はてなキーワード: 俎上とは
観光業者が現状においてどれだけ死地に立っているのかということを、誰もが理解していることは疑いようがない。
それは観光業者当人らにとっても、そうでない者にとっても明白だろう。
今や炭鉱夫のような、消えゆく立ち位置に立っていると言い換えても過言ではないかもしれない。
それに対して、ブコメ群はどうか?
『より多くの人命を守るためには仕方がない』
それはわかる。ただ、死に瀕する人間らに対して、直截に、痛痒も無く突きつける言葉なのか?
『お前らのために死にたくはない』
とてもわかる。俺も同意見だ。ただ、それは己が被害者であって、相手は被害者ではないと考えたいのか?
『大変なのはわかるし、どうしよもないと思うが、こうした声が上がるのは当たり前』
尤もだと思う。何もおかしいことは書いていない。ただ、それを口にして一体何が言いたいんだ? その判断は誰もが思う当然の発露であるから、罪ではないと?
正直、他に選択肢がないこともわかる。現状、切り捨てなくてはならない側がどちらか、政治的判断の中で下されなくてはいけないことがあるのもわかる。
ただ、それは限りなく重大な、それこそ文字通り、片方の人命を取り片方の人命を捨てるくらい、重たい結論になるはずだ。
軽々しく転職だどうだという言葉を吐き連ねるようなのはまだいい。
ただ、大義がそこにあるからと、悩みもなく単に「恨み」と遮断し、想像の外に置いて、自らが行う決断に対する罪の意識に麻酔をかける様は、あまりにも大衆的なやり口で、人が死ぬ決断を俎上に載せている。
どちらであっても人が死ぬからといって、人が死ぬ決断が軽くなるわけがないのに。
https://wwr-stardom.com/news/release523/
正直、存じ上げない方だったし、テラスハウスも見ていないので事のいきさつはよくわからない。
見出しが目に入ったとき、事故死か、急病か…もしかしてコロナ?…とか思った。いずれにせよ若いのに残念なことだ、と。
原因(と思われる事象)は、ネットの歴史で嫌というほど繰り返されてきた、ありふれた事件のひとつではある。具体的な案件、被害者を挙げればいとまがない。対処法も千差万別、裁判所に持ち込んで徹底抗戦をする、これも有名税と割り切った対応をする、など。
ただ隣国・韓国で相次いだ、トップアイドルと言って差し支えないレベルのタレントの自殺事件があって、様相がすこし変わってきてもいた。そしてついには、日本でも 同様の事件が起きてしまったということか。
いわゆる、こうしたネットイナゴ/ネット暴徒にどのように立ち向かうか、また、そもそもここで言う悪とは何なのか誰なのかといった論は差し控える。付け焼き刃の知識で雑な論を書いても何も実るものはない。
ただ、私自身、この事件に腑に落ちない、わだかまりを感じている。すなわち、SNSで叩かれて、なぜ自ら命を断たなければならないのか、ということに、左脳的なところでは承知していても右脳的なところで納得がいっていないのだ。
私事で恐縮だが、昨年書いた増田がプチ炎上をした。頭の悪いことにセルクマなんていうものをしていたため、はてブの通知は大変なことになった。ブクマ数が10を超えたところで「おや?」となり、そこからはあっという間だった。ブラウザを更新するたびに数字は増え、アプリを開くたびに通知が届いていた。最終的に300くらいになっていたはず。というのは、該当する増田およびブクマをこころの裡に封印しているからだ。思い出したくもない屈辱である。
そんなに大したことのない数字ではある。しかし、こちとら鳴かず飛ばずで10年やってきた。今回もひっそりと増田の片隅に埋もれるものだと信じて疑わなかった。そういう身に、これはかなり刺激の強いできごとだった。
このとき私が試みたのは、アプリを消すということ。10年やってきてそこそこスターもつけてもらったアカウントだし、物書きなので、一度書いたものはどんなに拙かろうが残すべきである、それを含めて責を負うべきなのだ…などと半端なプライドがあったりもした。アカウント/エントリーを消す、という方策は初めから俎上に上がらなかった。代わりに、アカウントと実世界で生きる「私」との間にある接点を切り離すことにした。
どれだけ反論してみても意味はない、ただ時間が過ぎるのを待つしかない、ということを長年のネット経験で感覚的に理解してもいた。そうして半年ははてなのサイトには近づかないようにしようと誓った。その代替として、グノシーだのスマートニュースだのを入れてみたが、これらは端的に言ってクソだった。
私は1980年代初頭の生まれでいわゆるアラフォーという年代なのだが、ネットの世界は極論的には物理の力で強制的に遮断できる、という観念がどこかにある。
「勇午」という漫画で、敵に逆探知(?)かけられそうな時に電話線もろとも切断する、というシーンがあったはずなのだがまさにこういうイメージだ。
ところが今の10代〜20代前半の人たちの文章を読んだり、動向を追ったりすると、SNSが日常やこころの深いところまで入り込んでいることが見えて驚きを禁じ得ない。
