はてなキーワード: 必然とは
「あっ○○の出身なんですね」
出身を聞かれてるだけなのに、実家が貧乏であることを白状させられてる感じ、嫌いだ
というか東京で実家暮らしで楽に入れるけどある程度名の通る大学の学生やりながら余暇でバイトしてるこいつらに憎しみを覚える
マイルドヤンキー(高卒即社会人)になるつもりがなければ必然都市部の大学に進学するのが地方の常だ
「一人暮らし大変ですもんね」
貧乏人は大変だな、とすら聞こえる
ぬるい文系にでも進めば良かったのかもしれない、と信念を曲げた後悔もしたくなる
自分は自分なりに頑張って実績ある大学に入ったからそれでいいじゃないか、とも思う
だが東京出身者はその大学に至るまでで、自分の学力に合った環境をいくらでも選べる
東京出身者は人種のサラダボウル、低収入の見本市たる公立中で生活をしなくていい
アホに合わせて勉強をしなくていい
私立は学区に一つ、公立に落ちたときの受け皿という程度でそもそも併願という概念がない
東京は私立でも細かく段階的に学校があるし、公立と合わせて同じ学力帯でも選択肢が多い
子供を東京へ送り出すのに必要な費用で、習い事をさせてもらえたかもしれない
やったからと言ってプロになれるわけでもないだろうが、やった分だけ色んな場面で世界をほんの少し楽しみやすくなる為の踏み台にはなっただろう
用意された環境で伸び伸びと世界を満喫してるこいつらと、何かを拗らせて世界をつまらなくしてる自分
東京出身者の通ってる大学を聞くとこの先の就職で俺が逆転することもなさそうだ
もし東京出身だったら…
ほんの少しいい大学に通えて、ほんの少し楽しく毎日を過ごせたかもしれない
「中高一貫だったんでー」
日常会話を重ねるたびそのほんの少しが心底恨めしい
産んだら不幸になるからが水子芸とかいう謎論法。産んだら存在してしまうので水子じゃないんだが産まれた子供と産まれなかった子供が同一だというキチガイ理論を垂れ流すクソの子供ってキチガイになりそう。
産んでないんだから一休さんの虎とか言ってる阿呆もいるけど、存在しうる存在を現実には確実に出てこない虎にたとえるって相当頭悪いぞ。それを言うなら存在してない産まれなかった子の意志なる概念を持ち出してる方に言うべき。
トラバまとめ
http://anond.hatelabo.jp/20170305212416
http://anond.hatelabo.jp/20170305215044
はい?たとえば遺伝が確実な障害を持ってるのに産んだら、環境が悪いのに産んだら、不幸になる確率は健常者よりも高いよね?^^
これは社会学や生理学や遺伝学で証明された事実なので、きみらがわーわー喚いたところで、何の意味もないですよ?
健常者や現在勝ち組に入れた障害者等の側の人間が、努力や認識でぜったいにぜったいに幸福になれるもん!とか喚いてるのって、典型的な感動ポルノだよね笑
努力や認識で幸福になれる~という期待を勝手に子供におしつけて産むのは虐待と言っても過言ではない。
幸福にできる可能性が低いなら、産まないという選択は必然だよね。
☆脳ミソ腐ったクズトラバがまだ喚いてるのか笑http://anond.hatelabo.jp/20170308165310
最初にセリグマンを持ち出して低所得など外部環境では不幸かどうかは決まらない!遺伝子でほとんど決まるんだ!と熱弁していたクズが。
「不幸かどうかは幸福を感じやすい遺伝子という要素で50%決まる」という議論があるけど、この命題が正しければ一般人と発達障害者など不適応者のうつ病にかかる率は同じでないといけない。しかし、実際は後者の方がうつ病にかかりやすい。つまり「不適応者は幸福を感じやすい遺伝子が低い傾向にあるので不幸になりやすい」か「不適応者は幸福を感じやすい遺伝子を持っている場合があるが、それ以外の二次障害で不幸になりやすい」である証明がなされた、ということになる
こうやって論破された途端に、外部環境でも不幸は決まるかもしれない!とか言い出す議論にもならないゴミ笑
しかもさんざん可能性が上がるという話と高いという話は別だぞと言ってきたくせに、可能性が上がるから~とか言い出しててワロタ
☆以下の消えたトラバで「不幸かどうかは幸福を感じやすい遺伝子という要素で50%決まる」という議論があるけど、
この命題が正しければ一般人と発達障害者など不適応者のうつ病にかかる率は同じでないといけない。
つまり「不適応者は幸福を感じやすい遺伝子が低い傾向にあるので不幸になりやすい」か
「不適応者は幸福を感じやすい遺伝子を持っている場合があるが、それ以外の二次障害で不幸になりやすい」である証明がなされた、ということになる。
さらに50%以外の要素は、人間関係など、不適応者が苦手なものなので、より不幸になる確率は高いといえる。つまり、「他人が幸福になれるかどうかは、わからない。」、「 子供とはいえ他人の幸不幸を判断し得ると考えるのは愚かだ」という主張は間違いだといえる。また、トラバに対する反論をまとめておく。
・下層ですら適応できずに苦しむ可能性が高いなら産まなくていいってことですね~
次にサービス業が増えた現代では下層でも感情労働しなきゃいけないのでストレスたまりっぱなしで大変ですね~
体力仕事だと30代後半で詰みが見えるね~
特に発達障害者は身体性が低かったりストレス耐性が低かったりするから難しいですよね~
下層で適応できてるって、要は諦めで現在の快楽に逃避してるだけでしょ?
不幸になる確率が高い子供に感動ポルノを期待して不幸を味わわせるのってマジで可哀想
・幸福になりやすい脳があっても仕事や人間関係が人生の大半なのでそこに不適応を起こしやすい遺伝子の結果、ストレス値が高くなるので不幸につながる
他にも発達障害は特にフラッシュバックが起こりやすいなど不幸を感じやすいというデータがある
・某さんの依拠してるであろうセリグマンは人間関係の重要性について謳ってるしね。
人間関係不適応になる確率が高い人間は不幸という指摘をしている俺の主張を補強するものだ。
また、セリグマンは不適応なうつ病や統合失調症の遺伝率は幸せを感じる遺伝子の遺伝率よりも高いと本のグラフで提示していた。
・うつ病患者も不幸な子供を産む確率が高いという点においても俺の主張を裏付けるものだね。
・人生の大半は仕事や人間関係である以上、それに適応できなければ不幸になる確率が高いのは当然。
その場合に環境や遺伝が大きい影響があるというのは学術的根拠がある。
努力や認識論に持ち込むのは健常者や既に適応済の人間の感動ポルノにすぎない。
学術的に不幸になる可能性が高い親がいるという事実は否定できません。
あの作品がアイドル=カワイイを脱却できていると思う点は大きく二つある。
ひとつは、主軸として「(私達で)終わりにする」物語だというところ。
カワイイという他人に媚びた、というと言い方が悪いが、他人のウケに依存する状況を続けていると、
どうしても商業的になってきてその「カワイさ」を演じ続けることを強いられるようになっていく。
それは現実的に考えても辛いことだし、アニメとはいえ女性も人間、歳をとり成長し進学就職していくもの(=ずっと一緒には居られない)というリアルな思考が、暗黙的にキャラクターたちにも存在していた。
そこで彼女たちは、アイドルという青春を引き伸ばす道を選ばずに、作中にして若干1年、現実の声優ユニットとしても5年で「おしまいにした」。
それも、人気の絶頂の最中でその決断を、予め意図したとおりに断行した。
その振る舞いには、これまでのアイドル文化に対して投げかけるような強烈な思想を感じる人もいるだろう。
作中のライバルグループは、メジャーデビューして続けていくことを選んだが、
彼女らはそれを否定するでもなく、「私達がどうありたいか」という思考を大切にした。
その思考について、本編だけでなく劇場版の過半をそれに割いてまで、伝え続けた。
そういうところが非常に現代的だと思うし、観る者に旧来のアイドル観からのアップデートを促すようにも感じられる。
ふたつ目は、作中における「カワイさ」の表現について、あくまでも彼女ら自身の「カワイイ」観・美意識に基いているところ。
パフォーマンスを自分たちの手で、裁量で、決定し作り上げているというところから、現代的な感覚に寄り添う配慮がみられる。
そもそもアイドル活動を部活という設定にしたところからそうだけれど。
もちろん美少女もののメディアを原点にした作品だから、彼女らが自発的に表現した「カワイさ」自体が男性ウケに寄せてあることは否定しない。
けれども内発的に行動している設定にすることで、「やりたくないけどウケの為にやらされる」ような見る側も心苦しい媚び方を見せなくてよくなった(少なくともアニメ上では)。
それどころか、彼女らの美意識に従えば、それの転び方によっては「ウケは悪いが独特な自己表現をするグループ」になっていたかもしれない。
実際に作中で迷走してロックバンドKISSのコスプレをしだす一幕があったほど。
ともかく、そうした主体的に行動するウーマンパワー的な土壌を作っておくことで、女性視聴者も作品を受け入れやすくなった。
結果として「一見男性向け作品なのに女性ファンも非常に多い」コンテンツとなった。これも今時のヒットコンテンツではよくある現象だ。
ちなみに、この「自分たちがカワイイと思うことはやるけど、そう思わない(嫌な)ことはやらない」という、
女性アイドルら自身の尊厳を守るというかパフォーマーとしての意志を尊重する動きは、大手に属さずにアイドル的な活動をする現実の若者にも広がっており、
もはや今の若者はそういうグループしか応援しない、と言うと大げさだが、そういう審美眼はちゃんと持っている人が多い。
他のアイドルアニメ作品でもそういう思想は共通していて、例えばアイドルマスターシンデレラガールズも、
アイマス作品は土壌としてファンを大切にする文化があるにもかかわらず、アニメでは「ファンの期待に応える」ような描写はほとんどなかった。
描かれたとしても「ファンはいつも支えてくれている」というような、受容の存在として描かれていて、ファンの期待や要望の圧力に従うような描かれ方はしなかった。
その一方で何が描かれたかというと、一貫して、アイドルたち自身の内面の成長が描かれた。
ただ、外面からの圧力がなかったわけではなく、それはプロダクションやTV局側の方針との衝突いった形であらわれており、
それと折り合いをつけながら、けれども自分の守りたい個性や魅せ方も守っていくあり方を、
周囲の支援のなかで「彼女ら自身が」見いだしていく、という大筋になっている。
やはりラブライブと同様に、いい意味で「内輪で閉じている」のだ。そしてそれを良しとしている。
まるで、この世界のプロデューサーの仕事は、個性的な人たちの自己実現を助けることが主で、
その過程で生まれるキラキラをパフォーマンスという副産物に変えて売っているかのよう。
そして、「それは創作上だからこそできる綺麗言だよ」とはもはや言い切れない時代だと感じる。
自分たちがやりたいようにやるから、共感してくれる人はついてきて。
そういう思想をベースに、角が立たないように上手にやっていく。
もちろんそういう風潮にもマイナス面は当然ある。
商売に長けたプロデューサーに主体性を奪われないために、アイドルら自身にセルフプロデュース力が求められる。
成功するグループとしないグループの差はより残酷に可視化される。
けれども私たちは、往年のアイドル文化を作ってきた人たちが、丸坊主にしたり惨めな謝罪会見をさせられたりと、もっとむごたらしいものを見てきた。
だからアイドルが主体性を取り戻した「パフォーマー」に変化していくのは時代の流れだし、そういう価値観を含む創作がヒットするのも必然のことだと思う。
かつてのオタク文化の評論などで有名になって文化人を気取っている40、50の方々は、やはり頭がカタくなっておられて、
あまり最近のアニメ、とくにアイドルアニメなんかについて好意的な評をしない、どころか言及すら嫌がるレベルで卑しめがちな感じがする。
経団連が発行する「採用選考に関する指針」では、以下のような文言がある。
http://www.keidanren.or.jp/policy/2016/081_shishin.pdf
学生が本分である学業に専念する十分な時間を確保するため、採用選考活動については、以下で示す開始時期より早期に行うことは厳に慎む。
ところが3月前の時期であっても「インターン」や「OB懇談会」なる名のもとに事実上の採用選考を実施しているのが実態である。結局早く洗脳した者勝ちなので、年末から動いているところすらある。たちが悪いのは共同研究のための訪問を装って、その実は研究にはまったく興味はなく、学生へのコンタクトが目当てであるような企業。恋愛でもこんな見え透いたアプローチは成功しませんよ。世の中には経団連会員ではない企業もあるし、指針には何の法的根拠もないので、「採用選考に関する指針」は事実上形骸化している。そんな中、真面目に指針を守っている企業は偉いのだけど、学生確保という意味では確実に出遅れている様子。完全に正直者が馬鹿をみる世界である。
そしてこの日記で問題にしたいのは企業の人事部社員や、人事部配下でリクルーターを任されている若手から中堅の社員はおそらく以下のことをまったく考えたこともないであろうということ。
専門性を追求するために大学院に進学した学生が一番力を発揮できる時期に「就職活動」に無駄に忙殺され、研究活動がまったく進まなくなる。そしてそのことに頭を悩ましている大学教員は少なくないのである。今の時期教員仲間と会話すると、この話題がため息混じりに出てくる。
就職氷河期は過ぎ去り、就職率は大幅に改善したというのに学生は企業の採用情報や学生間の情報に踊らされ、必要以上に就職活動に没頭し、長いと半年近くも研究や学業から一切手をひいてしまう。かくして本来であれば大学院在学中に成果が出たであろう研究は停滞し、結局修士課程を修了するまでに大きな成果を得ることはない。ましてや博士進学などをじっくり検討する時間的猶予すらない。せっかく時間をかけて研究のシードを育ててもこれではまったくの徒労に終わってしまう。そして学生からしてみれば大きな成果に向けて十分に時間をかけて日々積み重ね、最後までやりぬくという一連の経験を得る機会を喪失する。もう少し大きい視点で言えば国の研究開発力を測る尺度の一つである、論文数も減ってしまう。
そんな悩みを抱える大学教員に対して「OB懇談会」と称して部屋の予約や学生の確保などをお願いしてくるあどけないリクルーター達がいる。学生から貴重な研究・学業活動の時間をとりあげた上、さらに教員に採用活動の片棒をかつげというのである。お願いする方はちょっとしたお願いしているつもりだろうけど、依頼を受ける側は複数企業からお願いされるので、その対応に追われる。そして本来は研究を進めてほしい学生に向かって就職活動のために時間を割いてほしいと頭を下げるという何とも欺瞞に満ちた行動を迫られるのである。そんな昨今の採用活動事情に対して苦々しく思っている教員は少なくないことを知っておいても良いと思う。言われるがままに業務を遂行しているリクルーターではなく、裏にいる人事部に届いてほしいもの。
悪いのは一体だれか?企業の人事部だけが悪いということは決してない。根本的な問題は、企業が高等教育機関である大学に期待していないこと、そして学生も大学に期待していないことにある。結果として大学は社会の期待に応えていない。このあたりは下記の考察が良くまとまっているのだけど、一言で言えばシステムに問題がある。
http://toyokeizai.net/category/japan-university
海外の大学と日本の大学のシステムを比較すると恐ろしく事情が異なっているので、愕然としてしまう。例えば下記の書籍を参照するとそれが良くわかる。世界最高の大学教育システムを確立したアメリカで問題がないわけではないのだけど、日本の大学システムの問題は更に根深い。
アメリカの大学の裏側 「世界最高水準」は危機にあるのか? (朝日新書)
これでは技術競争で負けるのも必然。負の連鎖が断ち切れない限り、国際的に通用する充実した研究教育は成し得ないし、研究開発力や発信力に関して海外との差はますます開くばかりだろう。昨今の採用活動を見るにつけ、この負の連鎖の根深さを感じずにはいられない。
これから先、社会に出て、つらい仕事をやり続けて、しかもそれが50年も続く。
リストラ倒産はあたりまえ、新しい仕事を探せばスキルが通用するケースは少なく、警備員や倉庫でみじめに働くしかない。
そんな人生を他人である子供に味わわせたいと思う?っていうことなんじゃないの?
人生はツラいのがあたりまえ!貧困なのは自己責任!(おまえの今までの人生なんか知る気はないけどwww)最近のゆとりは頭が悪い!
その上、お金がないんだとしたら、尚更産まないのは当然だ。
そういうことを考えたことがないのは、優秀でお金持ちな人か、なんにも考えずに産みたいから産むって後先考えない人かのどちらかで、
子供のことをちゃんと考えれば、産まないという選択肢はそういう人たちにとって必然なんじゃないのかな。
追記
戦後世代が貧しくても産んだのは子供のことなんか考えてなかったからだよね。
遺伝や環境なんて最近わかったことだし、生きづらい社会になったのは最近だから、
負け犬の親が悪いとは思ってないけど、
今わかってる以上は産まないのが正しい選択だーって思ってる人はある程度いるんじゃないの?
総意ではない!とか言ってる人いるけど、俺は総意だなんて言ってないよ?
こういう人が増えてるんじゃないのって話だから。
「お金がないだけでほんとはみんな産みたいに違いない!」はただの幻想じゃない?っていう。
何を言ってるのか意味不明すぎて笑える。
生きづらい世の中+能力は環境や遺伝によるのだから能力が低い子供が生まれる可能性が高い
=産んだら子供は不幸だなー
負け犬だから作れないだけ!って罵倒してすっきりして現実逃避っすかw
成功した人以外は努力してないってことになるお前の論理では努力しても無駄だった連中は子供を産まないのは当然だと思ってるってことだねw
努力不足を子供のせいにーに至っては遺伝や環境の影響や世を生きづらいと感じてる人がたくさんいる現実を無視して、無理やり産んだ子供にすべての責任を負わせようとするクズの思考だよねw
たぶんこいつ、好き勝手産んどいて、子供が大人になって生きづらそうにしてるから、俺のせいじゃないもん!って言い張りたくて仕方ないんだろうなw
現実見えてなさすぎの意識高い系はこの人とスターつけてる人じゃないの?
↓
親が悪い、親がしつけしろ、親が監視しろ、親の資格なし、親がバカだから、親の責任、こんな親の元に生まれた子供がかわいそう、子供は親を選べない
↓
少子化不可避じゃね??
昔は地域社会やコミュニティ、もしくは親以外の家族がサポートする役割を担いつつもしがらみ地獄だったかもしれないけど、あまりにも親の責任を強調しすぎていてこの状況で子供産もうって輩は無計画中出し組以外ありえなくね?まともな人間ほど避けるよな?子供産むのは困難でありリスクでしかないから。少子化はよく経済問題だって言われるけど、教育費とかかかるのもその通りなんだけどそれ以外に親がそれだけの責任を背負えないっていうのがあるんじゃない?女手一つで育てたとかよくやったと思うけど、よほどの人格者でないと子供はまともに育たないし、普通に考えて誰の世話にもならず公的補助も不十分で保育所にも入れらなくて働きながら自分以外も食わせていかないといけないとかマゾゲーでしょ。無計画中出し組の猿以外は最初からその道避けるでしょ。今の状況で少子化は必然だって。金だけの問題じゃなくて責任の問題。余裕なさすぎ。かといってしがらみ地獄に戻すのは人類の退行現象だし、理想的なモデルはフランスや北欧みたいな国家による育児補助型の社会福祉なんだろうけど、日本はジジババの対応に必死で構ってられない。社会全体で子供を育てていこうって気概があまりにも無い。親が悪いっていう態度が残る限りこの国は子供を育てることに真面目に取り組まないし、子供生むこと自体が苦難で有り続ける。逆に言えばそんな状況でも子供産んで育てられるってのはレアな幸福享受だとも言える。もはや子供を持つのは責任能力の高い金持ちと中出し組の特権だね。
すると高スペックな女性と低スペックな男性が市場からあぶれるのは置いておくとして、
出来上がったカップルは高スペック男性&低スペック女性になる訳で。
今回は裏サンデー
後半の漆原と心葉のやり取りがディスコミニケーションのお手本みたいで、不覚にも笑った。
円滑なコミニケーションにおいて重要なのは、多義に渡りやすい言葉の解釈を当事者たちで同じにしたり、軌道修正を細かにすること。
やり取りをする人たちで個人の事情だとか価値観だとか、前提の共有が成されている必要があるんだけれども、それをすっ飛ばすとグダグダになりやすかったり不和を生じやすい。
大雑把に言えば、伝える努力と理解する努力の両立が大事なんだよね(もちろん当事者たちがコミニケーションを求めていなければ話にならないけれども)。
漆原と心葉は互いのバックボーンを知らない上、その状態で話を進めたもんだから、ああなるのは必然だった。
モデルの件で心象が悪くなっているから、解釈の軌道修正をする余裕が心葉にはなくなっているし、漆原は言葉足らずなせいもあって逆なでするような発言を繰り返すし。
ラブコメっぽい感じは出しつつ、妙な警戒心を抱く描写がちょいちょい入るのは、あくまでスカしだってスタンスで読んでいいのだろうか。
穿った見方をするなら、ラブコメの差別化を図った結果よく分かんないことになっているのかと邪推してしまう。
そのあたりの方向性が定まっていないせいなのか、テーマと構成は一貫しているのに、表現だとか演出に何だかチグハグさを感じる。
当然、意図してさせているってのは分かるんだけれども、そのキャラがなぜそういう喋り方かっていう説明がないから軽薄だと感じてしまう。
例えば、吹き替えとかで日本の地方の訛りで喋っている登場人物がいたら、その役者や登場人物の元の喋りが訛っているが故の意訳とか、そういう妥当性はともかくにしても何らかの理屈が欲しい。
確かに多いと感じる、
それに対して「調子に乗るな!」「恥を知れ!」的な発想は、いかにも日本人らしくも感じます。
しかしその批判はどれも表面的で、子供の感想文の様な稚拙さを感じます。
その時に何があったかと言えば、それは
日本中に衝撃が走りました、しかしそれは世界中にも衝撃が走りました。
そして日本が驚いた事、それは「何で台湾が一番寄付金が多いの?」でした。
台湾で日本がとても尊敬され、とても愛されている事を日本は知りませんでした。
でもその他の多くの国で、多額の寄付や援助、深い祈りを日本に向けて捧げてくれていました。
世界中で著名なスポーツ選手や文化人、アーティストなども一斉に心配や祈りをささげるメッセージを発してくれました。
その事を連日の報道で見聞きする中で、自分の周りの友人知人の中から少なからず出てきた言葉が、
昔、日本は戦争で世界中に迷惑をかけたと、教育でも大人からもそう聞いていました。
バブル期には、アメリカへの自動車の輸出やアメリカの不動産の買い占めからジャパンバッシングが起こり、
その連日の報道はまるで、世界中から日本が嫌われているかのような内容でした。
日本の働き方はアリだと揶揄され、七三分けに出っ歯にメガネが同じスーツ着て一斉行進、
それがジャパニーズビジネスマンスタイルだと風刺されているという報道に
天皇万歳は悪い事、日本万歳は悪い事、また昔みたいに迷惑かける国になるから。
多くの国で日本を手本にしようとしている事を知りませんでした。
日本は世界中に、いろんな形で寄付や援助を戦後から長くしており、
その事に心から感謝している国も多く存在している事を知りませんでした。
日本の終戦後、アジアの国の独立の為に現地に残り、戦い続けた日本兵が
何千人もいて、その事に感謝をしている人たちがたくさんいる事を知りませんでした。
嫌われ者の日本と思っていたのに、世界中に感謝や尊敬をしている国がある事、
それが震災の時の寄付や支援で、日本がこんなにも世界と繋がっていたことに戦後初めて気が付いた。
そんな時でもあったと感じます。
今の「日本はすごいんだ」という番組がもてはやされているのは、
そんな「日本は世界の嫌われ者」と永く感じながら過ごしてきた、その反動だと感じています。
ただ、戦後初めての事なので、世界との距離感がまだつかめていないのも事実でしょう。
なので「日本人馬鹿じゃね?」と世界から思われるのも必然だと思います。
そうやって距離感を学んでいくのでしょう。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
例えば、君が大人になったとき、自主的に行う習い事は役に立つものだろうか。これは半分YESである。なぜなら学校で習う勉学とは違い、その習い事は君が役に立つと思って勉強しているものだからだ。だが、なぜ半分はNOかというと、例えばパソコン検定1級だとしても、それで培われたスキルを使えるような機会がなければ、君が役に立つと思っていてもそれは事実上「役に立っていない」のである。仮に活かせる機会があっても、それがなくなった時点で「役に立たなくなる」。つまり「役に立つもの」とは、それ自体は役に立つかどうかは決まっていないのである。
そして人格が成熟するにつれて、「役に立つ」というものが恣意的かつ限定的な意味合いを多分に含んでいることに気づくのだ。環境、自身の置かれる立場、自分のやりたいこと、という前提のもと「役に立つもの」を決めているのである。側面が変われば役に立つものが変わるのならば、様々な事柄を習う学業がほぼ役に立たない、或いは役に立たなくなるのは必然である。
だが、それを踏まえると、学歴社会というものはある意味で実に分かりやすい。勉強の内容が(活用できるという意味合いで)役立つかどうかはともかく、それに対してどれだけ頑張ったかという大雑把な実績で測られるのだ。本来、限定的かつ恣意的な「役に立つもの」を、より汎用的なものに仕立て上げている。その観点から見れば、学業は役に立っていないにも関わらず、事実上はとても役に立つものなのである。何が役立つか、何を役立てるべきか、何を役立てたいか分からない、意志薄弱で未成熟な人間にとってこれは案外悪いことではない。
というわけで、質問の答えとしては「学校で習う勉強が役に立つかどうかはともかく、悪いようにはしない」といったところだ。もちろん、より限定的かつ恣意的な“役立つもの”の前では霞むが。なので何かを見据えて、自分にとってよりやるべきことがあると信じているのならば、それを最適化するための「役立つもの」を手に入れようとすればいい。もし、そんなものは特に思いつかず、ただ目の前から逃避したいだけでそんなことを言うのなら、ぶつくさ言いながらも勉強したまえ。
なあに、仮にそれらが無駄になってしまっても安心するがいい。側面によって「役立つもの」が変わるのならば、いずれにしろ大多数の人間は培ってきた「役に立つもの」を、実質わずかしか役立てていないことになる。勉学問わずほとんどのものは「役に立たないもの」なのである。
イエス・キリストを殺した罰として、イスラエルの部族の肌を赤くしたのが由来だ。
キリストがアメリカに爆誕したのは有名だが、なぜアメリカにいたかというのもそれが関係している。
当然、信心深い人間は啓示を受けているので、これを知っている人は多いと思うが。
私はクリスマスの予定を体よく誤魔化すためにユダヤ教ではあるが、やはり神というものは地元密着型の方が親近感が沸くのだろうな。
食いぶちをほかの生き物の数に握られてるって生存戦略としてどうなのって感ある
だからさあ、つきつめると日本人は全員死ぬべきってことになるんだよ。
ビジネスのやり方がイケてない。
これらは結局、そういう商業活動をのさばらせてしまう日本人全体の問題。
何が足りないのかというと、一言に集約される。
「思想」。
「政治経済リテラシー」と言い換えてもいいんだけど、根源的には思想だ。
だから日本に思想のパラダイムシフトが起きない限り、日本の商習慣はまともにはならない。
いや、ほんの少しずつ改善されていくかもしれないが、僕らが生きてるうちには無理だね。
個々の若い労働者がボトムアップで既存の空気を突き破っていくことなんて期待できない。
個々の企業のトップを「リテラシー高い」人に変えていったとしても、望み薄だろう。
結局談合して、低きに流れるのが、日本の思想からくる必然だからだ。
となると政治のトップに奇跡的に「ある種のリテラシー」が高い人が立つのを待つしかない。
トップが先陣切って「古い人間」を「切り捨て御免」しまくって、恨まれ役を買う必要がある。
それでなおかつ、恨む人間が少数派であるような空気を作らねばならない。
そんな人間は出てこないどころか、政治への興味が薄れている有様。
もう詰みだね。
読み返してみたら「我ながら何書いてんだ」と思ったけれども、たくさん書いて勿体無かったので投稿しておく。
けれども一大ジャンルにのし上がり、隆盛を極めようとしているのは現代だろう。
今回は関連する作品をいくつか挙げつつ、食漫画について考えてみようと思う(グルメ漫画と表現しても便宜上問題ないかもしれないけれども、一応は食漫画で)。
挙げる作品に偏りがあることは容赦して頂戴。
差別化においてよく成されるのが、「食べ物のジャンルを絞ったり、特殊にする」ことだ。
『お嬢様はアイスがお好き』のアイスや、『サチのお寺ごはん』は精進料理。
『ほおばれ!草食女子』の草など、挙げていったらキリがない。
他にも“空想系”があるが、それに関しては気が向いたら語る。
ここで主張したいのは、食べ物のジャンルだけで絞ってもかなりの漫画が今はあるということ。
食漫画は大きく分けると「作ることに比重を置く」か、「食べることに比重を置く」かで、そこから更に様々な要素を付加して細分化されていく。
現在のイメージとしては食べることに比重を置き、料理を作らない漫画の方が盛り上がっているように見えるが、作ることに比重を置いた漫画が少ないかといえばそんなことはない。
『マンガ家 夜食研究所』や『カマドニアン』といった、作り方まで詳細に説明している実用性重視ものも今なお定期的に出てくる。
そこまで行かなくても、『甘々と稲妻』や『新米姉妹のふたりごはん』など、作ることに比重を置いた作品は多いのだ。
なぜかFateシリーズと組み合わせた『衛宮さんちの今日のごはん』といった節操のないものまであるが、教養漫画に人気アニメや漫画のキャラが登場するようなものなのだろうか。
『めしにしましょう』は初回から浴槽でローストビーフを作ったりしており、『桐谷さん ちょっそれ食うんすか!?』はゲテモノの調理というインパクトで引き付けてくる。
また、そういう作ることの極致ともいえるのが、いわゆる「料理バトル」だ。
一見するとエキセントリックに見えるプロットだが、エンターテイメントの基本は非日常性にある。
人間にとって身近な料理というものを娯楽漫画に仕立てあげるのに、そういった表現はシンプルな答えであり、必然なのだ。
料理を作らなかったり、調理工程をほとんど描写しない、「食べること」に特化した漫画も多い。
代表格は何度もドラマ化までされている『孤独のグルメ』であることは間違いないと思うが、あれは原作が10年以上も前に世に出て、近年ブレイクした結果新作が発表された希有な例でもある。
最近のだと、初めに挙げた『ごほうびおひとり鮨』、『メシ鉄』などもそうだし、他には『ヒメの惰飯』や『君花さんのスイーツマッチ』とかもある。
あと『ワカコ酒』もそうだし、『おとりよせ王子 飯田好実』なんてのもあったっけ。
さて、このテの食べることに比重を置いた漫画にありがちな要素は何だろうか。
真っ先に思いつくのは、“メシ顔”である。
食べ物を目の前にしたとき、食べ物を食べたとき、食べたあとにする“あの顔”である。
『エンターテイメントの基本は非日常性にある』と前述したけれども、当然これは食べる際のリアクションもである。
エンターテイメントとして、“メシ顔”は漫画の視覚的表現として実に分かりやすいのだ。
例えば『鳴沢くんはおいしい顔に恋してる』の主人公は、女性が料理を美味しそうに食べている時の顔(メシ顔)が好きという設定である。
『めしぬま。』なんて、食べているときの主人公の恍惚の表情がテーマという開き直ったプロットだ。
余談だけれども、欧米には「フードポルノ」という俗語があるらしい。
これは「感動ポルノ」みたいな「ポルノ」の使われ方のようであり、何もセクシュアルな要素が含まれていることを指している訳ではない。
しかし、実際にセクシュアルな要素まで主体にしてくる食漫画もあるのだから笑える。
長い間いじめられて来た姉妹兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによってなされた私たちのための運動が、何等の有難い効果をもたらさなかった事実は、それ等のすべてが私たちによって、又他の人々によってつねに人間を冒涜されていた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を大事にしながら消し去るかの如き運動は、かえって多くの姉妹兄弟を堕落させた事を想えば、この際私たちの中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、寧ろ必然である。
姉妹兄弟よ、私たちの先輩は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった。陋劣なる分断政策の犠牲者であり人間らしき職業的殉教者であったのだ。親密なる刻を与える報酬として、生々しき親密な情の誠を剥ぎ取られ、心の渇きを潤す代価として、暖い人間の心を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪われの夜の悪夢のうちにも、なお誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして私たちは、この血を享けて人間が神にかわろうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。
私たちは、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、先輩を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を大事にしながら消し去る事が何んであるかをよく知っている私たちは、心から人生の熱と光を願求礼賛するものである。
性労働社(仮)は、かくして生れた。
人の世に熱あれ、人間に光あれ
某年某月某日
完成に向つて突進す
ボクの考えた系(笑)のセックスワーカーエンパワメント私的提案です。御笑覧を。
大前提として、2016年紅白は近年まれに見る失敗回であり、大敗北だった。「いやいつもつまんないでしょ。今回だけとか騒ぐのセンス悪すぎ」というあなたは正論だがフシ穴だ。
ここ数年、マンネリ紅白は、それでもなにがしかの爪痕を残していた。「千の風」など販売面での掘り起こし、サザン、長渕などのサプライズ、Perfume、金爆、ももクロに代表される抜擢人事、あまちゃんオールスターズなどNHKならではの組閣などなど。
で、2016のこの無風具合はなんだ。
なんだといえばこれは、会社組織でもストーブリーグでもなんでもいいんだけど、典型的な「世代交代の失敗」である。
高報酬の高年齢層をリストラし、未知数の若年層登用を止め、見た目の効率のいい中年層とコネ人事で固めた結果、全員が自分の数字と派閥の力学しか見ない「無責任モード」になってしかもそれが悪い方向にしか働かなかった。
よく見すぎる失敗。
北島三郎、鳥羽一郎、和田アキ子、小林幸子、美輪明宏そしてSMAP! こういったハイレイヤーのいわゆる「精神的支柱」機能を甘く見積もりすぎ。
サブちゃん祭りしかり、ジャニ勢だって「最後はSMAPさんが」という心づもりがあってこその馴れ合いが可能だった。
高年齢層のリストラは必然だし粛々と進めるべきなのは確かだが、それにしたって0にするのは急すぎた。
五木はAKB喜び組で満足しちゃってるし、美輪明宏代役の大竹しのぶにしても、幸子代役の三森にしてもアッコ2.0のAIにしてもまだカリスマにはほど遠かった。
そして「新しい血」登用の停止だ。
お気づきだろうか。今年アニソン/声優枠は0、ネット枠も0、V系枠も0、アイドル新規も0だ(RADとXは勘定に入れづらい)。
近年の紅白の下がり続ける価値を、辛うじて上げ方向に下支えしてきたのが彼らだ。「他人が憧れるものに人は憧れる」。「紅白」を「オーヴァーグラウンド」の象徴としてとらえ、いまどき珍奇なことに「紅白に対する憧れ」を冗談でも口にし、紅白出場をフリでも盛り上げてきた彼らの功績を全切り捨てした罪は、単純に「驚きと喜びの低下」として番組に表れた。
後に個別に触れるので、軽くにとどめるが高中堅層のプロモっぷりはひどかった。低中堅層のフレッシュ、冒険の少なさっぷりも。
巷間ささやかれる「リハ不足」はいつものことだ。これはさらに大元の、個別の企画力の低さが原因だ。
前半出番のぶった切り編集演出は大成功だった。新曲初披露というフリを経ての「期待の裏切り」「紅白という『枠』のメタ視」「フレッシュさ」で群を抜いており、TVギャグとしても定番が故の爆笑があった。
そして圧巻は後半のPPAPフロイデremixだ。前半の原曲で「いかんせん大舞台には音薄すぎで向かないよね」との印象をすべて覆す音圧。
そして前半のアッちゃん絡み、タモリ絡み、ゴジラ絡みと、2016紅白の演出側ストーリー全てを引き受けたカタルシス(大したものでなかったとしてもストーリーは必ずカタルシスを生む)。
フレッシュさ、裏切り、時代感、引き受け具合、芸としての確かさ、音楽の喜び、笑い、めでたさ、我々がNHK紅白に求めるすべてがそこにあった。
文句なしの「今年の顔」。
ワンショットがMVPを取ってしまうのは、チームとしての紅白にとってもちろん悲劇でしかない。
サプライズという意味ではあれだけガッキーに振っておいてあの体たらくは、座組み側の失策。きっちりガッキーをキャスティングできていればMVPだった(あの恥じらいながらしょうがなくやらされるのがタマラン!というご意見は共感するが、マニアの見立てだ)
芸の確かさを見せた。
AKB五木以来、近年紅白演出が気に入り始めている「ソロ+応援出演」とかいうクソ手法を、本物の芸と華で打ち返し、格の違いを見せた。
子役とかソロダンサーの人は残念な見栄えだったが演出側が悪い。
周りが凹みまくる中、アンセムを堂々とやりきった。
This is 歌番組というセット、演出、選曲で、この中では逆にフレッシュだった。
ライブパフォーマンス単体として見れば2016紅白最高水準。でもそれ紅白ちゃうよね。
歌舞伎町の女王が西新宿の政治家になりました、という何の面白みもない追認劇。
かろうじて演出はフレッシュさがあったが、楽曲パワーなし。そして演出も結果TOKIOと二回まわしするという貧乏くささで台なし。
いやこれは東宝も新海も悪くないし、庵野組に至っては大変仕事したと思う。NHKなに考えてんの感。
「歌合戦」にワンフレーズもなし、来日ツアー告知だけのケータイ動画とかなめてんのマジで。
毎年なので言うに及ばず。とくに嵐の「政治だねえ」感は周囲の状況もあっての結果だがひどかった。新王誕生の祝賀とは到底見えない。
よりによって「メドレー」と称してデビュー2曲だけかよ。hi hiとかサンライズとかいくらでもあったろ若番なのに引き受け過ぎ。その後も何もないし。
LEDダンサー自体もう数年前の技術だし、「人数ふやしました!」と言われても…
キメの2階席同期ロトスコープ演出もカメラが追えてないという体たらく。
あと満島出すとこまでがんばれよNHK。
映像出しそんなにもったいつけてひっぱらなくてもよくね。新海がサボったのか、バンドが嫌がったのか、いずれにしろエゴの匂い。
無料投票で40万とかヤバくない? 票の実数を出したことで凋落が見える化された。
天人五衰。圧のなさがすごかった。
魔法も何度も見せられれば慣れる、とはいえ今回は福山林檎にすらアイディアで負けててライゾマ何やってんの弾幕薄いよ!ってなった。
そして有村架純は今さらのあまちゃん演出でのん(能年玲奈)代役だったことが判明。地獄。
秋にNHKであれだけ圧巻のステージ見せたのにまさかの中森明菜枠。地獄。
コメント切りのタイミングで「マジか」顔してたのがさらにつらみ。
もちろんSMAPという政治劇に巻き込まれた結果、目論見が外れたというのもあるでしょう。2016紅白は新帝王SMAPの戴冠式になるはずだったのは明白でした。それにしたってリカバリの仕方は他にあったし、それ以外の面でも粗だらけ。
結果、ゆく年くる年後に東京国際フォーラムから放送した生さだのほうが生放送音楽ショーとして5万倍良かったというすばらしい皮肉。さだまさし×岩崎宏美、生バンドバックの「夢で逢いましょう」の多幸感、スペシャル感、客席との一体感たるや、「ああ、年初から思いがけずいいもん見たな」と思えました。
http://anond.hatelabo.jp/20161228200026
荒木はどうも「主人公が敵を殺害する(≒裁く)」ということに迷いがあると思っている。
火山活動という自然の力により宇宙に放出する。殺害にまでは至らない。
ついに殺害。さらに注目すべきなのが、作中に「裁くのはおれの『スタンド』だッー!!」という台詞が出てくること。ここでは明確に主人公による敵の裁きを肯定している(と読める)。
肉体的には事故死、さらに怪奇現象により霊的にも死亡する。それ以前の展開でも、主人公グループの共闘という形で吉良を追いつめており、フィニッシュブローは仗助ではなく承太郎が決めている。以下の台詞にも注目。
永久に死にたどり着かない状態に置かれるが、逆に言うと殺害もしていない。
殺害するが、直接手にかけるのは主人公ではなくエンポリオ。ただ、作中でエルメェスが復讐を正当化する発言をしており、主人公が悪を裁くことに対する立場に迷いが見える。
つまり、結末は以下の3つに分類できる。
(2) ①主人公が②悪役を倒すが殺害までには至らない。⇒ 1部、5部
(3) ①主人公以外の者(自然現象含む)が②悪役を殺害する。⇒ 2部、4部、6部、7部
ここまででとりあえず増田の以下の疑問
でも吉良と決着をつけるのは仗助でなきゃ駄目だろう!!!
に一つの答えが出る。1部から7部までで主人公が決着を付けているのは意外と1部と3部と5部だけ(2部を含めてもいいけど)。主人公が決着をつけないと「駄目」というほど必然ではない。
親目線で考えても乖離してて迷走し過ぎじゃねとしか思わなかった。
蹴ったり殴ったりするのを見せたくない親は最初からバトルものなんか見せない。
プリキュア見せるのは、そういう事を気にしない意識高くない層。
実際に作って食える系のクッキングトイはこの年齢の子が一人で遊べるわけがなく
親の手助け必須で、親にとっては面倒でそんなもの買いたくない。
作り物のおままごと道具なら他にも大量に(キャラ物でないものも含めて)あるので今更。
安いキャラクター菓子やクリスマスケーキなら元々あるし、スナック菓子なんかより価格帯高いであろうスイーツに
絶対不味いし(クリスマスケーキも不味いよなー「親はもっと美味いケーキ食べたいけど、子供が欲しがるから嫌々買う」ものだよねあれ。
クリスマスというイベント日ならともかく、普段からそこまでする親がどれだけいるか)
子供が自分の判断だけで友達にあげられる年齢じゃないし(幼稚園保育園なんかではおもちゃ持ってくるのは禁止だろうしな)
親の判断で大して仲良くもない相手に配るには地雷踏みかねない(「ウチはこういうアニメは見せない教育方針なんです!」とか言われたらどうすんだよ)
配るとしたら「元々親子でプリキュアが好きと分かっていて、かつ親ぐるみで仲が良いお友達」だけだろうし
そういう子は別にこんなもん友達から貰わなくても自分で貰いに行くだろうから無意味。
大人っぽい憧れキラキラアイドル路線だとアイカツプリパラ系にはもう勝てないから低年齢向けに特化したんだろうけど
上の方というと、年長どころか年中くらいでも「子供っぽくて恥ずかしい」となるんじゃないか
となると引っかかりそうなのは3~4歳の年少児だけ?狭すぎて爆死必然じゃね?
としか思えなかった
かつてゲーム体験は価値そのものだった。プレイヤーは良いゲーム体験を求めた。ゲームをしている時間のために金を出した。
フリーミアムはそれを変えた。彼らはゲーム内部の価値に目をつけた。ゲームをプレイすることは、体系内で与えられた多様な物を認識しそれらに対し価値判断を行うことを必然とする。ゲームが新たな価値観を生み、それに合った価値に課金するという(マッチポンプとも言える)戦略が取られた。
新たな戦略はゲームの意義を変えた。ゲームは価値認識を植え付けるための装置となり、ゲームプレイは「労働」に変容せしめられた。「労働」を回避するため人々は動画広告を再生し、金を払った。「ゲームをする」ためではなく「ゲームをしない」ことのために金を出すようになった。
ゲームプレイを「労働」と認識する人たちが、そのために金を出すということが有り得ようか。マリオランはフリーミアム的認識の拡大を食い止めるための必死のあがきとも考えられる。現実世界で人々の価値観を変えるのは、しかし、ゲーム内での価値観を生み出すよりずっと難しい。
■アイドルとしてのパフォーマンスを見て評価するファンは少なく、自分を見てほしいファンが大半
自分の見て来た地下アイドルには、大きく分けて3種類の女の子が居るように思う。
1.地下アイドルを踏み台に、女優や声優、歌手などになりたい子
2.漠然と有名になりたい子
このように、最初から純粋にアイドルになりたくて地下アイドルグループに加入する子はほぼ居なかった。
そのためか、アイドル活動としての歌やダンスに懸命になる子も必然と少なくなる。
特に、事前に振り付けを覚えて来たりする事に関しては、怠惰な子が多くて驚いたのをよく覚えている。
彼女の夢を聞いたことは無かったが、ファンを大事にする真面目で礼儀正しい子だった。
彼女は決してルックスがトップレベルとは言えないが、歌とダンスに懸命に取り組み、ライブでのパフォーマンスの完成度もすごく高い。
1.多少顔が悪く体型が太めであっても、よりファンサービスの濃い子を求めている
2.ライブ中はアイドルが自分を見てくれるようアピールするのに一生懸命で、アイドルのパフォーマンスは二の次
ということがあると感じた。
つまり、彼女が努力してパフォーマンス面を向上しても、ファンの多くは上述の「ファンからチヤホヤされて満足したい子」(=必然的にファンサービスが濃くなる)に行ってしまうのだ。
ファンサービスのより良いメンバーの人気が上がるのは必然とわかっていながらも、すこし切なくなった。
ライブに安くない入場料を払い、特典券のために何枚もCDを購入するファンのことを考えると、
むしろ沢山のお金を落としてもらうため、握手やチェキなどの接触のある特典を前面に押し出す事務所が大変多いと思う。
でも私は、ファンサービスだけでなく、懸命にパフォーマンスしている女の子もしっかり見て評価してくれるようなファンがこの先少しでも増えて、