくるという話である。最初ふたりは幸せに暮らすが、リズはやがて少女が青い鳥だと気づき、彼女は大空を自由に羽ばたくべきだと主張する。ひとりぼっちだからといって己が鳥かごになって大空を自由に飛べる青い鳥を閉じ込めることは許されないというわけだ。それはリズの愛である。青い鳥はそれを悲しむが、リズの気持ちに応える形で大空へと旅立つ。
当初みぞれはリズに自分を重ね合わせる。闊達で皆の中心にいる自由な希美を遠くから眺め、自分なら青い鳥を手放しはしないのに、リズの気持ちはわからないと言う。だが臨時コーチの新山との対話の中で、青い鳥がリズの愛に応える形で飛翔することへは理解を示す。良かれとおもって彼女の元に来たことが却って彼女を苦しめるなら大空へと羽ばたく姿を見せることをもって彼女を幸せにするのだ、という解だ。だがそれは現実のみぞれと希美の関係にはそのままオーバーラップしない。
吹奏楽『リズと青い鳥』においてみぞれオーボエ希美フルートはそれぞれソロパートを担当する。曲の成否を決める重要なパートだ。だが希美のクオリティが低く、みぞれが無意識的にそれへ合わせることで滝も麗奈も納得しない出来になっていた。それをみぞれが「羽ばたく」ことで解消する。しかし希美はリズじゃない。覚悟を決めて申し出たリズと違って、希美にとってみぞれの「羽ばたき」は寝耳に水で目をそらしていたみぞれと自分との力の違いをまざまざと見せられることになってしまう。希美はみぞれに「手加減してたんだね」「みぞれはすごい。自分のような凡人とは違う」と醜い感情をぶつける。ここまでは理解できる。が、ここから先がないことは理解できない。事件は起きた。が、解決とまでは言わないまでも変化がないことは理解できない。みぞれと希美の関係は、あのなんか表面だけを取り繕っている妙な関係に戻ってしまうのである。本当に理解できない。
希美が音大進学を諦めたことは参考書を借りている描写からもわかる。くどいほどに強調されていた希美が一歩先を行きながらみぞれといっしょに音楽室に向かっていた今までから希美は図書室に勉強へ、みぞれは音楽室に練習へ行っていることからも道が分かたれたことは明確に描写されている。
だが音大進学をやめたことを伝える描写はないし、おそらくみぞれもそれに気づいていない(それぐらいノーリアクション)。希美はみぞれの目の前で参考書を借りているし、練習したみぞれが図書室で勉強していた希美と落ち合ってお茶して帰る描写があるので、現象として「希美音大進学あきらめた」はみぞれの目の前で展開しているのであるが、みぞれはノーリアクションなのでやはり気づいていないと考えるべきだろう。気づいてなお普段を演じているのだとしたら、希美以上にみぞれがぶっ壊れている(付言しておくと図書館が普通科の大学、音楽室が音大を暗喩し、それぞれを出て合流してお茶するところが、道が別れても一緒にやっていけることを暗喩してはいる(映画けいおんのセルフオマージュ感はあった)。しかしそれは言葉だけでそう表現されているに過ぎず、何も解決されていないことから額面通りに受け取ることはできない)。
事件は起きた。が、変化が起きないどころかお互いの距離と無理解が強化温存されてしまった。それなのに「disjoint→joint」とやってしまうのは、さすがに気持ち悪いとしか言いようがない。
ただ歩いてるだけであんな音はぜってーしねえと冒頭からツッコミ待ちな辺りそうとう振るっている。音がもたらす強烈な違和感によって、アニメーションだからこそ描き得る「体温」とでもいうべき何かが嫌でも強調され、作品の表現したい内容がプリミティブな形で視聴者の前に突き出される。
映像にしてもそうである。潤む瞳や流れる髪などアニメーション的誇張を重ねて表現された絵は、アニメーションであることの自覚ぬきに成しえない。アニメーションだからこそようやく可能な表現に挑戦した意欲作だと言える(アニメ『めぞん一刻』において、五代が「なんで泣くんだよ。なんで……」と言った響子さんの涙を思い出した。あれもアニメでなくては表現できないし、成立しない映像表現である)。
■2018/4/28追記
https://anond.hatelabo.jp/20180427225401
いやいや。
希美は内面を表情に出さない本心を語らない(いつも嘘くさい笑顔をはりつけている)キャラクタとして設定されていて、その強調として彼女を中心とするクラスタが表面的な付き合いに見えるような描写は繰り返しされている(むろん希美にはみぞれ以外の友人が沢山いる、希美しかいないみぞれとは違って、というためのものでもあるが)。
みぞれの後輩である剣崎梨々花が「先輩といっしょにコンクールに出たかった」と号泣するのはそれとの対比であり、畢竟、希美とみぞれ及びそれぞれのキャラクタの周りにいる誰が本心を語っているのかということを浮き彫りにするためにほかならない。
優子に詰められた時の対応などを見ても、希美が(本心を語らないという意味で)信頼できない語り手的登場人物として描かれていることは疑いようがない。そこから彼女が「変化」したと捉えうる描写もないため、増田が「濡れ場」と称する場面でも彼女の表情や言葉を額面通りに受け取ることはできない。
そもそも(原作)ユーフォは、みぞれと希美がそれぞれ相手に寄せる好意の量の差異を赤裸々に露わにし、青春とはかくも残酷なのだと描写した物語だ。物語がその残酷さに直面したとき、原作においては久美子が「うわこれキッツ」というようなリアクションを密かにすることで、それをどう物語として扱うかというパースペクティブが用意されている。が、リズと青い鳥にはそれがない。
希美が相談なく吹部をやめたことでみぞれはショックを受けた。相談がなかった、知らされなかった、自分はその程度の友人でしかないのだという事実が彼女を傷つけた。希美の音大やっぱやんぴはそれの繰り返しであり二度目だからこそ余計につらいわけ。だから優子はキレた(なのにニヘラニヘラしてやりすごす希美!)。じゃあ実際みぞれがそれを知ったとき彼女はそれをどう感じるのか、ということは「食事やトイレに行」く描写があるかどうかとかとはまったくもって次元の違う、映画において回避すべきではない描写にもかかわらず映画はそれ回避してしまう。ずいぶんと不誠実ではないか。
みぞれは最後、オーボエを続ける選択をする。それをどう解釈すべきか。
みぞれは希美といっしょにいるためにオーボエを吹いていた。一歩下がってついていくようなみぞれは希美に嫌われたくない。だからオーボエも、希美に合うようにもっと言うなら彼女を超えないように抑えられていた。鳥が自由に羽ばたくところを見れば、地べたを這いずり回るしかない人間はあるいは鳥を嫌いになってしまうかもしれない。そういう恐れを鳥が抱いても不思議ではない。だが青い鳥は、リズに励まされ、大空を舞う。翼はもともと持っていたものだが、リズの励ましによって青い鳥はもういちど空を自由に舞うことを選択する。それこそが、あなたがわたしに望んでくれたことだから。だからこそ大事にしたい、続けたい。
という読みが妥当だろうが、納得してそう受け取るには希美が音大に行くことをやめたと知ったみぞれの描写なくしては無理だし、リズが青い鳥を支えたように希美がみぞれのオーボエを支えると口にされても、希美への信頼がゼロなのでそれは難しい。そういった明らかな構造的不足を映画は無視したまま終わってしまうので、信頼もへったくれもない。
ところでこういった感想は、映画を見て心で感じたことを言語化して初めてでてくるものであって、「小難しい理屈」などでは決して無い。ということぐらい最低限理解してからコメントをつけるべきだろう。
やあやあ!!!入りは昔の2.5、今はうっかりにわか観劇オタだよ!!!!
間口が広がって、人気作品が増えると質の高い装置や衣装がどんどん増える!!!いいことだね!!!そういうのも見るのも、楽しいよね!!!!
とまあ人が増えたおかげでもあり人が増えたおかげで気になることもたくさんあるんだ!!
(引用ここから)次に繋げる気あるの?[伏せ]クラスタもっと頑張ってよ………キャン待ち全員当たるとか意味わからない……(ここまで)
おおおおおおおーーーーーーい!!!おおおーーーーーーい!!!!!
当日キャンセル待ちは、売れてない席の残部ではないよ!!!!!!
ついでに何故か妙にいい席だったりすることもある。なんでかって???キャンセルの出た席だからだよ!!!!
「普段は売られてない関係者のための枠の」キャンセル席って言えばわかるかな????
見通しがよかったり、真ん中だったりするんだ。狙ってみると楽しいかもしれないよ!!!!!
ただ、車イスゾーンにパイプ椅子が設置されるような補助席になる場合もあるから、期待しすぎないでくれよな!!!!!!!
