はてなキーワード: 疑問視とは
「これがプロの厳しい世界である。芸能とはこういうものである。文句を垂れる人間は努力をしてこなかった、あるいはしたくない言い訳をしているのである。……というご意見はありがたく賜りたい。しかし、まるで大量生産の既製品を使い捨てるように、次から次へと若い能力を求めては乗り換える……これは搾取ではないだろうか。タレントだけでなく、作品の数も非常に多くなり消費サイクルが速い現代。わたしの大好きな『ポピーザぱフォーマー』の増田監督は、製作過多状態かつ質の低下を憂いつつ、作り手へのリスペクトや利益配分を疑問視している。この問題についてはもっと踏み込んで考える余地があるのではないだろうか。」
ここの部分に出てくる「まるで大量生産の既製品を使い捨てるように、次から次へと若い能力を求めては乗り換える……これは搾取ではないだろうか。」については個人的にはもうそろそろ声優事務所や一部のレコード会社のやり口は(全員食べて行ける様にしろとは言いませんが)人間を育てる方向に舵を切るべきだと思っています。
だってなりたい職業ランキング上位とかって言われている今は良いでしょう、好きなだけ捨て駒だの集金箱だのって出来るだろう、でもコンビニやファーストフード店や格安居酒屋とか固定回線や携帯問わず通信業界の実情とか現状を見れば人や組織の使い捨てなんてやがて限界が来るのは明白。
要するに事務所とかレコード会社とか一部の勝ち組声優しか儲けられない実情と現状が知れ渡って誰もやりたくない職業、泣いて土下座しても人が集まらない職業になった時にどうするんだろうねって事。
そしてそういう時代が来た時にこちらの推しは業界で生き残れるのだろうかっていう不安。曲がりなりにも今期のプリキュアに出ている人もいますがそれでも…
一国の大臣が「我が国の刑事司法制度は個人の基本的人権を保障」とか言っちゃダメだろ
そもそも外国からは、日本の刑事司法制度には問題があると見られている。キャロル夫人が示唆しているように、大きな問題は「自白偏重主義」だ。
自白に頼る日本の捜査については、日本国内でも疑問視されているが、国外でも同じだ。例えば米国では、英語で「日本」「起訴」などと検索すると、なぜ日本は有罪率が高いのかという話や、自供についての記事が上位に現れる。そのうちの一つである英BBCの記事は、有罪率が99%の日本では自供が「絶対的な証拠」になっていると指摘している。さらに容疑者は可視化されていない小さな取調室で自供するまで追い詰められるとも書いている。
米国や英国では、自白に頼る捜査はしない。基本的に、米英では事実のみを争うのだが、日本では動機も裁判で大事な要素となるために自供が重要になる。言うなれば、欧米などでは情状酌量に人情は介在しないが、その分、逆に人権はなるべく保証しようとする、といったところか。とにかく日本では、キャロル夫人が言うように、自供を取るために厳しい取り調べが続けられるのである。
またBBCの記事は「日本人は伝統的に当局に楯突くのは良くないと考え、犯罪者はかなり簡単に自供してしまう」という専門家のコメントを紹介し、実際に身に覚えのない罪を過酷な取り調べの後に認めてしまった人物のコメントも掲載している。つまり、それほど取り調べは厳しいものだということだ。
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1901/17/news007_2.html
Cornellの議論は、ポルノグラフィの危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィは男性をレイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプを輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティの世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的な手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつの表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別は同義語なのである。彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語と行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィが性差別そのものであるという一種のイデオロギーに依存した議論に対する批判そのものである。
もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉を制限的に定義することによって、そうした一般的な議論ではなく、特に女性に対して酷薄なもののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象の問題は不可避であり、言語と行為を限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制の根拠は果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語と行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり、日本におけるポルノグラフィの製作が必然的にそうした女性虐待を表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィの表象が必然的に(fuckerとしての)男性をレイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性の従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。
また、Cornellの依拠するポストモダン・フェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判の対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズムの根底的目的に対して、一定の文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムにコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまり、ポルノグラフィの規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性と被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである。
そもそも、ポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから、女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定の勢力として存在していた。これらは全く女性が使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィの概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性の性的欲望、セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたことからの解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタな二項対立の接続が否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリームは男性が製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリームは男性向けであって、女性向けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィが必然的に男女を社会的に構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。
4. 結び
前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダン的フェミニズムの見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理はポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。
日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定の表現について規制を肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史を判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィの規制は道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制を検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳を可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害が現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からのアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制を正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノ派フェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニストの議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり、特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念が同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。
こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴである。さらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在の規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力や虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段が妥当であるかが問われるべきではないだろうか。
一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制の対象となるのではなく、むしろ一つの「職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知が必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的に正業であると認知されることは、その「職場」におけるハラスメントや虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーン・ハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。
以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。
参考文献
・キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン著 中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィと性差別」(青木書店, 2002)
・ドゥルシラ・コーネル著 仲正昌樹監訳「イマジナリーな領域」(御茶の水書房, 2006)
・大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)
・キャサリン・マッキノン著 森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)
お話しできる相手がいないので吐き出しです。支離滅裂ですみません。
まだまだ新人の推し。初めて3次元でできた推し。本当に大好きで毎日ツイッターで推しの情報や呟きを見ては幸せだった。推しの出るライブも楽しくてラジオも毎回聞いていた。推しはいわゆる旬ジャンルにメインで出演していて、そのジャンルも好きなことも相まって毎日充実していた。本当に好きだった。
でもある日ラジオのトーク中に、「同性同士は付き合えるわけない」と笑いながら言った推しの言葉が信じられなくて、その一言で、一瞬で絶望した。
推しは、隣に当事者がいるかもしれない、それはアップデートがされていない価値観だということに気付かず、考えもせず発した言葉が許せなかった。
自分のセクシャルについては伏せるが、わたしはまだまだマイノリティーが生きるには息苦しいこの国がつらくて、何度も苦しんだ経験があった。
わたし自身のことを言われたかのようにショックだった。悲しかった。
好きな人の口から発せられる差別発言ほど苦しいものはないと気付いた。
もしかしたら当事者ではない、この国で他者から人権侵害だ、差別だ、と思うような言動を受けたことがない人は、その程度、と思うかもしれないが、この小さなタネが普段からたくさん撒かれていて、自分の足元に芽が出てツルが巻き付いているような苦しさがある。
しかし、今まで推しを応援していて楽しかった気持ちも元気付けられた気持ちも本当で、これからも応援したい、次のライブも行きたい、トークショーのチケットだって取れたのに。でもこれまでと同じ気持ちで応援できるとも思えない。
推しが大好きな気持ちと、自分にとってどうしても許せない部分を思いきり踏まれたこと・他のファンは何も感じず盲目的にそのまま彼の発言に疑問視をしないことの不快感がごちゃ混ぜになってしんどい。
とりあえずツイッターのアカウントも消して、推しの情報や仲の良かったファンの情報を遮断した日々を送り、毎日モヤモヤしています。
https://anond.hatelabo.jp/20191019021148
を書きました.たくさんのコメントありがとうございます.もう食傷気味かもしれませんが,追記します.
ただ,この追記は基本的にコメントに対するものではなく,前増田が長文になりすぎたために書けなかった部分についてです.論点はここ数日で既出のもの(リンク)に近いかもしれないです.
https://anond.hatelabo.jp/20191018230535
結論は,「フェミニズムが性的な表現を非難する時には,非モテ男性に与える不平等感について自覚・配慮し,主張をするべきである」というものです.いわば,私が前増田で書いた主張と対になる主張をします.
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前増田では,「『公的な場で,女性を男性目線で性的に描くことには,女性の規範に悪影響を与えるリスクがある』という認識が共有されるべき」と主張した.これは,当然,絵のみでなく,コンパニオンや女子アナ,芸能等の実在人物にも平等に主張されるべきだ.一方で,「では,なぜ絵には、とりわけフェミニズム的非難が集中するのか」を疑問視する立場がある.この論点は重要だ.
まず,前増田で説明したフェミニズム的非難の内容を再確認する.公的な場で,男性目線で性的に女性を描くことは「女性は,男性から見て性的な存在であるべき」という社会的な規範を強化する.この規範の例は,
だ.男性目線で性的な存在として女性を繰り返し描くことで,それが『通常』と認識され,規範となる.規範は,そこから逸脱する女性の自由を制約する(例:「女性は皆,お酌をしている.自分もお酌をしなければ,普通じゃない,生意気な女だと思われそうだから,お酌をする」).
規範が特に問題となるのは,相手の男性に性的魅力がない場合である.例えば,「女性は,通常,『好意がある男性には』お酌をする」という規範と,「女性は,通常,『好意がない男性にも』お酌をする」という規範では,後者の方が,女性の意思に反するだろう.このような規範を強化するのは,「性的に魅力のない男性(非モテ男性)目線で,性的に描かれる女性像」である.件の献血の絵の問題点は,前増田で述べた通り,公的な場における性的表現であるため,「女性の存在は(一般に)男性目線で魅力的であることが『通常だ』」という規範を強化することである.しかし,それだけではなく,オタク絵であるために,「女性は,非モテ男性にすら性的に振る舞い,消費されるのが『通常だ』」という規範を強化しうることも問題なのだ.このように,非モテ男性向けの性的表現が,一般向けの性的表現よりも忌避されるのは、感覚として自然である.(これは、「単に非モテ男性や作品自体を嫌っている」のとは似て非なることには注意が必要である)
このため,ある性的な絵がフェミニズム的に非難されるとき,「性的表現の程度(例:胸の大きさや強調され方)」だけではなく,「画風,タイトル,セリフ,知名度などを総合して,一般人にとって,『非モテ男性向け』なイメージがある絵かどうか」によって非難の程度が変化する.しかも,判断基準は客観的事実(実際に非モテ男性がそれを性的に消費するか)ではなく,主観的事実(一般人にとって,非モテ男性がそれを性的に消費しているイメージが湧くか)である.なぜなら,その社会の誰かが,非モテ男性が女性性を消費するイメージを持った段階で,その人の主観においてその規範が繰り返され,強化されると想定されているからである.峰不二子,セーラームーンや芸能人の有害性よりも,オタク絵の有害性が強調されるのは,一定数の人は,知名度の低いオタク絵に対し「非モテ男性向けの性的表現」というイメージを持つからである.
ここで最も重要なのは,上記のフェミニズム的文脈におかれた,非モテ男性の立場を配慮することである.上記を雑に換言すれば,「モテ男性の好みの女性像は,多少性的に表現されても問題になりにくい」「非モテ男性の好みの女性像は,少しでも性的に表現されれば問題になりやすい」ということだ.しかも,それは,しばしば,事実と異なるイメージにより一方的に判断される(例:「実際にはエロの要素が少ないマンガでも,作品を知らない人から一方的に,絵柄からオタクが性的に消費する姿が想起されるために公的な場には不適切だと判断される」).つまり,男性の間には,女性にモテる/モテないの格差に上乗せして,好みの女性像が持つ市民権にさえ格差がある.非モテ男性の立場からすれば,これは控えめに言って不平等であり,もっと言えば差別的である.社会から女性差別的な規範を排除する試みは,自然に,非モテ男性差別的な側面を持つことを認識するべきである.
