はてなキーワード: エピローグとは
三浦さんのファンだったわけではないけれど、ドラマに出ていればかっこいいなあと素直に思うくらいには好きだった。
訃報を知って泣くくらいには好きだった。
三浦さんではないけれど、自分にも好きな俳優さんはいるので、三浦さんのファンの方の悲しみは計り知れない。
ただただ、三浦さんのご冥福をお祈りします。
本題。
しかし、不意にやってくる、数年前に亡くなった妹関連で未だに怒りが湧いてきて、どうにか発散しようとネットを開いたところに、三浦さんの訃報を目にして心が完全にひしゃげた。
もう今日は使い物にならないだろう。
妹は数年前に自殺した。
なんとなく、確証もなく老後2人で縁側に座って話してるのかと思ってた。けどそんなことなかった。
殺人や事故だったら殺した犯人を憎めたけど、自殺は殺した犯人も被害者も同一人物だから憎しみも悲しみもごちゃ混ぜになる。
今でも妹のことを思って泣くことはあるし、体がだるくて動けなくなる。
その他色々、本当に色々、大袈裟にではなく、自殺の前と後では生活、性格、人生の全てが変わる。
本当に自殺は最悪だ。
序盤に書いたが、妹の自殺について、私にとって悲しみよりもずっと残るのは憎しみだ。
ずっと妹のことを思って泣いていたかった。
けど、醜く心に残ったのは怒りの方が強かった。
そして怒りの感情の方が長く残る。
死んだ妹に対して怒りはない。
自殺なので遺書もまああったが、正直なところどう思ってたのかなんて、誰にも分からない。
何故死んだのか、何故私に言ってくれなかったのか、とかはもういない人間に対して怒るのは疲れた。
私が憎い相手は2人いる。
1人目。妹の友人。
妹は母親が嫌いだった。
私は特に好きでも嫌いでもなかった。
なので妹の意見には同調できなかったが、妹の友人(Aとする)はそんな妹の気持ちをわかってやれたらしい。
それでもこのメールは見せないでくださいとか、私だけが妹のことをわかってる、みたいなそんな内容だった。
葬式にもAは来た。
私は受付をしていて、両親が参列者の相手をしていた。
妹に対しての、学生時代の旧友がくれた手紙などはあったけど、母親に対しての手紙。
嫌な予感がして母親から取り上げると、妹が母親を嫌っていたことがつらつらと書かれていた。
注釈しておくと、妹は母親を嫌っていたが、母親は妹のことを格別嫌っていたわけではなかった。
なので、妹の死に対して本当に母親は悲しんでいた。
私は親元を離れて暮らしていたので話に聞く程度だったが、会えばいつも泣いていたし、葬式でもずっと泣いていた。
そんな母親に対して「あなたの娘さんはあなたのこと嫌ってましたよ」なんて手紙を渡すか?
妹は嫌いだったかもしれないけど、私はそんなに嫌いでもない母親だ。
妹の遺品を整理して、妹の葬式の準備をして、毎日妹の死に触れて、妹が二度と帰ってくることのない実家に暮らしている母親に対して、葬式に来ただけの人間がそんなことするか?
本当に腹立たしかった。
手紙を渡すだけ渡してAはさっさと式場を出たらしい。
本当に憎らしかった。
妹の葬式に行くこと、母親に手紙を渡そうとしてることなどツイートされていて、憎しみが重なるばかりだった。
憎ければ見なきゃいいといえば本当にその通りだ。
本当に本当に憎い。
Aは愛しき友人のために、憎き母親へ一矢報いていい気分だっただろう。
Aにとって母親は、死んだ妹の仇敵だったけど、母親は私の母親でもある。
恨みつらみの手紙を送られて、精神に異常でも来たして後遺症でも残したらどうするつもりだったのだろう。
フィクションなら友人の復讐を遂げられて良かったかもしれない。
けれどここは現実だ。
Aにとっては自身の物語の重要な登場人物だった妹の仇をとって満足だっただろうが、モブの私や母親にも物語がある。
モブだと見なされた人間もちゃんと生きて家族がいて仕事があって人生がある。
妹が死んだ後のエピローグは最悪だ。
その患者は妹が亡くなったのとほぼ同じ年齢だった。
それだけでうわっと思ってた。嫌だなと思ってた。
カーテンを開けると、その患者はもりもりとご飯を口いっぱいに含ませ食べていた。
はあ?と思った。
けれど、それだけで、ふつふつと怒りが湧いてきた。
指導者が話しているのを横で聞いていただけだったが、ずっと私はその患者が憎くて睨んでいた。
なんで妹は死んだのに、お前は元気に生きて飯食べてるの?
別に妹のことは直接関係はない。本当に理不尽だし、本当は生きてて良かったと思うべきである。
しかし私は今でもあの女がもりもりと飯を食べている姿が脳裏に焼き付いて憎い。
私はそんなに人を憎まない性格だった。と思う。
Aと比べて、私や家族が何かされたわけではない。
けれど妹が死んで、生きている人間が不意に憎たらしく思うことが増えた。
認知の歪みだと思う。
自分でも理不尽だとわかっているけど、感情がそう思ってしまうのだから、どうしようもないのだ。
妹は見つけた時もう死んでいたのに?
妹は初めての自殺行為だったのに?
妹は死にかけた朝にご飯を食べることもなかったのに?
考え出すとぐるぐると、どうしようもない。
認知の歪みがわかっていても矯正することもできず、顔も覚えていない相手に今日まで怒りを抱いてしまう私がいる。
自殺は全てを狂わす。
不幸の行き着いた先の選択だ。
深く関わりがない、知っているだけの人間ももれなく全員不幸へ道連れにする最悪の選択だ。
ただの愚痴
タイトル通り、あんさんぶるスターズ!新規が7月のラビッツシナリオ読んでくっそつまらんなと思った話です。
女オタク同調圧力社会の中、ツイなど名前の見えるところでは決して言えないけどめちゃくちゃつまらなかった。未読シナリオのスキップ機能付けてほしい。
まず、あんスタは女性向け男子高校生アイドル育成ゲーム。月2回のシナリオイベントでユニットごとに各アイドルたちを掘り下げていくスタイル。
7月上旬のイベント対象は2年生中心で「可愛い」が売りのRa*bits(ラビッツ)という4人組ユニットだった。モチーフは兎でライブ中に両手で耳作ったり半ズボンで踊ったりいわゆるショタっぽい子たち。
色々省略するけどメンバー4人のうち1人が大学進学を機にアイドル活動を休止していて、その間は残る3人でソロ活動・ユニット活動を継続していた。そろそろ大学生活にも慣れたので夏休み突入に合わせて活動再開することになり、せっかくだし復帰ライブを大々的にやろう!という話になった。
しかし所属事務所の都合で満足な資金や準備人員が用意できず、計画したライブは中止に追い込まれていた。
そこで、彼らが考えたのが「他のアイドルに資金提供をしてもらう」こと。
ユニット結成当時は人気もなく、対バンライブ中に客が帰るなど色々大変な体験をした彼らだったが、めげずに他のアイドルのバックダンサーをしたりスタッフの手伝いをしたり小さなライブにも全力で取り組んだ結果、今ではファンからも他のアイドルからも愛される人気アイドルになっていた。
そんな僕たちなら、きっと手を差し伸べてくれる人がいるはず!
うん、分かるよ。
その流れは理解できる。
キャラ1「どうしよう…ぐすぐす」
キャラ2「そうだ!俺にいい考えがある!」
→暗転
→ライブ当日
キャラ2「♪~♪~いや~みんな資金援助してくれたしファンはクラファン手伝ってくれたし無事ライブ開催出来てよかったな!それもこれも俺たちの日頃の行いが良かったからだな!えっへん!」
普通こういうのって、四人そろって先輩アイドルに頭を下げに行って、その先輩の口から「お前たちには沢山助けられたからな」みたいなお褒めの言葉をもらって「僕たち頑張ってきてよかった…!!」ってなるんじゃない?
