はてなキーワード: ファンタジーとは
元増田だけれど、そういう、SMプレイみたいな場面で語られる狭義のサドマゾとは別の話なんです。
セックスの際のプレイ傾向や、実際にDVをするというのではなくて、もっと原罪的な、
「この世界と社会で男が男として女に接するだけで、無視すべきでないレベルの暴力や抑圧を否応なしに与えているのだ」
というフェミニストの主張に基づいて、サディズムとか暴力とかの言葉を使いました。
ちなみに、セックスの際のプレイの好みで言えば、むしろ私はマゾ寄りだと思います。
レイプ系では男性がどうしても責める側になるけど、売春みたいな作品においては、女の人に責めれたり掘られたり射精管理されたりする方が好きなので。
こういう拗らせ方をする前は、ラブラブセックスものでも男性受けを主に好んでいたし。
もともとは、男性受けで女性上位な物語の方が、女性を尊重していて政治的に正しく、罪深くなく、私は悪くなく、
でも今は、それら狭義のマゾ男系の作品も「自分をちょうどよく責めてくれるファンタジーを女性に押し付けている」みたいな後ろめたさを感じるようになりつつはあります。
SはサービスのS、MはマスターのM、なんてよく言われますけど、合意セックスの際のサド・マゾというのは本来どっちが上位かというのは判然としないわけで、
たとえばフェラなら「フェラチオを無理やりさせる」だと男の側が上位っぽいけど、「フェラチオで搾られる」だと女性側が上位っぽくなります。
お互いにちょうどいい責めっぽい雰囲気・受けっぽい雰囲気を作り合うのがセックスなのだろうけど、
男性である私が女性に「私にとってちょうどいいレベルの攻め方をしてほしいな」と期待するのは、
私が男性であることで意識せずとも女性に与えている暴力・抑圧でもって強要することにあたってしまうのだろう、と後ろめたくなるんです。
いや脅威になりまくってるよBLも。BLに女が出てきただけで地雷扱いする腐女子なんて珍しくもない。
この人、何でこんなに知識無いのに百合だけが特別!と思ってるんだろう。
この人の言ってる事って、「百合」を「BL」に変えたら昔からどこにでもいる(むしろあまりにテンプレ過ぎて却って最近じゃ見かけない?)「痛い」腐女子でしかないと思うけど。
つか百合ヲタの世界って、まんま一昔前の腐女子の世界をなぞってるだけだよね。
つーかBLにしろ百合にしろ、決まりきったキャラしか出てこない世界と言うのは「外」がない閉じた世界である事に代わりは無いかと。
そんなの百も承知でその閉じた世界を「ファンタジー」として楽しんでいる人が大多数だろうに
この人は何故そんなにもそれを認められないのかね。
そんでその世界やらそこに生きる種族を作った事になってるよね。
つまりそこに生きてる人間達って、猿の祖先から進化して今の人間になったわけじゃないから
いくら姿形が現実世界の人類に似てたとしても、全く違う生き物な可能性があるわけだ。
そうなると、現実世界からファンタジー世界に召喚されて、現実では全く望めなかった
ウハウハハーレムに放り込まれたとしても、ちょっと不安感あるよね。
モンスター(ドラゴンとか)と人間との間に子どもが生まれるような世界(ダマラム一生の不覚!)って、
どう考えても卵子と精子が受精して子どもが出来てる訳じゃないよね。
おまけに魂とかも実在するし。
女性は童貞を気持ち悪がり憎んでいるというのは大きな勘違いで、むしろ童貞という記号ならプラスイメージだ。
ただ女性の思う童貞のイメージと実際の童貞には当然乖離があって、女性が「童貞は可愛くて好き」と言ったとき、
女性が童貞萌えをするとき、女性慣れしていないからこその照れの強さであるとか、大したこと無いことに喜んだりという、可愛い態度に萌えるのだと思う。
でもリアルの童貞は無表情で、何を考えているか全然わからないことが多い。「つまらなそう」とか「不機嫌」「怖い」という印象を与えている。
だからリアルな童貞よりも「女性の考える"可愛い童貞"っぽい態度」を作るのが上手い、演技派の非童貞の方が、よっぽど女性を童貞萌えさせられるんじゃないかと思う。
「男性の考える処女」が、エロマンガやAVに出てくる「初体験から感度抜群のファンタジー処女」なのと同じで、作り物のほうが異性から見ると萌えるのだ。
既婚のおっさんが「昔は俺もあんな風だったな」と懐かしんで愛でる対象としての若い童貞のイメージですら、演技派の非童貞のような可愛げを持っている気がする。
主体としての童貞と、客体としての童貞が全然違うんだよ。言ってること伝わってますかね!?
