はてなキーワード: 俎上とは
ツリーが伸びたら読まない人もいるので、投稿番号(31)で「興味がある論法」「なぜ『映画秘宝』ばかり批判するのか論法」「『映画秘宝』や町山智浩らに影響力は無い論法」を言い出した人に対する返答を、ここに転載します。【※2021/04/10さらに追記】島田紳助一派の悪行を告発した女性に対して「なぜ今ごろになって言い出すのか、その動機の方が気になる」と言う人間たちがいますが、ここでの「貴方」も同類だと私は思います。
=以下、転載=
【貴方】私の考える「面白い」というのは、興味関心を広げてくれる、新たな知見を得られるというものです。
【私】それは、差別的な言動、セクハラ・パワハラ的な言動の被害者の存在が「貴方の関心対象ではない」ことの証左でしょう。もっと言えば「町山智浩らの差別的な言動やセクハラについて、世間の人に関心を抱いて欲しくない」と貴方が考えているからこそ「興味関心を広げる」という欺瞞的な表現を用いて「世間の注目を逸らそうとしている」と私は解釈しています。
【貴方】端的に言えば、はてなの匿名ダイアリーで町山智浩氏をはじめとする映画秘宝関係者の過去発言をあげつらうことが、どのように差別やセクハラの解消に寄与するのかということです。
【私】端的に言えば「そもそも町山智浩らの差別発言やセクハラの事実を知らなかった人間が、多数存在する」からです。私の投稿は、そのような人たちに向けて書いています。問題を解決する第一歩は、問題(の存在)について知ることです。
「あげつらう」という表現を用いていることからも、この人物が、表面的には差別発言やセクハラ・パワハラの被害者のことを考えているように装いながら、本心では加害者の側に立っていることは明白です。
これを「馬脚を顕す」と言わずして何と言うのでしょうか?
=追記ここまで=
【貴方】町山氏の差別体質が現在進行形で問題とするなら、本人のTwitterや、あるいはTBSラジオ、週刊文春等も糾弾するべきでは?(すでに実行されているなら申し訳ありません)
【私】「女が突然マニアックなことを言い出したら男の影響」発言、『ボヘミアン・ラプソディ』に関するペニスリング発言、他人に対して同性愛者とカミングアウトするように迫る発言などを批判しています。と言うか、そんなことも知らずに(つまり、これまでの投稿をろくに読まずに)批判しているのですか?手抜きですか?
【貴方】そうでないなら、「映画秘宝」誌の炎上騒ぎに乗じて「おれも町山、ヨシキに言ってやるぜ」と個人的な留飲を下げる行為ではないのか?
【私】おそらく貴方は、他の社会問題が批判の俎上に上がった時にも、批判者たちに対して「個人的な溜飲を下げる行為ではないか」と言うのでしょうね。
【貴方】キャンセルカルチャー、コールアウトカルチャーではないのか?という疑念を持つのです。
【私】私自身は「キャンセルカルチャーではない」と考えますが、その理由も投稿済みです。手抜きをせずに読んで下さい。
【貴方】差別やハラスメントをなくしたい、その道筋を考えたいという問題意識は共有したいと思います。
しかしそれは表面的な態度をけしからんと言い募るだけで解決するのでしょうか?
現実には差別やハラスメントを糾弾すべき聖職者が実は悪質なセクハラ犯罪者だったという例もあるわけでしょう
【私】「表面的な態度がけしからん」については、話が全くの逆です。私は「町山智浩や高橋ヨシキが、自分たち自身が同性愛者差別やセクハラ・パワハラを行う加害者であることを『隠して』、差別や不公正と戦う人間であるかのように『偽装』している」と指摘しているのです。私は「『実は悪質なセクハラをしていた人間』とは町山智浩や高橋ヨシキである」と言っているのに、貴方は何を頓珍漢なことを言っているのでしょうか?
【貴方】私に「差別やセクハラの被害者に対する想像力」が欠如しているというご批判は当を得ているかもしれません。
【私】自分でも分かっているなら、何とかした方が良いと思いますよ。
【貴方】現実に「差別やセクハラの被害を受けた人やそれを目撃した人が抗議したり批判する場面に遭遇」したら、実際に問題解決のために協力できることがあるのかものすごく悩むと思います。
【私】「FBBは問題発言するためのユニット『だから』」と言うような人間にそんなことを言われて真に受けるほど、私はお人好しではありません。たぶん貴方は、現実の貴方の身の回りで起きた差別やセクハラ(の被害を訴える人間)に遭遇しても「あの人(=加害者)は、ああいう人『だから』」「もっと面白い、興味関心を広げてくれる話を聞きたいな」と言って済ませて、悩みもしないのではないでしょうか?
もしも今、貴方が悩んでいるとすれば「如何にしたら、町山智浩らに対する私の批判を止めさせられるか?」についてでしょう。
【貴方】ですから、はてなの匿名ダイアリーで告発しようという発想にはたどりつきそうにありません。それは私にとっては興味深い、「面白い論点」です。
【私】恫喝DM攻撃、個人情報漏洩をするような人間や集団を批判するならば、批判の手段も匿名化せざるを得ませんね。
【貴方】最初に述べたように、どのように差別やセクハラの解消に寄与するのか、ぜひ知見を賜りたい。
【私】上で述べたように、問題を解決する第一歩は、問題(の存在)について知ることです。それを理解できない人間が、いくら「知見」を求めたところで「豚に真珠」で「無駄」じゃないでしょうか。
【貴方】「別の論点」に関して言えば、数あるメディアの中でなぜ「映画秘宝」誌にこだわるのかということがあります。
差別発言やセクハラ発言を問題とするなら、他メディアと比べてそんなに違いや影響力があるのか、そういった論点も交えると増田の告発も説得力を持つのではないかと愚考するものです。
【私】たぶん貴方は、戦前・戦時中の日本の過ち(関東大震災当時の在日朝鮮人虐殺、アジア地域への侵出、南京虐殺、従軍慰安婦問題、戦時性暴力犯罪など)を批判する人間に対しても「他の国々も過去の歴史で過ちを犯しているのに、何故、日本のことばかりを批判するのか?何故、日本にばかり拘るのか?他の国々も批判すれば説得力が増すのに」と『反論』するタイプなのでしょう。
「大した影響力が無い」という馬鹿な言い訳を許して、見過ごし続けてきたことこそが『映画秘宝』内部でホモソーシャル集団的な病理を育み、差別的・セクハラ的・パワハラ的な言動を野放図に仕出かす人間たちを生む原因となったと、私は考えています。ここで「『映画秘宝』や町山智浩らは大した影響力を持たないの『だから』批判を止めろ」と言い出す人間は、端的に言えば『共犯者』に等しいと思いますよ。中小・零細企業で発生したパワハラやセクハラを、貴方は「大企業で起きた話じゃないから世間への影響は小さい」とか言うんですか?
【貴方】もし増田が実際に「映画秘宝」による差別やハラスメントを被った当事者なのでしたら、非礼をお詫びして、私にできることであれば協力するにやぶさかではありません。
【私】要するに貴方は「被害を受けた当事者でもない人間が批判をするな」と言っているのだと私は解釈しました。また、既に述べたように、貴方が被害者に協力的な人間だとはとても思えません。したがって、貴方の「協力するにやぶさかではない」という言葉も全く信用できませんのでお引取り下さい。それとも、もしかして「個人特定」を試みようとしているのでしょうか?