フェミニズムがこの差別的側面を無視するのは得策ではない.無視するための手段としてよく見られるのは,性的な表現を非難する際,もっぱら「性的表現の程度(例:胸の大きさや強調され方)」だけを議論し,「表現の対象(非モテ男性向けか,一般向けか)」の影響は無視するというものだ.一見,これは,非モテ男性だけを問題視しない,公平な態度である.しかし,表現の対象に依らず,同程度に性的な表現の全てを非難するのは現実的でない.なぜなら,主張する本人すら必要性を実感していない様々な対象を非難する必要があるからだ(例:オタク絵への非難を正当化するために,峰不二子も非難する.しかし,本人も実際には,峰不二子には不適切さを感じていない).すると,フェミニズム的非難は無関心層・中間層には実感として理解されにくく,建前や自己目的化、更には単なる嫌悪表現と誤解される.当然,社会から性差別的規範を排除するためには,この無関心層・中間層からの理解が必要である.フェミニズムは,非モテ男性向けの表現を特に問題視するということを認めなければ,社会から女性差別的な規範を排除することは難しい.
以上から,フェミニズムが性的な表現を非難するときには,まず,「非モテ男性向けの性的表現を特に問題視する」という立場を認めるべきである.その上で,非モテ男性に与える不平等感について自覚・配慮し,主張をするべきである.どちらの立場にとっても,一面的な正義を主張することは,火に油を注ぐだけである.
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2016年の年末にデレステ内で「あんきら!?狂騒曲」というイベントがあった
この時に同名の楽曲が追加されたが、吐き気がするほど嫌いだった
「だった」というのは狂騒曲に対する感情が風化・変化してきたからだ
なにせ2年以上も前の話で、他のPと話していて何が嫌いだったのかうろ覚えになりつつある自分に気付いた
ただしこれは一ユーザーの意見であり「こんな人もいるのか」程度に読んでほしい
最初に違和感をおぼえたのはイベ告知時の曲名にある「あんきら」という単語だった
今まで双葉杏と諸星きらりという二人のアイドルは、公式や二次創作問わずコンビとして描かれることが多かった
その際にプロデューサーの間で使われ、親しまれた呼び方が「あんきら」だ
ただし「あんきら」という呼び方は公式では数える程度しか使われていない
その一つに双葉杏と諸星きらりのユニット「杏ちゃんときらりんのハピハピツイン☆」があるのは間違いないと思う
何度かの表記揺れを繰り返し、先に挙げた「あんきら!?狂騒曲」において「HappyHappyTwin」と名称が固定された
そう、双葉杏と諸星きらりのユニットは「HappyHappyTwin」であり「あんきら」ではない
「HappyHappyTwin」についてはゲーム内イベント「あんきら!?狂騒曲」コミュ
杏「ふたりで、話したんだ。
他の子たちが、ユニットでお仕事をしているのを見て、いいなぁって。」
トレーナー「そういうことだったんですね」
杏「それと……杏ときらりって、ヘンじゃん。ヘンなヤツじゃん。
ダラダラだし、ハピハピで、ヘンでしょ。」
カワイイって言ってもらいたいって思ったの。」
文脈から察するに、デレステの世界では他アイドルやファンから「あんきら」呼びが定着していると考えれる
そこからの脱却。仲の良い二人だからこそユニットとして活動をしたいという話だ
二人とも「可愛い」と言われるアイドルであるため、奇を衒わず可愛い路線で攻めるということだろう
モバマスの頃は何となく一緒にお仕事しているだけだったため、明確にしてもらえるのは有り難い
冗長になるため割愛するが、イベント告知コミュ、エンブレム等においても「HappyHappyTwin」という名称が使われており
現実世界においても「あんきら」という愛称から脱却させようとする意図が読み取れた
これについては見てもらうのが早い。以下冒頭の掛け合い
杏「え~~、もう歌うの?」
杏「それよりさ、アンキモ食べたくなってこない~?」
杏「アンキモ食べたい~!」
イェーイ!
こんな調子で、もいっちょ
イェイ!イェイ!イェイ!
やっぱり一緒がいいよね?
うん、いいんじゃない?
ハピハピな関係、続けていこうよ
そうです わたしたち
二人であんきらなんです
二人で「あんきら」と締めくくっている
ただの仲良し二人組の「あんきら」ではなく、
ユニット「HappyHappyTwin」ではなかったのか?
上述した「カワイイ」のくだりは
ダメダメ~;
と、アン肝が食べたいと言っている杏を注意するセリフだけである
ファンにカワイイと言ってもらいたいのではなかったのか?「HappyHappyTwin」とは何だったのか?
どう考えてもイベントコミュと齟齬があり方向性が定まっていない
同時期に実装された曲として
PCSの「ラブレター」、Rock the Beatの「Jet to the Future」があり
ここにHappyHappyTwinの「あんきら!?狂騒曲」が並ぶ
これがHappyHappyTwinの代表曲だなんて思いたくもないし思われたくもない
これは「HappyHappyTwin」というユニットが出来る前のものであり、正真正銘仲良しな二人「あんきら」で歌っている曲で
二人がわちゃわちゃしながら歌っているのが特徴的で仲の良さが伝わってくるものだ
では「HappyHappyTwin」のことは一旦置いておいて、そういった目で見てみたらどうか?
