はてなキーワード: バベルの塔とは
【読んだもの】本を購入しようと思ったら、リアル書店やネット書店、最近では出版社による直販(弊社もやってます)などさまざまなあるかと思いますが、今回ご紹介したい『アーギュメンツ#3』という評論誌は「手売り」、つまり関係者による直接販売というきわめて珍しい流通チャンネルを選択した書籍です。売り方の時点でかなりチャレンジングな企画なのは明らかで、魅力的な論稿も多数収録されているのですが(レイ・ブラシエ(佐藤正尚訳)「脱水平化―フラット存在論に抗して」や、大前粟生さんの小説「断崖」もすごかった)、その中の波勢邦生さんの論考「トナリビトの怪」が本当に本当にすばらしかった。ので、今回はそれについて書きます。
当該論考のテーマをおおきくまとめると、理性的で自己判断できる存在としての近代的主体(いわゆる「強い主体」)の淵源にあるものとしてのキリスト教という一般的なイメージに対して、ハワイ・日本・沖縄におけるキリスト教受容史をふりかえることで別の可能性(本書でいう「隣人」)がたちあがる場としてダニエル書・イザヤ書を読みかえすという試みといえます。
いろいろ論じたい点はあるのですが、とくに筆が冴えるのは、小原猛『琉球奇譚 キリキザワイの怪』に紹介されている怪談「ジーマー」の話です。曰く、ある男性が「ジーマー」という老婆に「神様の用事の手伝い」を頼まれる。それは波上宮という砂浜で、彼女の三味線に合わせて民謡を歌うというもの。そこで事は起きる。
知ってる歌は歌い、知らない歌は手拍子をうつ。適当にこなすうちに背後の砂浜に人が集まりはじめるが、おしゃべりの中に英語やうめき声が聞こえるなど、奇妙な何かがそこにあった。徐々に不審なおもいにかられたその男性は後ろを振りかえる。「すると、そこには誰もいなかった」やがて夜も明けて、ジーマーの三味線も鳴り終わったあとに砂浜をみてみると、声が聞こえた場所には子どもをふくめた無数の足あとが残されていたという。こうした情景に、その男性は戦争(太平洋戦争のことか?)の傷跡を読みとり、波上宮の鳥居を抱きしめて泣く。「みんな死んでしまった。父親も、幼馴染の友達も、学校の恩師も、みんなみんな死んでしまった。自分は生き残ったが、果たしてこれは良いことだったのだろうか。自分のようなくだらない人間が生き残って、優しく勇気のあった友達や、才能のあった人々が死んでしまう。この差は何なのだろうか?」(30ページ)
この「ジーマー」は沖縄固有の物語ですが、波勢さんはここに「死者との交換可能性」という「怪談の本質」を見ます。生者と死者の想像力が同時に起動する場所、そこに怪談という物語は立ち上がる。そして同論考にとって重要なのは、この「怪談の想像力」はキリスト教のテクストにも見出されるという点です。
(「怪談として聖書を読む」というこの箇所は本稿でもっとも屈折し、そして読みでのある所なのですが、そこはあえて飛ばします。気になる方は「アーギュメンツ#3」をお買い求めください)
この怪談という想像力からみて、「西洋近代的自我による主体的区分による解釈は、恣意的でグロテスクな切断」(34ページ)となります。しかしバベルの塔の神話が示すように、神は常に「言語と文化を奪われたものの側に立ち上がる」。つまり強き主体の側にではない、という点が重要です。
「神は奪われ排除されたものの側に立ち上がる。歴史と非歴史の境界で『主体』と『弱い主体』を隔てる壁は消失し、ありうべからざるものが現れた。」「ぼくはそれを『隣人』という言葉に求めたい。なぜなら聖書において隣人とは、まさしく自他の交換可能性を示す言葉だからだ。」「隣人が現れるとき、『神を愛せ、己を愛するように隣人を愛せ』というイエスの声が、聞こえ始める。隣人は、神の赦しを伝達するぼくらの似姿であり、またぼくらの赦しを待つ異形のものでもあったのだ」(35ページ)
ここで提示された「隣人」は、大仰で圧倒するような<他者>、私たちの理解を拒む絶対的な<他者>ではないでしょう。どこにでもいるあなたであり、わたしであり、そして誰かです。これはブルーハーツの歌に出てくるような、といっていい。そう思います。(すこし恥ずかしいけれど、いや、しかしそう言ってしまっていい)
「隣人の思想」、波勢さんの論考が到達した地点をそう呼んでいいと思うのですが、ここで示された思想の内実とともに、この思想に至る論述があくまでもキリスト者としての波勢さんの信仰に貫徹されている。ここに本稿のもうひとつの傑出した点があります。
たとえば「昨年11月、九三歳で祖父が死んだ」ではじまる本稿は、「キリスト教信仰を告白せずに死んだ祖父が天国でないどこかへ行ったのではないかと不安になった」という文章が地の文で、鍵括弧抜きで出てきます。たぶん信仰をもたない人にとってこの一文は、理解の遠い、「向こう側の人」の言葉に聞こえるのではないでしょうか。(本稿の最後、註のラストの文章も「神に栄光、地に平和、隣人に愛と怪。感謝して記す」です)
「聖書を怪談として読む」という本稿の試みをもし信仰をもたない人がするならば、さじ加減をまちがえたとき即座に「他者の信仰否定」になるでしょう。でも、波勢さんはあくまでも信じることで聖典を読み替える(またはこれまで読まれなかったものを読み解く)という姿勢を貫く。そこにこのテクスト独特の緊張感と救いがあります。
イスラーム法学の中田考先生や、このたび『トマス・アクィナス』でサントリー学芸賞を受賞された山本芳久先生などもそうですが、これまで護教論や宗学として避けられがちだった信仰者自身による学問的考察のいくつかには、相対主義と決断主義のあいだでさまよう私たちの課題を乗り越える何かがあるように思います。私にとって本稿はまちがいなくその一つです。そう断言していいものがこの論稿にはあると考えます。
以上、編集Aは自社本を紹介していないどころか本すら紹介していないのではないか疑惑もあるのですが(広報誌とか、雑誌の特集号の論稿とか)、これにて「トナリビトの怪」の長文の感想を終わります。ご清聴ありがとうございました。
id:wildhog 言語と研究の価値は直接関係ない。とはいえ世界大学ランキングに役立たないし、留学生や海外の研究者に対して敷居が高くなるから英語で書いた方が得じゃない?
じゃあランキング気にするのやめるか英語以外の研究も拾えるランキングにしろよボケ,が前段への返答で,そんならアメリカ人は日本人にとって敷居の高い英語やめてくれない? 日本語で論文書けよ! が後段への返答っすね.マジあいつら日本史や日本社会についての論文や著書すら英語で書きますからね.それを日本人の研究者がわざわざ日本語に翻訳してますからね(悔しいことに面白いんだこれが).別にそれが悪いことだとはまったく思わない,というかむしろアメリカ人の日本研究者が英語で書くのはそりゃ当たり前でしょって感じだけど,広い読者にわかるように日本の研究者は英語で書けとか言われたらまずあいつらに日本語で書かせてから言えよくらいは言っていいですよね.日本史の読者のボリュームゾーンはまずもって日本人なわけで.アメリカ人が英語で日本についての論文を書いても,えー英語論文しかないのー,日本語論文書いてないとかレベル低すぎー,とアメリカのアカデミアで冷遇される世界になったら日本語で論文書いてる欧米研究者を冷遇してくれて一向に構わないので,そのへんどうかよろしくお願いします.