お尻の平穏を祈るなら当日引換やキャンセル待ちをする日はクッションを持とう!!!
もし「キャンセル待ちすら当たらないレア価値が付加される舞台を見る自分」が好きなのであれば届かないかもしれないけど、2.5が好き!って言いたいならばシリーズの他作品ファンをdisる前に少しはお勉強してほしいな。目の前に手のひらサイズの液晶もあるしね。
雑多に呟くのが嫌なら切ってほしい
元々はソシャゲ垢だったけど、今じゃあただの雑多垢
ハマってる漫画の感想とか熱く書いたことがそんなに気持ち悪かったのならキレばいい
オフ会であったこと何度もあるけど、所詮ネットの関係なんてそんなもんなんだから
いちいち一人一人の好むようなツイートなんて出来ないし、そんなことをする為にTwitterを始めたわけじゃない
ソシャゲ仲間でのオフ会は楽しいけど、正直恋愛沙汰や出会い厨とかオフパコもそのソシャゲクラスタの中では横行してるようでだんだん嫌気がさしてきた
悪口を言った本人も未成年なのに恋愛沙汰や出会い厨等に巻き込まれてるし
本人は、「自分は悪くない」と言うけれど、誘ってる自覚ないのか?
目が覚めた
ハリルホジッチ解任でサッカークラスタが発狂している理由を読んで「アホか」と思ったのでここに書く。
ちなみに海外厨ってのは、サッカーに関するあらゆることで『海外(≒欧州)は何でも正しい。日本はダメ』を過剰に言いたがる人であり、海外サッカー見ている人の全てが海外厨ではない。
・1つの生き物のようにというのを簡単に説明する。フォワードは攻撃の選手で、ディフェンスは守備の選手という認識があるが、これは古き時代の認識。
・現代では、ディフェンスはフォワードから始まるし、フォワードが最前線で守ってくれないと、しわ寄せが守備の最終ラインに来る。
・ボールに行くのか、行かないで下がるのか。縦パスのコースを切るのか、敢えて縦に出させて味方で囲むのか、などなど。
・では、ディフェンスは守っていればいいのかというと、そういうことでもなくて、今は攻撃の組み立てはセンターバックやサイドバック、場合によってはゴールキーパーから始めることが多い。
・攻撃の選手が攻撃を始めるのではなく、攻撃の選手は詰め将棋でいう最後の一手。
・攻撃の選手が守備をして、守備の選手が攻撃の組み立てをして、真ん中の選手はバランスを取ったり、守備を重視したり、攻撃のコンビネーションに参加したり、あるいは意表を突いて攻撃の最後の一手になったりする。
ここまではある程度同意する。が、そこから先はあまりにもサッカーの本質を無視した議論。
・現代のサッカー監督は、緻密で複雑な詰め将棋を解ける人。感覚的に処理する野球の元巨人監督の長嶋茂雄みたいな人は少なくなっていて、野村ID野球的になっている。
・もともとサッカーは偶然に左右される神頼みなスポーツであったのだが、現代では偶然に起こるすべての事象を理論的に支配しようとする試みで満ちている。神への挑戦であり、神への挑戦者同士の対決なのだ。
・だから、勝敗が付いたときは偶然ではなく、何らかの理由がある。選手が頑張ったからというのもあるにせよ、選手が活躍できるように監督が何らかの細工を行っていると考えるのが普通で、そのへんの謎を読み解いて楽しむがサッカークラスタの流儀でもある。
へぇ、2015-16,2016-17にチャンピオンズリーグを連覇したジダン監督 (註1)や、2015-16シーズンにプレミアリーグで奇跡のジャイアントキリングを起こしてレスターを優勝させたラニエリ監督は『緻密で複雑な詰め将棋を解ける人』なんですか~(棒)
サッカーはボールを足(+時々頭&胸)で扱う関係上、不確定要素が非常に多く、結局のところ良い選手というのは『戦術理解が高い』だけではなく、『イレギュラーな事態にも強い』選手である。
加えてサッカーは他競技と比べて、点の入ることが著しく少ない競技だ。
だから試合レベルでは、『敗因は、たまたまこちらのシュートが全部止められた上で、たまたま相手の1本だけのシュートが決まったことです』としか言いようのないことも多い。
もちろん、これも長丁場のリーグ戦ならばある程度は収束する。だが、トーナメントや、W杯の3試合しかないグループリーグではそのような確率の偶然と向き合わずにはいられない。まったく、たまたまネスタとマルディーニとジダがミスして逆転されなければ、03-04シーズンは普通にミランがCL優勝していたはずで、そうすればモウリーニョにでかい顔させずに済んだんだよ(究極のタラレバ)。
その辺の『偶然といかに付き合うか』がサッカーの戦術ではあるが、試合を見てもインタビューを聞いても、名監督と言われる人たちが全員『確率を支配しようとするような、神への挑戦』をしているとは思えない。『神の気まぐれと上手く付き合おう』派も多いように感じる。
2.ザッケローニとハリルについて
・もちろん監督の良し悪しというものはあるが、日本代表の場合チェスがうまいという理由でザッケローニ監督を呼んできている。
・一方で、ザッケローニ監督は、強力な戦術の骨組みを持つ強力なチームを作ることには長けていたが、相手の出方に応じて、こちらのやり方を修正することが得意な監督ではないことが、ブラジルでの敗戦からわかった。
・なので、ロシアワールドカップに向けて、最先端の戦術に通じている上、相手の出方に応じて作戦を変えられる監督を探してこようということになった。
ここはある程度正しいが、次の部分で少なくとも書き手がザッケローニすらまともに見ることが出来ていなかったことも分かる。
・そんな中でブラジルワールドカップでは、選手の一部が「自分たちらしいサッカー」(用語が違うかも)を言い出して言うことをなかなか聞かなくなったと言われている。
・仮に選手の意見が正しかったとしても、監督のプランは狂うので、次善策を持って対応するしかなくなる
・もし、選手達がアルベルト・ザッケローニの思い描く戦術を再現するために必死になっていたら、結果は違ったかもしれない。という思いが、サッカークラスタにはある。
・なぜならブラジルワールドカップでは、日本がどういう戦術を使うか、どんな選手を使ってくるかが相手にチームにバレていて、丸裸の状態で惨敗したからだ。
『もし、選手達がアルベルト・ザッケローニの思い描く戦術を再現するために必死になっていたら、結果は違ったかもしれない。という思いが、サッカークラスタには』ありません。遠藤と前田遼一の調子が良ければ、という思いならばある。
ザックジャパンは非常に左右非対称なチームで、左には長友、遠藤、香川と比較的テクニックのある選手がいて、そちらのサイドで崩して、当たりの強さのある前田遼一と本田、あるいはダイアゴナルに走り込んでくる岡崎が決めるという戦術を取っていた。
これが遠藤が(オーバーワークで?)調子を落とし、香川がマンUで試合に出られなくて試合勘を失い、前田遼一が(体調の問題なのか)Jリーグでゴールを決められなくなったため、本番ではコートジボワール戦で上手く行かず、本田をトップで使ったり岡崎を左に回したりせざるを得なかった。そしてそれが上手く行かなかったというのが直接的な敗因だ。
もちろん、相手も日本代表の基本システムには対策をしていたし、逆にザックもそれを分かっていて何度も何度も得意の3-4-3を親善試合で試してはいた(が、3-4-3は最後まで上手く行っていなかった)。
・ハリルホジッチ監督は、当然のことながら、相手のスカウティングを警戒して手の内を隠していた。試合に勝って渋い表情をしたり、負けたときに敢えてにやりとしたり、あるいは絶望的な顔をしたりするのも、作戦の1つではないかと予想していた。
・ワールドカップの本番になれば、あの時のあの顔にはどういう意味があったのかとか、あの試合では実はこれをテストしていたんだとか、ハリルホジッチの仕込んでいた作戦がようやく明らかになると思っていた。
・稀代の策士がロシアでどう戦うのか。もし全然通用しなかったということになれば、それを踏まえて新しい一歩を踏んでいけばいい。逆に、うまくいった部分があるならば、そこを日本の長所として伸ばしていけばいい。
・サッカークラスタで、ハリルホジッチのやりたいことがすべてわかっていた人など誰もいない。一般人にわかるようなものであれば相手にも当然バレる。メディアの人間にもわからない。
・すべてはワールドカップの本戦での戦いぶりを見た上でないと判断できなかった。だって、3年も準備させてきたわけだし、我々サッカークラスタは3年もハリルホジッチのサッカーを見てきたわけだ。
この辺はある程度は同意する。確かに、少なくともザッケローニよりは、あるいはジーコよりは相手に合わせるサッカーが上手い監督ではある。
・そして、ハリルホジッチが解任される可能性はほとんどなくなっていた。なぜなら、宿敵オーストラリアを完封するという離れ業を見せ、ワールドカップへの出場を決めていたからだ。
・ワールドカップへの出場を決めるというのは、決して当たり前のことではなく、大きな功績の1つだ。予選を勝ち抜いているのに解任されるとしたら、過去の犯罪がばれるなどの大きなスキャンダルでもない限りはあり得ない。
だが、この部分は同意できない。少なくとも今のアジアは4.5枠あり、日本韓国オーストラリアあたりは出場を決めて当然レベル(サウジアラビアもかつてはそういう国だったんだけど、2010,2014と連続で逃した。2018は予選突破した)。しかも韓国にしても調子は落ち気味だし、オーストラリアは何を思ったかこれまで得意としてきたパワープレー中心のサッカーではなく真逆のパスサッカーを導入しようとしてあまり上手く行っていない。
ハリルがオーストラリアを完封したのも半分はオーストラリア側の自滅でしかない。
