はてなキーワード: 多種多様とは
上(まとめ)のトップブコメみてると動物漫画みても「だから女は~」って言っちゃう人(増田でいう下方婚の一つ覚え)がまず出現してそこへの反発だろな
あとやっぱり今日もタイムラインにながれてきたとおり、多種多様なDVが深刻化してる。
今日のタイムラインのは、協議離婚していて稼ぎがあるくせに親権がとれなかったくらいのひどいDV親が、「(DVしないほうの)親に自分の子供を連れ去られた」と主張して政治家を巻き込む話だった。
多産DVももちろん現実に発生してることをかんがえると最初のブコメのほうが架空だよねってことでなんかふわふわしてる。
二階建ての一階にあたる部分は(直接作者の目に触れることもあるから)こんくらいふわふわしててもいいけどな。そのうちブクマページの二階建てブクマがはじまってブクマカ個人攻撃が始まってどんどんずれていくの、いつものじゃん
結論から言うと、自己肯定感が低く、自分のような程度の低い人間と付き合うと他人の時間を奪っている感覚に陥り、知り合った人とも距離を詰められず、現状友達が1人もいない。から寂しくて仕方ない。
よく自己肯定感上げるためには成功体験を積み重ねることとか言われるけど、秀でた所もないギリ健の発達(検査済)なんだよな。
3年前に転職した会社の配属部署がとても多忙かつ厳しいところで、毎日些細なものから大きなものまで多種多様なミスを連発することで上司から疑われ、検査したところ注意多動とのこと。アスペの特性は無し。
教育熱心な両親のおかげで中の下の学歴があり、ギリギリ社会に紛れ込んで、ボロを出しつつなんとかやってこられたが、独身で仕事しか自分には無いと思ってるのにその仕事でいい所が見せられないのはかなりキツい。かといって毎日能無しと言われて怒られても今の給料以上のところに再就職できる気もしなくて、退職はできず塞ぎがちになり過去の友人とも疎遠になった。
そんな中趣味としてFPSゲームを始めて、とてもハマったがこちらも全く上手くない。索敵しながら射線管理して味方の場所見て〜みたいなマルチタスクが致命的にできない。1200時間やって、エペゴールド1が限界。
でもプレイするのは楽しくて、なんとか友達作りたくてTwitter作って異性同性問わず募集タグから話しかけて1回はプレイできるんだけど、2回目に繋がったことがない。
・私の話がおもんなかった
みたいなことを勝手に推測して二の足を踏んでるうちに疎遠に…のパターン。
友達が無理なら恋人を作ろうと思いペアーズとかも登録したけどみーんなスペック高いのな。
そら結婚目指す人たちが自分を売り込む場なんだから良いことを書くのは当たり前なんだけど。こんな素晴らしい人達のうちの誰かが罷り間違って私と結婚すると大損させるなとゾッとしてすぐ退会した。
結局自分のことばかりで他人を慮ることができてないことが1番の原因かなと思うけど、自分を肯定できる材料がなくて、「ありのままの底辺を受け入れてくれる人」の見つけ方もわからない。
発達障害的には、これはたとえばの話だが、「頭が割れるような痛み」って言葉使っててちゃんと意思疎通できてるのかと思う。
脳か頭蓋骨の膨張によって骨か頭皮を内側から押し上げて圧迫するような感覚の痛みなのか、頭頂を斧でおもいっきり叩かれたらこんな痛みだろうなって想像したのと等しい痛みなのか。
特に後者は単に激痛というのと変わらない気もするが、その一方で、わざわざ激痛と言わず割れるような痛みというからには、何か具体的な質感を伴ってるはずと思うんだよな。
しかしどっちにしろ明らかなのはどういう意味でこの言葉が使われているのが判然としないということ。
痛みがあるときに痛みがあると告げられた相手に期待される行動は限られているから、この痛みの中身がブラックボックスでも、つまり発話者側が前者の意味で言っていたのを受け取り側が後者の意味で捉えた場合、あるいはそのその逆の場合があったとしても問題が起こっていないというだけではないか。やり取りのすれ違いは起こっていないが、意味のすれ違いはそこかしこで起こっている。
それ以前に安易に「割れるような痛み」を使っている人が多すぎないか。なんとなく陳腐な比喩表現を使いたがってるさがみたいなものはないか。同じ陳腐ならだったら「激痛」で済ませた方が簡潔で合理的だと思う。
発達障害の文章で「コックピットに乗っている俺が俺自身の身体を操縦しているような感覚」とか「ビデオを同時再生している感覚」とか書かれていることがあるがこれが気になる。
あまりにも軽々しくないか。表現がおおげさではないか。それはちゃんと自分の意図する実体通りのものを読者に想像させる表現なのか。
なかにはまさしくそういう状態の人もいるのかもしれないが、多くは筆が乗って大げさに書いているというのが実態だと思う。
これはかえって認識の齟齬を生み、本当にコックピットに乗ってるようなと比喩するに等しい感覚なんだねと思った支援者もそう書かないときよりもうまい支援を難しくしていると思う。
文章上から立ち上がって来る実体は安易な比喩であふれている。そういう比喩に「規格化」されている。本当は痛みについても現実にはもっときめ細かに言語上の差別化が可能な多種多様な痛みがあるのに、それらが「頭の割れるような痛み」に文章上では規格化され、かくして読者が想像する痛みが実際に存在し得る痛みよりはるかに限られている。
小説なんか規格化という現象のさいたる対象だ。世の中いろいろな形の鏡が考えられるが、小説に登場する多くは、丸型か、縦長の長方形か、あるいはハート形か、変わり種で星型といったところか。
無修飾、あるいは「不定形の鏡」とでも表現すればその形は読者次第となりかなりありとあらゆる形の鏡が誰かしららの読者の頭の中で形成されうるが、それこそありうる各形鏡に割り振られた想像され得る割合というのは先述の丸型とか長方形に比べれば無限小に等しいだろう。
元素成分分析のグラフで何か所(広義に有限な数だけということ)かだけ極端な高さでピークを持っていて、それ以外の領域では全てほぼ0みたいになっているという感じだ。
まあこの比喩自体規格化されてるかもしれない。ただまあこれは確率分布を元素分析にあてはめてるという点でグラフという次元では同等なのでそこまで齟齬はないと思う・
