はてなキーワード: 比較とは
この筑波大の先生のポストのブコメ会場でお見かけしたのだが、昔はこういった発言に肯定的な意見を述べる方ではなかったように思う。
かなりアバウトな印象論なのだけど、俺が学生で活発にはてブを覗いてた2015〜2018くらいの頃のまくはりうづきさんってどちらかと言えば性的な物事に比較的寛容でサークラ的な男女の痴情の縺れに造詣があるポリアモリー的な人だった記憶があり、なんか今のまくはりうづきさんにギャップを感じている……
もしかしたら変節などされておらず一貫されているのかもしれないので、あくまで印象論ではある。
男性を一括りに叩くことに怒る人が同じ投稿で「フェミが」と一括りにして叩くのは何の冗談。/「出産が快楽になればいいのに」って人はいるけど、そしたら人口過多が問題に。市販のサプリで性欲減らす男性もいるね。
こちらのまくはりうづきさんのブコメは必ずしも元ポストを全面的に肯定されてはいないように思える
しかし否定もされておらず、以下のような元ポストを肯定しているブコメ群にスターをつけておられたので、本音はこちら寄りなのかなと邪推してしまう
「男性の性欲は理性では抑制できない」という主張に対しては「じゃあ薬で抑制するしかないよね」となるのは当然である。反論の方法は「違う。理性で抑制できる」であって「ヘイトスピーチだ」じゃねえよカス
性犯罪被害者に暴言吐くほうがよほどどうかしているよ。真面目にコントロールしてほしいわ。/「自身の無謬性を疑わず反対者への攻撃性をむき出しにする態度」これもちろん性欲おじさんに言ってるんですよね?
個人的にはピルのように任意で男性が性欲をコントロールする選択肢がある方がよいと思うが、男性の性欲をコントロールするために当事者の同意を得ずに副作用の強いリュープリンを打つような非人道的な方法には反対の立場。
性欲抑制薬の議論はアフターピルと比較して考えたら腑に落ちたよ。
日本でアフターピルの認可が遅れたのは、悪用される懸念があったから。
アフターピルがある、という言い訳は、DV男性がパートナー女性の一方的なレイプを助長する恐れがある。
逆に女性が性欲抑制薬をパートナーの男性に強いて、セックスを打診してこない「家庭のために働くATM」と化してしまう可能性を考慮しないと、男女でバランスが取れた議論とは言えないのでは、と。
今では誰もが何かを検索するためにソーシャルメディアを利用しています。レストラン、コース、洋服店など、文字通り、あなたが欲しいものはすべてソーシャルメディアだけでなくGoogleでも入手できます。人々はソーシャルメディアを娯楽のためだけでなく、何かを知ったり、世界で起こっていることに関する情報を入手したりするために利用しています。たとえば、最新のニュースはまずTwitter (X)でトレンドになり、次に他のソーシャルメディアプラットフォームでトレンドになります。私自身、何かを検索したり購入したりするためにソーシャルメディアを使用することがあります。ソーシャルメディアに関する私の個人的な経験はかなり良いものです。
検索エンジンは、インターネット上で何かを検索したい場所のようなもので、探しているものを見つけるにはキーワードを入力するだけです。ソーシャルメディアが登場する前は、Googleが世界をリードする検索エンジンでした。「ソーシャルメディア」が検索エンジンだと言っているのではありませんが、正直に言うと、私たち人間はソーシャルメディアを検索エンジンにしてきました。頭に浮かんだものはすべてGoogleで検索していました。実際、ソーシャル メディアが登場する前の時代には、何かを検索することを「グーグルで検索」と呼んでいましたが、現在ではソーシャル メディアは検索エンジンとも呼ばれています。検索すると、グラフィックとともに多くの回答が得られるからです。
しかし、このソーシャル メディアを検索エンジンとして利用しているのは、ジェネレーション Y とジェネレーション Z です。テクノロジーが変化するにつれて、テクノロジーの使用と理解に対する人々の認識が一変しています。これらの世代の人々は、娯楽を楽しむためだけでなく、人々とつながり、創造性を披露し、群衆から目立つために、ソーシャル メディアを大いに利用しています。
しかし、ソーシャル メディアはどのようにして検索エンジンになったのでしょうか。
Facebook、Twitter、Instagram、LinkedIn などのソーシャル メディア プラットフォームには、膨大なクリエイティブ コンテンツを毎日投稿する数十億のユーザーがいます。このユーザー生成コンテンツには、投稿、コメント、画像、動画などが含まれており、ソーシャル メディアは豊富な情報のリポジトリとなっています。
ハッシュタグ、キーワード、高度なフィルターを使用すると、検索に関連する情報を取得できます。たとえば、Twitter の高度な検索では、日付、場所、エンゲージメント メトリックでツイートをフィルターできます。ソーシャル メディアの利点の 1 つは、わずか数秒でリアルタイムのデータを提供できることです。そのため、ソーシャル メディアは最新のイベントを把握するための貴重なツールとなっています。視覚的に説明されると、人々はすぐに理解します。そのため、Instagram、Pinterest、YouTube は、テキストではなく画像や動画に基づいてコンテンツを見つけることができるビジュアル検索で人気があります。ソーシャル メディアの検索結果は、コミュニティのエンゲージメントとソーシャル バリデーションの影響を受けることがよくあります。いいね、共有、コメント、リツイートは、コンテンツの品質と関連性の指標として機能し、ユーザーが最も人気のある信頼できる情報を見つけるのに役立ちます。見てみましょう:
ソーシャル メディアの検索エンジンは、ユーザーの興味、ソーシャル コネクション、以前のやり取りに基づいてパーソナライズされた検索結果を提供できます。たとえば、フード リールを見るのが好きな場合、Instagram は好みに関連するリールをもっと表示します。このパーソナライズにより、見つけた情報がユーザーの好みやニーズに関連していることが保証されます。ソーシャル メディアはリアルタイムの直感を提供するため、ユーザーは最新のニュース、トレンド、更新にアクセスできます。ソーシャル メディアで検索すると、さまざまな視点に出会うことができ、問題やトピックのさまざまな側面を理解するのに役立ちます。ソーシャル メディアの助けを借りて、世界中の人々のさまざまな視点を知ることができるだけでなく、他の人と交流することもできます。ソーシャル メディアは、パーソナライズされた推奨事項で新しい更新やトレンドについてあなたに知らせてくれます。
Google 検索エンジン VS ソーシャル メディア検索エンジン
検索にソーシャル メディアを使用できることを理解する前は、人々は Google ですべてを検索していましたが、両者に違いはあるのでしょうか? はい、間違いなく違いがあります。
