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はてなキーワード: バベルの塔とは

2014-09-03

http://anond.hatelabo.jp/20140902163444

理由くらい書けよ糞が

Windowsだけでしか動かなくてもいいからスタンドアロンプログラムが作りたい → (簡単なことだけでいいなら)C#、(メモリ効率が求められるなら)C++

他のWindowsプログラムがやっていて、多くの方が「できて当然」だと思っていることは、7割くらいであれば.NET(フレームワーク名)を叩けばできます

.NET対応言語C#VB.NET、J#、F#JScript.NETC++/CLIなどがあり、実際の開発においてはこれらの中から自分に合った言語を選ぶことになります

個人的感想ですが、この中で最もゆとり仕様なのはC#です。StackOverflowなどのノウハウが一番蓄積されているのもC#だと思います

「頻繁なアップデートを追跡しないといけない」「Visual Studio必要」という問題はありますが、がんばってください

なお、.NETメモリを食うので、数値計算みたいなことをしたいのであればC++が現状一番まともだと思います。がんばってください

Macプログラムが作りたい → Objective-C

昔のMacプログラムGUICarbonというライブラリで作っていました。今はCocoaというライブラリで作っています

残念なことに、どちらも言語Objective-Cです。がんばってください

ブラウザアプリが作りたい → クライアントJavaScriptサーバは後述

ブラウザアプリは、ユーザWebブラウザ(ChromeFirefoxOperaSafariなど)上で動作するシステムと、遠隔のサーバ上で動作するシステム連携して成立します。

従って、ブラウザアプリを作る言語は、サーバ用言語とクライアント用言語の2種類を考えなければなりません。めんどくさいですね。

ひとたびそのめんどくささを突破してしまえば、Webブラウザさえあればどこでも動くようになります。素晴らしいですね。

クライアント用の言語は、まぁ、JavaScriptしかないと思います。がんばってください

JavaScriptも(正直なところ)あまり褒められた言語ではないので、近頃ではもうちょっとまともな言語を作って、それをJavaScriptに変換する方法が取られたりします。CoffeeScriptTypeScriptHaxeとかですかね。がんばってください

JScriptかいう、名前が紛らわしい上にゴミブラウザ上でしか動かないゴミ未満言語もありますけど、そんなもんで作っても私の環境では動かせませんので悪く思わないでください。

iOSネイティブアプリが作りたい → Objective-CSwift

そもそも選択肢が全くありませんので仕方がないです。がんばってください

Xamarinがあるじゃないかって?まぁそういうのもあるかもしれませんね。がんばってください

Androidネイティブアプリが作りたい → Java

私の勉強不足で、Java以外の選択肢は知らないです。Java以外にあるんですかね?

*NIX用の補助スクリプトを作りたい → PerlPython2、Ruby

Perl使い捨てスクリプトを作るのに適していますCPANクライアントは昔から安定して動きません。だいぶオワコン化してます。がんばってください 私は鞍替えしました

PythonPerlより見た目がすっきりしたPerlです。easy_install・pipはすごく安定していてびっくりします(Windows除く)。3系とかいう邪念は捨てて2系教の悟りを開きましょう。がんばってください

RubyPerl(の処理系ソースコード)より(処理系ソースコードが)綺麗なPerlです。私の手元のUbuntuで「ruby」と入力すると「Command not found.」と返ってくることからも解るとおり、多くの*NIXではOS標準でインストールされておりません。昔のgemは何故あんなにすごい時間をかけてrdocを作っていたのでしょうか。日本人が作ったのでムラ意識の強い日本人の仲間が大勢ます。他の国は知りません。がんばってください

*NIX系のOSでミドルウエア的なものを作りたい → なんだそれ?何を作りたいの?

ゲームを作りたい → どんなゲームだよ…

言語処理系を作りたい → BNF、C

これ以上言語を増やすのはやめましょう。バベルの塔大勢人間が不幸になったのに、それを人間が自ら引き起こしてどうするんですか。

言語処理系を作るのであれば、BNFという言語で文法を定義して、yacc・bisonというツールに食わせればひな形ができます。ぶら下がりelseとの格闘が待ってますが、がんばってください

OSを作りたい → C

1からOSを作った方もいますが、デバイスドライバの流用などを考えると、だいたいはLinuxBSDソースコードを改変するお仕事だと思います

残念なことにLinuxBSDもCです。がんばってください

ブラウザアプリ用のサーバが作りたい → PHPJavaC#Go

昔はCGIと言っていました。所詮は80番ポートでlistenするだけのプログラムであり、BSDソケットをlistenできるライブラリを有する言語であれば何でもいいのですが、いくつかの宗教があります

PHPバンドネオンと同じくらい習得が困難な言語なのに、宣伝の仕方を間違えたために「自分はできる」と勘違いしたプログラマが暴徒と化し、イスラム教と同じくらい不当に低く評価されている言語です。きちんと勉強して使う分には、悪くない選択肢だと思います。がんばってください

Javaは、EclipseNetbeansといった超重量級IDEを起動して、Java EESpringといった超重量級ライブラリ依存したwarを、JbossWebSphereなどの超重量級アプリケーションサーバ上で動作させるため、メモリが貧弱な環境ではIDEサーバを同時に起動すらできません。サーバメモリが潤沢であれば悪くない選択肢だと思います。がんばってください

C#は、選択肢が全くないことを除けば、状況はJavaとあまり変わりません。Microsoftがお好きな方、何かの間違いでWindowsサーバを使わざるを得ない方であれば、悪くない選択肢だと思います。がんばってください

Goはよくわからないですがきっといい言語です。がんばってください

ちなみに増田はcpoll_cppspの勉強中です。がんばります

2013-09-11

我々の愛したはてサは死んだ。

かつて、はてなには「はてサ」が居た。

hokusyu、toled、Apeman、D_Amon、tikani_nemuru_M、y_arim、amamako…

彼らは、はてな空気を支配し、はてなという小さな村の中で行われるネットバトルの頂点に君臨していた。

ここはてな村では、「はてサ」こそが掟であり、常にネットバトルの中心にあり、ネットバトラー達の倒すべき敵だった。

はてサは、人々に憎まれ、愛されていた。

一方で、我々の愛したはてサとは決して戦火を交えず、しかし、もう一つの頂点として君臨する者達がいた。

モヒカンである

その体現者、otsune

モヒカンはてサが、はてな村の頂点に君臨した唯一つの理由。

それは、自らが絶対に正しい知識と正義を持ち、それを体現しているという自負である

モヒカンはてサは、自らの正義を信じ、敵対するあらゆる人間を攻撃して来た。

超長文をダイアリー投稿し、あらゆる異論に反論し続け、メタブックマークバベルの塔のように積み上げる。

驚異的な粘着力が、敵対する全ての対象を討ち滅ぼし、はてな村から敵を消し去っていった。

やがて、彼らの自負が、彼らの論理はてなの掟にまで伸し上げる結果とまでなったのだ。


だが何故、2つの全く異なる集団が、はてなの頂点に君臨し、互いに戦火を交えることが無かったのか。

これは、モヒカンはてサ論理の決定的な差異が原因である

モヒカンはてサは『他者への共感』において対極にあった。

モヒカンは他者への共感人間的に表現しない。

モヒカンには感情がない。

まるでbotが喋っているかのような非人間的な態度で、「私はあなた共感しますが」と箇条書きにするのだ。

モヒカンには心情に踏み込まない。

あるコード記述ミスを指摘するコンパイラのように、淡々と間違いを指摘して、去って行く。

それはもはやbotなのか、人間なのかすら判別できない存在であり、はてなに残る都市伝説だった。



一方で、はてサの支配する掟の中では、より弱者共感を示している側が正義だった。

共感文化こそが、はてサだった。

弱者へ思いを馳せること、抑圧者である自らを自省すること、それらをウェブ上で表現すること。

はてな村に流れ込んだ2つの源流、fjと、テキストサイトのうち、前者はモヒカンが受け継ぎ、後者はてサが受け継いだ。

はてサテキストサイトのごとく、自らの自意識ダイアリー上で表現していた。

どれだけ自らが弱者の現状に思い悩んでいるのか、どれだけ強者として自省しているのか、その自意識を、はてなダイアリー上で開陳し、

はてなダイアリーマイノリティ当事者が居たのなら、彼/彼女マイノリティとしての心情を理解して、

トリアージが「さくさく」と表現されていれば、オノマトペで心が傷付く人々が居るのではないか弱者に思いを馳せていく。

従って、はてサとの闘いは、自陣こそが本当の弱者の擁護者であるという立場を得るための闘いだった。

はてサとは『弱者共感する人格一貫性』によって担保されており、もしも、はてサ言葉が滑らし弱者蔑視したなら、彼ははてサとして終わるのだ。

こうして、はてサの敵対者は、はてサ弱者蔑視する瞬間を狙い撃つ。

あるいは、はてサの敵対者は、自らを真の弱者として規定する。

ダイアリー自意識的長文を書き連ね、メタブックマークタワーを積み重ね、自らが弱者に値することをはてな村表現していく。

しかし、はてサは露悪的だった。

はてな村おいはてサは掟であり、自陣と敵陣を分かつ者である

死ねばいいのにこれはひどい、脳の失敗、頭が悪い、魂が悪い、国語の成績が悪そう、プーックスクスクス…

はてサの敵対者が書き連ねた言葉は、一顧だにされず、蹴り飛ばされる。

その徹底的な共感姿勢と、敵陣への圧倒的な嘲笑こそが「はてサ」だった。

こうして、はてサは人々に憎悪され、愛されていた。



だが、はてサは死んだ。

最早はてなに、はてサの掟は存在せず、ホットエントリーには、痛いニュースアルファルファが乱舞して、ブックマークヤフコメと大差ないコメントが立ち並ぶ。

我々の愛したはてサは死んだのだ。

2010年ネットバトルの中心はTwitterに移行した。

はてサの強み、驚異的なメタ粘着力や、超長文による物量攻撃は、Twitterでは存在することも出来なかった。

文章は140文字に制限され、粘着的なReplyはワンクリックブロックで終了する。

そして、はてブTwitter連携が設置された時、はてサが支配したはてな村は、Twitterの波に呑まれてしまった。


はてな村ダムの底へと沈んで、3年が経った。

mojimojiを筆頭に蠢く放射脳反原発

"/"で弱者属性をbioに並び立てる当事者弱者ツイッタラー

それら市民を冷笑し、圧倒的強者として立ち続ける悪質クラスタ

しばき隊にヘサヨ、在特会


しかし、そこにはてサの姿は見えない。

hokusyuも、有村先生も、今ではただのツイッタラーしかない。

我々の愛したはてサはもう、居ないのだ。

2013-07-09

議論になってないと思うけど

http://anond.hatelabo.jp/20130709094912

土着化や現地語での宣教は正教から続く伝統なのにwww

漢語訳の祈りもしらねーのかwww

日本語しゃべるな、は言い過ぎだけど、単に昔からある日本の風習があるなかでは辛いんじゃね?ってことじゃん?