女性や、遠い昔に童貞を捨てた既婚のおっさんは、童貞=女に餓えていて食いつきがいい、みたいなイメージで童貞を語る。
でも実際、リアルな童貞の理想が低いかっていったら、非童貞よりも現実の女性を知らない分、格段にハードルが高い。
アダルトコンテンツが流通していない時代だったら、童貞は女に餓えていて食いつきがいいものだったのかもしれない。
でも現代童貞はアダルトコンテンツを見まくって目が肥えているので、思われているほど安い存在ってわけでもない。
「私はブス/おばさんだけど、童貞なら相手にできるかも」みたいなのは違うというか。
むしろ非童貞よりも身の程知らずで、言っちゃいけないことを女性にズケズケ言いかねないのがリアルな童貞だと思う。
女性ウケを気にして服装をあれこれ選んだり、髪にワックスを使ってみたり、格好をつけてみる童貞の姿が女性には可愛く映るようだが、
異性の目を気にする気持ちが実際の行動に結びつく童貞は少数派で、その層はさっさと童貞を捨てていく。
童貞暦が長期化しやすい「童貞らしい童貞」は、異性の目を気にしつつも、それが行動には反映されない。
だから女性の目から見て、女性の目を気にしているようには見えない。
「女性に好かれたいなら容姿は整えるのが当たり前だよね?」という感覚が女性にはある。モテたい女性は容姿を磨くのが当たり前だから。
そのため「容姿に無頓着」=「女性に興味が無さそう」「女性を敵視してそう」に見えるのがリアルな童貞だと思う。
まとめると、イメージ上の童貞は可愛いし萌えるが、リアルな童貞は可愛くないし萌えない。
プラスに働く要素は実際の性経験の有無より、他人の目に見える「ウブな可愛さ」だ。
童貞であることに深刻なコンプレックスを持っていると、絶対にそこをバカにされてたくなくて、可愛くない、攻撃的な、自己防衛的な態度を取る。
それは腫れ物扱いを招く。同性から見ても付き合いづらい、魅力に欠ける奴と思われかねない。
クローゼット(周囲にカミングアウトしてない)のレズビアン寄りバイセクシュアルで、BL書く人間だけど、本当に似たようなことをよく思う。
自分は「男女物をノーマルって言わないで」って知り合いには積極的に言う方だけど、ただ同じ作品好きなだけの知らない人にはやっぱり言えない。
「同性愛は悲劇だから良い」とか「同性同士だから純粋」って言われるともやもやする。
本当に悪意がないだけに始末に悪いと思っている。
自分に同性の恋人が居た時に、侮蔑的に「レズ?」って聞かれて嫌だったので、ホモって言葉も使いたくないし、聞きたくない。
腐女子に対する同志愛みたいなのと、無神経さに対する怒りの、愛憎半ばした感情って本当にどうしたらいいんだろう。
勝手に彼女たちに期待して勝手に彼女たちに失望しただけなのだけれど。
こういうタイトルにすると、私がBLに対して「こんな同性愛はリアリティがない!」とかいう内容を書くんじゃないかって思われそうだけど、別にそういう話じゃない。
BLが創作上にしかないもので、実際に存在しているゲイ事情(同性愛事情)とは違うことはわかっているし、BLに限らず、百合にだってリアリティを求めようとは思わない。大体、そんなものをいちいち求めるようだったら、ストレスがたまりすぎてとっくの昔に腐女子なんてやめていると思う。
自分が同性愛者であることと、男性同士の同性愛を扱うBLを好むことが無関係だとは思わないけど、同性愛だから共感して興味を持ったわけでもない。共感するんだったらむしろ、百合の方に共感していたと思う。
なんでこんなことを書いているのかって言うと、今日のニュースで、渋谷区が同性結婚(結婚とは違うけどそれに準じた法律?条例?というようなのを見た)を認めたというのをやっていたからだ。
やっていたと言っても、私はTwitterに流れていた話を見ただけで、ちゃんと調べた訳じゃないから、なにか違っているところがあったら申し訳ない。
とあるオンラインゲームで(伏せたいわけではなくて忘れてしまった)同性結婚ができるという仕様が明かされたときも、腐女子の人は(ってまとめてしまうと怒られそうなので腐女子の人の一部ってことです)「やったー!推しカプ結婚できる!」って喜んでいた。
とあるゲームでは同性結婚結婚が海外版でしか出来ないことを知って、「海外は進んでいる」「日本はケチ」なんてことを言っていたりもした。