ジャニーズで言うならデビューしたての新人がマッチさんとか木村拓哉の楽屋で直接お願いするところだよね?それによって他人から自分たちへの評価も分かるしお願いされる側のキャラの株も上がる良いシーンになるはずだったよね??なに一行で片づけてるの???
百歩譲ってこれがフルボイスなら、ちょい役でキャラ数増やすの大変っていう裏事情あるかもしれないけど汎用パートボイスを文頭でちょろっと流すだけのゲームなので…
会話中心でゲームシナリオ組み立てるの大変かもしれないけど、あまりのやっつけっぷりにびっくりした。
その後のシーンも、良い子だから俺たちは評価されたって自画自賛してみたり、自分の都合で活動休止していたキャラを不自然にべた褒めしてみたり、なんか…読んでて凄く虚無だなって思った。
そもそも私がこのラビッツというユニットが苦手というか、高校2年生身長170センチ近い男たちが「寂しいのでぎゅ~ってしてください♡」って発言するのなかなかホラーだなって思う。
音ゲーからあんスタを知って時系列順に過去イベントをちょっとずつ読み進めながら、初期のイベントは結構楽しいな~と思ってたのに、量浴びると積み重なった違和感から目が離せなくなっていく気がする…
何のこだわりか知らないけど台詞中の漢字をむやみにひらがなにするのとか、「うわ~スマホが鳴ってるぜ!誰かから電話がきてるんだぜ!」とかイチイチ口で説明するのとか、シナリオ読んでると文字読解力が下がっていく気がして怖い
あと、あんスタってどのシナリオも、全体が10話構成だとしたら1~2話くらいでとあるキャラが悩んでいる描写、3~7話で「どうしたの?一人で悩まないで!何かあったら相談して!僕たち俺たち仲間だもんね!」して、悩みを解決するための具体的な行動は無いまたは文字通り「相談」することで解決した上で8~10話で「いや~解決して良かった!」って事後ライブシーンして終わりって組立が多すぎて飽きる
そのライブシーンが「エピローグ」って名前なのも気に食わない。こっちはアイドルのライブシーンを見るためにプレイしてるんであって勝手にエピローグにするな!って見る度いらっとする
結局何が言いたいかというと、キャラデザや性格付けは悪くないのに、シナリオ側の文章力と見せ方でつまらなくなっちゃうゲームだなということです。
もちろん嫌いなところばっかりじゃなくて、過去シナリオ読む中で好きなキャラはいっぱい出来たよ!!
プレイ前、傍から見てる分には、女性向けゲームの中では超人気作だからもっと質のいいシナリオなんだと勝手に思ってたから期待値からの落差が凄い。素材は良いのにな~残念
・あるSF編集者が自分の担当したアンソロジー本(『日本SFの臨界点』と『2010年代SF傑作選』)の表紙を掲載し、そのツイートが広くバズった。
・それを見てある読者が twitter で以下のような発言を行い、反響を呼んだ。
「なんでSF小説とかアンソロの表紙って漫画・アニメ絵の女の子ばっかなの?恥ずかしくて持ち歩けないんだけど。自らターゲット狭めてマーケット小さくしてる気がする。(中略)誰も彼も「売れるから」で思考停止している気がしてならない。」
それに対して当該編集者がfusseterで以下のような反論を行った。
・「女の子」に関して
・イラストレーターには『性別を指定しない抽象的なキャラクター像』で発注したもので、『女の子』ではない,
・キャラクター的であることそのものに対する違和感にしても、少なくとも現場ではそういうものにしようという意向ではなかった。
・「恥ずかしい」に関して。
・特に若年層ではキャラ絵が「恥ずかしい」と思う感性はあまりないはず。
・キャラ絵が想像力を狭めるということはなく、むしろ想像力を喚起するもの。
・表紙に対する意見について
・表紙を描くイラストレーターたちにも評判を気にして傷つくなどの感情はあるんだから、そういう人に届く危険を認識したうえでSNSを使え。
・事実として違う(SFマガジンの書評欄に見られる書籍の表紙を引き合いにだして)。
・今回の表紙の意図について
二者間で応答された論点は以下のように要約される。
1.なぜSF小説・アンソロの表紙はキャラ絵の女の子ばかりなのか
1.は事実認識としては適当ではない。ただ、主観的で不正確な感覚でも、その感覚が広範に共有されていればシーンに対する認識としては強度を持つ。
たとえば、読者の記憶に残りやすい「目立つ」コンテンツの表紙にアニメ絵率が高かった(ように思える)場合、多くのユーザーは「表紙にアニメ絵ばかり」という認識を持ち、関係するアクターやシーンの振る舞いもその認識に沿って動いていく可能性がある。
ハヤカワは伊藤計劃の『ハーモニー』『虐殺器官』の文庫化の際に、伊藤計劃作品のアニメ映画でキャラデザを務めたredjuiceを起用した。ちなみに表紙に、ではない。本をすっぽり覆うタイプのオビにイラストを反映させたのだ。実質的には「アニメ絵の表紙になった」とみなされても仕方がないし、事実そのように勘違いしている人も散見される。
シライシユウコのイラストレーションに対するファンダムの記憶は伊藤計劃や百合SFと密接に結びついており、2010年代の「気分」を確実に決定づけていた。
「シライシユウコが表紙を描くこと」は他のイラストレーター(キャラ絵寄りであれそうでないであれ)が担当するより確実にある種の指向性を帯びやすい。
どういう指向性か、と問われるとなかなか言語化しにくいが、このイラストレーターが伊藤計劃の『ハーモニー』の単行本版の表紙を担当したこと、伴名練のデビュー作である『少女禁区』の表紙を担当したこと、ライトノベル作家の短編が多く採られた『ゼロ年代SF傑作選』の表紙も担当し『2010年代SF傑作選』がその「再登板」でもあること、百合SFブームを決定づけた『SFマガジン』の百合SF特集号の表紙も担当していたこと、等々から鑑みて、「百合SF」に代表される近年のSFを代表するイラストレーターとみなされうる、といったところだろうか。
もちろん、シライシユウコは上記以外にも多くのすばらしい仕事を残している。ヤングの『時をとめた少女』など『2010年代SF傑作選』よりも「少女性」が強い絵も描く一方で、円城塔の『エピローグ』(単行本版)やヴァーリイの『逆行の夏』などのようなさほど「少女性」が目立たない絵もある。
そうしたイラストレーターが表紙を担当することで、某評論家のいうように様々な出自、トーンを持つ収録作のイメージを一つのカタにはめることになるのは否めない。それはイラストレーターの罪ではない。
『日本SFの臨界点』に関して言えば、伴名練が編纂するということで『なめらかな世界と、その敵』での「キャラ絵の人物がアップになっている表紙」が文脈的に意識されているのだろう。
『なめらかな世界と、その敵』の収録作はジュブナイル的な色彩を帯びた作品が多く、表紙の選択はかぎりなくマッチしていたと思う。だがその文脈を発表年代も書き手もバラバラなアンソロに持ち込むのは(表紙を決めるのは編集者なので作家ではなく編集部として)作品群を「私物化」、あるいは領土化する行為として糾弾されてもしかたがない。
とはいえ、アンソロジーを編集するのはひとつの創作活動でもある。DJのようなものだ。どんな作品を選ぶか、どんな順番で収録するか、といったことが作品個々の印象や読み味を大きく左右し、「一冊」のイメージを決める。その点で、表紙を「私物化」するのも表現の一部であるかもしれない。増田個人の意識としてはアンソロの表紙もまた(アンソロ自体のコンセプトにもよるが)「私物化」されるべきと考える。
ハヤカワは伴名練という作家に過剰な文脈を背負わせすぎなきらいもあり、それはあまりよろしくないと感じるが、『日本SFの臨界点』は伴名練の作品・批評のひとつとして見なすべきではないか。
