「普遍的」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 普遍的とは

2024-10-30

anond:20241030155706

1. 国連委員会とは何か?

国連委員会は、特定テーマや分野に関連する問題について議論検討監視、助言を行う機関です。各委員会テーマごとに異なる目的を持ち、人権環境持続可能な開発安全保障などの分野で専門家加盟国代表者が集まって構成されています。例えば、「国連人権委員会」や「国連気候変動委員会」などがあり、それぞれの分野で国際的基準形成し、加盟国実践評価監視する役割を担っています

 

2. 国連委員会勧告とは何か?

国連委員会勧告は、加盟国に対してあるべき行動や改善を促す指針です。勧告は、法的な拘束力はありませんが、国際的基準価値に基づいた内容であり、各国が国際社会の期待に沿って行動するための参考とされます。例えば、人権委員会から勧告は、加盟国人権保護改善に関する施策に対する提言として用いられます

 

3. 勧告意思決定プロセス

勧告は、委員会対象国の状況を評価し、報告書国際的基準と照らし合わせながら作成されます。具体的な意思決定プロセスには以下の段階が含まれます

情報収集加盟国からの報告、専門家による調査NGO市民団体意見などを通じて情報収集します。

評価収集した情報をもとに、委員会専門家分析し、課題改善点を特定します。

勧告作成評価結果をもとに、勧告策定し、加盟国に対して提言として提供します。

合意形成委員会内での合意を経て勧告正式に決定されます

 

4. ガイドラインの有無

委員会には、国際法国連憲章、または特定条約協定ガイドラインとして存在します。例えば、人権委員会場合、「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(ICCPR)が基準となりますガイドラインは各委員会目的に応じて異なりますが、通常、国際的承認された条約協定に基づくものです。

 

5. 他の/過去勧告との整合性担保

国連委員会では、過去勧告や他の委員会勧告整合性を持たせるための調整が行われます国際基準一貫性を保つため、委員会内で情報共有や意見交換を行い、必要に応じて過去勧告と照らし合わせた検討が行われます。また、専門家同士の連携重要な要素です。

 

6. 勧告正統性

国連委員会勧告は、加盟国国際的義務基準尊重し、向上を目指すべきであるという立場に基づきます勧告は国際条約協定国連憲章を基盤とするため、普遍的基準依拠している点で正統性が認められています。ただし、勧告には法的拘束力がないため、各国が自主的に従う形となりますが、国際社会人権団体などの目があるため、国際的圧力がかかることもあります

2024-10-29

科学もまた信仰と言える?

科学もまた信仰である」という言説は、「科学的な知識絶対的な真理を保証するものではなく、一定の信念や仮定に基づくものだ」とする批判視点からまれものです。しかし、科学手法信仰には重要な違いがあり、「科学信仰」と見なすのは適切ではありません。以下に、科学信仰の違いを説明します。

 

1. 方法論の違い

科学手法は観察、仮説の構築、実験検証を通じて知識を構築するプロセスです。この方法により、科学経験に基づく「反証可能性」や「再現可能性」を強調します。カール・ポパーの「反証主義」によれば、科学理論反証される可能性があるため、常に修正更新可能です 。

信仰宗教的手法は、しばしば絶対的普遍的な真理を前提とし、その真理が神聖であり不変であると見なすことが多いです。宗教超自然的な存在教義に対する信念を中心とし、その信念の正当性経験反証可能性依存しません 。

 

2. 再現性反証

科学のもう一つの特徴は再現性であり、どこで誰が行っても同じ条件下で同様の結果が得られることを重視します。また、結果が反証されることを受け入れ、実証が積み重なることでその知識信頼性が高まります

宗教的信仰は、個人内面的な体験や霊的な啓示を重視し、再現性必須ではありません。むしろ絶対的教義や超越的な存在に対する信頼が重要視され、反証されることを前提にしません 。

 

3. 知識更新進化

科学自己修正的であり、新しい発見技術進歩に応じて絶えず知識更新します。例えば、ニュートン古典力学アインシュタイン相対性理論によって一部修正されましたが、それにより科学進化しました。

宗教における信仰教義は、一般歴史的に固定され、変化しないことがその信仰価値とされます特定の教えが絶対であるとされるため、科学のように容易に進化することはありません。

 

4. 結論

科学もまた信仰である」という見解は、科学限界仮定を指摘し、人間知識絶対ではないことを強調していますしかし、科学は常に新しいデータ反証に基づいて進化し続けるという点で、宗教信仰とは本質的に異なります信仰個人確信や不変の教義に基づくものであるのに対し、科学実証論理を重視する柔軟なプロセスです。そのため、科学信仰と同じ枠組みで論じることには、誤解を生むリスクがあります

 

: Popper, K. “The Logic of Scientific Discovery.”

: Eliade, M. “The Sacred and the Profane.”

: Kuhn, T. “The Structure of Scientific Revolutions.”

年代同性中央値より結構稼いでるんだけど

それで夫が嬉しいかっつったら別にそう嬉しくもないらしい

急な残業家事をかわってもらったりすると、仕方ないと理解はしつつも不満カウンターが回ってくらしい

そしてセックスするとカウンターが0になるらしい

私が急な残業が入る部署にいることも、家事飛ばすことも何一つ根本的には解決してないのに

セックスするとまあいいかとなるらしい、先送り効果すごい

アベレージ10日に1回くらいしてる

私がそこそこ稼ぐほうで、こういう年収二馬力やってるからこそ、この立地のこの家に住めてんだぜ~!的なところが妻として一番自負心を持っているポイントだったりするんだけど

そこに夫が価値を見出すのかは全くの無関係なんだなってことを強く感じる

私の容姿偏差値学歴偏差値年収偏差値を出したら、ぶっちゃけ年収学歴容姿になるはず

それでも効果なのはセックスなんだなあ、何も解決していないのに気が済むんだ

これを女性という性別の特徴にするのはなんか違う気がする、夫の傾向であり、これが男性普遍的によく見られるものであるのなら男性の特徴であると思う

女性の体が若いうちに性的資産資源として機能するとして、そう機能させているのは男性、ということを思う

あと、もうあまり若くもないんだけど

なんなんだろうね

(つらつら書いたけど多分、目減りしてくほうの価値より私が頑張っているところ相対的に優れてるところを認めてほしい気持ちがあるんだと思う、けど夫は親でも先生でもないし夫の感想は夫の自由なんだわ)

anond:20241029113226

この意見はいくつかの誤解や偏見、無根拠な結びつきが見られます

 

問題点矛盾

 

1. AIの「リベラル忖度」についての誤解

AIが「リベラル忖度している」という意見は、一般に誤解が多い部分です。現行のAI特定政治的思想に基づいて開発されているのではなく、倫理的ガイドラインや多様なユーザー尊重するポリシーに従っています。これらはAI偏見を減らし、安全包括的対話を促すために不可欠なもので、特定思想宗教意図的押し付けものではありません。また、AI開発企業は多様な社会的背景を持つユーザー使用適応することを目指しています

 

