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2018-12-28

怪談と隣人―波勢邦生「トナリビトの怪」を読む

【読んだもの】本を購入しようと思ったら、リアル書店ネット書店最近では出版社による直販(弊社もやってます)などさまざまなあるかと思いますが、今回ご紹介したい『アーギュメンツ#3』という評論誌は「手売り」、つまり関係者による直接販売というきわめて珍しい流通チャンネル選択した書籍です。売り方の時点でかなりチャレンジングな企画なのは明らかで、魅力的な論稿も多数収録されているのですが(レイ・ブラシエ(佐藤正尚訳)「脱水平化―フラット存在論に抗して」や、大前粟生さんの小説断崖」もすごかった)、その中の波勢邦生さんの論考「トナリビトの怪」が本当に本当にすばらしかった。ので、今回はそれについて書きます

当該論考のテーマをおおきくまとめると、理性的自己判断できる存在としての近代主体(いわゆる「強い主体」)の淵源にあるものとしてのキリスト教という一般的イメージに対して、ハワイ日本沖縄におけるキリスト教受容史をふりかえることで別の可能性(本書でいう「隣人」)がたちあがる場としてダニエル書・イザヤ書を読みかえすという試みといえます

いろいろ論じたい点はあるのですが、とくに筆が冴えるのは、小原猛『琉球奇譚 キリキザワイの怪』に紹介されている怪談ジーマー」の話です。曰く、ある男性が「ジーマー」という老婆に「神様用事の手伝い」を頼まれる。それは波上宮という砂浜で、彼女三味線に合わせて民謡を歌うというもの。そこで事は起きる。

知ってる歌は歌い、知らない歌は手拍子うつ適当にこなすうちに背後の砂浜に人が集まりはじめるが、おしゃべりの中に英語やうめき声が聞こえるなど、奇妙な何かがそこにあった。徐々に不審なおもいにかられたその男性は後ろを振りかえる。「すると、そこには誰もいなかった」やがて夜も明けて、ジーマーの三味線も鳴り終わったあとに砂浜をみてみると、声が聞こえた場所には子どもをふくめた無数の足あとが残されていたという。こうした情景に、その男性は戦争太平洋戦争のことか?)の傷跡を読みとり、波上宮鳥居を抱きしめて泣く。「みんな死んでしまった。父親も、幼馴染の友達も、学校の恩師も、みんなみんな死んでしまった。自分は生き残ったが、果たしてこれは良いことだったのだろうか。自分のようなくだらない人間が生き残って、優しく勇気のあった友達や、才能のあった人々が死んでしまう。この差は何なのだろうか?」(30ページ)

この「ジーマー」は沖縄固有の物語ですが、波勢さんはここに「死者との交換可能性」という「怪談本質」を見ます。生者と死者の想像力が同時に起動する場所、そこに怪談という物語は立ち上がる。そして同論考にとって重要なのは、この「怪談想像力」はキリスト教テクストにも見出されるという点です。

(「怪談として聖書を読む」というこの箇所は本稿でもっとも屈折し、そして読みでのある所なのですが、そこはあえて飛ばします。気になる方は「アーギュメンツ#3」をお買い求めください)

この怪談という想像力からみて、「西洋近代的自我による主体区分による解釈は、恣意的グロテスクな切断」(34ページ)となりますしかバベルの塔神話が示すように、神は常に「言語文化を奪われたものの側に立ち上がる」。つまり強き主体の側にではない、という点が重要です。

「神は奪われ排除されたものの側に立ち上がる。歴史と非歴史境界で『主体』と『弱い主体』を隔てる壁は消失し、ありうべからざるものが現れた。」「ぼくはそれを『隣人』という言葉に求めたい。なぜなら聖書において隣人とは、まさしく自他の交換可能性を示す言葉からだ。」「隣人が現れるとき、『神を愛せ、己を愛するように隣人を愛せ』というイエスの声が、聞こえ始める。隣人は、神の赦しを伝達するぼくらの似姿であり、またぼくらの赦しを待つ異形のものでもあったのだ」(35ページ)

ここで提示された「隣人」は、大仰で圧倒するような<他者>、私たち理解を拒む絶対的な<他者>ではないでしょう。どこにでもいるあなたであり、わたしであり、そして誰かです。これはブルーハーツの歌に出てくるような、といっていい。そう思います。(すこし恥ずかしいけれど、いや、しかしそう言ってしまっていい)

「隣人の思想」、波勢さんの論考が到達した地点をそう呼んでいいと思うのですが、ここで示された思想の内実とともに、この思想に至る論述あくまでもキリスト者としての波勢さんの信仰に貫徹されている。ここに本稿のもうひとつの傑出した点があります

たとえば「昨年11月、九三歳で祖父が死んだ」ではじまる本稿は、「キリスト教信仰告白せずに死んだ祖父天国でないどこかへ行ったのではないか不安になった」という文章地の文で、鍵括弧抜きで出てきます。たぶん信仰をもたない人にとってこの一文は、理解の遠い、「向こう側の人」の言葉に聞こえるのではないでしょうか。(本稿の最後、註のラスト文章も「神に栄光、地に平和、隣人に愛と怪。感謝して記す」です)

聖書怪談として読む」という本稿の試みをもし信仰をもたない人がするならば、さじ加減をまちがえたとき即座に「他者信仰否定」になるでしょう。でも、波勢さんはあくまでも信じることで聖典を読み替える(またはこれまで読まれなかったものを読み解く)という姿勢を貫く。そこにこのテクスト独特の緊張感と救いがあります

イスラーム法学中田考先生や、このたび『トマス・アクィナス』でサントリー学芸賞を受賞された山本芳久先生などもそうですが、これまで護教論や宗学として避けられがちだった信仰自身による学問考察のいくつかには、相対主義決断主義あいだでさまよう私たち課題を乗り越える何かがあるように思います。私にとって本稿はまちがいなくその一つです。そう断言していいものがこの論稿にはあると考えます

以上、編集Aは自社本を紹介していないどころか本すら紹介していないのではないか疑惑もあるのですが(広報誌とか、雑誌特集号の論稿とか)、これにて「トナリビトの怪」の長文の感想を終わります。ご清聴ありがとうございました。

2018-09-18

anond:20180917205518

増田リチャード・ドーキンスの『神は妄想である宗教との決別』は書店平積みするべきではないという立場を取る?

このタイトルの表紙が目に入っただけで「殴りかか」られたようなショックを受けるキリスト教徒イスラム教徒は多いと思うけど。

経験信仰者の親に育てられて神の愛を信じ切っている子供が見たら心底嫌そうな顔をして親に泣きつくかもしれない。

キリスト教徒イスラム教徒日本では人口1%未満の圧倒的少数者でもある。

書店日本ではマイノリティである一神教論者に配慮して露骨無神論を表紙で謳っている本はゾーニングすべきであると考える?