というか日本語を習得して日本語で論文や博論書いて本も出してる留学生の方だって大勢いらっしゃるわけですよ.私はこれまで,中国人・韓国人・台湾人・モンゴル人・ポーランド人が書いた日本語の単著を読んだことがあるし,ウイグル人やカザフ人やエジプト人やアメリカ人で日本語論文書いてるひともおられる.琉球の方言学とか見ると定期的に日本語論文を投稿してらっしゃるニュージーランド人研究者もいらっしゃいますね.日本語は外国人研究者によっても使われる立派な学術言語です.
モンゴル人研究者が日本語で書いた単著の一例(査読つき)> https://www.yamakawa.co.jp/product/67381
id:parosky 論文は人類の知の体系に貢献するものだからみんながアクセスできる言語じゃないとダメじゃない? という意味で英語なことが重要だと思ってたけど、たしかに界隈の人がみんな日本語を読めるなら日本語でもいいね
「みんなが日本語を読める」んじゃなくて,「重要な日本語の先行研究がたくさんあるから頑張って日本語を勉強する」んですよ……
この辺の感覚が理解されてないんですかね? 文系にとって標準言語は英語だけではなく,分野によってはいくつかあったりするのが普通なので,頑張っていくつかの言語を勉強するんです.西洋古代史なら英語や古典語の他にフランス語とドイツ語の先行研究を読む必要があるし,インドネシアの近代史や人類学を勉強したければ英語とインドネシア語の他にオランダ語を学ぶし,中国の前近代史なら英語と中国語の他に日本語が読めないとね,という要求水準があって,それらの言語を知らない人は勉強する必要があるわけですよ.英語さえ読めれば研究ができるひとたちにはわからない感覚かもしれませんけど.
正直,中国を研究してる欧米人が英語論文の中で日本語を引用してるのを見て,「あっ,つづり間違ってるな,こいつあんまり日本語得意じゃないな」って思うことはあります.たぶんもともと中国語が専門で,日本語は研究に必要だからいやいや読んでるんだと思いますけど,西洋を研究してる日本人は同じことをドイツ語とかフランス語とかに対して思ってたりするわけで,まあお互い様っすね.
id:nakex1 自国語しかやってないと自国語で形成される村の思考の枠組み(そこから発生する評価の枠組み,師弟関係や派閥)から出られないんじゃないかという懸念はある。
師弟関係やら派閥やらはともかく、思考の枠組みとか言われても、社会学は英語圏からの輸入学問なんだから、英語圏の発想や思考をバッチリ取り入れた論文書いてますよ! 英語圏の理論の本とか翻訳されまくってるし,未翻訳の本でも原語で引用してるひとは大勢いますねえ.当たり前だけど,執筆言語が自国語であっても,自国語で論文書くために読まなきゃいけない言語はいくつもあるわけで……
id:kanekoshinichiro 日本語で学術を述べてもいいけどガラパゴスにならない?どこかで日本人以外に読んで欲しくないのかなと思ってしまうな。もっとオープンになればいいのに。英語できるでしょ。
ドイツ語より母語話者人口が多い言語を捕まえてガラパゴスとか言われても困りますわー.日本語は話者数世界トップ10に入る大言語なのですが.ちなみに欧州なんかだと日本の10分の1くらいの人口しかいない小国にもちゃんと日本語学科が設置されて現地語で日本研究の論文が書かれてたりします.日本語学習者って世界中にいるので日本語で論文書いてもガラパゴスでも何でもないんですよね.日本人は勉強して英語論文を読んでいるんだから日本人以外も勉強して日本語論文を読んでください.
id:nt46 ペレルマンの論文はポアンカレ予想という関心分野で他の数学者がその正しさを検証したから業績になってるのであって、事実上査読は行われている。
それが査読になるなら日本語の著書や無査読紀要論文も出版後に多くの同業者が読んでチェックしてるから事実上査読つきですね.ありがとうございました.
id:steel_eel 本質は学問が正当性を確保するためのクロスチェックがどう機能してるかであり、その点で現状ベターなのが英語の使用&査読でチェックを受けるシステムなわけで、それが無いなら代替の何があるのかを示さんとな。
分野によるという話をしています.たとえば日本に関する研究なら別に日本語でもいいですよね.日本史や日本社会を研究しているのに日本語の論文を読めない研究者は三流以下なので,そんなひとに査読を頼んでも別に正確性や信頼性が向上するわけではない……というのは理解していただけますか? 日本以外の地域の研究にしたって,前近代の中国史を扱うならば,中国人研究者が日本語の著作を引用したりする世界なので,日本語で書いて査読してもらえばよくないです?
id:operator 日本語か英語かではなく、国際学会のトップカンファレンスを目指して研究したこともないのに教授になれるの?というのが理系からみた驚きなんでしょ。日本古典文学の研究も、英語で文学分野の国際学会に出せるよね。
だからなんでその「トップカンファレンス」の言語が英語である必然性があるんだと小一時間.確か日本文学については日本語が公用語の国際会議みたいなやつはあったはずですし,ロシア文学の国際会議はロシア語でやるはず.英語以外の言語を発表言語に指定されたカンファレンスは出たことあるけどまああれはトップカンファレンスではないか.ともかく,その「トップカンファレンスの公用語は英語」という思い込みをまず捨てやがれください.そんなん理系や一部文系分野のローカルルールでしょ.