・そして、ハリルホジッチは、相手に勝つ確率を少しでも高めるためには、選手の人気にはこだわらず、対戦相手との戦いが有利になるような選手を選出しようとしたはずだ。
・ハリルホジッチ監督が選手をえらび、ハリルホジッチ監督のプランで、ハリルホジッチ監督の作戦でワールドカップを戦うのが当たり前だ。
・しかし、もっと忖度してくれという。人気がある選手が出場していないと困るという大人の事情があったりする。
・サッカークラスタも大人なので、大人の事情があることはわかっている。しかし、ワールドカップという大舞台では忖度していては勝てない。
・ワールドカップで勝利する確率を1%でも2%でも高めるためには、監督の意志を尊重し、代表を外れた選手には納得してもらうように話をし、目当てにしていたスポンサーには、「勝利すれば新しい英雄が生まれます、その選手を待って下さい」と説得すればいい。
・そういうコミュニケーションこそが、サッカー協会の最大のミッションであった。
・しかし、サッカー協会は、コミュニケーションがうまくとれないことを理由にハリルホジッチ監督を解任した。
スポンサー陰謀論や、一部選手の反旗のせいにしたいようだが本当にその見方は正しいのか。
ハリルジャパンが続いていたら『外れるのはホンダ。ホンダケイスケ』になったかは、最終的にはハリル本人に聞くしかないが、(一部のアンチが言うほど)明確でもない。結局はW杯予選でも最後まで使っているし(註3)、最近はメキシコで試合に出て調子を取り戻している。
香川に関しても今回の遠征では吉田、酒井宏などと共に名指しで『怪我明けだし、まずはクラブで試合に出てコンディションを戻してくれ』と言っているから『本戦で試合に出られたか』は別として『本戦に呼ばれない』ことは恐らくない。
それ以外で、本当にハリルが外している選手というのは誰だ。岡崎か。だが、そもそも岡崎本人や彼を起用したがるスポンサーにそんな発言力があるのか。だいたい、岡崎を名指しで使ってほしいと思うスポンサーがいるほど岡崎は人気選手か。
それに、起用されていない選手が不満を持つのはある意味仕方ない。それでキャバクラで騒ぐのはダメだけど(註4)。だが、サッカー協会の聞き取り調査で長谷部なども不満を言っていたそうだし、大迫や昌子も試合後コメントで不満を顕にしていた。それはもはや、ハリルが選手を掌握できていない証であり、部下を管理できない上司が無能扱いされるのはどの世界でも同じ事だ。
結局のところ、『相手に合わせたサッカー』をするにせよ、『相手に合わせたら逆算してこうなるケースとこうなるケースが考えられるから~』程度の予測は立てて準備をするはずであり、ハリルジャパンはその準備すら上手く行っているようには見えなかった。だから解任された。それだけに過ぎない。
もちろん、ハリルは『相手に合わせたサッカー』をする人だからという言い訳はあるのだが、それにしても直近の試合、特にウクライナ&マリ戦は酷すぎた。
兎にも角にも、(ハリルだったら上位に行けたかは別として)西野監督がGLで敗退したらその時点で猛烈な批判を浴びるのは間違いない。最終的に結果がどうなるかは、3ヶ月後に判明する。
(註1:ジダンに戦術が無いというつもりはないが、ジダンの戦術は最終的に『1対1ならば勝てる』という極めてレアル・マドリッドらしい前提に立っており、選手が調子を落とした今シーズンはそれに代わる戦術をとうとう用意できずにいる。)
(註2:イタリアの名将だが、基本的に守備的な戦術を取る監督であるためにしばしば攻撃の選手と対立を起こし、ミランでもユヴェントスでもレアル・マドリッドでも選手や会長と対立して辞任するはめになった)
(註3:トルシエが親善試合などで小野伸二&中村俊輔、市川大祐&波戸康広を試合に出して何度も天秤にかけ、最終的に中村&波戸は代表そのものから落選したという事例もあるので試合に出ている=本大会に呼ばれるとは限らないが)
サカオタ増田です。
普段サッカー関連のブクマではあまり見かけない一部idの、今回の解任劇について怒り嘆くタイプのサカオタを嘲って小馬鹿にするようなブコメに反論をしたくなった。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.footballista.jp/interview/44512
増田はサカオタなので、Jリーグ欧州各国リーグやACL、CL、CWCなどのクラブチーム選手権、W杯、EURO、コパアメリカなどの国別対抗戦や、欧州の親善試合やら予選なんかも隙あらば見るくらい、雑多にアホのように、現地で、または画面越しにサッカーを見ている。特にW杯やEUROなんかの国別対抗戦は短期開催&時差で寝不足フラフラだが見る。
そんな増田が、W杯のような国別対抗戦を楽しいと感じるその最大の魅力は、「抗えない俺たちのサッカー性」への哀愁である。
スーパースターのスーパープレーや、ダークホースの快進撃や、うちの子(応援しているクラブチームから選出された代表選手)の活躍をハラハラドキドキと待ちわびたり、という楽しみは当然である。
が、1か月寝不足でフラフラ、仕事にも支障が出かねない鑑賞行動を取るのは、出場各国のそれぞれの「俺たちのサッカー」からの逃れられなさに、しみじみと浸るのが本当に楽しいからだ。
サッカーにあまり興味がない方の中にはひょっとしたら驚く人もいるかもしれないが、今年のロシアワールドカップには、イタリアとオランダは出場できない。どちらもサッカー強豪国である。
イタリアはW杯優勝歴4回でドイツと並んで優勝回数歴代2位、オランダは優勝こそしたことはないが決勝や準決勝の常連の強豪国である、が、彼らは欧州予選で負けた。
世代交代に失敗したということもある、イタリアについては自国リーグが汚職やらなんやらでスッカスカのぼろぼろになったこともある。欧州予選がとてもしんどいという大前提もある。
イタリア、オランダ、どちらの国も、激しく「俺たちのサッカー」な国である。
イタリアサッカーは緻密な戦略に基づいた堅い堅い守備が特徴、オランダサッカーといえば華麗なパス回しとサイドアタッカーによる全方位性・攻めダルマサッカーである。これはもう、増田が子供のころの何十年も昔からずっとそうである。イタリア代表も、攻撃的にならなきゃだめなんじゃなかろうかと変化しようとした時期もあったが、結局上手くいかずW杯予選に敗退した。オランダ代表が守備を見直そうとした感じは伝わってこなかったがw(その辺もオランダらしくて大変カワイイが)、偉大なるロッベン、ファンペルシの後の世代交代もイマイチで予選に沈んだ。
増田が観察している限りでは、彼らは、変わりたくても変われない、捨てられない俺たちのサッカー性を抱きしめて当惑し悲しんでいるように見えた。
サッカー強豪国かつサッカーが文化になってる国(日本における野球例えや相撲慣用句と同様、サッカーが文化になっている国はサッカー例えが日常的に使用されたりする)では、むしろ「俺たちのサッカー」は、勝てない理由になるようなものでもあるのだ。
W杯本戦には出場できるが、イングランド(まるでラグビーのようなラン&放り込みサッカー。あれはあれで良いものだ)や、スペイン(世界中で流行したティキ・タカもこの数年は斜陽)も、「俺たちのサッカー」を抱えて、長い不遇の時を過ごした経験がある。
この10年ぐらいでサッカー見だした人はスペイン強くて当然と思ってっかもしれねーが、それ以前のスペインはむしろ「無敵艦隊wwwww」と笑われる、見てておもしれーけど勝てないと言われるサッカーをずっとやっていた。イングランドも、現代ではそのサッカーはもうアレでナニだと自国民からすら思われているが、ずーっと牧歌的な筋肉量がものを言うサッカーをやっている。スペインは変わる気なさそうだがイングランドは変わろうとしては失敗している。
ヨーロッパ勢だけではなく南米勢もだ。ブラジルが母国開催のW杯でやらかしたのは記憶に新しいと思う。ブラジルは強い個性でクリエイティブなプレーを見せるのが俺たち!という「俺たち観」があるが、それでは勝てないねとなりリオ五輪ではなりふり構わず「俺たち観」を引っ込めて優勝を勝ち取った。南米のもう一つの雄アルゼンチンは、歴史背景もあってイタリアに似た性格悪い系の守備が堅いサッカーである。そういえばアルゼンチンはコンスタントにW杯や南米大会で結果出してるからか、あまり「俺たち性」に対して疑義を抱いている様子がないように見えるし、「アルゼンチンのサッカーは底意地が悪い」みたいな言われ方に誇りを持っている様子すら感じられたりするときがある。実際すごい良いですよアルゼンチンのサッカーね。ほんと好き。
W杯で優勝したことある国の数は8カ国しかない。ブラジル(5)、イタリア(4)、ドイツ(西含め4)、アルゼンチン(2)、ウルグアイ(2)、イングランド、フランス、スペイン(各1)である。
ウルグアイの意外っぷりが際立つが、増田はJリーグで、フォルランが若干気の毒な状況下であっても見せてくれた素晴らしいプレーの数々を生で数度見ているので、ウルグアイやっぱすげーなと妙な納得感もある。
つい増田の好きなサッカー話に脱線してしまう、フォルランは置いておいて、たった8カ国しか優勝していないのがW杯であり、並んだ8カ国の顔ぶれの納得感がすごい。
どの国も「俺たちのサッカー」を愛し、その愛の深さ以上に俺たち性に由来する辛酸を舐めてた長い歴史もともに持っている。これが文化であって、このレベルに来てはじめて「俺たちのサッカー」なのだろうと思う。
翻って、日本は。
「俺たちのサッカー」探そうぜ!とひとつなぎの財宝を探すようなキラキラしたオールマイティのお宝だと思っていないだろうか、みなさん。
ショートパス中心、バイタル小さめに保ちながら俊敏性と組織力で相手をかき回す華麗なサッカーが、日本における「俺たちのサッカー」なのだろうか。
本当に?
