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2024-03-11

マッチングアプリで誘い出した男性因縁をつけ、現金と車を脅し取った疑いで少年2人が逮捕された事件共犯者として、さら中学生少女2人が11日、逮捕されました。2人は容疑を認めていて、逮捕された少年と同じく「遊ぶお金が欲しかった」と供述しているということです。

恐喝の疑いで逮捕されたのは、いずれも熊本市に住む中学3年生の少女2人です。2人は2月28日の早朝、すでに同様の容疑で逮捕されている少年2人と共謀し、玉名市に住む会社員男性因縁をつけ、現金約5万円と普通乗用車を脅し取った疑いが持たれています

警察によりますと、少女1人が「『美人局(つつもたせ)』というお金の作り方があるみたい」と交際相手少年や友人カップル犯行提案少女マッチングアプリで「成人女性」と称し、「友達と3人で会おう」などと男性を誘い出します。

待ち合わせ場所から少女の自宅に向かおうすると、少年らが現れ、「何しよっとや。誰や。金を出せ」と因縁をつけ、少年(16)が男性の車を無免許運転コンビニエンスストアATMで引き出させるなどして、男性から現金約5万円と車を脅し取ったということです。

2人は容疑を認めていて、「お金が欲しかった」と供述しているということです。

男性が脅された際、現場にはもう1人、少年がいたということで、警察は容疑が固まり次第、この少年についても恐喝の容疑で立件する方針です。

https://www.tku.co.jp/news/?news_id=20240311-00000004

2021-07-16

帰宅して」指示ルート守らず逮捕 容疑の女、改造オートバイ摘発後 熊本 | 熊本日日新聞社

https://kumanichi.com/articles/314348

小学校の通学路みたいなガキな事やらせているんじゃねーよwと思ったら

道路運送車両法違反使用経路制限指示違反)の疑いで、熊本玉名市アルバイトの女(20)を逮捕

阿蘇市西湯浦県道で、規格外マフラーなどオートバイ不正改造摘発された後、走行帰宅ルートに限る熊本運輸支局の指示に従わず、約4時間後に南小国町満願寺県道で同じオートバイ走行させた疑い。」

記事で使われている写真もセットで「あー…(乾いた笑い)」という「なるべくしてなった」という感想をもった。

2017-05-19

竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日天保13年3月15日) - 1917年大正6年)3月31日)[1]は、日本外交官漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。

目次 [非表示]

1 来歴

2 主な著作

3 栄典

4 脚注

5 参考文献

来歴[編集]

肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。

1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都江戸奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。

1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市玉名市私塾を営んだ後、1875年明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事北京公使館書記官などを経て、1882年明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。

1893年明治26年)、東京帝国大学教授就任漢文学を講じた[1]。退官後、小田原暮らし、76才で没した。1914年大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道創始者である嘉納治五郎結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学総長となった木下広次が務めている[1]。

 
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