はてなキーワード: ファンタジーとは
元記事はこちら。
http://www.bbc.com/news/magazine-30698640
【追記】こちらの訳よりずっと上手い訳が出てたので、そちらのリンクを張っておきます。
http://knagayama.net/blog/2015/01/08/bbc-why-hasnt-japan-banned-child-porn-comics/
【追記終わり】
BBC「何故日本では“児童(チャイルド)ポルノ”漫画を禁止しないのか?」 - Togetterまとめ
(数字)注釈付きの文はよく分からず無理に訳してるので誰か直してくれると嬉しい。
MangaやAnimeとして知られる日本の漫画やアニメは巨大な文化的産業であり世界的にも有名だ。でもその幾つかはショッキングで子供の露骨な性描写を特色としている。何故日本はこうしたものを禁止するのに反対することを決定したのか?
日曜の午後、東京、サンシャインクリエイションは活況だった。何千もの漫画ファン、その多くは男性、は展示センターに群がっていた。部屋の中を歩き回りながらテーブルの上に売り物として並べられたコミックマガジンを熱心に読みふけっていた。エルフ顔でメス鹿のような目のアニメヒロインのポスターの多くは肌もあらわであり得ない程均整が取れて海綿を色とりどりに変えている。(1)
「このエリアは主に性的な創作を扱っています。」とイベント主催者の一人Hideは説明する。
我々は二人のトップレスの少女がカバーに描かれたあるテーブルで足を止めた。私の目には彼女らは13,4歳か9,11歳に見える。ストーリーは彼女らが際どい性行為に及ぶ様を描いている。
他のいくつかの売店は似たような物を売っている。これらはUK、オーストラリア、やカナダでは間違いなく論争を呼び、おそらく違法になるだろう。しかしここでは大した問題ではない。
「児童虐待が良くないことだというのはみんな知っていますよ。」Hideは言う。「でもそういった感情を持つのは自由です。何らかの子供との性的な場面を想像し楽しむことは禁止されていません。」
彼の正直さに私は面食らった。そして彼は「ロリータコンプレックス」を略した「ロリコン」という言葉を私に紹介した。若い少女が性的に露骨な行為に及ぶ様を描いた漫画を意味する。それは近親相姦やレイプ、その他のタブーを含むこともある。Hideの嗜好は高校ロマンスにあるというが。
「私は若い少女の性的な創作が好きなんです。ロリコンは私の数ある趣味の中の1つに過ぎません。」彼は言う。
私は彼にあなたの妻が近くに立ってあなたの「趣味」をどう考えるか尋ねた。
「多分何も問題ないと考えると思います。」彼は返した。「だって彼女は若い少年が性的な行為を成すことが好きですから。」
こうしたものは日本の巨大なマンガ産業 - 年間約36億ドルの売上げ - の極一部である。しかしそれは多くの注目と論争を引きつける。
2014年の7月、衆議院は児童の性的虐待のリアルな映像を所持することを禁じることを可決した。これらの映像の制作と配布1999年から違法であった。しかし日本はOECD中で所持を違法化した最後の国だった。
その頃、漫画、アニメ、ゲームの18歳以下に見えるキャラクターの「ヴァーチャルな」性的映像を違法化する呼びかけもあった。しかし討論を重ねた後、衆議院はこれに反対することを決めた。この決定は児童保護の運動家やNGO、特に日本の外から非難を浴びた。
より理解を深める手がかりとして事実を示すと、Hideは私たちが会ってからたった数分で彼の「趣味」について楽しそうに討議しはじめた。とても幼い子供を含む漫画がある種の社会的烙印を取り付けられているように見えるけども、青春期の若者を含む性的なモノは確かに興味をそそるメインストリームだ。(2)
日本の国会議員は多数 - 潜在的に数百万 - の漫画ファンを犯罪者にすることを明らかに嫌がっている。
Hideの様なファンは主張する。我々は無害なファンタジーを楽しんでいるだけである。いかなる子供のモデルも役者も含まれていない。彼は言う。だから「性的テーマの漫画を創作することは児童虐待ではない。」
東京秋葉原は漫画界の精神的なホームである。ネオンサインとけたたましいポップミュージックが目と耳を圧倒する。高層の書店が街中に並び、太陽の下であらゆるテーマの漫画を販売する。
18歳以上に制限された大人用セクションではジュニアレイプや日本人プレティーンスイートといったタイトルの漫画を探すのは難しくない。
「あるモノに性的興奮した人はそれに慣れます。」ある大人向けストアのカウンター裏で働くTomoは言う。「だから彼らはいつも新しいものを探しているんです。そして若くて未成熟な女性に興奮するようになる。」
これが批評家が心配していることだ。- 性的に露骨な漫画の創作で誰も傷付けられていないとしても、正常化し助長させ、性的虐待のリスクを増大させるかもしれないという懸念だ。
これが真実かどうかは誰にも分からない - 研究は確定的ではない。しかし日本人の多く、特に女性も広く関心を寄せている。彼らは女性の品位を傷付けるような強烈なポルノや若者の性欲化への目を閉ざす社会としてこれらの映像を見ている。
日本では若者の魅惑を探すのに遠くを見る必要はない。若い少女のポップグループが成人男性の集団に向けて演技する。そして看板や広告から漫画までスクールガールの映像はどこにでもある。
Sex in the City, Tokyo風の本で若い女性に人気の作家、Lilyは彼女の学生時代について話す。男が彼女とその友達に近づき、彼女らの靴下やパンティのためにお金を差し出したのだ。
「あれは不快だった。とても変態じみていた。」彼女は言う。思春期の性への魅惑というのは「男が成し遂げたいという力が全てだ。強くて自立した女性が嫌になった男のね。」彼女は主張する。(3)
Lilyの親の時代の家族モデルはまだ日本では強い影響力を持っていた。 - 父親はお金を稼ぎ、母親は主婦として家にとどまる。しかし日本経済の弱体が現実化を困難にした。
「business-wiseで成功しない人達がいる。おそらく彼らはロリコン漫画というファンタジーに出会っている。」(4)
「私は大嫌いだ。本当に大嫌いだ。私はこうした性癖異常を日本から追い出して欲しい。子供達をこうした変態から引き離して欲しい。あなたのファンタジーの中であっても。」
しかし他の人達は政府が何が「良く」て「適切」なのか定まった指針を規定し強制するため関与すること、特にファンタジーという領域に、に懐疑的だ。
「批判的になる理由は十分にある。それはよいことだ。」漫画翻訳家で言論の自由支持者、兼光ダニエル真は言う。「しかし他人が何をし何を考えたかに基づいて他人を捜査する権限を人々に与えるなら、それは思想の取り締まりだ。」
それでは彼は小さな子供やレイプ、近親相姦のようなタブーを描いた漫画の創作者の権利を擁護するのだろうか?