思い出してほしいのだが、日本がW杯に初出場して以来、あまり多くはない勝った試合のほとんどすべてが、相手の攻撃や崩しにしつこく食らいついて、ボールをハラハラ爆弾のように皆で回しながらキープして、耐えて耐えてワンチャンでゴール、というパターンのほうが勝ち試合のパターンとしては多いのではないか。俊敏性と組織力に加えて持久力でコンタクトの弱さを補う、ど根性サッカーだろう。
自分が応援してるチームの試合って見ている時はアドレナリンが出てるし、勝とうもんならもういろんなこと忘れてしまうが、実は国際試合における日本代表の「勝ちパターン」は、ど根性サッカーである。個の選手のキープ力がない分パス回しでなんとかしのいでるのを、「俺たちのパスサッカー」と勘違いして見ている人も、実は少なくないのではと思っているのだ、増田は。
観戦してると興奮だけはあるんだよど根性サッカーって、手に汗握るシーンも増えるし。その興奮を充実に置き換えて「パスサッカー=充実」みたいに勘違いしてやしないだろうか。何のためのパスなのか、というところまでちゃんと「パスサッカー」なのだろうか。
増田は、今の日本のサッカーでスペイン代表やFCバルセロナのようなティキタカが出来ているとは全く思わない。しあと10年ぐらいでも出来ないんじゃないかと思っている。代表で見られるパス回しはどちらかと言うとハラハラ爆弾型であって能動的なパス回しからの崩しなんてさせてもらえないことのほうがほとんどだし、Jリーグを見ていても「プレッシャーがかかった中で正確なプレーができる」という日本サッカーの大きな課題はあまり克服されていないよなぁ…としみじみ感じる。これは欧州でやってる日本人選手でもなぜか代表戦になるとプレーの精度が落ちるので、こういうのが日本の「俺たちのサッカー」なら、増田にとっては納得感はすごくあるのだ。
コンタクトプレーじゃ勝てないからビクビクとパス回ししてワンチャン狙いだ!という、チマチマしたサッカーが「俺たちの日本サッカー!」と自虐的に誇るのであれば、増田も大いに賛同できる。
だが、多分だけど「俺たちのサッカーを!」と簡単に言う人たちの頭の中の俺たちのサッカーはもっと格好いい、W杯獲った時のスペインみたいなの想像してるのではないだろうか。
あと今の日本式の「俺たちのサッカー」ではW杯を獲れる日は金輪際来ないと思う。もっと先に獲るべき国がある。攻めダルマ・オランダとか。永遠の当て馬・ベルギーとか。チリやメキシコなんかも日本よりずっとW杯に近い。どころかそのうち中国あたりに抜かされても全然おかしくないと思う。
日本らしいサッカーを、オールジャパンで、という言葉は、JリーグからCL、国別対抗戦まで舐めるように消費するサカオタにとっては、虚しさと「他の強豪国ばかにすんでねーわ」という怒りである。
繰り返すが、「俺たちのサッカー」は、それを手にしたら無敵になれるようなものではなく、むしろ「逃れられない俺たち性という弱点」の裏返しでしかない。
たくさんのサッカー強豪国が、「逃れられない俺たち性」の上に、対戦相手に最大のリスペクトを払いながら相手を打ち破れる「穴」を探してつけ込める戦術を叩きこんで、それでも勝てないかもしれないのが、ワールドカップという大会なのだ。強豪国オランダは一度も優勝したことがないんだぞ。EUROで20年以上前に一回優勝したことがあるっきりだ。それでも増田はサカオタとして、オランダ代表の捨てられない俺たち性を目撃しては哀愁と感動を覚えるのだ。それがサッカーだと増田は思う。「俺たちのサッカー」がまるで希望のカードのようにありがたがることが、かなりくだらないことだと思う
あーあと、元のフットボリスタの記事は「短期決戦のW杯のチームの作り方はクラブのチームの作り方とは違う」という話がさわりの一つだと思うのだが、そのあたりについて言及しているブコメがなかったのも、君らもうちょっとこう、小柳ルミ子のように年間2000試合とは言わんけどもう少しちゃんとサッカー見てからわしらサカオタのこと馬鹿にしてほしいわと思いましたよ。
なぜ怒り嘆いているかということ自体、具体的なひとつひとつについては、下記のnoteがよくまとまっていると思ったので言及はしない。
https://note.mu/hatonosu/n/nac5433ccc430
ただ、この記事のブコメ、http://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.mu/hatonosu/n/nac5433ccc430 の中で一つ、文句を言っておきたいブコメがある。
ハリルホジッチ監督の手腕をどの程度評価するかは、その人のサッカーの好みの問題と何を目的にしているかによってかなり幅広に分布すると思うが、100点満点の高評価だという人はいないと思う。あくの強い監督であることは有名だったし、サカオタ界隈では就任時からこれは揉めるぞーと冗談が交わされていた。ただこの時期にそんな理由で解任されるほど低評価だとは思えないということと、その理由が子供じみてばかばかしくて、未来がないから怒っているということのほうが大きい。元のnoteの記事から読み取れるかと思うのだが…、単に上げ足を取りたいのだろうか。
付け加えると、ハリルホジッチ監督をことさら低評価に喧伝していたのは、主にスポーツ新聞や老舗系サッカー雑誌のネット記事中心、要するに「旧メディア」側だということは言っておきたいのと、彼ら旧メディアのバッシングはトルシエの時のほうがむしろ激烈だったなーとか、オシムが代表監督だった時もオシム特有のけむに巻く言葉の尻を捕まえてイライラさせられる記事を垂れ流してたなーとも言っておく。もっといえば、JFAのちょうちん持ちのような記事が出来る理由は、PV乞食な側面もあるだろうが、W杯本戦や再来年の東京五輪の取材融通やメディアパスの確保量を考えた忖度はあると思う。
長々しい文章をつづっているうちに2時間が経過し、なでしこの予選も、忖度モードでオーストラリアとともに本戦進出が決まりそうである。いやーめでたい。
男子代表は俺たちのサッカーを貫くのだろうから、その俺たち性から醸される悲哀を私も楽しむことにする。もちろん応援もするが。
感想戦では、天彦名人の敗因はよくわからない、という結論だったらしい。
ニートのおれは2chと棋譜速報で観戦していたんだけど、2chはソフト評価値がべたべた貼られてはファンタ連呼の通常運転。
でも昨日はガチ勢の人が一人いて、AWSクラスタ使った局面評価を貼ってて面白かった。
ネラーなんて粒ぞろいのアホだから、彼もしくは彼の貼る評価は「スパコン」と呼ばれていた。もちろんスパコンではないので、ガチの人は最初のうちはいちいち否定していた。
計算速度は桁違いで、個人用PCでせいぜい数億ノード(=局面)しか読めないところ、200億ノードとか読む。
ゆとりがApery使って羽生-600とか貼る局面を、羽生-1300とか評価する。凄い。
最新の評価関数で毎局面数億ノードも読めば、間違いなくトッププロより強い、強いはずだ、強いんじゃないかな?。
でも最近の羽生は、その程度のソフトの読みをさくっと越える場面がままあるという困ったちゃんだったので、圧倒的ノード数の「スパコン」は畏怖と期待をもって迎えられた。
肝心の将棋は、スパコンが羽生-1300と評価した局面から、天彦名人が並みのソフト検討陣ならさすがアマピコと称賛する指し手を続け、羽生が勝った。
スパコン目線では天彦名人は悪手連発だったのだろうが、それは人類には理解できない。
前述したように感想戦でも結論は出ない。間違いなく羽生自身もわかっていない。
ただ羽生は、恐ろしく難しい局面であることだけは理解できていて、あえてそこに誘導したのだと思う。
切った張ったの挙句に優劣不明の局面に至ることで対局相手を消耗させる(何故か自分は消耗しない)、という、鬼畜羽生らしい勝ち方だった。
羽生衰えたと言われて久しいが、まだまだ羽生は、1分将棋にならない限りはスタミナ負けしない。
ちなみにあの「スパコン」は、もちろん電脳戦よりも圧倒的にハイスペックで、コンピューター将棋選手権よりも圧倒的に持ち時間があったので、つまり公開された限りで歴史上最強の将棋指しだった可能性があると思う。
その場に居合わせて本当に良かった。
もちろんやれば誰でもできるんだけどね。
ここまで筆者の属性を書いていなかったが、自分はラブライバー兼ガルパンおじさんで、最近はリズと青い鳥やヤマノススメ3期を待ちわびている、キモカネおっさんの中では結構残念な部類に入ると思う。