id:tarume バベルの塔を折りたい人。なにが"なんとも愉快な未来予想図"だか、英語コンプレックス隠せよ / 知を共有するために論文書いてんだから、まずは一人でも多くの人間が読める言語で書くのは当然でしょ。自国語訳はその後
文系がバベルの塔を折りたがってるんじゃなくて,そもそも文系には共通言語がはじめからなかったという話です.なかったものを探究しろと言われても……
私は現在20代後半になる男で、高校生なるくらいまで医学部を目指していた。
別の道に進んだ理由のひとつとして、自分には元記事の増田のような「助けたいという志」が自分の中にまったくないと感じたからだ。翻って、それは「医師は使命感を持ってなるべきだ」という自分で言うのもなんだがピュアな道徳観が強かったのだ。
父を含め親族に医師の多い家で育ち、都内中高一貫の男子校に進学し順当に医師になる環境は揃っていた。先に私は助けたいという志がないという理由を書いたが、その感覚は小学生の頃から薄々とあったものの学問としての医学は好きで医学部に入ることはまんざらでもなかった。
しかし、高校生のときに両親が急逝したことをきっかけに、私は医師の道へ進むことをやめた。
それは、医師になることがふつうという環境から解放され、先に書いた自身には人を助けたいという志がないことを見つめ直すきっかけになったからだ。
誤解のないように書くが、私が両親から医師になるように押しつけられるようなことはなかった。むしろ好きなことをさせてくれたという記憶しかない。それでも、私が志などなくても医師になろうと思う程度の空気が家の中にあったのだと思う。
そんな別の道に進んだ今の私は医師になった人に対して必ずしも志がなくても良いと思っている。
そして、現場は疲弊しているのに、否が応でも頑張らないといけない環境が怖い。
私は医療の現状を知り自分のライフプランをきちんと大事にする元記事の増田を私は応援したい。
それで崩壊するような医療は、さっさと崩壊してしまっても良いとすら思う。
たぶんそれは「白いバベルの塔」だ。
「JavaScriptはDOMを書き換えるためだけに存在している書捨てのクソ言語であって、サーバーサイドを書くために存在している言語でも、100万行からなるバベルの塔の建設に耐えうる言語でもない。」
ほんとこれなんだよなあ。TypeScriptへ徐々に移行するしかないと思うけど、TypeScript廃れて来てるの?つい最近Googleが社内で公式採用したって読んだばかりだけど。
ウェブフロントエンドの技術の進歩と興亡の速度には目を見張るものがある。
browserifyが生まれ、Gruntが生まれ、Gulpが生まれた。
そしてその全てが死んだ。
Webpack, Babel, Flow, 今栄えている技術だってそのうちに死ぬだろう。Reactだって例外ではない。
一部はもう死につつあるし、少し前にあれだけ持て囃されたTypeScriptも今や消えつつある。Coffeeは全エンジニアから嫌われた。
そんな万華鏡のように目まぐるしく変わる情勢に追い付かんと研鑽を続ける者等がいる。アーリーアダプターを自称し最新技術のケツを追いかけQiitaにクソを垂れ流す彼らこそ我らがイケイケウェブフロントエンジニアである。
最新技術に目を凝らし、やれ新たなこれイケてるだの古臭いあれはイケてないだのと宣いチュートリアル記事を量産する彼らであるが、彼らの存在は決して無駄ではなく、生まれたての技術の知名度は彼らにより上げられる。
それはやがて大きな同調圧力的空気となって流行った技術を押し流す。
さて、少し話は変わる。
書いてしまったソースコードと拭いきれない遺物と化したクソの塊だ。
ウェブサービスはただ作って終わりではない。その先にあるのは長く続くメンテナンスだ。
少し例を挙げたい。あるところにイケイケウェブエンジニアのあなたがいたとする。
ある日あなたは上司からあるウェブサービスを作ってほしいと頼まれ、それを引き受けた。
さて、サービスを作るにあたりあなたは使用する技術を選定する。イケイケウェブエンジニアのあなたはとても流行に敏感だ。勿論jQueryを使い泥臭くDOMを弄くり回すことなどあってはならない。
あなたはESの最新規格に準拠したコードを書き、Flowtypeで静的型検査を行い、Angular4を使うことにした。
勿論そのままではブラウザで動作しないためWebpackとBabelを駆使してトランスパイルする。
数週間後、めでたくサービスは完成した。
あなたは脳内で試算する。時間と手間は掛かるが可能だと判断したところで、はい、と答え一年ぶりにプロジェクトのソースコードを開いた。
一年後の未来の世界では Webpack2 など既に新しく現れた技術に叩き潰され醜く断末魔の鳴き声を上げる死に瀕した哀れなヒキガエルの如き存在だった。もちろんAngular4はもう誰も使おうとはしない。
もちろんあなたもそれらを過去の存在へと葬り去った新技術に首ったけだ。
一方は、クソだクソだと悪態を付きながらもはやメンテナンスもされていないクソプラグインの体系化されていないクソドキュメントとにらめっこをしながら古臭いクソの塊と付き合っていくこと。
もう一方は、新たに聳え立った最新のクソの塊に無限に移植を続けることだ。
前者を選んだあなたは時間が経つごとにまともな情報を得られなくなり、やがては身動きが取れなくなった段階でようやく最新技術への移植を考えはじめる。しかし、その頃には膨れ上がった旧時代のクソはそんなことを容易に許してはくれやしない。
さて、後者を選んだあなたを待っているのは無間地獄の如き最新技術の濁流だ。それに揉まれながら一年ごとに、古臭きは悪だと声高に叫びながら無限の移植作業を行うことになるだろう。
あなたがクソと罵り選択肢からも除外されたjQueryである。一年後の未来であってもjQueryはそこにあった。もちろんクソと野次られながら。
けれども一年前のあなたはjQueryを使ったコードが読めるし、今のあなたももちろん読める。一年後のあなたは疎か、三年後のあなたの後継ですらも (泥臭くDOMを弄るコードに閉口しながらではあるが) やはりあなたの書いたコードを読めるだろう。
JavaScriptはDOMを書き換えるためだけに存在している書捨てのクソ言語であって、サーバーサイドを書くために存在している言語でも、100万行からなるバベルの塔の建設に耐えうる言語でもない。
激怒という名のホッカイロ、キサマの救済は火傷するんだ、ど、どうせ自由も不自由も愛せはしないのだ、だ、だみ声ウォーカー、カー、カーチャンにやつあたるその前に、に、似たぬいぐるみを部屋に飾って、、て、手足口のその化物と、と、とおせんぼした世界の、の、除け者である自分を、を、折り、り、リスって賢くなってるよね、ね、ねこはそのままの気がするよ、よ、よかれと思うこともなく、く、くるおしきライトアップ、プ、プリント捨ててごめんなさい、い、いまにいたる、る、流浪、う、生まれたのは、は、はじめから間違いだった、た、たとえば、ば、バベルの塔の、の、のまれる午前、ん、ん、牛。あ、間違えたあああああああああああああああああああああああああ。
※前回http://anond.hatelabo.jp/20170121201117
〜これまでのあらすじ〜
ワイは猿。プロNNT猿や!無事(?)に資金も貯まって上京。今日からこのボロアパートを根城に就活リベンジや!!
…え?転職エージェントさん達?もしもーし!息してますかー?紹介できる仕事がないってなんですかー?返事してー?
--------------
「まあ何かしらの紹介はしてもらえるだろう」と思っていた私が甘かったのか。最終職歴はアルバイトで、しかも1年も働いてない。履歴書にしたらスカスカおせち並みに内容が無い事は確かだ。
流石に凹む。このまま仕事が見つからないまま、決して潤沢とは言えない資金は底をついてしまうのか。泣きながら実家へ帰るのか。
そんな嫌な予感が胸をよぎる。冷静になれよ、ミ・アミーゴ…
転職エージェントにはもう頼れまいと、新卒の頃に使った「2017だの2018だの卒業年度が後ろにつくアレ」に登録をして、第二新卒歓迎の仕事を探しまくった。
新卒の頃には「第二新卒歓迎」なんて胡散くさいわぁ〜なんて思っていたのに、今ではこんなに、何故だろう、あたたかい…。
そんな時に、一通のメールがきた。
3つの転職エージェントのうち、最後のひとつからの返事だった。
「なっ、なによ…どうせあんたも私のことなんか見捨てるんでしょ…ッ?