あんきら連呼も違和感なく、杏がサボりきらりが叱るいつものパターン
杏が飴を欲しがり、2番ではきらりが本気で怒って仲直り、最後に飴あげる
「あんきら」の二人としては悪くないと思えてくるが
わざわざそれを歌詞に起こして表現する必要はあるのか?と別の疑問が湧いてくる
というのも上述した「ハピ☆ハピver」は一応本来の歌詞をなぞって歌っており、
アレンジしたり、コールを入れ、間奏に掛け合いを入れることで「仲良さそう」なのが初見でも分かる作りになっている
この二人はこんなに仲良い!こんな掛け合いをする!実はこんな側面がある!と主張が強すぎる
二人の関係は良いものだが、古くからのコンビであるため担当外のプロデューサーもご存知だろう
ましてや担当Pからすれば周知の事実であり、わざわざ新曲として披露されてもくどい
そもそも杏ときらりはお互いを分かり合ってるからこその二人で、
たとえミュージカル調でも曲中に怠けたり、飴を欲しがって曲を止めたり、キレてふくれるなんて関係性ではないし
お互いについて吐露するようなとこは何年も前に通過している
イベントコミュ内では二人も楽曲制作に絡んでおり、二人がこんな曲を欲しがったとは考えたくもない
そういう方向性のユニット「HappyHappyTwin」の楽曲なのだから
可愛さやハピハピ系に重点を置いて、二人の仲の良さが分かる要素を少し盛り込んだ曲で良かった。そういう曲がほしかった
「あんきら!?狂騒曲」のような二人の関係性を重視したものにするのであれば
イベントコミュと話を擦り合わせて、やっぱり今までの二人の感じでいくことを明言してほしかった
いずれにせよ「HappyHappyTwin」としてやるなら「あんきら」の文字は下げてほしかった
「あんきら!?狂騒曲」の作詞・作曲・編曲はヒゲドライバーという方で
そんな状態でありながら双葉杏と諸星きらりに関する資料をバンナムから貰えず
ヒゲドライバー氏はPixiv大百科を見て勉強したというエピソードがある
(ソースはイベント実装時のデレラジ。双葉杏役の五十嵐裕美さんの発言)
だからこそ「アン肝」なんてものが出てきて面白かったという発言に繋がるものだが
くれと催促しなかったのか?資料なしで作れとのオーダーだったのか?
ヒゲドライバー氏がTwitterやブログで「あんきら!?狂騒曲」について何度か触れている際に
また上述の「アン肝」についても語感から選んだというエピソードも嫌いだ
今まで杏はアン肝が好きというエピソードもなく
実家が裕福な設定なため、実家にいる頃に食べていた可能性はあるが、その程度である
その程度のものをキャラクター性の強いコンテンツに入れてきたのだ
「単純に曲の好みが合わなかっただけ」と片付けれる話ではあるが
ヒゲドライバー氏の資料貰ってないエピソードや、語感で「アン肝」を入れたエピソード
こういったものが出てくると、ユーザーのことは舐めきって仕事をしているんだなと思ってしまう
「HappyHappyTwin」がふわふわする事になったのではないか?
もし「HappyHappyTwin」の2曲目が出る時があれば、こうはならないことを切に願う
ほんとこれ
この献血ポスターへの批判として「例えば男性がズボンを履いたまま勃起したイラストのポスターが街中にあったら嫌でしょ」という意見があり、それに対して「いや、それはR18でゾーニング規制される類のものだから、全年齢対象の漫画の人物イラストと対比するのは適切でない」という反論がうんざりするほど溢れてるけど、その線引き自体を疑問視する意見に対してその線引きを前提とした反論をするおかしさに気付かないんだろうか?既存の線引きを当然のものとする態度をこそ思考停止と言われているということに気付いてくれ。別に件の漫画がR18指定されるべきとは思わないが、アンパンマンと同列に並ぶものでもないでしょう。0か1かで論じるのもやめろ。
あと、「性的消費」が特定のコミュニティ内でしか通用しない仲間内の言葉とか言ってる奴、正気か?ジェンダーとか性差別とかを語るなら使って当たり前の言葉だろう。数学の話をするときに「虚数」とか言われたら知らない言葉使うのやめてとか言うのか?
