ただし、
それを「差別だ」と表明するなら、そこには「誰が見ても、その基準においては差別に間違いない」という"普遍的尺度"への言及が必要だ。
そこに普遍的尺度への志向のないものは、単なる不快感の表明に過ぎないんで、無視していい。
なぜかといえば、
ある表現を「差別的である」とする主張は、事実上の規制論なわけで、「表現の自由」を奪う行為だからだ。
つまり、キャンセルカルチャー自体が、表現の自由という普遍的な価値観に抵触する可能性を含むからなんだよ。当たり前のことだ。
「差別の撤廃」と「表現の自由」という2つの普遍的価値のせめぎ合いにおいて必要なことは、俎上に上がる表現一つ一つについて、それが本当に差別的な表現かどうか、事実だけに基づいた慎重な議論を重ねることしかない。
ただマイノリティに肩入れするだけの行為は、今や完全にマスメディア向けの作法で、単なるポピュリズムなんだよ。