擦りガラスとはちょっと違うかもしれない隔てた先があまり透けて見えないガラスも全部すりガラス(もちろんマジックミラーならそう書くだろうけど)。
dorawiiより
差別ではあるとは思うんだけど、英語で張り紙しろとか英語で接客できる様にしろとか外野が好き勝手言うのもどうなんだってって思ってしまう。
本部に上げれば良いって言う人も居るだろうけど、今までのコンビニ関連の報道見てたら今回みたいに炎上案件にならないと対応してくれないんじゃね? って気がする。
機械翻訳の文章を貼るとしてもPCであの手書きメモみたいな感じの張り紙作るのって、それなりにPCに慣れてる人じゃないと難しかったりすると思うんよ。
意外と感覚的に作れるものじゃないし、機械翻訳の要点を強調して、尚且つ見やすくするのって思ったよりセンス要求されるしね。
英語で接客するってことは英語で商品の説明ができないと話にならないし、客からの質問に英語で回答しないと駄目な訳じゃん。
コンビニが提供してる多種多様なサービスについても、英語で説明して質問に答えられる必要がある。
そんだけ英語で話せる人材が、時給最低賃金ギリギリのコンビニ店員なんてやる訳ないでしょ。
そもそもコンビニって狭い店舗を少ない人数で回す、極力接客をしたくない(接客の比重が低い)タイプの小売店だしね。
かといって説明の為に英語のPOPを貼りまくるってのも、POPだらけになって肝心の商品が見えないみたいな事になりそうだしなぁ。
これで英語以外の言語もやれ! みたいなクレーム入ったらどうしようもなくなるだろうし。
番号振るってのは一見簡単な解決策みたいに見えるけど、近所のコンビニがそうなんだけど肉まんとかは季節限定商品とかも多くて商品の入れ替わり結構多いんだよね。
番号振るパターンは例えば③で売ってた季節限定のあんまんのところに、次は季節限定のチャーシューまんが入れ替えで入るみたいなパターンもありそうなんだよな。
あとタバコ販売がそうなんだけど番号じゃなくて商品名の略称だったり、常連ぶって「アレ」とか「いつもの」としか言わない客(で、分からないとキレる)居るからなぁ。
肉まんやホットスナックでそういうのが無いとはちょっと思えんのよね。
肉まん類とかホットスナックとかに限定して考えるなら、本部が各言語のそれらの商品の解説サイト作っておいて店内POPに印刷したQRコードから飛べる様にしておく、みたいな対策が現実的なとこかなって思う。
個々の店舗にできる対策は人材の質が要求されるものが多くて、ちょっと現実的じゃないよなぁって思う。
ぶっちゃけ小売って労働環境良くなくて給料も安いから、あんまり質の良くない人材しか集まらない業種だしね。
繰り返しになるけど、あの貼り付けたメモが差別的でアウトってのは分かるんだ。
でも俺も小売でずっと働いてた質の低い人材の一人だから、そうしてしまった背景を想像しちゃってあれを貼っちゃった店員(もしくはオーナー)を叩く気にはなれないんだよなぁ。
「セイクリッドロスト」
・5段階評価:3
・あらすじ
みんなで協力してサタンを倒した。
・印象に残ったセリフ
ヴァース「すまない。俺がロキの偽りに気づいていれば……。」
ほんまやで。
・印象に残ったキャラ
オリガとヴァース。
はじまりの人と対峙するためにサタンを復活させたが、それはロキの偽りの甘言だった。
・感想
使徒編の完結編にしてオールスターでサタンおよび五大悪魔と戦うお話。
規模はでかいし、感動的なエピソードもあったけど、やっぱ使徒の話に乗り切れなかったなあ。
なんかこう、この人たち偉そぶってる感が凄くて、ちょっと僕の好みのお話しじゃなかった。
・5段階評価:2
・あらすじ
脚本家のメアロが妹の病気のことで頭がいっぱいになり降りてしまう。
ラキシが代わりに脚本を完成させ、メアロにモノづくりの楽しさを思い出せる。
・印象に残ったセリフ
シャスト「君は造られた側だから……。造られていたものが放置される瞬間を見るのは…… つらかったな。」
こういうの好き。
・印象に残ったキャラ
メアロ。
脚本家だが妹のためにだけ書いていたため、妹にことが起こると集中できないという性質は脚本家として辛そう。
・感想
造られた存在であるラキシも造る側に回ることでその尊さに気づき、周りのみんなも巻き込まれていくのが面白かった。
戦闘人形達は結局、ラキシ、マスキュラ、アイリーン、フィニー達しかいなかったけど、もっと多くの仲間が出ればまた違った話もあったかもだなあ。
・あらすじ
逆転裁判。
・印象に残ったセリフ
エリン「あなたにつまらない人間だと思われたりしないよう、精一杯!」
ドラゴンと人との繋がりというドラガリアロストの原点に立ち返るいいセリフ。
・印象に残ったキャラ
エリン。
モブグラフィックなのがもったいないぐらい個性的なかわいいキャラだった。
町長の娘ながら言葉遣いは乱暴だし、ピンチなのに唯一の味方のユピテルを若干馬鹿にしてるしで面白かった。
・感想
Cygamesだいぶ好きなんだけど、唯一ミステリを小馬鹿にするシナリオを書くところ、致命的に合わない。
Cygamesが悪いわけじゃないし、完全にこのシナリオとは関係ないけど、まず脱出ゲームに出てくるクイズに「謎解き」と名付けたやつがアレだわ。
「愛は星降るように」
・5段階評価:5
・あらすじ
・印象に残ったセリフ
イリア「ごめん、ミーネ……」
すごく多種多様な意味合いがこもりにこもった満願の思いがのった言葉。
・印象に残ったキャラ
ミーネ。
ドラガリアロストはミーネの愛のお話だったんだなって思いました。
・感想
いっぱい泣いちゃった。
ミーネとイリアの関係は文章にしてしまうと、それだけになってしまうし、全部書けば書くほど書いていない感情が無くなる気がしてしまう。
ドラガリアロストは終わるけど、こうやってシナリオの感想を僕が書いて、いつか読み返すときに、このミーネの気持ちを思い返したらまた違う感想が湧いてくると思う。
面白かった。
「來光! 日ノ下決戦」
・5段階評価:3
・あらすじ
ヒノモトシナリオ完結編。
十二竜氏全員に力を合わせてツクヨミを倒した。
・印象に残ったセリフ
とくになし。
・印象に残ったキャラ
とくになし。
・感想