もし増田ドーキンスゾーニングしなくて良いという立場なら、エロ表紙のラノベとの違いは何?

どちらも表紙を目にしただけでマイノリティを傷つける可能性の高い「センシティブ」な表現では?

子供ラノベエロ表紙のような性的表現から保護されるべきだ、それは当たり前の他者に対する思いやり、ラノベ表現の自由は子供保護優越しない、それが文明社会

しかし、子供には神の存在を徹底的に否定しにかかる無神論表現から保護される権利など無いのだ、文明社会には表現の自由ってものがあるのだ。

キリスト者の親は神とともに歩んで欲しいと願っている我が子が書店入り口平積みにされているドーキンス無神論に感化されるのを受忍するしかないのだ。

これは差別では?

ラノベだけではなく、信仰を持つ者への。

2018-08-11

神なき国の倫理

 ヨーロッパの町の中心には必ず教会がある。教会の鐘の聞こえる範囲教区と言い、キリスト教における統治の最少単位だったからだ。

 朝な夕なに聞こえる鐘の音、そして町のどこからでも見える教会尖塔、それこそがコミュニティ象徴だった。

 かつてのキリスト教会は行政機関であり、司法機関であり、軍隊であり、教育機関であり、医療機関であり、福祉機関であった。

 そして何よりも思想の中心であった。

 人々は己の知的能力を超える判断を迫られた時には、「神の御心に沿うかどうか」と己に問いかければ良かった。あるいは聖書を開き、あるいは聖職者に問うた。

 とにかく、聖書という明文化した規律があった。

 神の御心にさえ沿っていれば、理不尽要求を突っぱねようが、相手を怒らようが、死後に天国に迎えられるのは自分である

 現代ではどうだろうか。街が発展して行く中で、中心にあるのは行政機関か、高層ビルディングかか、大規模なショッピングセンターか、資本主義社会にふさわしい姿に変容しているだろう。

 しかし、欧米人の心の中心にはいまだにキリスト教がそびえ立っている。町中のどこからでも見え、目を背けていても鐘の音存在を知らせる、教会尖塔のように。

 これは欧米人の全てがキリスト教教義に従って生きている、と言う意味ではない。生きて行く上でキリスト教という存在対峙しなければならないのだ。

 Christian=キリスト者としてキリスト教教義に沿って生きるか、他の宗教信仰するか、無神論あるいは他の思想信条信仰するか、あるいは無視するか。

 おのれの精神立ち位置を決定することを強いられるのだ。そして彼らは自分選択した思想に沿って生きて行く。

 さて、翻って本邦ではどうだろうか。信仰教育が分離されて久しい現代日本では自分はナニナニ教を信仰している、と明言できる人はかなり少数派なのではなかろうか。

 むしろ明言できる人はおかし思想押し付けてくる人、と言うイメージさえあり、何かしら信仰していたとしても、自分から言いにくい空気すらある。

 中には「無神論です」などと知った顔で言う御仁もおられるが、無神論というのはある種の信仰であり、理論武装必要な類である

 では、そんな曖昧な、信仰を持たないものをなんというか。「無信仰者」である。ちなみにこれはキリスト教圏であれ、イスラム教圏であれ、信仰の篤い社会では最大級軽蔑を受ける。

 さて、そんな「無信仰者」が多数派となった本邦において、己の能力を超えた判断を迫られた時には、何を基準にすればいいのだろうか。

 もうおわかりだろう。

「みんなと同じ」

 である。とりあえず周りと合わせておけばいい。周り、と言ってもごく狭い範囲、顔見知りのレベルである

 みんなが万引きするから自分万引きする。

 みんながいじめから自分いじめる。

 みんなが残業するから自分残業する。

 みんながキックバックを受け取っているか自分キックバックを受け取る。

 ……

 倫理法律もあったものではない。

 そしてもう一つ。

「怒られたくない」

 である。とにかく怒られるのが怖い。否、怒られた時に思想、あるいは倫理といった、精神背骨がない。だから声の大きなものが押し通ってしまう。

 日本を滅ぼすのは、この思想のなさかもしれない。

2018-07-31

少食のこと

私はあまり食事を好まない。食事をすることは、すなわち殺生することである。生き物が死ぬのはかなしいことであり、殺さずして生きのこれないのは生命悲劇である。私は食い食われる連鎖からなる生の構造をみなまで肯んじない。また、都市生活者たる私は、どこの誰か知らぬものに処理された食材を買って食事することになる。私は身銭を切ることを信条としているから、この時点で食に関する興味の半分は致し方なく失われている。本来なら、森でウサギでも狩って、その場で煮込みでも作って食べるのがおあつらえ向きなのだが、都市生活者には出来ないことであり、またそのために都市脱出するつもりは、今のところ私にはない。そこで私は妥協案として少食をとるわけであるさらに、食事を好まない一方で私には味の明確な好みがあり、単に茹でて塩して食べる、みたいな簡単料理を好むが、複雑な味付けのものは好まない。私の味の好みのストライクゾーンは狭く、その的を外れるものほとんど食べない。のみならず元来の神経質も少食に影響しているだろう。私はなにかに夢中になると食事をそっちのけにしてしまうことが多く、死なないために仕方なく食事をとることがよくある。味にこだわりがある一方で食に頓着しないのである

これらの理由から、私は少食であり、世界保健機関か国の保健省が定めたのであろう、標準体重の値からかなり劣る痩身なのである。とはいえ少食の理由はこれらに尽きるものではない。自身の痩身については、私に複雑な感情が与えられており、また自身について何を語るにせよ、私は必ずある女性からはじめなければならない。スペースシャトルに乗った宇宙飛行士地球に戻って以来、別人格を持ちはじめることがあるという。あたかも青い星の外になにかを置き残してきたかのように、宇宙飛行士永遠に故郷喪失し、シャトルの不時着は帰還でなく到着となってしまたかのようだ。これに類することを、ある女性が私に与えた。