アンソロを編纂するということはそのくらい暴力性を孕んだ行為なのだ。「埋もれた作品を発掘する」などといった無邪気な善性だけで成り立っているものではない。作品について一切指向性を持たせたくないのなら、表紙をつけず、amazon あたりで短編単位でひとつずつ売るしかない。
2.に関しては編集者の反応があまり噛み合っていない。「恥ずかしい」と感じることはどこまでも個人的な感情なので、「若者には違和感がない」と反論してもあまり意味がない。発端となったツイートで「恥ずかしい」に続く文がマーケティングの話なので、マーケティングの話をされていると思ってもしょうがないというか、増田も普通に読んでればそう取ると思うが。
また、編集者の立場としてはイラストレーターを守りたい気持ちで「いや、恥ずかしくないんですよ」と反論したくなるのもわかる。表紙についての議論をすることに対してやや脅迫的ともとれる言辞をしているのも、そうした仲間を守りたい意識のあらわれだろう。その判断は編集者として間違ってはいない。
ともあれ、その人が「恥ずかしい」と感じたならば「恥ずかしい」のは仕方がない。また、読者や作家にもそうした感覚に共感する人々が一定数存在するようなので、そうした心情を斟酌しないのはいかがなものかと思う。最低でも文面の上ではそうした消費者の感情に向き合うふりくらいはしておくべきではなかったか。
Twitterではよく「表紙が恥ずかしくて買えないとかガキか」という意見が目にされたが、そういうマウントの取り方もよくないと思う。
3.については(元の発言者は重要視していないとしているが)完璧に食い違っている。片方は「キャラ絵にすることでターゲットを狭める」と主張し、もう片方は「キャラ絵にすることでターゲットを広げる」と主張している。百合SFブームを仕掛け成功させたことや、この論争がそもそも『2010年代傑作選』と『日本SFの臨界点』が"バズった"結果生じたものであることを踏まえると、(編集者もまたマーケティングのプロではないにしろ)編集者側に理があるように思える。
SFというものはキャラクター文化と親和的なのだから、そっち方面から未開拓の読者を拾った方がよいと判断するのは筋が通っている。「キャラ絵で買わない新規消費者」より「キャラ絵がついてることで買ってくれる新規消費者」ほうを多く見積もっているのだ。興味を持ってくれる読者層を有効に開拓してこなかった業界の怠慢を一挙に巻き返そうとしている節はあるにしろ。
ある一定の方向へ突出しすぎている表紙を出すことでそれ以外の読者を切り捨ててしまう可能性はある。たとえば、ライトノベルの表紙絵はキャラ絵を好む読者以外へのリーチをハナから諦めている。キャラ絵を用いてる点では『臨界点』と変わらないが、よりパラメータがいわゆるオタク寄りに調整されている。最近、スニーカー文庫のハルヒが角川文庫から再発されるにあたり、有名ないとうのいぢの表紙から実写を用いたいかにも一般向けの表紙へ切り替わったことがあった。これは「キャラ絵を切り捨てる層」への訴求を試みた例だろう。
ハルヒのメインターゲットであった層を掘り尽くしたので、本来ターゲットにしていなかった層も掘る余裕が出てきたのだ。メガヒット作ならではの展開といえるだろう。
間口を広く取れるのは後者だ。特定の層により訴えるのは前者だ。
どちらを取るかは出版社の戦略次第だ。ハヤカワが大手より体力の低い中小出版社であることも考慮にいれるべきかもしれない。
だが、特定の層に訴えるマーケティングはときにその層に含まれていないと感じた消費者への疎外感を生じさせる。そのことには出版社は自覚的であるべきだろう
個人的な感想をいえば、シライシユウコ絵が「マンガ・アニメ的絵」だという意識はあまりなかった。林静一から中村祐介に至るイラストレーターの系譜(もちろん彼らにくらべたらややまんが的ではある)に連なるような存在として認知していた。
『臨界点』のイラストもそこまでキャラ絵として意識していなかった。「恥ずかしい」と感じられるキャラ絵とは、それこそライトノベルの表紙絵くらいのレベルだと思っていたのだ。
たとえば、『臨界点』がライトノベル的な表紙であったら、増田も「切り捨てられた」と感じたことだろう(それはそれとして本を買いはする)。
こんなことを萌え絵に対して不感症になっている典型的な日本人の謗りを受けそうであるし、実際そういう面も否めないのだろう。増田はよくTwitterで論争になる公共の場所で広告に使われる萌え絵について「恥ずかしいだろ」と(その是非とは別のレイヤーで)思ってしまう人だ。本当に「恥ずかしさ」の基準はひとそれぞれだなと思う。
今回話題になった表紙が即女性に対するオブジェクティフィケーションにつながるとは思わない。
一方で、キャラ絵を用いたSF小説の表紙が女性という表象にまったく何も背負わせていないとも思わない。本人たちが意図するしないにかかわらず、文脈的には「百合SFムーブメントを作り上げた編集者」が、「伊藤計劃の百合SFやSFマガジンの百合特集号の表紙を描き、百合のイメージが強いイラストレーター」や「百合SFムーブメントの一翼を担った新進作家」と作ったものなのだ。人はそこに「少女」を見る。その「少女」は私たちの築き上げてきた「少女」のイメージを背負っている。そこに無自覚ではいられない。
私たちはどのレベルの「恥ずかしさ」で合意するのか。SFという貧しく狭い領域でマーケティングとコンプライアンスをどう天秤にかけていくのか。
今はまだ問いの出ない問題だ。作家にしろ編集者にしろ読者にしろ、一個人ではどうにもならない問題でもある。
だが、他人の感じる「恥ずかしさ」を「時代遅れ」と切り捨てることなく、あるいは読者同士で向き合うことで、ある方向へ流れていけるかもしれない。そこから先は、未来の話だ。作家たちの語るべき領域だ。
余談。あるミステリ作家が「消費者の意見に対して真剣に向き合わず、味方を囲い込んでる」と例の編集者にキレてブロックしたことについて。むしろ、fusseterの文面ではTwitterでの論争の不毛さに触れているように、犬笛にならないように注意を払っているように感じた。よくやるように擁護ツイートのRT連発みたいな行為にも走っていないし。
個々のフォロワーたちが発言したり群れたりするのは止められないだろうし、それを「味方を囲い込んでる」ように見えたとすれば、多分に先入観が強い。
「意見に向き合え」というのはその通りだと思う。本人がおそらく可能な限り真摯に向き合っているつもりなのはfusseterで重ねられるエクスキューズからも読み取れるが、だとしても人はどこかで何かから目を逸らしてしまうものだ。当事者になればなるほど防衛機制は強まる。ただ例の編集者は自分に対して意見を言ってくる人を尽く敵と見做して戦争をしかけるタイプには見えないし、あの作家の言うことなら無碍にはしないはずなので、ブロックする前に意見交換を行なって互いの認知を均したほうが幾分有益であったはずだ。
この問題については意見を出してる作家や業界関係者でさえ恐る恐るというか、批判にしろ擁護にしろ通り一辺倒のことしか言っていない印象がある。
その穏当さが党派的な対立を強めていはしないか。業界のトピックとして捉えるなら、公の場で作家同士でもっと突っ込んだ話し合いを行うべきではないのか。
設定詰め込みまくりは良いんだよ、映画の短い時間でも充分すぎるくらい説明あったし
青春部分は一行さんがどうして直美を好きになったのかという理由付けが粗くて感情移入しにくかったけど、つまらなさの本質ではない
もしかしたらナオミが救われることが我慢ならないのかもしれない
背中を焼き右足を潰すといった身体的な罰と、最愛の人に拒絶されるという精神的な罰は受けたのだろうが、それで神の視点から人格を弄んだ罪が贖われていいんだろうか?