Google は、何十億ものユーザーが世界で最も使用している検索エンジンです。Google では、検索に関する地図、記事、画像、ストーリー、ニュース、書籍などのオプションを提供しています。記事のランキング方式を使用しているため、検索に最も関連性の高い結果を得ることができます。また、関連する検索のフィードバックやレビューを確認して、クエリに最適なソリューションを選択することもできます。Google マップと Google マイビジネスを活用した Google のローカル検索機能は、場所に基づくクエリに対して正確で関連性の高い結果を提供します。これは、近くのサービス、レストラン、ビジネスを見つけるのに特に役立ちます。Google は、Google Scholar、Google ブックス、Google ニュースなど、さまざまなツールやサービスを提供しており、さまざまなドメインにわたる専門的な検索ニーズに応えています。
ソーシャル メディアを使用すると、人々と交流し、わずか数分でクエリの解決策を得ることができます。検索に対する人々の見方を理解できます。ソーシャル メディアは、リアルタイムの情報を提供するのに優れています。プラットフォーム Twitter などのソーシャルメディアは、速報、トレンドのトピック、ライブ イベントを最初に報告することが多いため、最新情報を把握するのに非常に役立ちます。Instagram や Pinterest などのプラットフォームはビジュアル コンテンツを重視しており、ユーザーは画像や動画を通じて情報を発見できます。これは、ビジュアル学習と探索に対する好みの高まりに応えるものです。
ユース ケースと利点の比較
情報の幅と深さ:
Google: 幅広いトピックにわたる詳細な調査、学術研究、包括的な情報検索に最適です。
ソーシャル メディア: トレンドのトピック、時事問題、個人の意見、ユーザー生成コンテンツを発見するのに最適です。
Google: 構造化され検証された情報を提供し、多くの場合、さまざまな信頼できるソースからニュースを集約します。
ソーシャル メディア: ライブ イベントのリアルタイム更新と即時報道を提供するため、速報や即時情報の入手先として最適です。
Google: YouTube や Google 画像などのプラットフォームを通じて、画像、動画、インフォグラフィックなど、多様なメディア結果を提供します。
ソーシャル メディア: 視覚的な発見を重視し、Instagram や Pinterest などのプラットフォームは画像や動画ベースの検索に対応しています。
Google: ローカル検索に非常に効果的で、近くのビジネス、サービス、場所に関する詳細な情報を提供します。
ソーシャル メディア: 地元のイベント、コミュニティのディスカッション、友人や地元のインフルエンサーからの推薦に役立ちます。
Google: ユーザー データを活用してパーソナライズされた検索結果を提供しますが、主にアルゴリズムに基づいて最も関連性の高いコンテンツを提供することに重点を置いています。
ソーシャル メディア: ソーシャル接続とインタラクションを活用して検索結果をパーソナライズし、ユーザーのエンゲージメントと参加を促進します。
reference: https://fly-social.com/
勝ち組の話ではなく上位40%〜60%という中間層で比較しているんだが…
そんな中で上位40%〜60%の給料を出している企業は東京本社の支店とか上位40%〜60%は地方で狭き門と仮説をおいているのは貴方
反歴史修正主義の立場の人間もちょいちょいアレなのがなあ ホロコーストと他所のジェノサイドを比較検討して共通項と特異点を考える、ってレベルでも「歴史相対主義」やら「反共主義」やら「反ユダヤ主義」やら罵倒が飛んでくるのがちょっと…
自分を認めて受け入れてくれているパートナーとのセックスと、金で買ったセックスは全くの別物よ
当該発言を庇うつもりはまったくないけど、事実関係が違うのはどうかと思うので。
『「そろそろ薬で男性の性欲をコントロールすべきでは」准教授の訴え』へのコメント
この人、人文系じゃないよ。専門はタイの政治、つまり政治学者であって、政治学は社会科学系なので、文系ではあっても人文系ではない(文系は、文学・哲学・歴史学などの人文系と、政治学・社会学・経済学などの社会科学系におおまかに分類される。もちろん境界的な研究領域はあるけど、下で書いたようにこの人は直球の社会科学系)。
Synodosでも色々タイ情勢に関する記事を書いてらして、普通に面白いのでみんな読むといいと思う(正直、これらの記事を通して認知してた人だったので、twitterでの発言を見て「Oh......」となってしまう感じ。作者と作品は……別だから……!)>https://synodos.jp/expert/toyamaayako/
筑波大の「人文社会系」というのは、人文系と社会科学系の教員が所属する集団という意味であって(cf. https://www.jinsha.tsukuba.ac.jp/about)、そこに所属しているからといって人文系の研究者とは限らない。同大学の「数理物質系」に所属しているからといって物理学者とは限らない(数学者や化学者かもしれない)のと同じ。
大学も貢献してますよ感出すためだけにジェンダー系のポスト設けてあげてるのにどんどんヘイト集めるからかなり煙たいだろうなぁ
上述の通り、専門はタイの憲法とかクーデターとかそういう話なので、ジェンダー系のポストで採用されたわけじゃなく東南アジア研究とか比較政治学とかの枠で採用されてる人。大学のウェブサイトに載ってるご本人の研究キーワードが「憲法改正と民主化、政治の司法化、汚職取締と民主化、新しい強権的政治リーダーの登場と体制変動、政軍関係、立憲君主制の国際比較研究」だからね。ゴリッゴリの政治学者ですわ。ジェンダー研究は門外漢やろ……
学者が専門外のことでいっぷう変わった発言をするの、みんな心当たりのあることだと思う。統計力学の分野で名を上げた大阪大学大学院理学研究科物理学専攻の教授が財務省についてどんな発言をなさっているか、皆さんはよくご存知でしょう。
学者は同時に市民でもあるので、学問の追求者として厳格であっても市民としては偏見まみれみたいな人は大勢いるんすよね。ほら、国際日本文化研究センターの助教の人だって本業の日本中世史ではマトモだったじゃないですか。
上述の通り、現代タイ政治の分野では有名なセンセなので、たとえばタイでまたクーデターが起きたりしたらそういう場に出てくることもあるだろうし、それは全く問題にすべきではない、とは思う。不適切な発言してる理系研究者でも、たとえばノーベル賞の解説番組なんかに出るのは全然問題ないだろうし。
「人文系」という定義の話だけで外山先生の所業に関しては何も言及していないのだが、ご専門が「タイの憲法学」と聞くと、憲法学という括りではあんまり大差ないかもしれない
すまんこれはこちらの説明も悪かったんだが、彼女は憲法学者でもないんだ……憲法学は法学の下位区分だけど、このセンセの場合は憲法そのものの研究というよりも、憲法で決められたシステムがどんなふうに現代タイの政治に影響しているかを論じているので憲法学者ではなくてあくまでも政治学者なんや……
(「9条を素直に解釈すると自衛隊は違憲になる」みたいなのが憲法学で、「9条の規定がどんなふうに与野党対立に影響しているか」みたいなのが政治学)
いわゆるダメな人文系の代表格としてあげられるのが社会学者なんだか社会科学だから人文系じゃないは通らないでしょ。むしろ哲学や倫理学の人たちはこの手の狂い方する人少ない気がする
それは、まず社会学を「ダメな人文系」扱いしてバッシングしてた人たちがカテゴリエラーを起こしていただけなのでは??????
何で他者によるカテゴリエラーの責任を呼び間違えられた側が取らないといけないんですか??????