2. ポリコレ政治的正しさ)とキリスト教価値観の誤解

ポリコレ」「DEI(多様性公平性包摂性)」「ジェンダー」に関する価値観キリスト教価値観と結びつけるのは、根拠が薄いと言えますポリコレやDEIの概念は、宗教関係なく、社会的公正や多様性尊重目的とする普遍的理念です。ジェンダー平等多様性への理解は、キリスト教以外の宗教さらには無宗教の背景においても推進されています。これらを「キリスト教価値観」に限定するのは、これらの理念起源や発展を無視した見方です。

 

3. 教条主義との関連性の誤認

教条主義的」という言葉は、特定教義イデオロギー固執する姿勢を指しますが、AIは決まった理念押し付けるために存在しているわけではありません。むしろAI中立性や多角的視点を重視し、利用者の多様なニーズ対応することを目指していますAI目的特定思想価値観を広めることではなく、ユーザーがさまざまな観点から情報を得られるようにすることです。

 

結論

この意見は、AI特定宗教的・思想的な価値観押し付け存在だと捉える誤解や偏見に基づいていますAI倫理的ガイドラインに従って開発されているため、社会的な偏りを抑え、包括的で公正な対話を実現することを目的としていますAIの開発意図や実際の働きを理解し、特定思想に結びつけずに評価することが重要です。

2024-10-26

(続き)週刊少年ジャンプ史上最も重要マンガ25選(改訂版)

anond:20241026155116の続き

14.SLAM DUNK 作:井上雄彦 1990年42号 - 1996年27号

ハイキュー最終回を迎えた際、Twitter感想を漁っていたら、「なんでバレーしてるだけなのにこんなに泣けるんだろう」というファン投稿が目に入った。自分ハイキューで泣けるほどの感受性はとうに持ち合わせてなかったが、そこから数えて24年前にほとんど同じ気持ちを味わっていた。

井上雄彦作品通底するのは徹底したリアリズムである。彼が本作で行ったのは、本気でバスケットボールに挑む人間思考感情をつまびらかにするだけで面白くなるということの証明と、人気が出なかった時のため不良路線でも行けるような作風を選んだことだけである(当時バスケットボールマイナースポーツであったことに留意したい)。この結果、フンフンディフェンスを除くあらゆる要素が後世のスポーツマンガにリアリティ基準点をもたらすこととなった。

桜木花道バスケットマンに変貌するたった4ヶ月の物語は、命のやりとりや世界が終わることよりも一本のシュートの成否の方が遥かに切実で重要問題になりうることを、今なお我々に伝えている。

15.るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 作:和月伸宏 1994年19号 - (ジャンプSQで連載中)

講談社1970年代末期には後発のジャンプマン業界盟主地位を明け渡しているわけだが、それを奪い返す最大のチャンスが90年代後半に訪れた。DB幽白スラダンといった作品が終了した暗黒期のジャンプを、金田一はじめの一歩GTOを擁するマガジン苛烈に追い上げ、ついには発行部数で逆転したのである

その中で強引に看板作品祭り上げられ、ジャンプ屋台骨を支えることになったのが本作だ。後に和月伸宏は「次につなげたい」という気持ちで描いていたと語っている。明治という激動の時代の中で不殺剣士・剣心が刀を交える相手は、旧時代に未練を持つ者や、新しい時代の荒波に飲み込まれた者たちであった。黄金期と暗黒期の狭間で奮闘した本作のありようは、皮肉にもそこに重なって映る。

ワンピナルトが出てくるまでを空白期間にせず、少年マンガ誌の代表というジャンプアイデンティティを守りぬいたのは同時代の誰も比肩できない功績だ(幕張封神演義BOYSにこの役割代替できたか考えてみてほしい)。現代ジャンプ読者はもっともっと本作に感謝すべきだと、佐藤健超人的なワイヤーアクションを眺めながら思うのである

16.セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん 作:うすた京介 1995年52号 - 1997年40号

連載終盤、もはや燃え尽きる寸前だったといううすた京介は後年、「マサルさんシュールではなく、ベタシュールに見せていただけ」と語っている。自分を含め、多くの読者は同意しかねるだろう。彼が未来永劫に参照点となりうる新たなベタを作り上げたことに疑いの余地はないからだ。

本作はギャグマンガでやってもいいことの範囲を大幅に拡大した。キャラクターの行動原理なんてなくていい。話の展開は唐突でいい。絵柄は毎ページ変わっていいし上手くなくていい。読者が知らなさそうなパロディだって入れてよいのである現代観点では至極当然と思える要素を2年弱、全7巻に惜しげもなく詰め込んだ。

彼の次回作(ピューと吹く!ジャガー)ですらも、ついにその革新性を更新することはなかった。90年代にうすたに憧れ新人賞に応募した有象無象ワナビー達も誰一人として出来なかったことを考えれば少しは気が休まるだろうけども。

17.遊☆戯☆王 作:高橋和希 1996年42号 - 2004年15号

闇の人格を持つ主人公によるダークヒーローものというコンセプトで始まった本作は、ほどなくしてマジック&ウィザーズという架空TCGを中心にした物語に変化した。この変化が、数十枚の紙束を並べる行為を、玩具ゲーム業界において最も存在感のあるエキサイティングな遊びに位置付けることになる。

コナミでは社内の遊戯王関連の部署をしばしば「造幣局」と呼ぶそうだが、紙を刷って売上1兆円に到達するコンテンツなど他に存在しないことの証左である。こうした状況に、高橋和希の優れたキャラクターデザイン、ストーリー構成が大きく貢献したのは言うまでもない。ゲーム友情を育むツールになりうると示し、メディアミックスの力を世に知らしめた功績は間違いなく彼のものだ。

18.ONE PIECE 作:尾田栄一郎 1997年34号 - 連載中

世界で最も多く発行された単一作者によるマン作品について何か語るべきことがあるだろうか?まだ言及すべき余白が。本作のように自然カテゴライズを避ける作品というのは極めて少ない。友情、夢、自由、強さという最もありふれたテーマに挑み、ついにそのすべてを超然と飲み込み描き切ろうとする本作を何らかの箱に入れて理解するのは難しい試みに思える。

毎週月曜日ワンピを読んで喧々諤々と考察できる世界に我々は慣れ切ってしまった。30年間マン業界の頂点に君臨する男がいるという現実に。一定年代以上の人間にとって、本作の終わりがジャンプという雑誌終焉に見える人がいても無理のないことだ(今ワンピの次に長寿連載しているのはハンタを除けば2019年連載開始の夜桜さんである!)。ルフィ尾田栄一郎という二人の男の、幼少期から練り上げた夢の果てを世界中が見届けようとしているのだ。我々がこうした光景にふたたび立ち会えるかは疑わしい。

19.HUNTER×HUNTER 作:冨樫義博 1998年14号 - 不定掲載

幽白は極めて質の高い作品でありながら、冨樫義博が抱える巨大なアイデアの数々を収めきれた作品ではなかった。それでも仙水編と、その後に異例の月一で掲載されたレベルE前人未踏領域に踏み込んだ彼は、自身4作品目の連載においても既視感のある展開とご都合主義執拗なまでに避け続けた。彼の描くキャラクター達は自身が取れる最善の選択を積み上げた末に、我々が期待する最善以上のドラマを生み出す。幾度もの休載を挟みながら。