【貴方】さて、町山氏の活動でもファビュラス・バーカー・ボーイズはとりわけ露悪的な装いの表現と思いますが、
私の感想は「こんなこと言っていいの?でもなかったことにするのも違う気がする」というようなものです。
少なくともこの本を読んだ後では映画も素直に楽しんでいいのか?作品とプライベートの距離感とは?等々もやもやを抱えるようになりました。
しかし、差別やハラスメントの問題を考えるうえで一概に否定するものでもないととらえています。
もちろん、こんな表現はけしからんと批判するのも自由ですし、そもそも町山氏の著書を評価するかどうかも個人の自由ではないですか。
【私】個人の自由ならば、私が批判するのも自由ですね。貴方が自分の考えを言語化しないままに「もやもや」と言われても、こっちは賛同も批判もしようがありませんので「知らんがな」としか言えません。それこそ、貴方が「もやもやする」と言ったところで、それが差別やセクハラを無くすプロセスに、いったい何を寄与できるのですか?「一概に」と言うならば、その「一概には済ませられないこと」を言語化して下さい。言語化できないなら、ジャポニカ学習帳にでも「自分はもやもやする」と好きなだけ書き取りしていれば良いと思います。
【貴方】町山の本は差別的な表現に満ちていてひどい、と斬って捨てれば済むと思うのですが、なぜ逐語的に引用するのか?これもまた私にとっては興味深い「別の論点」です。
【私】私の投稿に対して「『映画秘宝』は一言一句『✕✕』とは言っていない。したがって『✕✕』とは言っていない」と『一言一句論法』を持ち出す人間がいたので、出典の明記と引用をするようになったのですが、その経緯も読んでないのですか?その経緯も読んでいない(調べてもいない)くせに「知見を得られる」とか「興味深い」とか、もっともらしいことを書いたのですか?何も調べないのだから、貴方は本当は興味なんて無いのでしょう。
【貴方】私の考える「面白い」というのは、興味関心を広げてくれる、新たな知見を得られるというものです。
【私】それは、差別的な言動、セクハラ・パワハラ的な言動の被害者の存在が「貴方の関心対象ではない」ことの証左でしょう。もっと言えば「町山智浩らの差別的な言動やセクハラについて、世間の人に関心を抱いて欲しくない」と貴方が考えているからこそ「興味関心を広げる」という欺瞞的な表現を用いて「世間の注目を逸らそうとしている」と私は解釈しています。
【貴方】端的に言えば、はてなの匿名ダイアリーで町山智浩氏をはじめとする映画秘宝関係者の過去発言をあげつらうことが、どのように差別やセクハラの解消に寄与するのかということです。
【私】端的に言えば「そもそも町山智浩らの差別発言やセクハラの事実を知らなかった人間が、多数存在する」からです。私の投稿は、そのような人たちに向けて書いています。問題を解決する第一歩は、問題(の存在)について知ることです。
「あげつらう」という表現を用いていることからも、表面的には差別発言やセクハラ・パワハラの被害者のことを考えているように装いながら、貴方が本心では加害者の側に立っていることは明白です。
これを「馬脚を顕す」と言わずして何と言うのでしょうか?恥を知れとはこのことですね。
―――追記ここまで―――
【貴方】町山氏の差別体質が現在進行形で問題とするなら、本人のTwitterや、あるいはTBSラジオ、週刊文春等も糾弾するべきでは?(すでに実行されているなら申し訳ありません)
【私】「女が突然マニアックなことを言い出したら男の影響」発言、『ボヘミアン・ラプソディ』に関するペニスリング発言、他人に対して同性愛者とカミングアウトするように迫る発言などを批判しています。と言うか、そんなことも知らずに(つまり、これまでの投稿をろくに読まずに)批判しているのですか?手抜きですか?
【貴方】そうでないなら、「映画秘宝」誌の炎上騒ぎに乗じて「おれも町山、ヨシキに言ってやるぜ」と個人的な留飲を下げる行為ではないのか?
【私】おそらく貴方は、他の社会問題が批判の俎上に上がった時にも、批判者たちに対して「個人的な溜飲を下げる行為ではないか」と言うのでしょうね。
【貴方】キャンセルカルチャー、コールアウトカルチャーではないのか?という疑念を持つのです。
【私】私自身は「キャンセルカルチャーではない」と考えますが、その理由も投稿済みです。手抜きをせずに読んで下さい。
【貴方】差別やハラスメントをなくしたい、その道筋を考えたいという問題意識は共有したいと思います。
しかしそれは表面的な態度をけしからんと言い募るだけで解決するのでしょうか?
現実には差別やハラスメントを糾弾すべき聖職者が実は悪質なセクハラ犯罪者だったという例もあるわけでしょう
【私】「表面的な態度がけしからん」については、話が全くの逆です。私は「町山智浩や高橋ヨシキが、自分たち自身が同性愛者差別やセクハラ・パワハラを行う加害者であることを『隠して』、差別や不公正と戦う人間であるかのように『偽装』している」と指摘しているのです。私は「『実は悪質なセクハラをしていた人間』とは町山智浩や高橋ヨシキである」と言っているのに、貴方は何を頓珍漢なことを言っているのでしょうか?
【貴方】私に「差別やセクハラの被害者に対する想像力」が欠如しているというご批判は当を得ているかもしれません。
【私】自分でも分かっているなら、何とかした方が良いと思いますよ。
【貴方】現実に「差別やセクハラの被害を受けた人やそれを目撃した人が抗議したり批判する場面に遭遇」したら、実際に問題解決のために協力できることがあるのかものすごく悩むと思います。
【私】「FBBは問題発言するためのユニット『だから』」と言うような人間にそんなことを言われて真に受けるほど、私はお人好しではありません。たぶん貴方は、現実の貴方の身の回りで起きた差別やセクハラ(の被害を訴える人間)に遭遇しても「あの人(=加害者)は、ああいう人『だから』」「もっと面白い、興味関心を広げてくれる話を聞きたいな」と言って済ませて、悩みもしないのではないでしょうか?
もしも今、貴方が悩んでいるとすれば「如何にしたら、町山智浩らに対する私の批判を止めさせられるか?」についてでしょう。
【貴方】ですから、はてなの匿名ダイアリーで告発しようという発想にはたどりつきそうにありません。それは私にとっては興味深い、「面白い論点」です。
【私】恫喝DM攻撃、個人情報漏洩をするような人間や集団を批判するならば、批判の手段も匿名化せざるを得ませんね。
【貴方】最初に述べたように、どのように差別やセクハラの解消に寄与するのか、ぜひ知見を賜りたい。
【私】上で述べたように、問題を解決する第一歩は、問題(の存在)について知ることです。それを理解できない人間が、いくら「知見」を求めたところで「豚に真珠」で「無駄」じゃないでしょうか。
【貴方】「別の論点」に関して言えば、数あるメディアの中でなぜ「映画秘宝」誌にこだわるのかということがあります。
差別発言やセクハラ発言を問題とするなら、他メディアと比べてそんなに違いや影響力があるのか、そういった論点も交えると増田の告発も説得力を持つのではないかと愚考するものです。
【私】たぶん貴方は、戦前・戦時中の日本の過ち(関東大震災当時の在日朝鮮人虐殺、アジア地域への侵出、南京虐殺、従軍慰安婦問題、戦時性暴力犯罪など)を批判する人間に対しても「他の国々も過去の歴史で過ちを犯しているのに、何故、日本のことばかりを批判するのか?何故、日本にばかり拘るのか?他の国々も批判すれば説得力が増すのに」と『反論』するタイプなのでしょう。
「大した影響力が無い」という馬鹿な言い訳を許して、見過ごし続けてきたことこそが『映画秘宝』内部でホモソーシャル集団的な病理を育み、差別的・セクハラ的・パワハラ的な言動を野放図に仕出かす人間たちを生む原因となったと、私は考えています。ここで「『映画秘宝』や町山智浩らは大した影響力を持たないの『だから』批判を止めろ」と言い出す人間は、端的に言えば『共犯者』に等しいと思いますよ。中小・零細企業で発生したパワハラやセクハラを、貴方は「大企業で起きた話じゃないから世間への影響は小さい」とか言うんですか?
【貴方】もし増田が実際に「映画秘宝」による差別やハラスメントを被った当事者なのでしたら、非礼をお詫びして、私にできることであれば協力するにやぶさかではありません。
【私】要するに貴方は「被害を受けた当事者でもない人間が批判をするな」と言っているのだと私は解釈しました。また、既に述べたように、貴方が被害者に協力的な人間だとはとても思えません。したがって、貴方の「協力するにやぶさかではない」という言葉も全く信用できませんのでお引取り下さい。それとも、もしかして「個人特定」を試みようとしているのでしょうか?