「言葉の暴力が人を殺す」とはネット時代以前から言われ続けている。それ自体は新鮮な論ではなく、ここに疑いの余地はない。彼女を死に至らしめた誹謗中傷を許さない。書き込んだ奴らは恥を知れ。まったくもってその通りである。
ただし、善人ばかりで回らないのもこの世の常。防衛の手段としてなんらかのオプションを持つことも生き抜くためには必要な知恵かと考える。その際、SNSを、そこで持つペルソナを自身から切断するという手段は、もはやネット黎明期の牧歌的な幻想なのだろうか。
http://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2020/03/21/072217
Twitterでも観測してるし、特にはてブにランクインして目立ってるから上のリンクの人のことについて"アンサー"するね。先に謝っとくけど、Twitterで観測してるやつらに対する怒りも全部この人に向けてるから、結構ひどいこと書いてるよ。ごめんね。
なんか「猫ブログの猫が死んだ途端関連グッズが出たら引くでしょ」とか言ってるけど、いや違うだろ。ワニは死ぬこと確定してたじゃん。
そりゃ猫ブログ運営が猫を死ぬこと見越してグッズ展開の準備を虎視眈々としてたら引くけど、今回のワニは非現実存在かつ、初っ端「100日後に死ぬ」ことが確定してたわけじゃん。そして死ぬまでがコンテンツだし、死ぬこと含めてのコンテンツじゃん。流石に同一視するのは無理でしょ。
ワニ3日目の「気をつけないと死んじゃうよ!」なんてワニのセリフも、「いや死ぬのはお前なんだけどw」というシュールさも込みの面白さでありコンテンツだったでしょ。そんなに死を商業利用されるのが嫌なら、あそこでふるい落とされろよ。なんで全部見てんだよ。
この人は「作者はワニが死のうがなんだろうが何ら痛みを感じておらず、飯の種、名声へのステップくらいにしか思っていないでしょう」なんてゲスパー言ってるが、俺からしてみれば、人気増田に「アンサー書いた」なんてブログ貼り付けて、「私は物語の力を信じている」なんて持論かましていかに自分が繊細かつ漫画から力を得てきたかを自分語りしてる時点で、「お前のほうこそワニ作者の気持ちを鑑みずに銭ゲバだと勝手に思い込んで、しかもここぞとばかりに人気作品に便乗してブログ貼っ付ける自己承認欲求塊マンやんけ」としか思えない。
この人は「キャラクターの死と金とのどっちを優先するの」の2択に「金」を選んだワニ作者および関係者が嫌かつ、コンテンツそのものも嫌ということなんだけど、「客」という視点が抜けている。あのワニの漫画の100日目は2020年3/21現在、74.1万RT、ファボ204.1万もされている。つまりコンテンツ楽しんでる側の客は204万人がいいねしてんだよ。
この204万人はワニが死ぬことを楽しみにしてきたやつで、ちゃんと死んでよかったと思っていいねしてんだよ。製作者側が死をビジネスにして死者に敬意を払ってないというなら、それに群がってたこいつらはなんなんだよ。同様に死を楽しみ、コンテンツとして楽しんでた同類だろうが。そこに金稼ぎを見出すか、見出していないかの違いこそあれ、死を楽しんでた同類だろうが。きちんとユーザーにも怒れ。まあブログの宣伝のためのファッション怒りだろうからしないんだろうけど。
「作者が、自らがクリエイションしたキャラクターに思い入れ、その死と向き合い、自然と湧き上がってくる弔意とのバランスを取りながら物語を紡いでいるのが伝わってくるのなら私はすごく共感するのだが、(中略)今回のはその俎上にも上っていない、論外である。」
としてるけど、うーんなんだろう。じゃあアブドゥルを殺した荒木は自然と湧き上がってくる弔意があるはずだから、喪に服して連載を止めろみたいな話なんですかね。アブドゥルが死んだとき、「え?マジでアブドゥル死んだの?」と思っただけでページを捲った俺は死者に敬意を払えない人間ってことですかね。まあそれでもいいけど。
この世の大抵の漫画なんて、死をコンテンツとしてるといっても過言じゃないだろ。意外なキャラをどう死なせるかとか、クソキャラをどう惨たらしく死なせるかとか、死ぬ必要はなかったけど話の都合上このキャラは死なせたよねとか、そういう作品ばっかじゃん。ガンツとかまどマギとか学校ぐらし!とか。
そういう漫画は、「死は儚い」とか「親友の死を乗り越えて成長」とか(寒々しい)テーマ乗っけて話を展開させてるんだけど、「死」をコンテンツとしてるのは違いないだろ。そういうのワクワクしてるのが俺らユーザーなんだよ。それともテーマが乗ってりゃ満足なのか?今回のワニも、「死は唐突で理不尽です」みたいなテーマはありそうだけど、それでもこの人は許さなくて、「死を利用して喪に服す間もなく商業展開していくのが気に食わない」って話だろ? 俺には全部「キャラの死を利用して話を描いていく」前述の漫画と同じに見えるけどな。構成が違うだけで。
「ただ今回はメメント・モリ(死を忘れるな)的なものが作品の中核テーマとなっているわけで、『100日後に死ぬワニ』は『コマンドー』とは違い「死」そのものの重たさ、日常と地続きに唐突に・不可避的に訪れる喪失を描こうとした作品であろう。そういった作品が死をテケトーに軽々しく扱っているのはどういうわけだ。これはあまりにも不誠実だと思う」