知らないままでよくこんなこと書けるな。

イスラム教と混同してるんだろうな。無知

イスラム教は批判しいても良い対象だということ?

http://anond.hatelabo.jp/20130709105108

聖書読んでみな。言語が多様にある原因は、バベルの塔の話に行き着く。

聖書前提で話されてもな。

この日本じゃ逆に

いい家柄のお嬢さん坊ちゃんキリスト教の古い方の派が多いのは、

関わりをそうやって「選別」する目的もあるかもな。

そうなのか?キリスト教って日本だと良い家柄が多い?

というか、まともに宗教やってる人は良い家柄が多いんだと思う。

何にしろお金をかけてこそ"ちゃんとした宗教"って感じがあるからじゃない、日本では?

http://anond.hatelabo.jp/20130709095614

「神仏を拝めないと辛い」としたら、お前みたいな奴が拝まない奴を差別するからだろう。

根本的に勘違いしてると思うけど、葬式とかに行って、自分の信念のためにこれが出来ないあれが出来ない、って面倒じゃない?

ってことだと思うんだけど。

別に拝め、ってわけじゃなくて、自分の信念上あなたがたと同じ事は出来ない、というようなことが

日本の伝統的な儀式の中にたくさんあるとあれじゃないかな?って。お祭りとかもそうでしょう。

逆に信仰心の低い日本人なんかは何も関係ないクリスマスで大盛り上がり出来るわけで。

何より、ここだけでこれだけキリスト教の人が居るということに驚いた。

ま、半分は同一人物だったりするのかもしれないけど。

2013-07-07

ヨハネスブルグの読者たち

うあああ自称SF読みども超気持ちわりーーーーーーーー。

(13.7.11追記) うわああああ気持ちわりーブクマいっぱいついてるううううー。

伊藤計劃幻視したヴィジョンをJ・G・バラード手法で描く、というが読後に感じたのはバラード的なものを読んだというよりは、90年代に読んだいくつかのサイバーパンク小説に通徹していた一種の非情無常をはらんだ物語たちのことであった。バラードテクノロジー3部作や『ウォー・フィーバー』に近いものがあることも確かだがそれらと比較するのは野暮であろう。これは21世紀に生きる我々の問題を扱った「今」を生きる小説なのだから


政情不安内戦グローバリズムの暗部、といった人類の憂鬱現在未来。そこで生きる人々の日常とともに、「未来ガジェット」をも魅力的に描き出す。現代日本SFにとって亡霊のような存在になってしまっている伊藤計劃が、代表作『虐殺器官』で実現したこのスタイルを、宮内悠介はこの『ヨハネスブルグの天使たち』で踏襲しています


テロが頻発し、持つ者と持たざる者が極端に現れつつある現代社会の延長線上に待つものは何か?それを問うているのが本書である。(略)どのような宗教民族イデオロギーといった価値観は対立するものと表裏一体であることを、強く意識させられる。

「今を生きるための小説」「グローバリズムの暗部」「イデオロギーの対立」「民族紛争」「考えさせられた」…。

いつからSF読者こんなに気持ち悪くなったの?

SF小説それ自体が社会を語るものであることは否定しないけど、

「とにかく作品を通じて社会を語らなければならない」という強迫観念が、同調意識として

ここ最近増しに増してるのはなんなんだよ。あー気持ち悪い気持ち悪い。

伊藤計劃の『虐殺器官』『ハーモニー』といった大天才の大傑作があって、以後立て続けに批評家レビュワーによる伊藤作品を踏まえた社会評が発表されて、

あーやべーSFスゲーじゃんめっちゃ社会語れんじゃん、俺が社会語れんじゃん!といった風潮ができて。

虐殺文庫版が10万部を超えるベストセラーになり、SF野郎のみならず意識高い学生たちもここぞとばかりに殺到し、ぼくのわたしの社会評を発表する最高にダルい場所ができあがった。あー気持ち悪い。

しかしその死後気鋭の作家ポンポン表れるはずもなくて、ラノベ作家による駄作JA・Jコレの連発にガッカリしながらも

いかに救いようのないゴミを褒めちぎるかとか、イヤミスブームに乗っかったどうしようもない駄作コミュニケーションを図ったりといったあたらしい遊びで時間を潰したり新時代体現する新人作家を探していたのは読者も恐らく出版社も同じこと。

そこにようやく以後を書けそうな作家が現れた。それが「盤上の夜」で創元SF短編賞山田正紀賞を受賞した宮内悠介

小説の腕それ自体は処女作がいきなり直木賞候補にノミネートされたことで折り紙つき

そんな奴が地域紛争911テーマ連作短編集を出したもんだから既存社会語りたいおじさんはもちろん、伊藤ウェーブに乗り遅れたぼくも社会を語りたいぼくがわたしが殺到して、結果こんなんになるよねーって感じ。

おまけにそのムーブメントを煽るような帯。”伊藤計劃幻視したヴィジョンをJ・G・バラード手法で描いた”。

何が言いたいのかさっぱりわからないが社会語りたいマンにはこれが何かの免罪符に見えるんでしょうかね。

やるせない。そういう思いが読後、胸の中を占め尽くす。登場する高層建築物言語宗教の問題はバベルの塔彷彿とさせて。間違いなく、9.11後、世界の在り様は変わってしまったのだろう。作中で言うところの分岐点だったのかもしれない。DX9はそのままLARsの運用問題を問うているように思える。DXに人格コピーすることは果たしてその一つの解になり得るのか・・・考えさせられる良作だった

こういう輩は「意識させられました」「考えさせられました」をいくら繰り返したところでなんの意味もないことを社会科見学で学ばなかったんだろうか。

んなもん「あなた恋人が突然死んでしまったら、どうしますか?」系クソ映画感想にでも垂れ流しとけばいい。

お前は著者が丁寧に羅列してる参考文献の一冊にでも手を伸ばしたのか?

せめてタイトル検索をかけるくらいのことはしてるんだろうな?

最後に賢そうなことを言おうとして一番アホっぽく見える、最大公約数感想引用して終わる。あーイラつく全員死ね

まず舞台がねー、ヨハネスブルグニューヨーク、ジャララバード(アフガニスタン都市)、ハドラマウト(南アラビアの一地域)、それから西東京バリエーションに飛んでいるがそのいずれもがアフリカやら中東あたりのなんかとっても危なそうな地域と絡んでいる(すげー知能の感じられない把握の仕方だが)まずこの舞台設定が珍しいよね。

追記。

補足で言いたいことはだいたいブクマで書いてもらってると思うんで、

twitterに書かれてたこれにだけ返事しときます

ところで他人の感想をこき下ろした本人は”ヨハネスブルグの天使たち”を読んでるのかね?そしてなぜ自分感想を書いて勝負しないの?作者である宮内先生にではなく、近親憎悪的に他の読者に当り散らすのはなぜ?つまり一番語りたがってるのは自分なのに、口に出すのが怖いの?やり返されるから

A1.読んでます

A2.えっ…感想で勝負?wwwwしょwwwか、かか、かんそうで、しょ、しょうぶ?

  感想ってあの?か、かんそうでww??しょうぶwwwwか、感想でしょwwww勝負www

  ブハーッwwwwプッ…クハッ…ゲェェェェーッwwwww

  褒めちぎり野郎が互いのレビューを舐め合うためのセルフプロデュース会場での相互オナニー作法なんざ知るか。

  小説はてめえの装身具でも承認欲を満たすためのツールでもねえんだよ。本から出てけ。

A3.俺が気持ち悪いと思っているのは作者でも作品でもなく読者だからです。

  ブクマで「SF小説はそもそも社会を語るものから~」とかいってるバカ共もそれくらい読み取ってください。

  「お前は本当に気持ち悪い」という文章からSFは昔からそうなんだ」とか「お前はどうなんだ」を導きだして「感想で勝負しろ!!!」とか抜かしちゃう人すごいなー。ボーグバトルじゃねえんだぞ。

  あー気持ち悪い。

2013-03-10

今の

今のシステムエンジニア仕事に求められている水準というのは、人間に達成できる内容なのだろうか?

それも専門的教育を受けていない、働き出してから怪我をしながら学んだ人に達成できる水準なのだろうか。

はいソフトウェア工学やらプロジェクト管理工学やらを持ち出すと「机上の空論」「現場は違う」とか言い出すのだろう。そりゃそうだ。自分現場育ちなのだから、そこを尊重したい気持ちが何より先立つ。理論を持ちだされても素直になれない。今現場SEをしている自分に理解できないことをもってこられても恥ずかしい。

ソフトウェアやら構築やらSIやらには免許が要らない。そのための国家試験もない。認定の国家試験はあるけど、前述の理由で価値が認められていない。現場優先とは聞こえがいいけど、それは単に自分価値を最大限にしたいだけだ。

もう無理なんだよ、知識のない人間には。現場人間は手足であって、頭になれない。ちゃんとした頭が必要で、無理なことを解決するのに無茶を投入する知恵のない人は要らないんだよ。下請け給料が安いのは当たり前なんだよ。交換が効く手足なんだから。頭のほうが価値があるに決まってるだろ。頭の足りない元請けがいる、なんていうなよ? 元請けの時点で覚悟しろって意味なんだから

はいえ、もう誰も完成できない、バベルの塔ばかりだと思うよ、SI

2012-07-06

私がオタキングexを辞めた理由 その5

http://anond.hatelabo.jp/20120706010536

の続き。これで終わり。

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私がオタキングexを辞めた理由 その5 理念喪失

exというシステムは、その中心となる人物には清廉さなり、自ら率先して情報開示・ 説明責任する必要がある。払っている人たちから(見返りを求められているとしても、大半は善意で)お金をもらっている以上、それに対して自分がそれを得る にふさわしい人であることを証明し続けなければいけない。でなければ人員の入れ替えがあっても、組織として、岡田斗司夫が目指している10年以上という長 期にわたり続けることはできない。

だが、最近オタキングexは「社長独裁」ということが強調され、exというシステム必要な透明性がどんどん失われている。

当初の計画が狂ったというならばそれでも問題ない。ただ、なぜそのような行動にでるのか、思いつきや「何かが降りてきた」というだけでまともな説明責任果たしていない。これでは返って不信を招くだけだ。

お 前(私)が言えよ?明に暗に各所で言い続けてきたのだが、見過ごされてしまったようだ。そもそもこれはex社員である誰かに促されなくても、組織独裁正当性を示すために、岡田斗司夫自身が率先してやらなければいけないことだ。でなければ、人を魅了する組織であり続けるのは難しい。