【貴方】さて、町山氏の活動でもファビュラス・バーカー・ボーイズはとりわけ露悪的な装いの表現と思いますが、
私の感想は「こんなこと言っていいの?でもなかったことにするのも違う気がする」というようなものです。
少なくともこの本を読んだ後では映画も素直に楽しんでいいのか?作品とプライベートの距離感とは?等々もやもやを抱えるようになりました。
しかし、差別やハラスメントの問題を考えるうえで一概に否定するものでもないととらえています。
もちろん、こんな表現はけしからんと批判するのも自由ですし、そもそも町山氏の著書を評価するかどうかも個人の自由ではないですか。
【私】個人の自由ならば、私が批判するのも自由ですね。貴方が自分の考えを言語化しないままに「もやもや」と言われても、こっちは賛同も批判もしようがありませんので「知らんがな」としか言えません。それこそ、貴方が「もやもやする」と言ったところで、それが差別やセクハラを無くすプロセスに、いったい何を寄与できるのですか?「一概に」と言うならば、その「一概には済ませられないこと」を言語化して下さい。言語化できないなら、ジャポニカ学習帳にでも「自分はもやもやする」と好きなだけ書き取りしていれば良いと思います。
【貴方】町山の本は差別的な表現に満ちていてひどい、と斬って捨てれば済むと思うのですが、なぜ逐語的に引用するのか?これもまた私にとっては興味深い「別の論点」です。
【私】私の投稿に対して「『映画秘宝』は一言一句『✕✕』とは言っていない。したがって『✕✕』とは言っていない」と『一言一句論法』を持ち出す人間がいたので、出典の明記と引用をするようになったのですが、その経緯も読んでないのですか?その経緯も読んでいない(調べてもいない)くせに「知見を得られる」とか「興味深い」とか、もっともらしいことを書いたのですか?何も調べないのだから、貴方は本当は興味なんて無いのでしょう。
アメリカの話?
人権問題で解決すべき問題が多いから、そっちから解決してるって言うのもあるとは思うけど。
貧困問題も、日々の生活に困る層へのサポートはあるんだろうけど、そのセーフティーネットにかからないそのちょい上の層の不満は溜まったまま。
再分配の問題はSDGsでも俎上には上がってるけど、まあ難しいよね。
【町山智浩に「庵野秀明にシンパシーを感じる」と表明する資格は有るのか?】
最近の町山智浩は、テレビで放送された庵野秀明氏の長期密着ドキュメンタリー番組を観て、庵野氏と自分を重ねてシンパシーを感じているようです。
正気でしょうか?
『シン・エヴァンゲリオン』の公開に伴う報道に拠れば『旧・劇場版エヴァ』の内容に不満を持った当時の熱狂的なファンたちが、庵野秀明の死を願うような内容の発言をネット上で盛んに行い、それらを見た庵野氏は大きな精神的なダメージを負ったとのことです。
さて、町山智浩は『シン・エヴァ』フィーバーに便乗して「オレは庵野秀明の苦しみを理解できる!」と言わんばかりに、庵野氏に対するシンパシーを盛んにTwitterでアピールしていますが、どれだけの人が真に受けるでしょうか?
町山智浩も大きく関わっていた『映画秘宝』は、年に一回、編集者/ライター/著名人/読者からのアンケートを集計して映画・役者等の「年間ベスト/ワーストテン」を発表していることで有名です。
それに伴う同誌の目玉企画の一つが「死んで欲しい奴ベストテン」でした。これは、駄作を世に送り出した監督や脚本家、勘違い役者、演技経験も無いのに起用されたアイドルやモデル、配給会社/広告代理店などのお偉いさん、気に食わない政治家、日常生活でムカついた相手など、様々な人間に対する怒りや憎悪をライター/編集者/読者がぶつけると云う、少しどころか「かなり悪趣味な企画」でした。
『実写版デビルマン』が公開された当時、あまりにもひどい出来ばえの為に、この「死んで欲しい奴ベストテン」において同作の監督・那須博之氏が大きく票を集めたことは、古株の『映画秘宝』読者ならばよく知っている事実です。
この企画からしばらくして、那須博之氏は病魔により亡くなりました。
そして、この「那須監督逝去」のニュースに対して町山智浩が、柳下毅一郎との対談において「『死んで欲しい奴ベストテン』で投票した皆の願いが通じたな!」と浮かれてはしゃいでいたことも、古株の『映画秘宝』読者ならばよく知っている事実です。
思えば、作品の出来ばえに不満を抱いた観客がクリエイターたちに対して、人間としての一線を越えた激しい憎悪をぶつけると云う悪しき世間の風潮を作り出した責任の一端は、町山智浩らが主導権を握っていた『映画秘宝』にも有るのではないでしょうか?
そのことに目を瞑ったまま、庵野秀明氏にシンパシーを感じると云う「自己憐憫」に浸る資格が、果たして町山智浩に有るのでしょうか?
なお、町山智浩が脚本家として関わった『実写版・進撃の巨人』が低評価を受けた際、忖度した『映画秘宝』界隈からの批判は「過去に同誌の『死んで欲しい奴ベストテン』で俎上に上げられた他の人間たちに比べれば、信じられないほど、遥かに小規模なものであった」ことも、併せて記憶しておきたいところです。ここでも『映画秘宝』関係者の「『敵』には厳しいが『仲間』には甘い」と云う行動パターンは発揮されていた訳です。
もう一度言いますが、果たして町山智浩には自己憐憫に浸る資格が有るのでしょうか?
【2021/03/26誤字・脱字等を訂正しました。】
https://anond.hatelabo.jp/20210318185716
最初に言っておくと、“擁護”という言葉、muchonovさんこそが批判されているというフェイズにおいてその様に用いられる“擁護”という言葉は、ただの批判回避でしかありません。『「xx批判」に対する批判』を「xx擁護」という事にしておくと、あくまで批判されてるのはxxだけという事に出来て、「xx批判」こそが批判されてる事実を誤魔化せる、そういう小手先のテクニックです。これはその意図の有無に関わらず、です。
自分は、著作物に対する著作者の諸権利には二次利用者の表現の自由に優越する要素が確実にあると思う。だから、著作権を持つコンテンツホルダーに対して二次利用者が配慮を示すこと自体は、何らおかしなことじゃない。「コンテンツに対する権利を持ってる人達がガチで怒ったらどうなるかわからないから、謙抑的にやりましょう」というのは二次利用者としてごく常識的な判断だし、自分だって似た状況が発生したらフツーに相手の「お願い」に従うし、何ならゴロニャンする。日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして、その忖度や阿りとのギャップを誰かに笑われても構わない。「それとこれとは別です」でおしまい。
いやいや、意味わかんないですよ、これ。
だって「発端」のブコメ(https://b.hatena.ne.jp/entry/4699940658477561058/comment/muchonov)は
「好意の多寡」云々と強弁してるけど、勇壮な表現の自由戦士たちが権利者の意向には簡単にゴロニャンするという構図は変わらない。自分たちからオモチャを取り上げる権利を持つ相手に屈服してるだけ
ですよね。
それに対してこちらが、それは“事実上の『私は「表現の自由」について全く理解していません』宣言”だよねと指摘して、そこにmuchonovさんから返ってきたブコメ(https://b.hatena.ne.jp/entry/4699974732078626146/comment/muchonov)が
そうかなあ? 自分は著作物に対する著作者の諸権利は二次利用者の表現の自由に優越すると考える一方で、元増田は「グロく描こうが殺そうが馬刺しにして食おうがなんでもあり」だと言ってるんですけど。
この時点で、もうだいぶ「????」なんですが、これについてこちらが『“著作物に対する著作者の諸権利は二次利用者の表現の自由に優越すると考える”様なmuchonovさんが“コンテンツホルダーの意向には簡単にゴロニャン”とか言っちゃうの、さすがに意味不明すぎでは。』と指摘して、それに対する応答が上の増田なわけですよね?(こちらへの応答だけのつもりではないにせよ)
日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして、その忖度や阿りとのギャップを誰かに笑われても構わない。「それとこれとは別です」でおしまい。
とか仰ってますけど、笑ったの、他ならぬmuchonovさん自身ですよね。その“笑われても構わない”って、それ「笑う側のmuchonovさん」からしたらつまりは「“表現の自由戦士”たちは、おとなしく我々に笑われてろ」の意味なわけですよね?うん、やばいですね☆
って、muchonovさんの中では、「著作権」と「表現の自由」が、かめはめ波の撃ち合いか何かみたいになっていて、「著作権」の方が勝ってる…という様なイメージなのでしょうか?