いや、メメント・モリがテーマなのはそうだけど、「メメント・モリを扱うときはテケトーに軽々しく扱ってはならない」ってルールはどっからきたの。全部お前ルールじゃん。
アブドゥルだってテケトーに死んだだろ。「お前がピンチでも助けない」とか唐突に死亡フラグ立てて、その後すぐに仲間をかばって死ぬとか、テケトーやろ。少なくとも俺にはそう見えたぞ。
100日間丁寧に日常を描いて死んで見せたワニの方が、よっぽど丁寧にメメント・モリしてたけどな。
「コマンドーのキャラは適当に死んでもよし。俺の好きなキャラは軽々しく死んではないから重みが違う」なんて、人の死をランク付けするなんて何様だよ。
CDBが『「一線」のない運動』『終わりも目的地もない運動』だと宣言した。
https://twitter.com/c4dbeginner/status/1231003694033883137?s=21
サイアクだ。
しかしこれは、実際に宣言はなされて、そうでない論を述べていた他の人たちの見解は上書きされてしまったと考えるべきだろう。
CDBが大物だという意味なんかではない。だがそうなんだ。これは冷静にそう位置付けて、なんとか次善の策を探るべき状況だ。
だれか、チャートやポンチ絵というふうな、図解などを用いてこれをさらに(上書きとはいわないから)再宣言してくれる者はいないか。
私たちが女性の人権を目の前にするときに、ひとり一党派であっても、ひとり一民族であっても、それはとにかく何でも良い。
しかしそれはそれとしておいても、いま示す必要があるのは、私たちはなぜあの批判が可能であったのか? なぜ個々の「お気持ち」ではなく、合意を分かち合えていたように感じることができていたのか? ここにある価値とは何か? そのことをあらためて手渡しできる形で取り戻すことが必要だ。
さもなくば……は、まだ俎上にあげたくない。
どうか、たのむ。
思うところあって中屋敷均『ウイルスは生きている』を再読。走り読みなので細部までは目が行き届いていないが、これを読んだ時に受け取った熱を思い出した。2016年3月の初版発行からそう経たぬうちに読んだと思うが、今は随分ここから遠くに来た気がする。本書が今の自分とは縁遠いものという意味ではなく、寧ろ逆にずっと俺の心を捉えて離さなかった。自分の世界認識に深く影響を与えた(与えている)ので、もっとずっと昔から自分の中にあったように感じていたが、たった4年前のことなのか。
思うところが何かを明確に言語化するのは難しいが、
古今伝授を真に理解するためには、それが中世社会の特質と深く関わっていることを考えなければならない(古今伝授を和歌という縦糸だけで説明しようとするからダメなんだ。中世という横糸を忘れている)。中世は壮大なコジツケの体系が構築された時代神仏習合・本地垂迹説・卜部神道・中世日本紀等々…の奇妙奇天烈な世界観!古今伝授もその一環として見るべきではないか。コジツケと言われればそうだけど、それはその時代の人々にとってとても必要なコジツケだったのだ、という。もし積極的な意義を見出すのならその方向から説明しなければならないのだ。(古今伝授を受けた天皇を中心に優れた歌人が輩出された、だから歌学教育として意味があったとかバカか。優れた和歌とは何かという定義、評価軸じたいが古今伝授の支配圏内で形成されるのだから、優れてるかどうかを論じること自体がナンセンス。)
古今伝授が古今伝授になっていく過程、つまり古今集という単なる書物が、あるいは勅撰集編纂という律令制国家の一事業が、その枠を超えた何か大きな・尊い・民族文化の精髄のように認識されていくその過程において、付与された様々な言説――三木三鳥だの八雲神詠だの人麻呂がなんちゃらかんちゃら、後世から荒唐無稽とさんざ罵倒されることになるこれらの言説は、あたかも胎盤形成におけるシンシチン(syncytin)のような役割を果たしていた、と考えることはできないのか。異物を異物と感じさせない、捏造を捏造と感じさせない仕掛け。それは、倫理的な断罪とか文化的価値の優劣の俎上に乗せるのはふさわしくなく、その仕掛けを通じて何が実現されたか、その何かはその仕掛けを用いずには実現され得なかったのか、をこそ見るべきではないのか。
本来ウイルスのもつ能力を自己の一部として、機能として取り込む。生物は自己の維持に必要な機能の一部を外部環境に依存する。ポータブル外部環境としての細胞。生命と非生命の境界は我々が思っているほど明確に線引きできるようなものではない。我々の生命の定義は、あまりにも我々が日常的に馴れ親しんだものの見方に、「個人」という概念にひきずられてやしないか・・・というのが本書の示唆するものの最も深い所だ。
契沖や子規の批判は分かる。俺も一個人としては古今伝授(に代表されるもったいぶったコジツケ家)はバカジャネーノと思う。が同時に、それは文化・知・個人といったものについてこっちの定義/概念を押し付けてるだけじゃないの?とも思う。
根拠がない、合理的でない、和歌の質的向上につながっていない、という。では何故根拠がなければならないのか?合理的でなければならないのか?なぜ質を向上させなければならないのか?