ふんっ…まぁ一応読んでやらないこともないわよ…ッ」
と、つり目の金髪ツインテール美少女になりきりながらシングルベッドの上でメールを開封。
一度担当者とお会いしてみませんか?ご都合の良い日程をご返信ください」
捨てる神あれば拾う神あり。うれしくて、長州小力のような踊りまでしてみせた。
取り敢えず話を聞いてくれるだけでも、一人ぼっちの私にはありがたかったのだ。
「これはまるで…!天から垂らされた蜘蛛の糸…!登らなければ…!未来はない…!登る…!今すぐに…!」
(訳:ありがとうございます!早速なのですが、今週の3月×日が空いております!よろしくお願い致します!)
そんな訳で3月の末日、慣れない都市の鉄道を乗り継いでやってきた某所。
バベルの塔のように物々しいガラス張りのビルが乱立し、それぞれが自由に陽の光を弾き飛ばして私を威圧してみせる。
そのうちの1つに私は用がある。あの日、私にはそのことがとても特別なことのように思えた。
メガネをかけた女性の担当者が、定刻に待ち合わせの部屋へ現れた。
「anonymous様はどんなキャリアプランをお持ちですか?」
ここで、新卒の時に就職失敗で云々という経緯を語った。そしてどうせなら、もう一回チャレンジしたいということも。
担当の方は一瞬難しそうな顔をしたあと、「少々お待ちください」と言ってパソコンを叩いた。
しばらくすると、横のプリンターからメチャメチャに紙が出てきた。それはもう、ベロベロと。あれよあれよと分厚くなって。
担当者さんはそれをグワシと掴むと、「そちらはすべて、今現在anonymous様にご紹介をお勧めしたいお仕事です。すこしご覧になってみてください」と、私の前に差し出した。
なんだ!!お仕事たくさんあるじゃん!!しかも選んでくれるなんて楽チンだなァ…
『幸せだなァ…僕は君といる時が一番幸せなんだ 僕は死ぬまで君を離さないぞ、いいだろう…』
と浸っていたのも束の間、印字された内容をよくよく読んでみると
「あの、これ…向こうが要求しているスキルに対して私の経験値が圧倒的に足りないんですけども…?」
「そこは…私の方からもプッシュはしますが、とにかくやる気をアピールしましょう。」
「腐女子こそ夢小説を書くべき論」が話題になって「よくぞ言ってくれた」と喜んでいる人と記事自体に怒っている人がいた。
記事自体に怒っている人、とりわけ「腐女子こそ夢小説を書くべき論」を読んで欲しい層として想定された(と思われる)「腐女子」以外の人について考えてみた。
腐女子以外で、この記事に対して怒っている人たちに、自分たちを「自己投影勢」と自称している人たちがいる。
夢小説を愛好する方の中で、主にガチ恋勢などと言われる人たちのことだ。
彼女らは、夢小説に出て来る名前変換が可能な「主人公」に自分だと思いながら、夢小説を読む。
私は怒っているので、キツイ言い回しになっているかもしれない。
この記事を書いている私は、彼女ら「自己投影勢」の「腐女子こそ夢小説を書くべき論」に対する反応に怒っている。
私が怒っている対象は「自己投影勢の肩身が狭くなるから、こういった記事を書いて腐女子が書く夢小説を増やしてほしくない」と言っている人たちだ。
自己投影勢全般に怒っているわけでもないし、嗜好について私の理解が及ばないと思っていても馬鹿にもしていないし、気持ち悪いとも思っていない。
彼女らに私の嗜好を貶され、排除しようとされない限りは、はっきり言って、彼女らがどう思っているかは興味がない。
嗜好を名指しして「布教をするな」と言われたのでなければ、この記事を書くことはなかった。
上記の自己投影勢の説明ではあまりにいい加減なので、ある程度、前提条件を絞りたいと思う。そのために私の自己投影と名前変換に対する考えを記述する。
私と同じ考えだと自信のある方は飛ばしていいと思う。
目印として本題に入る部分に矢印をいっぱい付けておくのでそこまでスクロールして欲しい。
私のスタンスとしては、他人が書いた小説の主人公を自分だと思いこむことは特殊な技能であると思っている。
これは、キャラの恋人が自分だと妄想することとは別の話であることを留意してもらいたい。
誰かの恋人になった自分を空想すること自体は、誰もが抱くことのある欲求のひとつであると私は思う。空想し、それを作品にアウトプットすることもまた、ありふれた行動であると思う。
しかし、小説という作品媒体になったものを読むとき、登場人物が「自分だ」とはっきり信じることのできる人は多くないだろう。
映画や本を読むときに、話者となる登場人物に感情移入してストーリーを疑似体験する。これは基本的なエンターテイメントだと思う。
感情移入する登場人物は主人公に限らない。幼少の頃に見ていた映画を大人になって見ると、幼少の頃に思い入れた登場人物とは別の人物の気持ちになって泣いてしまった、ということはよく耳にする話だ。
さて。このとき観客あるいは読者は、登場人物は登場人物であって、自分とは別の個体であることを認識している。境遇を自分に重ねることはあっても、自分ではないと分かっているはずだ。
腕にひどい怪我をした人物を見て、自分の腕が痛い気がして顔をしかめる。怪我一つない自分の腕を押さえる。これが共感だ。多かれ少なかれ、誰しもが持っている感覚だといえる。
「共感」は人間の社会生活を円滑にする上で欠かせないものだ。一説では、サイコパスは共感的な感覚を先天的に欠いているのだという。共感が出来ないからと言ってその人がサイコパスであるとは限らないことに気をつけたい。
この共感が強すぎることで、映画やテレビを見るのが苦痛だという話が、しばらく前に話題になったと思うので、「共感」というものがピンとこない方はそっちを覗いてみるのがいいかもしれない。
話は戻って、名前変換によって、いくら登場人物が自分の名前を冠しているからといって、主人公が自分だと思い込む、ということは「共感」ではなく「同一化」に当たるのではないだろうか。
サイコパスの話を持ち出してしまったが、専門用語としての話ではないのでその点はご理解いただきたい。
自己投影と称している人の中で完全な「同一化」ができる人はそう多くないのではないだろうか。多くの人が、夢小説の中で恋愛をしているのは小説の中の「わたし」であって、今この世界にいる「わたし」でないものだと折り合いをつける。
2は、1よりちょっとだけ現実の私と切り離されている。 なんというか、原作世界や二次創作の世界をパラレルワールドだと認識しているのはこの層が多いんじゃないかなあ。 その世界の「私」となって、キャラと接するのがこれに当たる。
「同一化」と書いたものをこの方のいう1とするならば、2は「折り合いをつけている」人たちのことだろう。3の話はここではしない。
この折り合いが付けられた状態は、映画を見て登場人物に共感して涙することと差がないように私は思う。
夢小説は、コンピュータとインターネット回線の普及によってもたらされたジャンルであると思う。
それまでは小説といえば紙の書籍が主体で、印刷物として市販されている小説の主人公たちの名前は変えることができなかった。
それが、コンピュータの普及によってテキストの一部を自分の名前に変えることができるようになった。これを女性向けとして利用した人が現れる。これが夢小説のはじまりだと思う。
夢小説の出現よりもひと足早く、ゲームでも主人公の名前を自分の名前に変えることができることが「普通」になっていった。その片手で、インターネット上に公開された名前変換可能なテキスト群が夢小説と呼ばれることになった。
一見違うもののように見えるが、双方デジタル化によって生まれたユーザビリティの結果であり、本質的には同じものであると思う。
そこで、ゲームをしているユーザーは自分の名前のついた主人公を「自分だ」と思い込むことができるだろうか?