もう何度も述べてきている事ですが
「表現の自由」で最も重要なのは『価値観の自由競争(市場)』。『公権力からの自由』はあくまでその手段の一つ(もちろん重要だが)。『表現の自由度』はその結果。
です。
これは、『絶対に「正しい」とされる、そんな「思想」は存在しない。だからこそ、「思想」の媒体たる「表現」は常に「自由競争」の下にあらねばならない。』事こそが、「表現の自由」の根幹である、という話です。
また、「市場」の中で自身の「効用」を最大化する事は、個々の主体が持つ権利であるべきだから、という考えに基づくものでもあります。
ですから、もしこれを否定しようとするならば、『全人類が、それぞれの権利を放棄してでもコミットすべき、絶対に「正しい」とされる「思想」が存在する』と主張し、証明しなければなりません。完全に狂気であり、全知全能の神の召喚でも試みた方が早いレベルだと思います。
つまるところ、その根幹が「自由市場」である以上、各々の「私的所有(財産)」を認める事は「表現の自由」に織り込み済みだと考えるべきです。「表現の自由」vs「著作権」、どちらの方が“優越する”か(アクセルとブレーキ、どちらの方が強いか)みたいな話とは違います。
ですから、“日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして”も、「私的所有」を認める事に“ギャップ”はありませんし、もちろん笑われる理由も存在しません。
これはmuchonovさんに限った話ではないと思いますが、恐らく『「権利がある」というのは、「その“権利”を行使した時に不評を買わない権利がある」の意味ではない』という事を理解されていないか、もしくは失念されています。
他の言い方をすれば、『「ルール」に従うか/逆らうか』と『「ルール」を肯定するか/否定するか』は、それぞれ別の事柄だという話でもあります。
(一応言っておくと、個人的には例の“お願い”について、曖昧であり「忖度学級会」を誘発するものだとして、2018年6月時点で批判的にコメントしています。)
また、「私的所有」を認めるという事は、その是非(その「大きさ」の妥当性や、そもそもの有無等)を問わないという意味ではありません。それは「表現の自由」とは別個の問題として論じる事ですし、今回の流れで言えば、もう少し著作権に関する是非は、議論の俎上に載ってもよいだろうと考えます(個人的には著作権はもっと「小さく」していくべきだと考えていますし、むしろ逆に「大きく」なる傾向のある現状については危惧しています)。
実際、話題になった「馬名のパブリシティ権」の話は、その辺りが問われた件だとも言えるかもしれません。もちろん逆に、「せやかて、やっぱ馬名については馬主が優先的ステークホルダーであるべきやろ」と主張するのも、それはそれで一つの考えでしょう。
どうであるかと、どうあるべきかは、やはりそれも別の事柄なのですから。
muchonovさんは二者の関係を「権利者と利用者の力関係」と述べており、もちろん嘘ではないのですが、それ以前にまず「供給主体と需要主体」の関係である事を忘れてはなりません。
コンテンツの二次利用は権利者のお目こぼしのもとで成り立ってるグレーゾーンで、『お願い』を無視し続ければより厳しい使用規制が課せられたり、コンテンツ自体が供給されなくなっちゃう危険があるから、みんなそれを避けるために『お願い』を遵守してる。
供給側としては、コンテンツに対する需要がなくなってしまう事こそが最も恐れる事態の一つであり、つまり(馬主のご機嫌よりもよほど)需要側のご機嫌こそを気にしなければならないわけです。趣味で製作しているアートか何かではないのですから。
恐らくは、だからこそ曖昧な“お願い”なのであり、また2018年6月20日なのでしょう(せめてアニメ放映中には冷や水を浴びせたくない、夏コミが控えてる、ゲームはしばらくリリースできそうにない…というタイミング)。
そしてもし、muchonovさんが記した様な「逆転現象」が起こるのだとしたら、それこそが「惚れた弱み」であり、正に元増田が述べていた状態そのものなのです。
「お客様は神様」と「殿様商売」との間で揺れ動く、その実に「自由市場」的な動きの中で「表現」の在り方も変動するというのは、むしろとても「表現の自由」的である、とすら言えるでしょう(元増田に、そこまでの考えがあったとは思わないし、個人的にはやはり「忖度学級会」には否定的だが)。
にもかかわらず、それを“バカみたいじゃん。”と切って捨てるmuchonovさんの発言のほうが、よっぽど“バカみたい”なのではないでしょうか。
HanPanna 価値観の自由競争というのはrag_enさんの造語なので、法学だと思わないように(もし学説があれば教えて下さい)"思想の自由市場"について知りたいならコチラのブログのが良いです。https://arecolle.hatenablog.com/entry/2021/03/06/124923
“法学”ってどこから出てきたん?というか、『公権力からの自由』はあくまでその手段の一つでしかないよ(大切だけどね)って話、してありますよね?ちゃんと読んでます?
なんか理解されてないようですけど、その箇所への反論は「ちゃんとできるようにしてある」んですよ。つまり『全人類が、それぞれの権利を放棄してでもコミットすべき、絶対に「正しい」とされる「思想」が存在する』と主張し、証明してみせればいいだけなんです。はい、頑張ってください。
まぁ、HanPannaさんが同じ話題でやらかすの、これで3回目ですし、間違った事でも言い続ければ押し通せるみたいなの、完全にオカルトなんで勘弁してください(HanPannaさんに許可を頂ければ、過去のやりとりも晒しますよ)。
あとリンク先、よりにもよってU.G.R.R.の人かよ…ギャグで言ってるのか?ってのが正直な感想ですけど、ぶっちゃけ謎の(マジで謎の)出禁を食らってるので(とはいえ、さすがに閲覧不可は無視するが)言及は避けておきます。やさしみ。
Silica ところでこの"価値観の自由競争"の中では寛容のパラドックスはどうなるんだろう、この人の言う"SJ"的な価値観がその競争に勝利したらどうなるの?
「人間性には問題が有ったかもしれないが、彼ら(町山智浩・柳下毅一郎・高橋ヨシキ・てらさわホーク)の本業である映画について書かれた記事や本をこれまで読んで楽しませてもらった」と言う人も散見されます。そこで今回は「そもそも、彼らの本業の部分である『映画について書く/語る能力』も、本当は怪しいものではないのか?」と云う点について、てらさわホークを事例として書きたいと思います。
雑誌『映画秘宝』では近年、クリストファー・ノーランをディスる傾向が見られました。おそらく、柳下毅一郎がクリストファー・ノーランを嫌うようになった事が原因なのだと思います。雑誌『映画秘宝』のホモソーシャルな環境の下、柳下毅一郎オジキのご機嫌を損ねないように、子分たちは必死でクリストファー・ノーランを腐すことで忠誠心を示していたのです。それも『映画秘宝』内部だけに留めておけば、馬脚をあらわさずに済んだのかも知れませんが、今となっては完全に後の祭りです。
発端は、映画『マン・オブ・スティール』が公開された当時、てらさわホークがクリストファー・ノーランを叩く記事を『映画秘宝』以外の場で執筆したことでした。ちなみに、本作におけるクリストファー・ノーランは原案・製作であり、監督や脚本ではありません。監督はザック・スナイダー、脚本・原案はデヴィッド・S・ゴイヤーです。
てらさわホークが執筆した記事は、大まかに言えば「原作や過去のスーパーマン作品には無かった要素や描写を、クリストファー・ノーランが付け加えた事によって映画『マン・オブ・スティール』は出来が悪くなった」と、ノーランを糾弾するといった内容のものでした。ところが、てらさわホークよりもアメコミ事情や映画に詳しい(だけでなく、作品との向き合い方についても遥かに誠実な姿勢の)人がはてなユーザーの中に存在した為に、てらさわホークの怪しい点が明るみに出ることになりました。この人が「てらさわホークが『原作や過去のスーパーマン作品には無い』として挙げた事柄は、実際は、いずれも原作や過去作品の中で描かれている。てらさわホークは、原作であるアメコミをきちんと読んでいないのではないか?」と、てらさわホークの『事実誤認』を指摘する記事をはてなブログにアップしました。
この指摘について、てらさわホークは反論文を自身のはてなブログにアップしたのですが、この時、てらさわホークは『致命的と言ってもよいミス』を犯しました。何と、てらさわホークは「それらが原作のアメコミで描かれている事実について、自分も知っている」と反論したのです。その結果「知っていたのならば、ノーランのイメージを悪くする事を意図して『ノーランが原作や過去作品には無かった要素を付け加えた』と云う嘘を故意に書いたのではないか?」と、てらさわホークには新たな批判が向けられる事態になりました。この新たな批判には答える事が出来なかったため、てらさわホークはブログのコメント欄を閉鎖して現在に至ります。