私は彼女を一目で恋するようになった。それまで経験した恋愛感覚とは、次元が違うとでもいう他ないものがあった。今日日まで私は彼女名前すら知らないのだが、あるいはそれ故に?彼女は私にとって紛れもないファムファタアルとなった。彼女存在の何がしかに近づくことは、すべて正しくまた喜ばしいことであり、私が彼女のいる室内に入り、着席し、そして彼女が私のテーブルの前に立ち、声をあげたときから、私の感覚器官は福音代弁者となった。現実と能く交わる術を持たなかった私には、あるいはそれ故に?彼女は身を焦がすように愛しい女性であり、あるいはそれ故に?目の前の彼女から私はますます遠ざかっていった。私は時間をかけて、また時間をかけた分だけさりげなく、思いの丈を伝えたものの、その後にはただ沈黙けが広がっていた。あたか現実ほとんど干渉しなかった私の振る舞いを誠実に反射してゆくかのように、彼女沈黙はどこまでも虚ろにこだまし続ける。あるいはそれ故に?いまもなお私の周囲の一切が福音を黙示するかのようであるしかし、黙示をめぐり彷徨うことは、仮託されたはずの言葉を探すことであり、私は取り返しがつかないという火に焼かれ続けている。私はあれ以上のことはできなかった、これ以上はなかったことを何度も確認し、彼女出会い、別れるまでの一切が最善である結論せざるを得なかった。にもかかわらず私は後悔している。いや、私でないものには、それは後悔としか見えないだろう。しかし私にとっては、なにか自然の摂理がずらされることのようであり、あってならないこと、あるべきでないこと、なにかが転回してしまたことだった。端的にそれをなんといえばいいのか、相応しい言葉が見つからない。私が含まれ出来事の一切は、渦潮の流れに捕まったかのように、ある方向へと引かれる。たとえばそれは、ちょうどノヴァーリスゾフィー別離しなければならなかったこである。一介の読者には、それは単なる若者失恋しかないだろう。だが、ノヴァーリスが与えた「青い花」の名には、ゾフィーとの出会いから別離までの一切の出来事が含まれている。とこなしえに芳しい青い花とは、拷問めいたもの十字架めいたものである。彼が紙幅を尽くして書きのこそうとしたものは、青い花の名を冠し咲き続ける。青い不合理のひと雫はその他の一切合切をまた青く染め上げてしまう。Sein zum Todeと言われるように、人間は死に向かう存在だが、たいていの現存在とは死へと否が応にも引かれてゆくことだ。だが、ノヴァーリスには、死が手段となった。彼は、生き続けるためには死ぬ他ない。彼にとって生き続けるとは、すなわち青い花を咲かせ続けることだ。そして青い花を、彼は咲かせ続けるままにする他ないのであるノヴァーリスは簡潔にこのことを言い表した。…「我、神聖にして、言い難き、神秘なる夜の方へ降りゆかん」…

私のファムファタアルは、名をFといったが、彼女はただならぬ風に極めてほっそりと、品良く痩せた女性であった。私は痩せた自身身体に、どこかFの面影を探している。痩身が複雑な喜びを与える。キリスト者キリストをまねび、そのまねた振る舞いによって自己脱自するように、私の痩身とは、運命なる女性のまねびなのである。これが、冒頭に記した諸理由に比して、私の痩身により影響していると思われる。

2016-11-12

[] ※ブコメ返信

今回は思いつきばっか書くので、あんまり本気にしないでください。

1. 「信」について

日本語の「信じる」「信仰する」という言葉は重いと思っている。

自分の神に対するスタンスは、(本当はいるかどうか良く分からないが)①いてくれたら良いな、②いる方に賭ける、③いてくれなければ困る、という幅で気持ちが揺れ動いている状態だ(その理由は以前書いた)。

こうした気持ちを表すのに「信」という言葉は重い。

「信」という漢字は「人」+「辛」+「口」の組み合わせから成るという説があるらしい。

ここで、「辛」は入れ墨に用いる針の象形で、入れ墨による刑罰を示す。「口」は誓いの文書を表す。

この説によれば、「信」という言葉「その発言に嘘があれば、受刑することを前提に誓う様」意味するとのこと。

自分はこの意味では神を信じることはできない。

他方、英語の"believe"は、allow(受け入れる)を意味する"be"と、to hold dear(愛しく思う)を意味する"li"から成るとのこと。

この説によれば、"believe"の意味対象を受け入れて愛しく思う」というところか。

これらの説が本当なのか文献を当たってないので分からないが、もし本当ならば英語の方がしっくりくる。

聖書解釈について

聖書文言というのは非常に抽象的で、中には矛盾するように読める個所もある。

そのため、人生で直面する問題に対して聖書規定適用しようとする際、人によって全く違う結論が導き出されることがある。

このことが顕著に顕れるのが同性愛問題で、①同性愛全面的に罪だよ説、②欲求を持つのはOKだけど行為に及ぶのは罪だよ説、③ノンケの人が男色に走るのが罪なだけで生まれながらの同性愛者は罪ではないよ説、等々、バリエーション豊かな議論が展開されている。

(ちなみに自分は、どの説に立つにせよ、自説をもって他人同性愛者〕を裁くことは「人を裁くな」〔ルカ伝6-37〕に抵触するのでイカンと思っています

上記の説は解釈としてはいずれも成り立つ。

また実際にも、(a)同性愛を罪と考えて信仰に励む同性愛者、(b)同性愛を罪と考えず積極的差別偏見と闘う同性愛者、のどちらも間違いとは言えないだろう。

そうなると聖書解釈というのは単なる主観の表明じゃないのか、客観的に正しい解釈というのはないのか、という疑問が湧いてくる。

この問題を考える際に参考になる議論として、法律学で似たような議論がある。

議論状況は泥沼に陥っている上に難解なのでとても要約なんてできないのだが、論者で議論が一致している点として「裁判官法律家としての直感結論を決めており、法解釈はそれを検証正当化するために用いられる」ということが挙げられる。

自分も2名の裁判官から同様のことを聞いたことがある)

このことから法律家はこの法律家としての直感を育てることが肝要であるとよく言われる。

これって聖書解釈にも当てはまるんじゃないか

大事なのはキリスト者としての直感を、信仰聖書研究を通じて育てることであり、聖書解釈はその直感検証正当化するために用いるものなのではないか

上述した同性愛問題でいえば、①同性愛者が直面する問題点、苦悩などをよく勉強したうえで、②キリスト教的な価値観に照らして直感結論を出し、③それを聖書規定に照らして検証正当化する、というプロセスになる。このプロセスを経た結論は、いずれの立場にせよ、聖書的と言える(と勝手に思っている)。

なお、「法律家としての直感」の土台には、無神論と(マルクス主義的な理解における)資本主義がある。

キリスト者としての直感」の土台には、キリスト教的な価値観人間堕落しているという人間観、成功より正義を重んじる姿勢、死後の世界肯定、愛)がある。

3. 関係規定

勉強しないと聖書は正しく読めないよ>

「〔パウロ〕の手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(ペテロ後書3-16)

あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」(テモテ後書2-15)

信仰してないと聖書は正しく読めないよ>

自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」(コリント前書2-14)

恣意的解釈は許されないよ>

「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手解釈すべきではないということです」(ペテロ後書1-20



ブコメ返信

・いつもありがとうございます教理問答買って読んでみます。今は詩篇を読んでいるのですが、終わったらコリント前書も読もうと思います

2016-11-05

[]

最近考えてること。

ロマ書とその注釈を読んでたら、キリスト教ってのは禁欲宗教ではないとのこと。

どういうことかと言うと、キリスト者信仰を持ち、聖化していく過程で、自然風俗タバコ不要になる(といいなぁ)ということらしい。

まり禁止されているからやらないのではなく、必要いからやらないのだと。

薬物規制に関して、大麻使用処罰するのはどうなのかなぁと思っていたのだが、上記解釈によればキリスト教見地に立っても一応大麻解禁は可能ということになりそう。

友達聖書科学矛盾(しているように見えるところ)の話をしてゲラゲラ笑っていたら、「なんでそこまで分かっていて信仰するの?」と聞かれた。

ここで気づいたのだけど、自分場合、神の存在を信じる ⇒ 聖書の教えを受け入れる、のではないのよね。

自分の今の閉塞的な状況からすると聖書の教えを受け入れるしか幸せになる途がない ⇒ 神の存在を信じざるを得ない、なのよね。

そんなことを考えていたら、内村鑑三も似たようなこと言ってて感動した。

我妻栄の『近代法における債権の優越的地位』を読んでる。

資本の回転プロセス権利義務関係がどう展開するかを描いた論文で、これのせいで未だに現代弁護士法学部生がマル経用語を(知らず知らずのうちに)使っていたりするというもの

ちょっと前に買って一読したのだけど、手形法理解全然ないためにななめ読みして放置してた。

これのせいでマルクス熱が再燃しつつある。

この前増田で勧められた『バガヴァッド・ギーター』を解説書と一緒に読んでる。

読んでていちいち聖書比較してしまって考え込むので全然進まない。

先日親戚の子供が訪ねてきて、あれは何で、あれは何、としきりに問うてきた。

聖書詩篇かなんかに、自然を知ることは神を知ること、みたいな教えがあって、そのことからすると、この子らの何でも知りたいという態度はきわめて聖書的なんじゃないかと思って考え込んでしまった。

おわり

※そういや先日書いた増田に、ブログ作って解釈まとめてくれみたいなコメントが付いてたんですが、僕は内村鑑三全集マルクス読んで思いついたことを書いてるだけなんで、そっち読んだほうがいいですよ。

ブコメでのフォローありがとうございます勉強になります

#やっとカテゴリしました。前からカテゴリしろと言ってくださってた方、遅れてすいません。

#さかのぼって読んだらアホみたいなこと書いてて草

2016-10-28

[]

http://anond.hatelabo.jp/20161028115443

○基本姿勢

聖書に従う。

タバコ自分非喫煙者

法律禁止されていないし自由に吸えばよい。現状の分煙ルール(として大多数が従っているもの)に従えば自由

ただ、キリスト者であれば、信仰過程自然不要になる(といいなぁ)。

お酒自分:酒の席でしか飲まない)

法律に従う。酩酊時の暴行等についても同様。

これもタバコと同様、自然不要となる(といいなぁ)。

大麻自分:吸ったこと無い)

法律に従う。ただ、非処罰化説も有力にあることに配慮する。研究者による検証の結果、受け容れてもよいとなれば別に解禁してもOK。

ただこれもタバコと同様(略

LGBT/恋愛自分ヘテロセクシャル

まれつきLGBTである人、中年になってからLGBTになった人、すべて自由恋愛してよい(聖書についても同様の解釈を採る)。

同性同士の結婚も認められるべき。現在制度一種違憲状態と見る。

ただし奔放な性生活は諫められるべき(ただこれは異性愛者でも同様)(キリスト者のみ)。

また、ノンケの人がいわゆる「男の娘風俗に行ったり、少年愛に走るのは諫められるべき(キリスト者のみ)。

萌え絵自分非オタク)

法律に従う。法律に反していなければ基本なんでもOK。

2016-09-01

http://anond.hatelabo.jp/20160901192115

キェルケゴールが言うところの「絶望」を経て、次の段階に達しているということかもしれない。

ぼくも『死に至る病』は難しすぎて100%理解できたとはとても言えないんですが、あそこで語られてる絶望ってのは、キリスト教における「罪」を自覚しつつキリスト者にならないことによる絶望を指してると思うんです。なのでここでキルケゴール持ち出すのはおかしいと思うんです。キルケゴールって言いたいだけちゃうんかと。

2016-02-22

反共宣言したら大学生レイシスト認定されたよ。いろいろ混乱して

35歳のおっさんです

代々キリスト教徒家系でその日は教会青年会の会合10人位で飯食ってたんだけどそのうちの大学生3人位が野党連合の話をしだした。

意見求められたか

共産党は無いわ、絶対に俺の考え方とは相容れない、ってかそもそもキリスト教徒共産党を支持するのは違和感を感じる、まぁ今の日本共産党宗教的に寛大なんだろうけどそれでもやっぱりね」

って言ったら烈火の如く責められた。

曰く共産党こそ日本民主主義を支え、マイノリティーに最も寄り添う政党なんだとか、宗教的マイノリティである我々キリスト者共産党を支持するのは必然なんだと。

んで

日本共産党がそうした考え方を標榜しているのは知ってるけどそれでも共産主義本質歴史を鑑みて共産主義を掲げる政党を支持することはできない。

中国マルクスレーニン主義を掲げる北朝鮮において宗教のもの弾圧対象になっている現実をどう考えるの?元来カトリックが強いキューバにおいて教会はどんな立場に置かれてる?俺は中国北朝鮮キューバのような構造共産主義本質的に抱えてるエラーだとおもうよ」

というようなことを話したんだよね。そしたらさ

まさか増田さんが中国北朝鮮に対してそういう差別的な考え方を持っているレイシストだとは思わなかった!」「完全に幻滅した!」「そんな右翼思想を持っているなんてクリスチャンとしてあるべき姿勢じゃない!」

あれ?って。差別主義者?って。右翼??ってなるよね。

「いや、政治の話してるんだよね?」って論点確認を求めたんだけどなしのつぶて

中国北朝鮮批判的なのこと言うのは間違いなく安倍自民を支持している人間でそういう奴はもれなくレイシストなんだってキューバはどこ行った?