八ツ場ダムの効果称賛、専門家は疑問視「冷静に検証を」 [台風19号]:朝日新聞デジタル
記録的な大雨をもたらした台風19号で、試験貯水中に満水となった八ツ場(やんば)ダム(群馬県長野原町)の治水効果をめぐり、称賛と批判が渦巻いている。こうした状況について、治水の専門家の今本博健・京都大名誉教授(河川工学)に話を聞いた。
台風19号に関する八ツ場ダムの治水効果は今後、データをそろえ冷静に検証する必要がある。私たちは洪水と共存しながら人命を守っていかなければならない。私はダム推進派でも反対派でもないが、効果を過大評価せずに見つめていかなくてはならないと思う。・・
推進派でも反対派でもない、といっているひとをググると
とか
とはいえ、まさにデータをそろえ検証された数字を出してほしいというのは、その通りだと思う。
せっかく専門家に話をきくんだから、計画降雨に対して、鬼怒川水系、渡良瀬川水系など、それぞれの流域でどれくらい雨が降って、
氾濫した支流河川によるロスはどれくらいで、本流河川への影響はどれくらい、という現時点での見立てを教えてくれてもいいのでは。そういうフラッシュレポートもなしに、
八ツ場ダムに利根川水系の流量を調節する効果がないことはない。ただ、広大な利根川水系で上流の八ツ場ダムが、遠く離れた下流域の水位を下げるのにどれだけ効果があったのかは疑問視される。
文化庁の違法ダウンロード法案のパブコメ、誘導質問など問題がありの模様
しかし文化庁のパブコメに関しては前回と言い、もはや何時もの事だから個人的には気にもしてなかったけども今回割とすぐにまとめが出来ていて草。
世間でもやはりあの露骨な誘導質問に対しては疑問視をしていたんだな。
前回のパブコメでも注意書きみたいな事書いていた連中だからな、今回もこれ位はする。
相変わらずひろみちゅブチ切れで草。
それと今回文化庁はDL違法化の実態調査をするらしいけども今回の露骨な誘導質問のパブコメと言い、以前男女共同参画で行われた恣意的な調査の例と言い、これに関しても結論ありきの調査の様な気がしてならないね。
特に以前パブコメの賛成意見の水増しとかあったからな、全く信用性もないでしょ。
【ゆ】大人が言ってるなら好きにすればいいけど、子供が大人に吹き込まれてるから気の毒なのよね。
【グ】不登校子供youtuberは非難するのに、学校に行かないアスペルガー症候群の子供に温暖化を批判させると称賛する人達は都合良すぎ。
ということで以下にまとました。「ゆたぼん」、 「グレタ」で検索して約100users前後以上の記事のブコメを対象としています。
【ゆ】「ググればいいから勉強しなくてもいい」とかホリエモンみてえなこと言ってんな。ネットに巣食う魍魎になると似たような形態に収斂するものなのかな
【グ】そりゃ粗探しするよな。有名歌手の子供だから。不登校だから。この子の周囲に環境保護団体がいるから。そういう理由をつけて彼女がぶつけてくる正論を交わそうとする大人、そう君のことだ。君は卑怯だよ。
【グ】なぜこの子の発言に反発を感じるのか、偽善だと嘲笑したいのか、それは彼女の言ってることが図星だからじゃないのか?
【グ】何であんなにみんな「老害」みたいなこと言うようになったんだろな
【ゆ】父親が影響を受けたという衛藤某の周辺を調べると怪しいスピリチュアル系がゴロゴロしてるので、あまり呑気に報道していい案件ではない。
【グ】立派じゃないか。勘ぐれば色々言いたくなる気持ちもわかるけどね。でも疲れ切った大人として「誰もがもう諦めて苦く微笑むけれど 僕らならできるはず 革命チックなダンキンシュート」と歌う若者を馬鹿にはできない。
【ゆ】親が子どもに勉強教えるとか絶対無理だと思うよ…。私は小学校教員だけど、中学の勉強教えられる自信はないよ…。/子ども一人一人をサポートできれば、校則で締め付けなくても秩序は保てる。その人員がいればだが。
【グ】「この子は勉強が足りない」とか言ってる皆さん、本当なら我々がこの子であるべきだったんだよ。我々が子どもの頃から温暖化の危機は指摘されていたし、その頃なら取組みは今よりは容易だった。笑える立場ではない。
【ゆ】虐待/戦時中でも学校に行かされていたっていう黒柳徹子氏のコメントと真逆な物件。国が滅びるよhttps://www.instagram.com/p/BxESLV6pArM/
【ゆ】私も、私に関係ないなら自分の自由に生きればいいと思う。けど、もし、子供の同級生にこの子がいたら、親がいたら、全力で関わらないか、遠巻きに要観察対象。所詮他人だからどうでもいいんでしょ、著名人も、ヒドイ
【グ】それでも、わたしは彼女を支持する。世の中を変えるのは若者、余所者、馬鹿者だ。年寄りで、頭のいい、既得権者なんて、、、未来は僕らの手の中って、THE BLUE HEARTSも歌ってたじゃないか!
【ゆ】10歳児の自主性がどうとかそんな話からはもはやかけ離れたキナくさい次元になってしまっているので、今さら彼を応援するか説教するかで考えるのは周回遅れ。もったいなくても記事の原稿は破棄するのを勧める
【グ】香港の民主主義運動を冷笑する中国人と同レベルの存在として捉えられているという感覚ぐらいは持っておいた方がいいと思うよ
【ゆ】好きなように生きればいい!ってのは正論やけど、好きなように生きるって事は自己責任が伴うんや。その言葉を10才の子供に言うって事は、10才の子供に自己責任を押し付ける事と同じや!もう少し考えてコメントせい!