「私はそれらが不快です。でも私には人々がどのように考え共有したいか言う権利はありません。」彼は言う。「他人の人権を侵さない限りはファンタジーライフを送って何が問題なのでしょうか?」
・日本は1999年子供の性的虐待の映像の制作と配布を違法化した。 - UKの21年後である。
・2013年、米国務省は日本を「児童ポルノの制作と取引の国際的なハブになっている」と記述した。
・日本の警察庁は2013年に1644件の法律違反があったと報告した。 - 1999年の法律が強制力を持ってからどの年代よりも多かった。
・2014年7月、日本は児童性的虐待の映像の所持を禁じた。国民は従うまで1年の期間を与えられた。
秋葉原の漫画ショップに囲まれ、児童保護運動家のKazuna Kanajiriはカートゥーンやコミックよりもっと大きな問題があるとある場所に私を連れて行った。メインストリートを抜けて階段を一歩一歩上り、大量のDVDが積まれた部屋に現れた。
Kazunaは棚から1枚引き抜いた。そこにはリアルな少女の映像が描かれていた。彼女が言うには少女は5歳で小さな水着を着せられ、大人のポルノの真似をして扇情的な姿勢でポーズを取っていた。ショップの中にある他の全てのDVDも本物の子供を特色としていた。
「私はこの子供達が気の毒に思う。」Kanajiriは私に告げた。
これら所謂「ジュニアアイドル」DVDは1999年に児童ポルノの制作が違法化されてからポピュラーになってきた。
これらは性器が隠されてさえいればこれらは法律を回避するのだ。しかしKanajiriは言う。7月に法律が強化されて、これらは今は違法となっている。
「搾取する人は適切に裁かれなければならない。」彼女は言う。「法律の下ではこれらは完全に違法だ。しかし警察は取り締まっていない。」
性的な場面で未成年者を特色としたマンガとアニメにおける幾つかのコンテンツはショッキングで注目を掴むものであるかもしれない一方、Kanajiriと私が話した他の運動家は私に告げた。今のところは彼らは現実の子供を保護するためにより重要なバトルにフォーカスするという。
しかし彼女は論争の的であるマンガとアニメを禁止する望みを諦めたわけではないという。
「私は消し去りたい。」彼女は言う。「2020年に日本で夏オリンピックが始まる時、みんなが日本を変態文化と呼ばない国に変えたい。」
それはマンガサポーターが強く拒否するような説明だ。しかしオリンピックが近付けば、外部の目が日本に注意を向け、「奇妙な日本(weird Japan)」より「クールジャパン」としてみんなが見るように、マンガやアニメへの強力な圧力が働くだろう。
(1)Posters of elfin-faced, doe-eyed cartoon heroines, many of them scantily clad and impossibly proportioned, turn the cavernous space into a riot of colour.
(2)Although manga involving very young children does appear to have some social stigma attached to it, sexual material involving adolescents is a fairly mainstream interest.
(3)The fascination with adolescent sexuality is "all about the power that men want to achieve, men who are tired of strong independent women," she argues.
(4)"There are people business-wise who are not successful, maybe they are running into fantasy with Lolicon manga.
以下、映画インターステラーのネタバレだらけなので嫌な人は読まないでください。
一年以上映画館なんて行ってなかった(映画自体はレンタルで月に1~6ぐらい観る)程度の無いオレですが、インターステラーをやたらと褒めちぎるウェブの記事に触発されて観に行ってきました。
もともとSF好きで、特にハードSFを好むのですが多くのレビューや宣伝がインターステラーをハードSFの名作として紹介していたことが決め手になったわけです。
GIGAZINE 「インターステラー」のSFっぷりは一体どれぐらいで何がスゴイのか、SF小説とかSF映画とか大好き野郎が見るとこうなる
その他のブログや紹介記事も多くは「本格的なSF」「インターステラーの世界は現実に起こりうる?」「物理学者の誰々を監修に起用!」といった情報が多い。
SFと言ってもブラッドベリのようなファンタジーテイストな作品や、スターウォーズやガンダムのような現実は度外視した作品も多い。それらの作品も好きだが今回は特に興味のある現実路線のハードSFだということで期待はどんどん高まっていった。
いくつか挙げる
他にもいくつもおかしな部分はある。情報伝達手段が限られた状況においてモールス信号ではもどかしいとばかりに「バイナリだ!」とか言って謎のピクピク技を繰り出したり、タイムパラドクス的にアレなことがあったり、地球環境悪化の速度がご都合主義的に変動したりといろいろある。
途中で気が付いたんだけどこれアルマゲドンだったわ。「オレが行く!」ってヤツ。
失意にまみれて帰宅してから映画レビューサイトを漁りましたよ。同じような不満や疑問を抱えてる人がたくさんいるんじゃないかと思って。
見つかったのは多数の好意的なレビューでした。大別すると「相対性理論とか難しくてよくわからなかったけど面白い」「相対性理論とかを採り入れててすごい!」「よくわからないけれど絵がきれい」という絶賛が7割ぐらい(ザッと眺めた50個ぐらいのレビューの中での話しです)。「小難しくてつまらなかった」「長すぎて飽きた」という低評価が3割ぐらいって感じ。
必死に探しても「科学考証や当該時代における技術レベルの設定に問題があり楽しめなかった」という意見は見つからなかった。いや、楽しむ楽しまないは主観的なものなのでどうでもいいのだけれど、オレが間違ってると思っている部分が本当は間違いではなく、おかしいのはオレ自身なのかと不安になってきてしまったんです。
「こまけえこたぁいいんだよ」的な意見もあるだろうし、そう思える人はそれでいいですが、現実路線の映画なのだからストーリーの根幹をなすような部分ぐらいはしっかりしてほしいのです(だからストーリーとはあまりに無関係な要素、例えばロボットの形状があーだこーだとか、船外活動時の減圧の時間がどーだとか、宇宙服ペラペラ過ぎワロタwwwとかは言うつもりもないのです)。
映画をハードSFだと言って紹介・宣伝している人たちには腹が立つし、自分の知識や考えが間違っているんじゃないかという不安もあったりして困っております。
GIGAZINEは金銭の授受アリの宣伝だってことで理解できるんだけどその他のブログやレビューもみんなステマなのか?と疑ってしまいますよ本当に。(といいつつもオレが間違っているのかも?というモヤモヤが消えない)
http://anond.hatelabo.jp/20150104012559
美女と野獣は普通にロマンスとして面白かったし、アラジンだって最高にワクワクした。プリンセスと魔法のキスなんて、王子様に助けられるだけのディズニー的話法からの脱却を図った意欲が見えて、すごく興奮したし(脱却できなかったがw)、蛍が星になるところとかすごく上手いと思った。ラプンツェルの髪の毛を使ったアクションのスピード感は、俺が崇拝するジェットリーのワンチャイシリーズと匹敵するくらいカッコいい!そんでアナと雪の女王については、ついに王子様幻想からきれいに脱却し、同性婚を想像させるようなアグレッシブさ。
何なんだ?ラブロマンスっぽかったり、ファンタジーだったりすると、1段下に見るのがカッコいいのか?スイーツwとか言って見下すのがカッコいいのか?うん、カッコいいと思ってた時期が私にもありました。。。
でも、冷静に見てディズニーが日本アニメに負けてたことなんて、これっぽっちもなかったんじゃないかなと思う。日本アニメを焦土にしうる威力があったかというとなかったけど、別にベイマックスだって日本アニメを焦土にはしないと思う。
つうか、あれだろ?SFっぽい設定で、ドラえもんとか彷彿とさせるような何かがあって、色々みんな大好きな伏線回収wがきれいに纏まってて、そういう心ときめかせる作品が、細田守とかじゃなくて、スイーツ御用達って勝手にカテゴライズしてたディズニーから出たことで、ぐぬぬってなってるだけで、そのぐぬぬを折り合い付けるために「あれは圧倒的だった!ディズニーが凄いことやってきた!!」って騒いでるだけでしょ?