政治学や社会学はふつうは人文系には分類されない、のは単なる事実ですが??????
文系内部の細かい違いがわからん場合は、人文系とか社会学とか言わずに素直に文系って言っておけばよいのでは。社会学者でも何でもない文学研究者や歴史家が社会学者って言われてる光景、浜の真砂ほど見たので。
社会学は社会科学ではないというのは分かるけど人文科学と社会科学の線引きは何なのだろう?法学や政治学や経済学など社会科学は「技術」を論ずるもので、人文系は「価値観」を論ずるみたいなこと?
人文学に分類されているものが人文学で社会科学に分類されているものが社会科学です(進次郎構文)
……いやマジでこれはそうとしか言えない。文学・哲学・歴史学・宗教学ってだいぶ違うし、伝統的に人文学にまとめてます以外の説明はしづらい……(アジアの本質って何ですか? って聞かれてる感がある。日本とパキスタンとモンゴルとインドネシアの共通の本質……? とりあえずヨーロッパやアメリカではないです、あとワールドカップでは同じ地区で予選してますね、みたいな……)なので、線引きがわからんって人は、こういうもんだと割り切って「人文学に含まれる学問リスト」を丸暗記するか、無理に人文学とかの言葉を使わずに個別の学問の名前で呼べばいいと思います。
何を思って増田がこれ書いたのか分からんが、学部とかどうでも良くて差別的な発言するって教育者としてどうなの?てだけの話です/コロンブスの時と良い、最近話をわざわざややこしくする人多いね。
盗人猛々しいな。話をややこしくしてんのは政治学者を人文系の学者と誤認した連中だろ。そいつらが間違った認識を振りかざしてなけりゃ訂正記事書く必要もねえんだよ。話をややこしくしたくないなら間違った事実認識に基づくコメントをつけんじゃねーよ。
カテゴリ分けがどうでも良いなら指摘されたら直せば良くないですか??????
「外山准教授を人文学者やジェンダー研究者と間違って呼ぶ人がいなければこんな増田を書く必要はなかった」という当然のことを忘れないでもらっていいですか??????
初代ガンダムの描写を批判するのはいいけど、「これだから萌えアニメは」とか言ってたらおかしいし突っ込まれるでしょ? マジでそのレヴェルの話であるのを分かってほしい。萌えアニメの定義がわからんなら「これだからガンダムは」とか「これだから日本アニメは」って言っとけよってこと。
そんな「アジア系以外の一般のアメリカ人視点では日本人はチャイニーズ扱いされがち」とか「非オタ以外の一般人視点では宇崎ちゃんはエロ漫画扱いされがち」みたいなこと言われても……
スコットランドの平原の真ん中に黒い羊がいるのが見えた。 天文学者:ここの羊はみんな真っ黒なんだね。 数学者:少なくとも1匹の羊が居て、さらにこっち側の片面が黒いということが分かるだけさ。
ぼく「そこはイングランドです」
途中で切れた。長いと切れるんだな。知らなかった。
概観してみると、今の私を状態を説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。
特性を持って生まれた子どもが、いわゆる体育会系の世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援が必要な特性について見過ごされたまま、強いストレスを肉体と精神の両方に受けることになったこと。
また、発達特性が仇となり、ストレスを軽減するための人間関係を作れず孤立したこと。
これらの要因により精神的な限界に達した時、受けた負荷が強いパニックの形で噴出してしまい、結局はそれが水泳を挫折する原因になったということ。
また、子ども当人(つまり、私)が、その負荷をむやみに強いられたと感じ、母親への不信を深め、その感情に向き合って修復する機会がないまま、成人後に関係を破綻させてしまったこと。
そして、これらの感情的な傷付きに至る経緯とは別に、特性について適切なケアやトレーニングを受ける機会を得られなかったこと。
これらのことが、社会に出てから仕事への意欲が薄いこと、将来への展望を描けないこと、社交場面における不安などに影響し、また自分の特性を扱う上での経験不足がストレスによる不眠、日中の眠気などに繋がり、上記の不安に拍車をかける結果となった可能性はあるのではないか、と私は思う。
そして、冒頭の「あなたの言葉は感情を説明しない」という指摘もまた、やはり『嫌だ』『つらい』という訴えを繰り返し退けられ練習を強要された経験から、自分のつらさを他人に訴えてケアしてもらうことを諦めてしまい、直視せずに蓋をすることが常態化している精神状態にある、そのために精神的な問題を抱え込みやすくなっている、と説明できるかもしれない。
また、休職前に孤立無援と感じられる状況にふたたび置かれたことで、水泳でパニックを起こしたときのように、強いパニックをおそらくまた起こし(あいまいな書き方なのは、あんまり覚えていないので)会社に行くことができなくなっている。
これが当時のトラウマのいわゆる『再演』にあたる可能性はあるかな、と少し思う。
両親は私を愛しすぎるほど愛してくれており(少し連絡が取れないだけで着信を100件超えて入れるのが常態化していた程度には)、特に金銭の面では一般的な親の倍以上に私に支援をしてくれたことは事実である。
上記の事実をもって、私をまだ幸運なほうと思う人もいるだろうし、就活のくだりなんか、特に甘ったれていると思う人間も多いだろう。
ただ、3歳〜16歳ごろの人格形成期+思春期に、チームメイトと精神的にまったく連帯できない状態でスパルタ式の暴力的な教練を日がな毎日受けるという負荷は、おそらく定型発達の人間でも耐えられる人は限られるのではないか、という気もする。
そういう負荷に発達特性のある子どもが挑む場合には、おそらく精神的なケアは定型発達の子ども以上に必要で重要なことだったのだろうと思われる。
私がそういう子どもであったことが親の不運で、特性由来のストレスに対する適切なケアや社会的トレーニングの機会が得られなかったことが私の不運である。
正直なところ。
母は小学校高学年くらいの段階で、私を発達障害者だと疑ってはいた。ネットの普及し始めた当時、私の持つASD的な特性の一部分はアスペルガーと呼ばれていたが、そのことについて母が情報収集していたことを覚えている。
しかしそれは、障害を受容した上で、適切な支援に繋げるという結果にはならなかった。
ちょうどそのくらいの時期に平成不況がやってきたのだ。私の特性を考え、進学先に私立中学を視野に入れていた母の計画は、完全にそれどころではなくなってしまった。父の会社にもリストラの波がやってきたのだ。
タイミングの悪いことに、私が水泳の過度のストレスからチックに陥った時、ちょうど母は不況への恐れからパートを始めたばかりの頃だった。私の『病気』の原因について、母は周囲からの責めを一人で負うしかなかった。父の両親との二世帯同居の家で、専業主婦の母は孤立した養育者だった。