直美はナオミを一発ぶん殴ってスッキリしたみたいだが、それでいいのか?
結局狐面がわらわら出てきた時点で構造的には許されてしまったが、それこそ殺人より酷いことをやってしまっている気がする
あ、エピローグの意味がわかってない。ナオミは雷に撃たれて脳死になったわけではないよな?
大切な人を救おうとする過程でなんか脳死になっちゃったんだよな?そのあたりがわからない…
あと演出と設定はめちゃくちゃ好きな感じだった
メチャクチャな色を使って時空間すらもあやふやな世界のはざまを描いたシーンとか、宇宙の中に新しい宇宙を作るというそれこそSFみたいなシーンとか
いろいろな作品をリスペクトしてたのはちょっと安っぽかったけど
全体として上手くまとまっていたとは思うんだが、やっぱりめでたしめでたしで終わ…ったのか?みたいなもやもや感を感じさせる作品だった
既存の野崎まど読者のアマゾンレビューなんかで星三つという評価が多いのはどんでん返し感が弱い、特にエピローグを素直に読んだ場合の「さらに上位の世界がありました」ってのが弱いってのがあるんだと思う。
エピローグの方はカタガキナオミの世界に狐面が登場した時点で大体読めるし、上位世界の存在を示唆する程度ならエンタメ寄りのメンインブラックの1,2ですらやってるわけであまりにも野崎まどらしくない。
更に言えばそのエピローグがどうにも浮いてる、素直に読むと蛇足なんだな。だがこれはおそらく蛇足であることそのものに意味がある。
このエピローグが蛇足にならないようにするならどうすれば良いだろうと思ったら、これナオミが主人公のお話だったらバチッとはまるのだよな。
ナオミが高校に入るところから直実に消されるまでのお話であればあのエピローグは美しいんだ。
そしてそのお話の材料はこの本の中に全てある。ダイブするまでのナオミの物語は直実の物語とほぼ同じなんだから
直実の高校生活の部分からナオミとのやり取りを削除して繋げ、アルタラプロジェクトに入り、ダイブに成功したところからまた本編の話を続ければナオミの物語になる。
この作品は未来の自分から力を与えられて瑠璃を救おうとする男が主人公なんじゃなくて。
高校に入り、瑠璃に惹かれ、瑠璃を失い、人生の全てを捧げプロジェクトに食い込み、自らを電気で焼き、片足の自由を失い、それでもダイブに成功し
世界一つを犠牲にして瑠璃を救い、拒絶され、もう一人の自分こそが瑠璃にふさわしいと、自分こそがエキストラであったと受け入れ
瑠璃を直美に託して瑠璃を守るために自分の消去を選んだ、10年を掛けて瑠璃を守るために自分の身をささげるという事をやり遂げた男の物語でもあるんだ。
もう一人の主人公はこの男なんだ。そしてエピローグはこの男に与えられる救済なんだ。
この直接的に描かれていない物語を読者の脳に構築するための一見蛇足に思えるエピローグなんだと思う。
少なくともこの作品がナオミにかなりの比重を置いたものだというところだけは自信がある。
「たとえ世界が壊れても、もう一度、君に会いたい」このキャッチコピーは発言者がナオミでも直実でも成立するし。
予告の最後に出てくる近づいていき交差し、そして離れていく飛行機雲はナオミと直実、又はナオミと瑠璃でしか意味を持たない、直実と瑠璃じゃない。
さて、ある作品をカットアップして再構成することで別の性質を持つ映画と言えば野崎まど読者には心当たりがあるはずだ。
[映]アムリタ。
まあ流石にSCP財団のミーム災害じみた効果は発揮しないけれども。
彼方なアストラ
主人公たちが殺されそうになった理由の解明あたりは面白かった。
ただそこから先の展開が感動ポルノと少年漫画作法のフルコースでお腹いっぱい。
最終回なんかは手続きみたいなクソしょうもないエピローグを1時間も使ってやるなよと思った。
あと歴史改竄要素は高尚なメッセージ性とやらを持たせるために無理やりぶち込んだんですかね?あまり必要性を感じなかった。
途中まで面白かったけど10話ぐらいで急にどうでもよくなってスマホで遊ぶ片手間に見るようになった。
正直30分枠は長過ぎ。15分なら最終話までしっかり楽しめたと思う。
奇術先輩
ほぼエロネタだけだったが1回の放送で3〜5エピソードをテンポよく流す構成が光りなかなか楽しめた。
遭難ですよ
やあやあどうもお前らこんばんは。
FGO最近全然やってないけどTLに冬木クリア条件のイベントがあるって流れてきたからシナリオ読んで来てその勢いで書籍版も買ってきたマンだよ。
*この先、FGOイベント及び書籍『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』のネタバレ満載ですご注意ください。
さて。
俺はこの『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』という小説が許せない。
ゲームのシナリオの方はどうでもいい……って言ったら失礼か。とにかく。小説独自要素?小説の落とし?が許せん。
この小説は。消費者にとって、そして二次創作者にとっては福音かもしれないけど、一次創作者にとっては、間違いなく、呪いだ。
タチの悪い呪いだ。
物語る者の矜持を打ち砕いて、迷わせてしまうような、そんな呪いが込められている本だ。
この『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』は、「脚本家が倒れたミステリ映画の続きを登場人物達が考える」という、メタミステリものだ。
個人的には『愚者のエンドロール』あたりを連想するところだけど、まあそれは置いといて。
作中では5つの「あり得たかもしれない未来」(ルート)が提示された。
ゲーム版では、プレイヤー達の「投票」によって、一番得票の多かったジャンヌ・ダルク・オルタルート(エリスルート)が選ばれ、"撮影"されたのだが、小説版では提示された5ルートの全てが一旦は"撮影"されたことになっている。
大まかなストーリーの説明はこれくらいにして、俺の気に障った箇所についての説明をしていこう。
『鳴鳳荘』の冒頭には、ラストにも繋がる、とあるシーンがある。
おじさんが幼女の大事な本を壊してしまい、図書館の司書(作中作の「映画」では脚本を務める)に修復を依頼する、そんなシーンだ。
ゲームではこのシーンは「映画」にうまく組み込まれるだけだったが(伏線回収は見事であった)、書籍版では、なんと、このシーンに対応するシーンがエピローグとなっている。
紆余曲折の末、壊してしまった「ペパーミントグリーン色の本」(ゲーム版の方で亡くなってしまったキャラのことを暗示してるらしいですね)を復元したおじさんが、幼女に本を返却する。
「これはわたしの読んでいたご本とは違うような気がするわ。出てくる子たちや舞台は同じなのに、なんだか違う話を読んでいるよう……」
そう。
「不幸な事故」によりバラバラに壊れてしまった物語を、おじさんたちがなんとか修復し、意味の通じるようにページを繋ぎ合わせたが、もともとの物語とは全く違うものになってしまったのである。
更に幼女は続ける。
「このままページを捲れば、本当の結末とは違うものが待っているんでしょう? それは……とても怖いわ」
これに対して、おじさんはこう答え、
最後に、こう読者に語りかけて、『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』という「物語」は幕を閉じる。
(登場人物の感情や物語上のマクガフィンを受け)「何より結果をもって、その選択を肯定しようなんて……おこがましいとは思わんかね?