オタキングexはその理念にもある通り、「人類苦痛の0.3%を軽減する」という岡田斗司夫が立てた目標の実現にためするために作られた。

自分を含め、何もない状態で最初に集まった社員は、多かれ目標にその目標に感銘なり共感して入社したはずだ。「岡田斗司夫がやりたいことを実現する、あるいは岡田斗司夫個人に尽くすための組織」に入ったわけではない。

ただ、その組織の中心にいる人物は「今自分がやりたいこと」を優先して、目標のためにやらなければいけないことを「辛いのがイヤだ」という子供のような理由で避けている。あるいは自身への個人的忠誠を求めるような行為に走っている。

前者は前にも説明した、劣化した週刊アスキーの連載が好例だ。

後 者は私が直接辞める原因になった「☆制度」がそうだ。社員自分オタキングexでしてきた仕事や実績とその所要時間数を申請させて、それに対し岡田斗司 夫が感謝の意を示し「☆」を与えるというものだ。この☆をバベルの塔プロフィール欄で名前の後ろにつけるのを義務付けている。「代々木アニキ★☆」と いった具合だ。☆は時間数に対して与えられるもので、★は時間とは関係なく岡田がその人の個人実績として認めて与えたものだ。

評価経済導 入の実験の一環ということで始まったが、私自身この仕組みがどうにも受け入れがたいほど気持ちが悪かった。☆は岡田斗司夫が個人に対して与えるものであっ て、社員同士あるいは社員岡田斗司夫をといった相互評価する仕組みにはなっていない。当初は年間12万円払えば何もしなくてもいいという話だったはずな のに、これでは12万円払った上で仕事をしないと居づらい仕組みになってしまう。

岡田斗司夫が実社会では無価値ものを与え、それを社員はありがたく頂戴しなければいけない…。ってこれだと最初あれだけ否定していた「怪しい宗教組織」と大差はない。他にもこの制度について言いたいことは山ほどあるのだが、それについては割愛する。

こ れが導入されたのは2011年8月だが、11月半ばからは今まで自分がした仕事を申請して、かつ☆をつけないものは翌年度以降は社員更新は断るという お達しが出た。しかも、今まで申請してこなかった人は謝罪文を出さなければいけないというおまけつき。それを順守しなければいけない理由として岡田斗司夫 は「ex独裁制から社員社長の言うことを聞かなければいけないから」と説明した。

導入時から自分はこの仕組みに対して反対だったことに加え、謝罪はしたくないし、する理由もない。それまでに鬱積したものがついに爆発するような形で2011年11月17日退職届を出した。

私 を含め、昨年末から退社した一部社員の間では、社員更新時期を迎えずに退社宣言することを「脱北」と言っている。「理屈民族都市国家」という「地上の 楽園」をうたいつつ、周りには個人的忠誠を求め、☆というチャチな勲章を与え、自らは絶対的かつ安全ポジションに君臨しようとする岡田斗司夫を、北朝鮮独裁者になぞらえてのものだ。

国家運営に失敗している北朝鮮強気な発言をし続けなければ成り立たないように、岡田斗司夫exやクラ ウドシティは今のやり方が自分が作ったルールに沿っていて、目標に向かっているし、道筋も見えていて、前進していると言い張るだろう。でも、実態は私が説 明してきた通りだ。クラウド市民の方々が成功と判断するか、失敗と判断するかは、今後出てくるであろう他の元社員コメントなども参照した上で判断してい ただきたい。

ちなみにこの文章は当初、オタキングexを去った・あるいは去る予定の人、そして今後も在籍する予定の人を含めた有志に公開 し、転載も自由としたが、今まで社員SNSバベルの塔」には転載されなかったようだ。私の言い分が全て正しいとは言わない。それでも、今後FREEexクラウドシティの運営を改善していく上で幾分かは聞く価値はあるはずだ。それでも岡田斗司夫に伝えなかった・伝わらなかったということは、耳に痛い・都 合が悪いことは「無視する」「上に伝えない」ダメ組織に成り下がったということなのかもしれない。そもそも岡田斗司夫が耳にいたい・都合が悪いことは聞 かなかったことにする性格だが…。

この文章はクラウドシティでそれなりに注目を集めているはずだが、私の発言の是非について、おそらく退 社した(退社を決めた)社員を除けば、誰一人としてクラウドシティ内の日記コミュニティコメントをしていないはずだ。最近バベルの塔では、立ち上げ当 初からあった、岡田斗司夫自身は読めず社員けが書き込み・閲覧が可能な、岡田斗司夫に対する愚痴を言うトピックが本人の要望で撤去されたと聞く。それか ら察するに、自由に何かを言える雰囲気ではないのかもしれない。

ここに至るまで岡田斗司夫に付き合ってきたex社員は、現状に責を負う ところはあるか。社員だった自分自身を含め当然ながらある。ただ、コロコロ変わる方針や思いつきで増える作業、その揚げ句自分で始めたことなのに「疲れた から休む」とわがままを言ったり自分で決めたルールすら忘れる岡田斗司夫に、今いる社員はついていくだけで精一杯なはずだ。

繰り返すこと になるが、目標へ到達するための途中の道は間違えても構わない。ただ、ある決断がそのときは正しかったという履歴を残せないのであれば、将来その組織が目 標に到達したとしても、正義をなしたとは認められないし、「よい組織だった」とは言えなくなる。オタキングexのように、活動記録の大部分がネットに残っ ているならなおさらだ現在オタキングexにおいて、立ち上げからいる社員の少なからずが不満なりわだかまりを明らかにして退社を宣言している。岡田斗司 夫がそうした正しさを示せていないからだ。

今のオタキングex理念にある「人類苦痛の0.3%を軽減する」ための「考え方のOSの普 及」には努めていない。社員が企画したオフ会より参加者が少ないディズニーリゾートUSJでのイベントは、参加者の数が示すように需要がないし、そもそ も傍目から岡田本人が遊んでいるようにしか見えない。目標を実現する過程は「楽しく」あるべきだが、それは決して「楽」をすることではないはずだ。

そ してこれ(と同時にクラウドシティにおける、社員たちの私の文章にた対する無反応)は、岡田斗司夫が自ら課した苦痛の「軽減」ではなく、安易な「逃避」に ほかならない。逃避は、岡田自身が「クラウド市民憲章」で語った理屈民族の悩みの解決方法(解決、発散、依存、逃避)のうち、「理屈民族のフォロー範囲 外」とされるものだ。http://ja-jp.facebook.com/CloudCityex?sk=app_7146470109

オタキングex理念は、岡田斗司夫自身さえも書き換えを認めていないと宣言している。その組織の根っこである理念からexの対象である岡田斗司夫本人が離れてしまったと私は考えている。もっと厳しい言い方をすると、ex理念は失われてしまった。

そうなった組織存在価値はないし、そこに居続ける意味はない。

かい個別事例なども指摘すれば言えることはほかに幾らでもあるが、オタキングexFREEexが抱える問題点を整理した上での私の退社理由はこんな感じです。

私がオタキングexを辞めた理由 その4

http://anond.hatelabo.jp/20120706010332

の続き。

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私がオタキングexを辞めた理由 その4 説明責任の欠如

クラウドシティ市民比較して、オタキングexFREEex)の社員には何のメリットがあるのだろう?何が面白いのだろうか?

誕生月の社員ブレイン)は、岡田斗司夫わがままを聞ける・定例会に参加できる・仕事ができる「権利」が手に入る。具体的な仕事は イベント運営 クラウドシティ運営 文字起こしコピペ メルマガブログ その他雑務

といったところか。

安定したコミュニティという居場所がある、古くからいる社員にとってオタキングexはそれなりに居続ける意味はあるだろう。

でも、新しく入る社員は数十人と新たな人間関係を築きながら、明文化されていないどころか、猫の目のように変わる岡田斗司夫が作った細かいルールにお慣れていかなければならない。しかも、そうしたルール自分で作っておきながら、岡田斗司夫自身が忘れたり反故にする。今、オタキングexFREEex社員になる魅力は乏しいはずだ。

2011年の後半に新入社員が2人しか入らなかったのは当然だろう。というか個人的には入ってきたこと自体が不思議だ。社員になって、まずできることは「文字起こし」でしかなかったりするので。

前にも書いた通り、意味ある講演を文字起こしするならそれなりに意義があるだろうし、面白いかもしれない。でも、社員との雑談レベルTS講義とか、定例会の話を聞いても面白いわけではない。今後有効利用されるかも分からないし、やるモチベーションもわきにくい。

単純に考えると、社員になることによって得られる充足感は、クラウド市民12倍以上でなければいけない。では、その12倍以上に値するものは何なのか?自分exの初期から社内全体に対して問い続けてきたが、その答えは出ていない。

それを明確にせず、勢いだけで進めてきたツケが今になって回ってきているのでないか

業務を遂行する社員新陳代謝がうまくいくという前提が立てば、市民社員の違いについては考えようはあった。

でも、社員が純減している先細りの現状では市民にも雑務を頼まなければならないのだろうし、そうすると社員市民の違いは「バベルの塔に入れるかどうか」くらいでその線引きはさらあいまいになる。

その結果、社員にできる仕事市民が引き受けたがらない、あるいは引き受けられない仕事ばかりになってしまう。「仕事権利」?いやぁ、誰もやりたがらない仕事には買い手はつかない。実際、ブログ更新会計処理といった仕事はエーアイエルロケットといった社員が運営している会社にやってもらっているわけだし。

そして、このエーアイエルロケットオタキングexの関係、これが問題だ。

市民は1万円払って「岡田斗司夫交流できる」「何かを学べる(現状はその体制ではないはず)」「その他社員市民交流できる」権利を得る。また、それだけの対価を払っているのだから、当然ながら市民が増えるにつれ、サービスも向上しなくてはいけないし、求めるはずだ。

だけど、クラウドシティが始まってから市民から徴収したお金サービス向上に使っことはあるのか?