「今週の『HUNTER×HUNTER』は休載いたします」の表記(今はこれすらなくなったが)を昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらぬ平常心で見られるようになってもなお、自分に限ってはこんな感じであった───「HUNTER×HUNTER最終回を読める可能性があるというだけで、どんなクソみたいな人生でも生きる理由が生じる」

いまや冨樫は少しずつ体調を取り戻し、我々は一時期とは比べ物にならないほどコンスタントに彼の創り出す世界に触れることができる。何百何千もの作品ジャンプにおいて連載され、本作に近い作品、それ以上のものを期待し続けてきたが、その度に彼の偉大さを突き付けられるだけなのだろう。

20.テニスの王子様 作:許斐剛 1999年32号 - (ジャンプSQで連載中)

前例のないテニスマンガでの成功女性読者の流入クール生意気で強い主人公像、菊丸が分身して以降のテニヌ...といった誌面上で読み取れる新規性だけでは、本作のもたらした文化のごくごく一部しか語りえない。

1000曲近いキャラソン、出役としての役割を求められる声優たち、2.5次元文化の源流かつ若手俳優登竜門としてのテニミュ...現代における狭義のオタク文化の根を辿れば、必ずテニプリが残した功績にぶち当たる。「推し」という文化が、人間を描くあらゆるコンテンツ侵食して久しいが、許斐剛が生み出した世界は、ジャンプで築き上げられたあらゆるファンダムの中でもっとも複雑で永続的な強度を保ち続ける、史上最も「推す」に値する文化であり続けている。

21.NARUTO 作:岸本斉史 1999年43号 - 2014年50号

すみませんほんとに書くことが思い浮かびませんでしたでも世界的にマン文化を広めた功績は鳥山に並ぶと思ってますマジで

22.BLEACH 作:久保帯人 2001年36・37号 - 2016年38号

まりに多くの言及がこの作品になされ、そのどれもが口をそろえて言う。「描き分けが上手い...絵の引き算が上手い...ルビ振りのセンス...久保帯人中二病...ストーリーが薄い...」これらすべてはもちろん真実だ。

連載中、ワンピナルトブリーチの三枚看板最後尾というポジションが崩れることは一度もなかった。果たしてこの評価妥当だったのかは分からないが、少なくとも我々ネット民久保帯人センスバカにし過ぎたことに対し大いに反省すべきところがあるのではないだろうか。海賊忍者のような明確なモデルがいないのに、久保帯人はどうしてあれほどまでに洒落キャラクターセリフ回しを無尽蔵に生み出せたのか、系統立てて説明できる理屈は未だ見つからない。もしその答えが彼の脳内しかないとするならば、我々は本作を源流に大いなる歴史が作られていく可能性を認めなくてはならないだろう。

23.DEATH NOTE 作:大場つぐみ原作)、小畑健作画2004年1号 - 2006年24

デスノートという作品複数の点で極めて例外的成功を収めた。肉体的攻撃を伴わない心理戦、一切の引き伸ばしをしない、公権力宗教的崇拝、欠点の無い主人公ゴシックキャラ造形、ダークヒーロー、死亡エンド...

本作に散りばめられたこれらの要素は、すべて従来のジャンプ漫画では邪道、あるいは不要とみなされてきた要素であった。このような野心的な作品メディアミックスにおいても成功を収め、国民の誰もが知る作品となったのは驚異的だ。この作品が出たことは心理戦を描こうとする後世のマンガ家にとっては悲劇かもしれない。夜神月ほど賢く、悪どく、魅力的なキャラクター矛盾なく作れる人間大場つぐみくらいしかいないのだから

24.鬼滅の刃 作:吾峠呼世晴 2016年11号 - 202024

2010年代ジャンプを購読していた人間はみな共通してうすぼんやりとした不安を抱えていた。「ワンピの連載終わったらジャンプってオワコンじゃね?」

ジャンプの終わりという、週刊少年マンガ誌という形態の終わりと同義に思える未来を避けるべく、集英社は読者以上に血眼になって後継者を探し求めた。しかし我々の期待も空しく、トリコ暗殺教室ヒロアカソーマブラクロ約ネバドクスト呪術といった平成末期の傑作たちすらも、尾田栄一郎が築き上げた領域には辿り着けなかったように見えた───ただ一つの例外を除いては。

家族、友人への愛」「困難を乗り越える強さ」という普遍的テーマフォーカスした吾峠呼世晴の連載デビュー作は、あらゆる世代へ届く成功を収めた。特に劇場版無限列車編』は社会現象化し、国内興行収入1位を達成するなど、経済的にも文化的にも大きなインパクトを残すことになった。

出版業界の衰退、コロナ禍、趣味多様化といった逆境の中で、マンガが世界的なムーブメントを引き起こすことがまだ可能である証明した本作は、令和を生きる日本人心象風景に残る新たな「国民マンガ」として、時代に選ばれたのだ。

25.チェンソーマン 作:藤本タツキ 2019年1号 - (ジャンプ+で連載中)

ひとりのスター存在プラットフォーム価値定義することは古今ジャンルを問わずあることだ。ダウンタウンの登場がお笑い養成所という存在メジャーにしたように、米津玄師の登場がニコ動文化オーバーグラウンドものにしたように。

2014年に創立したジャンプ+というプラットフォーム目的である「紙とデジタルの垣根をなくし才能を育てること」が名実ともに達成されたのはいつだったのか?それは初めて本誌とジャンプ+両方でスターとなった人間の登場によって定義付けられる。

かつて秋田の片田舎から新都社に「長門は俺だ」という名前投稿していた少年は、その衝撃的なストーリー展開で我々を魅了する存在となった。ファイアパンチ以降、ジャンブ+はあらゆるWebコミックサイト、いや雑誌を含め、もっとも野心的な作品を読める場所ひとつとして認知されるようになった。

藤本タツキの本誌への到着は新たな才能の鉱脈インターネットに求める時代の始まりを告げ、媒体の違いというものマンガの面白さになんら本質的な影響を及ぼすことはないという事実を我々に突き付けたのだった。

anond:20241026132500

* 「当人たちをどうこう言うつもりはあまりないんだけど」:

> 口では否定しながら、中身は全否定典型的な「悪口は言わないけど」と言いながら悪口を言うパターン

>

* 「まあ言い方がよくなかったって言うのはあるんだろうけどねぇ」:

> 相手意見を表面的に認めつつ、本質的には否定的な態度。まるで上から目線相手を諭しているよう。

>

* 「個人事業主としてのプライドを持っているめんどくさい年寄り発言と思ってみると」:

> 年齢や職業理由相手を決めつけ、一方的否定している。このようなステレオタイプ発言は、建設的な議論を妨げる。

>

* 「内容自体はまっとうなのにって感じになるのは、自治会とかでもよく見かける」:

> 自治会という特定の場での出来事一般化し、まるでそれが普遍的現象であるかのように言っている。

>

* 「ただアレを批判していた層に、無投票政治に不満を持っている人たちをくさしている人たちがいて、ちょっと面白かった」:

> 相手意見面白がって嘲笑っている。まるで自分客観的立場いるかのように振る舞っているが、実際には自分自身も感情的に反応している。

anond:20241026132500

* 「当人たちをどうこう言うつもりはあまりないんだけど」:

> 口では否定しながら、中身は全否定典型的な「悪口は言わないけど」と言いながら悪口を言うパターン

>

* 「まあ言い方がよくなかったって言うのはあるんだろうけどねぇ」:

> 相手意見を表面的に認めつつ、本質的には否定的な態度。まるで上から目線相手を諭しているよう。

>

* 「個人事業主としてのプライドを持っているめんどくさい年寄り発言と思ってみると」:

> 年齢や職業理由相手を決めつけ、一方的否定している。このようなステレオタイプ発言は、建設的な議論を妨げる。

>

* 「内容自体はまっとうなのにって感じになるのは、自治会とかでもよく見かける」:

> 自治会という特定の場での出来事一般化し、まるでそれが普遍的現象であるかのように言っている。

>

* 「ただアレを批判していた層に、無投票政治に不満を持っている人たちをくさしている人たちがいて、ちょっと面白かった」:

> 相手意見面白がって嘲笑っている。まるで自分客観的立場いるかのように振る舞っているが、実際には自分自身も感情的に反応している。

2024-10-24

鴨長明老害である

鴨長明を「老害」と断定するのは、非常に難しい問題です。なぜなら、「老害」という言葉には、現代社会における特定価値観や年齢に対する偏見が強く反映されており、中世随筆家である鴨長明にそのまま当てはめることは、歴史的文脈思想的な背景を無視することになりかねないからです。

なぜ鴨長明に「老害」という言葉が当てはまりにくいのか

時代背景の違い: 鴨長明が生きていた鎌倉時代と、現代社会では、価値観社会構造が大きく異なります現代社会問題視されるような「老害」の典型的な行動や発言は、当時の社会においては必ずしも否定的評価を受けていなかった可能性があります

思想の深さ:

鴨長明は、出家し、世俗を離れて『方丈記』という深い思索結晶を残しました。彼の作品には、人生無常観自然への畏敬の念、そして人間に対する深い洞察が込められています。このような思想を持つ人物を、単に「老害」と一括りにすることは、彼の思想の奥深さを軽視することになります

言葉意味の変化:

老害」という言葉は、近年になって特に注目されるようになった言葉であり、その意味時代とともに変化しています過去の人物に現代言葉意味を当てはめることは、誤解を生む可能性があります

鴨長明思想から学ぶべきこと

鴨長明思想は、現代社会においても多くの示唆を与えてくれます。彼の作品からは、人生の儚さ、自然との共生、そして自己との対話といった普遍的テーマを読み取ることができます。彼の思想を学ぶことは、現代を生きる私たちが、自分自身人生について深く考えるきっかけとなるでしょう。

まとめ

鴨長明を「老害」と呼ぶことは、簡単ですが、彼の思想の複雑さや歴史的文脈無視した乱暴判断と言えるでしょう。むしろ、彼の作品に深く向き合い、その思想から学ぶべきものがたくさんあるのではないでしょうか。

2024-10-23

https://anond.hatelabo.jp/20241023130359

典型的論点ずらし乙だけど、真面目に回答すると、二次創作云々は本題ではないよ。成果をコミュニティ還元せずに独占する、というのはいわゆる「AI推進派」にだって言えることだというのはもちろんそう。俺もああいう連中が我が物顔でまっとうなAI研究者たちの成果にフリーライドした上に、無用対立を生んでAI社会適用をどんどん難しくしている現状には憤りを感じている。

からと言って、いわゆる「絵師」界隈の反応が創作一般において普遍的どころか、とても身勝手な態度である批判することは両立する。どっちもダメでしょ。

2024-10-20

「マジメ」な事をマジメな顔して言うとヘンな奴と思われてしまうかもしれない。社会生活の中でのそういう気付きが、心の柔らかい部分に気恥ずかしさという感情で鍵をかけてしまう。

生活のある、身に覚えのある言葉でそのガードを解く。

それを経ているからこそ、抽象化された普遍的ナイーブな混じりっ気なしの言葉がスルリと入り来んで刺されるのかもしれない。友達とのバカ話なら軽く流されそうな、口にするのも躊躇してしまうような言葉が。

歌詞にそういうセオリーがある事に割と最近になって気がついた。ジャブで崩してからストレートを入れるような。

最初から人生情熱が全てなんだよ!!!」とだけ言われてもあんまり響かない。お前に何が分かんだよって。

出かけるには遅くて寝るには早い、悶々とするばかりの時間とか。通勤ラッシュでもカッコつけて席をガツガツ取りに行こうとはしないけど、足踏んどいてイヤホン着けたまますまし顔の奴にイラつきながら座っときゃ良かったって思うとか。

そういう言葉生活重力怠惰や嫌気を綴ればガードが緩む。コイツ自分と視座を持っているのかって。そうなって初めて、それでも、それでも、と奮い立たせる言葉が輝く。

あんまりそういうテクニックめいたもの意識を向けると冷めてしまものもあるし、どうなんかなとも思うけど。

これを悪用するとインターネット悪口にもなるんだよなって思う。

歩くの早そう。チーズ牛丼食ってそう。誰にも反応されないTwitter独り言い続けてそう。滝沢ガレソバカにしてればいいと思ってそう。

陰気だからとてチーズ牛丼って言うほど食わないと思うけどな。子供舌とかそういうこじつけ方をしたいのかな。あれは言葉でなくイラストに引っ張られてんだと思う。

そうやってガードを緩めさせた隙に社会性がないだのザコだの好き放題罵倒すらば、「図星」でなくともダメージを与えられてしまうのかもしれない。

「身に覚えのある言葉」のチョイスが絶妙ラインを突いてるほど、他者への観察眼というよりは自爆テロめいた内省を感じる。

2024-10-19

そもそもWebでのレスバや議論なんてものは成り立たない

前提として、知識議論技術精神性が不足しているか

何よりも、お互いの偏った意見というのは、情報不足思考不足によるものだと思うので、足りないもの同士がクソを投げ合っても、問題解決どころか前進もあり得ない

chatAIの面白みのない普遍的情報正論を読んだ方が、よほど足りていない知識を埋められる可能性がある

2024-10-17

多少の背景を書いたら今度は蛇足だとか回りくどい無駄な長文だとか言われてるのが目に見えている。

夫婦とロバでしかないんだよな。

社会人としての通常の認識」というのも所詮あなた主観であって、私は私なりの正気の沙汰で文章を書いているに過ぎない。

逆にあなたもまた別の人から見れば「社会人の通常の認識」にかけた発言を今現在もしているかもしれない。

そういう意味でもあなたも常に批判されうる老夫婦とロバでしかない。

あなた正当化のために自分認識普遍的ものだと主張しているだけで、それを担保するロジックもどこにもないんだよね。

私をいくら差別と言ってもブーメランしかならないんだよ。詰んでるんだよ。諦めなよ。

anond:20241017035713

数学って普遍的からな。世の中の変化に全く依存してないから正しいことは未来永劫正しい

2024-10-15

恥辱オナニズム

無限地獄の底の底。天より堕ちて咽び泣く赤子よ。その身体を貫いた鉄柵は、ナパーム火の海にて捻じ曲がり、狂った音を立てて崩れる。燃え盛る火炎でオーガズムキャタピラ拍手喝采。切れた手、飛んだ手、俯く手。手が舞い、手が語る。切られたペニスと破られたヴァギナが、恍惚とした都市の裏側を今日も染め上げる。ジャーナリズムの威勢の良い軍靴もなお遠く、正義を語る瞳なし。否、瞳はあれど誰もそれを見はしないのだ。都合よく切り取られた悲劇の形が、誇張されたテロップの前で股を開く。「Lick my ass!」。劇薬食卓に並ばないが、中和されることもない。だがそこにある。