ちなみにこのおじさん自身は、世界史上実在した人物をテーマにすることが多いFateには珍しく、創作をバックボーンにもつキャラクターである。余談ではあるが。
創作者の、「物語る者」の役目は、責務は、自分の頭の中にぼんやりとある、つかみ所のない"話の種"みたいなものを、しっかり捕まえ、「物語」という形にして消費者に届けることである。
もちろん、その過程で、いくつもの"語られなかった"可能性は摘み取られる。
あり得たかもしれない未来のひとつを捨て、もうひとつの未来を掴み取るための主人公の決断。
見えかけていた可能性のひとつを捨て、別の可能性を選び取るためのヒロインの葛藤。
世界にとってか、主人公にとってか、主人公の愛する者にとってか、はたまた悪役にとってか。
誰にとってかは不定にしろ、とにかく、より良い「結果」を目指す登場人物たちの苦悩、死闘、葛藤、そして決断。
だから――
よりにもよって、そんな一次創作の登場人物達に、「良かったところまで巻き戻して、そこから想像しなおせばいい」だなんて言わせるなんて、許せない。
「『本当の結末』なんてない」と主張するのは、「全ての結末は等しく同じ価値がある」のと同じことで。
それは、「本当の結末」のルートに辿り着くために主人公たち登場人物が払った犠牲を、抱えた葛藤を、定めた決断を、無価値であると貶めることにはならないだろうか。
物語る者は、物語を創り出すと同時に、物語の中の人物の"感情"も創り出す。
全部が嘘でも、主人公が、ヒロインが、登場人物が抱えた"感情"だけは本物で、そんな"感情"に人は共感するから、人類は有史以来物語を求め続けてきた。
そう、俺は思っている。
この『鳴鳳荘』は、ひょっとすればそんな「登場人物の感情」は交換可能であり、等しく価値がある(≒等しく無価値である)。そう主張していることになりはしないだろうか。
だとしたら、俺は、この作品のことを許せない。一生根に持ってやる。
翻って、二次創作をする人たち(同人誌に漫画を書いたり、pixivに小説を書いたりする人を想定している)からすれば、この「呪い」は間違いなく「福音」であろう。
というか、彼らが日頃からやっていることだろう。
あり得たかもしれない未来、語られなかった可能性を追い求め、掬い取り、自分の力で結晶にする。
「こうだったらいいな」「あれがああだったらどうなってたのかな」
"if"を追い求めるのは、ロマンがあるし、楽しい。それはわかる。
でも、その楽しさは、「原作が絶対」という前提あってこそのものではなかったのか。
公式で語られたことは全て「正しい」。その前提の上で、ちょっとだけ世界を歪めてみて、結末がどう変わるのか。
それを楽しむための、ただの思考実験ではなかったのか。
"全ての結末は等しく同じ価値がある"だなんて、俺にはとても思えない。
現実的なことを言えば、Fateがもともとマルチエンディングな"ノベルゲーム"という媒体から派生したものであることと、俺が抱えているもやもやは繋がっているのだろう。
ゲームはセーブ&ロードシステムが使えるから何回だってやり直しができるし、消費者(プレイヤー)はいくつも用意された結末を全て体験することができる。
※タイトルから察せる通り、以下はMCU作品群(特にエンドゲーム)の重大なネタバレを含むので、自己責任で読んでくれ。
まず始めに言っておくと、この記事は通りすがりの他人のクソデカ感情を吐き出すために書いたお気持ちブログであることを承知の上で読んでほしい。
暇でもなんでもいい、別に誰一人として読まれなくてもぜんぜん構わないけど、自分一人で抱えるには大きすぎる感情のジェットコースターを体験した私が気持ちを整理するためのもので、読み終わった後に胸くそ悪くなったとか、そんなどうでも良いことで喚くなとかいう苦情は受け付けてない。
私が私のために書く私の気持ちを整理するお気持ちブログだ。ここまでで、なんだコイツと思ったヤツは悪いが帰ってほしい。
まず始めに言うと、このたび2019/04/26(日本公開)の「アベンジャーズ エンドゲーム」は最高の映画だった。
私は前作「インフィニティー・ウォー」を劇場で見てから「エンドゲーム」が公開されるこの日を、ずっと待ち遠しにしてきた。と同時に、死刑宣告を言い渡される日だと思ってきた。
そこについての詳しい話しは後ほどとして、弊推しはキャプテン・アメリカだ。ここからは8割かれの話しになるので、それを念頭に置いて読んでほしい。
上映が始まり、私はすぐにこう思った。
最高だ。
キャプテン・アメリカのカットはかなり多い方だと言って良いし、何よりその美しい顔面が際立つシーンが多くて終始動悸が止まらなかった。
登場初っぱなの髭を剃り終わったシーンなんかは大変興奮した。鏡越しに送られる目線にゾクゾクした。青い瞳が堪らなく美しかった。
過去に跳んだ先で、「アメリカの尻」と揶揄され腰からのヒップラインがドアップになって私が失神しそうになったり、宿敵のフリをするために「Heil HYDRA」と言って見せたり(!)、タイミング悪く過去の自分VS.現在の自分の凄まじい戦闘を繰り広げたり。
最終決戦なんかムジョルニアを使って(持てたの!知ってた!!でも公式でやると思ってなかった!!)、盾とのコラボ技を披露して無双するシーンなんかもあって、私は終始死にそうだった。
公式で見られないだろうから、二次創作に期待していたアレやソレがすべて公式で起こった。
何を言っているかわからないだろうが私にも未だによくわからない。公式が最大手だった。
上映中、頭に過ぎるのは命日の二文字だけで、あまりの怒濤の展開に呆然とスクリーンを見守るしかなかった。
こんなにも美しくもたくましい推しの姿をこんな大画面で見てしまって良いんだろうか。私は明日死ぬんじゃないだろうか。
決戦が終わったとき、私は本当にそう思ってたし、うぉーがしびってあれこれの解消し切れてない部分も、これなら許せそうだと思った。
あまりにも美しい終わりに涙すら出そうになった。
そう思ったこの瞬間の私をぶん殴ってやりたい。
私の地獄は、このおおよそ2時間半が終わり、あとはちょっとしたエピローグと、長い長いエンドロールだけだろうというタイミングで始まった。
彼は“キャプテン・アメリカ”の仕事として最後の後始末を受け持った。それはインフィニティー・ストーンを過去へ戻す仕事だ。
なるほど、それは重要だな。
このときまだ、呑気にも私はそう思っていた。今すぐそこで見るのを辞めろ。
しかし、装置を作動させても彼は戻ってこない。訝しんで、彼を見つけて。
彼は年老いて戻ってきていた。近くのベンチに座って。だから帰還に気付かなかった。
「もう自分の人生を歩んでも良いんじゃないかと思った」彼がそういった。
目の前が真っ暗になった。
自分の人生を歩むこと自体が悪いことではない。それは私が何処かで迎える彼のハッピーエンドだと思っていたから。
しかし、そうじゃない。そうじゃないんだ。
“自分の人生を歩む”と言っていいのは、戻ってきて、この先の未来を生きての話しではないのか?
なんで?
どうして?
彼が過去をやり直して戻ったと言うことは、“キャプテン・アメリカ”として行った任務を、石を返した時点で完遂したと自己判断し放棄して、過去を改竄して戻ってきたということだ。
MCUが何処までマルチバースを採用していて、タイムトラベルによる世界の分岐やパラレルワールドを取り扱っているのかはわからない。
あの正規の世界線の歴史が変わったわけではないのかも知れない。
それでも、だ。
吐き気すらも覚えた。
散々、タイムトラベルで過去を変えるコトは禁忌であるという下地を本作で作った上での、コレ。
キャプテン・アメリカというキャラクターを馬鹿にされているのかと思った。
頑固で考え方が古いかも知れないが、高潔なる精神の持ち主ではなかったのか。
自分が幸せになるために歴史を書き換えるような、そんな軽率な人間であったのか?