【グ】このお嬢さんを子供として扱う事に違和感あるわ。年齢的には子供かも知れんが、国際的な会合で堂々と演説するなんて、内容の是非は別にして立派な事やん。子供扱いは出来んと思うで。
ありません
【ゆ】学校に行かないは、譲ってアリとして勉強の否定だけは親は叱ってくれよ。読み書きそろばんは人間の基礎能力だよ。
【グ】彼女の志は立派なんだがこの手の人の末路って人嫌いのテロリストになることが多くてな。フェミ活動とかもだけど原罪ベース憎悪ベースでもの考えすぎるとろくなことにならんのよ。
【ゆ】大人が言ってるなら好きにすればいいけど、子供が大人に吹き込まれてるから気の毒なのよね。
【グ】不登校子供youtuberは非難するのに、学校に行かないアスペルガー症候群の子供に温暖化を批判させると称賛する人達は都合良すぎ。
【ゆ】せっかく学校に行っても、結局ネトウヨになって似たようなことを言ってるじゃん?もういい加減、Wikipedia読んで法律や歴史を語るの、やめれ。学校に行った分、ムダだよ。
【グ】ネトウヨが嫉妬してて笑える。自分達の問題なのに、ネトウヨは賢いつもりで完全に他人事だよな。
【ゆ】視点を変えれば、子供のみならず国民の相当数にこの意見が刺さっている、という事で、危機的状況なのでは。
【グ】この演説を冷笑していいのは同年代の人だけで、それ以上の年齢の人たちは、内容の確からしさ云々を論うのではなく、そう思わせてしまっている事を恥入ることしかできない筈なのだけど。
【ゆ】この子、早すぎるなぁ。30年、40年したら、漢字や文字が不要になる時代は来るかもしれんからね。
【グ】すごい、こんな人が若い世代にいるのか。自分の意識も変えていかないと。
【ゆ】これ、youtubeじゃなくて渋谷交差点で平日にやってたら(やらされてたら)通報するだろ?そういうことやで
【グ】絵に描いたような金持ちの道楽だね。言わせた大人も、言った本人も。
【グ】子供を使って主張する奴ら死ぬほど嫌い。そう言うところなんだよ胡散臭いのは。
【ゆ】チャンネル見に行ったけど、読み書きできるみたいだし、勉強してないわけじゃなさそうなのでいいんじゃない。
【グ】「大人に操られた子供」だの「祭りの神輿」だの言ってないで、ちゃんと意見に対して反論しろよ、とは思う。
【ゆ】これ近隣の児相にネット民がバンバン虐待通告したらいいのにね。普通にネグレクトやん。
【ゆ】優しい言葉で不登校を容認してあげて気持ちよくなって終わり、っていう無責任なやつは確かに多いな。
【グ】これは子供の盾やね。人間の鎖とかやっちゃう人たちの発想っぽくてエグい。
【グ】子供を盾にする卑怯者「子供を攻撃するとは何事だ!!!」
【ゆ】周りの大人は何やってんだ。子供にイケハヤみたいなこと言わせるな。
【グ】「子どもを攻撃するな。恥を知れ」これ通常はその通りだと思うのだけど、政治的に悪用されると無敵の盾みたいで嫌だな。
【ゆ】自分の頭の中に知識があれば「関連思考」が出来るんだよ、子供だから関連思考なんて知らなくて当然だが。「宇宙船ビーグル号」の総合科学者グローヴナーの活躍を見れば関連思考の大事さや強力さがよくわかると思う。
【グ】科学と言えば無知蒙昧な庶民が黙ると思ってんだな、この傲慢バカは。科学は手続きの名称に過ぎんし「前提条件」や取捨選択してる「仮説」や「論拠」で結論がホイホイ変わるんだよ?そもヴィーガンって時点でお察し。
【ゆ】ここは本人たちより、煽る連中の危険性をもっと明らかにすべきだよね。件の児童が15年後電線盗んで捕まってもNO科学者は他人事みたいに「悲しい」とかほざくのかな。
【ゆ】こう言うの焚き付けて後で責任とらないのって酷いと思うの。
【グ】ゆたぼんに似たものを感じる。活動家やる前に学校に行くべきじゃないかな。
【ゆ】同調圧力を煮詰めた地獄のようなブコメを見るとはてな民も美しい日本人なんだなと安心する
【グ】反論がだいたい「子供を持ち上げるな」「白人のガキの分際で」「態度が悪い」の三択なので環境問題そのものを疑問視してるトランプのほうが同じ方向を向いてるだけまだ誠実。
【ゆ】「宿題を拒否したところ、放課後や休み時間にさせられ」たことで学校に行かなくなった子が、いじめで苦しんでいる子どもたちへエールってなめてんのかな。
【グ】GuardianがYouTubeにあげているので動画をみると受ける印象がずいぶん違った。それはさておき"we will never forgive you"と分断する言葉を使っているが、グレタさんもyouの側の人間だろう。スウェーデンは水没しないし寒いし。
【ゆ】こういうのを容認するから沖縄は全国最下位の学力と就職率なんだよ、猿もどきを誰が雇う?日光猿軍団だって断るわ、芸を学ぶ頭がないんだから。
【グ】ガキを扇動して既存社会をぶっ壊したい勢力がまたぞろ蠢動してるんだろうな。ヨットなんて見え見えのパフォーマンスじゃなくスカイプでテレビ出席しろよ。学校にも行かないスウェーデン版ゆたぼんの癖に。
【ゆ】高度な学術研究を発表する子供と、起業やこういうので耳目を集める子供、前者は大抵親が良い意味ですごくて、後者は大抵親が悪い意味ですごいんだよな(経験則)
【グ】この人に賛同する人たちは原発の是非とどうやって折り合いをつけてるんだろう 事の複雑さを前に言いよどむ人まで冷淡とか無責任とか言われても困惑するわ 技術革新を待つしかないのかな
【ゆ】こんなの新手の児童虐待案件だろう。乗っかるマスコミがクソofクソ。
【ゆ】とりあえず動画見て欲しい。新聞で取り上げちゃダメな奴だから。
【グ】主張はともかく、この歳でここまで担がれるとこの後が心配。先鋭化するか過激な宗教然となるのが恐ろしいのでしっかり面倒見る人が現れて欲しい。
【ゆ】えっと……20年後にまた会いましょ
【グ】立派ですが悪い大人にいいように使われないようにちゃんとした大人と一緒にいて欲しいですねみたいな
【ゆ】社会問題になったり集団提訴される前にYoutubeは、子供の利用をもっと厳しく制限したほうがいいよ。子供は、制限せずに視させてるだけで精神汚染される危険性のある動画SNSなんだし。この子もその一人かもよ。
【グ】実際、この子、精神疾患あるの有名だし。この子を洗脳?して政治的に悪用してるのを指摘するのは、米国としては真っ当な事だと思うけどね。
【ゆ】ここでコメントしてるひとたちも子供の将来になんの責任も負ってない。著名人が「学校以外に生きる道はある」というメッセージを発信するのは重要。
【グ】“いいからさっさと学校行けや” ウヘァ。これが由緒正しきおっさんマンスプ仕草で、こういうやつらが世界を牛耳ってる結果がこの温暖化ですぇ。こいつらがいなくなると世界かなり良くなるんじゃねぇの、ねぇ。
【ゆ】「不登校の理由を周りが納得しないと許さないという異常さが表れている」げに。批判には、私の考える貧乏人じゃなければ貧乏人じゃないみたいなアトモスフィアを感じる。
【グ】子供の理想論を鼻で笑う様な大人が、子供の頃こうなりたいとあなたが思っていた大人なんですか?