 地獄魔王説教悔恨懺悔室の爪痕に代わり、神の名は空虚に響く無意味な雑音となった。あるいは精神性の崩壊か。正義不正もない世界倫理なんて意味の無い世界。頭がおかしくなりそうだ。すべてを忘れて籠ればいい。そうすると後ろ指。ツァラトゥストラは何も語らないまま、結局はユダとなる。今度はアイコン象徴だ。麻袋に入れられた銀貨で、ロサンゼルス一等地を買い、首をくくって「価値創造される」と言うのだ。自分鋳造して、自分で破棄して、自分で投げ捨てて、自分で拾う。リサイクル装置と不満足な豚に違いなどない。だがそれは、満足な賢人も同じだ。

 結局のところ、賢い女はあの半島モスクで何人の人が殺されたのかを知らないし、知ろうともしないだろう。(言い訳無用。僕もそうなのだ。だから僕は今から死ぬよ)。その女はしかし、一方で派手な衣装に身を包んで大出を歩き、貧しそうな人を見つけて助けの手を差し伸べる慈悲の神を体現する一方で、夜には見た目で人を切り、蹴り、嘲る。その人と同じように、そして男はもっとそうであるように、自らの過ちを過ちと感ずることすらもできないほどに弱り切った人間を殺すのはいとも簡単で、それを皆子供の頃に実践する。アリを潰すのと同じくあっさりとやってしまうのだ。

 一つのシステムの、どうでもいいところ、見る必要のない所、関心のない所、意味の無いと思うところを堂々と切り捨てる。それを見て腹を立てた教師説教台に立って、愛と平和を謳いながら、夜中に誰かのペニスを切り取っている。「ここはあたしの部屋で、あんたは道具」。するとペニスの持ち主が言う「そうよ、だからあたしはあんたに使われたくなんかないの」。互いにペニスを噛みちぎり、互いのヴァギナナイフを突き立てる。血まみれのサラマンダーが吠えて、快楽を謳う。血まみれの享楽に溺れながら腰を振り、ナイフに己を貫かせつつ、相手侮辱し嬲る。その一部始終を切り取って値段をつけてスーパーに届けると、客は皆喜んだ。「ああ、助かる。何せ全く別物に変わってしまったのだから。もう元々の姿を見る必要はないのだから!」

 信仰に支えられたエレナの聖釘に貫かれて、毎日多くの死んだ魚が砂浜に撃ちあがる。そう、死んだのだ、あの心は。だれがしたか覚えているか

神のいない世界記者会見の席に立った永遠平和代弁者は、カントのようにこう言った。

「奴らの意志格率が、普遍的道徳法則に倣うように行為していなかった。故に我らは駆除したのだ」

2024-10-14

世界」というものの本当の形は「擬似的に5次元」なんだと俺は思ってる

空間」3次元+「時間」1次元+「頭の中」で擬似的に1次元=擬似的な5次元

今この瞬間に存在する物質的な空間についてはあくまで3次元だと思う。

でもそこに刻一刻と変化する時間が重なるので、表層的な部分でも4次元だと捉えるべきだと俺は間がている。

そこから更に人間認識して解釈しようとすると必然的個体差が発生する。

まり、俺達が「これこそが俺の認識している世界なんだ」と感じる時、それは5次元のものなんじゃないだろうか?

さらに言えば、今この場で自分認識している世界あくま自分がそう思っているだけで、あとになって振り返れば「あの頃そう思っていた」でしかなくなるんじゃないだろうか?

たとえば、「あの頃はユダヤ人が本当に悪魔だと思っていたが、ヒトラーに騙されていただけだった」といった変化が起きたとしても、当時の自分がどのように「世界」を認識していたのかは覆せないし、未来でどう考えているのかなんて予想までしか出来ないわけだ。


世界」を3次元だと思っているから、個々人の認識の差を認識できない

世界」が5次元だと考えると何が変わるのかと言えば、「世界」の広がりに対しての認識が変わる。

世界あくまで3次元空間に広がっているだけだと思っている人間が「世界は広い」と口にした時、その時考えている広がりは実際の広がりと比べると全くもって全然小さいということだ。

たとえば20年に1度の周期で大きな災害に襲われる地域に住んでいる人でも、その被害を目の辺りにしたことがない人と、実際に被害にあった人では、その災害地域に対しての認識がまるで異なってくる。

同じく災害にあった人でも偶然軽く済んだ人とそうでない人では全く認識が異なるだろう。

年配の人であれば2回3回と災害にあってそれぞれによって印象が違う人もいることになる。

まり、同じ地域に済んでいる人間の中であってもそれぞれに認識の違う「世界」が頭の中に広がっているとういことだ。

そんな所にフラっとやってきた旅行者が現地において過去の爪痕や伝聞について情報を集めた所で、彼らと同じ用に「世界」を認識することは出来ない。

だが、「世界」というもの所詮次元のものだと思っていると、今現在資料現場といった2次元・3次元情報収集だけで十二分に彼らが見てきたものと同じものが頭の中に描けると思ってしまうのだ。

つまる所、世界の広さというものに対して次元が違う勘違いをしていて、致命的なレベル世界の大きさを認識できてないということなんだな。

世界」は広く我々はそのうちの一部しか知らない

こんなのは当たり前のことなんだけど、「世界」の広さを大雑把にしか分かってない人はこの広さを勘違いして痛い目を見たりする。

普遍的パターンの組み合わせで世界仮想的にシミュレートしていけば、それなりの学習能力がある人間が50年ぐらい生きれば十分に世界コピー脳内に描けるのだと思い上がってたりもする。

そういった人達が「俺は世界を知っているんだ」と口にする時、それは多くの場合は何らかの失敗や不和への秒読みだ。

繰り返しになるが、「世界」というのは3次元空間にのみ広がっているのではなく、時間という広がりも持っているし、それが実際には個々人の頭の中でバラバラに広がっているものなのだ

それを軽んじて「今俺の眼の前にあるものこそが世界なんだ」と思っていれば、それぞれの人間の頭の中に広がる齟齬や、時間の裏側に隠されてしまった過去事実を取りこぼしてしまう。

傲慢人間の持つ最大の罪とされているが、「世界」の広さの取り違えというのはその典型的な例なのかも知れない


PS:実際の「世界」が4次元なのは俺も分かってる

SFなんかで「世界中の原子素粒子が今持っている状態を完全にコピーすれば、記憶も含めて世界を完全に再現できる」という思考実験がある。

かにこのような考えに基づけば人間の頭の中を流れる電気信号の一つ一つさえも物理的な現象でしなかく、3次元空間に広がる物理現象の一つなのだろう。

そしてそこに時間というスケールを加えれば宇宙の始まりから終わりまでとなり、「世界」は4次元の中で完結してしまう。

まあ、俺もそれは分かってるんだが、分かってるんだが、その場合における物理空間の驚異的なまでの情報量は俺達が普段使う「3次元空間」という言葉表現するには荷が勝ちすぎるように思ってる。