ないに等しい。

エーアイエルクラウドシティ市民から徴収した費用の現状の主な使用用途は、自分が知っている限りでは東京で月一回開催されるブレイン会議定例会社員を呼ぶための交通費だ。その交通費クラウドシティサービス向上について議論するために使われているなら問題ないのだが、自分がいた時期にそうしたことについて話したことは皆無だ。ブレイン会議自体、「議論する場」ではなく、「限られた社員岡田斗司夫の言うことをナマで聞く場に」なってしまっている。

会議交通費を使って呼び寄せる地方社員も当初はブレイン会議への参加資格を持つ人(当月が誕生月の社員)だけだったのだが、資金に余裕ができるようになってからは、誕生月でなくても業務に携わっている人を呼び寄せるようになった。その結果、クラウドシティの使い勝手がよくなるなどサービスが向上したか?おそらくない、あるいは逆に使いにくくなっているのではないか

ex社員交通費は支払われるが、そもそもクラウドシティの会費を徴収しているエーアイエルお金がいくら集まって、そこからどれだけ出ているのか、といった出納の実態は、おそらくエーアイエル社長である教え人のシゲルさんと岡田斗司夫しか把握していない。

クラウドシティの会費をどのように徴収して、どのように処理するかについては紆余曲折があってエーアイエルが引き受けることになった。当初はexex社員とは関係ない企業に徴収を外部委託していた。しかしその委託先の対応が悪いということで岡田斗司夫がエーアイエルに切り替えた(その過程クラウドシティの会費58万円が違約金として外部委託先に使われている)。

お金が絡む話は遺産相続などにもあるように、親しい間柄でも(だからこそ)揉め事になりやすい。だから間内で扱う場合お金の流れを明らかにしないと不信が生まれやすい。そうした事態を憂慮して、2011年半ばにクラウドシティの金のフローについて一部社員が詰め寄ったが、岡田斗司夫社長案件ということでうやむやにしてしまった。

シゲルさんは職業訓練講師をしていて、そこの生徒に入会処理の手続きをやってもらっていると聞いている。これはあくまで私の推測だが、クラウドシティの入会処理だけではその生徒に安定した収入をもたらすのは難しい。なので、おそらく入会処理のための1件あたりの料率を高くせざるを得ないといった実態があるのかもしれない。いずれにしても、人件費は賄えても、クラウドシティの入会処理はシゲルさんを潤わせるほどのビジネスにはならないはずだ。生臭いかもしれないが、そうした事情を説明しない理由はない。

ex社員関東関西に集中している。この2ブロック社員定例会イベントに限らず、普段から会ったりとリアルでのコミュニケーション比較的取りやすい。地方社員クラウドシティの会費を使って会議に呼び寄せるのは、そうした物理的な環境からの隔絶で生じるコミュニケーション格差を解消するため(それだけではないが)の措置でもある。

こうした説明を市民に公にした上で、それが市民が納得できるだけの正当性を持つものだと判断できてから導入するのが筋だろう。いずれにしても、ex社員シゲルさんを除いて、クラウドシティの会費がどれだけ何のために使われたのかは知らない。評価経済標榜するからには透明性が何よりの評価対象になるはず。なのに、それを提供しているクラウド市民に対する使用用途の説明責任をないがしろにして、「何となくそこにある便利なお金」としてしか使っていない。

さらおかしいのが、とあるex社員Aが社長を務めている会社ロケット」だ。元々はとある社員Bの会社剰余金120万円で何かできないか、ということで始めたお遊びだった。ところがBがAに出資するにとどまらず、岡田斗司夫自身もなぜか出資し、Aはロケット社長であると同時に専業社員となってしまった。

ロケット岡田斗司夫コンテンツの物販でビジネスをする会社だとex社員に対しては説明している。

オタキングex自体、岡田斗司夫コンテンツをタダで提供するためにできた組織なのに、これはどういうことなのか?しかもその会社岡田斗司夫出資している。営利企業出資している以上リターンは求めなければいけないし、利益を出したら当事者になってしまう。

となると、当初自分が言っていたことに反して、コンテンツで儲けるためのビジネスをしているということになる。これはオタキングexが始まった当初の考えからは大きく離れていないか

方針の変更はあってもいい。世の中思い描いていたことがそのままうまくいくことはあまりないので。でも、岡田斗司夫はそうした方針の変更についての詳細な説明責任ex社員クラウド市民、そして公に宣言した世間に、「面倒だから」と一切していない。

というわけで、次で最後になります

私がオタキングexを辞めた理由 その3

http://anond.hatelabo.jp/20120706010230

の続き。

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さよならオタキングex 私がオタキングexを辞めた理由 その3 改訂版 行き当たりばったりな方針

岡田斗司夫は言うことに一貫性がない。私がオタキングexにいる間はその行き当たりばったりに振り回されるばかりだった。

2010年末に岡田斗司夫が掲げた2011年目標は「レコダイイヤー」にすることだった。レコーディングダイエットは本人の最大のヒット作だし、本人も2010年からリバウンド気味だったこともあり、そこを糸口にクラウドシティexの活動を広げていくのはよいことだと思った。

ただ、2011年3月にはその方針はどこかへ消えてしまった。春から夏にかけては大阪NHKカルチャーでレコダイ講座を実施したが、それも客いじりに終始してしまうような内容だった。

これに加え、昨年は本人が誰から見ても疑いようがないくらいリバウンドしてしまった。本人はこれをニコ生で「わがままボディだから」の一言ごまかした。

さらに、社員SNSバベルの塔では「自分が太ったのはオタキングexを作ってストレスたまるようになったから」と言い、体重を気にした社員に対しては逆ギレするという大人げない態度を露わにした。

最大の問題は、提唱者本人がリバウンドしたことで、レコーディングダイエットのものの信頼性が損なわれてしまったことだ。そして、本人がレコダイから評価経済、そしてノート術など本人の著作が同じ世界観にあると言っているように、レコダイの信頼性が損なわれたことで本人の言説の信憑性も低下してしまった。

本人はこうした過去の失敗については全く反省しない。それどころか、「これまでの失敗はここにたどり着くまでに必要なことだったんだ」と失敗を肯定してしまう。

それが本人だけに関わることならいい。また、目標に向かううち、仕方なく寄り道して、壁に突き当たるのもいいと思う。でも、地雷が埋まっていると分かっているところを、自分だけでなく他人にもわざわざ突き進ませる。それに付き合わされるのはたまったものではんあい

個人的には、社員精神的な負担が大きい、オタキングexシステム制度変更を何度も繰り返されるのは見ていて歯痒かった。大半が、熟慮の末導入したものではなく、思いつきでやっているとしか見えないことだった。その結果多くの人のやる気を削いでしまったし、「またどうせ変わるだろうし」と、士気も低下してしまった。

自分を含め、社員の使える時間は有限だが、いたずらに時間を浪費されるのはたまったものではない。

からここ1年の岡田斗司夫、そしてexの活動は明らかに勢いがなくなっている。本人はここ1年のメディア露出は減るばかり。ニコ生レギュラー番組はできたがここ1年はテレビラジオへの出演はゼロ。「東京ドームを目指す」はずなのに、確実によりマイナー存在になっている。

社員をみると、社員数そのものは昨年と比べると純減しているし、コンテンツ出力にしても、メルマガ公式サイトへのアウトプットがしにくい、あるいは分散している状況だ。モチベーション言わずもがなで、全体を見るとかなり低下している。

こうした問題が全て凝縮されているのがクラウドシティだ。

バベルの扉」の延長で、2011年2月の3冊同時発売に合わせる形でかなりドタバタで始まった。だから見切り発車でスタートして、コンセプトや位置付けが当初から明確でなかった。その前身の「会員組織」を作るかについて2010年4月から議論していたが、社員と会員との明確な線引きや位置づけは明確な落とし所がないままだった。

これが問題だと認識していたので、、私は2011年ゴールデンウィークで開催された合宿時に「クラウドシティとは何なのか」について議論を提案した。でも、岡田斗司夫自身、実行に移すための具体的なプランを考えるのは苦手だ。

核になるのは岡田斗司夫というブランドと、何かを学べる場所であること、そしてユーザー間の交流ということだったが、すっきりした答えはでなかった。今もそれを実現できる場所になっているとは思えない。

自分自身もどこが落とし所なのか1年半近く考えてきたけど、どうすれば明確な線引きになるのか、未だに分からない。

いずれにしても、社員市民の線引き、導線、何が面白いのか、など色々考えたり議論すべきことは多かったはず。だが、その都度方針が変わり、文字起こしなどやるべきことが増えているうちに1年以上経ってしまった。気がついたら整理すべきことが増えすぎて、ぐちゃぐちゃな状態は解消されていないままだ。

から自分自身の反省も兼ねて、昨年11月に辞める前のコア会議で、クラウドシティに関してはよりシンプルに、かつ目標を絞った中期的なプランを提案した。ただ、岡田斗司夫は面倒で分かりにくく、かつ面白くもない方針を導入しようとするばかり。さじを投げざるを得なくなった。

オタキングexクラウドシティも今のままだと、長期的視野がないまま、面白くもない仕事ばかりが増えて漂流する状態が続く。そうした現状を自分を含め、社員市民が言い辛い雰囲気になってしまっているのがそもそもの問題なのだが。

クラウドシティはこれ以外にも、問題があるのだが、それについてはまた後ほど続けます

私がオタキングexを辞めた理由 その2

http://anond.hatelabo.jp/20120706010047

の続き。

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私がオタキングexを辞めた理由 その2 岡田斗司夫人格

岡田斗司夫は「面白い人」かもしれないが、「いい人」では断じてない。

過去の著作やイベントに参加してきてそれは知っていたが、それでも敢えて私はオタキングexに入った。本人が言うとおり、exというシステムを立ち上げたが最後、後戻りは極めて難しい。なので、自分はそれなりにファンをやってきたこともあって、そうした酔狂に付き合ってみようと考えた。

ところが2010年3月オタキングexに入ったとき、驚いたと同時に「これはまずい」と思ったことがある。岡田斗司夫の旧知の編集者exほとんど入っていなかったのだ。厳密には一人だけいたが、彼は12万円も払わず個人的な事情もあって、除籍扱い、つまり「いなかったこと」にされてしまっている。

それ以外の編集者もいたが、付き合いが短い人ばかりだ。ダイヤモンド社編集者2人はex設立前の取材で意気投合して入社したことになっているが、バベルの塔にもほとんど書き込みをせず、2年目は当然ながら契約更新しなかった。今のところプロ編集者exに在籍しているのは1人だ。

最大のヒット作である、「いつまでもデブと思うなよ」を担当した新潮社出版プロデューサーは?あるいは過去に本を色々出した太田出版は?マンガ夜話アニメ夜話をあれだけやったNHKは?12万円は負担かもしれないが、1万円で済むクラウドシティなら自主的に入ってもいいはずだ。今ならメディア関係者はタダだ。

これについてはバベルの塔内で本人に問い詰めたことがある。「クラウドシティ編集者とか入ってないじゃないか」と。本人は「これから新しく仕事をするマガジンハウス幻冬舎の人などは入る(入っている)」と言ったが、私が言いたかったのは「なぜ、過去仕事をしてきた人が入っていないの?」だ。実際、クラウドシティには未だに新潮社の人、あるいは「遺言」の筑摩書房の人も入っていないはずだ。

さらに付け加えると、現在、対外的な露出で一番重要仕事であるはずの、週刊アスキー朝日新聞担当者クラウドシティに入っていない(ニコニコ動画担当者は入っているが、やりとりはex担当者と先方とでやりとりしており、クラウドシティには「いるだけ」だ)。