そんな自分にとって2018冬アニメの一押しは、ゆるキャン△と宇宙よりも遠い場所の2枚看板に無事収まった。
タイトル通りだが、前者を静とするなら、後者を動と言っていい、どちらも極上過ぎるエンターテインメントだった。
親エントリは両方を3話まで見た時点で「尊い」と書いたが、これは撤回させてもらう。
全話完走して、両者はそんな形容じゃ済まない、まさに神々しい作品というのが結論である。
というか、この2作品にポプテピピックを合わせて、少々気が早いかもしれないが、平成の最後を飾る名作が出揃い始めた、そんな気分になっている今日このごろ。
ちなみに平成を代表するアニメはエヴァでほぼ確定かな?別にセーラームーンでもプリキュアでもいいけど。
そんな台詞をつぶやく「ゆるキャン△おじさん」が出てきても全く驚くに値しない。ゆるキャン△はそれくらい「美味しい」アニメだった。
前にも書いたが、冬キャンプなんてどう考えてもゆるさの対極にありそうなネタで、ここまでゆるく、そして趣味が良い内容に作り上げるだけでも驚嘆モノである。
その上で、
「どちらかがアクションを起こさなければ何も進展しないが、同時に双方の等価交換で収まるくらいに留めるべき」
というコミュニケーションの原則を決して崩さない中で、登場人物たちが仲良くなっていく過程が、見ていてここまで面白く、かつ最高に優しい時間になるとは知らなかった。
筆者は原作未読だが、聞けば原作とアニメオリジナル部分が超シームレスにシンクロしていて、原作クラスタの諸兄も大満足なのだとか。
何よりもまず原作ファンを最も大事にする姿勢は素晴らしいし、それが当たり前になって欲しい。
その原作について、2期を作るにはストックが足りないというファンの見立てが正しいなら、いっそガルパン形式(劇場版+OVA)にしてみてはどうだろう。
というか、そんな事を思ってしまうくらい、これからもずっとこの5人の時間を見ていたい。
全話神回という、恐らくは前人未到の記録を打ち立てた大傑作、それが宇宙よりも遠い場所という作品だった。
未見の人はニコ動に課金するなり、来月以降BS11での再放送なりで是非見て欲しい。絶対にがっかりさせないことを約束する。
南極をテーマにしつつ、描かれる内容は結構日常的なのに、まさしく「青春はジェットコースター」という、爽やかなアツさを見る人に否応なく植え付けてくるのが素晴らしい。
「青年は荒野をめざす」という言葉があるが、それを現代に体現しているのかもしれない。
そして「旅」を意識する限り、青春は若者だけのものではないという意味合いもあるのかなーと思わされた。
更に本作品で描かれる旅の根幹は、宮沢賢治の名作「銀河鉄道の夜」に通じる要素を感じたり。
そんなこんなで、とにかく最終話の最後のカットまで文字通り全く見逃せない。本当に寸分のスキもなく面白く、更にその面白さを超える感動をもたらしてくれた。
その感動は、今や制作陣への感謝の気持ちとなって胸にあふれている。
それにしても今冬は寒かった。
DGX-1 | DGX-2 | DGX-1比 | 参考DGX-1*3 | ||
---|---|---|---|---|---|
価格 | $149K | $399K | 268% | $447K | |
消費電力 | 3.2kw | 10kw | 313% | 9.6kw | |
CPU | Xeon E5-2698(20core)*2 | XeonPlatinum(28core?)*2 | 140%? | Xeon(20core)*6 | |
Memory | 512GB | 1.5TB | 300% | 1.5TB | |
GPU | Volta*8 | Volta*16 | 200% | Volta*24 | |
GPU-Memory | 128GB(16GB*8) | 512GB(32GB*16) | 400% | 384GB(16GB*24) | |
SSD | 1.92T*4 | 30TB | 375% | 23TB(1.92*12) |
値段2.5倍、消費電力3倍をどうみるか。
用途によってはDGX-2(Volta*16)よりDGX-1を3台(Volta*24)とかのほうが・・・。
消費電力高そう。
上記の比較でCPU数同じ、GPU倍、で多分増えてるPCIeスイッチ増加分にSSDやメモリ増量を含めても消費電力3倍以上というのは・・・。
上記の表から単純に考えて NVSwitch12個の消費電力+(PCIeスイッチ*X) = Xeon*4 + Volta*8 - HBM2 128GB分 - SSD7TB分。NVSwitch1つで数十Wはありそう、100w超えるかも。
18Portある。
GPU-Switch間は各GPUから6Switchに1Portづつ接続。Switchの8Portを使用。ここまでは確実だと思う、これ以外の接続思いつかない。図みたらそうっぽい。
問題はSwitch間がどうつながるか、6基づつで1クラスタ、クラスタ内はSwitch間接続不要、クラスタ間は別クラスタの1SwitchにGPU接続数と同じ8Port使用とか?(合計16Port使用)
全然違った。クラスタ間は別クラスタ6Switchに1Portづつだった。
消費電力は1つ100w。12個Switchで1.2Kwだと。GPU間そんなつかわないならSwitch減らしてGPU増やしたいところ。
https://news.mynavi.jp/article/20180404-611133/
いや、クラスタ間は予想通りだった。そしてSwitch減らしたいというのは同意。
https://news.mynavi.jp/article/20180418-617343/
http://b.hatena.ne.jp/entry/p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20180320/1521541181
呼ばれた気がしたので出現しました。
例によってなんの躊躇もなくクソ長いです。
現在もインターネットのどこかにおりまして、しまりんとなでしこのどっちの寝袋の空気を吸って過呼吸で死ぬか悩んでいる毎日です。吸って吸って吸って死にそうでも吸う。だいたいキャンプしてるときはお風呂入らないで寝袋に入るわけじゃないですか。そりゃ寝袋のなかはけっこう大変なことになってますよ。なでしことしまりん、どっちが強いかな、なでしこのほうが寝汗とか多そうだな♡とか考えるじゃないですか。あと斉藤さんはしまりんのことが好きすぎて大変だと思います。どうでもいいんですけど、消滅したはずのアカウントでいまでも増田だけログインできるのこれなんなんすかね。
まあ7年だっけ? 8年だっけ? よくわかんないですけど、それくらい経ったいまでもはてな村の話題が出るとお呼びがかかるくらいなので、俺も村の内部にいた人間ではあるのでしょう。なにしろ奇譚にも取り上げられたくらいなので。あれめっちゃ喜んで「ほらこれ俺、俺だから。伝説だから俺。まじで」とかうちの奥さまに報告に行ったら「トイレ行きたいんだけど。あとで聞くから」って言われてそのまま無視された。
というのも、俺、自分が村民扱いされてたなーっていう感じがほとんどないんですよね。理由ははっきりしてて、ブコメにほとんど目を通さないことと(批判されると死ぬ生物なので)、ふっかけられた議論をスルーすること、あと村内部のもめごとみたいなのにほとんど興味を持たないことです。いや、いちおうはがんばってみたんですよ。なんかこう村っぽい話題には積極的に首突っ込んでみようとか、馴れ合ってみようとか。てゆうか俺はもともと強度の馴れ合い体質で、おともだち以外は興味ないタイプの人なんですけども。なんか村に入れてくれよぅみたいな日記も書いた気すんぞ。
俺のことを知ってる人はけっこう多いと思うんですけど、相互に認識してると「俺が思ってる」人となるとぐっと数は減って、シロクマせんせーと加野瀬さん、あと有村さんは微妙かなーというところ。村民に当たるかと認識されるてかどうかはよくわかんないですけど、まなめさん(ご結婚おめでとうございます)(遅い)もか。や、当時はほかにもいたと思うんですけど、俺リアルでもわりと人間覚えられない人で、集まり的なものに参加すると、うちの奥さまが俺のかわりに記憶装置やってるくらいのもんなんすよ。シロクマせんせは会ったこともないですけど、勝手におともだちだと思っています。最新の著作のKindle化はどうにかなんないんですか。俺もう紙の本増やしたくないです。……と恒例のことをつぶやきつつ念のためアマゾン見に行ったらKindle化されてたのでいま買いました。すぐ読みます。