これらの批判は、文化とは何か、個人とは何かについての定義をすでに前提にしていて、その立場から加えられている(反論する側(古今伝授を擁護する側)にもその立場から反論するやつがいるからどうしようもない)。まず始めに個人がある、歌は個人の気持ちを詠むものだ、しかるにコレコレの御方に入門しなければ和歌は詠めないのだとはけしからん、しかもその御方の教えたるやひたすらややこしい制約ばかり、かつ透明性のかけらもない、おまけにそう教える根拠はどこにあるかと探してみれば無い、要はこいつがでっち上げた妄説じゃねえか、それで偉ぶったり金巻き上げたりするなんて悪どい奴らだ・・・、こういう自他の区別、新旧の区別、真偽の判別をつけずにはいられない、ある意味病的な正義感。いかにも科学的合理性に偏っている。
しかし、それとは全く異なる評価軸があって、古今伝授は(中世の壮大なコジツケ志向は)その軸からみればもっとずっと整合的に理解できるはずだ。
本書の示唆する構造は、外来文化を自家薬籠中の物にする日本文化の性質(漢字・仏教等々)、中世の遺制としての近世的身分制(身分的周縁論)、象徴天皇制(近代国民国家の中の「伝統」)などに比較してみると実に都合がいい。
本来異質な要素を自己の維持に不可欠な一部として取り込み、その「元異質たち」も含めた全体として再生産されていく。あるいは新しい政権が成立する際に、それ以前からあったが途絶えかかっていた慣習を改めて制度化し流用する。取り込まれた方は同一性が失われ単なる機能に解消されてしまうことなく、細胞に異変があれば細胞内生物が独立した生物としての振る舞いを取り戻すこともあり得る(少なくともあり得ると見なされる。226事件を想起せよ)。天皇機関説ならぬ天皇ミトコンドリア説。
文化じたいが多かれ少なかれこういう性質を持っているのだが、特に日本はその傾向が顕著というか、世界中に普遍的にみられる文化現象の一例というだけでは説明のつかない点が多い。(なぜ先端技術の粋を凝らした構造物を建てる前に、土地の霊を鎮めるための宗教儀礼をやるのか?なぜ参加者は誰もその宗教の信者でないのか?わけが分からない。)こういう部分を説明するうえで本書の示唆する構造は役に立つ。その応用系として、古今伝授についても似たようなことが云えるのではないか。
なげーよ
やりとりがすれ違いまくってるから要約するぞ
ブログに移行した
http://zephyrosianus.hatenablog.com/entry/2020/02/12/192208
その他、本論前の前段で主張したこと
こんなにも相違点があるので、何とか1点に絞らないと話は終着しない。
最初のFubarの主張は「1.に批判的なことと表現の自由戦士に批判的なことは両立しない」なので
Zephyrosianusは他の主張には脇目を振らず「1.の問題は表現の自由でも基準の明確性の問題でもなく行使者が国家かどうかだ」
と主張するべきだった
こちらは両者で統一しているので、他の主張の違いに目をつぶって
Zephyrosianusから「自分の行動している署名活動なりブログなりはここで、こちらに協力してほしい」
などの提案があってもよかった
他の主張が異なってもシングルイシューで力を合わせることができるのは一人一派の精神にも合致するはずだ
あと、明示的に話題にはなっていないが認識に相違がなさそうな点について。
2.の基準が不明確だと主張している人間はFuber、Zephyrosianus他、ブクマやtwitterにもほとんど見かけないので
基準の明確性にこだわる擁護派はこれ以上なにもすることはない。Zephyrosianusはここを掘り下げても実りはない
Fubar : Zephyrosianusはネトフェミ vs Zephyrosianus : 自分ははてなに帰属意識があるためツイフェミではなくはてフェミ
→好きにして
ブコメおよびトラバ : 増田を使ってid明記の記事を書くのは規約違反
→増田を日記として使ってる奴なんてほとんどいないし、ブコメもブックマークとして使ってる奴ほとんどいないし、そんなとこ突っ込むな
ご飯論法とは新語・流行語大賞にもノミネートされた用語で割とみなさんも知ってるものだと思う。
議論における言い逃れや論点のすり替えを表す言葉。たとえば、「朝ご飯は食べたか」という質問の「ご飯」を故意に狭い意味にとらえ、「ご飯(米)は食べていない(が、パンは食べたかもしれない)」と答えるといった具合である。2018年、法政大学教授の上西充子がTwitterに投稿したことから広まり、主に国会質疑で政権側が野党の追及をかわすために論点をずらしたり、ごまかそうとするのを揶揄する表現として使われた。同年、『「現代用語の基礎知識」選 2018ユーキャン新語・流行語大賞』のトップ10に選出された。
ご飯論法とはつまり、ことばを勝手に厳密に定義して、そこに当てはまらないものを切り捨てて、議論の俎上からごっそり引き抜いて終わらせるやり方ということだ。