【ゆ】私も「ご自由にどうぞ」派。将来、彼が生活保護を受給することを、私は妨げない。/登校したい子を登校させないなら虐待だが、登校したくない子を許容するのは、私は虐待と認めない。
【グ】世の中、こういう人も必要とされているんだろう。私個人は支持しない。
【ゆ】子供の「好きなように生きる」を大人のそれと同じように扱える神経がわからん。彼ら判断能力ないから契約すらできないのに。
【グ】そんなに若者や子供をありがたがるなら全部子供に決めてもらいなよ。大人が蓄えた知識より、そういうのがいいんでしょう?
【グ】いざ言葉を返されたら「子供を攻撃するな」って、こいつを都合のいい時だけ一人前として扱って、ちょっと困ると無敵の盾にさせて欲しいって話でしょ?ちょっと汚くない?
しかし十分な休暇になったとされている。
ひたすら宿題に振り回される日々を過ごした。
自由研究のテーマは二転三転し、最終的に辿りついた『夏休みを有意義に過ごすには』は貴重な資料として重宝されている。
だが誇張して書かれていたり事実関係が疑わしい箇所も多く、参考資料として疑問視する者もいる。
様々な資料にて利己的な振る舞いが記されており、巷では資本主義の象徴として挙げられることが多い。
そうして夏休みに稼いだ資金は、現代に換算してなんと約5兆アノニにものぼる。
物欲がなく、趣味は携帯端末でゲームをするくらいだったため、埋蔵金になっているのではと噂されている。
旅行もせず、遠出もしない、これといったイベントもない毎日を過ごす。
しかし自由研究で描かれた自分たちの姿は、誰よりも輝いているように見えたという。
全てが終わったときに息抜きにかける時間も気力も残っておらず、残りの期間は意地で休んだという。
新しい副業が見つかるまで、学校でのバイトで何とか食いつないだとされる。
ただ彼に関する資料は皆無に近く、存在が具体的に明記されているのはマスダの自伝のみ。
このため話の種で都合よく登場させた、架空の人物なのではないかとする説が支配的である。
その後、お土産の砂糖菓子を仲間に振舞ったとされるが、どのような食べ物だったかは判明していない。
マスダの書いた半私書で「これ要冷蔵じゃないのか?」という記述があるのみである。
この夏に始めた、自宅で簡単にできるセラピーによってリフレッシュ。
しばらくは耳栓なしの穏やかな日々を過ごす。
しかし後年の捻くれた言動は、この時の副作用ではないかとする向きもある。
菓子目的でラジオ体操を続けていく中で、その動きは神の粋に洗練されていった。
子どもに興味がない。
物心ついたときから子どもに興味がない。というかむしろ苦手なのかもしれない。大の大人でかつ女だが、子どもを前にしても甘やかしたり猫なで声で機嫌をとったりできない。かわいいね〜とか適当な言葉で褒めたりもできない。全部嘘っぽくて(まあ嘘なので当たり前だ)やってられない。感情がわかない。
友だちや知り合いの子どもに対して興味がわかない。生まれたら素直におめでとうとは思うけど別に会いたいとか思わない。どうでもいい。そこまでかわいいとも思わない。一般的な「赤ちゃんかわいい」の感情の範疇を超えない。
アラサー(子どもを生んでもおかしくない年)の女をやっていると、世間からは子どもに興味があると思われる瞬間が多くてとても苦痛。アラサーの女を辞めたいと思う。
男性ならここまでにはならないと思う。
子どもの話をされたときに興味のあるふりをしなければならない(けどできない)のが苦痛。それを求められたくない。なんで求められるの?と疑問。
子どもが欲しくないのかと言われたらそれについてははっきりと答えはなくて、なんとなく、欲しいような気もするが、それは対外的な圧力に勝てる気がしないという漠然な不安を埋めるために急ごしらえした感情のような気がしてきた。(子ども欲しくないの?なんで生まないの?攻撃や、それをぶつけられなくても、あの家はおかしいと疑問視・批判的な目で見られるのではないかという不安)
それを理由に生むという決断をするとしたら、生まれる子どもにも失礼だし、いい加減な判断だからやめたほうがいいな、という気がする。私の本心ではなくなってしまうというか……。
ただ、育児というものをやるには興味がある(もちろん語り尽くせぬほどの苦労があるというのは、経験したことはないがそれなりに承知の上)し、好きなパートナーとの間にできた自分たちの子どもを育てるということに対してはちょっとやってみたいと思う。
そもそも欲しいと思っても、作ろうと思ってできるかわからない。
できるかわからないのに、なんでできる前提で言われるのか不思議。
それ以前に、なんでアラサーの女(と、一応外見で判断される)というだけで、
・異性のパートナーがほしいと思っている
・子どもに興味がある
・子どもをほしいと思っている
上のことが全部前提としてのしかかってくるのか、それが息苦しくて本当に無理な気持ちになる。アラサーの女を辞めたい気持ちが強まる。
人の目を気にし過ぎなのかもしれない。