仕事クラウドシティ市民が見える形にガラス張りにするという原則があるはずなのだが、それが徹底されていない。ただ、これは本筋ではないのでいいとする。今までと仕事のやり方や接し方が変わることを考えたら、誘わない方が面倒は少ないので。

問題は先方を誘わないことではない。「何で向こうから自主的に入ってこないのか?」だ。

今後の付き合いということを考えたら、編集者にとっても岡田斗司夫と何らかのつながりを持っておいたほうがメリットはあるはずなのに、新規で本を出す出版社以外に、手を挙げてクラウドシティに入ってくる人は一人もいない。

なぜか。その理由は簡単だ、岡田斗司夫が「面倒なヤツ」で、積極的には付き合いたくない「イヤなヤツ」だから

器が狭くこらえ性がないのに、他人が自分に対して寛容であることは当然だと考え、人には耐えることを強要する。自分には甘く、他人に厳しい。過去の言動を見る限り、言っていることは面白くても人生目標たりうる人物には到底なりえないし、仕事以外では積極的には付き合いたくない。

昨年から、(表向きは)クラウドシティ経由でしか仕事を受けつけないようにしたことで、さらに面倒な人になってしまった。ギャラがタダでも「仕事はタダで引き受けます、でも、やりたいことしかやらないし、そのためにはこのやり方でないとイヤだ」、と言われたら、掲載についてポリシーを持っているところほど交渉の余地は少ないし、一緒に仕事をしたいと思う人はいなくなる。

大体、小額であっても、原稿料なり出演料を払うのは、最終的な責任編集権・編成権は掲載・出演させる媒体にあることを明確にするためでもあったりする。ギャラを一切もらいません、というのは相手がそうした責任を負えない存在になりますと宣言されることで、相手からすれば困ることだ。

こうして岡田斗司夫は自らメディアにおいて出演が望まれざる人物になっている。自分の考え方をより広めるために始めた団体なのに、その対象を狭めているのはどうなのか。

個人的に失望したのが、2011年8月関西定例会で本人が「この組織は誰も仕事しなくても、あるいは残らなくても、私さえ残ればいい。だから、私の目的を達成するための近道はみんなが文字起こしをやることだ」と言ったことだ。

ある目的があって、志半ばで倒れるのは仕方がないかもしれないが、堂々と「お前ら捨て駒になれよ」と言われるのはたまったものではない。

また、イベントなどレジュメがある話を文字データ化するのは意味があるだろう。でも当時、本人は本人が話した他愛のない話を含めた全ての音声を記録した上で、文字データ化しろ、と言った。そこにかかるムダな労力についても、「お前らに仕事をする権利を与えよう」とでも言わんばかりだった。

出版社編集者はこうしてできあがった膨大な文字データ社員と一緒に拾集めれば書籍になる、とも本気で信じていた。音声データを文字化すると同時に何がそこに書かれているかを整理する方針も決めていないにも関わらず。

こうした言動が示しているように、岡田斗司夫は人を使い捨てすることに全く躊躇がない上、自分はそうする権利があるとも考えているし、実際オタキングexもそういう仕組みになってしまった。

岡田斗司夫自分友達はいなくて、仲間はいるというのが口癖だが、私は「仲間」すらいないと認識している。いるのは自分にとって「都合がいい人」と「そうでない人」。あるいは「仲間」=「自分にとって都合がいい人」。そう考えると、岡田斗司夫の行動原理は分かりやすい。

これらは全てDAICONフィルムガイナックス時代から繰り返してきたことなのだろうが、齢50を過ぎてなお、過去とやってきたことから変わっていない。

本人からすれば「ずっと同じ人と何かを継続していくのが苦手なんだ」と言うのかもしれないが、そうやってその都度仕事相手やファンを切り捨ててきたことで自らの評価を下げ続けてきたことは理解していないのだろうか。あるいは、もうすでに新しいファン・読者層を開拓する余地は少なく、新規開拓=レッド・オーシャンだということも。

信じられないことに、こんな人がこれから「いい人戦略」の本の著者になろうとしている。本人が「イヤなヤツ」だからいい人戦略を採ろうとしているにしても、exクラウドシティでとっている行動はその戦略からはほど遠い。しかもその本は本人の講演を社員文字起こしして、社員執筆するものだったりする。そうした本に説得力はあるのだろうか。

そして何より、本を出す出版社の方々はこうした事情をご存じなのだろうか。

続く。

さよならオタキングex 私がオタキングexを辞めた理由 その1 

以下は2月岡田斗司夫の会員制SNSクラウドシティ」に辞めた社員が残った社員クラウドシティの会員のために書き残した。

http://anond.hatelabo.jp/20120527012755

http://anond.hatelabo.jp/20120527215622

も参考に。

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さよならオタキングex 私がオタキングexを辞めた理由 その1 「自ら率先して能力を低下」

私は2010年3月の立ち上げからオタキングexに参加していました。2011年に入ってからは実績と言えるほどの仕事はしていません(できなかったというほうが正しい)でしたが、2010年オタキングex公式サイト制作やその後のコンテンツ管理など、それなりに貢献はしてきたと考えています

「参加していました」と冒頭で言っているように、現在退職しています。正確には、2011年11月17日付でオタキングex社員向けSNSバベルの塔」に岡田斗司夫や他の社員の目に必ず触れる形で退職届を出しました。

退職をする際、岡田斗司夫が提示したある方針に納得できないことを理由に挙げましたが、実際はそれほど単純な話ではありません。様々な不満の蓄積が積み重なっての結果でもあります

1年半あまりに渡ってやってきた活動を途中で辞めるにあたって、岡田斗司夫に対して思い残すことはなかったのですが、残った社員に対してはそれなりに申し訳ないと考えていました。残る人たちに対するダメージを最小限にするためには、スパっと辞めるのが一番よいと判断し、そのためバベルの塔では退社理由を短い文章にとどめ、同時に周辺をかき乱したくはないという意志を明確にするため、バベルの塔クラウドシティへのアクセス権限停止も申し出ました。

ただ、このような退社の仕方では、私が辞めた理由の説明責任を果たしたことにはならない。なので、一部有志に対して私がオタキングexを辞めた理由を数回に渡って書きました。これから続く長い文章は、12月初旬に書いたものです。

当時からこの文章について「転載はご自由に」としてきましたが、それを情報がより拡散やすクラウドシティに掲載するために体裁を変えているのは、2011年11月2012年2月で状況が大きく変わっているからです。2011年11月に退社宣言をしたのは私一人でしたが、その後オタキングex(現FREEex)では退社宣言が相次いでいる状況だと聞いています

しかも、退社宣言をしているのは何もしてこなかった人ではなく、皆それなりにオタキングex内(あるいはクラウドシティでも)で存在感を示してきた人ばかり、いわゆる今まで核となってきた人たちです。3月社員更新手続きの際に何もしなければそのまま退社することになります。それを待たずして退社宣言をしている理由はニュアンスの違いがありますが、「これ以上ここにいてもいいことがない」と判断している点で共通しています

今後FREEex入社検討される方、あるいはクラウドシティの入会継続を考えている方の参考にしていただければと思います

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オタキングexを辞めた理由は主に5つあります

1つ目は、岡田斗司夫最近、明らかに仕事を手抜きしていて、それに伴い能力も劣化していること。しかも、自分が止めようとしても、本人が自らの能力劣化を推し進めていて、周りもそれに賛同して許してしまっていること。

自分が何かを指摘する度に岡田斗司夫にイヤな顔をされるのは別に構わなかったのだが、それにより批判を言いたくても言えない人たちを萎縮させ、さらに言いにくい雰囲気にしてしまっている。しかも、一部社員はそのようにして社長を甘やかすのはいいことだと本気で信じている。

仕事の手抜きについては、アスキーの「「ま、金ならあるし」」を明確な例として挙げたい。

ある食堂が今まで提供してきた定食の料金を無料にするが、その代わり残飯を提供すると言ったらどうするか。大半の人は金を払っても、今までの定食を食べるはずだ。

今の「ま、金」は無料の残飯を提供しているのに等しい。

ま、金は雑誌の最終ページという一等地に掲載されている。雑誌にとっても看板コラムのはずなのに、最近クラウドシティ宣伝が目立つ。一等地にある食堂で残飯を出された揚げ句、「うまいもの食べたいなら1万円払ってクラウドシティへ!」と宣伝されているアスキー編集部、そして読者の立場になって考えたことはあるのだろうか。

自分2011年に入ってから岡田斗司夫が講演などのアウトプットばかりでインプットがない状況をまずいと思っていた。社員クラウドシティ市民との交流もいいが、それだけでは発展性がない。なので2011年2月クラウドシティ市民も同席したオフ会で、「ま、金」は様々な分野の専門家インタビューしたらどうか、と提案した。去年「ま、金」でやった苫米地英人との対談をまとめた「お笑いウルトラリッチ」のイメージだ。

個人的には、今後本を執筆する上でも参考になる人をインタビューすれば、連載+本の材料+音声、映像クラウドシティウェブコンテンツと、一石三鳥になるのでは、という目論みもあった。

この提案に対し、岡田は「対談記事なら誰かが書き起こせばいいし、俺も楽ができる」とすごい安易な解決策に走ろうとした。週刊アスキーは元々インタビュー連載が多いし、巻末の看板コラムインタビューにするというのはありえない。「それは無理でしょう」と私は言ったけど、本人は恥も外聞もなく、アスキーに提案。当然ながらアスキーには断られた。

そうしたら、楽ができるからという発想で身辺雑記を書くようになった。しかも、「オタキングexへの道」を書き始めたのを途中でぶった切ったままで。11月からは身辺雑記すら書くのが面倒になって、(ボイスチャットシステムの)Teamspeakで、クラウドシティ市民日記を読んだ感想を話すようになった。でも、話している内容を全く練っていない上、考察も浅いので、面白いとは言い難いものばかりだ。

今まで1週間に1回、〆切という発生装置があって、考えることを凝縮するプロセスを定期的にしていたと思うんだが、それが今は「悩みのるつぼ」だけになってしまった。しかも、そのるつぼもクラウドシティ市民意見をかなり参考にしているので、切れ味は鈍い。

岡田自身もおそら自分能力低下に気付いている。だから2011年後半に入ってから社員と会ったり、アウトプットを増やそうとしている。でも今必要なのは発信することではなく、インプットを蓄積する=聞くこと、しかも何らかの体系的な知識を持つ専門家からインプットだ。そうしたインプットの欠如がここ15年にわたり評論家岡田斗司夫を「言っていることは面白いんだけど、裏付けが乏しいから信憑性に欠ける人」にしているので。