■その1。
いやー、『ONE~輝く季節へ』を、やっとこオールクリアできたので、記念(?)に、『ばらえてぃたくちくす!』を買ってきました。
「ほう、『鈴がうたう日』番外編か……あ、そういえば、本編、途中で止まったままだよ!」(またか)
……という訳で、今月は『鈴がうたう日』(以下『すずうた』)です。つーか、新作より、目の前にある積みゲーの数々をクリアしないとな……おかげで、歴史の把握が、かなーりおかしいことになってて、頭の中で文脈が混乱しまくってるよ!
さて、前半、平凡な日常描写を積み重ね、後半で非日常的な描写へ一気に持っていく構成、その対比と高揚感から、特定の感情を生み出すという演出手法は、普遍的になりつつある。実際、効果的だけど、最近は、苦痛に感じることもある……。
そして、前半と後半を繋ぐために、ある種の情緒……ファンタジー要素や少女幻想的な描写を使う作品も多い。また、日常の崩壊を匂わせる、詩的な言動や描写を、前半で伏線的に配置しておくパターンもある。
しかし、『すずうた』の場合は、何故か両方とも欠如しているのだ。前半に配置されるのは、少女幻想を前提とした詩的なラブコメ描写ではなく、あくまで少年まんが的なノリで作られたギャグ描写だ。なので、ラブコメという感触は乏しい。むしろ、ノリとしては久世光彦の作るホームドラマだ(『ムー』とか)。
前半で配置されている非日常的な要素を強いて挙げるならば、物語の発端となる、すずの来訪(登場)なのだろうが、それすらも、簡単に日常へ取り込まれていく。そのことが、後半の展開との落差に、違和感を生み出す遠因となっているようだ。
ほとんどの美少女ゲームは、恋愛の予備段階と言える状態からスタートする。犬チックな幼なじみが起こしに来たり、変人な先輩と偶然にぶつかったりするが、それらの出会いには、主人公のモノローグなどで、恋愛の予兆があらかじめ内在する。
ところが、『すずうた』は、「恋人未満、友達以上」どころか、まるっきり友達感覚な描写ばかりが続くので、その予兆が内在しない。そして、恋愛の予兆が排除された状態から、後半、一気にハードな恋愛状態へ流れ込むが、恋愛描写や少女幻想がもたらす酩酊感が全くないので、関係性の変化という事態に対し、全くフィルタがかからないのだ。よって、急性アルコール中毒になったような感覚に陥り、あまりにも不条理な災厄が降りかかったような気分になってしまう。これが、先に述べた違和感の正体だと思う。
さて、その後半に目を向けると、提示されている仕掛けはことごとく、対立する視点が介在し(七海トゥルーにおける紫姉、など)、いわば、理性で言霊の暴走を抑えている格好になっている。なので、前半の軽快さとは一転して、重苦しい展開になっている……という対比はあれど、高揚感は生まれない。従って、プレイヤーもまた、流れに乗り切れないまま、物語は終わる。おまけに、どのラストも正直、爽快とは言い難い。しかし、シナリオの手法としては、これは決して悪くない、と思う。
同じように、イベントで盛り上げるという仕掛けを排除した作品としては、『いちょうの舞う頃』が挙げられる。しかし、『すずうた』の場合は、『いちょう~』ほど明確に排除している訳ではない。むしろ、仕掛け自体は積極的に使用しているのだが、問題は、そのほとんどに意図的な抑制が働いていることだ。早い話が、ラブコメの物語構成要素に対し、再検証が行われているのだ。
ラブコメというシステムは、その発生においては、過去の歴史から断絶しようとする意志によって成立したものだった。実際、袋小路に入っていた物語に対するカウンターとしては機能を果たしたが、システムの発展に伴い、【オブジェクト嗜好】という、形骸化に陥ってしまった。
だから、『すずうた』が目標とする場所に到達するためには、言霊を抑制し、感傷に流されることを避け、登場人物たちを自律的な選択に導いていく必要があったのだろう。
■その2。
【お約束】な停滞からの逸脱=ラブコメの定番パターンからの進化。しかし、それは物語システムを自壊させる行為でもある。その意味で、この問題に最も自覚的だったのは『WhiteAlbum』だったのだが、それ故に、一部のユーザーからは生理的嫌悪にも似た反発に遭った。
物語構成要素の再検証という行為は、作品の質は上げるが、その分、間口を狭くする。ちなみに、某誌によれば、『ア○マゲドン』のプロデューサーが「観客というのは、感動的な音楽さえ流せば満足する豚だ」と言い放ったことで物議を醸したらしいのだが、目標とする対象が多ければ多いほど、低いレベルでの記号化は強まる。水は低きに流れるものでして……。まあ、だからといって、エアロスミスの音楽は正解だとしても、出演女優をフェラチオの上手さだけで決めるのはどうかと思うがなあ……っと、話を戻そう(笑)。
つまり、【恋愛】というファンタジーをめぐる、物語システムとしての【ラブコメ】が直面している問題に対し、停滞からの逸脱を目指した上で、恋愛関係の可能性を描こうとした場合、必然的に、既存のパターンにはない微妙な感情を描いていくしかない。同時に、それは、類型化された方程式を否定していく作業になる。記号のイメージに頼ったテキスト作りは許されない上に、記号によるお約束に慣れた(眼鏡っ娘=内気、とか)ユーザーからは反感を買う……正直、茨の道ではある。
でも、逸脱の手段として、日常においての自律的選択(自力本願)という方向性を追求した作品群の中では、『すずうた』のテキストは、かなりの強度を持っていると思う。
例えば、『ONE~輝く季節へ』の場合は、日常から非日常、そして、日常へという流れを持っているが、『すずうた』の場合、日常から日常へと繋いでいく。しかし、前半で提示される日常は、後半で提示される現実の上に成り立った、虚構に限りなく近い日々なのだ。そして、その断層から、過去の幻影と現在を繋ぐという、もう一つのテーマが浮かび上がってくる。あと、女の子たちの物語への感情移入よりも、日常の脆さを提示されることが優先されているのが、筆者には新鮮だった。まあ、恋愛小説というよりは、教養小説っぽくなった感じもするが……。
それから、感心したのは、父性&母性の扱い方だ。すずシナリオでは、後半、唐突に父親との相克がテーマとして浮かび上がるのだが、過剰な行動には至らない。逆に、蛍トゥルーでは、負の母性との相克がテーマになるが、これまた、過剰な補完行動には至らない。類型的な受容と和解で解決してしまい、結局、依存から逃れられない作品が目立つ中で、『すずうた』の登場人物たちは、周囲の助けを借りながらも、あくまで自律的に運命を選択していく。
他人の犠牲も含めた上での自律的な選択は、『WhiteAlbum』の場合もそうだったが、必ずしも許容できるものではないだろう。しかし、偶然と選択の危うい積み重ねの結果である、平凡な日常が脆いように、全員が幸せに笑っていられる優しい世界もまた、脆さを内包しているのだ。
そして、わずかに残った非日常的な要素(すず)も、全てを無に帰すほどの力を持っている訳ではなく、奇跡=解決にならない。だから、コールタールのようにまとわりつく現実から救われることもないし、すずの存在もまた、過去の記憶として、日常的に失われていくものの一つとして、現実に組み込まれていく。
だからこそ、むしろ、哀惜という感情が静かに流れ込んでくるのだけど、美少女ゲームとしてのカタルシスは欠いているのかも知れない。
しかし、あくまで自律的な行動によって、過去の欠損を補填していこうとする、ささやかな意志の方が、ゲームを終了し、物語がプレイヤーの現実に取り込まれた際に、有効に機能するのではないだろうか?