一方で、最近の(特に先鋭化した)ツイフェミやアベ政権批判派の人たち(だけではなく、反フェミやネトウヨにもしばし見られるが、観測上はこういった人たちに多い)にもう一つのご飯論法(仮にアンチご飯論法)があるように思える。
B:食べました。
A:何を食べましたか
B:僕はパンを食べたけれど、朝食べるのがご飯とみそ汁じゃないといけないなんてのは日本人らしさの押し付けだよね、そもそもご飯よりもパンのほうが準備に時間もかからないし、洗い物の手間もかからない。ご飯だといちいちおかずやみそ汁を用意しないといけないけど、パンならトーストにチーズとハムをのっけて焼けばいいだけ。ジュースもあれば、栄養はほぼOKだ。なんで日本人はいつまでも白米にしばられているんだろう。それが日本の悪いところだと思うんだよ、そう思わない? ね、そう思うでしょ。みんなー。
A:( ゚д゚)ポカーン えっ、私はまあ、ご飯のほうが腹持ちがいいから、好きなんだけどさ…
B:だいたい、朝から腹持ちがいいものを食べたら、眠くなって朝の会議や朝礼に間に合わなくならない?そんなことやってるから、日本人の生産性はいつまでも上がらないで、欧米どころかアジア圏からも取り残されるんだよ、そうやって日本はもうだめになっていく。だいたい、そういう日本が素晴らしいなんてのを声高に言うやつら、僕は信用しないね。ああ、だから今の政権はダメなんだ、良識ある人間はいつもびくびくくらさないといけない。まったく、お前もそんなやつだったのか。残念だよ。
A:( ゚д゚)ポカーン うーん、ご飯派とパン派、どっちでもいいと思うし、私は特に眠くなる体質じゃないからご飯でも大丈夫なんだけどね。つまり、君はパンのほうがいいと思うんだね。
B:誰もパンじゃないといけないとは思っていない、でも、ご飯よりも優れているものがいっぱいあるってことを知ってほしいんだ、それをみんなが知らないのはあまりにも世の中腐ってる。そんな日本はダメなんだ。
A:( ゚д゚)ポカーン おっおおう。わかったよ。じゃあ、私会議に行くね…
元のご飯論法が文脈を厳密に狭めることで議論をストップさせるのに対し、このアンチご飯論法は
・相手が純粋な感想を述べると、それも全部つぶしながら、持論につなげようとする。
・論点を整理しようとすると、その整理すら間違っているといって、勝手に新たな論点を作り出す。
はてなのネット界隈でも年に数度道徳の教科書の問題が俎上となる。最近も子供が持ち帰ってきた道徳の教科書が「変なこと」を吹き込んでいるというtwitterの投稿がブックマークを集めていた。
私はこれから、原文やブックマークのおおよその論とは逆さに「こういう道徳も必要ではないか」という観点から考えてみたいと思う。
大きな論点は二つある。
私たちブックマークする人間は十分に教育を経てクリティカルな思考が(ある程度には)できるから、あの教科書に対して批判ができる。
ところが初めからそうではないだろう。小学校二年生の時を思い出して欲しい。
まずは周囲の仕事に気づき、それにより身の回りが成立している感覚を基礎的に学ぶことは重要だ。
まずそうする。そうしないと、子供に基礎的な社会性すら涵養されないのではないだろうか。
私たちは徹底的に(あるいは歴史的に)これを体験し修学してきた。
だからここは批判的になりがちだしなるべきだが、全く愛校心や「軍隊っぽさ」がないと、それはそれでバラバラになり立ち行かなくなると考えられているのではないか。
バランスを見極めていくべきて、少なくとも私はこれくらいは十分に必要と思う。
小学校二年生の時を思い出して欲しいのだけれど、教科書が世界の全てではない。
例えば校長の話は意味がわからなかったりたまにしか会わないから会話や指示にぎこちなさがあったりする。
保健の先生はトイレを濡らした犯人を俺だと決めつけて掃除をさせた。
小学二年生は、友人関係を含めて人間関係のるつぼの中にいよいよ参画していく時期だ。
改めて小学二年生を思い出して欲しい。テレビや教科書の「お題目」と現実との折り合いに、わずかでも気がつき始める。
ここで重要なことは「お題目」を知り、かつ「実態」を生きると言うことだろう。
「社会の規範や常識」とそれが必ずしも通用しない、それできっちり割り切れない「実態」の二重の感性。
「社会の規範や常識」が「お題目」とは言え重要だと言う話をしてきた。
とはいえ私たち大人は「社会の規範や常識」をどこに定めるか、不断の努力で議論し構築していかなくてはならない。
家庭でも地域でも普段の子供とのやりとりでも。そう言う視点からの批判ならばあの道徳の教科書への批判になりうるだろう。
ゲーム日記、お嬢鯖、めぐみん、パンティー。はてラボだからなんとなく嫌な予感はしたけど、見ながら眠たくなってきた。
何なんだろこのわざと狙って古くした感じ。パンティーの柄といいおっさん風のノリといい。
えっと、はてラボってはてなでも王道目指してるとか馬鹿なこと言ってないよね?