岡田斗司夫最後テレビ出演したのは2010年10月、「ハーバード白熱教室」の特集番組に出たときだ。このとき注目されたのも、本を読んだりテレビを見てツイッターをするだけでなく、六本木サンデル教授の授業に出たりするなど、質のよいインプットがあり、それなりに咀嚼する時間があったからだ。

ただ、最近社員と会っていても、自分の話をするだけに終始していると聞く。これでは考えの咀嚼や積み重ねにはつながらない。

2011年に開催したイベントでは同志社大での講演が評判よかったようだが、これは2010年10月に開催して観客の反応がイマイチだった「国民スナフキン計画」の雪辱戦で、関西社員総出によるバックアップもあったからこそだ。

から最近イベント11月末に開催したディズニーリゾートでのニコニコ生放送をはじめ、見るに値しないつまらないものが多い。しかも、本人はニコ生海賊放送をはじめ、イベントをやりたがり、周りもそれを後押ししている。さらに言うと、本人はニコ生をやった後は疲れてぐったりなので、自分の考えを広めるための媒体に注ぐエネルギーがどんどん削がれていっている。そんなマイナススパイラルが続いている。

自分としては、岡田斗司夫を「昔の名前で売っています」といった、通販番組に出演しているタレントのようにするためにオタキングexに入ったわけではない。本人が立ち上げ時に「東京ドームで『ひとり夜話をやりたい』」と言ったように、よりメジャーになるための手助けをできればと思っていた。

でも、最近岡田斗司夫ex内やクラウドシティに目を向けるばかりで、率先して通販タレントになろうとしている。周りもそれに満足して、それがいいことだと思っている。これにはついていけない。そもそも、本人の能力と影響力の低下は、ex理念である人類苦痛を0.3%軽減する」ことから遠ざかることにしかならないはずなのだが…。

続く。

2012-06-16

http://anond.hatelabo.jp/20120616143607

これ思い出した

男女の真理をたった1枚で表したチャート画像が話題に

http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1205/28/news046.html

現代における現実問題としてのバベルの塔のようなものですかね

2011-07-07

再生約束 初音ミクLAライブを見た外国人感想その1

 初音ミクのLAコンサートに関して、Promise Of Rebirthと題したそこそこ長い感想外国人が書き込んでいた。正直、随分と難解な表現が多く、翻訳も怪しげになってしまった。書き手のHN(wintermuted)を見るに、本来なら黒丸尚風に訳すべきなんだろうが、とても私には無理。とりあえず訳してみたのを置いておく。無断翻訳なので匿名で。誤訳はあると思う。

 なお原文のurlは以下の通り。

http://animediet.net/commentary/mikunopolis-at-ax-2011-promise-of-rebirth

+++++以下無断翻訳+++++

Mikunopolis、アニメエキスポ2011:再生約束Promise Of Rebirth

 メガゾーン23に出てきた謎めいたヴァーチャルアイドルの原型たる時祭イヴがSFにおける一種の狂信的比喩として想像をかき立てる場面に現れてから四半世紀強ののち、昨夜のアニメエキスポにおける比類なきイベントMikunopolisがちょっとした進化的な跳躍を成し遂げた。西洋におけるこの概念の最も著名な派生例がアル・パチーノの穏健な映画シモーヌ]、及びウィリアム・ギブスンほとんど遺伝的に接続された精神小説あいどる』]を通じた形をしていることを踏まえるなら、数千人のファン(及び間違いなく好奇心旺盛な連中)がオタク世界デジタル彼女アンドその友人たちと伴にロサンゼルスノキア・シアターをほとんど埋め尽くすなんてのは、まだまだ先のことだと考えらていたに違いない。不可解にも外部に広がった走査線からケミカルライトネギその他に鮮やかに彩られた通路に至るまで、それはリン・ミンメイだけを認める歓迎の場であった。今なお振り払っている最中である土曜夜のイベント後の残響は、かなり深い思考を私にもたらした。

 いつもカリスマチックなダニー・チューによる紹介と、それに伴うダンスロイドの形をしたリズム点火係は、その先に待っているものの興味深い味見役を果たした。この前座は、おそらく秋葉系(Akiba-kei)の空気に慣れていない聴衆にとって、何が次に来るかを示す重要リトマス試験紙だ。このショーを準備する時間ほとんどなかったことが見て取れる点が、これが日本直輸入製品であり、一見客に対するちょっとした警告にもなっていた。私自身が見いだした特に重要な点についてはすぐに述べる。

 既に日本で有名になっていたコンサートの形式をカンニング済みだった客の大半は、青緑色の髪が次々と繰り出す人気のある曲と、目がくらむようなライブ伴奏(39s Giving DayのDVDで演じたオリジナル奏者の大半、及びこの有名なディスクには含まれていない弦楽器奏者の面々)の混合物を味わった。その間ずっと聴衆は大いなる称賛のためリズミカルケミカルライトを振り、その動きが最後まで全公演を通じて見られたのは心強かった(こうした行為、及びその概念に対する彼らの長く続いた反応は、米国の聴衆にとっては奇妙に思われるものであることを、私はこの場で認めなければならない)。ボックス席に座り、ステージから1階席、クレーンカメラ、そして複数のカメラで撮ったHDスクリーンハイライト映像まで含んだ全景を見る。多くのミクのファンかつアーティストが作った聴衆が親しんでいるヒット曲、World is Mineやポッピッポー、サウンド[ママ]、ロミオシンデレラ、その他多く(どこかでミラクルペイントを彼女に演じて欲しかった)は、オープンソースな現象がほんの3年でどれほど広がったかを示している。そして特に歓迎された巡音ルカ鏡音リン&レンの登場は、観客の熱狂をさらに高めた。センターステージに置かれたほとんど透過性のスクリーンに跳ね返るホログラフィックな投影機は、時にミクが踊りながら少し両端に近づくたびにその限界を示したが、同時にこの海外遠征の短い命に対する理解を伴ってある種の魅力ももたらしていた。

光とサイバー化の見世物

 こうした話を正しい文脈の中に置くため、ちょっとした歴史を思い出そう――小さな子供だった私は、おそらくは地元の祭に毎年来ていたレーザーライトを使ったショーを見に行ったおかげでそれを一つの起源として啓示を受け、1980年代初頭に芽吹いてきた新たなテクノロジーに興味を抱いた。そのショーとは、要するに空気で膨らませたドームの中で音楽に合わせて行われたレーザーペインティングで、客は入場料を払い、床に置かれたたくさんのクッションの一つに腰を据えて15分から20分間、まばゆい光の列と、ミッシングパーソンズトーマスドルビーなどのアーティストの曲に合わせたアニメーションを楽しんだ。今となっては原始的ものに思える――ミュージックPVはいうまでもなく、コンピューターが生み出すアートアニメーションにつながる想像まで至るには長い道のりがあった。また、こうした地味な傾向が存在しなければ、84年のマクロス映画における楽しいコンサートシーンもある種心を揺さぶるほどのパンチ力は持たなかったと敢えて言うこともできる。私が思うにそれは時代の刻印であるが、同時にライブエンターテインメントがどのように変化していくか数十年にわたる発展を知らせるものでもあり、おそらくは音楽芸術の愛好者がいずれはあるところで分裂に至ることまでも示唆していた。

 なぜならこの時代に育った者にとって、アナログからデジタルへ向かう音楽の傾向が何か恐るべきものとみなされ、音楽業界で排斥されたことが一般的な心象として残されているからだ。子供の頃にクラフトワークデペッシュ・モード、ジョルジオ・モロダー、YMOやソフトセルなどのファンだった者にとっては、誰かがシンセサイザーの人工性を嘲り、音楽自然さを殺すと聞かされるのは珍しくもないことだった。そしてこの議論の中に何粒かの真実が含まれているとしても、それは一方で、当時は多数のコンピューター故障の懸念とショーを乗り切るためだけに間違いのない注意深さを必要としたこれらのかさばったキーボードから音を創り出す人間努力と創意工夫を、台無しにしていた。最終的にこの否定的な議論は多くの未来音楽及び演奏形式に付きまとい、興味深い結末をもたらした。それはまたミクのライブ伴奏をこれほど楽しく必要な要素にもした(ギター黒田晃年、ベース田中晋吾、ドラム折田新、キーボード安部潤――言及すべき弦楽器部門を除く。いずれもとても素晴らしい)。スタジオミュージシャンは、あらかじめ簡単に録音することもできる演奏に大いに心をこめることになる。新たな道具を愛するアマチュア音楽家と、伝統的なものとの融合実験によって、このショーはさまざまな要素を混ぜたある種の喜んで受け入れられるシチューとなり、ときにいくつか二級品の歌があったにもかかわらず、既存の姿ではなく可能性を約束するものとして機能していた。――以上がショー全体で私が本質的に感じたことだ。

 誰も見失わなかったよう望むのなら、この最終目標へと向かうDNAを手に入れることが私にとってベストなのだろう。なぜLAのショーはこれほど意義深いのか、そしてVOCALOID、ミク及びこのようなショーが持つ主要な意味あいとは何か。

ジッグラト[古代メソポタミアの塔、バベルの塔]の崩壊:ポップの民主化アイドル思想の終末

 さてこれは真に落とし穴的な回答である。なぜならアイドル歌手という概念及びヴァーチャルアイドルに伴う必然的結末まで考えを煮詰めるからだ。我らが今いるのは現実に近づいたキャラクターアニメーションの時代というだけにとどまらず、オープンソース化した大衆文化の可能性がある時代でもあり、我々はオタクの領域を超えて全く新しい何物かになるまで成長しうるアイデアをおそらく目撃している。YAMAHAが今年のNAMMショー[米国で開かれる楽器展示会]で多用途VOCALOIDを紹介したのを見ても、現状はメディアを通じた古い分配モデルが不可避の断末魔を上げるところに達したと敢えて見なせるように思える。スペイン製のソフトから取りだした一つのアイデアを、音楽作成のための輝かしい新たなモデルへと広げ、そして数が多すぎ、時に厄介な日本アイドル歌手業界を考えた場合に多数の集団に働きかける天才の発案に過ぎないマーケティングにまで、拡大する。終わりなき競争、怪しげな才能、さらに怪しげなマネジメント、生死にかかわる健康上の危険、類似性、そして夢想を維持してほしいというファンからの圧力に満ちた困難な人生――そう、こうしたマーケティング方式とファンに駆り立てられた神話が混じり合って音楽スーパースターたちにかくあるべしとする任務を押しつけるのは、それこそVOCALOIDにとって理想シナリオだ――しばしば置き換え可能で、派生的、はかなく、言うまでもなく消耗品であるミューズたちが、変化もましてアイデアも嫌う文化産業のために存在している。