彼の信念は何処に行ってしまったんだろう? 呆然としてしまった。
私の知識はまだまだ浅い方だ。アメコミという沼はあまりに深すぎて年浅い私にはまだまだ知らないことの方が多いだろう。
それでも、複数の媒体から感じ取った「キャプテン・アメリカ」の信念と、今回の彼の行動はあまりにかけ離れていたと思う。
彼は、犠牲を尊んで、彼らのためにも前を向いて歩くタイプの人間ではなかったのか?
今までのMCUでの彼の扱いは、キャラ解釈の違いで殺されるかと思ったシーンが幾度もあった。(それもすべてエンドゲームの監督の作品だ)
それもコレも今日で終わりだと思った。そのはずだった。「シビル・ウォー」からずっと抱えてきたモヤモヤが解放されると思っていた。
まさか最後の最後で私が彼を好きになった信念そのものをたたき折られるとは思ってなかった。
この事実を認識した途端に、私は堪らなくトニー・スタークに嫉妬した。
怒りを感じたと言っても良い。但しこちらは、制作陣に対して、だが。
確かにトニーの最後は、ハッピーエンドではなかったかもしれない。
それでも、彼は誰にも害のない形で己の幸せを享受した上で、自己の“ヒーローである信念”を貫き通して死んだのだ。
誰にも疑いようのない唯一無二の英雄となったのだ。
それに比べて、彼は、スティーブは?
制作陣の都合で言いように改変を繰り返されて、彼のズタズタになった信念を、きっとこの最後で修復してくれるんだと思った。
そうじゃなかった。作品を丸く収めるために良いように使われただけだった。何一つ変わらないどころか、より最悪の形で悪化した。
彼だけではない、ソーだって、前三作で作られてきた彼をすべて壊して何事もなかったように進んだ。
スティーブよりは違和感は少なかったかも知れないが、何故このタイミングで、と言う気持ちが拭えなかった。
ツイッターでは英雄が一般人となって自己の幸せを歩んだ作品だとか、脱マッチョイズムだとか言われてたけど。
だからなんだ?
それって既存のキャラクターの基盤をぶち壊しにしてまで展開してイイモノなのか? しなければいけないものなのか?
仮にやるとしてもこの集大成とも言える全員揃う映画でやるべきコトではないんじゃないだろうか。
本当に、今も怒りで視界が赤くなる。
この映画は巨大なトニー・スターク賛美のための墓場となったのだ。
トニー・スタークを恨むモノは誰もいない。
これほどまでにキャラクターを理解され、制作陣に愛されていた。
本当に本当に妬みで爆発しそうなほどだった。
それなのにトニー派の連中はスティーブを薄情者だといって責める。
スティーブの劇中での言動は推しの私でもフォロー仕切れないところがある(だからといって全面的にトニーを擁護も全く出来ないが)。
だからそれ自体は、特に訂正しようとか思わない。どんな思惑に巻き込まれて信念がたたき折られたとしても、それは“現実”(そと)のはなしであって、“MCUの世界”(なか)には関係ないはなしだから。
それはまるっと彼の罪なのだ。
それでも。
心底羨ましいよ。
脳の神経がすり切れそうなほど羨ましい。
なんで、彼ら彼女らはこんなにも恵まれていて、私はこんなにも苦しんでいるんだろう。
私は作中に責めることの出来る人間などいない。あえて言うならキャプテン・アメリカ本人だが、自分の推しを悪意的に見るほど苦痛なことなどない。
悪人が悪人である所以を好きになったというなら、また話しは違うだろうが、生憎私が好きになったのはヒーローの彼なのだ。
多少の欠点の他に、悪意的に捉えられるところなど、少ないはずなんだ、本来なら。
「エンドゲーム」を見てから、一晩経った今でもずっと脳内をこの言葉が占めている。
私に過去に戻る力があるなら今からでも「ウィンター・ソルジャー」の撮影まで戻ってあの監督を始末してしまいたい。
彼の、キャプテン・アメリカのこのエンディングは、「エンドゲーム」で一区切り(実際は次作スパイダーマンで区切りだが)着くMCUという作品群を丸く収め、また次のフェーズ4に繋げるためには必要で、全体的に見れば“正解”であり、納得のいくモノだったのかも知れない。他人様の感想を読んでいて、そういう気持ちに全く為らないという訳ではない。
でも、理解が出来たからといって、納得が出来るからといって、許容できる訳ではないのだ。
だって彼は、すべての人を置き去りにして、己の幸せに走ったあの男は、もはやヒーローではないのだから。
それは、私の好きになった彼ではないのだ。
信念を貫くことを辞めた人間は、大体にしてこう言われる。
「昔とは別人だ」
MCUの世界では彼にそうなる資格があると思っている人間が多かった。だからこそ中の世界では受け入れられたんだろうが、確かに人は変わってしまっているのだ。
別人なのだ。
私はそれが受け入れられない。
ヒーローを辞めた彼には、もうムジョルニアを持つ資格はないだろう。
だからこその二代目、なのかもしれないが。
今一度言うが、私の推しはキャプテン・アメリカだ。
そもそものMARVEL作品を見始めた切っ掛けとして、彼の単独シリーズの第一作「キャプテン・アメリカ ザ・ファースト アベンジャー」を見て、彼に一目惚れしたからだ。
そんな私の推しの彼を演じるクリス・エバンスは「エンドゲーム」を最後にMCUから卒業すると宣言していた。冒頭でこの日が死刑宣告の日だと言ったのは、そういう理由だ。
もう二度と推しを見ることは出来ないのだから、私は死ぬんだと思っていた。
だけど、違った。死んだのは私ではなかった。
死んだのはキャプテン・アメリカの信念だ。
巨大なトニー・スタークの墓場の奥深く下に虐げられ、無残にもうち捨てられた彼の正義が崩れ去った日となってしまったのだ。
キャプテン・アメリカの信念はすでに散々あのクソ監督兄弟に改変されまくって、ボロボロで、もう雀の涙ほどだったけど。
それでもわたしはかれらしいさいごをのぞんでいた。
一生消えないだろう傷を負った。
それなのに周りには「エンドゲーム」を賞賛する声しか聞こえてこない。
私にとっては、それこそが何よりの“彼が死んだ証明”だった。
私の推しの新作がもう来ることはない。
この先、カメオで出演するとしても、マルチバースの信念の折れてない彼でもない限りはそれは彼ではない。
この記事を投稿することによって私はキャプテン・アメリカの、スティーブ・ロジャースの死した信念への手向けとする。
人が動物の上に立つモチーフ、イルカ・アシカやイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキは絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思います。
けもフレ2における、人間が動物に迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります。
リョコウバトとトキの比較ですが、けもフレ1のトキの場合、絶滅危惧動物であること、人間によって傷つけられたことに関する言及はないわけです。一方、リョコウバトの場合、絶滅を暗示する演出がいくつもあり、先のフウチョウの問いかけもあったわけです。
イルカ・アシカについてですが、ネットを眺めた体感では、そこまで気にされてないように思うので、これが気になるのは俺自身の問題であって、そこまで気にしなくても良いかもしれません。
ただし、フウチョウの問いかけにある通り、全体的に人間と動物の関係性の負の面に掘り下げるならば、イルカ、アシカも一緒に掘り下げたほうが脚本の完成度が上がるでしょう。
イエイヌについては、あれは監督交代のいざこざ抜きでも、居心地悪いかと。
詳しくないのですがハリウッドのヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアルな表現を模索したのでしょう。
マーベルやDC映画の場合、叫び声でパワーアップはしないわけですが、強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫があります。フレンズ型セルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。
まあファンタジーが蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話的世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います。
まず私の立場は「多分、脚本の穴だろうが、寓話的世界観と取れないこともない」というものです。ラストバトル前の葛藤(フウチョウ)と、ラストバトル勝利のギミック(ビースト)という重要な部分の両方が、ファンタジーな流れで解決されるので、その印象が非常に強いんですよ。