過去の日常と現実の日常を再接続する物語に触れることで、個人の物語も再生する……それが、歴史を紡ぐのだと……筆者は思うのだが。
■ちっとも終わらない近況。
仕事がここに来て、がーっと集中してしまい、一日7時間ファミレスに籠もって、モバイルギアのキーボード叩いても、ちっとも終わる気配がないよ……(迷惑)。脈絡不明な仕事ばっかしているので、最近は「本業は編集者」とは言えなくなってきたですよ……。
あ、事務所のホームページに、このコラムのバックナンバー再録を始めました。とりあえず、昨年分はアップ済。つーか、次回で連載一周年なのか。エロゲーのテキスト解釈だけで一年も続けるんじゃないよ、俺。もっとも、結構辛いけど、それなりに面白くなってきたので、もう少し続ける予定です。最初は、もう少し普通(?)のゲームレビューにするつもりだったのに……脱線しすぎ。
年末になり、忙しさが減ったので、いつもは長い文章なんて書かないのですが、書いてみます。
関東の大学でのお話です。(私が今も大学にいるのか、それとももういなくなっているのかは、隠しておきます)
うちのゼミの先生と接すると、精神的に疲弊し、本当につらい思いをします。
何かに失敗してしまうと、人格や性格の問題点をあげて否定される。
常に他人の陰口を言っている。
特に、人をアスペルガーだと言って馬鹿にすることが気に入っているようで、よくその言葉を口にします。
私だけではなく、私の先輩も、後輩も、先生のそういった言動によって精神的なダメージをうけており、
同じ経験をした人たちで集まれば、よくそういった話になります。
4年間で大学を出て行く人は、まだましな方で、
大学院に入る人は、先生と付き合う年数が増えるため、より大変そうです。
一度、先生から不当な扱いを受けた先輩から、同じゼミ生たち数人にメールで相談がありました。
「先生にこういうメールを送られて、憤っていて、おかしいと思うので、以下のような抗議の返事を先生に送りつけたいが、どう思うか」という内容でした。
その先輩は非常に傷つき、怒っており、「先生に送りつけたい」という長いメールからも、その憤りが伝わってきました。
「もし、その抗議のメールで先生の逆鱗に触れてしまい、指導が受けられなくなってしまうと自分が苦労する」という結論になったからです。
当たり前ですが、先生という立場と、生徒という立場では、力関係があります。
罵倒され、人格を否定されたことに対して、言い返してしたいと思っても、
「先生に目をつけられ、指導がないがしろにされてしまうのではないか」、
「先生という立場を利用して攻撃を受けてしまうのではないか」、という怖さがあります。
他の先生や、上の先生に相談したとしても、今度は誰が告げ口をしたのか、という話になってしまいます。
先輩たちが、「あの先生とはとにかく距離を置くしかない」と言っていたのも、そういう理由があったんだと思います。
友だちや恋人に相談して、心の傷を癒すこと、とにかく忘れること、そして先生と距離を置くこと、これしかありません。
心配をかけてしまうので、親には相談できません。また、何度も友だちに相談にのってもらうと、相手も疲れてしまうので、頻繁にはできません。
この文章では、私は、先生のことを悪く言ったりしないようしています。
とにかく、ただただ、先生がこういうことをしていて、私を含め周囲の人間がつらい思いをしていたということを書きました。
そういう風に、事務的にやっていないと、なんだか汚い内容になってしまいそうな気がしたので。
先生は不幸だと思う。学生から先生へはなかなか意見を言えないからです。
年末でマンガ総括エントリが花盛りですが、ちんまりといくつかの作品について。
あちこちで取り上げられており「いまさら増田で取り上げられても。。」って感じだと思うけど、先日本屋に行ったら平積みされていて、上巻が減っているのに下巻が減っていないのを見てちょっと取り上げようかと。
上下巻ともテイストは統一されているものの、後半にぐっと来るシーンが寄っているので上巻だけ買って下巻は読んでない人は読んだ方が良いよ。って話。そんだけ。
マンガの登場人物が自分たちの世界がマンガだと気が付くというメタマンガ。なんだけど、その設定にこだわって何か新しいことにトライするといったことはなく、作品におけるツールぐらいの扱い。
で、なにをおすすめしたいって、絵。典型的なガイジン美少女顔のヒロイン、アリスのセーラー服姿を堪能するマンガ。これは間違ってるかもしれないけど、作者もそういう意図で描いてるような気がした。黒アリス(ヒロインと同じ顔の別キャラ)が登場した時点で、「ああ。アリスの画を楽しむマンガなんだな。」と思った。主人公の男兄弟も同じ顔で別な髪形をしており、男が好きな人も(彼らの顔が好きなら)めちゃめちゃ楽しめる。
個人的に「やっぱりマンガは絵が良くないとね。」と思ってる。ストーリーが良くても絵が気持ち悪いと読むのが辛い。絵のうまさにはいろいろな種類というか文脈があるので、誰がうまくて誰がへたとか断定するのはアレだけど、この人の絵は楽しめた。お試しとかで「この人うまいなあ」と思った人は迷わず買いで良いかと。
午前3時のインパクトが強すぎたねむようこだけど、これは久々に良かった。女性マンガ家の日常モノ。1巻で終わり。
サキちゃん(主人公)が銭湯で出会う押しの強い親切おばさんが良かった。他人に対して一方的に親切する人で、一歩間違うとうざいおせっかいキャラでイライラさせられるんだけど、ここで描かれるおばさんにはそれがなくてジーンとさせられた。