 考えてもみてほしい。マイルズ・ダイソン言葉を言いかえるなら、これこそ決して疲れることなく、興奮状態にもならず、二日酔い仕事に出てくることもないアイドルだ。彼女はショーを続けなければならないことを知っており、一瞬のうちにコスチュームを変えられる。何よりファンが歌を作り、バンド彼女の横で演奏しているという2つの理由で、その歌は偉大である。過剰な荷物と期待を持つことなく、アイドルが実行すべきだと期待されるあらゆることをする能力を自ら持つミクの存在そのものが、ある種の輝かしいアンチテーゼなのだ。彼女は文字通り、何でも人々の望み通りになれる。汗一つかくことなく。

 そしてこれほど目立つ歓迎を伴う西洋への紹介は、日本人にとってだけではなく夢を共有できる分野を長く求めていた世代にとっても何か極めて特別なことの始まりであり、過保護にされることなくさらなる発展が期待できる約束されたスタートだ。そしてこの夜の感動的な聴衆たちから判断する限り、長きにわたる憧れはついにその実を結んだようだ。

 イヴシャロンレイ……君たちの歌がますます現実に近づいてきた……

+++++無断翻訳終了+++++

 言うまでもないがシャロンマクロスプラスシャロン・アップルレイギブスンの小説に出てくるヴァーチャルアイドル投影麗(Rei Toei)である

 

初音ミクLAライブ外国人感想その2「再生約束フリーダム

http://anond.hatelabo.jp/20110708223459

初音ミクLAライブ外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」

http://anond.hatelabo.jp/20110709211718

初音ミクLAライブ外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来音色

http://anond.hatelabo.jp/20110710234300

初音ミクLAライブ外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」

http://anond.hatelabo.jp/20110711212701

初音ミクLAライブ外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマス世界征服

http://anond.hatelabo.jp/20110712205546

初音ミクLAライブ外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」

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初音ミクLAライブ外国人感想その8「ミクノポリスコンサートリポート

http://anond.hatelabo.jp/20110714210122

初音ミクLAライブ外国人感想その9「アニメエキスポ初音ミク

http://anond.hatelabo.jp/20110715222900

初音ミクLAライブ外国人感想その10「アニメエキスポ2011(抄訳)」

http://anond.hatelabo.jp/20110716194029

初音ミクLAライブ外国人感想その11「世界彼女もの初音ミクはいかにして全てを変えたのか」

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初音ミクLAライブ外国人感想その12「アニメエキスポ2011でのボーカロイド体験」

http://anond.hatelabo.jp/20110719031316

初音ミクLAライブ外国人感想その13「ミク:日本ヴァーチャルアイドルメディアプラットフォーム

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海外blogに載っていたクリプトンインタビュー

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2011-06-21

BI論者に質問したいんだけど、いいかな。

ベーシック・インカム精神そのものには、私は反対の立場じゃないんだけど、どうしようもなく疑問なんで答えて欲しい。

BIの導入に伴う問題点として、税収の絶対量についてはこの際論じない。それ言えばキリがないので。「国債自己引き受けで余裕さ、地球の自転が止まらないように輪転機も永劫を輪廻するのさ」という前提を置いておく。お予算の問題は、無いものとしての議論。

その上で、まぁBIを導入したとする。日本人口一億2000万人×10万(仮にね)×12ヶ月のカネがマーケットに流れていく。すると、まぁ需要は喚起されるよね、間違いなく。みんながどんどんお金を使い、市場マネーで潤いこの世の楽園となる・・・んだろうか?

疑問は二点ある。

一点目は「喚起された需要が果たして国内に向かうのか?」ということ。我々の消費生活は、多くの場合輸入に依存している。中国産製品、例えば100均ショップにある小物類のお値段は、つめ切り一つにしても国内生産ものの四分の一とかそんなものだ。現時点でも、高品質・高価格帯を除けば国内生産品はほとんど壊滅に近い惨状にあると言っていいと思う。これは、皆さんが周囲を見渡せば容易に理解されることだ。メイドインジャパンチェア増田を嗜むブルジョワ御仁がどれだけいるか

すると、国内マーケット供給されたマネーは個人の消費性向の問題として、国内を潤わせることなく海外へと流出していくのではないかインドの綿製品が流れ込んだイギリス状態になる気がするのは私だけかな。

例えば、日本銀行最近になって通称「成長基盤オペ」と呼ばれる金融政策を打ち出している。これは、銀行にどれだけカネを供給してもマーケットに出て行かないことに業を煮やした白川さんが、「じゃあピンポイントヒモつきのカネをブチこんでやるよ!」という、局所療法に出たわけだ。これは、理解しやすい。しかし、それに対して全く逆の効果を持つのがBIではないか

確かに、総量緩和による政策は果てしないマネー預金に積もらせただけで、観念バベルの塔を築く以外にはほとんどなんの効力ももたらさなかった。しかしまた、同様にグローバル化世界において民衆にカネをばらまくことは、海に向かって魚を放流すること以上の意味を持ちえるのだろうか。もちろん、マグロ近海を泳ぐようになるならいい。しかし、そのイワシは大方が真っ直ぐ中国に向かってしまうのではないか

もちろん、魚を囲う「網」になり得る可能性は存在する。マネー総量の爆発的な増加による円安傾向、並びに通貨価値の下落(これを、通貨信認の毀損と呼ぶことも出来るが、それはめんどくさい議論になるので後述。また、「バーナンキ背理法は間違っている」という可能性も排除する。)これが天然の関税として作用する可能性はないか

円の価値が思いっきり落ちて1ドル150円になったとする。確かに輸出産業は活況を呈するだろう。しかしその一方、我々の消費傾向が国内回帰する可能性はあるか?私は難しいと思う。仮に、中国産製品の値段が二倍になったところで、それでも我々はメイドインチャイナ椅子に座り、メイドインチャイナのつめ切りを使うのではないか

この段階で、議論はフィフティ・フィフティだ。どっちに転がる可能性もある。輸出と輸入は美しいバランスを保ち、冷戦構造のような調和ある対立を得るかもしれない。しかし、BIの性質そのものメイドインチャイナを強力に後押しする可能性を考慮して欲しい。というのも、こういうことだ。労働価値というのは、A・スミスの慧眼が予見したとおり通常市場における神の見えざる手で決定付けられている。それに対して、半ばマルクス的な色合いを持つ「最低賃金」や「基本的人権」の観念、ひいては労働法規がその下限を決定付ける。翻ってこのBIの制度、これはかなり強力に労働単価を引き上げる効果を持つのではないか

平たく言えばこういうことだ。働かなくても食える世界で、時給640円で働く労働者存在し得るか?ということ。これは、人間の性質に関わる議論なので、ソヴィエト連邦国家運営がうまくいくかどうかと同じくらい「やってみないとわからない」。しかし、偉大なるレーニンやサン・シモンに敬意を払った上のこととしても、私は多分ダメだろうと思う。いや、ダメだろ?BIには、鎖国、ないしは強力な関税政策が必要になる。

そして、更なる恐怖がBIには待っている。これが疑問の二点目だ。それは、わが国の根本的性質に深く関わっている。

それは、わが国は「カロリーベースですら食料が自給出来るか微妙」ということ。そして、更に絶望的なるもう一点。「資源がありません」ということ。円高になればなっただけ、輸入コストは増大する。これに更に追い討ちをかけたのが先日の震災だ。原子力抜きで、エネルギーの自給が果たして出来るのか?1ドル150円になれば単純計算ガソリンリットル300円くらいだろうか。さて、果たしてこれはどうなる?

企業家にとっては恐ろしい未来が待っている。労働単価は高止まりし、原料費は高騰する。こうなると、「円建てで取引するのがそもそも間違ってんじゃないか」という思考に陥る可能性すらある。折角需要が喚起され、天然の関税障壁に守られたかに思えた国内生産品も価格競争力を持つことが全く出来ない。

そして追加的な怖さはこれだ。確かに、私もバーナンキ背理法は間違っていないだろう、と思う。確かに、マネーの総量が経済に影響を「与えない」と仮定するなら、世界はすぐに楽園になるだろう。なるほど、どこかで必ず飽和点は訪れ、円高は終わりを告げる。問題は、緩やかに落ちるかキリモミ落下して地面に突き刺さるか、だ。確かに円は高い、しかしわが国の財務状況は決して明るい未来を指し示してるとは言えない。つまるところ、通貨バブル国債バブル(私は現在の状況をそう認識しているが、これには異論があるかもしれない。むしろ、通貨の絶対価値とはスイスフランによって計測されるべきである、という考え方に対しては一理を認めるしかない)が大爆発するリスクはどうだろうか。BI,とはベーシックインカムである。それは、やはりベーシックインカムと呼びえるだけのキャッシュフローでなければいけない。しかし、それだけのマネー市場に放った結果について、我々は誰も知りえない。バーナンキ背理法は「リフレ政策の効力を約束した」わけではない。むしろ、「長期的に人は必ず死ぬ」といったニュアンスに近い。老衰で死ぬか、腹下しで死ぬか、爆散して骨も残らないか、誰にもわからない。

以上の観点から、私はBI制度が成功するとは思えない。

しかし、これは端的に私の知識不足、ないしは知能・理性の絶望的不足に根ざしている可能性も否定できない。

私は、BIの精神性を否定しない。むしろ高く評価するし、すばらしいと思う。ここがウクライナだったり、あるいはアルゼンチンであるなら、是非にもやるべきだと思う。また、日本産油国であればもっといい。しかし、そうではない。

ベーシックインカム論者の反論を求む。

あ、ごめん。労働単価の高止まりの根拠として、「BIは高税率が回避できない」ってのがあった。多少働いても、まぁかなり少なめに見積もっても半分は税金で持ってかれる。厳密に計算したわけじゃないけど、「どんなに少なくても」それくらいは要る。労働意欲の喚起はかなり難しいだろうと思うよ。

2010-09-14

作家になりたいとあがき続けて12年目の俺が読書暦を語る。

http://anond.hatelabo.jp/20100913002509

まぁ、小説書こうなんて奴は大抵の場合友達が少ない。

小学生の頃、中休みや昼休みに遊びの輪に入れず図書室に逃げ込んでいた。

そこで読んだ「十五少年漂流記」や「ロビンソン・クルーソー」辺りが出発点だろう。大丈夫、俺もそうだ。

そして大方の場合小学校~高校までははっきり言ってクソだっただろう。

グレたか孤独だったかの二択しかない。家庭科の授業と体育は大嫌いだ。大丈夫、俺もそうだ。

そんなわけで、自分の才能はどこにあるか小学生の俺は考えた。運動、論外だ。絵、話にならない。勉強、出来なくはないが一番には到底なれそうもない。そんな時、読書感想文コンテストが市の優良賞に選ばれた。そうか、俺の才能文章じゃね?