まず面白いか面白くないかの二択でいえば、普通に「面白くはある」のだが、
「圧倒的に好評」「神ゲー」という評価に違和感がある程度には、ガタガタのゲーム。
このゲームの面白い部分については他の人が語っているので、欠点だけを書く。
別にネガキャンをしたいわけではないが、自分のように「圧倒的に好評」を期待すると、
この作品は「魚獲り&寿司屋経営」のはずだが、制作者がやりたいことは、どうやらそこではない。
(理由は後述)
自分も「魚獲り」(と「圧倒的な高評価」)に惹かれてプレイを始めたが、
執拗に「魚獲り部分の楽しみ」を邪魔するようなゲームデザインには正直、面食らった。
「日に二回しか探索できず、さらに重量などの制限が厳しめのシステム」
が多すぎて、
先に進めない、という難易度では全くないのだが、
「作品世界に浸りながら、気持ちよくプレイできる」とは言い難い。
「どの魚を捕まえようかな」「あの少し高い魚ってどんな見た目だっけ?」「攻撃してくる魚が厄介だな」「この武器ってどうやって使うんだっけ?」
などと魚獲りに集中したいのに、
・つまんねーおっさんが「古代文明の痕跡集めてこい」だの(どうでもいい演出ムービー始まる)、
・味にうるさいおばさんが店に居座って、雑魚相手に苦戦してるプレイヤーに対していきなり「サメを食わせろ」だの、
・相棒のオッサンが「既存の武器が持ち込めないから武器素材集めてこい」だの、
・小娘があの貝殻とこの貝殻を集めてこいだの、
開始直後の序盤にこれでもかと
「魚獲りを単純に楽しみたいプレイヤーを邪魔する情報」が詰め込まれていて、本当にイライラした。
それらのイベントを無視して、魚獲りと料理の改良をしていたら、
客が増えて寿司屋が回らなくなるのだ。
説明過剰・演出過剰なゲームにありがちなことで、肝心な部分で説明がないのだが、
「おばさんにサメ料理を食べさせないと、スタッフを雇えない」のである。
自由度があるようでないのだ。
(繰り返すが、「寿司屋が回らなくなる」といっても先に進めなくなるほどの難易度ではない。ただ、配膳の遅さに怒った客が帰り、作った寿司を何度も廃棄する羽目になるだけだ)
あと、ストーリーを褒めてる人がいるけど、そこにも不満がある。
ちまちまと魚を獲って「新しい魚&メニューが増えた!」とか小さなロマンを積み重ねたいと思うのだが、
開始数分で「魚人族の痕跡を追え!」なんて大ミッションが始まるのは、本当に台無しだと思う。
(開始直後なのでネタバレでも何でもないよ)
いや「魚人族」とかそういう設定は好きだよ、でもこっちは「ちまちまと魚が獲りたくて」このゲームを始めてるんだよ。
序盤だからこそシンプルに手探りで操作して魚獲りを楽しみたいんだから、
そんなの中盤以降でよくね?
また、それまでのストーリー進行イベントではイベントを終えても海中の探索が続行可能だったのに、
ボス戦後は強制的に船の上に帰される統一感のなさも妙にイラっとした。
ちなみに、その日は「美食家の訪問日」と重なっていたのだが、強制的に休日扱いになるイベントなので、
メインのはずの「魚獲り&寿司屋経営」の部分がほんと適当なゲームだなと思った。
さらに美食家のイベント後に解放されるビールをすでに飲んでいた。
料理の値段以外にはプレイヤーは「経営に必要な数字はほぼ確認できない」。
この経営シミュレーション、「前日の売上」や「前日に提供した料理数」等の簡単な統計すら見れないのだ。
ここですら「注文の総数は表示されない」し、何より後から確認できない。
プレイヤーが「料理の提供数を決める」(溢れた分は食材が消える)システムなのに、
何を参考にすればいいんだよ。
(まあ大体15とか25だなというのはわかってくるが、それにしても不親切)
つまり、営業中の回転率を見てからスタッフを採用しようと思っても、
次の日も人手が足りないままなわけだ。
利益から引かれる「運営費」や「給与」の詳細もわからないし、そのくせスタッフは複数雇わないといけないし、
どうでもいいストーリーには力を入れる癖に本来のメイン部分はこの有様で、
正直「ミニゲームくらいの感覚で作ってるだろ」というクオリティで、ガッカリした。
やたら力が入っていて面白いのはわかるのだが、
まず基本のゲーム部分がきちんと作られていないのに、そこを褒めるのは順番がおかしくないか?
批判的なレビューでは「UIデザインが悪い」という部分がよく指摘されているが、
そういう表面的な部分ではなく、
根本的なゲームデザインがそもそも良くないから、結果的にUIも悪いだけだと思う。
「魚獲り」部分は楽しい(邪魔さえされなければ、これは本当にそう)ので勘違いしがちだが、
むしろこの作品は、不十分なゲームシステムを「パッと見の表面的なデザイン(演出やUI等)で誤魔化している」ゲームだと思った。
・魚を獲るゲームなのに、探索中は獲った素材の累計が見れない(必要数を確認できない&「こんなに集めたか」と満足感に浸れない)とか、
・客の回転数の関係で、メインの寿司よりも、単価が高く複数提供できる一品料理の方が重要とか、
絶妙に「わかってねえなあ」感がすごいのだ。
「潜るたびに地形が変わるローグライト要素があって、獲れる魚も多種多様!」と謳いながら毎回同じマップで、
地形が変わらないせいで獲れる魚も固定(獲りたいのにずっと獲れない魚がいる)
ってのは流石にどうよ?
下らないアニメーションで点数稼ぎしてないで、根幹部分をもっとどうにかして欲しいと思った。
そしてなんと、ゲームを進めていくと「生け簀」というシステム開放があり、
「海に潜って魚を獲るなんて面倒なことをしなくても済むよ!」というクソ状態が待っているのだ。
どうやら制作者は、プレイヤーに「魚獲り」をさせたくないないらしい。
魚獲りが面倒で嫌なものだと思ってるなら、なぜそれをゲームにしたんだろうか?
魚獲りを効率化するシステムなら歓迎だが、それ自体を拒否するこの展開には流石に萎えた。
(ちなみにお察しの通り、ここでのUIや管理のしにくさ、画面の見にくさも当然ひどい。急に見下ろし視点になる画面の統一感のなさとか、「ああ、適当に作ってやがるなあ」としみじみ思った)
しかし制作者は魚獲りに注力する気がないとして、あの魚人族のストーリーが本当にやりたいことだったのだろうか?
ただのつまんない会話とミニアクションの押し付けで苦痛でしかないのだが、
ここからは多少ネタバレになるが、クリオネのイベントは適当に進めない方がいいよ。
「5匹集めた段階」で急に強いボスが出てきて、「そのとき持ってる装備でいきなりボス戦をさせられる」から。
ステージに落ちてる武器箱はランダムで、もし魚獲りネットしか持ってなかったら、それらで戦うしかない。
なんとなくUVライトを拾ってたりすると、無駄に(本当に無駄に)苦戦するのだ。
リトライはできるけど装備は変わらないので、武器を用意したいならそれまで獲った魚や素材を捨てることになる。
(ほら、またこういうことをする)
飛び道具やプレイヤー武器無効化もしてくるという、いきなり難易度の高いパターン。
電通の五輪談合疑惑が報じられて「なんで広告代理店の電通がどこにでも顔出して金さらってくんだよ?」と訝る人が結構居る。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/4348b7be7c6a3f20646eded102d521f62fbe07dd
そうではなくて電通はスポーツイベントの元締め、親請け業もやっていてその分野では殆ど独占に近い寡占状態なんである。
五輪をはじめ、スポーツイベントには沢山の業種が関わるが、その元請けが電通ってわけ。
例えば警備業では;発注自治体--電通--警備会社(警察に警備計画出して許可貰う)--警備員
イベント業;電通--大手イベント業者--下請けイベント業者--とび職
といった具合で多種多様の業種が加わるが、みんな電通の下流で仕事貰うって形になるわけ。
因みに、広告では鉄道会社なんかは自社の子会社の交通広告社通してって所もあるので広告の多重請負は必須。
イベント業者は会場の作成で、屋外で床材敷いたりテントを設営したりステージ組んだり。
鉄管で観客席作ったりする場合はとび職を呼ぶ。
リースってのは仮設トイレや誘導のLEDやぼんぼり(発電機の上に白くて大きい丸いのを光らせるアレ)とかプレハブとかね。
五輪などでは会場の作成、特にトイレの改修やバリアフリー化、床の平坦化なんかが必要なので。但し小さい改修だけ。大きい箱ものの建築は別建てで自治体や国から直接ゼネコンに委託する。
要するに何でもかんでも全部であって、これだけイベントで多業種を統べて下請けに出す能力があるのって電通ぐらいしかない。
だから行政が絡むイベント、スポーツイベントっていうのはなんでもかんでも電通が元請けになっている。
国体もマラソン大会も「県主催社会人野球大会」とかのややマイナー系も殆どだ。
さらに最近増えてきた自治体主催のお祭や花火大会とかも同じだ。「タレントが来る祭」となったら電通とかじゃないとセッティング難しいってのは想像できるだろう。
「自治体」「スポーツ」「芸能人」が絡んだら電通案件、はっきり分かんだね。
実際、広告業に従事してる人でもこの辺の常識知らない人は居る。
例えば博報堂出身の中川淳一郎は、五輪と休業助成金事務委託問題が湧きあがった時に、東京新聞に「おまいら落ち着け、広告代理店の電通が悪の秘密結社みたいに政財界を牛耳ってる訳じゃないだろ」というコラムを掲載している(紙だけでデジタル版はないのでリンク出来ない)。
この記事でもその認識が出てる。https://www.dailyshincho.jp/article/2016/11100800/?all=1
いや、電通は広告屋だけじゃないからアチコチで顔を出すんだよ。特に「国」が開催する「大」「スポール」大会の五輪ともなれば。
中川が在籍していた業界ナンバー2の博報堂にはイベントプランニングの業務はなかったので、当然電通にもないんだと思い込んでしまってるのだな。
マラソン大会や大きい名産展とかの行政発イベントの前日や翌日に会場に行くと、「電通」のワッペンや腕章した作業員が沢山働いているのが見られる。
無論彼等は電通職員じゃなくて下請けのイベント会社やとび職やリース会社の社員やバイトだ。元請けが電通だから「電通でーす」と言って入場してるのである。
こんな風に何でもかんでも電通に投げればイベントがつつがなく終わるのだが、もう一方で行政の委託先が独占だったり不透明だと良くない、という風潮も出てきた。90年代からだ。
そこでなるべく業務を細分化して競争入札やプロポーザルにしようという流れになってきた。
イベント部門も投げる内容が狭ければ、総合イベント業みたいな会社も育つ。広告も直接地方で大手の代理店に投げればいい。建築もスタジアム立て直しみたいな巨額の金が動くものでは建築土木を分離して別建てにして入札の様子も公開したほうがいい。
委託先独占は権力との癒着を生む。毎回電通っていうのは畢竟随契なんだから契約内容も交渉も不透明だ。
という感じで、ノウハウも独占してる電通以外に委託するのは困難を伴うが、腐敗防止と契約透明化の為にわざわざ事業を分割して競争入札の形にしてあったというわけ。
そこで「おめえらだけじゃ不安だしノウハウも足りんだろ。後で協力体制を敷けるようにここはこの価格で提案はこの内容で、と割り振ろうじゃねーかhehehe」って感じの談合をしたのかなと想像する。
さて、2020年の五輪は流れてしまったわけだが、その年に休業助成金事務委託問題が湧きあがった。どうも受注の経緯が不透明で怪しいってやつだ。
上記の業界構造が判れば、これはどうも損失補填に国が応じたって事なんじゃないのか?という疑念が出てくる。五輪流れでイベントの実業分野の収入ががた落ちとなった。その代わりに派遣、事務業務請負の方で補填という請願に国が応じたのではないか?と。
これがゼネコンなどではぶら下がってる土建業者や職人が食い詰めてしまうので、一見無駄だが工事して金を流すっていうのは判る。でもこの電通の場合は下流のイベント業者などには金が流れず、電通しか救済されないのだからあの不透明随契と委託費抜き過ぎの構造はかなりいただけない。
電通=広告屋なのに五輪で暗躍してるのなんで?と思ってた人については、博報堂出身の中川淳一郎も判ってなかったので気にしなくていいと思うよ。
でも業界構造や委託の仕組みが判れば秘密結社の陰謀とかじゃなくてノウハウを牛耳ってるが故に行政、スポーツが絡むイベントにはどこでも元請けしてて、癒着に近い状態であり、各自治体や国は随契から公開プロポーザルへの流れに乗っていたのにそれをぶっちぎったのが今回の談合疑惑であり、その後ろには積み上げられた社会的了承に無頓着な安倍管時代という「追い風」もあったのでは、という事が具体性を持って判ると思われるよ。
ホットエントリに入っていたので。
せっかく愛知にすんでるし、最近なにかと話題だし、空いてるなら散歩がてらに行ってみようかと。
と、なんとなしに行ったんだが・・・。
空いてるって聞いてたのに普通にひといっぱいいるやん。
子連れファミリー、カップル、老年夫婦、オタクグループ、ソロプレイヤーなどなど多種多様な人が、そこにはいた。
会場の前の広場にはキッチンカーがずらずら並んでいたり、アウトドアワゴンをゴロゴロと引いてる人がいたり。
フェス会場か、ここは。
ま、それはともかく。
せっかくなのでキッチンカーで軽食を買って中で食べることにする。
買ったのはジブリとは何の縁もなさそうなホットドックとフライドポテト。
俺はここに何をしに来たんだっけ?と若干思いつつ、美味そうだったので。(実際旨かったし正解だった)
その次に現れたのが、なんと愛知県の大村知事。会場が少しどよめく。
このおっさん、中々の入れ込みよう。どれだけジブリパークに賭けてるんだ?逆に不安になる。
知事の挨拶もそこそこに、ようやく真打登場、本名陽子が現れる。
え?それいいの?昨日井上あずみが歌ってたんじゃないの?と変な笑いがでたが手拍子しながらのんびり聴く。
さんぽが終わると自己紹介。プリキュアやったりガンダムでてたりました、とのこと。へーと思いながら、この会場に本名陽子の経歴知りたい人どのくらいいるんだろうと邪念がよぎる。
次に歌ったのがおもひでぽろぽろの曲と猫の恩返しの曲。ここで本名さんの歌が上手いことに気づく。補正なしのカラオケでこれだけ安定して歌えるのすごいなと感心する。
2曲終わると小休止。本名さんが27年前の生台本を持ち出してきてセリフ読み大会が始まる。
「今から3つ、セリフを読みたいと思います。どことどことどこのシーンでしょう?」と会場にクイズを投げかける。
挙手した観客から3人が選ばれ、登壇。わちゃわちゃとしたやりとりのあと、本名さんがセリフを実演して答え合わせ。
参加者にはおみやげにサイン色紙をプレゼントしていた。ちょっとうらやましい。
バイオリン弾きのおばさんが登場する。この人は天沢聖司のバイオリンを担当していた人らしい。
この人曰く、天沢聖司の演奏シーンはこの人の演奏を録画して、それをアニメーターが一枚一枚描き起こしたらしい。
指の運びなんかはもちろん、なんとなしに動かした肩の動きなどまで完璧に再現されていたとか。実質天沢聖司やんけ。
バイオリンのイントロが始まる。あーこれこれ!と眠っていた思い出がよみがえってくる。
本名さんの歌が加わる。少し音痴。そして直立不動。その歌と姿を見て、映画のあのシーンを忠実に実演してることに気づく。
ちくしょう、にくいねえ!と思いながら、いつのまにか自然と涙が流れていた。
2人が演奏する後ろにはジブリパークで再現された地球屋が見える。このロケーションとシチュエーションが感動させたのか。それとも単純にバイオリンの響きと本名さんの歌声が良すぎたのか。それはわからないがとにかく涙が止まらなかった。
こんなに感動するつもりではなかったのだが。
空いてそうだし散歩がてらに来ただけだったのだが。
ジブリパークにはまだ一歩も足を踏み入れられてないし、チケットも当分取れそうにないけれど、もう十分元は取れたと思うくらい満足してしまった。(無料のコンサートで元を取るとはいったいなんなのか自分でもよくわからない)
そうして曲が終わり、おおきな拍手がおこり、コンサートは終了。
引き続いて、映画が始まる。
久々にみると絵が古いし、設定から話の展開まで何から何まで平成だった。(当たり前だが)
なので良い作品ではあるものの、これを今の令和キッズたちが見て面白いと思うかは微妙なところなのかなと正直思った。
だから増田の懸念も少しは妥当なのかもしれない。今日は人がいっぱいだったけれども、3年後5年後どうなってるかはわからない。
くsssssssssssssssssssssssssssssっそ寒かった!!!!!
映画の序盤くらいから寒さとの戦いに意識が半分以上持っていかれてた。
静かに座るタイプの野外イベントを11月の夜にやらないでください。
以上です。
嫌なこと、苦手なことに対して、果敢に立ち向かい克服を目指すべきか、それとも諦めて他の好きなこと、得意なことを伸ばすべきかは、答えは1つではない。
ただ、会社員として生きている以上は、嫌なこと、苦手なことをやらざるを得なかったり、悪意をもってやらせようとしてくる存在が現れたりする場合もあり、果敢に立ち向かい克服することまでは必要ないにせよ、自分を守りつつ、うまくやりすごすための術は身につけておいたほうがよいことは確かだ。
なお、私個人的には、嫌なこと、苦手なことは基本的にやる必要もさせる必要もなく、好きなこと、得意なことをさせて伸ばしてやったほうが、本人はもちろん、組織にとってもプラスになる、むしろそのような多種多様な人的物的リソースをいかに最大限活用することができるか否かが、経営側・マネジメント側の手腕であると考えている。
「ぼっち・ざ・ろっく!」、通称「墓石」が、アニメ作品としてヒットすれば、まんがタイムきららは危ない。ヒットしなくても危ない。
当たり前のように使われてるが、どう考えても良い言葉ではない。胸を張って「私は陰キャだ」と言える人なんて居ない。ネット上(に限らないが)で「陰キャ」という言葉が出たとき、その言葉を言われた対象が賞賛の的になっていることは皆無と言っていい。明らかに「陽キャ」こそ上位の存在だと見做している。「陰キャ」であることを短所と見做すしかなくなっている。「ぼっち・ざ・ろっく!」の主人公を見て、名誉ある人物だと思う人はいない。そういう風にこの主人公は作られている。
昔は「リア充」「非リア充」という言葉がよく使われていた。ネット民である「俺」や「お前ら」は、まず「非リア充」の方に位置していた。しかし昔のネット民は「リア充爆発しろ」だのと攻撃的な姿勢でいた。それは冗談でもあり虚勢でもあったが、俺達こそ素晴らしいのだという感覚を得ることができた。「非リア充」であることに誇りをもっていたと言ってよい。またリアルでの充実というのは、恋人の有無に限らないことであって、趣味に熱中することができるならそれもリアルでの充実と言えた。「陽/陰キャ」という言葉の場合、現実が楽しいかという次元の話ではない。ただ人間性について判断しているのであって、いくらネットで面白いことができても、趣味に熱中したところで、「陰キャ」と言われれば「陽キャ」には勝てない。現に「リア充爆発しろ」に相当する言葉をまとに見たことがない。
「陰キャ」という言葉は、かつてインターネッツではほとんど使われていなかった。しかし2015年前後から急速に当たり前の語彙となった。この言葉はインターネッツ発祥の言葉ではないだろう。しかし今、こうして当たり前の言葉となった原因はネット民に、ネット掲示板にある。それはなんでも実況Jが2ちゃんねるの都となってからのことだ。その時期といえば、とある炎上に関わった弁護士が大いに叩かれていた。かつてのネット民の意識であれば、「俺達は弁護士よりも上」だと言っていただろう。しかしいつしか、「弁護士は俺達よりも下」になっていた。
そもそも人間の性質を二つに分けることは乱暴なことだ。世の中に、完全に「陰キャ」でしかない人はほぼ存在しない。完全に「陽キャ」でしかない人もいない。人間には必ず陰と陽とがある。5対5のように、両方のバランスによって成り立っている。そのバランスは時と場合によって3対7や1対9のように変化していく。誰を相手にしているか、どの場所にいるかによっても変わる。本人の気分によっても変わる。学校では無口でも家では饒舌なら、それだって本人の「陽」の側面が強まっていることになる。ネットでは強気になれるなら、それも「陽」と言っていい。ただし、そんな時にも「陰」の面はある。また、自分では「陽キャ」だと思っていても、他人からは「陰キャ」だと思われていることもある。自他の認識によって、人間の性質は変わる。
我々は、「陰キャ」という言葉を見たとき、「陰キャ」と呼ばれる人を見たとき、絶対に自分の中にある「陰キャ」の側面を実感している。全員が共感できるから、「陰キャ」という言葉はここまで当たり前の言葉になっている。「陰キャ」という言葉が捉える範囲があまりに拡がりすぎている。使う人のさじ加減によっても変わってくる。
人が自分や他人を判断する材料が、「陰キャ」か「陽キャ」かしかないとは、短絡的なものだ。我々の人を見る目は蒙昧で貧弱なものになってしまう。
現在まんがタイムきららでは、「陰キャ」という言葉を全面に押し出している作品が三つある(正確にはその一つの連載は終了している)。「ぼっち・ざ・ろっく!」と「ななどなどなど」と「むすんで、つないで。」のことだ。いずれも主人公が「陰キャ」と言われたり自称したりしている。しかしこの主人公三人は、同じ「陰キャ」であるにもかかわらず、共通点がない。「陰キャ」である状態が異なっている。
「ぼっち・ざ・ろっく!」の主人公はまともに人と話すことができない。言葉を発すると緊張の度が過ぎて、たどたどしい滑稽な姿になる。
「ななどなどなど」の主人公は、問題なく人と会話が出来る。ただ、自尊心が強く、気高く、高圧的に人と接してしまうため、人との不和を起こす。そういう人間性から、この彼女は「陰キャ」と呼ばれた。
「むすんで、つないで。」の主人公は、自分のことを「陰キャ」だと思っているが、周囲からは憧れの的となっている。容姿端麗で、成績優秀だとして賞賛されている。間違っても「陰キャ」とは言われていない。このように、自己へ下す認識と、他人から与えられる認識に差異がある
「会話が困難な人」「会話は出来るが人格に問題がある」「会話もできるし人格も整っているが、その人自身は不安を消せないでいる」。これらは完全に別物であり、違った性格を持った人物の集まりだ。それなのにこの三人は、「陰キャ」だと一つにまとめられている。こうした乱暴な処理がなされた結果、「陰キャ」の意味は広く曖昧なものになった。
「まんがタイムきらら」の枠に留まらず、今や日本では、人間は「陰キャ」と「陽キャ」のどちらか二つに分類されるようになった。しかし人間はそこまで簡単に分類できるほど、単純に造られていない。漫画の登場人物ですら、多種多様な性格をもっている。繊細な性格によって表れ出ている人間の姿を、真っ二つに分けることなど、とうてい出来ない。出来るとすれば、相当に乱暴な作業と言うほかない。
ひどく曖昧な意味をもっている言葉を平然と使う。普通の人が日常会話でつい使ってしまうのならまだしも、漫画家という表現者が使うのはいかがなものか。使うのであれば、考えた上でやらなければならない。考えた上で使うことが出来ている作品は、「むすんで、つないで。」しかない。
こういう考えもあるかもしれない。「陰キャ」がもう当たり前の言葉となった以上は仕方がない。その言葉をあえて使うことで、読者の共感を得ることが容易になる。確かに「ぼっち・ざ・ろっく!」は、「陰キャ」という言葉によって、現代の我々の思考を写し取った作品になっている。しかし、それがまんがタイムきららにとって、いかに異質で危険なことか。それを考えなくてはならない。
一時期のまんがタイムきららは、多くの嘲弄を受けてきた。きららからアニメ化される作品は「日常系」と呼ばれ、「中身がない」だの「美少女動物園」だの散々言われていた。
そういった意見に間違いがないわけではないだろう。一つの正解であるとも言える。
しかし面白い作品のあり方はさまざまであってよい。劇的な物語がなければ、作品として成立しないなんてことはない。キャラクターが死ぬのを見れば、それは悲しいシーンとなる。涙を流すこともあるだろう。しかしその涙は、純粋な感動のためではなく、感動という暴力を受けて涙を流しているだけかもしれない。
何気ないことに心を動かされることがある。そのことを追求したのが、過去のまんがタイムきららだった。何気ない瞬間の美しさを、美少女キャラクターに託していたのだ。そのためには、細心の注意を払ってキャラクターをつくらなければならない。例外もあるとはいえ、人の死があるわけでもない、激越なバトルがあるわけでもない、何か大会で勝ち上がっていく過程もない。ただそこにはキャラクターがいる。読者の感性に訴えかけるキャラクターを描かなければならなかった。それがかつてのまんがタイムきららの様式だった。そうしてきららは、いくつもの作品を世に送り出してきて、少なからぬ成功を収めた。
そんなきららが、今では「陰キャ」「陽キャ」という、曖昧かつ極端な言葉にとらわれてキャラクターを作ろうとしている。これは創作の妥協であり、怠慢だ。きららが今まで築いてきたものを否定している。いわゆる「なろう系」や異世界転生もののように、圧倒的な成功を得られるならまだ良い。しかし「ぼっち・ざ・ろっく!」に圧倒的な成功や勝利や名誉の獲得はない。
きらら編集部は、人々の口に上ることの多い「陰キャ」という語を、訳もわからず商機と見做して漫画に取り入れたつもりなのだろう。しかし、この「陰キャ」という言葉は、近年の「インターネッツ」の売り物の一つなのだ。「陰キャ」の隣には「ショウガイジ」があり、「すき家でチーズ牛丼を注文する男性」も陳列されている。周囲を見渡せば大量の炎上コンテンツがある。「ゲイ向けのビデオ」があり、「大物YouTuber」もあり、「ネットに強い弁護士」もある。
きらら編集部がもし「ショウガイジ」を選択していたら、問題視されただろう。しかしさすがに、きらら編集部は「ショウガイジ」がまずい意味をもっていることを知っている。だから「陰キャ」を選んだというのか。特定の人種を差別しているわけではないと判断したためにか。「陰キャ」という語が、「ガイジ」と紙一重の意味合いと動機で使われていることをきらら編集部は知らないのか。知っていてやっているなら邪悪でしかない。知らないからといって、何でも認められるわけではない。「陰キャ」を使っていいのは、人の気も知らず、自分のことも顧みず、悪口でも何でも好き勝手使うネット民だけでよい。
まんがタイムきららの編集長は、「雑誌とは社会の公器であることを認識しなければならない」という教えを守っているのだという。「常に新しいことにチャレンジする」ために、「意識的に尖った作品を多く掲載するようにしている」側面があるのだという。その「尖った作品」の第一として挙げたのが、「ぼっち・ざ・ろっく!」だった。まんがタイムきららは、尖った作品を作るために、社会の公器であるために、ネット民の小競り合い、煽り合いを利用したということだ。
きららアニメは、今までニコニコ動画で散々「ゲイ向けビデオ」のコンテンツと共演させられてきた。きらら作品のキャラクターが「ガイジ」扱いされることも多かった。きららアニメの大元であるきらら編集部は、ついに自ら「インターネッツ」の汚れた部分に浸かることを決めた。しかも「社会の公器」であるから、「ガイジ」のような過激なものは使えず、なるべく穏当な「陰キャ」を手に取って、「インターネッツ」の人々と仲良くすることを選んだ。
編集長のインタビュー記事 https://www.mashiro-writer.com/interview-houbunsha70th
もし「ぼっち・ざ・ろっく!」がアニメとして成功すれば、今後も「陰キャ」「陽キャ」という観点でキャラクターが作られるだろう。人間の性質を無理にでも二極化して行くだろう。過去の伝統を振り捨てて。
もし「ぼっち・ざ・ろっく!」がアニメとして成功しなければ、新たに売れそうな漫画を作り出さなくてはならない。約五年前のように、一年に三つも四つもきらら出身のアニメが放送される時代は終わっている。過去に人気を博した作品も続々と完結している。現状のまんがタイムきららに見込みがありそうな漫画は数少ないと言ってよい。アニメ化が決定した「星屑テレパス」を含めれば、あと四つほどだろうか。「ぼっち・ざ・ろっく!」はきららの最終兵器とよく呼ばれている。最終兵器とはまるで後がないかのような言い回しだ。
「身長210cmのスケート選手とかいてもいいじゃん!大きくてダイナミックじゃん!」とか軽々しく考えているのかな?
ある競技をやる集団の体格が似たような姿へと収束していくっての当たり前のことなんだけど、そんなことも理解できてないの?
そもそも個性的なキャラクターが出てくるってのを求めるならモンスターがメインの作品はどうなんだ?
今でも全然多種多様だと思うけど、人間の姿をしていないのでアウトってこと?
はぁ~~~~~?????
棲み分けが進んだっていうだけのことに対して「昔はよかったよ。底辺もエリートも同じ中学校に通っててさ」みたいな事いってるわけ?
ほんま話にならんですよ
知った時にはすでに遅かった。
セットでお金稼ぎをしている
キャリカレの教材に関しては
誰が教材の責任者か、第何版で、初版はいつなのか、どこにも書いてない。
実際は
講座を受けないと受講生番号等が発行されないので、そもそも講座を受けないと資格試験にチャレンジできない
ていうか
番号を買わないと、資格試験の申し込みができない。
ただし、
誰でも入れる。
やっつけ仕事すぎて引いた。
キャリカレの講座は
あとは同じ値段で20年。
多種多様すぎて
冷静に考えて不自然
それをお金で売ってる
すごい金額といっても5万とかだけど
それを掲げて仕事してる人に、何を期待していいのだろうか
やる方は信用を買えて、それっぽくできるからいいけど
その人を頼って、客になった人って、2重に騙されてることになるんじゃ?
でも、誰も何も定義していない領域ばかり、資格を量産してるから
嘘でもない
実際、それで人を助けてる人もいるっちゃいるし
困ってる人は相談しにくるし
相談する方も、騙されたから取り返そうって気持ちじゃなく、本当に助けようとしてる人もいる。
JADPとキャリカレにぼったくられたから、俺も客からぼったくろうっていう
そしてそれに気づいたのは本当にさっきで
確かにいいようにとらえることはできる。
困ってる人を助けたいけど、なんでもない人間に急に声をかけるとかはできない。
でも結局やってることって、youtuberがお悩み相談してるのとなんも変わらない
拍をつけるためにそれっぽい資格をお金で売ってる団体にお金を払っただけというか
それこそyoutuberがお金を払って案件逆に取ってきて、信用を得るのと同じわけだ
はぁ
焦らずもっと冷静でいられたらなぁ
「JADP認定メンタル心理カウンセラー」とか書いて商売始めたとして
相談しようか迷ってる人が検索しても、それっぽいサイトが出てくるから
まあ、糞安っぽいサイトだし
テキストに書いてあることは
嘘ではないところ
日本語が怪しいところもあるけど(~という考えを考えたり とか普通にある)
読み物としては面白い
死にたくなるし
少し足してメンタリストDAIGOの本買った方がいい
なんならメンタリストdaigoは資格何も持ってない、独学だし
問題集とかついてて、提出させられるけど
嘘みたいに簡単
ていうか
テキスト丸写し
手抜きなうえに
メンテされてない
もう一個、こういう商売がはびこってるなと思ったのが
例えばカウンセラーのテキストにそれっぽい説明と単語が載ってて
ほんとかこれ? てなったときに
検索をかけると
キャリカレとかとは無関係の、心理学の説明をしたサイトが上に出てくるのね
でも開くと
もう笑うしかないのね
確かに臨床心理学としても間違ってないこと書いてあるわけだけど
何も悪いことしてないし
騙される人がたくさんいるから成り立ってる
ずっと考えてる
ゲームでも作るかな
家からそう遠くない所に、新しめのワークマン女子がある。そう遠くないといっても、私の体力でもってチャリをこいで行くのはかなり厳しい距離だから、車で行った。
駐車場はとても混んでいた。多種多様な数店舗のショップや飲食店との共有だから仕方ない。だが、遠目に見てワークマン女子の中には人がそんなに多くなさそうに見えたので、他店の客で混んでいるのだろうかと思ったら違った。ワークマン女子、かなり混雑していた。単純に、外から見える部分には簡易テント等のディスプレイがあったので人がいないように見えただけで、フロア奥の棚と棚の間は普通にごった返していたのだ。混雑レベルは休日のユニクロに匹敵していた。性別ごとの客層にかなり偏りがあるのに。
実をいうと、ワークマン女子にはあまり期待してはいなかった。たまに出かけるワークマン+の端っこに陳列してある、女子向けをうたった上着などがユニセックスの上着に比べてかなりしょっぱく、もしもワークマン女子がそれと似たり寄ったりのクオリティのものばかり並べてあるのだとしたら、残念過ぎてやだなと。
しかし、偏見はただの偏見に過ぎないのであり、やっぱり真実は自分の目で確かめるべきっしょ☆ と思った。
新しくて白を基調とした明るい店内は清潔感に溢れて、これがあのワークマンの系列店なのか!? と目をぱちくりしてしまったが、やっぱりワークマンはワークマンだった。ウェアの陳列の仕方に、どうしようもなくワークマンの香りがする。そして、商品の全てがあの安心感のあるチープさとダサさだった。
それでも、店内をうろうろしているのは綺麗めの30代以上の女性達ばかり。そんな人達が鋭い目付きで商品を吟味していた。華やいだ雰囲気とはそぐわない猛禽類の眼差し。ここがワークマン女子でなければ一体何事かと思う。こういう目で買い物している群衆、昭和時代のバーゲン以来に見たかも。
私が求めていたのは、ここ最近くらいの朝晩は底冷えするけどダウンジャケットを出すのにはままだまだ早いシーズンに、買い物や通勤の際にサッと着て出掛けられるような、薄くて軽い上着だった。買い物の目的が明確な場合、こと訪れたのがワークマンであるならば、目当てのものをサッと取ってサッと会計してサッと帰るのが定石というもの。だけど、せっかく初めて来たので店内を端から見て回った。
三面あるうちの壁の一面の半分くらいはメンズの上着が陳列されていた。もう半分のまた半分がユニセックスのもので今のシーズンというよりもこれからのシーズンのものだ。それと棚一列がメンズとユニセックスのレインウェア。つうかレインウェア多いな!
晴れの日でも着れるというのが謳い文句の種類豊富なレインウェアの、その全てがどう見てもワークマンのダサい上着である。色と形でワークマンを主張し過ぎなのだが、服の側に掲げられた着用見本写真では、綺麗めのモデルがブランド服を身にまとったような爽やかな笑顔でごく自然なポーズを取っている。この写真撮った人、優秀過ぎんか。
その隣の棚にはレディースサイズの大量のレインウェア。あれもこれもそれもレインウェア。遠目に見れば撥水加工の利いた薄手のウインドブレーカーだが、近づいて見ると一目でわかるワークマンぶりだった。ワークマン御用達のデザイナーって、一人しかいないのかな。
でもまあ、「ワークマン女子」なんてブランドになったらいきなり垢抜けたとしたら、その方がなんか気持ち悪いし、自分の来るとこじゃない感に圧迫されて返りたくなるから、別にいいけども。
去年、ワークマン+でレディースの上着を見た時には、一見メンズやユニセックスと似ているようでいて、温かさと機能性がしまむらだったのでふざけんなよと思った。ワークマン女子の上着はどう見てもワークマンで安心感はあるが、しかしワークマンに求めるのは勿論、お洒落感を犠牲にした高い機能性なので、大事なのは色選びよりもポケットのチェックだ!
……え? スマホすっぽり余裕で入るくらいあるやん? なんならポッケに手を突っ込んだまま肘が伸びる。500mlのペットボトルは入るかな、どうかな。女性が持ちがちなゴツい長財布、余裕だと思う。雨降りの時はスマホはファスナーつきポッケに入れれば濡れなさそう。もしも梅雨時、これを着て散歩ちゅうに捨てられた子猫を見つけたら、計四つのポケットを駆使して一度に六匹くらい持ち帰れそう。薄手の上着だから、内ポケットは無し。懐にタブレットを仕舞うポケット無し。メッシュのついた排気口あり。懐かしの、中学の部活動でお揃いで買う上着みたいだな……。「レディースディアドルプパーカー」というらしい。買い。
アウターだけじゃなくセーターやパーカーなども売られていた。薄くて温かい肌着類もあった。以前、ワークマン女子の1号店がオープンした時にその宣伝記事がバズッたので読んだ記憶がある。それを読んでただのアパレルじゃん? という感想を持ったのだが、自分のこの目で見たワークマン女子も大体ただのアパレルであって、鳶左官や整備士などの女性や昔ながらの女性の仕事……看護師とか……で働く女性のニーズに合わせた服や物品があるかといったらあまりないように見えた。トップスやボトムスは普通に街歩き用、アウターがアウトドア用、肌着は冷え性の人大歓喜みたいな感じだ。なんというか、ちょっと郊外や市営キャンプ場など、自然のある所で遊びたいが、WILD-1で買うには持ち合せが足りない人が利用するといい所……なの……か……? それにしては客の綺麗度やお洒落度が高く……、この人達はいったい、ここに売られている品物を着てどこに何をしに行く気なのだろう? と疑問に思った。ウォーキングかな。
あと、気になったのは、キッズ服もあったのだが、どれも男児用のデザインの様で、実際着用見本写真のモデルもぜんぶ男児だったこと。もしかするとユニセックス服なのかもしれないが、これを娘の為にわざわざ買って帰る人がどれだけいるだろうか。差別的な考え方だと批判されるだろうが、現実の女児の自分の性別への拘りはシビアで、わざわざ男装をしたがる女児は珍しいのである。
もっと隅々まで見たかったのだが、私よりも先に連れの家族がしびれを切らしてしまったので、すごすごとレジに上着一枚を持っていきお会計。レジ接客担当の二人はどちらもアパレル関係の仕事を長くしていそうな、お洒落な女性だった。
ワークマン女子……よくわからない。客層からして私自身はかなり浮いている感じだったのだが、そこにあった服は私の様にお洒落など知らん! と開き直って機能性と着心地に全フリした恰好しかしない人間には、どうしようもなく合っている。にも関わらず、ここにぶらりと買い物に来るには最低でもユニクロで買った服を着ていった方がよさそうな、謎のハレの気に満ちた空間だった。