サービス終了しないだけでもマシな方なのか・・
というかスターレンダとか比較的面白いシステムが眠ってるはてなスターを放置して増田とはてブに力を入れる意味がわからない。
xevraを自虐ネタに牽引したのはまあ間違ってないと思うけど。
「はてなハイクはよかった」
「フォトライフってなんだっけ」
などと言っているのを目の当たりにしてうんこ漏らした。特に前者はひどい。西暦何年だと思ってんだ。
あのおっさんたちからすると、多分はてなブログあたりは互助会だけのブログなんだろうか。
人力検索はてなが論争の俎上にも登らず、ひたすら知恵袋やOKWAVEの話題に明け暮れていたことを考えると、クソ雑魚ナメクジなんだろう。
そういや、すいすいすいようびも増田だったね。やっぱすいすいすいようびは増田最後の良心じゃないかと思う。
元増田の内容をほぼ把握してないけど正直どうでもいい。
メイド、お嬢様、幼馴染、ツンデレ。集英社だからなんとなく嫌な予感はしたけど、見ながら眠たくなってきた。
何なんだろこのわざと狙って古くした感じ。絵柄といい少女漫画風のノリといい。
えっと、集英社ってラノベでも王道目指してるとか馬鹿なこと言ってないよね?
異世界転生しないだけでもマシな方なのか・・
というかサマータイムレンダとか比較的面白い漫画が眠ってるジャンプ+を放置して少年ジャンプとラノベに力を入れる意味がわからない。
藤本タツキを少年側に牽引したのはまあ間違ってないと思うけど。
5chでとなジャンのスレがあって、そこの住人が未だに、
などと言っているのを目の当たりにして白目向いた。特に前者はひどい。西暦何年だと思ってんだ。
あのおっさんたちからすると、多分ジャンプSQあたりは絵が綺麗なだけの雑誌なんだろうか。
東京喰種が論争の俎上にも登らず、ひたすら富樫や岸本の話題に明け暮れていたことを考えると、そういうことなんだろう。
これに対して過剰な反応をしたり、なぜか、これに対応できる「ヨーロッパさすがっす、それに比べて日本は。」厨湧くので言い返す。。。
★(前提1)自分はヨーロッパ在住を始めており、できるだけヨーロッパ人の本心をさぐりたいと思っている。
★(前提2)この現象は外れ値であり、たまたま起きた現象がこういうセンセーショナルな書かれ方をするのには違和感がある
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ヨーロッパで起きる大半の人種差別はもっとライトなものであり、もっというとそもそも人種差別自体起こらないぐらいに関心ない★
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人によって思いの強さは違う。
そして総論、ヨーロッパ人的にアジア人はどうでもいい存在。嫌い好きもなく、ただただ透明人間。
人によってはロシア人とか差別する人もいるし、いろんな人がいる。
こっちの人はまじでアジア人邪魔とか、アジア人うざいとかじゃかうて、そもそもどうでもいい。嫌いも好きも何もない。
僕はアジア人は日本のまちなかでみるよりダサい人が多いし、存在感もないし、なんなら迷惑度高めの人もいて、差別されて
当然とも思うが、、それ以上にヨーロッパ人的にはどうでもいいと思っている人が大半。好意も敵意も特に無い。
めっちゃ暇なアホなヨーロッパ人がなんとなくアジア人をからかうという現象はある。
それに比して、この増田の事例は強い敵対心を感じるし異常値で外れ値。これを議論の俎上に上げるなら、向こうが完全に悪い。
あと増田がそこを追求したので警察が本腰になったと思う。警察的見過ごせず流石にこれはひどいと思って捜査したのだと思う。
これは仕組みとしてできているというより客観的に、ああひどいよねってフローチャート的に分類されたら、犯罪と認定されて
そっからは普通の捜査になるというだけで、普通にからかわれたれた(大半の事例)では、特に動かないと思う。
だって、、、
どうでもいいじゃん。キーキーいうなよ。強くいきようぜ。アウェィだろ。そんなに守られたいか?
