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はてなキーワード: いとうのいぢとは

2024-01-29

絵師の絵柄の変化がいやな人おりゅー?

90年代から絵を描いてる人って自分の絵柄が古くなるのがいやで今時の絵柄に近づけようとしているのか、絵柄が変わってしまう人がいる

でも、古参オタクはやっぱ昔の絵柄が好きなんだよな

たとえば、種村有菜ジャンヌ~KYOKOのときの絵柄をずっと貫いててほしかったし

いとうのいぢ先生2000年代ハルヒブームときの絵柄を貫いてほしかった

最先端の令和の絵柄は若い絵師に任せて

から絵を描いてる人は自分らしさを貫いてほしい

高橋留美子先生枢やな先生青山剛昌とかのベテランは「自分」を貫いてるから絵柄が令和になっても変化することがない

自分の絵のくせや自分らしいタッチを最高だと思ってるから変化しない

これは個人的な私の気持ちしかなく

種村有菜先生やいとのいぢ先生の今の絵柄を好きなファンはたくさんいるんだから、私の考えは「正義」ではないということは重々理解

してる

鬼滅の刃の作者は自分の絵柄、描き方にむちゃくちゃこだわりを持っているからきっと鬼滅の後に新しい次回作を描いたとしても絵柄は変わらない

2021-11-16

anond:20211116114129

わかる

ハルヒらきすたらへん(要するに京アニ?)から少年サンデーいとうのいぢを掛け合わせたような絵柄に収斂しちゃったような気がする

昔はもう少しいろんな絵柄があったよなあ

でもそれは萌え系のアニメだけじゃなくて、広告デザインなんかでも古い絵柄の再利用が増えていたり、ドラマなんかもリメイクが増えたりとか、もう全体的に新しいものを受け入れる余裕がなくて、それが比較的新しい文化であるアニメ系の絵柄にも及んでしまったということな気がする

2020-08-30

anond:20200830080409

桶上いたる、こげとんぼいとうのいぢ

萌え絵流行を作ってきたのはほぼ女性

男性イラストレーターは立体感リアリティにとらわれて新しい様式を生み出せない

女性イラストレーターが生み出した様式を取り入れてるだけなのが現実歴史

2020-07-01

SF小説の表紙はなぜキャラ絵ばかりなのか問題について

論争の概要

 ・あるSF編集者自分担当したアンソロジー本(『日本SF臨界点』と『2010年代SF傑作選』)の表紙を掲載し、そのツイートが広くバズった。

 ・それを見てある読者が twitter で以下のような発言を行い、反響を呼んだ。


「なんでSF小説とかアンソロの表紙って漫画アニメ絵女の子ばっかなの?恥ずかしくて持ち歩けないんだけど。自らターゲット狭めてマーケット小さくしてる気がする。(中略)誰も彼も「売れるから」で思考停止している気がしてならない。」


それに対して当該編集者がfusseterで以下のような反論を行った。

・「女の子」に関して

 ・イラストレーターには『性別指定しない抽象的なキャラクター像』で発注したもので、『女の子』ではない,

 ・キャラクターであることそのものに対する違和感にしても、少なくとも現場ではそういうものにしようという意向ではなかった。


・「恥ずかしい」に関して。

 ・特に若年層ではキャラ絵が「恥ずかしい」と思う感性はあまりないはず。

 ・キャラ絵が想像力を狭めるということはなく、むしろ想像力喚起するもの


・表紙に対する意見について

 ・表紙を描くイラストレーターたちにも評判を気にして傷つくなどの感情はあるんだから、そういう人に届く危険認識したうえでSNSを使え。

 ・意見自体勝手にどうぞ


・「アニメ絵女の子ばかり」ということに関して

 ・事実として違う(SFマガジンの書評欄に見られる書籍の表紙を引き合いにだして)。


・今回の表紙の意図について

 ・なるべく広い読者層へリーチしてほしかった。


論点の整理と意見

二者間で応答された論点は以下のように要約される。

 1.なぜSF小説・アンソロの表紙はキャラ絵の女の子ばかりなのか

 2.キャラ絵表紙に対する「恥ずかしい」という個人的感情

 3.マーケティングとして、読者層を狭めてはいいか


1.は事実認識としては適当ではない。ただ、主観的不正確な感覚でも、その感覚が広範に共有されていればシーンに対する認識としては強度を持つ。

たとえば、読者の記憶に残りやすい「目立つ」コンテンツの表紙にアニメ絵率が高かった(ように思える)場合、多くのユーザーは「表紙にアニメ絵ばかり」という認識を持ち、関係するアクターやシーンの振る舞いもその認識に沿って動いていく可能性がある。