そんな風にして小説を書き始めた。中学校一年生のときだ。

書きはじめてすぐにわかった、全然面白くない。

そもそも「書きたいもの」がそんなにない。ファンタジーSFラブロマンスも特に好みではない。

なんとなく「文学」に憧れはあるが、そもそも文学ってなんだ。これは本を読まねばなるまい。

そうして本屋に行ってみた。まぁ、太宰とか三島が有名だよね。

とりあえず「金閣寺」と「人間失格」を買ってみた。どっちも意味がわからなかった。ただ、人間失格を読んだとき「要するにゴミ野郎だよね」と思った記憶はある。これのどこがいいのだろうか、と真剣に思った。金閣寺は途中で放り投げた。

仕方が無いので、遊び人のおじさん(36歳、ヒモ)に相談した。面白い文学ってない?おじさんは「これを読め」と安部公房の「壁」を貸してくれた。世界がひっくり返った気がした。あの衝撃は未だに忘れられない。「S・カルマ氏の犯罪」「バベルの塔の狸」。まさに「衝撃」と呼ぶのにふさわしかったと思う。ようするに、文学とは衝撃なのだとそのとき俺は思った。「作者は何を言いたかったでしょうか?」という国語教育呪縛から解き放たれた瞬間だったと思う。

おじさん、面白かったよ。とおじさんに本を返すと、次におじさんが貸してくれたのは

中島らもの「バンド・オブ・ザ・ナイト」と三島の「不道徳教育講座」だった。今思うと、中一に貸していい本では決して無いのだが。これらの本は「衝撃」という点では安部と全く比較にならないが、とにかく面白かった。中島らものラリった文章と三島と毒たっぷりユーモア。おかげで、俺は加速度的に人生を踏み外していった。その後、叔父さんは叔母さんと離婚しどこかへ消えていってしまった。どこかで野垂れ死んでいるかもしれないが、元気ならいいな、と思う。

さて、高校生になった俺の心を捉えたのは海外文学だった。

もともと、安部公房からスタートした読書遍歴だったのでとにかく「実存主義」というやつに俺は興味があった。

言うまでも無い、カミュである。「論ずるに値する議題は一つしかない、自殺である」(ちょううろおぼえ)のシジュポスの神話、なにより「異邦人」は安部以来の衝撃を俺に与えた。また、この頃俺の心を捉えたのはもう一つ、いわゆるビート文学である。ケルアック、ギンズバーグ、そしてバロウズ(これは中島らもの影響も強い)、そしてもう一つ。読書暦の長い人は次に何が来るか容易に予想が出来るだろうが、ドストエフスキーが直撃した。「カラマーゾフの兄弟」や「罪と罰」は当然として、俺の心をえぐったのは「貧しき人々」だった。あの主人公の愛すべきクズっぷり!誰も悪人はいないのに、誰もが加速度的に人生谷底へ落下していく感覚学校をさぼっては喫茶店でひたすら本を読んだ十代だった。しかし、サルトルに関してはさほどピンと来ていなかった。「嘔吐」が面白いとは全然思えなかったのだ。根っこをみたらゲロが出る、それで?といった感じだった。

この年齢になると読書に対する耐性もかなり固まっていたので、バルザックゾラも読んだ、カフカも読んだ。ラテンアメリカ文学にも手を出し始めた。ボルヘスマルケスも悪くはなかったが、なんといっても「ペドロ・パラモ」のファン・ルルフォが心を捉えた。セリーヌ、ジット、ベケットクノー、ロブ・グリエといったフランス文学の一連の流れも好きだった。とにかく読みまくっていたことだけは覚えている。おかげで、センター試験数学は4/200点だった。

そして高校を卒業した。この時期には熱心に小説を書いていたような記憶がある。だが、今読み返しても全く面白くもなんともない。無駄に重苦しい下手糞な文体、意味不明ストーリー展開、自意識過剰さだけがひたすら鼻につくクソみたいな小説だった。大学入試は願書を出すのを忘れた。家にもいられなくなり、家を出た。その後はなんか二年くらい働いた気がする。ある日ふと、立ち寄った本屋テリー・イーグルトンの「文学とは何か」を読んだ。そうか、よし、文学理論をやろう!そう思って大学を受けた。北海道の片田舎で二年も働いただけあって貯金はそこそこあった。なんとなく某私大を受けたら受かった。奨学金を借りて、三畳間に住んで暮らした。死ぬほど楽しかったことだけは覚えている。図書館の充実っぷりと来たらすさまじいものがあった。幸せだった。いつまでもこうしていたかった。

大学の間は一生懸命研究をやったとしか覚えていない。卒業する頃、現実的に大学院はムリだと悟り就職した。その間に小さい文学賞論文の賞を幾つか取ったけれど、デビューには全くつながらなかった。今はとある金融機関の出納担当をしながら小説を書いている。明日も早いから寝なきゃならない。何が言いたいのかさっぱりわからなくなったけど、とにかく小説っていいものですよね。人生って辛いですよね。そういうわけで、リンク先の増田にイーグルトン読めとお勧めしたいだけなんですよ。面白いよ。

2010-04-19

須江岳史が東せつなに叫ぶ

「ワタクシの友人が言っていましたよ」突然、裏声めいた声で須江岳史くんが始めた。須江岳史くんが、ワタクシという言葉を使うと、説明不能の寒気がした。男の人でも、大人になって仕事をするようになったら使うだろうし、むしろ使うべきだと理屈ではわかるのだけれど、須江岳史くんが使っているのを聞くと、端的に言って気持ち悪かった。「どの人も、ゲームの策定者になれてしまうらしいのです。東せつなさんのような、凡庸な人ですら。ワタクシは東せつなさんが作ったゲーム自分から巻き込まれていった人間ですから、友人の言うことはとてもよくわかります」私を見ずに、正面にある鏡に映る自分の顔だけを彼は見ていた。彼の細かく揺れる光彩が不気味で、私はそこから目が離せなかった。「タイムライン上で偶然に出くわした、それをデコードするための適切な文脈のわからない言葉にも、人は一喜一憂するわけです。馬鹿にもわかる言葉で言えば、人は、彼が馬鹿にしている人物から馬鹿にされても馬鹿みたいに傷つく」私は体重を後ろに下げて、すぐにでも立ち去ろうとした。けれど、須江岳史くんの言葉は途切れ目がなくて、精一杯がんばっても、そのタイミングを掴めなかった。「せいこうという語を、ワタクシはセックス意味で発話しても、無垢な東せつなさんはサクセス意味で受け取ることはままあるでしょう。それと全く同じように、ポルノ禁止と叫ぶ声を、ある者は表現の自由侵害解釈し、ある者はそれを、日本治安の向上と読み解く。前者は表現の自由のために後者を叩き、後者治安のために前者を罵る。言葉のやりとりをしても、それぞれの心が持つ辞書で各々が勝手翻訳するため、意味のやりとりはできないわけでした。心の辞書翻訳した際に、それが快として響くか不快として響くかの違いしかない、無意味な音声のやりとりなわけでした」須江岳史くんは揺れる瞳で鏡を見つめたまま、話をやめようとしない。「正しくデコードできないので、無意味だが、しかし、無価値ではない。意味は伝わらなくても、罵りは罵りとして、賞賛は賞賛として、それだけは掛け値なしに伝わるのでした。だからこそ人は、彼が馬鹿にしている人物から馬鹿にされても馬鹿みたいに傷つく。意味はなくても、感情という価値はある。感情のやりとりにより、不快言葉を言った者には罰を与えそれをやめさせ、心地よい言葉を言う者には心地よい言葉をかけ、それを推奨させるのが、会話の本質なのです。歴史を振り返ってみれば、意味のやりとりができない者に対しては、ゲーム論的な賞罰のやりとりが唯一のコミュニケート手段になるのは、バベルの塔が崩れてからの通例なのでした。無意味ではあるが無価値ではない言葉により、どの人も、小さなゲームの策定者になれる。小さなゲームの策定者に振り回されるせいで、たとえどれだけ信じて祈っても、完璧幸せなどゲットできない。だからこそワタクシは、ゲーム的かつ誤配的な言葉を聞かないように、完全に隔絶された言論の管理国家を私は作りたいわけです。東せつなさんなんかに、会わないように」

2008-11-11

http://anond.hatelabo.jp/20081111231514

まてまて。

ここにはいったい何人のオッパイ星人がいるんだ。

一番最初にオッパイオッパイといっていた俺は力士オッパイと自分のオッパイ萌えることができるか悩んでいる。

女性オッパイじゃないと萌えないってのはオッパイ差別につながる重大な課題である。

逆に言うとオッパイが本当に大切であるならば、下半身バベルの塔の有無に関係なく、オッパイを愛するべきじゃないかと。

もし、本当に、あの球体だけに忠誠を誓えるなら、下半身に塔があろうとなかろうと、受け入れるべきではないかと。

そして、自分のオッパイ萌えることができるノウハウを開発すれば、世界中モテナイ男に新しい可能性を提供できるんじゃないかと。

結論はでない。

だが、世界オッパイ星人にあふれていることを知った。

それだけで、俺は幸せだ。

2008-08-28

ネット俯瞰ゲームが止まらない


創作者「作品を公開するでござる」

二次創作者「お気に入りのキャラ絵を描くでござる」

三次創作者「このネタ面白いので編集して投下するでござる」

ニコ厨「ちょw病気ww才能の無駄遣いwww」

VIPPER「こいつら何ありがたがってるの。死ぬの?」

ブロガー「ちょっとまとめていきますね^^」

コメント欄「っていうか同じ穴のムジナ」

はてブ「相変わらず残念な方々ですな」

メタブ「ブーメランブーメラン

メタメタブ「なぜ人は人を見下すのか」

メタメタメタブ「真の傍観者は俺だ」

メタメタメタメタブ「俺は傍観者になれない」

メタメタメタメタメタブ「記念にもう一階上へ」

メタメタメタメタメタメタブ「ニーナ、空に行こう」

メタメタメタメタメタメタメタブ「思えば遠くに来たものだ、これも人の業か」

メタメタメタメタメタメタメタメタブ「漸く空中戦を振り切ったものの、ここはどこ?」

メタメタメタメタメタメタメタメタメタブ「バベルの塔は崩れました」

メタメタメタメタメタメタメタメタメタメタブ「それでもマリア様が見てる

メタメタメタメタメタメタメタメタメタメタメタブ「斯くして目的は失われた」

今ココ

2008-04-02

http://anond.hatelabo.jp/20080402112619

おう、ここにもバベルの塔がそそり立つ!?

機械言語なんて勉強したことないからわかんないんだけど、「思考パターンを制限」ってのは本当なの?

自然言語だったらそういうことはもはや自明の理なんだけど。

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