私は、そういうのはなんか違う気がする。
悪いことだとは思わないけど、そういうものじゃないと思う。
これは、うまく言えないけど。
私はさっき、BLと現実のゲイは違うって言ったし、BLにおける同性愛の感覚が本物と違うことにはなんとも思わないし、そう言うものだと思う。
ただ、それ故に、同性愛とBLは乖離していると思ってる人は多い。自分の身の回りに、同性愛者がいるなんて思ってないんだと思う。BLはファンタジーだから。
でも、実際、割合から考えてみたら、私みたいな人も少なくはないんじゃないかなって思う。
私は自分がそうであることを明かしてないから、そういうことで自分が傷ついても仕方ないと思ってる。
でも、多分なんか納得いかないからここにこんなことをだらだらと書き込みに来てしまった。
幸せそうなBLを見て、「実際は同性愛はうまくいかないに決まってるのに」とか、「普通家族に反対されるよね」とか、そういう、ファンタジーであるBLに、なぜか「リアル」を持ち込もうとする人は少なくない。
趣味や趣向を否定するつもりはないから、いくら胸くそ悪いBLを賛美していても気にすることはないんだけど、作品という枠を離れて同性愛の話をされると、それが同性愛を否定する話だと、私はとてもやるせない気持ちになる。
それも、言っている方は本当に何気なく言うことがほとんどで、やっぱり「普通はそういう意識なんだな」という気持ちが強くなるばかりだ。
よく、カップリング戦争のときに最終結論として「ホモにしてる時点で捏造」ってやつ、あれもホントは嫌だ。裏を返せば、「同性愛は普通じゃない、普通に考えて作中のキャラクターはテヘロ」って言ってるように聞こえる。
考えすぎで、言ってる方はそんな細かいこと思ってないんだって思ってるけど、それでも気になるものは気になってしまう。
腐女子ばかりがそうじゃないって言うことはわかっていても、そもそも腐女子でなければ日常的に同性愛の話をする人は少ないから、あまり聞くこともないんだと思うけど、やっぱりやるせない思いは募る。
あとは余談になるけど、腐女子はすぐにホモって言葉を使う。BLややおいという言葉がもう死後だって言うこともあるだろうし、そういう粗暴な言葉をさらっと言った方がかっこいい、恥ずかしくない、っていう文化なんだと思う。
でも、ホモって侮蔑語って聞いたし、そう思うとあんまり使うものじゃないと思う。腐女子は絶対に、自分が浴びせられることがない侮蔑語を使い続けているし、それを「侮蔑語だよ」なんて言っても、自治厨うざいってなるだけだ。
私も、周りにあわせて使ってしまうこともある。
腐女子でいるっていうのはそう言うことだ。
私はこれからも周りに同性愛者であることは教えないし、教えないのにそう言うことで傷ついてるって文句を言うつもりもない。
じゃあ、なんでこんなことを書きにきたのかはわからない。
なんとなく、同じようなことを考えてる人を見つけてみたいと思ったのかもしれないし、誰かにこういうこともあるんだってことを気づいてほしかったのかもしれない。
これを書くことで何かが変わるとも思っていない。
多分、大多数は(腐女子の人もそうでない人も)私が腐女子をやめれば解決するのにって思うと思う。
腐女子の人の中には口うるさくてウザいなって思う人も居ると思う。
でも、そう言う風に冷淡でいられるのは、この話が自分とは関係ない話だからだ。
同性愛っていうものは絶対に自分とは重ならないファンタジーだから、簡単に無視できる。
私はそれが悪いことだとは思わないし、それが普通だと思う。
そんなことを考えた1日だった。
LGBTの方に質問です。「異性愛をノーマルと呼ぶこと」及び「同人… - 人力検索はてな
なんでもやっとするかというと、「ノーマル」って一体なんだかよくわからんから。
私の性自認は一応女で、昔から自分が直接、性的な主体もしくは客体となる関係性にあまり興味がなく(性欲はある程度ある)、さいわいモテなかったのでまあ一生ひとりで生きるのかなあと思っていたら生まれて初めてモテた相手が男性で今その人と付き合っているので多分ヘテロセクシュアルなのだろうけど、生まれて初めてモテた相手が仮に女性だったらそれはそれでそのようなお付き合いをしていたような気がするけど女性にモテたことはないのでよくわからない。