から俺はある種の思考実験的なものにより「人間認識できる程度の物理空間×それを観測する個々人の認識」という形での「疑似的な4次元」に時間をかけての「擬似的な5次元」を世界の形として考えているわけだ。

anond:20241014173402

村上春樹は、日本および世界文学において、いくつかの重要文学的達成を遂げたと評価されています。以下、多角的視点からその功績を分析します。

1. 文学史における位置付け

村上春樹は、1980年代から現代にかけての日本文学代表する作家の一人であり、特にポストモダン文学文脈で高く評価されています。彼の作品は、従来の日本文学伝統テーマから脱却し、グローバルな感性ポップカルチャーサブカルチャー積極的に取り入れることで、新しい文学スタイル確立しました。これにより、村上日本文学世界文学文脈で再定義する役割を果たしました。

2. 小説技巧

村上春樹作品は、独特な語り口、現実と非現実交錯するメタファーシンプルながらもリズム感のある文章で特徴づけられます。彼のスタイルは、読者を異世界に誘いながらも、同時に自己反省存在意味を問いかける要素を含んでいます。また、村上作品には、オープンエンディング多義的解釈可能な要素が多く、読者の解釈を促す手法が多用されています

3. 他の小説家との比較

村上春樹は、アメリカ作家であるレイモンド・チャンドラーカート・ヴォネガットジョン・アーヴィングなどの影響を受けていることを公言しており、それらの作家たちと同様に、日常に潜む異質な出来事シュールユーモアを取り入れていますしかし、彼の作品はそれを単なる模倣ではなく、独自日本的な視点感受性を織り交ぜて再構築する点で独特です。このことが、村上を単なる「翻訳的」作家にとどまらない存在にしています

4. 後世への影響

村上春樹の影響は、日本国内だけでなく世界中の作家たちにも及んでいます。彼の作品スタイルテーマは、多くの若手作家たちに影響を与え、村上の影響を受けた「ポスト村上世代」ともいえる作家たちが台頭しています。また、彼の作品世界中で翻訳され、幅広い読者層を獲得していることから村上日本文学国際的認知度を高める役割を担ったともいえます

5. テーマ普遍性

村上作品では、自己探求、孤独、失われた時間人間関係の複雑さなどの普遍的テーマが頻繁に描かれます。これらのテーマ現代社会の不安感や疎外感と強く共鳴することにより、多くの読者が村上作品共感を抱いています特に、彼の作品に見られる現実逃避や非現実との対話は、現代人が抱える精神的な問題自己探求の葛藤を反映しています

6. ポップカルチャーとの融合

村上春樹作品には、音楽特にジャズクラシック)、文学映画などのポップカルチャーが頻繁に引用されます。この要素が彼の作品に親しみやすさと多層的な深みを与え、特に若い世代の読者層に支持される要因となっています

結論

村上春樹は、ポストモダン文学旗手として、日本文学に新しいスタイル視点をもたらし、グローバルな視点での文学交流を推進しました。彼の作品現代社会の問題に対する鋭い洞察普遍的テーマを兼ね備え、後世の作家文学に大きな影響を与え続けています。その文学的達成は、技術的な革新だけでなく、世界的な文学文脈での再評価を促す点においても顕著です。

[] 『スクールバック』におけるevilとは何か

18話の豊先生の扱いは少し気の毒だったな。決定的にギルティと断じれるほどのことはやってないし、むしろ見方によっては善良な言動しかしていないようにも思えるけれども、作中での評価は「だるい」、「うざい」、「キショい」などと散々だった。挙句に「近寄らんで~きしょ~」と生徒に面と向かって言われる始末である

人情機微を繊細に描く本作において、豊先生に対する生徒たちの態度は多少ゾンザイにみえる。過剰な言葉を投げかける生徒が諫められることもなく朗らかに去っていく構成は、爽やかな描写に反して後味の悪さを感じた。“豊先生はそんな扱われ方するのも仕方ない”という“含意”がなければ成立しないほど雑な扱われ方だ。その“含意”が何かを考察するなら、これは豊先生が“本作におけるevil”に抵触たからだと思う。

まず、本作における“good”とは何かから考える(※ここでいう“good”というのは、界隈が使うevil対義語として私が便宜上使っているだけの胡乱な表現

本作における“good”の象徴伏見さんであることは明らかだろう。けれども作中での伏見さんの活躍実質的には微妙ものが多い。各エピソードの主役たちは何らかの課題や悩みを抱えているけれども、伏見さんは何か直接的にそれらを解決してくれるわけではない。いや、間接的に貢献しているかすら微妙ときもある。

しかし、それでも伏見さんが“good”の象徴たりえるのは、本作の作品紹介を読めば輪郭が見えてくる。

伏見(ふしみ)さんは、とある高校の用務員。背は高め。仕事熱心。缶コーヒーが好き。そして、丁度いい距離感私たちと話をしてくれる。 今、“自分大人だ”と思い込んでいる人に苦しめられている。今、自分がどんな大人になったらいいのか迷っている。 ちょっとでもそう思っていたら、ぜひ伏見さんに会いに来てください。ホッとしたり、気づきがあるかもしれませんよ。

引用の「丁度いい距離感」という所がミソだろう。つまり本作における“good”とは「丁度いい距離感」のこと。逆に言えば「丁度いい距離感ではない」こと、それに類する言動をする者がevilというわけだ。

近すぎるとevilだが、遠すぎるとgoodというわけではない。

以上を踏まえると、本作の1話なんて典型的に思える。本エピソードの生徒は中盤、痴漢被害に遭う。これは犯罪という時点で勿論evilではあるのだけれども、「丁度いい距離感ではない」という点においても本作のevil抵触している。そして被害にあった子に対して、両親たちはデリカシーに欠けた言葉を投げかける。身内関係であるからこその近さ、そこからくる両親なりの慰めの言葉ではあっても、それは当人が求める「丁度いい距離感からくるものではなかった。

そして遠すぎる場合evilとまでいわないがgoodともいえないよね、ということも提示する。被害に遭った生徒は自ら犯人を捕まえたため、その勇気を褒めたたえる人もいた。しかし、それは表面上の言動と態度から逆算したもので、行為のものに対する上澄みの評価だ。痴漢被害者への丁寧な気遣いをする者もいたが、これも紋切型であり寄り添ったものとはいえない。

じゃあ、何て言えばいいの?と思うのだが、当人自身よく分かっていない。当人が本当に悩んでいる核たる部分は、是非善悪とは別のレイヤーにある。しかも極めてプライベートミクロであるため、明確で普遍的な回答がない。だからこそ苦悩の袋小路に入る。

そんな苦悩に対して本作(伏見さん)は「何とも言えない」という選択をした。「何とも言えないこと」に対しての答えが「何とも言えない」というのは逃げというか、そもそも答えになっていない。けれども、その時の生徒にとっては“個”と向き合い「丁度いい距離感」で接してくれた結果、と受け取られた。