いやいや、俺は夫婦別姓推進派だし憲法9条は堅持すべきだと思うし安保法制も反対だよ?って言っても

一貫性が欠如している。自己矛盾を起こしている」の一点張り

夫婦別姓推進派で憲法9条を堅持すべきだと思ってて安保法制も反対な人間は同時に共産主義同調的で当然個々の事象は別として中国北朝鮮政体批判であるけがないんだって

高卒の俺に比べてエリートと言って差し支えない、頭悪い学校学生じゃないんだけどなんでそんな理論飛躍が起こっちゃうんだろう?謎です。

2015-09-19

関東カトリック教区に対する違和感

長崎カトリック神父シスターが多い家系で生まれ育って、関東にやってきた。

上京してからは毎週教会に行くことがなかったので、

ある時、近所のカトリック教会へ行ってみることにした。

システムはほぼ変わらない(献金の仕方が教会で違うくらい)ので、普通に馴染めていたのだが、

説教けがおかしかった。

長崎教会で聞く説教は、聖書の言葉引用しつつ、「教えを見習って生きていきましょう」というものほとんどで、

生活の一部として、キリストの教えを考えていたのだが、

関東説教は、政治が何だ経済がなんだ、とにかく政治に関する言及が多い。

信徒正平協のような団体所属していたりする人が多く、

「思っていた教会と違う」感じだった。

あと「キリストを信じている自分」にアイデンティティを求めているような人もおおかった。

よくネットで「キリスト教は〜」と批判的なことをいう人を見るが、

そんなことを言う気持ちもわからなくはないくらいの違和感だった。

そのことを親や親戚、地元の近所の教会で話した所、

「そんな所行かなくていいと」と言われたので、今は行っていない。

ホスチアをいただかないと、キリスト者だということを意識しなくなるけど、(根付いているともいう?)、

変なものに関わらないに越したことはないし、今日も家で、いつもどおり祈ろう。

思ってたより伸びてたので追記(9.19 23:47)

>他の教会へ行けば?

一応沿線にある教会はいくつか行きましたが、全部微妙だったので。。。

ミサも朝早いor夜遅いなので、あまり遠くへ行くのも困りものという感じ。

四谷教会

ここは長崎でも名前を聞く教会だったので、一度行ってみますね。

主語がでかい

すみません

>聞き流したほうがいい

そうですね。別の教会に通ってみてあまりよいところに巡り会えなかったら、

近所の教会に通って、ヘンな説教は聞き流すようにします。

長崎ほど教会が多くないから、気軽に別の所へ行ってみようとしても、

そこそこ距離が離れているんだよね。

どこも駅から遠かったりするし。。。。

2015-06-10

http://anond.hatelabo.jp/20150610201039

論理的とは言ってないよ。

さて、君が色々論理をいじっても、それは君の論理であって、キリスト教論理ではないし、キリスト者一般の考え方でもない。君が神の存在を信じない理由として挙げるのは分かるけど、キリスト者の考えを知ることには繋らないよ。そもそも君はキリスト者の考えが知りたかったんでしょ。違う?

で、君の議論は結局「全知全能の神がいるとすると、人に自由意思はあるといえるのか、人の努力には意味があるのか、偶然というものはありえるのか、神は未来に起こることをすべて知っていて人間はそれをなぞっているだけではないのか。誰が救われ、誰が救われないのかは事前に決まっているのではないか」といった議論に繋がる。そういう神学的な議論については私の能力を超えるので、本当に知りたいなら、神学の本でも買って勉強して下さい。

ただ、一般的キリスト者は、死にかけた人が手術を受けて助かったら、お医者さんのおかげだと感じて感謝するし、神様のおかげだとも思って感謝し、そこに矛盾があるとは思わない。

http://anond.hatelabo.jp/touch/20150610001311

冷静になった元増田。私が仮に反逆者であったとしても、キリスト者が私を殺そうとしない理由は理路整然としている。

しかし、2点理解できない:

その1。

「生き残ったのは医者努力の結果であると共に神の思し召しでもある」

この2つが両立すると考えるのは、矛盾している。非論理的であるように思う。

神の意志であったなら、最初から手術の結果はきまっていたのだから医師努力必要なかったはずだ。

医師努力の結果であるとするなら、それは、医師努力で結果が変わった、ということなのだから、神の意志によって決められた結果ではないはずだ。

その2。

私は治療行為が罪だなどとは一言も言っていないし、そうは思わない。が、ここは理解できない。

「そもそも君は罪が何かも知らない赤子だったではないか」

罪かどうかは、本人の認識によって決まるのか?本人が罪が何かを知らなければ、罪から逃れられるのか?

とすると、過失は罪ではないことになる。法的には、過失でも結果が重大なら罪を問われるはずだ。

誰に道徳的な罪があるかは、それこそ、神が決めることであって、我々が決めるべきことではないのでは?

そもそも、原罪という形で万人に罪がある、と考えるのもキリスト教であるはずだ。原罪は、生まれた本人の意思によって犯した罪ではないのに、キリスト教ではそれを罪とみなす。

であれば、「私には産まれながらに余分に罪が与えられているかもしれない」と考える事は、キリスト教的には全く当然の事ではないのか?

http://anond.hatelabo.jp/20150610115706

元増田です。実験とは、不確かなものを確実にする為に行う行為です。

しかし、それが神の意志であったと認めることは、医師努力や子の状態など関係なく、最終的には神の意志によって助かるものが決められた、と認めることになります

まり、そもそも、最初から不確かではなかったと認めることになります

とすれば、実験をする意味はなかった、ということになりますよね。

大学受験で例えてみましょう。努力して大学合格した…と、学生は思っていました。

しかし、実は、試験の点数は全く参考にされておらず、大学が何らかの意志によって決めた人が合格者になっていた、と後から分かりました。

その学生は怒るでしょうし、普通に社会問題になりますよね?