正直僕はこういうのでキーキー言わずに強くおしゃれに返歌を返してほしいと思う。
それしかないよ。あと、地位はもともとアジア人は低いのだから、そこからは返歌は強くおしゃれに。
糞には花をあげようよ。
大体の場合アジア人はどうでもいい存在で、逆にこれだけの強い敵対心と、集中砲火を浴びる事例というのも珍しいと思う。
たまたま、そういう人にめぐりあった場合には、向こうもこれはひどいということで捜査に入る。
が、、、、、、ほとんどの場合はそんなにオーバーなことにはならず、、殆ど肩肘透かしです。
どうでもいいと思う。
小宮友根氏による「炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか」
(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864?page=2)
のこの部分、
このように、「表象を作る」という行為に目を向けると、そこでどのような女性観が前提にされているのか、その行為は他の行為や出来事とどんな関係にあるのかといったことが考えられるようになります。表象は誰かが作り、その意味も特定の歴史的・社会的文脈のもとで理解されるものなのですから、表象の「悪さ」について考えるときにも私たちはそのような視点をもつ必要があるのです。
もちろん特定の表象がどのような文脈のもとで理解されるべきかは議論の対象となりうる事柄ですが、差別的な女性観を前提にしたものを作れば、女性差別の歴史と現状に照らしてその表象が理解される可能性が出てくるのは当然のことでしょう。
分かりにくい書き方をしているが、よく読めば「女性の置かれた歴史的・社会的文脈(前段)の前では、個々の作品の文脈(後段)など議論に値しない」という本意しか読み取れない。
「女性の置かれた歴史的・社会的文脈」、「個々の作品の文脈理解」の両方を俎上に載せずして、その作品が「差別的な女性観を前提にしたもの」であるかどうか、判定できるわけがない。
他者の「差別的な女性観」を読み取るという、最大限のフェアネスが求められる議論を、「女性には"累積的な抑圧経験"があって、絵柄だけでもそんな風に理解されることもあるから、注意して」と締めるから、「お気持ち」だと揶揄されるんだよ。
世の中には、他人や物事を批判するときに限って、現実とフィクションの区別がつかなくなる人、二次元と三次元を区別しなくなる人、文化と実用を同じ俎上にあげてしまう人がいる。
結局の所、怖いのだ。そうした無自覚な混同に至るのは、自分の理解の乏しい分野が伸長してくることが恐ろしく、脅威に感じられるという、無知ゆえの恐怖に他ならない。
ほとんどの場合、その恐怖は杞憂である。人類の総体は、一人ひとりが認識しているよりもはるかにまともであり、良くオーガナイズされた動きをする。創発のようなものだ。
だいたいのアクティビティは、門外漢が取り沙汰し介入せねばならぬほど悪辣なものにはなり得ない。
バランサーはどこにでも存在する。外野からはそれが存在しないように見えていても。
その領域内の独自のルールが自然発生し、なんらかの形の自主規制に基づいて、守るべきラインが形成されていく。それは動的であり、だからこそ発展していくものだ。
海外の(観光客からみると)おっかないエリアであっても、そこに住み日常を営んでいる人たちがいるのと同じように。過度に干渉したりケチつけたりすべきではないのだ。
世の中のあらゆる人々や物事は、多くの側面を内包している。その側面一つ一つごとに発展の度合いも方向性も異なる。
そのうち一側面の要素を一つの尺度で「ひどく拙く粗野だ」と詰って発展段階を批判したとしても、その主体の価値がそれだけで毀損されることはない。
けれどもそれが可能であるかのように誤解させ、一事が万事のように誘導し、その主体そのものを潰そうと息巻く人々が、事あるごとに出てくる。
それは、前述のように恐怖からくるのだが、同時に、疲れているのだろう。疲れている人がたくさん居るから、そのような一つの現象を生むのだ。
世の中が多様になりすぎて、受け入れるだけのキャパシティを超えてしまった人たちの、許容疲れなのではないか。
疲れている人とそうでない人とでは、その視野も認知能力も噛み合いようがない。それが理論の屈折と、議論の非建設性を増長することになる。
この「許容疲れ」の解消こそが、21世紀の課題だと私は思っている。モダンでありながら生きやすい社会のために。
今までは、そのキャパシティは物質的(経済的)にも精神的にも余裕のある成熟した人でないと拡張できなかった。
単にインターネットを通じていろんな立場の人の声が聞ける・読めるようになった程度では、人々の意識の器は拡張されなかった。
むしろ、一気に大量のタスクを渡されたせいで混乱しカリカリと殺気立っている人、のような状況に陥っている。
インターネットがより意識の低い一般大衆に浸透すればするほどその傾向が強まってきたように感じられる。半端に意識を高められ、排外排斥および他責思考が強まっている格好だ。
これは過渡期的な、一時的な現象だろうか。いや、そうではないだろう。
おそらく、インターネット、ハイパーテキストの先にはソリューションは存在しない。
情報通信の分野の中にはあるだろうが、まったく異なるプロトコルによる情報摂取体系の普及が必要になるだろう。
多面的でファジーな意識を、負荷なく脳に取り込む――可能ならば他人の脳そのものとリンクして、認識を統合する――
仮にそれをHCTP、ハイパー・コンシャス・トランスファー・プロトコル、と呼ぼう。
それが実現したとしたら、どのような形で運用されるだろうか。