先生がキショい(evil)な理由

先生は常にニコニコとしながら、誰にでも分け隔てなく好意的対応をする善良な教師のようにみえる。けれども、これは誰にでも“いい顔”をしつつ、“個”と向き合わない不誠実な人物……という解釈もできる。つまり「丁度いい距離感」に対して無頓着であるため、“本作におけるevil”に抵触しているわけだ。

作中でのやりとりを挙げるならば、豊先生好意を持っている生徒が「(背が高い人が豊先生の好みだったら)牛乳を大量に飲まないとなあ」などといった軽口に対して、豊先生は「今のサイズ感が可愛いから、今のままでいいと思うよ」と返す。「(牛乳を飲みすぎて)お腹こわさないようにね」という気遣いも忘れない。その生徒が自身好意を持っていることを踏まえたうえで軽口に軽口で返した形だ。こんな調子で、豊先生八方美人の節がある。婚約者がいる立場でありながら、自身好意を持っている女生徒への対応は軽薄にみえる。知り合いの異性にも当然のようにプレゼントを贈ったりする。

けれども客観的にみて、それらをギルティとするのは決定打にかける。他人好意に対して毅然とした態度をとらないというのも実際には一長一短で、豊先生個人でどうにかできない範囲も含まれている。豊先生の振る舞いは節々に粘度を感じるよう描写こそされているものの、それでもって悪徳と断じるべきかは疑問が残る。けれども、何度もいうように“本作におけるevil”とは「丁度いい距離感ではない」こと。その点において豊先生無頓着であることは否定できない。なので生徒に「近寄らんで~きしょ~」と言われ、続けて「大人なんやから ちゃんとしいや~」などといわれる。

面と向かって「きしょ~」とか言ってくる若輩に大人としての在り方を説かれる筋合いはないとは思う。ただ、一応これも先ほど引用した作品紹介文から読解できる。

伏見(ふしみ)さんは、とある高校の用務員。背は高め。仕事熱心。缶コーヒーが好き。そして、丁度いい距離感私たちと話をしてくれる。今、自分大人だ”と思い込んでいる人に苦しめられている。今、自分がどんな大人になったらいいのか迷っている。 ちょっとでもそう思っていたら、ぜひ伏見さんに会いに来てください。ホッとしたり、気づきがあるかもしれませんよ。

「“自分大人だ”と思い込んでいる人」とは、つまり理想的ではない大人」と言い換えられる。

本作における「理想的大人」の象徴伏見さんとするならば、その逆のような存在が「理想的ではない大人」といえるだろう。つまり「丁度いい距離感」で私たちと話をしてくれないのはevilから先生はキショいし、「“自分大人だ”と思い込んでいる人」 だからちゃんとしいや~」ってわけである

最終的に「彼女がいるのに生徒や伏見さんに色目使ってた男」と評された豊先生は「エエ~……」と困惑するしかなかったが、仕方ない。豊先生の扱いは、本作の通底するテーマ価値観からみれば筋は一応通っている。それにしたってどうなんだと思わなくもないけれども、それは私の咀嚼と消化の問題でもあるから片隅に置いとく。

余談:伏見さんが理想大人(のように振舞える)構造

伏見さんが“good”の象徴理想大人メンター存在でいることができる理由ってなんだろうか。メタ的な推測になるが、まず「学校の用務員」という立場がある。

学生たちにとって、自身の抱える課題や悩みを打ち明けられる大人は少ない。主に両親や教師になってくるが、両親は身内であり近しい存在からこそ、かえって言えないことや言いにくいこともある。教師あくま仕事の一環として生徒と接するというフィルターがあるし、それも一人や二人ではなく数多ある生徒に対応しなければならない。他にもやらなければいけない仕事だっていから常に全力で応えてくれるかは難しい。

いや、そもそも本作において学生の抱える葛藤は、是非善悪だけでは語りきれないものが多い。そんなことで白黒ハッキリついて解決するのなら悩んでいない。そんな悩みに対して親身になってくれないのは嫌だが、がっぷり四つでも困るのだ。そんな悩みを抱える学生たちにとって丁度いい距離感で接してくれる大人がいたとすれば、それは酷く理想的うつることだろう。そのために学校の用務員という設定にしたのが絶妙だ。学校にいながら、親や教師が取りこぼしがちな生徒の機微個別に拾うことができる。心のケアをする必要のない立場からこそ、それをわざわざやる伏見さんの善性が際立つ。

本作の描き方からくるデメリットとしては「一概にいえない事柄なのに、メンター言動ベストになってしまいがち問題」はある。まあ、これは学園もの教師もの共通デメリットではあるけれども(典型的なのだと『GTO』の主人公とかは解決方法ほとんど破天荒だったり非合法だったりするが、少なくともその作品世界においてはベストとなってしまいがち)。あと伏見さんを理想大人として描写しようとするあまり、それ以外の大人犠牲になってるというか、簡便に描写されている感はある。豊先生もその一人だなって印象。

anond:20241014125230

こういう概念現象は薄く広くなって溶け込んでいくから最初インパクトを感じてた人が死んだと表現するのはありがちで普遍的なんだよね

弱者男性が嫌いな人に「なんで嫌いなの?」って聞いても、返ってくるのは大抵、外見だとか、態度だとか、社会的立場だとか、具体的な要素に過ぎないだろう。

それは「どこが嫌いか」を説明しているに過ぎなくて、「なぜ」嫌いなのかの説明にはなっていない。

結局、その要素がどうして嫌いなのかと何度も問うことができるだろう。でも、最後には「なんとなく嫌い。自分感覚価値観がそういうふうに反応するから」としか説明できないところに行き着く。

ひいては、弱者男性が嫌われるのも、最終的には「そういうふうに感じるから」という話になる気がする。

普遍的評価なんてあるのか?

「誰もが感動する本物」なんて、まるでグルメ漫画世界のようなもので、現実には存在しないのではないだろうか。

こういうことを考えると、社会的評価個人に対する批判論理的だと言われても、それって本当なのか?と疑問に思う。

価値判断や好みというのは、個々人の身体や脳に基づいたものであり、それ抜きにしては語れないものだ。その前提が共有されていなければ、どれだけ論理を展開しても、その理屈簡単に崩れてしまうだろう。

価値観のすれ違い

仮に事実だけで議論しても、それだけではどこか片手落ちな印象が残る。

結局のところ、最初から好きな者同士、嫌いな者同士でしか話が通じないのかもしれない。さもなければ、議論の前提が揃わない。

それでも、部分的には共感できるところもあるかもしれない。好き嫌いが一致するからといって、一枚岩というわけではないだろう。

倫理政治の交差

倫理学の議論って、どこに前提を置くかという話を延々と捏ねくり回しているような印象がある。それって、理屈というより、むしろ政治的な問題に近い気がする。

まらないと思っていたものを、理屈面白さを追求することができるのだろうか。好みの分かれる問題だって、すべてが強烈に対立するわけではないし。

好きと嫌いの間

好みというのは案外、慣れによるところが大きいのかもしれない。だが、どうしても無理なものは本当に無理だということもある。

好きでも嫌いでもないものを「好き」に引き上げることはできないだろうか。思い込みを「スパイス」にするのも、よくあることだし。

2024-10-13

消防士とか海難救助とか山岳救助みたいな人の命を救うための活動をしてる人でさえ

大前提自分安全を確保した上で可能範囲の救助なんだよね

なのになんで日本って国は可能範囲を超えて死にかけてる老人を助けようとしてるの?