実際にどのような遣り取りがされたのかに関して興味がある人は、はてなブックマークなどで検索してみましょう。今でも読めると思います。
現在のてらさわホークは、アメコミ原作映画に関連する仕事を幾つも手掛けているようですが、彼が本当は「アメコミ事情に暗くて知識に乏しい」のか、それとも「知識は有るが何らかの理由が有れば平気で嘘を書き散らかす」のか、プロフェッショナルのライターとしての自身の能力と姿勢を、てらさわホークは明らかにするべきではないでしょうか。個人的には後者だと推測していますが、このように能力に疑念を抱かれるようなライターが「アメコミの有識者」であるかのように居座り続ける事を許している現状を見ると、本邦の映画ライター業界は余程の人材不足なのでしょうね。
ところで、パワハラ問題の発覚後の3月1日に柳下毅一郎がTwitterで出した謝罪文には「ヨシキくん」の文字は有れど、てらさわホークの「て」の字も見当たりませんでした。もしかして「高橋ヨシキ『ら』」と書いてある『ら』の字が「て『ら』さわ」の『ら』の字なのでしょうか?あれだけクリストファー・ノーラン叩きを頑張ったのに、てらさわホークに対して柳下毅一郎は少し冷たいと思います。『事実誤認』の指摘に対する反論文をブログにアップした時も、てらさわホークは「どうしてクリストファー・ノーランに対して(自分は)カリカリしてしまうのか」と白を切って、ノーランを叩く理由について口を割らなかったんですよ。子分の鑑じゃないですか。
どこにあるんだ
人類機械文明の代表としての車を、大自然の暴威・非科学の化身としてのドラゴンが犯す そこにマゾヒズム的快楽を見出す、みたいな話だろうと思うと理解できるし、そもそもセックスの延長である時点でまあ普通性癖(誤用)の範疇だ
ドラゴンカーセックス絵を見たって、「面白い」「世界は広いなあ」「これマジなのか?」くらいの感想しか湧いてこない べつにダメージは負わないんだ
やっぱり、人格排泄くらいの、見ただけでわりと忘れられないほどの衝撃を受ける性癖(誤用)になってはじめて最強議論の俎上に乗れる感じがある
増田にすら書くのをためらう感じがある スカトロ度は低いんだけど、ジワーっとくる嫌〜な感じがある
なんか、消化器官にとどまってるうちに、人間の人格を吸収する、謎のゼリーみたいなものがあるんだ
それが体内にあるうちは人格を保ってられるんだけど、排泄してしまうと、ゼリーに人格が乗っていってしまって、廃人になる
スカトロ系の、「尊厳を保つために我慢していたが、ついに限界を迎えて決壊してしまう」っていう要素をさらに強化した感じなんだろうな、理屈としては
ただ我慢できずに排泄をしてしまうだけではなく、その行為によって自身がもの言わぬゼリーになり、実質的に死んでしまう その要素を加えることで、一種リョナ的な雰囲気も足されている
すごいんスよマジで 個人的には四肢損壊とかより全然怖い しばらく嫌な気分が残るもんな
<モルゲッソヨ化>みたいなジャンル(?)もあるっぽい 人格排泄の人と同じ人が描いてた気もするから、もしかするとひとりとんでもない奴がいるってだけなのかもな
モルゲッソヨ化は、比較的オーソドックスな石化あたりの延長にある なぞのずた袋みたいなものを被せられた人物が、モルゲッソヨと呼ばれている像に変質する まあまあ怖い
その関連で言うとショッカー戦闘員化みたいなのも見たことあるな カッコよく戦っていた強い人物が、洗脳されて「イーッ!」しか喋らないモブ戦闘員と化す 悪堕ちに尊厳破壊を足した感じなんだと思うけど、正直俺には理解できん
やべ〜と思った奴を思い出してみたけど、こうしてみると尊厳破壊みたいなのが多いな
個人的には、「オーソドックスな性行為がまったく含まれていないが、あきらかに性欲を原動力としている」ような性癖(誤用)ほど凄みを感じる
結局セックスしてるようじゃあ雑魚感が否めなくて、そういう意味では石化やマミフィケーション(人間が包帯や蜘蛛の糸などに巻かれてミイラみたいになる)はカッコいい
やっぱでも、人格排泄が忘れられねぇわ
非常に面白かったが、やはり政治学・法学・倫理学という片方の視点からこの問題を論ずるのは限界があるとも思う。
生物学や医学、環境学、自然科学といった視点も取り入れないと包括的な議論はできないし、
さらに本件は人類の農耕史と狩猟の歴史にも関わってくるうえ、仏教・ユダヤ教・ヒンズー・イスラムといった視点も必要になる。
かろうじてホッブスの契約の概念などが出てくるが、これもやはり近代以降の西洋哲学上の定義のひとつにすぎず、
それだけをもって菜食主義を議論するは素材が少なすぎると言わざるを得ない。
人間を中心にすえた議論においては、菜食の可否は議論の俎上にすら登らないのが当然だし、
をつらつら書きながら自分の中で整理してみる。思考経過をつらつら書くので行ったり来たり矛盾したりするかも知れんけど。
「記者からの“説明責任を果たすべきは誰か”との質問に対して長官は、《小室さん側》《小室さんの代理人弁護士》と答えたと、テレビや新聞は報じています。しかし実際には、“基本的に小室さんの弁護士、あるいは小室さんご本人、あるいはお母さん(佳代さん)ではないかと思います”と回答していたのです」(前出・皇室記者)
日本国憲法は華族その他の貴族の制度はこれを認めない
(憲法14②)から、皇室の女が結婚するに際して相手の親の何人(なんぴと)たるかを問うのはあたかも日本国憲法が定める平等権と皇族の関係を俎上に乗せるが如き響きがある(ただし、それは言いがかりであるが。)。
ともあれ、婚姻は、両性の合意のみに基いて成立
(憲法24①)するとされ、また皇族男子と異なり皇族女子の婚姻は皇室会議の議を経る必要が無い(皇室典範10)ことからすれば、長官の言は余計なお世話にも思える(ただし、それは言いがかりであるが。)。もし女系天皇を認めるならば皇族女子の婚姻についても皇室会議の議を経ることを要する
こととされるかもしれないが、少なくとも現時点では、眞子氏が結婚することにはなんらの障害もない。
憲法24条といえば、秋篠宮氏が眞子氏と小室氏の結婚を認めるだかなんだか発言した際に、秋篠宮氏は憲法24条を引き合いに出していたようだが、憲法24条に基づくならば秋篠宮氏には眞子氏と小室氏の結婚の許認可権限は無いのであって、秋篠宮氏の態度と憲法24条には関係は無い。むしろ、思想良心の自由(憲法19)により秋篠宮氏は眞子氏と小室氏の結婚を喜んでも忌々しく思っても良いのであって、憲法24条があるからといって祝福を強いられてはならない。祝福という特定内容の表出を強制するならば、「踏み絵」と同じく思想良心の自由に対する侵害である。(「踏み絵」は、キリスト教信者以外に対しても思想良心の自由の侵害である。)
もっとも、彼らの婚姻に対して国費を支出するか否かは、国会が決めることである(憲法85)。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない
(憲法88後段)。
日本国は、日本国が私の結婚に国費を支出しないのと同じく、彼らの結婚に国費を支出しなくても良い。国費を支出しないからといって彼らの婚姻の自由はなんら制約を受けない。彼らがなにか障害のようなものを見出しているとしても、それは一般国民が結婚に際し両親から反対を受けているのと同じ程度の意味と価値しか無いのであって、国費を出す理由にはならない。
なお、国費の支出に反対することに対する文句の声もあるようだが、国費の支出について国民が議論するのは民主主義の基本であり、しかも憲法88条が皇室費用について特に国会の議決を要求したのは皇室費用に対しては民主的統制をとりわけ強く働かせるためであるから、議論を封殺しようとする主張は日本国憲法の規定にもその精神にも背馳している。
要するに、眞子氏と小室氏は今日すぐにでも結婚して良いし、秋篠宮氏や宮内庁長官や日本国民はそれを祝福してもしなくても良いし、日本国はそれに対し国費を給付してもしなくても良いし、国民は国費の給付に賛成しても反対しても良い。
追記(意図しない読み取られ方があるので前に移動しました、誤解を招く表現だったことおわびします)
私は、書き忘れていたが、日本国憲法第14条に規定される属性による区別は当然のことながら差別だと考えている。私があげた絶対不可能な属性による区別の話は憲法上規定されていない属性に関してそれが差別かどうかを判断するガイドラインとして扱ってほしい。
日本国憲法14条
「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」
社会的身分には職業が含まれると考えるのが相当であるので、私も職業差別には反対の立場であることは変わりない。