これが「ノーマル」なのか、そうではないのか、そうしてそうであったりなかったりすることにそもそもどんな意味があるのか、よくわからない。
ついでに言うと腐女子だけど男女カプも百合も好きだ。男性向けのエロも好きだ。
そういうあやふやつーか雑食つーか、な状態の人間から見ると、アンケートの選択肢は、なんかそんなぱっきり分けられるもんではないのでは、って気がしてしまう。
あと、男女のカップルだから「ノーマル」ってそもそも主語でかすぎだよなとか、現実の性的指向と創作(における性的ファンタジー)は別物じゃないでしょうか(個人的には腐ネタで男同士のカップルを「ホモ」と呼称するのにも違和感ある)とか、質問をひっくり返して「異性愛者の方に質問です。『異性愛以外の性的指向をアブノーマルと呼ぶこと』及び~」みたいにするとどうなるんかねとか、「ノーマル」という言葉が「正しさ」と結びついているように感じられてしまうのももやっとする一因かなあ本来は関係ないと言い切ってもいいのかなあとか思った。結論はない。というかそもそも「ノーマル」が何を意味してるかよくわからんので、自分としては差別的かどうかも判断しようがなかった。
だが彼らは、再び大規模に再組織化し、武装化を進め、
再建する機会を伺っているだけに過ぎないのであった。
勿論、それはただの妄想に過ぎないと思われていた――
◆◆◆
アラブ諸国における情勢を瞬く間に激変させていった。
だが彼らは軍や官僚による抵抗により、追い出される。
その間に統治能力を示せなかったのは内在的な失敗だ。
一方で、外在的制約が彼らを許さなかった側面もある。
「革命」とは、実際には、ただの「反乱」に過ぎない。
これこそ正に、過激派が長年求めていた状況であった。
かつてのアフガニスタンのような聖域が目前にあった。
◆◆◆
ライトノベルに限らないが、構造的に「馬鹿にされる」場合がある。
定義が曖昧で、玉石混交で、定性的に評価されるもの全般のことね。
すると、自分の感性で都合良く石だけピックアップして馬鹿にできる。
定量的に計測できたって、好きに時系列を切り出して、定義付けを恣意的にすればなんとでもなる。
そして、「なんとなくこういう批判がある・こういう擁護がある」と藁人形を用意すれば、
そこで、馬鹿にするのはどういう人か、何が批判足りえるのか、振り返ってみよう。
「無い」事の証明は難しい。
だから「有る」もので「ライトノベルで無い」モノを追いだしていこう。
だから、「絵が恥ずかしい」というのは、表紙絵に対する批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(勿論、「アニメ絵は恥ずかしい。太宰治もあれじゃ買い難い」とする批判はあるが、ライトノベル批判とは別軸)
キャラ立ちという意味で、ホームズを超える名探偵は出てきただろうか。
だから、「類型的なキャラクターが出てくるだけ」というのは、その手の小説批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(以後省略するが、そういう批判は当然あって良いが、ライトノベルとは独立)
ファンタジーやSF、ミステリから哲学に至るまで、子供向けに書かれた本を読む大人は多い。
だから、「子供向けに書かれた小説を大人が読むのは」というのは、その手の読者批判であって、ライトノベル批判とは違う。
これに関しては、まさに定性的な(感性の)話になるため、具体例は省略したい。
ここでは、スタージョンの法則(啓示)を引用するだけにしよう。
SF(science fiction)の90%は、ゴミでカスでクソだ。
同じ基準を使って、映画、文学、民生品等々の90%がクソだと示せる。
だから、SFの90%がクソだという主張(または事実)は、究極的には何も意味しない。
だから、「ライトノベルの大部分はクソだ」という批判は、何の情報量も無く、ライトノベル批判とは違う。
ハワイ沖で行われる海軍の多国合同軍事演習のさなか宇宙人が侵略してきて、自衛官と海兵隊員が反目しながらも撃退するという
まあ、インディペンデンス・デイと戦艦ミズーリを足してブリトーで割ったような映画だ。
素晴らしく面白い、愛すべき馬鹿映画だが、批評家からは当然のように酷評されている。
何が言いたいかというと、批評家の評価と、馬鹿であるかどうかとは、分けて考えられている。
