はてなキーワード: 上天草市とは
最新の総務省のデータでやってみました。総務省|電子自治体|全国地方公共団体コードね。
なんか間違ってたら教えてね。
https://anond.hatelabo.jp/20170527201015
元ネタからすると無粋かもしれないが、読みやすくするため特定した。
市の横の数値は人口(万人)
S県K市の総人口は約256万人。総人口の約2%はS県K市に住んでいる。
K県K市の総人口は約374万人。総人口の約3.0%はK県K市に住んでいる。
I県K市の総人口は約130万人。総人口の約1.0%はI県K市に住んでいる。
S県S市の総人口は約305万人。総人口の約2.4%はS県S市に住んでいる。
A県T市の総人口は約147万人。総人口の約1.2%はA県T市に住んでいる。
N県S市の総人口は約93万人。総人口の約0.7%はA県T市に住んでいる。
逆にイニシャルだけで特定されてしまう市が県に50市,都道府に20市ある。市のイニシャルだけで特定される市はなかった。
希少なイニシャルは
R(4市 陸前高田市, 栗東市, 龍ケ崎市, 留萌市, ),
W(5市 和歌山市, 和光市, 輪島市, 稚内市, 蕨市),
E(7市 江田島市, 越前市, 恵那市, 恵庭市, 海老名市, えびの市, 江別市),
B(7市 坂東市, 備前市, 美唄市, 豊前市, 豊後大野市, 豊後高田市, 別府市 )など。
これらは県名イニシャルと合わせると大抵特定されてしまうが,I県R市(岩手県陸前高田市と茨城県龍ケ崎市),S県W市(埼玉県和光市と埼玉県 蕨市),F県D市(福岡県太宰府市と福島県伊達市),H道E市(北海道恵庭市と江別市),O県B市(大分県別府市,大分県豊後大野市,大分県豊後高田市,岡山県備前市),K県Z市(香川県善通寺市, 神奈川県逗子市, 神奈川県座間市)は複数存在する。特にZ市は3市すべてがK県に存在し,特定されない。
このような「安全な」市イニシャルはZ市とK市だけで,他は県イニシャルによっては特定されうる。安全な県イニシャルは存在しないが,個別に見れば季節のA県(秋田県)以外の東北各県,本州にないK県(神奈川県を除く香川県, 鹿児島県, 高知県, 熊本県),海があるS県(佐賀県、静岡県),海がないN県(長野県, 奈良県),A県(N県)(愛知県),すべての漢字が四画以上あるT県(富山県を除く徳島県、栃木県、鳥取県)には特定される市は無い。
県が特定されてしまうのはC県(千葉県),E県(愛媛県),W県(和歌山県)。しかしC県内の市は37と3県あるM県(36市)をしのぐうえ各市のイニシャルも噛み合い,特定されるのはO市(大網白里市)とU市(浦安市)のみ。一方E県(11市)W県(9市)は層の薄さから,前者ではS市(西条市, 四国中央市, 西予市),I市(今治市, 伊予市)以外の6市,後者ではK市(海南市, 紀の川市)以外の7市が特定される。
一見安全そうなのに特定される市はN県H市(長崎県平戸市),K県O市(神奈川県小田原市)など
竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日(天保13年3月15日) - 1917年(大正6年)3月31日)[1]は、日本の外交官、漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。
目次 [非表示]
1 来歴
2 主な著作
3 栄典
4 脚注
5 参考文献
来歴[編集]
肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田順左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身の医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮の宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門は儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。
1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅、木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都、江戸、奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。
1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市や玉名市で私塾を営んだ後、1875年(明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使に随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事、北京公使館書記官などを経て、1882年(明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。
1893年(明治26年)、東京帝国大学教授に就任し漢文学を講じた[1]。退官後、小田原に暮らし、76才で没した。1914年(大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士。従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎と結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学の総長となった木下広次が務めている[1]。