そもそも先述のガイドラインにたどり着いた理由を説明すると、すべての人には自由があり、差別として行為の禁止を行う余地はできるだけ小さくしておくべきという私の価値観がある。ただし、生来変更不可能な属性に基づく差別は第三者による救済が難しいものが多いため、差別禁止によってもたらされるデメリットよりもメリットのほうが圧倒的に大きいのはほぼ間違いないであろう。一方で生まれてから少しでも選択の余地のある問題に関しては差別を禁止するよりも、その人が選択できる余地を増やすことを通した救済が比較的行いやすい。そのためそのような問題に関しては差別の撲滅に注力するよりもより救済を行う方へ注力するほうが望ましいと考えている。
加えて合理性を求めるひとがいるが、およそ全て人間はバイアスを経て観測した世界に対して最も合理的な行動を常にとっている(たとえそれが周囲に人間にとって不合理に見えたとしても)。合理性は客観的なようでその人の価値判断や目的などに左右されるきわめて主観的なものである。この文章は私にとっては合理的に思えるが、読む人にとってはそうは思えないかもしれない。合理性とはきわめて主観的かつ相対的なものなのである。ただ、社会的な意味での合理性は人々の議論を通じたコンセンサスの形成によるものであるので、成熟した議論を経た後での差別の描像がはっきりとより多くの人に共有されることを望んでいる。
追記ここまで
中学受験に関しての増田を端に発した議論がはてな界隈で盛んになっている。
大方ブクマカのダブルスタンダードを批判したものであるが、そもそも差別がはてなーすべて同じ意味で使っているとは思えない。例えば公立中学に通っていたことを黒人になぞらえて批判しているエントリがあったが、肌が黒いことと公立中学に通っていたことが全く同列に扱われるべきものとは現在の社会通念に照らしてもあまり一般的な考えではないと私は考えるが、その増田にとっては同じようなものとして考えていることは明らかである。その是非はともかくとして、現状においては差別は各人それぞれによって定義されるものといって差し支えないため、さまざまな形態の区別を明示し、その日本の社会およびはてなでの受容のされ方について考えるとともに同時に私見を述べてみたい。なお、どこから差別と考えるかは各人に委ねたいと思うのでここから先ではあえて「区別」という言葉を使う事にする。加えて強調しておくが、これはあらゆる社会通念に照らして問題とされている差別を肯定するものではない。差別とは何かを考える指標としていただきたい。
これははてなーはもちろん、現在の社会通念上認められていないといって差し支えない。特に性別についてはこれを支持する判例も存在し(e.g. 最判昭和56年3月24日民集35巻2号300頁 いわゆる日産自動車事件) 、これはおそらく論ずるまでもなく明らかである。ただし憲法の私人間効力については間接適用説が主流となっているため、例えば三菱樹脂事件のような判例も存在する。ここでは憲法の議論を意図したものではないのでこれ以上は触れない。
これは最近聞かれる医療従事者への偏見にも関連している。社会的な建前としてはおそらく差別だと認定されているが、実際としては差別だとする意識が1.ほど完全に浸透しているとは言い難いところがあるだろう。おそらくはてなーに聞いてもこれは差別だと(それが建前であっても)答えると思う。なお、実際にHIVについては陽性者に対し無断で検査を行い陽性だったことを理由に解雇した事件についてはその解雇が無効であるとした判例も存在する(千葉地判平成12年6月12日労働判例785号10頁)。
このあたりから判断が難しい。現在、社会的に定年制は受け入れられている(是正しようとの動きもあるが)ため、年齢”差別”という言葉が社会的にまだ受け入れられていない可能性は高く、受け入れられるにしても近い未来ではないだろう。おそらくはてなーでもこのあたりから認識が分かれ始めると思う。以前あった私立医科大学が女子生徒と多浪生を意図的に排除していた問題にあってはこれを問題視する風潮がはてなにはあったのは覚えている方は多いと思うが、定年制への問題視はあまりなかったように思える(これは自分の印象)。なお、判例においては定年制は公序良俗には反するとは言えないとの判例が出ている(東京地判平成6年9月29日判時1509号3頁)。
これは今渦中にある問題である。実際として就活においてはいわゆる学歴フィルターは存在しないと断定することはできず、存在するものと考えるべきだろう。しかも厚生労働省のガイドライン(https://www.mhlw.go.jp/www2/topics/topics/saiyo/saiyo1.htm)にも採用の可否を決める要素となってはならない項目の中に大学名・学校名に該当する項目は存在しない。少なくとも採用の場においては大学名のみによる扱いの差を設けることは認められているといって差し支えないだろう。私の周りを見渡しても実際学校の評判とそこへ通っている生徒への評価が関連づけて語られることも多く、私的な場においてもこれがタブーとされているとは到底言えないであろう。実際はてなーでも公立中学を「動物園」とまで評する向きもあることからそこまでのタブー視もはてなーの中にはないと言える。
いわゆる「オタク差別」などを念頭にしたものである。これを例にとると過去には東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件などに端を発したいわゆるオタクへの偏見があった(が、現在の社会では薄いものとなってきていると私は感じており、マクロな視点に立つならそもそも区別が存在しなくなってきているのではないかと考えている)。これの社会的な受容を考えてみる。個人のミクロな視点にたつならそういった嗜好を理由にハラスメントを受けた例はあるだろう。ただ、それは嗜好を理由にしたハラスメントが問題とされるのではなく、そのハラスメント自体が問題とされる(ことが多い)ため、おそらく社会的な問題視はあまりないであろう。ただ、そもそも属性による区別はその属性をもつ者がある一定程度存在しないと成立しないものである(その嗜好を持つ人が単独ないし少人数でしか観測されなければ単なる変人として扱われるだけで、それは区別とはよべない)ため、嗜好による区別に接する機会がすくなく、議論の俎上に上がるレベルにすら到達していないかもしれない。これはぜひ読んだ方に該当する例とその社会への受容のされ方を考えていただきたい。
と思いつくものを上げてみた。どれが差別に当たるかは皆さんに考えて、議論していただきたい。正解は存在しない。なお、私の中での差別の定義は「絶対に選択不可能な属性・事実に基づいて行われる区別」と考えている。これに立脚するなら1-3までが差別に該当し、私は公立中学に関して「動物園」と評するなど、悪い評価を与えるものについては差別的表現ではないと考えている。なぜなら公立中学に進むかの選択は自由意志に基づくものである(経済的な事情などにより私立への進学は到底不可能な方がいるのは重々承知している。その実態はともかく)からだ。ただ、その表現は褒められたものではないのは確かで、やはりひどい公立中学の現状があるのだとしてもそれへの是正措置に関する言及があるべきだっただろう。つまりこれは差別の問題として扱うのではなく、公的な機関からの財政的支援などによる学習の機会均等や学習環境の改善の問題に還元されるべきである。これを差別であるからと現状への批判を封じるのは実態への改善の議論を封じることになり、好ましくないと考えている。ただ、度を過ぎた中傷は理由の如何を問わず控えられるべきであることは注記しておく。
また、学歴の問題は、生来変更不可能なものではないのでこれもまた差別ではないと考えている。ただ、大学の再入学を経た後の不利な扱いは年齢差別として問題視されるべきだとも考えている。年齢への差別に関してはこれを問題視し、排除へと議論がより進むことを期待したい。
ここまで様々な属性への区別について述べてきたが、おそらくそれぞれの考える差別があったことだろう。ただ、差別の問題を考える際に忘れてはならないのはそこへの是正措置である。公立中学の問題に関してもそれを差別であるからと議論の提示を封じるのではなく、ではそこにどのような是正措置が行えるだろうかと考えてもらいたいのである。なぜなら本来の理想の状態であれば誰でも自由にその中学に行くか選択できるから、そのような偏見など生じないからである。偏見や差別は現在の不完全から生まれる。差別の問題はセンセーショナルになりがちで議論している双方が異なる差別の概念を持っており、話がかみ合わないという事はありふれたことである。そうなりそうなときには一度立ち止まって双方が差別の概念を共有するよう歩み寄ってもらいたい。以前として世界にはびこる差別への問題提起および是正のきっかけとなればうれしく思う。
一見左派の方が常識的な反応だ、しかし良く考えて見よう、本当にそうだろうか?
右派はCMが「自分達に向けられたもの」だと解釈し、その上で怒っている
一方左派はどこか他人事だ、「日本には差別がある」は「私も差別をしている」ではなく「私ではないアイツラが差別をしている」という意味だ、彼らには自身が差別の加害者である自覚がない
加害者として名指されている自覚のある右派と、自覚の無い左派、果たしてどちらがマシだろうか?