で思うんですけど、結局「俺が参加できなかった」っていうそのポイントを押さえてた人が「村民」だったと思うんですよね。はてな村ってツイッターのクラスタなんかと違って、コアとなる集会場みたいなのないじゃないですか。いや、あったとしても俺が知らなかっただけかもしんないですけど。じゃあなにがそうだったのかというと、はてダだったりはてなブログだったりブコメだったりの、無数の小さな円の重なりみたいなもので、その円の密度が濃い場所にいた人が「村民」だと思うんすよね。ムラ的な話題、たとえばもめごとだとか、そのときはてなで話題になってることだとか、そういうのが出現したときに「だいたいそこにいつもいる人」みたいな感じだったんじゃないかなーと。
はてな村がなつかしいかというと、その当時俺が知っていた人たちは、いまもなんらかのかたちでネットの比較的目立つ場所にいるので、あんまそういう感じはないですね。その気になれば連絡はとれるだろうし。
俺がブログやめたあと、インターネットは大きく様変わりしました。様変わり自体はまあ、時代は変化していくのがあたりまえなので、そういうもんなんだろうなーくらいにしか思ってないんですけど、ただはてな村みたいなコミュニティみたいなものは、もう出現しないんだろうなあっていう感じはありますね。SNSがこんだけ普及して、だれもがなんらかの「発言する」チャンネルを持ってる。
俺が知ってる限りでのはてな村の住民って、基本的には「自分でなんか発信する」ための手段を持ってた人たちばっかりなんですよ。あるいは「そういうことをしないと自分が維持できない」人たち。こう言うと「自分はブコメしかしない」って言い出す人かならず出てきますけど、そういう人たちでも原則としてなんらかの知的な訓練はなされてる人が多いので、その気になれば「人に読ませるための文章」を書ける人が多かったはずなんです。そもそも2010年の段階ですら、いまよりはインターネットは狭かった。
「みんな」がインターネットに参加できるっていうことは、それはもう文字どおり「みんな」なんで、発信する力を持っていない人が多数派なわけです。発信しないことが悪いことだって言ってるわけじゃないですよ。単純に比率の問題です。
まあそんなふうに思ってるので、はてな村みたいに「発信する人たち」の集団がある程度の影響力を持ちうる状況って、そうそう来ないんじゃないかなーと。
まあそんなことを考えておる昨今です。
あと、刀使ノ巫女すっげー不評ですけど、意外におもしろいんで見たほうがいいですよ。咀嚼音のエントリ見てからゆるキャン見るとき脳内にノイズ発生してすごい困ってるんですけど、カトゆーさんとんでもないものバズらせてくれましたね……。俺のいる辺境まで届いちゃったじゃないですか。それとあと「こねこねこねこ」の体験版がものすごい異次元だったので、興味のある方はやってください。
以上です。お騒がせしました。
※追記
知らんわけないでしょK-Onoさん。
自分の中で思っていること。
長いので読み辛い方はスルーで。
私はただの読み専の腐女子だ。二次創作をしないただのオタクだ。
昔よりもオタク活動に費やす時間やエネルギーや情熱が減ってしまった気がする。
このオタク活動というのはアニメ視聴や漫画を読みふけったり、pixivを見たり、生活の中にはいつも必ず自分の好きな作品がある、という感じだ。
以前は友人と興奮してジャンルや推しカプについて話し合ったりし、毎日オタク活動にエネルギーを費やしていた。
流行物があればすぐに飛びついて、いわゆるイナゴというものでもあった。
見境なく色々な漫画やアニメを見たりし、複数のジャンルに同時にハマったりもして、完全に趣味がそれしかないという感じであった。
自分自身もこのオタクである自分が自分であって、それ以外はありえないという気持ちだった。
アニメや漫画を見ること、二次創作を見ることしかしないという生活だった。
私は幼少期から陰キャであり、オタク気質だったため、妥当だったと思う(今も陰キャは変わらない)。
陽キャの人たちとは愛想笑いやその場の雰囲気やノリで話し、陽キャの人たちといる時は何を話したらいいか分からず、苦しかった。
しかし、忙しくなり、新しい年度になり、いつしか日々の生活が変わっていき、友人も変わっていき、オタクであるという自分のアイデンティティや、オタク活動に費やす時間やエネルギーがいつの間にか消えてしまった。
あんなにアニメや漫画、二次創作を見ていたのにパタリと見なくなってしまった。
以前は陽キャの人たちが苦手だったが、環境の変化、新しい生活によって、今では苦手から普通くらいに変化した。
今振り返り、オタク活動をしていた時間は何に変わってしまったのかというと、年度や生活、友人が変わってしまったために、その出来事の変化についていくのに精一杯でただ単にオタク活動をしなくなったというだけだった気がする。
私は昔から鈍臭く、行動も頭の変化も何もかもが人よりも鈍かったために、新しい環境の変化についていくのにいっぱいいっぱいだったため、二つの事を同時に上手く出来なかったんだと思う。
息抜きで、アニメや漫画、pixivを読むということが上手く出来ず、日々の新しい環境、生活を追っていっていただけだった。
そして今現在、あれから何年か経ち生活も落ち着いて、自分自身が穏やかになり、客観的に以前よりも自分をみれるようになったと思う。
生活も自分自身も落ち着いてきているのに、オタク活動のエネルギーや活動時間は以前よりもずっと減ってしまっている。
不器用だった頭も行動も落ち着いて、少しは二つの事を同時に出来るようになってきたのに、オタク活動に費やす情熱は減ってしまっている。
この原因の一つにオタク友達が少ないという事があるが、それは自ら繋がりを作れば良いだけであるし、今はSNSがあり、自ら動けば良いだけである。
しかし、私は自ら動こうともしない。
ツイッターをしているが、クラスタや繋がりたい人フォロー!という流れにも乗ろうとしない。
きっと昔であれば、すぐにリツイートし、便乗していたであろう。
今は本当にひっそりと好きな作品だけ見て、ひっそりと好きな方だけフォローしている。フォロワーは0だ。
流行にも乗らなくなり、流行りのジャンルについていけなくなった。
複数のジャンルを同時に多く好きになるという事は今の自分にはエネルギーが多く必要であり、以前よりも出来なくなってしまった気がする。
世の中には素晴らしい作品が溢れているのに、それが分かっているのに私はその作品に触れようとしない。
忙しい、時間がない、他にやる事がある、いつも言い訳をして違う事をしてしまう。
きっと昔よりもずっと臆病になり、億劫になってしまったのだろう。
昔のようなあのキラキラとした友人と語り合った好きな作品に対する無限の情熱は今は減ってしまった。
結局何が言いたいのかよく分からず、まとまりが無くなってしまったが、オタク活動に対する姿勢や考え方をを改めて感じ、考えてみた。
「アホの子」についてブコメ等で宜しくない旨ご指摘をいただきましてありがとうございます。そして申し訳ありません。
言い訳をしますが、彼ら彼女らと私との間に、愛と信頼できる(と、こちらが一方的に思っているだけかもしれないが)人間関係がある前提で使ったのでした。読み返してみたら確かに気分の良くなる言葉ではないですね…。増田は聖人君子でもなければ天才でもないので言葉のTPOを間違える。申し訳ありません。
現在の仕事は教育関係ではありません。ごく一般の会社員。教員や教育関係に就こうとは思ったことはないです。あの仕事こそ増田なんかよりも聖人君子に近い人がなるべき仕事で、更に言えばもっと報酬と人手を割くべき仕事だと思っています。私にはとても無理。
あまり広くない世界で働いているので詳細はぼかしますが、口悪く言えば大人に対して同じようなこと「一緒に何が原因でこういう事態に陥ったのか考えましょう」という感じの仕事をしています。かなりダメ社員で成績は悪いし出世も遅いです。小さい細かい、そして金にならない仕事ばかりをやっています。その代わり長期間のお付き合いになる案件が多くて楽しくやりがいがありますが、それは会社にとっては更に宜しくない(割の悪い仕事をずーっとやっている)、というお荷物要員です。が、天職だと思っています。会社よ申し訳ない…
蛇足の手本のような追記を、元増田が思い立ったのは、この方法は、増田が開発したものでも、独自に気付きを得たものでもなく、増田の恩師から増田がしてもらったことを子供たちに返しただけなのだということを言わなくてはと思ったからです。ごく一部のブコメに天才とか良い先生だとか、大変気持ちが良く調子に乗ってしまう言葉もいただきましたが、ぜんぜん違います。重ねて申し訳ない。
そういう意味では、増田は凡人ですが、増田の恩師、K先生が天才なのかもしれません。
増田自身がまさに「アホの子」の元祖で、小5~6年の担任を持ってくれた恩師K先生との出会いがなかったら超ヤバかったのです。
増田は、小学校5年生の秋まで、掛け算九九を暗記しないまま素知らぬ顔でいました。
学校の勉強は良くできた方だったと思います。ペーパーテストなどでは基本的には98/100点などがずらっと並ぶ感じ、授業を聞いていれば大体頭に入り理解できる、先生の説明の途中で勝手に教科書の「応用問題」を解き始める感じの子供でした。そして、多動&注意欠陥の傾向が強い子供でもありました。今思えば先生からしてみたら割と厄介だったかもしれません。100点は取れないんですよ注意欠陥っ子なので。歴代の先生全てに「見直しをしなさい」「あとちょっと集中しましょう」と通知表に書かれ続けてきたタイプです。
で、小2で掛け算を習う時に「×の記号はその回数足すという意味です」と先生が言ったのを真に受けて、その回数足せばいいなら九九覚える必要なくね?と何故か曲解して思いこんだ。それから先は、分かりやすい2の段とか5の段とか以外は記憶せず「○回足す」で乗り切った。いや乗り切れるわけがないから、他の教科のテストは相変わらず95点とか98点とかだけど、算数だけ85点ぐらい。馬鹿だったわけじゃないのが災いして中途半端に平均的に点は取れていたから、当時のそれぞれの担任の先生も「増田さんは算数が苦手なのね」程度に判断されていたのだと思います。
ただ、九九を覚えていないと、3ケタ÷2ケタの割り算なんかを解くのが地獄なんですよ。あと倍数とか約数の概念が苦手というか、概念「しか」分かってなくて実践が全然できないという状態。正解できないから面白くない、面白くないから興味がわかない、という状態のまま、分数を学び、少数を学び、速度や割合を学び…、ちっとも理解できてないまま小5になっていました。完全にアホの子のできあがりです。
図形問題や証明問題のようなものや鶴亀算的な文章問題なんかは、式を作るところまでは合っている、が計算を間違う。それも理解できない間違え方をしている。割り算は勘を頼りに予想を立てた数パターンを足し算検証して合ったやつを正解としてみよう(足し算だけで最小公倍数や最大公約数をあてずっぽうで探す要領だったと思います。あんまり思い出せないし再現できる気がしない…)という超絶燃費の悪い解き方をしていたので、その時にイージーな計算ミスをしているだけなんだけど。そして間違わないときもあるので、先生からしたら何で算数だけ点数が悪いのか分かりにくかっただろうと思います。
ところが、K先生はなぜか(後に大人になってから種明かしをしてもらうのですが)、私が九九を覚えていないことを見破ったのですね。
ある日、放課後に一人で残りなさいと言われて、超絶びくびくしながら教室で待っていたら、教科書を山ほど抱えたK先生が、増田の算数嫌いを一緒に克服しよう、と言ってきました。クラスでも勉強ができる方の子供だったし、私より他に勉強を見てやった方が良い(失礼な言い草だな)子がいるのに!と、驚いて、そして腹が立ったのと同時に、凄く怖くなりました。
ばれたくなかったんです、アホだってことを。
ずーっとズルをしてきて、九九を覚えてないズルい生徒だとばれたくなかったし、分かってないのに何となくやり過ごしてただけで本当は何にも分かってないアホだってことも、絶対にばれたくないと思ったんです。K先生は生徒思いで自由なタイプの教師で私はとても好きでしたから、なおさらばれるわけにはいかなかった。なので家で計算ドリルやればいいでしょ!とか、じゃあ塾に通う!とか、お父さんに教わるからだいじょぶ!とか、忘れたけど色んな事を言って逃げようと思った。でも誤魔化されてくれずに、「ひょっとして九九を覚えてないだろう?」と当てられてしまい、号泣したんですね。恥ずかしいのと悔しいのと腹が立つのと色んな悪い感情が渦巻いたのを覚えています。凄く辛かったし恥ずかしかった。
そこから多分数回、K先生は放課後付きっきりで相手をしてくれました。まずは九九を覚えてきなさいと、絶対に役に立つんだから先生を信じてくれ、と言われました。K先生を信頼していたのでその言葉も信じることにしたんです。結果的に信じて大正解、あんなに苦労した計算がこんなに簡単に!と思いました。アホの子丸出しです。
まぁ勘で割り算解いてたわけで、7の段とか8の段とかの九九の深いところがあいまいな程度でうすらぼんやりとは覚えていたのだとは思います。母親に白状したら本屋さんで九九の表のを買ってきてくれたのでトイレと風呂に貼った、小5なのに。でも小5だから本気だせばすぐ覚えられる。
その後は、取りこぼしていた分数(九九が分からないと約分が厄介)、少数(分数が飲み込めてなかったので少数と割合の概念が全く理解できてなかった)、速度(以下同)などなど躓いていた個所を一通り先生と一緒におさらいをしたら、算数でも98点取れるようになった。100点はめったに取れません注意欠陥っ子なので。
一度、放課後に残されている私を同級生の男の子が数人からかいに来たことがありました。優等生と思われていた増田が!と面白かったんだろうと思う。ただでさえ劣等感に苛まれてべそをかきながら(実際に分からなくなるたびにべそべそ泣いていました)教わっているのにクラスメートにからかわれて死にたい気持ちでしたが、K先生が、勉強ができるようになりたいと頑張っているものを笑うな、と怒ってくれたことを鮮明に覚えています。
その後は、からかいに来た生徒たちも一緒に「K先生と算数をおさらいする会」がしばらく続いたように覚えています。最後はかなり大所帯になっていた記憶。ほとんどの生徒から慕われていたのです、K先生は。
大人になってもこのクラスの同窓会は続いています。高校卒業した年の同窓会で、ふと思い出してK先生にどうして九九が分かってないことがバレたんですか?と聞いたら、テスト用紙の隅っこにいつも消しゴムで消した計算跡があって気になっていたこと、ある日消しが甘い時があって見てみたらひたすら関係ない足し算をしている跡のように見えるが何故???というところから、観察をしてみたらひょっとして、と思ったということでした。掛け算を何度も足してたのを気付かれたくなかったし恥ずかしかったのか、証拠は隠滅していたんですね姑息なことに。筆算はそのまま解答用紙に書いてあるのになぜ別の計算が必要?そして何故消す?、というところから類推されていたらしい。本当に些細なことからだったし、それ気付かれてなかったら、下手したら高校にも行けなかったよ私…。
私自身がアホの子であり、アホであることを許して丁寧に付き合ってくれて、気持ちも分かってくれた(九九の概念を理解してたのは増田の良いところだと褒めてくれた、そしてそのあとを面倒がるのは増田のダメなところだと怒られた)K先生から教わったから、私が人を教えるときにそれを使うことができたんです。私が成したことではなくK先生の教えがあったから。
成人式の後に、K先生の家に同級生たちと一緒に押しかけ酒を飲んでいた時、私たちは酔ってゴキゲンで、先生をべた褒め(先生がいなかったら私ヤバかったとか云々)してたら、K先生は、親や教師や目上の者から恩恵を受けたと感じてくれたなら、それを俺に返そうと思わなくていいから下に渡してやりなさい、とおっしゃったんですね。で、それを実践しただけ。
K先生はとても個性的で自由で、保護者の中には批判的に見る人もいたような型破りなタイプの先生で、教わったことはこれだけではなく抱えきれないほどあります。K先生のそのクラスは良い年をした今でも同窓会をするほどのつながりが深くありますが、その中で小学校の先生になった人が二桁いる。割合で言うとクラスメートの2割弱が小学校の教師になりました。私のようなボンクラがならなくても、K先生に感銘を受けた優秀な先生が頑張っていてくれるので、学校の先生は大丈夫。