この手のキャラのバランスって難しいので失敗してるケースも多いけど、個人的には「オープンで他者にやや強引に踏み込んで行く親切キャラ」は結構好きなんだよね。彼ら/彼女らは現代社会のファンタジー。
それこそ今更な鉄板作品だけど。相変わらエグいエログロ設定をサラサラした手触りで描いていて、気分のいい絵と相まっていろんな角度/深さで刺さって読んでてやられまくる。
気に入った話は一つ目魔女の話。一つ目の魔女は自分のコレクションに興味を持って訪れた人に対して、やたらオープンで屈託が無く無駄に気前が良い。そのすがすがしいキャラになんだかやられた。
AVのセックスはファンタジー、というのは今時童貞でも知っていることなのだけれど、知性と理性を吹っ飛ばせたセックスとAVのセックスを混同している非童貞がいるというから驚きだ。
男女300人の絡みを撮影...知性と理性を吹っ飛ばせて見えた境地とは【大橋仁 INTERVIEW】|タブロイド - オトコをアゲるスマホニュース
300人っていう人数をもってSODみたいっていうブコメが多いけれど、本質はそこではないのだよね。
上の記事に当初掲載されていた写真は今は消されているので下のリンク先を見て欲しい。
【注意】スケールが違い過ぎる。300人のセックスを撮影した衝撃作「そこにすわろうとおもう」 - EG
仁王立フェラ()に、男性と女性の身体が垂直に交わる正常位、絵に描いたような後背位。
で、女性は揃いも揃って「感じている」例の表情だ。
流石に流石に。
こういう典型的な「AVらしい」描写っていうのは、際限のない多様性を持つ男性の性欲の中から、最も多数派のものに添うように規格化されたものなわけだよね。
知性と理性を吹っ飛ばせて手堅いマーケティング戦略をトレースするってどうなの。
こういう簡単なことが見えてなさそうで怖い。
読切版の突き放した投げやりな感じはそれ自体がエンタメとして面白かった。
割とリアルでもありそうな感じしたし。
でも連載版は・・・一気にファンタジー感が増して、悪い意味で正視できないレベルに成り下がってしまった。
少年漫画雑誌で連載するにあたってのマンガチックな表現は仕方なかったとしても、だ。
全体的に冗長だったし。
読み切りとくらべて何が一番ダメだったかっていうと、わざとだと思うけど、ろう者の心理描写を描かなかったところ。
読切版だとそれがうまいことダシになってたけど、さすがに連載版で情景描写とか周りの人間だけで全部を回すのは無理があった。
あえて描かないという作者の選択は、正面切って描くことから逃げたっていうこともできる。
別にメッセージ性強くしろってわけじゃないけど、結局大事な勝負からは逃げたままで終わったという印象。
人間ドラマとしても、キャラ・ストーリーともに作り物感が出過ぎてていまいち入り込めない。
何かと絶賛する意見しか聞かないけど、そこまで「描き切った」感とか「読みきった」感は、最後まで感じられなかった。
とりあえずこれ褒めときゃ無難だろう的な意図がかなり大きくて、ランキングにこれが出てるだけでげんなりする。
まーぶっちゃけ、こんだけ大衆に受け入れられてるのに抵抗があるっつう中二病的なツッパリがまったくないわけでもないと思う。
でも、そこまで言うほど面白いか・・・?と疑問を持った感情だけは純粋なものだと胸を張って言える。
合う合わないなんてあって当然だしね。
「ファンタジーは現実で存在しない、また存在しえない事柄を扱い、SFは現実に存在しうる、また将来いつか存在するようになるだろう事柄を扱い、つねに論理の領域内にある可能性に限定される」(『天使と宇宙船』 フレデリック・ブラウン)
ファンタジーとSFの違いが良く解らなくて調べてみたら上のような文が出たけど、じゃあSF小説の百億の昼と千億の夜のような世界は将来いつか存在するかといわれたらしないだろうと思う。
解らない、ポケットモンスターはモンスターボールのようなものはいつか存在するかもしれないけど、モンスターは存在し得ないからファンタジー?
ドラゴンボールは宇宙人やポイポイカプセルはいつか存在するかもしれないけど、恐竜などが普通にうろうろする地球は世界観からして今の地球と違う、ドラゴンボールは宇宙人が何か不思議な力で作ったような記憶があるが、ファンタジーかSFどっちなんだ?
遊戯王はあんなおもちゃがいつか存在しうるからSFになるんだろうか。
どういう分類なんだろう・・・。
20年くらい前に大流行した美女たくさんの中に男子が一人のハーレムアニメがまたぞろ増えてきたように感じる。
そういうのが、KY体質のために同性の友人がほとんどできず、だけども女の子にはモテたいというやつらのための創作物だということはわかる。
だけども実際にはということで考えると、女性だけの職場に男性一人で勤務しているとほとんど発狂しそうになるというようなもんで、たぶん男しかいない世界よりももっと辛い状況なんじゃないかと思ったりする。
ラノベとかアニメはファンタジーなんだから現実に置き換えることそのものがナンセンスとは十分にわかってはいる。
だけども同性の親友が全くいなくて男一人で女にモテまくるという状況がどれほど孤独なものかということは誰か表現してくれてもいいんじゃないかなというような気もする。
ていうかさ、ハーレムもののアニメないしラノベでそのへんの孤独感について何か言及した作品てあるの?