しかし、キリスト者はそれは当たり前のことであるし、受け入れろ、というのです。

当事者である我々からすれば、そのようなことが言えるのは、結局、「大多数の人間はこの手の不幸の当事者ではなく、キリスト教が大多数の人間のための教えであるから」としか思えません。

http://anond.hatelabo.jp/touch/20150610001311

元増田。結局、信者の人って、そうやって、我々を親や医師への感謝がないような不敬な人間しか、捉えないんだよね。

我々、病気だった当事者立場からしてみれば、医学科学進歩のために自分の命を犠牲にして実験台になった、という自負があるんだよ。

それを、神の意志だと言ってのけることは、私と同じ病気を持って生まれ、手術に失敗して死んでいった子らは無駄死にだった、と言っているように聞こえるわけ。命をかけて実験台になる意味はなかった、神の意志から、と言っているように聞こえる。神学的にはどう解釈するのか知らないけど、少なくとも、当事者の我々からすれば、そう聞こえる。

私は、死んだ子らに代わって、彼らの死が無駄死にでなかった事を後世に残す義務があると思ってる。が、あなた方、キリスト者は、私の考えを不敬だの厨二だのと言って切り捨てるわけだ。

当たり前だけど、結局、キリスト教も、その他のほとんどの宗教も、大多数の普通人間のための教えなんだよ。私のような、自然には生きられない体を持って生まれてきた存在は、圧倒的に少数派だからぶっちゃけどうだっていいわけ。我々に都合の良い教義にしたところで、信者は増えないからね。ただ、他の大多数の普通人間には責任はない、そういう特殊な人たちが生まれたのは神の意志です、という事にしておけばいい。そして、私のような特殊人間は、とにかく、なだめすかして、普通人間文句言うな、と言っているようにしか聞こえない。

誰かが、我々が命をかけて参加した実験には価値があり、死んだ子はただかわいそうなだけではなく、実験という大義のために死んだのだ、と認めてやらなければならない。誰かが、死んだ子らに対して、「君の死には価値があったのだよ、死んでくれてありがとう」と言ってやらねばならない。

宗教なら、そういうことが出来る人がいるかと思ったが、結局、大多数の普通にまれてきた人間を弁護して、我々特殊に生まれてきた人間おかしい、なだめすかしてやるから文句わずに生きとけ、というだけだった。

死ぬはずの体で生まれてきて生き残った私には、死んだ子らには、死ぬ価値があったと世間喧伝して生きる義務があると信じている。

http://anond.hatelabo.jp/20150609194256

私自身は何の信仰もないのだけど。神が望むから人が生まれるのかもしれないが、神はいちいち個別の人の都合とか分からないし、干渉もできないんじゃないのかな。だからキリスト者はいちいちあなたを殺す必要はないし、あなたは生きていていいのだ。

思考実験として、聖書の神のようなもの合理的解釈しようとすると、「世界を作った神と人間」ってのは、「熱帯魚水槽を設置した人間と魚」みたいな関係なんじゃないかと思える。

  • 神は天地を創造し、人間や生き物を作った
  • 神は全知全能なのに、どういう意図か知恵の木を楽園に植えて人間に食われちゃったりする
    • 人は水槽に関することならだいたい何でもできるのに、どういう意図か食われたくないもの水槽に入れて魚に食われちゃったりする
  • しかも知恵の実を食ってしまった人間楽園から追放する。全知全能なら最初から植えるなよw
  • 神は造物主のくせに嫉妬する。
    • 人は自分で魚を入れてるくせにこっちの魚が奇麗だとかこれもいいなとかえり好みする
  • 人は神を試してはいけない。人がどんなに切実に神に願っても、全知全能のはずの神はいちいち人間気持ちや都合を理解したりしない
    • 魚は人を試してはいけない。魚がどんなに切実に人に願っても、人はいちいち魚の気持ちや都合を理解したりしない(できない)
  • 神は自分で作ったはずの世界や生き物を気まぐれに、あるいはついうっかり破壊する
    • 人は自分で作ったはずの水槽や魚を気まぐれに、あるいはついうっかり破壊する
  • 神が世界を作ったというのなら、神はこの世界のどこかにいるのか?なぜ観測できないのか?

水槽を設置した人は水槽のなかで魚が繁殖するのを望むかもしれないが、人ができるのは水槽内の環境を適切にすることくらいまでで、個別の魚の生命力の強弱や生き死にをコントロールできるわけではない。おそらく、キリスト者の言う「神」にもその程度のことしかできないのではないのだろうか。

キリスト者にこういう考えを主張したら冒涜的だとか言われるのかもしれないが。

http://anond.hatelabo.jp/20150609194256

君の質問はひねくれてはいるが特に複雑ではなく、神学の訓練を受けた神父が答えられなかったというのはにわかに信じられない。君が自分エキセントリック思考過程を十分説明しなかったから、神父質問意味が伝わらなかったのではないか。

さて、キリスト教において、基本的殺人は罪であり、禁止されている。そして、「神の意思に反して生き残った者は殺さなければならない」という教えも特にはないので、君のまわりのキリスト者が君を殺そうとは思わなかったのは当然だ。不思議なことは何もない。

そもそも君のいう「神の意思」というのは君の推測にすぎない。君は神を信じていないと思われるのに、なぜわざわざ神の意思を推測しようとし、しか自分の推論がキリスト教的に正しいことに自信を抱いているのかは疑問だが…

手術を受けた子らの中からランダムに死者を出すのが神の意思とは思えない。

とすると、手術を受けて生き残ってしまった私は、神の意思に反して生き残った事になる。

君のまわりのキリスト者がそう言ったのだろうか。「キリスト者はこう考えるべきだ」と君は思ったようだが、キリスト者普通はそうは考えない。生き残ったのは医者努力の結果であると共に神の思し召しでもある、と考える方が普通だ。

というか、そう考えるのが普通だということを知らない君はカトリック学校でいったい何を学んだのか。

私は神への反逆者として殺されなければならないのではないだろうか。

さて、数年で死ぬような障害を持って産まれた子が生き長らえるように治療することは罪だと仮定しよう。もちろん、罪ではないのだが、あくま議論のための仮定だ。

君を治療して「罪」を犯したのは誰になるだろうか。君の両親や医師だ。君ではない。そもそも君は罪が何かも知らない赤子だったではないか。自分意思関係なく手術を受けたことが罪になりようもない。親や医師の「罪」を問うのはともかく、君が犯したわけでもない「罪」を問う発想は出てこないよ。

もちろん、キリスト教では自殺は罪だから、君が自分を殺さないことを罪とする発想もキリスト教的には出てこない。

というか、誰が罪を犯したかというときに、医者や君の両親に思いが及ばず、自分自身が「神への反逆者」だ、「キリスト者自分を殺して喜ぶべきだ」と、キリスト者に言われた訳でもないのに位置付けるのはかなりな厨二的発想だぞ。

まとめよう。

なぜ、反逆者である私をキリスト者は殺さないのか。

君は別に反逆者ではないし、君のような人を殺すべきというルールもないから

2015-06-09

キリスト教の人に聞いてみたい:私の生存は神への反逆か

追記2:

結局、私には、「私が助かったのは医師努力の結果である」と「私が助かったのは神の意志である」は両立しないようにしか思えません。

医師努力の結果であったのなら、努力次第で結果が変わっていた、ということですので、神の意志ではないはずです。

神の意志であるとするなら、医師努力しようがしまいが、神の意志によって手術の結果が決まっていたということですので、医師努力関係ないはずです。

私には、後者見解は、医師努力や、医師技術を向上させるために実験台になって死んでいった子らへの冒涜に聞こえます。受け入れられません。

とすると、私の取れる見解は、前者しかないのです。つまり、私の手術が成功したのは医師努力ではあったが、神の意志ではなかった、と、考えるしかないのです。

追記:

私が手術で助かったのが神の意志であるなら、我々が参加した実験的手術には何の意味があったのでしょう。

私が手術で助かったのが神の意志であると認めることは、手術で死んだ子が死んだのも神の意志であると認めることであり、「我々が参加した実験のもの無意味であった、手術で死んだ子は無駄死にであった」と認めることに他ならないように思います

死んだ子は無駄死にだったのですか?