ビール片手にゲラゲラ笑いながら見るような「ジャッカス」みたいなのを「馬鹿だ」と言うのは、批判ではない。
さっき言ったように、「馬鹿」であることは、比較的独自の軸になる。
その上で、馬鹿にしているのは、例えば「パンチラの絵を付けて恥ずかしくないジャンルは馬鹿にされて当然」のような、
「ライトノベル」を「小説の一ジャンルとして、格下である」とする主張しか、残念ながら観たことがない。
これは、BLを趣味とするのは気持ち悪いだとか、サラリーマンが通勤中に漫画雑誌を読むのはガキっぽいとか、そういった類の主張だ。
好悪の主張であって、それはそれで、仕方がない面はある。
雑誌の表紙に水着の女性を持ってくれば売上部数が上がるが、職場で休み時間に読むのはどうだ?というレベルの話だ。
ワリと珍しいのだが、硬派なSFとライトノベルSFとが全く同じ題材を描いているものがある。
アーサー・C・クラークの「楽園の泉」と、野尻抱介の「ふわふわの泉」だ。
(まあ、内容的にはチャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」のもじりの方が相応しいとは思うのだが)
両者とも、「ロケット以外で宇宙に進出するための、巨大構造物を作り上げる人物」が主人公だ。
ポイントは、「楽園の泉」がハードSFか否かであるとか、「ふわふわの泉」がラノベかどうかではなく、
この両者を比較して、「どちらが低俗か」を論じる意味があるかないか、だ。
「どちらがより高尚か」や「どちらの方が格上か」でも良い。
ここまで題材が同じだと判りやすいのだが、
「大人なら、『ふわふわの泉』ではなく、『楽園の泉』を読むべきだ」
とは、ならないだろう。
だって、違う作品なのだもの。それは批判ではなく好悪の主張だ。
「『楽園の泉』は、建築家の名声について拘りすぎて主張がボケている、『ふわふわの泉』の方がSFとして良く出来ている」
なんていうのは、馬鹿にしているのではなく、(正しいかどうかは別として)SFを軸にした批判になる。
アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」と、司馬遼太郎の「梟の城」と、佐島勤の「魔法科高校の劣等生」とを、
一緒に並べて比較して、「魔法科高校の劣等生を読むのは馬鹿だけだ」と言うことに、意味があるだろうか?
俺TUEEEE系の源流をたどって、湖の上を歩く男の話まで遡ったり、本邦においては勧善懲悪の仮託先であるとか、
そういった論文を描くことは意味があるかも知れないが、「馬鹿にする」というのは比較的には品のない行為だと思う。
例えば、今話題のピケティの「21世紀の資本」を読むのが大人で、百田の「海賊とよばれた男」を読むやつが馬鹿にされてもしょうが無い、みたいな言い方はしないだろう。
現代ソマリア海賊を描いた「キャプテン・フィリップス」を見て「『パイレーツ・オブ・カビリアン』を見るとか馬鹿にされてもしょうが無い」みたいなことは言わない。
というわけで、馬鹿にする方の品性を疑うべきだと言うのが、オレの意見になる。
どんな作品でもファンは居て良いと思うし、蓼食う虫も好き好きと言う。
例えば俺はバトルシップが大好きだが、蛇蝎の如く嫌う批評家が居るのも否定はしない。
アナと雪の女王よりはベイマックスの方が面白いとは思うんだが、GoGo好きなだけだろと言われれば否定はできない。
というように、主観的な好悪と、その技芸における比較批評、そのジャンルでの売上高なんてのは、全て独立の話だ。
そう言った点で、ラノベの中に上手い下手、エロに寄り過ぎだとか構成が稚拙だとか、そういった批評はあって良いと思う。
ただそれは、作品単位、出来ても作家単位の話であって、「ラノベ」全般に広げるのは主語が大きすぎて乱雑に過ぎる。
9割のクズを観てそのジャンルを否定するのが愚かであることは映画や絵画においては一般的なのに、ラノベがそうでないのは不幸なことだと思う。
ハッチポッチステーションネタがホッテントリに入ってたけどあれのOPは今でも歌える。
あと小さい時のNHKで印象的だったのといえば、音楽ファンタジー・ゆめ。
有名なクラシック音楽に合わせてCGアニメーションが流れるっていう5分番組。
ニャッキかわいすぎ。
読み手が本持って一人で立って読むやつじゃない。