これは、できる人もいる、が正解だと思う。自分の選択によって動きを変える主人公が、自分であると思う人もいれば、画面の中で動く人型のイラストを、自分が操っている操り人形だと思う人もいるだろう。
後者については、海外に多い「プレイヤーの視点が画面になるタイプのゲーム」のユーザー間では減少する可能性がある。ゲーム内のアバターをアバターだと認識することは、ゲームのプレイヤーが自身のアバターを俯瞰する形になる、多くの日本産のゲームに特有の感覚かもしれない。長くなりそうなので、ゲームでの視点の話はこの程度にしたい。
余談の最後に、私が思うゲームと夢小説の違いをまとめて、話を「自己投影」についてに戻していこう。
ゲームには操作性の問題がある。主人公の行動を自分で操る事ができる。この点が、ただ与えられたテキストを読むだけの「夢小説」とは大きく異なる点だろう。
夢小説の中に出てくる登場人物の行動を、読者は変えることができない。
夢小説の中に出てくる登場人物のセリフを、読者は変えることが出来ない。
繰り返しになるが、自分の意思とは違う行動を取り、違うセリフを喋る主人公に「共感」するのではなく、「自分だ」と思い込む、「同一化」する事ができるということを、私は特殊な技能であると思う。
私の一歩先を行っているのかもしれない、とも思う。
「同担拒否」を自称する方たちに対して、いくつかの疑問がある。
まず、私が思うのは彼女らは何を読んでいるのだろう?ということだ。
人が書いた小説を読めば、必ず違和感が生じるだろう。お母さんが枕元で、主人公の名前を子供の名前に置き換えて読んでくれることとはわけが違う。クラスメイトに貴方が主人公の小説を書いてもらい、プレゼントしてもらうのとも違う。
ただ、スクリプトを使って文字列を自分の名前に置き換えているだけだ。
好きな食べ物も、癖も、言い回しも、得意な教科もすべて変換するわけにはいかない。そんなに違う「わたし」とどのようにして「同一化」するのだろうか。
自分と恋人の話を綴った物語を公開して、自分と同じように彼を恋人だと思いこんでいる人が読んで、自分の体験が他人のものにされることが不愉快ではないのだろうか?
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本題にうつる前に周りくどく鬱陶しい話をしたのは、前提条件をはっきりさせておきたから、と断っておく。
本題はその「自己投影勢」がなぜ「腐女子こそ夢小説を書くべき論」に怒っているか?
なぜ、私が「自己投影勢」が怒っていることに対して怒っているか?
という話だ。
私がTwitterで観測した限り、怒っている理由には大きく分けて2つあったように思う。私が見かけた2つの理由について話をしたい。
怒っている理由その1
だそうだ。
これは見当違いな怒りであると私は思う。「腐女子こそ夢小説を書くべき論」の中で、たしかに
など書かれている部分はある。
しかし、これは、この記事を書かれた方の意見ではないのだ。少なくとも私にはそう読める。
私が読むところによると、これは、世間から「夢小説」に対して向けられている一般的な感想だ。
偏見としてあげられる言葉を持ち出すことすら許さないならば、許さない人が偏見を持っている人にやめてくださいと訴えるべきだ。怒りを持っていく場所が違う。
誰が発言するかによって怒りが違うならば、それは貴方の心にある差別が原因だろう。胸に手を当てて心当たりを探ることをおすすめする。
そういうのもあるけどそれだけじゃないよ!
としているが、自己投影的な考え方を否定しているわけではない。むしろ、全体を通して自己投影は誰もが持ち得るものだと書いているように私には読める。
そもそも、「それだけじゃないよ!」は嫌っている人に嫌いなものをそのまま食わせる馬鹿はいないので「夢小説はあなたが嫌いだと思っているものよりもずっと多様なものですよ」と話しかける言葉だ。自己投影を貶めることは書いていない。
行間から書いていない言葉を読み取るのはやめたほうがいいと、老婆心ながら言わせていただこう。
そのうち行間から呪詛を感じ取ってこの記事のせいで呪われたなんていい出しそうだ。
怒っている理由その2
というものだ。
はっきり言おう。私にはこの感覚がまったく理解できなかった。そして、これを理解したことによって怒っている。
夢小説のはじまりは、自己投影にある、と言っている人がいた。これは当初のことがわからないので、間違っているかあっているかは問題にしない。
私がこれに対していうことがあるとすれば「だから何?」だ。
だから? 幼稚園児が遊び場の権利を「すべり台はわたしが先に使っていたのでわたしのものです」と主張するくらいにどうでもいい。
余談としてゲームと夢小説の部分で触れたが、主人公の名前を変えるという考え方自体は珍しくない。それを二次創作に使うことは、誰にでも思いつく可能性があったことだと私は思う。
夢小説が流行り始めた当初、このスクリプトを自分で書くことのできる人は少なく、多くの人が他人からこれを借りた。
その借りた先の人が「夢小説」あるいは「ドリーム小説」と読んでいたのなら、これは自己投影云々についていた名前ではなく、名前変換というシステム自体につけられた名前であると私は思う。
異論はもちろんあると思うが、自己投影がたしかに原初であったとしても「だから何?」と私は返すだろう。
夢小説のルーツでの幼稚なマウント以外に、私は「追い出される」という感覚が理解できなかった。なぜなら、10年以上も前から、自己投影勢もあったし、オリキャラ勢もあった。共存していたのだ。
古の超大手夢小説検索サイト「ワンドリサァチ」さんのキャッシュからも、当時から細かく別れていた傾向のチェックボックスを見るとわかるのではないかと思う。
ちなみにワンドリサァチさんがページ消失したのはかなり昔のことだ。ワンドリサァチさんの消失は夢小説界隈を、まるで神に言語を乱され方方に散ったバベルの塔の逸話のように、引き裂いた。
夢小説史はさておき。なぜ突然、オリキャラ勢が押し寄せてきて……なんていいはじめたのか。
たしかに数年前から「夢主はオリキャラです」と発言しやすくなったことは感じているが、これはオリキャラ夢主で夢小説を書く人たちが、仲間を募り、自身の創作を楽しんだ結果であると思う。彼らは自分たちで、自分たちの楽しむ場を作った。これに嫉妬しているとしたら、理解に苦しむところだけれど、同担拒否です!この小説は私じゃないので読めません!なんて言って、他人を牽制しまくっている人がいるのなら、仲間が増えないのは当然だろうと思ったのでこの点は言及するのはやめておこうと思う。
私にとっては、自分の好みではない作品が増えたところで、自分の好きなものの絶対数が変化しなければ、どうでもいいことだったのだが、彼女らにとってはそうではなかったらしい。
問題になった「腐女子こそ夢小説を書くべき論」では、腐女子にBLを主題として扱った夢小説を書くことを勧めている。
このことに対してアレルギーを起こしたように反応している人たちがいた。
そもそも、オリキャラ夢主と自分の推しが恋愛しているという情報自体が気に入らないのだそうだ。