そういう言説には、「とにかく、なだめすかして私が自殺したり反社会的になったりすることを防ぎたい、死んだ子の死の解釈はどうでもいい」という隠れた意図が透けて見えるのです。

そのような意図は、とても浅ましいと感じます

本文:

私は、放置すれば数歳で死ぬ病気を持って生まれてきた。研究段階の手術を受け、そして、助かって成人した。

中学高校カトリックミッションスクールに通った。先生には信仰の厚い神父の方もいらっしゃったが、私の問いに答えてくれなかった。

キリスト教は、我々人間が神の被造物であると教える。

人が生まれるのは神がそう望むからである、と。であるならば、私が数歳で死ぬ体で生まれたのも神の意思であるはずだ。神は、私が数歳で死ぬことを計画されていたのではないだろうか。

一方、私の手術が成功したのは神の意志というよりは、医師研究者の成果だろう。

私の受けた手術と同じ手術を受け、助からなかった人が何人もいたことは、その後、私の手術を行った大学病院紀要から分かっている。

手術を受けた子らの中からランダムに死者を出すのが神の意思とは思えない。

とすると、手術を受けて生き残ってしまった私は、神の意思に反して生き残った事になる。

まり、私の存在自体が神の意思に反しているはずなのだ。したがって、私が生きていることは神への反逆であり、私は神への反逆者として殺されなければならないのではないだろうか。

神を信仰する者は、私を殺して喜ばなければならない。が、キリスト者は、今までの数十年間、私を殺していない。

特に、中高時代は、キリスト者の近くにいて、いつでも私を殺せる状況にあったのに、だ。なぜなのか。殺された時の無念さが大きくなるように、社会的成功させてから殺そうという魂胆なのだろうか。

なぜ、反逆者である私をキリスト者は殺さないのか。聞いてみたい。

2014-12-31

自分の軸を持てない人

自分はどうしようもない愚か者クズだと思う。イエスキリストとして信じているにもかかわらず、その信仰を行動で表そうとはしない。もし私が本当に信仰を持っているのだとしたら、家族や友人から初詣の誘いのようなささいなことは即座に断るだろう。あるいは、初詣に行ったところで参拝はしないと明言するだろう。結局のところ、わたしは自分キリスト者だと思われるのが恐ろしいのだ。今までひとつ共同体の中を生きていると考えている親しい人々と私との間に溝ができるのが怖いのだ。街中でイエスの教えについて拡声器で演説し続けている街宣車に対する人々の目が私にも向くのが怖いのだ。

イエス・キリストは剣をもたらすために私は来たのだとおっしゃった。教えを実行しないものは砂上に楼閣を作るようなもので、いつか崩れ去ってしまうのだとおっしゃった。私は今年も自分の臆病のために信仰を曲げ、自分のこれまでの思いを砂のように散らせてしまうのだろう。三度目の信仰の死を経験してなお、私は改めようとはしない。

2014-08-28

会ったこともないお方をどうして信じられるのだろう

私がキリスト教徒に対していつも不思議に思っているのは、会ったことのないイエスという存在をどうしてキリストだと信じられるのだろうか、ということだ。

神を信じるということであれば、まだ出会う(もしくは感じる)体験を通して達成されるということが想像できる。でも、イエス歴史上のある特定時代に生きていた人物であって、その人に出会うことはできない。

さらにいえば、その一般的キリスト視覚イメージヨーロッパで生み出されたもので、本来イエスその人の姿とは大きく異る可能性が高い。キリスト教徒イエス出会えるのはただ聖書の中でしかない。

まずイエスという人をイメージできなければ、三位一体を信じることはできない。それならば神を信じるということもキリスト教教義的にはできないということになる。

イエスキリストとして信じ、神の位格のひとつであることを信じるというこの凄まじく難しい行為キリスト教徒はどのようにして達成したのだろうか。私はそれが不思議でならないし、その困難さゆえにキリスト教の教えに感嘆するものキリスト教徒にはなれない理由でもある。

追記:

トラックバックを読むとどうも誤解されているようなので補足すると、私はキリスト教徒信仰を嘘だと思ったり、現在キリスト教形骸化していると考えているわけではない。どちらかといえば私は、程度の差はあるだろうけれどもキリスト教徒が本当に、真剣イエスキリストだと信じているのだと考えている。

おそらく彼らは個々人のやり方でイエス・キリストを信じる強い根拠を手に入れたからこそ、キリスト教徒でいられるのではないかと思う。私はその個々人がその強い根拠を得て、信じることができた、その人が真にキリスト者になれた過程を知りたい。

そう思ってこの記事を書いたけれど、言葉が足りなくて誤解を与えてしまったようで申し訳ない。

2013-10-28

http://anond.hatelabo.jp/20131027124112

主です。ご教授ありがとうございます。私もそれなりに色々見聞きしたり調べたりしたのですが、出自以外の広まりについては結局のところ「よくわからない」が結論となっていますヨーロッパでもやったりやらなかったり、アメリカのものだという認識だったりで、それがプロテスタントカトリックの違いなのでしょうか、とにかくアングロサクソン社会でもまちまちという感じのようです。しか日本おいてはヨーロッパアフリカインドネシアからの影響では無くほぼアメリカからであると思っています

ただ、私の主張したいのはそこではなく、だったら日本人にはもっと関係の無い行事だろう、という事。もちろん日本人にもキリスト教信者はおられますが、本当のキリスト者にしてみたら寛容に見ても目にあまる光景ではないでしょうか。いい大人が奇異な格好やもはやハロウィン関係の無い格好、更には裸同然の格好で電車に乗って騒ぐ。クリスマスでも同じく何かと託つけて騒いでますが、もうウンザリです。無宗教から楽しければいい、モノが売れればいい、そんな空気に耐えられません。