これを言うと多分非人道的って言われるかと思うんだけど前提の通り助けようとする立場の人が命かけるのは本末転倒なのよ

例えば相手自分の親や親戚であれば自分の思いで支援するのは全然いいんだけど

社会の仕組みとして現役世代や若年層が命や将来を削りなから高齢者を生かす社会って果たして正常なのか自分にはわからないんだよね

現代価値観からすれば自分の言ってることは一般的に受け入れられないであろうことくらいは当然理解してるけど

その現代価値観っていうのだって決して普遍的ものではないし

こういう意見議論余地なく潰すのはそれこそ与えられた価値観になんの疑問も持たず外れたものを潰す時代迎合するだけの行動で

戦争期には戦争を後押ししてた奴らなんじゃないかと思っちゃうんだよね

ちょっと話はそれちゃったけど安楽死尊厳死自分はこれを制度化するなら医師許可制にする必要はあると思うけど)に関する話をするだけで

そいつは頭おかしいみたいなアレルギー反応起こす人はもう少し落ち着け

2024-10-08

anond:20241008133409

アンタみたいな理解をしている日本人結構いるのかも知れないけど、

侵略も略奪も人類普遍的歴史から諦めろ論を克服するために国際連盟とか国連とか国際法とかが作られた 文明人なら平和と秩序を求めろ 先人の涙ぐましい努力簡単に踏みにじるんじゃない

イスラエル人学者の書いた『ユダヤ人起源 歴史はどのように創作されたのか』を読め 長いからワイは少ししか読んでないけど書評を読んでイスラエル神話の胡散臭さを理解できた

旧約聖書という考古学的になんら根拠のないファンタジー(ただの神話)を実現させるために創られたのがイスラエルであり、

イスラエル人古代ユダヤ人末裔自称しているが、実は一つとして科学的な根拠はない」さらに言うとむしろそこにすんでいるパレスチナ人こそが古代ユダヤ人末裔であると指し示すDNA調査の結果がある

彼らイスラエル人虚妄に囚われたモンスターだ 日本人がかつて「日本神の国日本人神の子」と信じてたようなノリで21世紀の今を生きて周辺住民虐殺し、あの土地一体を全て奪おうとしている モンスターしか言いようがないではないか 

元々地球の平均的な自転一回転を24で割って60で割って更に60で割った時間を秒と名付けて

それに合うようにセシウム原子が9192631770回振動する時間って定義たか

宇宙の光の速度が不変だとしても別の宇宙人は別のものさしを使ってそうだよね

もっと普遍的単位を使うようにしないと国際社会では出遅れるんじゃないかなあ

2024-10-04

anond:20241004084729

任天堂キリスト教類似点について考えると、いくつかの興味深い共通点が浮かび上がります。以下にその点をまとめてみました。

1. 普遍的メッセージの伝達

キリスト教は「愛」や「希望」、「救い」といった普遍的メッセージを伝えることを目的としています。同様に、任天堂ゲームも「友情」、「冒険」、「成長」といったテーマを通じて、プレイヤーポジティブメッセージを伝えています。例えば、『ゼルダの伝説シリーズでは、勇気と知恵、そして力のバランス重要であることが描かれています

2. コミュニティ形成

キリスト教教会を中心にコミュニティ形成し、信者同士の絆を深める場を提供しています任天堂もまた、ゲームを通じてプレイヤー同士の交流を促進し、オンラインオフラインでのコミュニティ形成しています。『どうぶつの森シリーズでは、プレイヤー自分の村を作り、他のプレイヤー交流することでコミュニティ形成されます

3. 儀式と習慣

キリスト教には礼拝祈りといった儀式や習慣があります任天堂ゲームにも、プレイヤーが定期的にログインして特定イベントに参加するなど、ある種の「儀式」や「習慣」が存在します。例えば、『ポケモンGO』では、特定の日に特別イベントが開催され、プレイヤーが集まって楽しむことができます

4. 道徳的な教え

キリスト教道徳的な教えを通じて信者の行動を導きます任天堂ゲームも、プレイヤーに対して道徳的選択を促す場面が多く見られます。『マリオシリーズでは、プレイヤーが困難を乗り越え、仲間を助けることで、協力や助け合い重要性を学ぶことができます

5. 象徴的なキャラクター

キリスト教にはイエス・キリスト聖人といった象徴的なキャラクター存在します。任天堂にも、マリオリンクといった象徴的なキャラクター存在し、これらのキャラクタープレイヤーにとっての「ヒーロー」として親しまれています

ネガティブな点での類似性も考えてみましょう。

1. 依存

キリスト教の一部の信者は、宗教活動に過度に依存することがあります。同様に、任天堂ゲームプレイヤーに強い依存性を引き起こすことがあります特にオンラインゲームソーシャルゲームでは、プレイヤーが長時間プレイし続けることが問題となることがあります

2. 排他

キリスト教の一部の宗派は、他の宗教信仰排除する傾向があります任天堂ゲームコミュニティでも、特定ゲームプレイタイルを好むプレイヤー同士で排他性が生じることがあります。例えば、特定キャラクター戦略を使わないプレイヤー排除されることがあります

3. 経済的負担

宗教活動には寄付献金が伴うことがあり、信者経済的負担を強いることがあります任天堂ゲームも、特に課金要素のあるゲームでは、プレイヤー経済的負担をかけることがあります特にガチャ要素のあるゲームでは、多額の課金必要となることがあります

4. 現実逃避

宗教活動信仰現実逃避手段となることがあります。同様に、任天堂ゲームプレイヤーにとって現実逃避手段となることがあります特にストレスの多い現代社会では、ゲームに没頭することで現実問題から逃れることができるため、過度に依存することがあります

5. 誤解や偏見

キリスト教に対する誤解や偏見存在するように、任天堂ゲームやそのプレイヤーに対する誤解や偏見存在します。例えば、ゲームプレイすることが「子供っぽい」や「時間無駄」と見なされることがあります

これらのネガティブな点を考慮することで、任天堂ゲームキリスト教啓蒙思想には、ポジティブな影響だけでなく、注意すべき共通課題存在することがわかります

2024-10-01

anond:20241001133837

「男女逆にしたらセクハラだけど男だからセーフ」とか「黒人に対してだったら差別だけどアジア人からセーフ」みたいな現象現実的には起きてるかなと思う一方で、これを許容すると普遍的セクハラ差別基準って存在しないことになるので、建前上まずいのではないかという気がする。

普遍的基準存在して、それに対して違反しているから罪なんですよというポーズがとれない。時と場合や、相手によって変わる基準だと違反たからなんなんだと反論されてしまうのではないか

2024-09-28

anond:20240928090319

年をとると耳毛が伸びてくるのって、わりと普遍的な老化現象なんですかね。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん