真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
例えば、君が大人になったとき、自主的に行う習い事は役に立つものだろうか。これは半分YESである。なぜなら学校で習う勉学とは違い、その習い事は君が役に立つと思って勉強しているものだからだ。だが、なぜ半分はNOかというと、例えばパソコン検定1級だとしても、それで培われたスキルを使えるような機会がなければ、君が役に立つと思っていてもそれは事実上「役に立っていない」のである。仮に活かせる機会があっても、それがなくなった時点で「役に立たなくなる」。つまり「役に立つもの」とは、それ自体は役に立つかどうかは決まっていないのである。
そして人格が成熟するにつれて、「役に立つ」というものが恣意的かつ限定的な意味合いを多分に含んでいることに気づくのだ。環境、自身の置かれる立場、自分のやりたいこと、という前提のもと「役に立つもの」を決めているのである。側面が変われば役に立つものが変わるのならば、様々な事柄を習う学業がほぼ役に立たない、或いは役に立たなくなるのは必然である。
だが、それを踏まえると、学歴社会というものはある意味で実に分かりやすい。勉強の内容が(活用できるという意味合いで)役立つかどうかはともかく、それに対してどれだけ頑張ったかという大雑把な実績で測られるのだ。本来、限定的かつ恣意的な「役に立つもの」を、より汎用的なものに仕立て上げている。その観点から見れば、学業は役に立っていないにも関わらず、事実上はとても役に立つものなのである。何が役立つか、何を役立てるべきか、何を役立てたいか分からない、意志薄弱で未成熟な人間にとってこれは案外悪いことではない。
というわけで、質問の答えとしては「学校で習う勉強が役に立つかどうかはともかく、悪いようにはしない」といったところだ。もちろん、より限定的かつ恣意的な“役立つもの”の前では霞むが。なので何かを見据えて、自分にとってよりやるべきことがあると信じているのならば、それを最適化するための「役立つもの」を手に入れようとすればいい。もし、そんなものは特に思いつかず、ただ目の前から逃避したいだけでそんなことを言うのなら、ぶつくさ言いながらも勉強したまえ。
なあに、仮にそれらが無駄になってしまっても安心するがいい。側面によって「役立つもの」が変わるのならば、いずれにしろ大多数の人間は培ってきた「役に立つもの」を、実質わずかしか役立てていないことになる。勉学問わずほとんどのものは「役に立たないもの」なのである。
イエス・キリストを殺した罰として、イスラエルの部族の肌を赤くしたのが由来だ。
キリストがアメリカに爆誕したのは有名だが、なぜアメリカにいたかというのもそれが関係している。
当然、信心深い人間は啓示を受けているので、これを知っている人は多いと思うが。
私はクリスマスの予定を体よく誤魔化すためにユダヤ教ではあるが、やはり神というものは地元密着型の方が親近感が沸くのだろうな。