地元での行事が廃れた、とのことですが、それならそれでいいじゃないのでしょうか。自然淘汰されたということです。しかしだからと言ってその換わりにそれこそ「縁もゆかりも無い」ハロウィンでなんとかしよう、という発想になるのだけは避けたいと思いませんか。やる意味がありませんよ。やがて新たに地元根付いたお祭りが作るか、何もしない。それでいいじゃないですか。それでその地元が生きるか死ぬかは地域に住むその人たち次第です。

2013-09-03

http://anond.hatelabo.jp/20130903100650

変ですね、私はあなたの親の話など一度もしていません。

それは申し訳ありません。他のツリーでの話みたいですが、同じ様な口調で同じ様な論調の元だったので同一人物だと思ってました。

ここのツリー自体も複数に別れてて、貴方の書いた、というのも見ましたが、相手が全部自分な訳でもありません。


そこは勘違いしてましたが、

「色々見てみると、これがただの改変だというのもあれば、紀元3,4世紀辺りに作られた話であるという話もあって、」

どこのサイト見て来たの?っていうか、どこの翻訳か教えてくんないと答えられるかどうかすらわかんないんだけど…

といいながら、こちらがリンクを見せた瞬間に

掲載されています

ジョークであれば、新共同訳委員会日本聖書協会は掲載しないでしょう。

となるのはおかしい話でしょう。貴方はご存じなかったのは事実ですよね?

そうでなければ、

今回のその「載ってないの?」という反応には心から落胆しました。

このような事は言わないでしょうから

また、逆に

端的に書こう。「載ってはいるが現実採用されてない」。

「異本」の訳にはこう載っている、というアレは聖書のどこに書いてあると思う?

それぞれの書の最後尾なんだ。

実際にはミサ礼拝の時に全く読まれないってこと。

実質採用されていないと思って頂戴。

この様にいきなり詳しく言い訳する必要も無いでしょうから

旧約聖書旧約聖書続編、新約聖書をそれぞれ読んで、明日正教会カトリック教会聖公会ルーテル教会に行って

聖職者たちに聞いて回って来な

残念な人扱いされると思うけどね

それはあまりにかわいそうなんで読んで頂戴。

読むだけで反論はナシ。いい?

も~このエントリ読んでさえも反論してきたらアホの子だと思われるからね。

匿名の場があってよかったね~。

「神はそのひとり子を世にお遣わしになったほどにこの世を愛された」

これがキリスト教の基礎です。どの教会でも常識となった聖句です。

そのようになさった神が罪びとに石を投げるでしょうか。ありえるでしょうか?

キリスト者は「ありえない」と答えますあなたどうでしょうか。

愛する人が何か間違いを犯した時、その人が謝っているのに許さずに石を投げますか?

この辺りではっきりとそんなことはあり得ないと言いながらこちらを煽っていますが、記述としてあるわけで、

それを貴方は信じないかもしれないかもしれませんが、聖書に載ってる以上、ただただその話を馬鹿にして済む話ではないでしょう。

ましてや載ってないの?と聞いてきたことにがっかりした、なんて話はおかしいでしょ?

勿論、載ってることを知った上で、現在このように解釈されてる、私はこう思う、という貴方の最後の方の説明はそれで良いですが、

最初論法とは矛盾します。


その辺り、自分の知識が足りなかったことが原因で人を馬鹿にしたことを謝罪することすら出来ないのですか?と聞いてるだけです。

2013-07-10

http://anond.hatelabo.jp/20130709115027

http://anond.hatelabo.jp/20130709090812です。

皆さん頭は冷えたでしょうか?

キリスト者の皆様

ロマ書16章17から18節をお読みください

キリスト者または宗教否定派の方

私の兄弟姉妹たちを蔑まないで下さい

私たちは教派にもよりますが「国のためにも」祈りを捧げています

歴史を重んじる」と誇っているはずの日本人にはありえないほどの態度ではないでしょうか?

そのような態度で自分と違っていて相手が完全に合わせることが不可能というだけの理由で、他の宗教信徒を圧迫しないでください

感情的になる人がいると反射的に批判することはあまりに滑稽です

我々もただの人間です

同じように感情的になるあなたは、人間ではないとでも言うのでしょうか

また、日本キリスト教徒人口について書いている方を見かけましたが

2000年代に入ってすぐ6%と報じられたものを見たことがあります

おそらく比較的正確です

訳あって一時的に教会に行けない人を、教会は「人口から外すことがあります

教会はお寺や神社より厳密にミサ礼拝などに参加している人だけを人口として発表する傾向があるからです

首都圏にいます311以降受洗を希望する人の数が急激に増えており洗礼教育クラス調整が追いつかないほどです

いわゆる「平信徒から一歩上に上った立場なので連絡会議もあり他の教会でもマネジメントが忙しいことは知っています

また、無宗教(どの宗教にも応じる)という立場は状況に対して従順とも言えます

逆に社会的問題を引き起こすカルトにひきこまれやすい傾向を持つ、という現実もあります

皆様の安全をお祈りしま

以上です。

追記)11:35、トラックバックをつけることにしました。

これにて、私の発言を終わります

2013-05-13

http://anond.hatelabo.jp/20130512210545

じゃあなんですか、イエス寿命をまっとうしたらイエス思想家としての価値はなかったんですか? 教義が完成しなかったんですか?

当然じゃないか

神の子イエスが、人類全ての罪を贖うため十字架にかけられた」というのがキリスト教のコアだよ?

ユダピラトも、神の許しのもとに、神意に沿ってイエスを殺した。でなければ神の子死ぬわけ無いじゃないかイエス十字架の上で「計画通り」と笑ってるよ。

まさに反キリスト者冤罪罪を犯したお前がはりつけられた十字架を背負わないならさっさと地獄に堕ちろよ。罪人。

「罪人」というタームはキリスト教の下で特別な意味をもつ。罵倒語には使えないよ。

2009-06-14

なるほど。

ちょっと違うかな - finalvent日記

翁はやっぱり『教会の外に救いなし』なキリスト者なのだなと。

仏教をそんなふうに考えるのも良く分かる。

まあ信教の自由だし。

2009-05-10

http://anond.hatelabo.jp/20090510120438

朝からキリスト教徒で名の知れたブロガーたちの記事を読んでまわったのだけど、

うわー

キリスト者であることを表明したらこんな責任を負わせられるのか

そらまあ宗教って全生活だけど

宣教令ってあるけど

そんでもなー

<にっきっき>

書いていて

たぶん宗教者ということに自分が重きを置いてないから「キリスト者ってだけで」他者からそういう目で見られることに不当に思うのだな、とおもた

キリスト者であることに全アイデンティティがある人は別にそう思わないのかも

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