しかし、たつき監督がけもフレ2をやっていたらそのカットは問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています。
点が三つあると人の顔に見える、と言う話がありますが、人間は、基本的に意味のないところにも意味を捜す生き物です。現実には意味のないことは幾らでもあるのですが、作劇でそういう部分を作ると、視聴者は無理矢理意味を見いだそうとし、結果、制作者にとって不本意な受け取り方をされることがある。それを避けるためには、意味・印象が散漫なシーンを作らないことです。
結局、セルリアン型フレンズにあまり意味がなく、戦闘も盛り上がっていないのが、あら探しされやすい大きな原因だと思います。フレンズ型になった意味もさほどなく、あまり怖い印象もなく、なんとなく倒されていくという(このへんは脚本だけでなくアクションシーンの問題でもあります)。
けもフレ1の集合シーンは、ここからフレンズが、それぞれの個性を生かした連係攻撃を開始するわけです。例えば、それを踏まえて、セルリアンが巧みな連携を仕掛けてきて、「これまでのセルリアンと違う! なんて強いんだ!」とすれば、そこには一つ意味が生まれます。
そういった点をクリアしても、ケチつけられる可能性は否定しません。結局、最終話の評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。
この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。
「優しい世界」に込める意味は、人それぞれで、深く考えてない人も多いでしょう。なので、最大公約数を取れば、まさしく「感じが良くて人気だった」くらいの意味になると思います。批評として使うなら、定義が必要になるでしょう。
私自身が「優しい世界」という言葉を使ったのは、「素直なキャラで面白いドラマを作ること」くらいの意味です。
けもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。
ギスギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。ギスギスを狙ったのなら、作品の出来とは別に、マーケティングのミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。
逆に言うと、ここまでギスギスな作品だと受け取られる、とは制作側は思ってなかったんでしょうね。
そこはおっしゃるとおりですね。書いたことに矛盾があったので書き直します。
まず、1話からのヒキである、キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程が曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。
キュルルが「おうち」を捜す動機として、フウチョウに対して、「そこには、僕にとって大事な、なんかすごく大切なものがあった……気がする……」と言ってるんですよね。この「大事な大切なもの」が不明なまま、おうちより仲間と言われても、とってつけた感が出ます。
何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーンが見当たりませんでした。教えていただけると幸いです。
でもそうするとセンちゃんやアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。
思いつきプロットですので、詳細まで詰めてないのはご容赦ください。作劇において、尺やバランスの問題は常につきまとうので、やりたいことの優先順位を決めて整理すれば良いかと。
優先すべきものがイエイヌとキュルルの関係なら、他のキャラの出番を減らして調整しますよね。逆にカラカルとキュルルが仲直りして関係性を深めるほうがメインなら、プロットが重くなりやすいイエイヌでなくて、別の困ったフレンズにしたほうが、すっきりするかもしれません。
キュルルちゃんをホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります。
通常、主人公とは「こいつがどうなるか見届けたい」と視聴者に思わせて、物語をドライブする存在です。そのためには視聴者を引きつける魅力が必要になります。魅力がないと、作品を見続けるモチベーションが湧かない=つまらないとなるわけです。魅力としては「いいやつ」から「かっこいい悪」「人間的欠点があるが、どこか憎めないボンクラ」まで様々です。
さてキュルルは、別に「かっこいい悪」や「憎めないボンクラ」キャラではなく、概ね、フレンズを助ける心優しいキャラとして描かれてたわけで、それをこういう下げ方したら、キュルル自体の魅力が損なわれ、作品自体への評価が下がります。さすがに制作者が意図してそういう風には描かないと思います。
キュルルが落っこちた回でニコ動のアンケートがちょっと上がったのは知ってますが、主人公がそこまで嫌われてる時点で、作品としては末期症状でしょう。
むしろ話の流れのメインだったのは”スケッチブックの最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマがスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテルの海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。
長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌは彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。
この解釈は私が気づかなかったもので、なるほど、と、思いました。
ただ、「スケッチブックの最後のページの行方」がメインだったとすると、エピローグ的な部分で登場しても、もうその時点では、セルリアンは倒され、キュルルのおうち探しも終わっており、ドラマとして盛り上がらないかと。
イエイヌの「おうちへおかえり」と、キュルルの「おかえり」を重ねて、メインテーマに結末をつけたいのであれば、もうちょっとそこに重点を置いた作劇にしないと視聴者に伝わらないと思います。
一般的エンタメの作劇上のセオリーで評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。
作品の出来、不出来は、究極的には個人の好みになります。その上で、「多くの人が好む/嫌う最大公約数」というものもあります。それをまとめたのが、エンタメのセオリーと呼ばれるものです。
けもフレ2の一般的な評価が低い論拠として、そうしたセオリーを守れてないから、という点を指摘しているわけです。
もちろん、セオリーをぶっちぎって、面白い作品はあります。私から見る範囲で、けもフレ2に、セオリーを無視したが故に面白くなってる点は見当たりませんでした。ただこれは私の意見なので、「そうではない。ここが面白い」という意見は拝聴します。
もう終わってから3か月も経つというのに、FGOの昨年の10月のイベントである「神秘の国のoniland ~鬼の王とカムイの黄金~」を許せない。
オニランドは、エリザベート・バートリを侮辱した最低のシナリオだ。
出来ることなら、あれに関わったスタッフ全員をグーでぶん殴りたいほどである。
3か月たって冷静になった今、あの「神秘の国のoniland ~鬼の王とカムイの黄金~」というシナリオのどこがひどかったか、冷静に書き連ねてみたいと思う。
①ハロウィンである必要も、エリザベートが出てくる必要もなかった。
舞台の内容自体も遊園地であり、鬼がメインのテーマパークであり、ハロウィンである必要性が皆無である。
また、ハロウィンであったとしても、もともとエリザベートはハロウィンと何の関係もないサーヴァント。
FGOで勝手にハロウィンはエリザベートの担当と決めつけた結果、ハロウィン=エリザベートという図式が出来上がってしまっただけなのである。
むしろ、永遠の美を求めて殺人鬼となった結果、反英霊となった彼女は、永遠を求めず、老い朽ちていくものを良しとする日本文化とはすこぶる相性が悪い。
オニランドはエリザベートを出す必要がないどころか、エリザベートを登場させてはいけないイベントだったのである。
エリザベートは元々、下の画像のように美しい少女のキャラクターだ。
https://dotup.org/uploda/dotup.org1744644.jpg
生前、美しさ、若さを保つために数百の少女を殺害し血を啜った彼女は反英霊として歴史に名を残し、FGOの召喚システムによって召喚されることとなる。