いや大丈夫じゃないよね…もっとお金と人を割いてほしい。教師になった友人たちもストレートで職に就けた子はいません。みんな1~3年程度、補助教員の仕事にありついてそこからなんとかポストを見つけて、という感じ。ホント酷いよね…。
増田が友人たちを観察している限りでは、学校の先生は「勉強を教える能力」だけじゃなくて、「クラスという集団を統率するリーダーシップ」「学校のスケジュールを考える企画力」「それをこなす運営力」「ケースワーカー」などのスキルが必要で、かれらはこれを一人か二人だけでマルチタスクでで行っています。
あくまでも口と性格と知能に若干の問題がある増田の私見ですが、今の日本はホントに馬鹿だと思います。何で教育予算増やさないでしょうね…。1クラスは40人でも良いけど(ある程度の人数がいた方がクラス内で多様性を許容しやすいと教師の友人が言っていました。少人数だと浮いた子の居場所を作りにくいそうです)、その代わり担任は3、4人居ても全然いいし(そうすれば学校内で個別指導塾的な役割も持てる)、何なら学校行事の企画運営なんかは更に専属で別の担当教師がいるべきだと思います。名古屋市だったかが小学校のクラブ活動を廃止というニュースがありましたが大英断だと思う。課外活動は地域SCなどで吸収できるとしたら理想の形なんですけどね…。
今の学校は、子供も少ないからポストも少なく教師になりたくて夢と強い意志を持って教師になったという人がほとんどだと思います。増田が報告した塾での出来事なんて、彼らにもう少し余裕があれば増田の15倍ぐらいは良い結果を出すと思う。それなのに。
それはともかくとして、増田は、社会人になって初めて下に付いた先輩から「お前はアホで手に負えないが、唯一の取り柄は教わり上手なことだ」と言われました。K先生が小5の秋の夕方の教室で、私を壊してくれなかったら教わり上手に変化することはできなかっただろうと思います。
その他、耳に心地よかったお褒めの言葉などは、心の栄養にさせていただきます、ありがとう!。一方で、疑問や批判的なご意見で、増田にとって都合よく答えられそうなものにいくつか。
そうですね、増田にとって話しやすいことだけを、それもかなりボカして書きましたので仕方ないです。ごめんなさい。実際は大変でした。
adbが分からなかった子は初めて私が「開眼」した生徒なので思い入れも記憶も多いのですが、躓いた場所に気がついた後は、塾が用意しているカリキュラムや教材をほとんど使わずに、まずはアルファベット用の罫線が引かれたノートを拡大コピーして(形状の見分けがついてない疑惑があったので思いっきり拡大コピーして使った)、アルファベットをaから順番に10回ずつ、声を出しながら書き取り練習!をしました。
何よりも、大手のフランチャイズ塾だったのにもかかわらずカリキュラムを無視した指導をしてもいい、と許容してくれた教室長の懐の深さと"寺子屋愛"に甘えられたことと、先生バイト仲間の優しさ(教えるのが大変な子を私が見る代わりに、担当生徒数を減らしてくれたり、私の受け持ちの子を共有で見てくれたりのフォローをしてくれた)があったからというのはとてもとても大きいです。
あと、当然すぎるほど当然ですが、成績を上げてあげることができなかった子供もいました。元増田にも書きましたが、私は成績が普通の子の指導は得意ではなかったです。勉強にアレルギーがある子供の方が、悪い言い方になりますが、つけ入る隙が見えやすいと感じていました。なので、主に「すごく良くできる子」と「すごくできない子」の担当をしていました。あと、すごくできない子で、一人だけ、どうやっても引き上げられない子がいました。詳細は書けないですが、これは今でも思い出すと胸が痛くなる。
■そんなの誰にだって出来るだろー
増田もそう思います。なのでホテントってビックリしています。そして前段に長々と書きましたが、増田の手柄ではなくK先生のおかげだと思っています。
■生徒のプライバシーは?傷つくんじゃねーの?
浅慮だったでしょうか…アホです。問題が起こったら消すかもしれません。ただ連絡を取り合える子供もいるので耳に入って傷ついたと知ったら直接彼らに謝ります。一応最低限はぼかしているつもりです、ホテルはもちろんフェイクです。あとブクマのご指摘にもありますがabdが区別つかない子というのはそれほど珍しいことではないので…。
■学習障害があったんじゃない?
増田は現在でも専門ではありませんし、当時はアホの大学生だったので判断はできません。増田個人に関しては前記の通り「傾向」は確実にあるだろうなーと思っています。調べてはいませんが。苦労もとても多いがそれなりに個性的で愉快な性質だなと受け入れられています。長くなりすぎるので書きませんが、それを受け入れられたのも恩師K先生のおかげだったりします。
■なんでx=数学なのに英語出てきたむかつく!が察知できたのか
前段の通り、増田こそが元祖アホの子だったからだと思います。掛け算は足し算、なら覚える必要なくない?!という思考停止とその後の悔しさと恥ずかしさがヒントになりました。思いこんだことから一歩先に進むことの大変さ。
長くなってしまっていますが、あと一つだけ、とても興味を惹かれたので。
id:sarensongjing さん、ブログ拝見しました→http://xn--9ckk0f4c7781a7r3b.com/taihen.html
mustの意味と使い方が理解できなかった、とかすごい分かります!
増田の経験ですが、英語の理解には段階があったように思います。
私の教えた子はみんなこの辺からスタートでした。まずはアルファベットが呪文じゃなくなるようにしなきゃ、だった
第二段階:意味は分かってないながらも、音読は出来るようになる
音になる=過去に耳から得ていた情報を、英語の勉強に使っていいんだよと理解してもらった。呪文から、普段自分が使っている言葉と地続きの「情報」になるだけで、かなり気持ちが楽になるようでした
第三段階:たまたま知ってた和製英語から類推して、薄ら何を言いたいのか分かるような気がしてくる(気がするだけ)
夜やってるからナイター、でnightは夜!みたいなこと。既に持っている情報を使って新しい知的好奇心が湧いてきたということでもあるかなと思っていました。ただしほとんどの子が、頻繁に間違ったことを言ってくるので可愛くてしょうがなかったです。ダジャレか!
これをしばらく単語覚えゲームとしてやってたら、自然と、接尾語の存在に気付いてくれました。言語は、それぞれ意味を持つ小さなクラスターの集合であるという「概念」が体に沁み込んできたという感じ。理解は、もちろんしていないんですが笑 こうなるともう呪文ではなくなる。
そういえば、nightをナイトと読むというのは、なかなか難しいとこではあるんですが、英語は比較的素直に音とつづりが連関しているので
無理やり読んでごらん?ニグフト!、なんか似てる言葉あるでしょ、えーとえーと………ナイト?!とか、そういう風に付き合いました。
アルファベットを音読できるようになりさえすれば、割とやりようがある。文法もシンプルですしね。
第四段階:文章はどうやら並び順が決まっているらしいと薄ら思い始める
おもしろかったのは、文法の発見よりも、接尾語の発見の方が全員早かったんですよ。単語同士の共通点を探したくなるのかもしれない。-fulとかね。fullがくっ付いたんだよー、だから○○がいっぱい!って意味になる、と言ったら目を見開いてた。
単語も、あるクラスタの集合体である、という理解ができたら比較的早く、文章もあるクラスタの集合体である=文法を発見してくれました。並び順って日本語だって決まってるジャン、と言ったらそれからはすごく教えるのが楽になった。
ここまで理解が飲み込めていないと、助動詞の大切さや意味や力が分からないだろうし、mustを覚えるのはイヤだなと思ってしまったのかもしれないですね…。
増田は、牛よりもゆるやかなスピードで付き合っていました。ある子供は、第三段階で中3の冬だった記憶があります。教室長はハラハラだったと思う…。受験校を決めなきゃいけない時期だったのですが、お母様に、担任の先生の説得をお願いしました。お母様はもっとハラハラだっただろう…、お願いだからあと1回次のテストの結果まで見てくれと。あとちょっとなんだよー!という気持ち