腐女子が参入することによって、腐向けでもあり夢小説でもあるものや、彼女らにとって不快なものが増えることによって、住処を追われるのだそうだ。
先述の通り、昔からオリキャラを主人公とする夢小説は存在していた。
夢小説を愛好する人の中には「腐向け」を嫌う人は多い。しかし、夢小説の中には「腐向け」の夢小説、BLDと呼ばれるものもある。BLの夢小説は彼女らが何を思うことにも関係なく、すでに存在する。
はっきりいいたい。「何様のつもりだ」
インターネット上は公共の場所だ。不愉快なものを見ることもあるだろう。しかしながら、貴方にとって不愉快なものは、誰かにとっての大切なものだ。それを見て貴方が気分を悪くするだけならいい。
気分が悪くなるから、遠慮しろ、肩身を狭くしていろ、というのは傲慢がすぎるのではないか。
腐女子も好きなジャンルで、自分が好きなカップリングとは受け攻めが逆のカップリングが増えてしまうこともあるだろう。逆CPは見るだけでイヤだという人も多いだろう。しかし、だからといって自分の気に入らないCPをの悪口を言ったり、そのCPが増えてほしいという人に、私の地雷だから布教活動をしないで下さい、と訴えることを考えて欲しい。
私なら人混みで鳩尾に肘を入れるし、靴を踏む。(暴力はよろしくないと思うがそれくらい腹立たしい)
貴方が自身の当然の権利と思って言っているそれは、これと同じことだ。恥を知るがいい。
マナーやら何やらで加工して訴えようと、本質は変化しない。貴方は自分が不愉快だからと、他人の活動を制限しようとしているのだ。いかなる理由をつけようと「布教活動するな」と訴える行為が正当化されないことを覚えておくべきだ。
腐女子の人が「自分の好きなものではないので書かない」ということとは、わけが違う。
自分の好きでないものに増えてほしくない、という権利は貴方にはない。
そして、自分の好きなものが数で負けるなら、その分は貴方がかけばいい。貴方が布教して増やせばいい。貴方の夢小説を読んで楽しいと思った人が、同じような小説を書くように努力すればいい。
蝗に怯えて耕作を怠るな。実りのない田畑では人も増えない。
心優しい私は、対処法をあなたに教えてあげようと思う。心して聞くがいい。
Web ブラウザ上の文字列を検索して非表示にするNGワード導入しろ。それくらい自分で調べろ。
最後に、そんな発言をしている人が存在するのか疑問に思う人もいるだろう。それでもツイートを引用することは控えたことの意思は汲んでいただけたらと思う。
近所のうどん屋さんが大繁盛で、
すぐ近所に建て替えリニューアルするらしいの。
で、ちゃくちゃくと工事が日夜進んでいて、
通るたびに食べてみたいなと思うのよ。
だけど、いつもお客さんがいっぱいで入るの躊躇しちゃうわ。
今度のリニューアルしたお店は
全64階建てでそれぞれのフロアで
まるで、ここに全国のうどんが集結されるようで、
繁華街に出来てた経営が上手くいかなくて潰れちゃったうどん博物館の存在がまるで皮肉ね。
きっとこっちはまた大繁盛よ!
ジャンボ白田も驚きを隠せないわね!
大喰いチャンネル見てないけど、
きっと素晴らしい戦いになると思うわ。
それを鯖節のお出汁で頂きました。
ま、美味しくいただいたからいいんだけど。
鯖節はパンチがあって美味しいわよ。
澄み渡る高原を思い出すかのようなネーミングだけがものすごく美味しそうな
レモン水よ!
うふふ。
すいすいすいようび~
今日も頑張ろう!おー!
ヨハネスブルクの天使たちを読んだ。建築と紛争と落下するロボット。全編通して退廃的な寂寥感が味わえたのでなんだか寂しい読後感を得られた。
人間って何なんだろう。誰しもがふと考えて、その時々で納得できる答えを見つける問を、再び抱かせるような作品だった。紛争が大きな共通項として紡がれているから、どうして人は争うのだろうとかも考えさせるんだけど、ある程度その答えが作中で描かれているから人間に対する哀れみにも似た感情を抱いてしまう。歴史は繰り返すって言うけれど、改めて無情な現実を突きつけられたような気がして呆然としちゃった。
また表題作でもあるヨハネスブルクの天使たちにおいて、起動しただけのDX9に意思と呼んでいいのかわからない思考回路が生まれていることが引っかかった。この一遍以外純粋なDX9の思考は明確に表現されていないんだけど、人格を上書きされた個体とか、プログラムを上書きされた個体が果たしてどうなったのか、思考が存在していたのかとか彼女たちに対する生存権みたいなものを考えると、ますます人間のどうしようもなさが強調されているように感じた。
建築とか紛争については解説でも触れられていたから脇においておくけれど、度々記述されていた言語に対する思想も興味深かった。言語に関する項目は紛争にも関わる事柄ではあるんだけど、もしバベルの塔が倒壊していなかったらもう少し現状とは違う現在も存在し得たんだろうと思う。
最後の一遍だけ紛争地から離れた日本を舞台にしてたから(二編目もアメリカが舞台だけど9・11を題材にしていたから毛色が似通っていた)雰囲気が他と少し違ってたけど、この作品には最後に希望が見える気がした。あんなの希望じゃなくて暇を持て余した挙句に見つけたささやかな娯楽の延長でしかないのかもしれないけど、あの光景を想像すると人間の善性を信じてみたくなる。もちろんそんなのはまやかしかもしれなくて、事態を一方からしか見ていない独善的な捉え方ではあるんだけど、やっぱり生きていくのだから先は少しでも明るいほうがいいと思う。
なんかよくわかんない感想になってしまった。個人的には前作のほうがバラエティーに富んでいたし、しんみりする話ばかりじゃなかったから好みに合っていた。静な気持ちにさせてくれる一冊だったと思う。
全部読み終えてから感想を書くには、あまりにも増田のスペースは小さすぎる
ってなりかねんと思ったのと、都度書かないとそのときの感動を残せないと思ったから、
ちょっとずつ書く
まずはじめに、これまでホッテントリに上がってくるようなSFの古典とか名作とか言われてるのにちょこちょこ手を出してきたけど、その中でこれが一番だった
海外作家で設定厨に堕してなくてSFのエッセンスとエンタメの快楽を同時に最小限の文章で表現できている人に初めて出会った
下手に長編読んでもげんなりするし失敗したときのダメージがでかい
まだ全部読んでないし、これ以外のSFも2桁に届かないくらいしか読んでないけど、SFに手を出すなら、海外作家ならこれ、国内なら小川一水の老ヴォールの惑星を推す(星新一は別格として)。
SF警察に取り合うつもりはまったくないけど、小説というからにはエンタメがないとダメだと思う自分にとって、SFやりつつエンタメ性もあるものってなるの上記の選定が最初はベストだということ。
表題作含むいくつかの短編が入ってるから短編ごとに簡単に感想書く
RPGのワールドマップが上下左右でくっついてる理由、みたいなネタを思い出した
固有名詞がいろいろ出てきて覚えにくい・覚えるのめんどいと思ったけど、別に覚えなくてもどうにかなった
これヤバイ
クソ面白い
アルジャーノンに花束を+天才対天才の超身体能力バトルみたいな感じ