場合に分けて考えよう、右派と左派、それぞれ差別の加害者である場合とそうでない場合に彼らの言っている事はどういう事に成るのか、
差別加害者でない場合(つまり下段)、マシなのは明らかに左派だろう
しかし差別加害者である場合は難しい、右派は差別を否認する一方、左派はそもそも自分が加害者だと言われている自覚すら無い
加害者が、あのCMを見て「自分も加害者かも知れない・・・・」ではなく「加害者許せん!」と憤っているのだ、これは酷い
右派は加害者だと言われている自覚があり、それ故にそのメッセージの強烈さに拒否反応を示してしまって居る
一方左派は、加害者だと言われている自覚が無い為に、右派の様な拒否反応も回避出来てしまって居る
左派に拒否反応が無いのは彼らの良心故と言うよりは、自らの加害性の自覚の無さ、というドス黒い理由であるとも言えてしまうなら、
これは、果たしてどちらがマシなのか?
ほぼYESだと言える
まずCMに登場する3人の内、恐らく最も議論の俎上に上げられている在日朝鮮人の少女について
誤解している人が多いが、CMの中でいじめを受けているのは彼女ではない、いじめを受けているのは(恐らく)日本人の少女で、
在日朝鮮人の彼女の苦悩は自身の出自が周囲にどう受け止められるのかという不安、周囲の視線、浮いていないか、という不安だ
つまり彼女のケースにおいて加害行為とは「彼女を奇異の目で見る事」に他ならない
仮にあなたがチマチョゴリを着る彼女を他意の無い目で見ていたとしても、それは彼女に不安を与え得る以上、加害になり得る、つまりあなたは加害者なのだ
外国人と日本人のハーフ(恐らく)の少女についても同様だ、明らかないじめを受けているのは日本人の少女のみの為、直接的な加害をしていなくてもあなたは加害者になり得る
また、右派と左派で排外主義的な傾向の偏りは有るかも知れないが、日本人同士のいじめであれば加害者である確率は変わるようには思えない(むしろもし、あなたが「右派は学校ではイケてないグループだったに違いない」という偏見を持つなら、右派がいじめる側に回れる確率が少なくなり、相対的に左派のいじめ加害者率を高く見積もる理由も出来てしまう)
あなたは日本人に対していじめをした事が有るだろうか?もし有るなら、あのCMで糾弾されていた加害者はあなたである
在日外国人やハーフへの視線と日本人に対するいじめ、あのCMで加害者だと言われているのはあなたである
その加害者が、あのCMを見て自分の事を言われていると自覚すらせず、「これだから差別主義者は」と憤っていたとしたら、非常に悲しい事だ
その場合、あなたの反差別意識は自身の加害性を見つめる為ではなく、自身の加害性を見ない様にする為に役立ったと言わざるを得ない、最悪だ
あなたはあのCMを見て「自分も加害者かも知れない」と思っただろうか?
それとも「加害者許せない」と他者を責める事ばかり考えただろうか?
・あのCM、途中で唐突に出てくる大人の女性サッカー選手(サッカーに詳しくないので名前は存じ上げない)の「ありえないって」が物凄くカッコイイと思うのだけど、誰か共感してくれる人は居ないだろうか?
・長くなってしまったが、短く纏めると右派は「差別は日本にとって他人事」だと思っているのに対し、左派は「(日本にとって他人事だとは思っていないが)差別は自分にとって他人事」だと思っている、と言う事だろう
フェミニスト自認腐女子はナマモノについてそろそろ考えた方がいいんじゃないか?
ということについて一昨日この記事を読んでから改めて考えている。
https://news.livedoor.com/article/detail/19250036/
>「僕らもAIとかじゃないんですけど」と前置きし「僕らであろう2人組が漫画で愛し合っているのがあったりする」と苦笑交じりで打ち明けた。
当然の反応だと思う。
私は長年腐女子として「ナマモノってよく考えたらダメなんじゃないか?」と思っていた側の人間ですが
いつも隠れる隠れないの話になってしまうけど、
存在自体がハラスメント、加害を肯定する文化でしかないと思う。
ここ数年ツイッターで腐女子でフェミニストを自称する人も多くなり
個人的に長年の疑問であったナマモノそもそもダメじゃない?問題も
一向にその流れが来ない。どうなってんだ。
でもなんとなく理由はわかっている。
どういうわけかこの実在人物を使った男性同士の性妄想創作については
まるで問題がないかのように振る舞っている人ばかりのように見える。
このナマモノジャンルに手を出している人がぼちぼちいるわけで、
このナマモノ(実在人物を使っての性妄想創作)の是非については
アニメや映画やドラマの中のハラスメント描写に敏感で鋭いツッコミをする人が
インターネットにアップしてるのって、
目眩がするほどダブスタ極まりないと思うんですけど、私がおかしいのでしょうか?
そして男性向けエロと違って私達には自浄能力があるというのなら
加害の文化についてそろそろ考え直してもいいんじゃないだろうか。
実在人物を使ってその名前もバッチリ出したエロ漫画や小説がバンバンアップされ
相当異常な事じゃないか?
こういうことを言うと
「だからナマモノは隠れないと」という声も出てくるだろうけど、
そもそも隠れるとはどういう事なのか?
専用のSNSでPW付きで発表していれば、
ツイッターの鍵がかかっていれば、あとは何をしてもいいのだろうか?
本当にこのまま放置していい問題なのかという気持ちがどうしても湧いてしまう。
ここもそろそろアップデートしたほうがよくない?
昨日とある増田に書き込んだところ、他の増田に「セックスのことばっかり考えてるんじゃないの?」とコメントいただいた。
よく、高度経済成長以降に近代の家族制度が変容したことが語られる。
1961年の農業基本法の趣旨の一つは、大家族による人数をかけた従来の農業経営に機械化のメスを入れるものだった。
こうして農村部を中心に最後まで残っていた江戸時代以来の大きな家族というものが解体され、教科書で習うような核家族化が進む。
はてなでよく家族形態や婚姻形態の変化や現状の課題が俎上となるけど、その淵源の一つにこの法律を位置付けられる。
私はよく、こうした大家族から各家族への変化を「サザエさんのような家」から「クレヨンしんちゃんのような家」への変容と紹介する。
何と無くイメージできると思うが、一つ世帯に三世代が住みさらには「オジオバ」「オイメイ」が同居する形態は、近年かなり少なくなったと思う。
サザエさんの時代はまだこれが一般にイメージしやすかったのだろう。
クレヨンしんちゃんの時代になると、みさえは熊本、ヒロシは秋田からやってきて埼玉で家族を作る。
郊外に住宅が広がって平成狸合戦ぽんぽこみたいになる世代。ニュータウンの時代。
オマセなカツオくんや多感な年頃のワカメちゃんに、サザエさんやマスオさんはどう対処するのか。こればっかり考えている。
こうしたとき、波平さんやフネさんがいるってことはとっても重要だ。
きっと波平やフネは、それぞれの立場で子供達に姉のしていることを時に上手く見せないようにしたり、時が来たらしっかり教えたりとかしていたのではないか。
少なくとも、大家族の形態ではそうした機会を持ちやすいのではないかと考えている。
一方、クレヨンしんちゃんの家庭ではなかなかこういうことは難しい。
初期クレヨンしんちゃんで、みさえとひろしが夕食の時に今晩セックスしたいかどうか子供にバレないように特定のサイン・符丁を出して確認し合う場面がある。
しんちゃんがこれに気づいて乱入してきてギャグになるのだが、非常に象徴的なシーンと思う。時代は変容していることがここからはわかる。
核家族では、子供への教育や性生活といったものが、夫婦に集中して責任としてのしかかるのだ。
もちろん家父長主義的な家族形態に戻るべきという主張をしたいわけではない。
大家族のデメリットを克服しようとして現代がある(とナイーブかもしれないが信じたい)。
ただ、平成狸合戦ぽんぽこに一抹の寂しさを見るように、個人的にはここにはかつてへの憧憬がある。だからサザエさんとマスオさんのセックスばかり考えてしまう。
今を生きる現代人として、現代にとってより良い、より楽しい、よりポジティブな、より効率的な、より費用対効果のある家庭像あるいは地域社会像というものを常に思索しながら、自分も家族と日々を過ごしていきたい。