結論から言うと父はリストラを免れ、我が家の経済危機は回避されたのだが、その頃には私の私立進学計画はとっくに頓挫していた。母が「結果で黙らせなさい」と言うようなことを口にし始めたのも、この頃だったかもしれない。
父親はというと、やはり私の親で発達的な特性が強く、自分の興味のあることしかやりたがらないタイプだった。養育者として、社会的な範を示すとか、発達的な特性とどう付き合っていくかとか、そうした問題についてまったく頼りになる人ではなかった。
悪い人ではない。悪気のある人でもない。一流企業にまじめに勤め、高収入であり、私に関わる多額の費用を全部賄ってくれた人である。そしてそれが、おそらく自身でも困りごとをたくさん抱えていたであろう身で父にできた、私への精一杯の愛情だったろうと思う。
母もまた、母の出来ることを最大限にしてくれた。母は、思春期の私の苛烈で発達のアンバランスな性格(受けていたストレスを考えると、おそらくそうなるしかなかった)に何度も振り回されて、傷付き、それでも最大限考慮した上で、「あなたは結果で黙らせなさい」と言うしかなかったのだと思う。
これは私がどう生き、どう傷つき、現在どう困っているかにまつわる記録ではあるが、同時に単に毒親からの被虐待についての記録としてはなるべく書きたくはないと思っている。充分悪者に書いただろう、と思えるような筆致だったかもしれないので、ここに補足しておく。私は難しい子供で、両親は常に一方的な加害者ではなく、私を支援してくれようとした。私たちはお互い感情的な対立を何度も経験し、お互いに何度も傷付き、それを乗り越えてきた。その過程でいくつか間違いがあり、一度関係が破綻してしまったが、それでもまだ、この先に和解の可能性がないわけではない。
それぞれの人間がそれぞれに苦しんだ結果、私の今日につながっているのである。
これを書いているいま、これからどうなるのか私にはわからない。これらの生い立ちから私が受けた傷を癒せるかもしれないし、そうではないかもしれない。困りごとを軽減してなんとか社会で上手くやっていけるかもしれないし、どうにもならないかもしれない。
ただ、良くなってほしいという希望を持って先生たちは治療に当たってくれているし、希望は捨てるべきではない。そう思うので自分の恥部を曝け出す覚悟でこれを書いた。一種の『底尽き』を気力で前に持ってきた、というやつかもしれない。
ただ、強いトラウマを抱えた発達障害当事者の予後は正直あんまり良くなさそうだなぁ、とは、当事者たちの声をインターネットで拾ってみて思わなくもない。
ただ、復帰できないとこれが現実に起こりうることが現状最大の懸念である。
当然、持っていく予定である。
プラダリアの取捨だれかおせーて。
それはそう。
カウンセリングにはこの記録を持っていこうとは思うが、どの程度まで自己開示すべきなのか、いまが適切なタイミングなのか、そのあたりをきちんと確認しながらやっていこうと思う。
少なくとも、これを書き下せたことで、私の中では問題解決へ向けて、整理と準備がついたと思っている。
べつにわかってもいっかと思って書いている。とくに失うものはない。
何かしらの連絡手段で私とつながっていて、内容でなんとなく察した人は、「もしかしてこれお前?読んだよ」とメッセージくれると嬉しいよ。困窮者だ!金ヅルにしよう!と思って寄ってこられるとちょっと悲しい。というか休職人間に金はない。
自分は言語理解が比較的高い特性を持っているので、書くことによって自分をメスで捌くように腑分けして、人前に晒すという自傷行動に割と慣れているし、やはり言葉によって自分を説明できるとなんとなく落ち着くタイプである。その助けもあってなんとか書き切れたが、それでも書き切るのにかなり涙を流したので、この記録には多大な精神的労力を必要とした。文字通り血を流しながら書いたと言っていい。
その上で、超フラットに、予断を挟まず言えば、その可能性はないとは言えない。私のような人間はレトリックを使うのがうまい。そのレトリックの中にいつでも逃げ場を作り出せてしまうので、「可能性がない」と言い切るのはフェアではない。自分でも気づいていない可能性がある。
私の半生を占める水泳と、それがその後の人生に及ぼした影響について整理するために書いた記録である。
なお、当時は強いストレス下に置かれていたため、詳細を思い出せなくてぼんやりしている部分もある。
私は現在休職状態にあり、ADHDの診断を受けたところである。
精神科に通いつつ、投薬とカウンセリングの治療をおこなっている。
そしてカウンセリングを受けつつある今、自分がいまこうなっていることの底にはあまりに苦しかった水泳の記憶があり、それを直視することは避けては通れない道ではないかと思ったからだ。
(先生に直接「直視しろ」と言われたわけではない。ただ、「あなたの言葉はあなたの感情をひとことも説明しませんでしたね」、と言われ、その原因を自分で考えていたら、勝手にそこに行き着いたという話である)
正直に言えばそこに目を向けるのはめちゃくちゃ嫌で、前回のカウンセリングを受けてから2週間くらいメソメソメソメソメスティーソ泣いていたのだが、友達と遊んで少し息抜きをしたらちょっとした気づきと癒やしがあり、なんとか気力を振り絞れそうなので書いてみた。
早いうちに才能を見出され、小学校1年か2年くらいでヘッドハンティングのような形で選手育成クラスに移った。
当時、肉体にすごく負荷を掛ける練習方法が流行っていた時代だったから、シンプルに肉体的につらかった。スパルタが主流で、体罰は当たり前だった。
楽をしようものならコーチにも怒鳴られ叩かれ全員の前で吊し上げられた。そこまでは周りのみんなと条件は変わらないのだが、私の場合は母親もほとんど毎日練習を見にきていて(それほどに熱心な親は他にはいなかった)、仮にコーチに怒られなくても、母親の目から見て私のパフォーマンスが悪ければ、そのことを帰りの車の中で詰められる日々だった。
行き帰りは車で母親に送迎してもらっていたが、車の助手席に乗り込むと母親の「今日の練習について」の裁判が始まるので、毎日まるで犯罪を犯して法廷に立たされるみたいだった。キツい負荷の練習をこなしてやっと家に帰れるのに、すこしも安らいだ気分になれなかった。
でも、私は無理にでもやらせればやらせただけ、負荷をかければかけただけ、結果が出せてしまうタイプの人間だった。
父親も叔母もスポーツで学生時代に成功した経験があって、家系としても肉体的に優秀だったのだと思う。
それが母親の成功体験になってしまい、尻を叩けば叩いただけ結果が出るという思い込みを強化したふしがおそらくあるんじゃないかと思う。
長期休みに入るたび、朝夕2回の練習では足りないと別のプールに連れて行かれ泳がされた。この習慣は我が家では「こそ練」と呼ばれていた。