でも私は、本心を言うと、子どもに興味がないって声を大にして主張しても変な目で見られない世の中になればいいのにと思っている。
子どもは未来の宝なので(この主張をするときにかの言い方をすると語弊がある気もするが)、子育て世帯が優遇されたり保育施策が進められたりすることはとても良いことだと思うし、それをやめろとは言わない。むしろもっと子育てがしやすいようになればいいと思っている。それには賛成するし自分の税金でも何でもどんどんつぎ込んでくれと思う。自分が子どもを持っていなくても。
ただ個人の感情として、子どもに興味がない人間がいるということも認めてほしいというか、許してほしい。
無理に興味を持とうとしても無理なものは無理だ。なんで興味を持たなきゃいけないんだろう。興味を持つことを強要されたくない。そのポーズを取ることがすごく疲れる。
もう少し歳を重ねればこの意固地な感情も変わるのだろうか。もしくはやはり、自分の子どもができて、生めたら変わるのだろうか(それはありそう)。じゃあそれまでは我慢するしかないのか。生むことになるか、生めるかもわからないのに。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.goo.ne.jp/article/dot/politics/dot-2019080600038.html
私は弁護士で国際法が専門なのですが、国際法の観点でいえば「元徴用工」問題も、「貿易管理」の問題も、日本に理がある話だと思っており、その点では、政府を支持しています。「日本に理がある」という国際法上の事実について、日本の政治の内側から疑問視すれば国益を損ねます。ただし、本来共同歩調を取るべき隣国と感情的な対立に陥っている点は、日韓双方に責任があると思っています。それはむしろ外交能力の問題ですから、安倍政権のトータルの外交を支持しているわけではありません。
quick_past あかん(;´Д`)もう支持できない
韓国政府の主張が一から百まで正しいにも関わらず、枝野さんはまるで韓国政府に悪い部分があるかのような事実誤認をしてしまっている
「信号機の設置……ですか」
「ええ、交通事故が最近あったでしょう。そこに設置しようってことで」
「ああ、あれですか」
そして、その設置にも様々なことが考慮されるらしい。
具体的な条件は知らないけれど、少なくとも事故が一回起きただけでは有り得ないようだ。
「じゃあ……まあ、承認、で」
だけど「子供が轢かれた」というニュースは、大人が轢かれた場合よりも比重が大きくなりやすい。
「何か気がかりなことでも?」
「え、いや、朝食のホウレンソウが奥歯に挟まってるようで……」
魔法少女などの自警活動を行う者や、超能力者やロボットといった強力な“個”。
そういった注目を集める存在に、警察は後手に回ることが多かった。
常日頃から、組織としての必要性を世間に疑問視されていたんだ。
立場上、「子供が轢かれた事件ひとつで信号機つける必要ある?」と言うのは難しかったわけだ。
「信号機って結構お金かかるんですよねえ……いや、でも、まあ仕方ないですよね、はい」
こうして信号機の設置は決まり、俺たちはそれが取り付けられる様子を遠巻きに眺めていた。
「つける意味あるのかなあ」
「私、あそこよく通るけど、ないと思うわ」
実際にあの道路を利用する人間にとって、あそこに信号機をつけるのは煩わしいだけだ。
事故に遭ったツクヒに同情する気が起きない俺たちは、割と冷めていた。
まあ、もはや決まったことだし、とやかく言ってどうこうなるもんじゃない。
発端となった交通事故の当事者は子供だけど、その是非を決めるのは最終的に大人の役目だからだ。
「いくら急いでいたからって、この場所で事故なんて起きるのかなあ?」
「それにつけても、随分とトントン拍子に決まったよな。なんだか予定調和感がある」
それでもこの場にいたのは、排気ガスの匂いに紛れて妙な“クサさ”を感じたからだった。
陰謀論だなんて言うつもりはないけれど、今回の件は自分たちが知らない、何か変な力が働いている気がしたんだ。
それくらい、ここに信号機がつけられるなんてことは、俺たちにとって異常事態だったわけ。
「あ……つ、ツクヒだ」
そんなことを考えていると、仲間のドッペルがツクヒがいるのを見つけた。
「む……」
ツクヒもこちらに気づいたようだ。
軽傷とは聞いていたけれど、所々に貼り付けられた大き目の湿布や、そこから覗かせる打撲の跡が痛々しい。
正直、疑っていたんだけど、怪我からして車に轢かれたことは本当のようだ。
「ふん……お前らも来てたのか」
ツクヒは、なんだか居心地が悪そうだった。
「そうだな……授業においていかれるのは面倒だしな」
しかも、どうも喋りの歯切れが悪い。
車に轢かれて怪我したんだから、ツクヒならもっと怒っているはず。
いちゃもんだろうが、自分に落ち度があると内心思っていようが、それでも主張を憚らない奴だ。
なのに、いつもより覇気のない態度。
俺たちは確信した。
これは間違いなく“何か”がある。