あったら教えて。
さりげなく、でも伝えたい布教のコツは「どんなジャンルの話で、どういうふうに面白い話なのか」だけを言うという事。ストーリーや設定や固有名詞はなるべく出さないくらいの方が冗長にならない。せいぜい主人公の名前やそのアニメのタイトルの絡み位。「ジャンル」がこれと言い切れない物も多いだろうけれど、相手は布教したいものについて何も知らない前提のならば、なんとなくでいいからスムーズに想像させる時に大事なのがジャンル。言い換えるなら「枠組み」。これを飛ばして細部を説明しても、相手の頭には入らない。
「蟲師」だったら、「和風のファンタジーで、蟲っていう悪さする妖怪みたいのを祓う話なんだけど、ドキドキハラハラよりも優しくて切なくて、雰囲気がすごく良い。舞台も山奥の昔ながらの日本家屋とかで~」とか。あるいは、自分のツボがキャラ萌えだったら、後半は「その蟲を払う主人公がかっこよくて、蟲が寄ってくる体質だからさすらいつづけてるんだけど、ダウナー系の白髪青年でときめく」等。
蟲師は5年位前に漫画を読んだだけであまり覚えていないからニュアンス違ってたらごめんなさい。
例えばよつばと!だったら、「よつばちゃんっていう5歳の女の子がお隣さんとかと日常を過ごすっていう話であんまりストーリーとかはない。よつばちゃんがとにかく可愛いし、周りの人も優しくて癒される」とか。枠組みは”ストーリーの無い日常もの”、伝えたいことは”可愛い””癒される”。
キルラキルだったら「すっごいハイテンションな熱血アクション系なんだけど、とにかくキャラとか設定がぶっ飛んでて展開も早くて盛り上がれる」ってだけ言う。それ以上のことを言うのは相手の食付き次第(例えば、キャラがぶっ飛んでるの?ときかれたら蒲郡先輩の話だけをなるべく短く話す)。次に補足して言うなら…難しいな、「舞台の高校の制服が着ると特殊能力が使える服で、高校が能力者集団の軍みたいになってて、主人公が自前のセーラー服でそこに殴りこみに行く」とか。多少の語弊は気にしてはいけない。制服着用者は特殊能力を使えている、くらいの雑さ、蟲を妖怪と呼ぶくらいの違和感は飲み込むのがコツかもしれない。
確かにピンクは好きなんだよ、うん。
ピンクにしておけば売れるんだと思う。
でもさ、やっぱりいるんだよ。「ピンクしかないならピンクでいいけど、外の色があるなら外の色を選ぶ」って子とか、「フリフリは嫌だ」って子が。
そういう子向けの選択肢を用意しているアイカツはすげーいいなあ、という話。
「フューチャリングガール」
というゲーム内のブランドがあるんだけど、コレが青と白ベースでテクノというか近未来っぽいデザインが特徴なのね。
最初アイカツ見た時、ブランドの見分けつかなかったんだけど、これだけはわかった。
しかも、設定が「最先端のお洒落を楽しむ女の子向け」なんだよ。ボーイッシュ限定じゃないの。
フリフリじゃないお洒落があるってのをメーカーが推してくれてるってのがすごいな、って思った。
いや、プレミアムレアは割とみんなフリフリだから、やっぱりフリフリのほうが売れるんだと思うけどね。
この、スカート履くだけがお洒落じゃ無いんだぜ! ってやってくれるのが嬉しい。
アニメでは前主人公の星宮いちごのお気に入り、「エンジェリーシュガー」。
「絵の具セットのケースのピンク」や「戦隊のピンク」でなく「リズリサのピンク」と同質に昇華している。
とまあ、この辺はプリパラとかでも押さえてるんだろうけど(ふりふりじゃないポップ系はプリパラのが強いと思う。メーンギミックがサイリウムチェンジ(衣装が虹色に光る)だし)
現実で言うとチチカカとかマライカ(え?どっちもアメリカ大陸? 気にすんな)とかそっち系。ガチのエスニック。
これ幼女に理解できるのか? って思ったけど大人的には楽しい。
実は今の2015年シリーズではまだ登場していないので、もしかしたらリストラされてる可能性もあるのだが……
このブランドより先にあった、同じく民族衣装をモチーフに取り入れたオーロラファンタジー(ヨーロッパ系)のも登場してないので、なんともいえない。
あれ、スパイシーアゲハ(セクシー系。アゲハというより渋谷系)とハッピーレインボー(原宿系)もまだか?
2015年シリーズのブランドドレスは「おとぎ話」がテーマなので
とかで出てこないかなあ。
でいこう。うん。
瞬間的に見てしまうのまでは仕方ないかもしれないが、ジロジロ見ても当然、笑って許すのが当然、むしろ有りがたく思え、嬉しいだろファンタジーに酔ってる一部の男は、吐くほど気持ち悪いです。視線で痴漢してくるような男は、殆どの女が、表面上顔は笑ってても、内心凄まじくマイナス点つけてます。褒めてるつもりでも、余程のメンヘラでない限り、間違っても喜びません。
あ……見ると触るが区別ついてない人、やっぱり湧くねえ(O_o;)
http://b.hatena.ne.jp/entry/pokonan.hatenablog.com/entry/2014/12/01/231744
tikani_nemuru_M 制服は個々人の内面性を捨象して記号化する。記号だから、勝手なファンタジーを投影する対象として制服はとても向いているわけだ。
Domino-R 制服は「拘束されてる」「主体性が無い」というメッセージなのよね。それを「許されてる」と信じ込むのは男の思考のいつもの癖w。逆に私服だと反撃されそうで怖いの。
CelestialFire 制服が単にオッサンの欲望の対象でしかないならブルマみたいに時代の流れであっさり消滅しているはず。当事者たる女子たちも制服に何らかの価値を見出しているからこそ、今に至るまで生き残っているのではないか。
gambol 触るやつらは、制服をきたAKBは触れないけど、電車内のJKは触れる。ってことなのかしら。制服で個性が埋められて、中の人の事情なんか考える想像力がないんだと思う。
skgctom 学校制服を校則通り正しく身に付けると「大人しく弱く従順そう」を体現した記号になってしまうからな。子供に無垢で従順でいて欲しい大人の下心が、そのまま異性の下心に転用されているって感じ
どんなに内容がくだらなくても(実際くだらないのだが)、ツッコミどころ満載で笑えるからだ。
中国や、どこの国か分からないけど何となくオリエントな要素がごちゃ混ぜになっていたり、突然忍者が出てきたり、坊さんのように意味もなく合掌したり。
批判を予期してか、本作は赤穂浪士をモチーフにしたファンタジー・フィクションと銘打たれている。予防線を張っているわけだ。
しかしいくら『ファンタジー』と断りがあっても、『ラストサムライ』がまともに見えるほど本作はぶっ飛んでいる。
まず冒頭、モンハンに出てきそうなバッファロー然としたモンスターが現れる。
オッコトヌシ様みたいな化け物ではなく、地球外生命体みたいなやつだ。
監督の"殺る気"を感じる。
ちなみにこのモンスター、ストーリーの本筋とは関係がない。完全に『この作品はファンタジーなんですよ!』という監督のエクスキューズである。
おかしなところを挙げればキリがない。以下、ひときわ突き抜けている点だけを挙げていきたい。
まずキアヌ・リーブス演じる主人公カイ(オランダでもポルトガルでもなく英国人とのハーフという設定だが特に意味はない)