それでルドルフとイッパイアッテナが続き物でやってたけど、いっつもとぎれとぎれでお話の全容が意味不明だった。
なんだかんだでNHKは子どもにとってはすっごいいいTVだよ。
親にとっても安心して流しっぱで見せておけるものはまず他にないし。
キルケウイルスだよ。
∴←これが手首とかにできるってやつ。
こわかったわ・・
結局最後まで見れんかったが。
戻りたい戻りたい戻りたい戻りたい戻りたい戻りたい戻りたい戻りたい戻りたい戻りたい戻りたい戻りたい戻りたい戻りたい戻りたい戻りたい戻りたい
ああああああああああああああああああああああああ
日本人から留学したりして日本文化や技術を学ぶ→習得後口先で日本に感謝の言葉を述べながら帰国→帰国直後は日本から教わったと公言しながらそれを広める→数年後、なぜか突然この文化は自国で数百年前から伝えられてきた文化だという作り話をし始める→日本のその文化は自国のこの文化が伝来したものだと話が変質し、枝葉がついてついに起源を主張し始める→日本はまた朝鮮人が馬鹿なことを言っていると無視→数年後、突然国連文化遺産に申請したり他国に自国起源の文化だとして国家予算を使って広め始め、日本の文化が自国のパクリだと主張し始める→別のものでまた文化盗難と起源主張を始める
朝鮮はついこの間まで中華国家の属国で文化も文字も存在しない土人国家だった。旗は大清属国旗を未だ使っており、国名も大日本帝国のパクった名前。当然教えるほどの歴史もなく、自国と自民族に対する尊厳が保たないから知恵を絞った挙句他国文化をパクって自国のものと主張したり、都合の悪い歴史は隠蔽して妄想ファンタジーを歴史だとし始めた。国全体が統合失調症でサイコパスとか本当に気味悪い連中だよ…
http://anond.hatelabo.jp/20150124122808
ブコメはありがたく全て目を通させて頂きました。考えはまだ拡散してまとまりません。
フェミニズムの延長として、男性にも抑圧されてる面があるんじゃねって視点が出てきたわけで、実はこれはフェミの成果でもあるのよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/239953973/comment/c_shiika
『男性権力の神話』の著者ワレン・ファレル氏は元々フェミニストであり、女性の社会進出を助ける活動を行っていたそうだ。
彼が目指しているのは女性差別と男性差別の双方を撤廃することであり、アンチフェミニズムではない。
フェミニズム議論は「男性は女性を抑圧する加害者である」に留まりがちだが、復讐から一歩進んで、
「なぜ男性は女性を抑圧してきたのか」「男性が抑圧されていなければ男性が女性を抑圧する必要が無くなるのではないか」と、
男性は「美貌の女性」に憧れてそうしたストーリーを消費するわけではない。むしろ、「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性を捨て身の献身でもって落とした男性」に憧れるのである。特攻隊についても言及されているが、彼らは別に"天皇および祖先のため"だけに死んだわけではない。家族や守るべきもの、あえて言えば自分が「男らしさ」を発揮できる対象(≒自分より弱い者)のために死んだのだ。死で終わるこの手の物語は言うまでもなく「捨て身の献身」の物語として最上のものである。そしてこの手の物語に最も惹きつけられる人間は、自らの命の価値に自信が持てない人間である。なぜなら、誰かのために死ぬことは、少なくともその誰かの命の価値を自らの生に与えることだから。
http://anond.hatelabo.jp/20150125113634
他人に価値があると言って貰えないと、自らの命の価値に自信が持てないことに、様々な人間関係上の問題の原因があるのだろう。
人間はゲームの初期設定のように平等なスキルポイントと割り振る自由を与えられているわけではなく、
体力10+知力10+魅力10=総合30点の人間と、体力1+知力1+魅力1=総合3点の人間が存在するのが現実だ。
欲するだけの「客体としての価値」が得られなかった人間が、苦しみのはけ口として男女論を使うシーンは多い。
個人的な苦しみが絡むからこそ、多くの男女論は生産的な方向に進まず、ミソジニーとミサンドリーの殴り合いになる。