ただし、
それを「差別だ」と表明するなら、そこには「誰が見ても、その基準においては差別に間違いない」という"普遍的尺度"への言及が必要だ。
そこに普遍的尺度への志向のないものは、単なる不快感の表明に過ぎないんで、無視していい。
なぜかといえば、
ある表現を「差別的である」とする主張は、事実上の規制論なわけで、「表現の自由」を奪う行為だからだ。
つまり、キャンセルカルチャー自体が、表現の自由という普遍的な価値観に抵触する可能性を含むからなんだよ。当たり前のことだ。
「差別の撤廃」と「表現の自由」という2つの普遍的価値のせめぎ合いにおいて必要なことは、俎上に上がる表現一つ一つについて、それが本当に差別的な表現かどうか、事実だけに基づいた慎重な議論を重ねることしかない。
ただマイノリティに肩入れするだけの行為は、今や完全にマスメディア向けの作法で、単なるポピュリズムなんだよ。
そういえば、自分がレズビアン寄りのバイだと気づくまでは、むしろ自分のことをバキバキのノンケだと思っていた。
なぜなら、女性健診の相手が女医さんだとものすごく苦痛だったから。性器や乳房を女医に一方的に触れられるのが屈辱的に感じていた。男性医師に対して、この感情を感じたことはない。その時は、自分が度を越えたノンケだから女性に性的な部分を触れられるのが嫌なのだと思っていた。
3年前に、とある趣味の社会人サークルに入って知り合った6つ下の女の子と親しくなった。
わたしは、基本的に理屈っぽくて尊大にふるまう癖にウジウジしていて辛気臭い人間という自己評価なのだが、年下からは姉御肌と評され男女問わずよく親しくしてもらう。
そんな中で知り合った彼女は、わりにサバサバしていて、小柄で、童顔で、かわいらしい女の子だった。
サークルに顔を出した時の彼女は、部屋を見回してわたしを見つけた瞬間ぱあっと笑顔になって駆け寄ってきた。
飲み会ではよく「増田さーんここあいてますよー!」といって隣に誘ってくれた。
最初、「なついてくれてる」のではなく、単純に先輩後輩的な仲だから媚びたりおべっか並べたりおだてられたりしているだけだと思っていた。
しかし、ある時に飲み回の二次会で行ったバーでボックス席に2人きりになったときに、メチャクチャ酔っぱらった彼女から恋愛感情で好きだということを告げられた。
ちょっとびっくりした後、「うれしい」と感じている自分にさらにびっくりしたのを覚えている。そして、そんな気持ちを泥酔して噴出するまで抱えこんでいた彼女がめちゃくちゃに意地らしく見え、愛しく感じて、断る気は起きなかった。
そうして交際関係となり、彼女はサークル活動のない時にも会うようになったのだった。
そうは言っても、実はわたしは当時アラサーで、彼女は大学生だった。
それに、わたし自身どこかで親戚の幼子のおままごとに付き合うような気持でいたことは否めない。
彼女に男性経験がないということは付き合う前から聞いていた。女性を好きになったのはわたしが初めてだとも。
そういうわけで、彼女の好意を疑うわけではないが、どの程度真に受けるべきか判断に迷っていたのだ。
大学生のうちだとまだ恋に恋していたり、憧れを恋愛とはき違えたりするものなんじゃないの?
そのうちやっぱり「男が好き」とか言い始めてもおかしくない。とはマジでずっと思っていた。
だいたい、元から友人関係だったのもあってか、交際関係となってからも2人の付き合い方はこれまでと変化なかった。また、何か変化を起こすべきは彼女のほうだと、大人げないが思っていた。この関係性は彼女の好意ありきだった。彼女の好意の形に応じて、わたしもしてやれることや差し出せるものがあれば、できる限り応えたいと思っているのみだった。
余談だが、当時私は8年ほど交際していた男性と別れて1~2年くらいだった。別れて数か月はいわゆる婚活や恋活的なことに精を出していたのだが、やはりわたしの性格そういうことに向いていないと自覚させられただけだった。このままいくと一生結婚できないかもしれないと思った。いや、それはそれで良いのだが、「わたしは一生誰ともパートナー関係になれないかもしれない」ということに関しては、やや悲観していた。猫でも飼おうかしら、と本気で思っていた。そんな時だったから、彼女との関係性がどう運ぶかに関しては、純粋に好奇心をもって臨んでいた。
閑話休題。
わたしは理学部科学科を修めていた人間で、自分で言うのもなんだがステレオタイプそのままのあまり女らしくないタイプの女だ。学生時代の友人付合いと言えば、一人暮らしの奴のアパートで麻雀しながらいいちことタバコをなめるばかりだった。
彼女は外国語学部英語学科。わたしが見てる限り、いつも何が可愛いのわからん流行りの服を着て、いつもメイクばっちり。イケている。そして、普段友人と何してすごしてるのかなぞ、知りたくもない。
いつも彼女からデートの誘いを受けていて申し訳ないなとは思っていたのだが、わたしはどこに誘っていいのかわからなかった。それに、わたしは流行とかお洒落に全く興味がないタチなので、やはりどうしても若くてイケてる彼女の隣に立って休日のモール街を歩くことには気後れを感じていた。
そんなある日、彼女から水族館に誘われた。これまでデートといいつつ友人ともやるような近場ウロつきしかしてなかった中、水族館とはめちゃくちゃデートっぽい。と少しテンションが上がった。そもそも水族館は好きだ。
そして当日。待ち合わせた駅に姿を現した彼女はいつもと違っていた。
普段だったら絶対着ないだろう薄紫地にエーデルワイス柄の女の子らしいワンピース。その上にレースっぽいカーディガンを羽織って、足元は華奢なサンダルだった。
めちゃくちゃかわいかった。コッテコテのデートコーデだということはさすがのわたしも気づいた。
「いつも増田さんわたしの服イジってくるから、今日はわかりやすく可愛くしてきましたw」
そう言って笑う彼女を見て、世の男は彼女からこんな接待を受けているのか羨ましいなぁと見当違いなことを思った。
水族館へは新幹線で向かった。一緒に電車に乗るのも初めてで、隣の座席に座る彼女のワンピースからのぞく白い膝がとてもきれいで感動した。
彼女は普段ほとんど足を出さないなということにその時気づいた。
水族館では目玉展示物の餌やりが行われていた。わたしはこれが大好きで、ここに来るたびに動画を撮影していたのだが、この日ばかりは彼女の写真を撮ってばかりだった。
「いつもそういう格好すればいいじゃない」と言ったら「本当はこういう格好は好きじゃない、デートだから着ただけ」と言われて身勝手ながら非常に残念な気持ちになると同時に、即ちわたしのために好きでも無い格好をしてくれたと言っても過言ではないのだなと思い至った。
暗い館内でサンゴ礁を眺める彼女の細い方がレースのカーディガンに透けていた。
揺れるワンピースの裾がこんなに魅力的なものだとこの時初めて知った。
水槽のアクリルに這わせていた彼女の手を指先でつんつんすると、彼女は不思議そうな目でわたしの手を見ていたので、手のひらを上にして差し出すと、彼女はいつもみたいにぱあっと笑顔になって握ってくれた。そこからは手をつないで見て回った。今まで、恋人と手をつなぐことをこんなに幸せに思ったことはなかった。
周りから見て、わたしたちは恋人同士に見えるだろうか。それとも、ただの仲良し女二人組にしか見えないだろうか。恋人に見えていたらいいなと思った。
そうだ、この可愛い生き物は、わたしの恋人なんだ。と思った瞬間、頭に血が上ったみたいな感じを受けた。つまり、その細い肩を馴れ馴れしく抱く権利も、何ならスカートの裾の内側に手を伸ばす権利も、わたしはすでに持っているのだと、気づいたから。
来月で交際し始めてから満3年となる。わたしは30になり、彼女も就職2年目を迎え、そろそろ一緒に住もうかどうしようかという話をしている。
そんな中で気づいたのだが、わたしはゴリゴリのボイタチだった。
そして、いくら可愛い彼女が相手でも、リバられそうになると一気にテンションが下がってしまう。
この萎え方覚えがあるな~と思ったら、婦人健診で感じる不快感がこれと同系統なのだった。
つまり、わたしは「バキバキのノンケだから婦人健診で女医に診察されるとつらい」のではなく、「ゴリゴリのタチだから婦人健診で女医の前で俎上のマグロを演じねばならぬのが不服」が正しいのだった。