なんとなく才能がありそうだからという理由で赤穂藩浅野氏に可愛がられるのだが、召し抱えられるわけでもなく身分は不明なまま。
ベンチでぼぉ~っとしているキアヌみたいに、訳の分からない小屋で暮らしている。足軽くらいにでもさせてやれよ。
赤穂にはもう一人珍客が来る。赤穂の"隣国"長門(?)の吉良だ。……う、うん。
そして真剣を使った赤穂 VS 長門の1対1ガチ真剣バトルが将軍様の面前で始まる。……う、うん(2回目)
そのバトルにキアヌが闖入し、「身元不明なキミがバトっちゃダメよ」と将軍がキレ、浅野氏は詰め腹を切らされる(物理) 気の毒だ。
キアヌは「俺は悪くない。悪いのは妖怪なんだ」とアニメみたいな言い訳をし、お取り潰しの憂き目にあった赤穂浪士たちはその言を信じる。
浪士たちは散り散りになるが、なぜか大石蔵助だけ「危険だから」という理由で吉良によって1年近く投獄され、その後なんのお咎めもナシに釈放される。
晴れて自由の身となった大石はキアヌ、そしてかつての仲間を集める。
ちなみにキアヌは「ゴロツキで溢れかえる出島」でファイト・クラブの真似事をしているところを大石に拾われる。私の知っている出島と違う。
仇討ちを決意する浪士たち。しかし「刀が無い」というよく分からない理由でキアヌのふるさとである天狗のすみか(!!)へ行く。
天狗のすみかへ行くと、スター・ウォーズのヨーダとチベットの僧侶を足して2で割ったような生物がキアヌを迎える。どうやらこの生物が天狗らしい。
キアヌは天狗とちょっぴりバトルし、怪しげな妖刀を47本くらい手に入れる。ちなみに妖刀である設定は英国人なみにどうでも良く、のちの展開には全く影響しない。
赤穂藩を併合した"長門"の吉良は、赤穂藩の城で妖女(狐になったり竜になったり髪がメデューサみたいになったりとキャラが定まらない)と暮らしている。
吉良を討ち取るべく赤穂に向かう浪士たちは道すがら、かつて浅野氏に召し抱えられていた臣下たちに出くわす。
大石内蔵助「47人じゃ勝ち目ないからさ、協力してくんない?」
元臣下たち「……はい(パイセンに言われちゃ断れないよな……)」
巻き沿いにするな。
"大勢の赤穂浪士"はノリと勢いで討ち入りし、吉良と妖女を倒す。
最後、浪士たち(47人のみ)は切腹を命じられるのだが、大石の息子(赤西仁)だけは「お前、許してあげる」と将軍に言われて助かる。事務所圧力だろうか。
以上がストーリーの概略だ。
東京ネイティブに聞いてみると俺らの知ってる東京はイナカモンの「憧れの東京」に破壊されたという。
誰かのエッセイにもあったな。忘れたけど。それはもちろん東京人のおごりかもしれんが。
でそのファンタジーとしての東京に憧れて出てきた人たちが作り上げたのが「かっこいい東京文化」みたいなもんで。
そのこじゃれた恋愛ドラマ的セリフを、ジャニ系でもジュノンボーイでもないおっさんが吐く。
というところで笑ってはいけない東京弁で口説く人とのデート24時ですよ。
さいとーさんの間違いはすべてはここに起因する。
少なくとも大阪ネイティブと東京に憧れかっこいい東京人になりすましてるけど
地方出身者とは相性が激しく悪い。ハズ。悪くないの?自分だけ?すまん。
イヤ。地方出身を差別してるわけやない。大阪も地方です。首都以外は地方。
だとしたら。
方言なんかわかんないとかなまってるよってたぶんさんざん言われてきたのかもしれんけどやな。
「かっこいい東京文化ファンタジー」が通じるのは東京とその周辺だけや。
少なくとも「お笑いツッコミ文化」が骨の髄までしみこんでる大阪にはうすっぺらさが鼻について無効化される。
大阪の大半の女はシビア。なんでも笑ったろという目で相対化してみるのに長けている(当社調べ)
いうてね。私は大阪のチャラいおもろかったらええねん、俺おもろいやろアピールするお笑いバカも嫌いですけどw吉本の売れへん芸人かお前は。
それは東京のオサレファンタジーと見た目は違うけど同質やわな。嘘くさいという意味で。
ねえさん、すげえタイプっす。俺、いい仕事します。やらせてください。ほんと頑張るんで。というストレートな表現ですかね。
元来食わず嫌いではないけれども、この手の内輪ネタはあまりに寒くて苦手だ。
くろみちゃん然りの企画倒れなんで、まあ語れるのは作画と誰がモデルなのか位で
以前グラスリップでも似たような事を書いたが、SHIROBAKOもまた俺のオススメアニメってのを見せられてるのだ。
業界の闇を長々と見せられてもこれといって響かないのは、単にこの手の雛壇芸人による内輪コントに嫌悪感を抱いているに過ぎないわけだ。
その点PAWORKSという会社はあえてそうなるよう仕向けて描いてる感があり、スタッフ的にこの反応は大成功だと感じてるのではないか。
それだけ業界が業界だけに閉鎖的でしかも薄暗いし大人の事情が常日頃渦巻いた世界という点で表では華やかだけど裏では・・・、となるのが常識で、
その辺を察してやれるだけの器量があれば何ら問題ない内容に仕上がっているのは、このスタッフ陣が如何に努力して見せられる業界アニメ、
ないし内輪アニメを目指したのだろうか、と考えてしまうのである。
そうはいっても内輪ネタ以外で楽しめるのは新人制作進行の仕事ぶりとか、アニメ関係の仕事をする他の登場人物をそれぞれの視点で描いている所で
そこは素直に評価してるし、何より業界モノだと分かった上で見ているのでなるほど納得する所が多い。
そもそもこのPAはファンタジー要素さえなければ中々の名作が多い。いろはとかTARI TARIとか現実的な、ちょっぴり非現実的な境界で描いている分が面白い。
逆に少しでもファンタジー要素のある作品は不得手という印象がある。グラスリップとかTrue Tearsとか別に西村〇二監督を非難してるわけではないが賛否両論になり易い。
その中で、やっぱり原点は現実路線であろう。
という事で今期はSHIROBAKO、業界ネタ内輪ネタで勝負をしに来たのだろう。
何故なら、そういった業界にズブの素人である筆者が、何を言っているのか時々分からない単語やとある制作進行の存在が非常に不快だからである。
ああいった業界に不快系の業界人が話の根幹に必ずいるので、話をまとめるために更に風呂敷を拡げないと話がまとまらないというジレンマに陥るのだ。
その不快さがただでさえ業界ネタが人によってはつまらないと感じるのに対し、物凄い相乗効果となって顕れて結果、この手のアニメに敬遠しがちになるわけである。
要は不快系をどうしたら取り除けるかをSHIROBAKOに見ているのに、一向にその不快を取り除く気配がない。
それどころか、その不快系キャラがある種作品のキーマンになっている様に感じられるのである。
これは恐らく失敗を糧に成長していくサクセスストーリーを内含しているのかもしれないが、実際最新話になってもその様子は感じられない。
恐らくそのせいで主人公が苦労するといったコンセプトなのだろうが、見る側としては一通りの着地点を用意しない限り極めて不快で見るに堪えないと言わざるを得ない。
だがしかし、それなら見るのを辞めればいいじゃないかという声もある。
折角最新話まで見ておいて今更視聴を辞められない、またアニメ視聴において3話までで大体のテーマや内容が分かると言われている中で、
それでも面白そうだと感じて視聴を継続する人も存在するのではないか?