ただでさえキツい練習をしてるので嫌だったが、嫌がれば母親から「速くなりたくないの?」と頷くまで詰められる。
こうやって追い込めば追い込むほど結果が出たので、母はどんどんエスカレートしていった。
極め付けはようやく出来始めた友人関係を破壊されたことだった。
中学に上がると、小学生の選手育成クラスから中学生クラスに上がって、ここがジュニアの女子の選手としては一番上のクラスだった。その上に、高校生の男子のさらにその上澄みだけが入る、一番練習がハードなクラスがあった。
いま振り返ってみると、私はかなり発達障害的な特性のはっきり出た子どもであり、周りと関わるのがかなり下手だった。だから、キツい練習を何年も毎日一緒にこなしてきたというのにチームメイトと連帯感を育めなくて、ずっと浮いていた。浮いているのに才能だけあったから、周りからすると目障りな子どもだっただろうと思う。選手育成クラスというだけあってそこそこ実力主義ではあるので、幸運にもいじめられこそしなかったが(あるいは特性上あまり他人に興味がなく嫌がらせに鈍感だっただけかもしれない)、やっぱり浮いていた。私は人生を通してずっと普通になりたい、と漠然と願ってきたが、その願いはこういう環境のなかで醸成されてきたように思う。
(ちなみに、当時どのくらい浮いていたかというと、なんか男子たちが私に話しかけるのを何かの罰ゲームの一種として扱っているな、と気づいたことがある程度には浮いていた)
けれど、ここで話の合う友達ができたことで、この一瞬だけ練習に行くのが楽しかった時期があった。
私はもともと才能があったので、中学生のクラスを受け持っていたコーチにも期待されていたし、たくさん話を聞いてもらえて、私自身もコーチのことを頼れる大人だと思っていたし、期待に応えたいと思っていた。信頼関係を築ける大人との出会いがここであった。だから、このクラスでちゃんと私の記録は伸びていた。
だけど母はその伸びでは満足できなかった。
母にはいわゆる白雪姫の母コンプレックスみたいなものがあって、私が楽しそうにしていると不安になる性質だった。不安を感じやすく、その解消のために誰をどれだけ振り回しても良いと考える傾向があった。
私が楽しんで練習に行き始めた時、母は不満だった。私が苦しんでいないから、きっと負荷が足りないのだと考え、「娘の才能が無駄に消費されている!」と強く不安を感じたのだろうと思う。これでは速くなれない、と母は考えた。
そして、「上のクラスに上がりたいと言いなさい」と母は私に強要した。
私はかなり嫌がった。もともとジュニアの女子が入れる中で一番上のクラスではあったし、せっかく話の合う友達ができたのに、その子たちと話せなくなってしまうことも嫌だった。先生の期待を裏切ってしまうことにもなる。すごく抵抗があったことは覚えている。
母は私に、「あんな肥溜めみたいなクラスにいたら、あなたはダメになってしまう」と言った。
嫌だった。泣いて抵抗した気がする。あまり覚えていない。でも、最終的には「上がりたい」と言わされた。コーチはショックを受けていたと思う。でも最終的には上のクラスのコーチに頼んでくれて、私の(母の)要求は通った。
中学1年の女子が高校生の男子のクラスに入れられて泳ぐことになった。毎日階段をまともに降りられないくらいの筋肉痛になった。まわりはひと回り年の違う高校生の男子しかいないので、友達と話せる機会は減った。肉体の負荷は上がるのに、心の支えは何もなくなり、ただ苦しかったしつらかった。
私が苦しんだので、母の不安は解消された。
実際に大幅に記録が伸びた。一緒に泳いでいた高校生の男子より私は上のタイムを叩き出し、彼らにもよく頑張ったと認められた。中2のころにはジュニアオリンピックで決勝に残り、関東中学で優勝し、全国でも10本の指には入った。国体にも県代表で選出された。県で私より速い選手はいなくて、私がベストを出せばその度に大会新記録、県の新記録だった。母はこのことについて、自分が尻を叩かなければ結果が出せなかったはずなので、自分の手柄だと考えた。
注意して欲しいのは、これらの成果を私自身もまた喜んでいたことである。才能や能力があると見做されることは、特性持ちの人間にとっては他人から受けるマイナスの感情を弾く盾にもなる。母の手柄は、私を絞り上げ、苦しめて作り上げられたものであるが、同時に私を守るものでもあった。
「あなたは結果で他人を黙らせなさい」というのが、母の持論だった。母は私のために、心を鬼にして私を苦しめていたはずである。叩けば結果が出ることがわかっていたのだから。
この頃から、試合や合宿で遠征先に行くと、夜中にこっそり抜け出して、当て所もなく歩き回るようになった。特に裏道や暗い道を選んで歩いた。いま考えると、間接的な自傷だったと思う。酷い目に遭いたかった。私という価値が一気になくなってしまうくらい、誰かに酷い目に遭わされたかった。母が守る『私』という価値と、それに伴う苦しみが分かちがたく結びついていたために、母の目の届かないところで地味な自傷行為に走っていたのだと思う。
体に傷を残すようなことはできなかった。そんなことをした日に母を襲う衝撃と、その衝撃の余波を受ける自分のことを考えたら、とてもではないが無理だった。
しかし、こういう無理は続かないものである。ほどなくして精神的に破綻して、泳げなくなった。中3の秋ごろだったように思う。喘息を悪化させ、負荷のキツい練習から逃げ、最後は何か喚き散らして家に帰り、そこからしばらく練習に行けなくなったように思う。詳細は覚えていない。
だけど、そこで辞めるには水泳は私の人生で大き過ぎた。人生の大半を占める一大事業に等しかった。だからそこから高校2年の夏まで、通うスクールを変えて足掻き、ブランクを取り戻し、記録は少し伸びたし、インターハイにも出た。
ただ、大学受験に切り替えるならこの辺りがタイムリミットだった。結局、わたしはここで引退して受験に切り替えた。水泳のために自分の学力よりかなり下の高校に行ったので、辞めてからは予備校漬けになった。
受験勉強は圧倒的に楽だった。体の負荷も消えたし、学業は自分の特性から見ても結果の出しやすい分野だった。あまりにも結果が出やすくて、母も不安にはならなかった。躓きや苦しみも多少はあったが、水泳で受けたそれとは比べ物にならなかった。この時期、私と家族はかなり明るく過ごした。
大学には簡単に合格した。願書を出した大学ほぼ全てに受かった。
とにかく家を出たかったので、その名目が立つ大学を選び進学した。
ひとり暮らしをはじめて、やっと手に入れた自由を楽しんだ。でも1年目、ぜんぜん他人との関わり方がわからず、友達が作れなかった。小中高と水泳にかまけていて、相変わらず発達特性的な部分で学校でも浮いていたし、そもそも自分の偏差値より随分下の学校に行った(水泳にはリレーメンバーの都合がある)ため、頭の程度が均されている環境でほかの人間と接して友達になる機会がまったくなかったのだ。県大会で何度も優勝し、実家に腐るほどトロフィーがあっても、友達の作り方がわからなかった。この時点で、私の能力は社交性に比して随分歪だったと言えると思う。
ひたすら学校と家を行き来して、家ではゲームばかりやっていた。
1年の後半の方になってようやく所謂オタクサークルに入って、対人能力に似たような問題を抱えた人たちに出会い、それでやっと少し友達ができた。ここから就職活動が始まるまでは、楽しく過ごせていたと思う。彼氏もできた。
とはいえ、あまり成績は良くなかった。勉強したいと思って進学したはずなのに勉強に向かう気力が湧かなかった。どころか、水泳を辞めたことが傷になっていて、「どうせ最後には全部台無しにする、水泳だってあれほどつらい思いをして人生を捧げてきたのにそうやってダメにした」と囁く声が頭から離れなくて、あまり集中できなかった。
学業もそんな感じだったので、いざ3年になってもぜんぜん就職活動を進められなかった。というか授業もギリギリのラインだった。
振り返ると、つらい思いをして思春期を生き延びた先に、ようやく手に入れたご褒美としての『自由』がたった4年で終わることに全然納得が行っていなかったんだという気がする。他の人たちは将来を考える精神の準備ができていたのに、私には何もできていなかった。こんな人生の先に、また何十年も続く苦痛が待っていると思って、絶望感があった。
このあたりのことはぼんやりしているが、就職活動が出来なさすぎて就職留年した。ちょうどリーマンショックや東日本大震災の影響があった時期で、特に女子の就活は周りを見渡しても厳しかった。なので就職留年という言い訳は通った。
でも、留年したのに就活が全然ちゃんとできていなくて、とうとう親が乗り込んできた。希望する企業の傾向は決まっていたので、母親がマイナビリクナビでエントリーする企業を選んでくれて、エントリーシートや履歴書に書く志望動機などの文章としてこちらで考えたら、それを母が手書きで代筆してくれたりして、こんな大学生はおそらく他にいないなと思うほど過剰にサポートしてもらった結果、なんとか書類選考が通るようになり、面接を受けたりと就職活動らしいものを進めることができた。
面接が苦手すぎて苦戦はしたが、なんとか内定をもらった。たた、周りがちゃんとこなせていることも自分にはろくすっぽできないとわかって情けなかった。
このあたりもぼんやりしている。夏くらいに内定が決まって、そこからたしか全然ゼミに行かなかった。いや、たぶん特性的に並行してふたつのことができないので、就活中はゼミにも授業にも行けていなかった気がする。内定が決まった後、バイトはしろと言われてしていて、必要な授業の出席とバイトくらいはしていたが、ゼミに出てないので卒論が当たり前に書けなかった。英米文学専攻なので卒論は英語で書く必要があった。ぼんやり決めたテーマがあるくらいしかなくて、そのまま冬になった。ちょっと書こうとしたけれど当たり前に書けなくて、でもそれを就活を熱心にサポートしてくれた親には言えなくて、卒論提出の日に失踪した。1〜2週間家に戻らず、銀行口座の金が尽きたら死のうかなくらいの気持ちでいた。漠然と死のうと思っていたし、その時が来たのかと思っていた。
結局親に口座の金を引き上げられて、無様にも死ねずに戻った。怒られ、殴られ、彼氏にも心配をかけまくり、色々あったとは思うのだが、この辺りの記憶はぼんやりしている。
ひとり暮らしの家を引き払い、実家にカンヅメになって母親の監視のもと卒論を書いた。足りない単位のための授業とバイト以外の外出はさせないくらいの感じだったと思う。
ひとり暮らしの家を引き払った時、この時も家がゴミ屋敷になっていたので、ゲーム依存で病気だと親に疑われたが、ゲームは単なる逃避行動で、やれない環境であればあっさり辞められた。振り返ってみれば、何らかの支援の網に引っ掛かっておくタイミングがここだったような気がする。ただ、スポーツで結果を出し、世間的には良い大学に行ったような人間が、ゲーム依存なんかで病院に罹るのは外聞が悪い、という意識がなんとなく家族全員にあったのか、結局ここでは必要だったであろう支援とつながることはできなかった。
この環境でなんとか卒論を書いて卒業した。就職は結局バイト先に拾ってもらうかたちになった。
働き始めるととにかく眠かった。ひたすら眠かったことを覚えている。仕事でも会議でも寝てしまい、怒られて、怒られたあとは体が一時的に闘争反応というか覚醒状態になるので、それで過集中を起こし仕事を進めてなんとか巻き返す、みたいな感じだったと思う。昼に寝てしまうので夜は眠れなかった。その悪循環で昼にまた意識を失った。
本当は病院に行くべきだったと思うが、家に帰るとその気力もなかった。家の電球が切れて、ほとんど暗闇だったのにも関わらずその家を引っ越すまで電球を変えられなかった。1年以上真っ暗闇で生活した。歯が折れて激痛でも病院に行けなかった。ぎっくり腰でも行かなかった。ゴミ屋敷はここでも生産された。
この時期私は相当な困難を抱えていた気がするけれど、同時にどこか安心しているような部分があった。自分の価値がこうやって毀損されていくことに対する「ざまーみろ」という気持ちがあった。ちょうどこの頃、母親と完全に連絡を遮断して、実家と絶縁状態になった。直接のきっかけはなんだったか覚えていない。ただ、自分の価値がボロボロと溢れ落ち、人生がダメになっていくことについて、母親への不健全な復讐の欲求が満たされるように感じていたのは覚えている。
この状態を5年くらい続けて、3つくらいの現場を経験した。就職先は人売りのSESだった。
これは自分にとって大きな転換点だった。寝ているところを他人に見られないのでストレスが大幅に減り、なんとか自分が起きていられる時間帯に仕事を進め、眠りたい時は寝ていることができた。とても褒められた就業態度とは言えないが、それほど能力的なハードルが高い客先でなかった幸運もあって、なんとか巻き返しが効いた。この時期が一番平穏だったように思う。この現場が自分にとって一番長く続いたし、終わり方も案件ごと終了ということで円満だった。
リモートワークが終わり片道40分くらいの通勤の生活が数年ぶりにスタートする。10年近く戻っていなかった本社に知った顔はほとんどなく、コミュニケーションが得意そうな子たちの若い顔が並ぶ。すでにこの時点でうまくやっていけるか不安ではあった。
自社開発の案件にアサインされるも、やはり眠気の問題が復活し、怒られる。仕事も客先常駐とは違い、粒度の粗い仕事を上手いことやっておいてというような感じで振られるため、勝手が全然わからず、先の見通しが立たない。作業をうまくこなせず、進捗が出せない。学歴とスポーツの成績だけ見れば能力はあるはずだと思われているので、サボっていると見做される。寝てるよね?なんでコミットが全然出ないの?