人種差別も似たようなものなのだろう。「自らの命の価値に自信が持てない」から、無条件に自分よりも命の価値が低い存在を必要とする。
そして、今「強い男女」であったとしても、老化によって「弱い男女」になっていく。
自分は強い・美しい・賢いから生きる価値がある…といった、条件付きの自己存在承認をしていた場合は、
事故や病気、老いなどが原因で「弱い男女」となったとき、精神的なクラッシュを迎える可能性がある。
また、テクノロジーの進歩によって、自分の役割が「商品」に代替され、存在意義が揺らぐ可能性もあるだろう。
親より友人より恋人より、音声アシスタントの方が有益で快適な話し相手になる時代が来るかもしれないのだ。
他人に求めていただくこと、他人に価値を認めていただくこと…そのハードルは昔と比べてどんどん上がっていくだろう。
特攻隊のような捨て身の献身も、「生産性が無い」「時代遅れ」「死ぬしか能が無い」と冷笑するのが今は主流かもしれない。
「女性が待ち」の構図は戦前の男性社会が作ったんだよね。女性から告白するのは「はしたない」ものだったわけで、むしろ抑圧の象徴だったんじゃないかな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/239953973/comment/azutokimiya
女性から男性への告白を禁じることによって、よく告白される男性と全く告白されない男性の格差を隠すことができる。
女性は欲望を持たない清廉な存在だというファンタジーも、女性に傷つけられないためのモノ化手法の一つなのだろう。
男性が「女性Aには興味があるが、女性Bには無い」という感想を持つように、
女性も「男性Aには興味があるが、男性Bには無い」という感想を当たり前に持つものだ。
「男性B」扱いされることを恐れすぎる男性は、女性による欲求の表明を抑圧する構造・風潮を作ろうとする。
たかが一人の女性に必要とされなかったことによって、自らの価値が揺らぎすぎることに原因があるのだ。
性差別問題は、「男性には許されて女性には許されない」「女性には許されて男性には許されない」の解体が最終目標となる。
ただ、もし仮にこの解体が上手くいって、男性だけの苦労や女性だけの苦労が無くなったとしても、
客体としての価値が高い「強い男女」と、客体としての価値が低い「弱い男女」の格差は残る。
「強い男女」同士が同僚・友人・恋人・配偶者として求め合い、「弱い男女」は「強い男女」を求めつつあぶれる結果を招くだろう。
「最貧困女子」が話題になったが、弱い男女は客体としてはストレッサーになる場合が多いのだ。
昨日放送されたNHKの「ネクストワールド私たちの未来」では、73歳の高齢男性が篠田麻里子演じる若年女性に恋をする描写があった。
数年前に放送されたNHKスペシャルでも、重度脳性麻痺の40代男性が、「脳性麻痺ではない健常な女性と恋をしたい」と主張していた。
夫に興味を持てなくなった中年女性が、ヨン様や氷川きよし、K-POPアイドルなどに熱を上げるのも、身近で耳にするレベルでよくある話だ。
こうした欲求に対して、釣り合わないだの、みっともないだの、鏡を見ろだの、要は「欲求を持つな」と強要する人々が居る。
しかし「弱い男女」が「強い男女」を求める気持ちは、禁じても無駄なほど強いものであろうし、求めるだけなら権利があるのである。
ただ「強い男女」にも、「弱い男女」からの求めを受け入れるかどうかを決める権利がある。当然の人権だ。
受け入れられなかった側が「高齢者差別」「障害者差別」「ルッキズム」などと怒ったとしても、
弱者に、強者の個人的交友や時間の使い方の選択権を侵害する権利があるわけではない。