エリザベートにとっては、美しくあることが最大の優先事項である。
自分が生前、奪った数多の命に報いるためにもエリザはその在り方を曲げない。
ジル元帥やカール大帝に洗脳されかかったときにも、決してエリザは屈しなかった。
それがオニランドでは、アインツベルンの黄金というたかが無機物に誘惑されて、自ら下の画像のような醜い姿になるのである。
https://dotup.org/uploda/dotup.org1744643.jpg
オニランドのシナリオライターが、キャラクターの生きざまをまともに把握できないほど馬鹿だから、このようなシナリオの都合でエリザのキャラクターが捻じ曲げられたのである。
③シナリオライターが茨木童子を贔屓したくて、エリザを踏み台にしたことが見え見え。
これはオニランドをプレイした人なら、ほとんどが感じてるであろう。
シナリオライターが茨木童子を気に入っていて、茨木の見せ場を作るためだけにシナリオを考えた。
シナリオライターの表現力がゴミすぎて、その贔屓を隠せていないのである。
あのとってつけたようなエピローグも、エリザのフォローは全くなく、ぼっちのエリザについていてあげる茨木優しいね!したいだけのシナリオライターのエゴが丸見えだ。
これではドラマになっていない。なぜなら、一番ドラマチックな父と娘の相互理解がクライマックスであるべきなのに、その場面が第三者の投入で安易に済まされているからだ。
この題材なら、父親にとっての射精とは、客にとっての射精とは、娘にとっての射精とは何かを掘り下げた上で、それが互いを理解する糸口にならないといけない。
仕事内容を知って傷ついた娘と父親は絶縁状態になってしまうが、大学生になった娘はある日、父親が殺人罪で捕まったことを知る。実は、亡き母親はレイプ事件の被害者で、犯人は特徴的な性器を持っているという手がかりがあった。それを探るために父親はあんな仕事をしていたのだ(人探しをしているらしいことは6話辺りから徐々に匂わせる)。復讐を果たした父親は警察に見つからないように、自身で撮影した犯人殺害時のVR映像を娘に残していた。父親の思いを知った娘は、涙を溢れさせながらVRゴーグルを装着する、というところでエンディング。エピローグで、十数年後に出所した父親を娘が出迎え、VR映像を見せる。進歩した未来の技術で、幸せだったころの家族三人の映像が再現されているのだった・・・
ノーマルEDだけだと★2くらいだったけど、オールクリアで★3.5くらいまで上がった
このご時世に完全新作ADVを出してくれただけでもありがたいってのはまずある
2chを見ると発売日がオカルティック・ナインとかぶってたらしい
テーマも似てるとくりゃこっちが売れる要素がない
まあオカルティック・ナインが地雷とわかってこっちに流れた人もいたみたいだけど
トゥルーエンド兼個別ルートは、実はノーマルEDは終わってなかったってところから始まる
んでエンディングまでは一本道
あからさまにひいきされててうーんとなった
イチレイってキャラが絶妙に下手だなと思ったけどユーフォ主人公の声やってるくろかわともよ?だった
やって損はしないけど無理してやるほど面白くもないって感じ
個人的に駄目だったポイントはシステム、一部の立ち絵、しつこい貧乳ネタだった
シモネタはいいとして、貧乳いじりがしつこすぎてほんと読んでてイライラする
たまーにあるくらいならまだいいけど、かなり頻繁にあるからほんと勘弁
しかもゲーム会社っていう一応大学生~成人してるコミュニティだから、なおさら
ラノベとかアニメみたいな高校生程度くらいのコミュニティならまだいいけど、いい大人がそれかよと思ってゲンナリする
システムはサクラ大戦のスタッフが作っただけあって制限時間つきの選択肢とかあるけど、ほとんど意味ない
こういうアドベンチャーゲームなら背景と立ち絵と立ち絵の動きだけで表現できるところをわざわざテキストで読ませるからすごい描写がかったるい
最終巻のたかつきくんが泣いてるところ(女の子はおとこのこになるのをやめましたみたいなモノローグあるところ)でちょっとうるっときた
最初にラストまで読んだときはすげーふわっと終わって消化不良だと思ったけど、
再読するとそれなりにエピローグ回収してんだなと思った
もっと続き読みたかったけど仮にやるとしたらどんな展開になったんだろうな・・
あんなちゃんの恋人ばれみたいな感じでアイズみたいになったかなあ
あーあとあとがきまんがでイシデ電が志村貴子のこと書いてた4コマは面白かった
途中から4コマじゃないどころか志村貴子じゃなくて猫主体のトンデモマンガになってめっちゃつまんなくて読まなくなってすごく残念だった
SWITCHをたまたま見ていたら、原ゆたか x 百田夏菜子 をやっていました。
その中で原ゆたかさんが、「かいけつゾロリ」シリーズはハリウッド映画の脚本作りの方法で
No | - |
---|---|
0 | 状況説明 |
No | 起 | 内 | |
---|---|---|---|
1 | 平凡な日常 | ||
2 | 旅立ちのきっかけ | 事件 | 行動/テーマ |
3 | 拒絶 | 行けない | 理由/リスク |
4 | 決心 | 背中押す | 人/事 |
No | 承 | 丘 | |
---|---|---|---|
5 | 試練 | 危険/問題 | |
6 | 収集(助け) | 仲間/物/情報 | サブプロット |
7 | 成長 | 成果/力/変化 | サブプロット |
8 | 準備 | 成長結果 | サブプロット |
No | 転 | 谷 | |
---|---|---|---|
9 | 危機 | 試練 | 問題悪化 |
10 | 絶望 | 問題悪化 | |
11 | 希望の光 | きっかけ |
No | 結 | 山 |
---|---|---|
12 | 最終対決 | どんでん |
13 | 事件解決 | どんでん |
14 | エピローグ |
No | - |
---|---|
15 | おまけ |
別のを見つけた。
https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2017/05/0506.html
No | 一膜 | 対立 |
---|---|---|
0 | 背景 | |
1 | 日常 | 内 |
2 | 事件 | 内 |
3 | 決意 |
No | 二膜 | 葛藤 | |
---|---|---|---|
4 | 苦境 | 成 | |
5 | 助け | 長 | |
6 | 成長 | 葛 | |
工夫 | 藤 | ||
7 | 転換 | - | 丘 |
8 | 試練 | 葛 | |
9 | 破滅 | 藤 | 谷 |
10 | 契機 | 破滅 |
No | 三膜 | 変化 |
---|---|---|
11 | 対決 | |
12 | 排除 | 山 |
13 | 満足 |
元増田じゃないが、信者の俺が未プレイの友人を入信させるために勧める場合を想定して、妥当な攻略順だと思う。
みさき……シナリオにひねくれたところが無くて万人が普通に感動できるよくできたシナリオ。
このゲームを全ルートプレイする気になってもらうための導入として良さそう。
澪……1番目のみさき先輩もサブキャラ的に出てくるし、友人が特にロリ好きじゃない場合、ロリも攻略対象ってことで慣れてもらう。
笑えて泣けて、エピローグまでに漢乙を大好きになってくれるはず。
繭……合わない人にはとことん合わないだろうから、最初の方にもラストにも持ってこれないから、この位置で。
若書きって感じだし、18禁要素がとにかく浮いている。後にこのチームが全年齢の世界に行ったのは当然かな。
茜……麻枝信者の俺でもONEは久弥シナリオの圧勝で異論無し。
その中でも一番のこれは本来ならラストにプレイして最高の読後感を味わってもらうべきなんだろうけど、まだ長森がいるのでここに。
麻枝とどれぐらい連携してたか知らないけど他のシナリオに比べて世界設定に踏み込んでるから、その点でも長森シナリオの前が適切かなと。
ここまで来ると終盤のワンパターンは読めるんだけど、それでも泣かせてくるのだからすごい。
長森……で、長森。
意地悪というかプレイヤーにストレスためさせようとしているとしか思えない選択肢。
最も世界の真実(そんな物が制作者の頭の中に本当にあったのだとしたら)に迫るんだけど、結局よくわからないオチ。
欠点だらけなんだけど、むしろ、そういうモヤモヤを残したまま全ての物語が終わり、語りたい欲求が抑えられなくなった友人と夜通し議論したい。
いや、そうじゃない。長森を好きになってもらいたいんだ。ONEの最萌は長森だって理解して欲しい。そのために最後に持ってきたんだな。俺は。