年次だけは無駄に高いので直属の上司もおらず、まともな相談先もなく、周りの子たちは若くてこんなことを相談できる相手ではなく、結果誰にもうまく頼れずにひたすら信頼を失い続け、頼みの綱だった週1回のリモートワークも許可を取り消される。
社長から「新卒みたいなことを注意させないでくれる?」と言われる。怒られて、闘争反応になった勢いで、なんとかメンタルクリニックの予約を取った。
これらの問題は通院治療を開始したところでたちどころに解消するようなものでもないので、年末年始の休みを挟んだ後、ボツボツと休みが増え、雪崩れ込むように職場に行けなくなって休職開始。
心理検査(WAIS-Ⅳ)の結果、言語理解とワーキングメモリ・処理速度の間で有意差50を超えた。言語理解・知覚推理凸、ワーキングメモリ・処理速度凹のタイプだった。
この結果と、現在社会生活が送れていない実態をもって、5月ごろにADHDと診断された。
概観してみると、今の私を状態を説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。
特性を持って生まれた子どもが、いわゆる体育会系の世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援が Permalink | 記事への反応(21) | 22:15
たとえば大手観光地を無実の罪で性犯罪の街扱いにした著名人達を大手メディアがきちんと報道できるか否ってだけの話でマジョリティ云々は関係ないよ、できないならメディアとして困るなあという話でしかない
そして実際問題大手メディアから見逃されてる方はキャンセルされにくいのは事実で、今回はたまたま例としていくつか案件が挙げられていたけれど、それはどういう内容のニュース・事柄であってもそうでしょ
だから個々の案件の単純比較だけで「お前らが頑張ればいい」は無理だと言ってる
君は敵味方で考えて切り分けてそうだけど…
よし!便乗だ!!!
J-pop act Mrs. Green Apple removes ‘Columbus’ video after viewer backlash
www.れっぢt.com/r/japan/comments/1dfe0m7/jpop_act_mrs_green_apple_removes_columbus_video/
誰もこれが悪い考えだと思わなかったのですか? 本当に? チーム全員? J-POP スターが自分の家の外に何があるのか知らないのは受け入れられますが、監督、俳優、ダンサーは? 冗談でしょう...
驚くべき点は、これはコカコーラとのコラボレーションだったということだ。コカコーラが何か言うだろうと予想していたのに...
つい最近まで日本の歌手がブラックフェイスを使用していたことを考えると、おそらくそうではないでしょう。基本的に、どちらの人種/民族も日本人でもアジア人でもない人種間の人種差別については、ほとんどの日本人があまりニュアンスや理解を持ち合わせていないものです。これは言い訳ではなく、むしろそれがなぜ今でも起こるのかを説明するものです。
このようなことは、ほとんどの日本人が国際的ではないか、自国の植民地時代の歴史や世界規範について教育を受けていないために、頻繁に起こります。人々は、YouTube がグローバルなプラットフォームであることを忘れています。まったく驚くことではありません。
正直驚きませんでした。
また、比較的有名なバンド MY FIRST STORY のリードシンガー Hiro (別名 ONE OK ROCK Taka の弟) が、X に「最近は何でも怒りを呼ぶ」と中指の絵文字を添えて投稿したのも印象が悪い。おそらくこの一連の出来事を指しているのだろう。幸いにも、この発言に対して大多数の人が否定的な反応を示しているが... うん、もう彼らの音楽を聴くことはないだろう...
日本のユーザーから、この曲の名前を「ペリー」に変更すべきだというジョークを聞いた(笑)
正直に言うと、このビデオのコンセプトは理解できません。バンドのメンバーは(服装から判断すると)数百年前から、20 世紀半ばの島の家に運ばれ、猿たちがテレビを見てだらしない生活を送っているというのです。このビデオの意図する意味は何でしょうか?そして、反対した人々はその意味をどう捉えたのでしょうか?
情報が容易に入手できる現代において、無知は一部の日本人がこのような行為をすることの言い訳にはならない。
もしかしたら今や人々は、日本が日本人以外のすべての人に対して人種差別的な国であり、彼らの行為を非難されるべきだと気づくかもしれない。
日本は島の外の社会の進歩にまだ気づいていない。バンドの国際的なキャリアは、人間の愚かさのせいで突然、そして時期尚早に終わった。
「ミセス・グリーン・アップルは海外で音楽を披露することに興味を示している」この人たちはバカだ。日本でバービー映画の宣伝をしようとして、バーベンハイマーのミームを先頭にしているようなものだ。彼らは自分たちが参入しようとしている世界の文化や歴史をまったく理解しておらず、基本的に自分たちの無知を世界にさらけ出した。
まあ、人種差別は健在だ。ビデオの日本人のコメントを読むだけでも、
日本人と黒人のハーフである私にとって、このような状況は、日本では肌の色が濃い人に対して多くの人が未だにどんな見方をしているのかを思い知らされる。私はそこまで肌が黒いわけではないが、日本にいる間は目立っており、路上やバスで年配の人たちから意地悪な視線を浴びたことは言うまでもない。
こうしたケースは私にとって本当に奇妙です。過去に何も悪いことをしたことのない人やグループが、突然、世間一般の常識からすると二度考えさせられるような大きな失態を犯すことがあるようです。これについて怒ったり気分を害したりするというよりは、無知のレベルがあまりにも高いことに驚かされます。
日本社会に人種に対する無知があるのは事実だが、平均的な日本人の観点から見ても、その無知は異常である。反発があったのはむしろ嬉しい。過激なファン以外には誰も擁護していない
これ、コロンブスの歴史を肯定しているって言ってる人大丈夫?真逆だよ?
ただ、どちらにしても世に出せるものではないけどね。
これはハズレです。
「新大陸を発見した英雄は、実は先住民を虐殺した侵略者だった。」というメタがあったうえで、彼らは「だから僕らは友好的な方法で先住民と仲良くなる」という手段を選んだという解釈でしょ。
さらに、「彼らと同じ悲劇は繰り返さないよ。新しい楽しみを共有したら、自分たちは占領せずに次の場所を探しに出かけるよ。」というメッセージを込めて、ミセスたちは彼らの居場所から去るという結末。
っていうかちゃんと見た?コロンブスって名前だけで脊髄反射してない?
「内容は関係ない。コロンブスという題材自体が不謹慎。その変化に気づいてないのは歴史認識のアップデートが遅れている。無知は罪。」
そうした歴史認識があった上で、コロンブスという名前をメタとして活用したうえで、新しい共存の形を模索しようということが理解できなかったあなたの無知が罪でしかない。
それともコロンブスは特級呪物か何かで、口に出すだけで呪われるようなものでしたっけ?
そうなると世の中から消えてもらわないといけないものが沢山あるのだけど。
ほぼ歌い出しで500万年前と言ってる。
そもそも、相手が人間であっても残虐行為をしたコロンブスと比較したストーリーなのだから、更に遡って相手が類人猿であっても、楽しく仲良くすごそうとするのが現代的にアップデートされた価値観であり、今現在進行形で行われている戦争に対するアンチテーゼになってる。
プーチン、お前遅れてるなということ。
類人猿の感動ポルノを指摘する話もあったけど、あれだって「そもそも違う種族であっても悲しみは共有できる。それなのに僕たちは人間同士で」っていうメッセージでしかないでしょ。
それを不快と表明するのはもちろん自由だけど、単なるお涙頂戴のワンシーンだと受け取るのは考えが浅すぎるんではないかな。
出た。お前らみたいのがミゼットプロレスを中止に追いやって彼らから自立の手段を奪うんだよ。
そういう話をしている誰一人として、類人猿から「労働は辛いですか?」とう問いに対する答えをもらったか?