http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.html
今サーバがメンテナンスでみえないっぽいけどめちゃくちゃ面白いね。いまさらだけど。
メタな話をすれば、哲学者側は最先端の物理学者との対談で自分の論に箔をつけて業績にできるめったとないチャンスで、対する物理学者側は正直こんな本が出ても業績としてたいして価値があるわけでもなく、無難にお茶を濁しても誰も何も言わないだろう状況へこのガチなファイターの投入である。(ほめてる)
https://twitter.com/tani6s/status/1193542355975950336
https://twitter.com/tani6s/status/1193542463169810432
心の哲学が何を問題にしているのか、とか全然興味なかったけど、おかげさまで浅いなりに理解できたし興味も出てきた。谷村先生が頑張らなければひっそりと専門書の棚に気付かれることなく置かれてるだけだったかもしれない本だったかもしれず、関係者は谷村先生に感謝しすぎてもしすぎることはないんじゃなかろうか。
ところで谷村先生が指摘した部分というのは、理系の研究者や人間であれば多かれ少なかれ感じていたが言語化するのがためらわれた結果、これまで表面に上ってくることのなかった問題のように感じる。
学生の頃、人文系研究室の卒論と科学系研究室の卒論とを同じ発表会で見る機会があったけど、科学系の教授の人文系の発表への容赦ないツッコミを思い出した。
用語の定義にしろ立論にしろ結論を導く論理にしろ君たちあまりに緩すぎないか?というのが共通する雰囲気だと思う。
科学が発達していなかった昔、哲学は科学がまだ扱えない領域を先んじて論理の力で掘り起こす役目を担っていたと個人的には思う。(谷村先生の期待もこういうものではなかっただろうか。)
だが色彩論でのゲーテのニュートン批判とか、時間論でのベルクソンのアインシュタイン批判とか、科学が哲学に先行して真理を掘り起こした結果、取り残された哲学が宙ぶらりんのままになる状態が19世紀以降は顕著になってきたんじゃねえかと思う。まあ哲学のことはよくわからんのでアレだが。
ベルクソンとアインシュタインの対話の翻訳をネットで拾って読んでみたが、ベルクソンが長く理解しにくい文章で考えを述べる一方、アインシュタインは明晰で短い文章でバッサリと切っていて既視感がすごい(語彙力)
今、AIとか脳科学の研究が進んで、心に関する諸問題も哲学ではなく、科学の俎上で実際に解決される可能性が高くなってきたと思われる。
意識のハードプロブレムとかも、哲学側からの「まだまだ科学に扱えないものがあるんだよ!!」という断末魔の叫びのようにも感じられる。
だが科学は進む。
意識の問題も脳というハードウェア上に構築されたニューラルネットワークの状態空間として科学の領域に取り込まれ哲学の領域はまた一歩小さくなっていくのだ。
地動説で人間の住む地球が宇宙の中心ではなくなったように、進化論で人間が神に作られた特別な存在ではないことがわかったように、有機物が生命の作用なしに合成できることがわかったように、意識もまた特別な何かではなく、我々自身が哲学的ゾンビなのだということを認めざるを得ない瞬間が必ずくるだろう。
キリスト教が根底にある思想は最後まで魂の特別性に拘泥するかもしれないが仏教だと五蘊皆空と思えばどうということもない気もする。
まとまらず終わる。
あの『紅一点論』の話を軽くでいいから一度総括しておくべきなのかな、とか思う。
評論としては「伝記を叩くのがメインだったはずなのに、見事なまでに前座の藁人形だったアニメ特撮編しか読まれなかったお気の毒な本」ぐらいの評価が関の山で、
そのアニメ特撮編も「ああ、頑張って視聴したけどさっぱり頭に入ってこなかったのね」ということだけがが伝わってくるトンチキな代物なのだけども。(なお、伝記編は輪をかけて薄っぺらい)
要するに、「マンガみたいな文体でテレビまんがを評論の俎上に上げた」ことだけが評価点の本。
もともと「身近なところにこんなに女性差別が!」という話をぶち上げる上で、差別主義者であろう読者のみんなが安心してフェミニストと一緒になってぶっ叩いて差別できる対象としてアニメを選んだはずなのに、
ミソジニストのブクマカは即非表示にしてるし、ミソジニストのツイッタラーも即ミュートにしている。話を聞く必要を感じないというか、何のメリットもない気がするというか、話の通じる相手だと思っていないから。
こういうことをしているのならば、はてなやツイッターで目にする強烈なミサンドリストも同じように無視するべきなんじゃないのか、という気がするのだ。
恐らく彼女達は今までに男性から何か大変な被害を受けたことがあって、そうなっているのだろう、とは思う。でも、話が通じる相手ではないという気がしている。
しかし犯罪被害者やその家族の手記を読んだ時、私は彼らに共感し同情する。その気持ちに寄り添うべきだと思う。レイプの被害者が男性恐怖症になったとしたら、それも仕方ないことだし、それを切り捨てて良いとは思えない。
でも私はミソジニストはあっさりと切り捨てている。何のためらいもなく。もしかしたら女性に虐められて女性恐怖症になったのかもしれないけれど、大体の人はモテなさ過ぎて拗らせたんだろうとしか思っていない。
はてなのホットエントリにはよくミサンドリストのブログが上がってくるけれど、議論の俎上に上るべきなのか疑問に思っている。でも自分が気にならないことだからといってマイノリティの気持ちを無碍にするべきでもないよね?なんというか線引きが難しい。