あれは侵略戦争ではなく自衛のための戦争。太平洋戦争ではなく大東亜戦争と呼ぶべき。植民地政策でアジアやアフリカに襲いかかっていた欧米諸国との解放戦争。日本の歴史認識はそういうもので、他国から自虐史観を押し付けられて未来永劫敗戦国だから反省し続けろとか言われても他国にそんな事言われる筋合いはない。そもそも歴史認識云々言うけど、平和条約と戦後賠償を受け入れた時点で相手国は問題を蒸し返してグダグダ言う権利はない。敗戦の教訓があるとすればなぜ負けたのかということ、それだけ。それはあくまで内政問題で他国に口出しされることでもない。いつまでも敗戦国だからとか言うなら相手を黙らせるには結局再び戦争をして立場を逆転させる以外なくなる。特に対朝鮮に関してはあくまで相手から頼みこまれた末の併合で、未開の地のインフラを整え教育をし人間らしい生活が出来るようにしてやったのが事実。対戦国ではなくましてや植民地でさえないのにそもそも朝鮮に謝罪や賠償が何一つ必要だったとは思えない。日本が戦後、現在も続くアメリカによる半植民地状態と波風を立てないことを最優先する事なかれ主義によって色々とおかしい事態になっている。そもそも日本の脆弱だった立場を利用して歴史を修正し事実をねじ曲げてきたのは支那、朝鮮、米国の方ではないか。日本はいつまでそれが冤罪と知りながら自国と自国民の名誉を毀損する設定に振り回されなければならないのか?歴史認識という馬鹿馬鹿しい政治ごっこを目にする度に虫酸が走る。嘘は百回言っても嘘であることに変わりはない。事実を無視した支那のプロパガンダや朝鮮のファンタジーは事実ではない。歴史的事実に目を向けるべきは、戦後70年を過ぎても未だ日本に対して謝罪やら賠償やら歴史認識やらといい続ける支那と朝鮮の方だ。過去を振り返れば人間の歴史は戦争の歴史。過去の数々の戦争に対して世界中の国は一々いつまでも謝罪と賠償をやり続けているのか?結局そういうのも9条という足枷の為にまともな軍事力が持てないから足元見られてたかられ罵られてるだけじゃないのか?
金のある人間から奪い取って弱者に再分配すればいい、これは本来は政治の業務であるはずだがシルバーデモクラシーの我が国では政治は弱者のためには動かない。厭世感の強い時虐思想が心に沁みついているはてなーなら周知のとおりである
アルバイトでも時給1000円という世界的に見れば破格の金銭的な報酬を得られる日本でもそれ以上に支出があることやと非正規では組織で成り上がっていくことは難しいことから最も現場に近い人間が最も搾取されるというわけのわからない状況である
デスクに座りPCでフェイスブックを覗いている暇人や金をただ投資している無能が株主総会で偉そうに経営に物申す、身体性が欠如し資本主義に頭のてっぺんから浸かりきっている人が悠々自適な暮らしをしている
新幹線が走れば歩くという身体性がなくなり電話が生まれれば対他性がなくなりメールが生まれれば声は消えていくのだ
資本主義では金のある人間が投資することで社会に生産性が生まれ新しい業種やサービスが生まれていくという前提で成り立っているのだがこんな理論、幻想はもう破綻している
新規事業で出てくるものといえばスマホゲームやネットサービスなどIT関係が主だがこれらはパチンコほどではないが依存性を軸に需要曲線をゆがめることで利潤を追求する。そこのおまえだよ、はてなや増田を年がら年中見ているおまえだよ。はてなとおまえの間に社会的な生産性が生まれなどしない
本来の経済活動はいかに質の良い品をいかに低価格で数多く売れるかというものだ。供給曲線をぎりぎりまでシフトさせて利益を生むことを目指しそこに国としての成長があり国際的な競争力というものにも繋がる。そこに社会的な生産性は生まれ新しい価値も創造しうる
しかし今は現場で働く人間が最も損をする、バカを見る時代だ。僕はアルバイトや非正規で働く全ての人間に言いたい
「君の将来が君の正義よりも重いのであれば今すぐにバイトや派遣などやめて振り込め詐欺をしろ」
これは戦争だ
もう社会は成長などしない。若者はいまあるものからいかに搾取すべきかを考えるべきだ。絶望を前提として自我を捨てろ。老人が死んで金が相続税として国に吸われ国債にかわり銀行に流れ融資として経営者に流れふんぞりかえるだけが能の株主にわたる前にだ。今すぐに息子や娘を騙れ
豊穣たる経済活動の帰結として生まれた老人に搾取されるのはもう限界だと知れ
老人は金を使わない、地道に働いて貯金というものが美徳と教えられてきた悪党だからだ
だから振り込め詐欺が悪だかなんだと宣伝しているがマクロで見るかぎり振り込め詐欺でぽんと金を出せるほど溜め込んでいる老人ほど無意識の悪はいないとも言える。倫理がどうこうは置いておくとしたらだ
老人に優しくと脳髄まで染むほど教えられてきた、けれど人は自らに与えられた善意の総量分しか人にやさしくなどできないのだよ、それが悪い意味での人間的というやつで今は悪さを手放しで否定できるほど甘い時代じゃない