それを勝手に、「辛そう」「可哀そう」ってお気持ちを押し付けてるだけなのよ。
類人猿にとってみればこの段階では体力しか提供できるものがないから知識を得た変わりに労働力を提供しているだけでギブアンドテイクがなりたってるかもしれない。
それを切り取って、「類人猿は虐待されてる」って荒ぶるの、貴方がたが大好きな環境活動家とやってること同じだからね。
結局のところここに尽きると思うのだけど、彼らは実在したコロンブスのように本当に侵略と搾取を行なったのかということ。
このMV、100回見てもそうとは思わないのは俺がおかしいのか?
それとも開拓者はもともと生活していた生物に対して一切のリターンを求めずにギブだけしなきゃならないということ?
ギブアンドテイクって知ってる?
もっというとwin-win or No dealって知ってる?
知ってたらこんな批判するわけがないから、まだまだ人類は類人猿から怪我抜けた程度ってことを証明したに過ぎないよな。
・結局世に出せない理由
今回はコカ・コーラのタイアップ曲として作られたものなのだけど、どういう意図があったか説明しろと言われたら答えられるわけがないよなというのが、世に出せない理由。
だって、「侵略者であるコロンブスの間違いを正す内容で、彼らに支配されていた類人猿・日本人がここまで価値観をアップデートして欧米諸国にはできないような開拓マインドを作り上げました」という内容だから。
アーティストだからメッセージ性とは切っても切れない存在なのは仕方ないとして、彼らが世の中の全てアンチ的存在ならまだしも他者に説明を求められたときにしっかりと説明できないようならそんな表現はすべきではないよね。というのが増田の感想です。
キャンセルカルチャーで気持ちよくなりたいだけの人間には届かないことは諦めてるけど、それくらいは自分の脳みそで考えような。
類人猿ではないのなら。
財布に骨を入れて持ち歩いているとして、それはその人にとって大事なことだろうと思うから言及しないと思う。
一方、わたしがそういうことを受け入れようと思えるのは、相手がわたしにとても配慮してくれていて、
決して前の奥様と比較するようなことはしないし、劣らず大事にしてくれているのがわかるから
お骨を受けれいてほしいなら、相手にそれを伝える際も配慮したり、愛情が決して劣っているわけでないと伝えたり、
男性側も気を遣う必要があって、自分の辛いことをわかってくれ受け入れてくれ、だけじゃお付き合いは成立しないと思う。
それは死別してようがしてまいが人付き合いの基本だと思う。
私個人としては、コロン(ブス)を肯定的に捉えることは否定されて、
初期イエズス会士を肯定的に捉えること(聖人に列せられている者も多い)が否定されないことが理解できないので、
アジア進出当初は同じように原住民を奴隷化していた組織とその構成員について、なぜ否定されないのか論理的に説明してほしい。
コンキスタドールが征服した南米のインカやアステカって、当時のヨーロッパ人が帝国と名付けるほどかなり高度な政治体制を持ってたんだよな。
その後疫病で人口が十分の一近くまで減少したことで文化の継承が途絶えたため軽視されがちだけど、ずっと過疎地域だった北米とは比較にならない。
まあ大きな流れを動かしてるのはそういう卑屈な理屈だと思う。
あとまあそれが正しくないとも言えない。ある側面から見れば正しい。けど他の側面から見れば理不尽。なんで日本の私たちがアメリカの恥部にそんな気を遣わなきゃならんのやとは思う。ブラックフェイスは完全に日本人には関係なかった。日本には黒人奴隷を使った歴史はないんだから。
しかしまあ関係なくても人が嫌がってるのにあえてするならそれは悪意だし正しくない。正しさってそういう割と相対的だったり流動的だったりするものだと思う。人や立場の数だけ正義がある。あと強弱もある。
理不尽だけど間違ってはなくて、あるいはちょっと間違ってるけどなんかその方が役に立つとか、正しいけどそれは巡り巡って実は人命とか人々の生活なんかがかかってることがわかってるから無理だとか、いろんな理由があるけどそうなると最後はその正誤とは別に社会力学でどっちかに従わざるを得ない感じになることは私たちの日常生活から世界政治までどこにでもよくあることだと思う。
コカコーラは日本もそこそこあるけど結局アメリカが大きなシェアなのでそういうの捨て置けないのは当然だし、何が正しいか間違ってるかとか表現の自由だとか突っ張るほどの理由もここにはない。そもそもMVは何言いたいのかよくわかんねえし言いたいことなんか多分なかったし。
コカコーラという巨大企業に雇用される人たち全員の生活を守ることだと考えれば、契約一個切られたくらいですぐミュージシャン生命を絶たれるわけでもない人たちと天秤にかけても答えは明白だと思う。それもひとつの正義だとも言える。トロッコ問題ともいえるかもしんないけど。(あれにトロッコを脱線させるだとかそういう手段があったか?多分ないよね…)
余談でこれは私の想像だけど、多分担当者とミュージシャンの間で「ごめんねー、そんなに別に問題があるってほどじゃないと思うんだけど今こういうのあっちこっちうるさいからさー」とかそういう感じの会話があったんじゃないかって思ってる。大人って汚い!でもすごい気持ちわかる。私も大人だから。しらんけど。
あとはそれ見てそうかあれは悪いことだな!叩いていいやつ!ってなった人が、その理屈までは理解できないので自分なりに解釈してるんだと思う。
確かに理不尽なことは理不尽だし、そこに自分なりにも理屈をつけなきゃ叩けないし、まあ正義っていうものを理解したい、あるいは自分はわかってるって信じたいっていう欲求もあるのかもね。わかってないとこの世の中で生きるのは不安だし、だからみんな自分の中に世界のありようを認識しようとするし、わかんないことは想像で埋めたりする。正解かハズレかはさておき。増田のその問いもまさにそういった正義とか正しさとか何が間違ってるのかを理解したいっていう欲求から生まれてるのではないだろうか。
でもまあその前に書いたような、大体のことは社会の物理法則のようなものが人間を突き動かしてるよねとかそういう理屈がわかんないと、それはつまりなんでコロンブスがダメだって言われてるのかの問題提起への理解も足りなくなるので論理強度がいまいちで突っ込みどころ満載になっちゃうから、そういう人たちと話しててもわけわかんなくなると思うけど…
アメリカ人がここにきてコロンブス云々言ってるのも、BLMを経てアメリカの分断は国力を落とすってことを肌で感じたから、彼らの気持ちとか考え直さないとやばいってなってるからだと思うし(そして人間は群れることで生き残ってきた生き物なので、他人を思いやると脳汁が出て気持ちよくなるっていう遺伝子を持つ者が比較的多くてその快感を友愛や博愛、あるいは正義であると認識する)、その考えはアメリカ国民を守ることに繋がると考えればそれも彼らにとっての正義のうちのひとつだと思うし、それを咎めるようなことを言う理屈もない。正直そんな大昔にいたおっさんが何やったかなんかみんなどうでもいいんだけど、その扱いに自分たちの生活がかかってくるってなるから必死になるわけで、人が生きたいって思うことを誰が咎めることができようか?っておもー