少なくとも筆者はその一人であるので、期待も大きいのだ。
内輪ネタがつまらないと一言で言ってしまえば簡単だが、どのあたりが酷いのかという事を指摘するのは実は非常に難しい。
SHIROBAKOだけが抱えている問題というわけではないが、とりあえず何を一番伝えたいのかを明確にする事、明らかに浮いた人物の補足や単語の説明を入れなければ
ゆゆゆやコパスのような唯我独尊アニメや説明し過ぎて駄目になりつつあるテラフォーマーズの様な取り返しの付かないアニメの様な事になってからでは遅いのである。
人類学って言うのはどうしても「実例」の丹念な積み重ねになるので、その「解釈」つまり読み解き方には差が出る。
で、「物々交換なんか無かったんや」てなエントリーが話題をさらって、それに対する反論に引っかかるところがあったんでソレについて。
人類学の宿命とも言える所に、「やっぱ珍しいところから入るだろJK」問題というのがある。
「日本人って、デートは神社の縁日で金魚すくいで彼女が浴衣を着てくるのが普通なんだろ?」とイギリス人から言われたらどう応える?
まあ、厳密に言えば間違いとはいえないがそれはほぼファンタジーだぞ、という説明は難しい。
例えば、物々交換はあったと言う例でスターを集めているコメントに以下のものがある。
いやいやいやいや。ヤップ島の例だけを根拠に学説を全否定するのはどう考えてもおかしいでしょ。トロブリアンド諸島のクラとか、ポトラッチ(蕩尽)とかどう説明するの。人類学の成果を無視しすぎ。
『トロブリアンド諸島のクラ』とは、ザックリ言えばパプア・ニューギニアの島々で行われている儀礼的な交易を言う。
Kula ringなんかでググると出てくるから省略するが、これはgift economies、つまり贈与経済とされる。
というかだ、仮にも人類学という単語を発するからには、近代人類学の父と呼ばれるブロニスワフ・マリノフスキを避けては通れないし、
彼がその名声を確立したクラをめぐる『西太平洋の遠洋航海者』を読んではいなくても概要ぐらいは触れたことがあるだろう。
単なる装身具にすぎない腕輪や首飾りを交換するためだけに危険な海洋交易を行う理由が、経済的な財物の交換ではなく、政治的な権威とその維持を含めた儀礼的な制度であるという主張だ。
また、『ポトラッチ(蕩尽)』も同様だ。これも「贈り物」が語源とされる北米インディアンの伝統的な贈与経済だと言われている。
ザックリ説明すれば、その構成グループの中でイベントがあると、一番持っているヤツが振る舞うという、風習だ。
簡単に例えよう。
日本には古来物々交換なんぞ無かったと言われて「おいおい、お中元やお歳暮を無視する気かよ」と返しているのと同じだ。
普段のお買い物の話に対して、儀礼的な相互贈与で反論するのは、控えめに言っても筋が悪い。
というかだ、人類学をチョコっとでもかじったことがある人間なら、クラ、ポトラッチとくればピンとくる。
フランスの文化人類学者である、マルセル・モースの代表作とも言える「贈与論」だ。
文化人類学では「お返しを期待する贈り物」を「互酬」と言い、リターンを期待しない「真の贈り物」とは区別して語られる。
で、この互酬のうち、遅延して交換するものは、基本的に儀礼的だったり政治的だったりする。
そして、即時の交換(その場で交換する)ものを、Barterつまり物々交換と呼ぶ。
で、この物々交換をお金の起源として(比較的悪しざまに)主張したのが、アダム・スミスの国富論(The Wealth of Nations)だ。
ただ、さっきまでの話で判る通り、文化人類学者は常々「いや、物々交換って基本的には部外者とのやりとりに使ってただけで、村人同士では儀礼的なものだよ」と言ってきた。
言葉が通じる同じ仲間同士で、物々交換が行われていたという強固な証拠は無い。というか見つけづらい。
が、沈黙交易(Silent Trade)と呼ばれる、言葉の通じない(場合によっては通じても姿を見せない)相手との物々交換が行われていた記録はある。
信用も無く関係性も希薄なので、その場で交換する必要があって、社会的な義務や政治的な権威とは切り離される。
この場合、お互いに価値が有るものとして砂金や塩を用いることはあった。
古代エジプトにおいても、鋳造貨幣は対国家のような対外取引でしか用いられなかった事からも、貨幣は信用と切り離されて当初存在した。
それがそのうちに、「金銀を持ち歩くの危ないから、金庫に入れておいて引き出せる札だけやりとりしようぜ」となった。
これが紙幣発生の一形態だ。(他の発生形態もあるので、調べてみると面白いよ)
つまり、「この札を持っていけば金に交換される」という信用がトレードの基礎になっているのは、
「オレが今日は魚をやったけど、こんど家の建て直し手伝ってくれよな」という顔なじみの村民にある信用と、本質的には同じだ。
その村でその信用を裏切る行動を取れば、適切に制裁されるという「村秩序に対する信用」が、村人間の普段のお買い物の基礎になっている。
譲渡することのできる信用がマネーだと言っているが、人類学はそれに反論はできない。
文化人類学者が積み重ねてきたことは、単純な物々交換とクラ交易とは違うという反論だ。
あるグループ内で通用する単位が、他のグループにおいても通用するとされた時に、マネーが産まれると言われれば、
そういう定義もあるかも知れないな、と思うだけだ。
極端なことを言えば、「1シナモン」という単位を作って、はてなで流通させても良いわけだ。
ある人が「これ釣りか解説欲しいんですけど」→「これは釣り記事です」と解説するのが10シナモンで
ある人が「これほんとかなあ」→「これは科学的にこうオカシイ」と解説するのが5シナモンだとしても良い。
これが、スポンジボブとお姑サンの間で行われている間は、単なる貸し借りの単位でしか無い。
「今回は私が解説したので、3シナモン分相殺ですね」とかできるわけだ。
それが「5シナモンくれたら、Microsoftの戦略について語るよ」とか
そして、そうならないだろうと素朴に想像できることが、お金の本質になる。
シナモンという評価価値は無限に生まれるが、それを適切に流通させるには、信用が必要になる。
この「信用」とは何か、「1シナモン」で記事を依頼したり、記事を書いたりする為に何が必要か考えると、お金とは何かという答えになる。
ニクソン・ショック以降、(正確にはニクソンよりちょっと後だけど)通貨が金本位制でなくなった時点から、お金とは信用とそれを担保する何かによって支えられている。
沈黙交易に代表される「信用出来ない相手との物々交換」は行われていたし、証拠も記録もある。
ある集団内での資産(獣や魚や穀物)を再分配する機能が、巨大化するにつれて歪んだ記録もある。
しかし、クラ交易やポトラッチは、単純な物々交換と異なる「互酬」つまり、信用や政治的な権威を背景にした贈与文化であるとされている。
それどころか、文化人類学者であったモースは、経済的な取引は社会的な価値交換の一部に過ぎなかったとすら言っているのだ。
つまり、大昔に物々交換は無かったのだ!と言われた時に、物々交換はあった!として例示する対象として、全く相応しくない。
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