ちょっと話逸れるけど、伊藤計劃の虐殺器官ってやつで、結局虐殺の文法ってなんだったんだよってのがはっきり描かれなかったことが、自分にとってすんごくフラストレーションだった
あと野崎まどのknowってやつでも、最後らへんで天才対天才のバトルがあるけど、描かれてる視点が第三者だったから、高尚ですんごいバトルしてるのに傍目からは何をしてるのか全然わかんない、とにかくなんかすごいことやってるって描写しかされなくて、これもまた自分にとってすんごいフラストレーションだった
そんで翻ってこの理解という短編は両方を同時に解決しているすんごくすっきりする話だった
虐殺器官もknowも長編でだらだらやって結局大事なところをぼやかして描写することから逃げてるように感じたから、短編でここまで正面切って読者に開けっぴろげにケレン味たっぷりの描き方をしてくれてることに感動すら覚えた
表題作もいかにも面白そうで今まだ読んでる途中だけど、この短編だけのためにこの本買ってもいいくらいにはめちゃくちゃおもしろかった
最近のラノベのバトルとかマジで子供だましに見えるくらいの面白さを感じた
数学理論がひっくりかえるようなことを見つけちゃったのはわかるけど、それがあんまり大きくお話にからんでこなかった気がする
たぶんこれは2,3回読まないと理解できない
サブタイの1(数学のうんちく) 1a(妻視点) 1b(夫視点)で視点が切り替わるのは面白かったし、最後のサブタイはふーんと思ったけど、いまいちカタルシスに欠ける、というか、面白さが一読するだけだとSF素人には伝わってこなかった
「わからんな」
「わかりませんか」
「わからん。犯人が『なぜ被害者の部屋にある本棚の本をすべて抜き取ったあと、また戻したか』についてはさっきの君の説明で納得いった。しかし、それでは肝心の犯人がわからんじゃないか。だれにでも出来る殺人だ。被疑者が絞れん」
「それがですね、実はこの本棚こそ犯人をピンポイントで指し示す、最大の証拠品なのですよ」
「どういうことだ」
「それを今から説明します。まずはこのプリントをご覧ください。これは被害者の読書履歴をリスト化したものです。読書メーターからとってきました」
「なかなか残酷なことをする……。なるほど、ミステリ好きという話は嘘じゃなかったみたいだな。翻訳ミステリの有名作がならんでおる。だが、これで何がわかると?」
「注目すべきはこの本です。江戸川乱歩編『世界短編傑作選3』」
「シリーズの三巻だけ読むのが奇妙だと? それはキミ、素人の浅はかだよ。アンソロは続き物じゃない。別に順を追って読む理由などないぞ」
「いいえ、警部。『三巻目であること』それ自体が重要なんです。これが『傑作選2』や『4』だけなら単なる被害者の気まぐれですんだでしょう。しかし、『3』だけ、となるとそうはいかない」
「何が言いたい?」
「もう一度、リストを点ではなく線で眺めてみてください。被害者が読んだ順に」
「『モルグ街の殺人事件』、『白衣の女』、『シャーロック・ホームズの冒険』、『ブラウン神父の童心』……傑作揃いだな。何の変哲もないミステリ読者だが……」
「"新潮文庫"の『モルグ街』、"岩波文庫"の『白衣の女』、"創元推理文庫"の『シャーロック・ホームズ』であることが重要なんです。それにしても、この並び、どこかでご覧になったことがありませんか?」
「ふむ、言われてみればどこかで……『お楽しみの埋葬』、『ジェゼベルの死』、『兄の殺人者』……『切断』? ああ、ポーターのか…………あ!!!」
「お気づきになられたようですね」
「こ、これは……法月綸太郎の『ミステリー塾 海外編』のマストリードリストとまったくおなじ……!」
「いかにも。被害者は法月先生のマストリードリストを律儀にも頭からなぞって読破していたのです。ほら、もっとリストをさかのぼってみて。妙に再読が多いでしょう。古典的名作ばかりなので最初はそれも然りと考えていましたが、種が明かされてみればなんてことない。
『東西ベスト』、『ミステリ・ハンドブック』、『海外マストリード100』……各所のマストリード、オールタイム・ベスト本のリストを手当たり次第に読み漁っていただけなのです。それも、きちんと順番を守ってね。ベスト本のメンツは、特に上位や定番ともなると重複しがちです」
「そうか、やけにホームズやポーやチェスタトンばかり何度も読んでるわけだ。旧訳の『ブラウン神父の童心』を短期間に繰り返し読むなんて、都筑道夫でなけりゃ修行僧くらいのもんだからな」
「もはやパラノイアの域に達していると言ってよいでしょう。ところで、おかしいとは思いませんか? こんな強迫症的な几帳面さを備えていた被害者なのに……この本棚は統一性に欠けている」
「そうか……綺麗に整頓された部屋に、きっちりと収まった本棚だったから一見しただけでは気付きにくかったが……」
「同じ列にポケミスとハヤカワのトールサイズと講談社文芸文庫と普通の単行本をいっしょくたにぶちこむなんて、ぼくですら怖気をおぼえますよ」
「部屋に入ったときの違和感……背筋を伝った悪寒の正体はこれだったのか」
「まともな美意識をもつ読書家なら耐えられない蛮行だ。被害者の性格を考えればなおさらです」
「となると犯人は、A.『被害者が几帳面な整頓好きであることを知っていた』。B.『しかし、読書家の生態には疎い』人物――」
「被害者の交友関係は属していた読書サークル関係に限られていました。本棚にむとんちゃくな読書家はいくらでもいますが、被害者の生態を知ったうえであえてこういう現場を残しはしないでしょう……ただ一人を除いて」
「……恋人、か」
「動機は容易に推察できます。事件当夜に聞こえた罵り合い、あれはおそらく、本を捨てようとした恋人とそれを止めようとした被害者の口論だったのでしょう」
「そうして揉み合ううちに……か。殺意はなかったんだろうな」
「ええ、事故です。恋人も恋人で日頃から被害者にアイドルオタ趣味を揶揄されてストレスが溜まっていたのでしょう。自分の世界に閉じ籠もって、本当の人間を理解しようとしなかったカップルの悲劇ですね」
「やれやれ……本棚にはじまって本棚に終わる、か。嫌な事件だったな……なあ、思うんだが」
「もし、この部屋に本棚さえなかったら、ですか?」
「そうだ……紙の本……大量の書物を収納するための本棚……。なあ、なぜ人は積ん読を犯してしまうんだろうな? なぜ文字を、知識を物理的に重ねて誇ろうとするのだろうな。
バベルの塔を知らぬわけでもあるまいに……」
「罪であるとわかっていても手をださずに入られない。それが人間の業です。アダムとイヴを知らぬわけでもないでしょう?」
「そうだな……わかっている……わかっているが……くそっ! やりきれない……」
「ぼくも同じ気持です……もし彼らがアレさえ持っていればと思うと」
「アレ? なんのことだ?」
「フフフ、これのことですよ(バッ」
「あ、黒いシルエットを燦然と穿つ青白い光!!!それは、君、『kindle voyage』じゃないか!」
「そうです! 『kindle voyage』は名機『paperwhite』の後継機かつ上位機種!!! この艶かしい小さなボディに数千冊を収納することが可能なんです!!!
さらに300ppiの高解像度ディスプレイを搭載! 紙の本と遜色ないリーダビリティ!!」
「なんてこった! 被害者もそれを買っていれば本棚なんていらなかった……事件も起きずにすんだ」
「起こってしまったことはもう変えようがありません……。しかし、新たな悲劇を防ぐことはできるはずです」
「そうだな。本好きを名乗るものならみんな『kindle』を持つべきだ。わたしもさっそく、注文するよ」
「僕たちは前を向いて歩いていかねばいけません、それと、オススメはwifi+3Gモデル。どこでもいつでもストアにアクセス&ダウンロードできて本体価格29180円と超お買い得です。充電アダプタは別売りなので注意してください!」
9日、19日、29日の9のつく日はクッキー詰め放題イベントをやってるみたい。税込880円也。
今回で2回目。悔いの残る結果となったけど次回に活かすべく記録を残したい。
詰め放題用の小袋はビニールが伸びない仕様。詰め放題テクニックのビニールを伸ばしてから入れる方法は通用しない。
厚めのクッキーを立てて並べ土台を作る。これを2段分やる。
土台1段目は可能な限りきっちりとクッキーを並べる。厚いものを用いるのが好ましいようだ。
そして2段目は隙間を作りながら配置し、3段目以降のクッキーをその隙間へテレコに入れてバランスさせる必要があったらしい。
私はこの土台作成の部分でまずミスしていたようだ。2段目も隙間なく詰めたことによって、3段目の足場がなくなってしまった。
今回、3段目を隙間なく並べたところで更に上部への積み上げが難しくなりゲームオーバーとなった。
3段目以降は小袋という外壁/支点がなくなる。ここからは自分なりのバベルの塔を積み上げていくフリースタイル競技となる。
先述した隙間ありの2段目と交互になるよう差し込んだ3段目には、クッキーとクッキーの間に隙間ができる。
その隙間に4段目のクッキーを差し込み、今度は4段目のクッキーの間にできた隙間に5段目を作る……というのが練達者のやり方のようだ。
画像検索すると芸術的な積み方をした写真を見ることができる。参戦の際は是非参考にされたし。
他にも、2段目以降の場所に厚いクッキーで壁面というか底面を作り、袋をほぼ横倒しにして、そこから斜め上方に積み上げるという原理不明の戦法を採るお姉さまも現地で見かけた。すげえ積んでた。
とにかく、クッキーを上下段で交互に並べ、足場を固めていくというのがポイントのようだ。
元は量り売りクッキーなので、会計時に計量し、普通に買うと**円分と教えてもらえる。
レシートには書いてなかったので正確な金額は不明だが、私は1,700円台分だったと記憶している。
数字だけ見るとなかなか頑張ったやないの、と思っていただけるかもしれないが、他の戦士たちと比べると大変残念な結果である。
周りの人達大体2,000円以上は行ってた。しゅごい……
幸せだ。
無垢そうなヨークシャー・テリアである彼をただ愛でていればいい。
でも私達は覚えている。
狂犬のひきつった嘲笑を。
血に塗れた牙の鈍光を。
昔は誰もが知っていたのに、今となってはもう存在すら忘れ去られてしまったidたちの断末魔を。
人は彼ははてな村の村長だと言う、あるいは長老だと言う。誰もが畏敬する。
なぜだ? ただ古参だというだけで、ただ居座った、意地汚く居残ったというだけでそこまで?
間違えるな。彼は居座ったのでも居残ったのでもない。
「生き残った」のだ。
かつて、はてなは戦場だった。今となってはもう語るものすらいないほどの昔の話だ。だが事実だ。
そこは天上の地獄だった。毎日がだんじり祭だった。憎しみが連鎖し、血が血であらわれ、idコールは果し状がわりの白い手袋、マッチョがウィンプのケツを掘り、非モテどもには要は勇気がなかった。そんなキリング・フィールドで「ただ生き残る」ことがいかに至難であったか。あの時代を体験した人間で、自らの手を汚さずにいられたものなどいなかった。
そうして、上から目線ゲームがバベルの塔ばりの高さに達したとき、かつてはてなでバトルを繰り広げたバトラーやウォッチャーたちは神の怒りに触れ、そんじゃーねとばかりに現実へとディアスポラし、転職したり共著を出したり単著を出したり映画化されてみたりTBSラジオでメインパーソナリティを務めたりインターネットをバカと暇人のものにしてみたりモテないやつは脳に問題があると言ってみたり秋ごとに翻訳小説をハゲラッパーに紹介したりメンヘラとヤったり自分が死んだあとの世界を計劃してみたり女子高生野球部マネージャーにピケティを読ませてr>g野球に目覚めさせたりした。
名も無き弱者たちは地下へと潜り、今は増田と呼ばれる非ブログアクターとして現代はてな社会を新しい暗黒に追いやっている。
だが、彼だけは違った。
彼だけは、はてなを離れなかった。離れられなかった。なぜか。神がその存在を許したからだ。ここに在るように命じたからだ。
疑うなら最寄りの神社へ行ってもらいたい。
門の両脇に据えられた、二匹の犬の像を認めるはずだ。
彼らは地上につかわされた神使であり、エジプトのスフィンクスなどとも起源を一にするという。
向かって左の犬の像は、阿形、すなわちサンスクリット語における「しなもん」を表し、
向かって右の犬の像は、吽形、すなわちサンスクリット語における「ケンケン」を表す。
はてなには狭き門も広き門もなく、ただ遺物(ARTIFACT)を護る番犬がいるだけだ。
私達はその犬を、犬たちを畏れる。彼らは古参だから。彼らは生存者だから。彼らは勝者だから。
私達は犬たちを忘れることができない。
犬たちは不滅だ。たとえ肉体的な死を迎えたとしても、その眼は常に生き残る。左の犬の眼は私達を愛し、慈しむ。右の犬の眼は私達を監視し、専制する。
「カノセ」は「カオス」がなまった言葉だという。私達はそれを信じる。
はて「な」を「支」配する「者」、秩序(コスモス)を司るしなもんに対置される混沌。陰と陽。ふたつでひとつの世界。
しなもんとはkanoseであり、kanoseはシナモンである、というのは単に「神とは神のことである」とトートロジックに言明しているにすぎないだろうか?
そう、彼らは神である。自らに命令し、自らに従う最上位の権力だ。
今なら私達はローマの偉大なる詩人、ユウェナリスの疑問に応えることができる。
"しかし、誰が見張りを見張るのか?"