ハヤカワは伊藤計劃の『ハーモニー』『虐殺器官』の文庫化の際に、伊藤計劃作品アニメ映画キャラデザを務めたredjuiceを起用した。ちなみに表紙に、ではない。本をすっぽり覆うタイプのオビにイラストを反映させたのだ。実質的には「アニメ絵の表紙になった」とみなされても仕方がないし、事実そのように勘違いしている人も散見される。


シライユウコイラストレーションに対するファンダム記憶伊藤計劃百合SFと密接に結びついており、2010年代の「気分」を確実に決定づけていた。

シライユウコが表紙を描くこと」は他のイラストレーターキャラ絵寄りであれそうでないであれ)が担当するより確実にある種の指向性を帯びやすい。

どういう指向性か、と問われるとなかなか言語化しにくいが、このイラストレーター伊藤計劃の『ハーモニー』の単行本版の表紙を担当したこと、伴名練のデビューである少女禁区』の表紙を担当したことライトノベル作家短編が多く採られた『ゼロ年代SF傑作選』の表紙も担当し『2010年代SF傑作選』がその「再登板」でもあること、百合SFブームを決定づけた『SFマガジン』の百合SF特集号の表紙も担当していたこと、等々から鑑みて、「百合SF」に代表される近年のSF代表するイラストレーターとみなされうる、といったところだろうか。

もちろん、シライユウコ上記以外にも多くのすばらしい仕事を残している。ヤングの『時をとめた少女』など『2010年代SF傑作選』よりも「少女性」が強い絵も描く一方で、円城塔の『エピローグ』(単行本版)やヴァーリイの『逆行の夏』などのようなさほど「少女性」が目立たない絵もある。

しかし、世間でのイメージを決めるのは結局バズった仕事だ。

そうしたイラストレーターが表紙を担当することで、某評論家のいうように様々な出自トーンを持つ収録作のイメージを一つのカタにはめることになるのは否めない。それはイラストレーターの罪ではない。


日本SF臨界点』に関して言えば、伴名練が編纂するということで『なめらかな世界と、その敵』での「キャラ絵の人物がアップになっている表紙」が文脈的意識されているのだろう。

『なめらかな世界と、その敵』の収録作はジュブナイル的な色彩を帯びた作品が多く、表紙の選択はかぎりなくマッチしていたと思う。だがその文脈を発表年代も書き手バラバラアンソロに持ち込むのは(表紙を決めるのは編集者なので作家ではなく編集部として)作品群を「私物化」、あるいは領土化する行為として糾弾されてもしかたがない。


とはいえアンソロジー編集するのはひとつ創作活動でもある。DJのようなものだ。どんな作品を選ぶか、どんな順番で収録するか、といったことが作品個々の印象や読み味を大きく左右し、「一冊」のイメージを決める。その点で、表紙を「私物化」するのも表現の一部であるかもしれない。増田個人意識としてはアンソロの表紙もまた(アンソロ自体のコンセプトにもよるが)「私物化」されるべきと考える。

ハヤカワは伴名練という作家に過剰な文脈を背負わせすぎなきらいもあり、それはあまりよろしくないと感じるが、『日本SF臨界点』は伴名練の作品批評ひとつとして見なすべきではないか

アンソロ編纂するということはそのくらい暴力性を孕んだ行為なのだ。「埋もれた作品を発掘する」などといった無邪気な善性だけで成り立っているものではない。作品について一切指向性を持たせたくないのなら、表紙をつけず、amazon あたりで短編単位ひとつずつ売るしかない。


2.に関しては編集者の反応があまり噛み合っていない。「恥ずかしい」と感じることはどこまでも個人的感情なので、「若者には違和感がない」と反論してもあまり意味がない。発端となったツイートで「恥ずかしい」に続く文がマーケティングの話なので、マーケティングの話をされていると思ってもしょうがないというか、増田普通に読んでればそう取ると思うが。

また、編集者立場としてはイラストレーターを守りたい気持ちで「いや、恥ずかしくないんですよ」と反論したくなるのもわかる。表紙についての議論をすることに対してやや脅迫的ともとれる言辞をしているのも、そうした仲間を守りたい意識のあらわれだろう。その判断編集者として間違ってはいない。


ともあれ、その人が「恥ずかしい」と感じたならば「恥ずかしい」のは仕方がない。また、読者や作家にもそうした感覚共感する人々が一定存在するようなので、そうした心情を斟酌しないのはいかがなものかと思う。最低でも文面の上ではそうした消費者感情に向き合うふりくらいはしておくべきではなかったか

Twitterではよく「表紙が恥ずかしくて買えないとかガキか」という意見が目にされたが、そういうマウントの取り方もよくないと思う。


3.については(元の発言者は重要視していないとしているが)完璧に食い違っている。片方は「キャラ絵にすることでターゲットを狭める」と主張し、もう片方は「キャラ絵にすることでターゲットを広げる」と主張している。百合SFブームを仕掛け成功させたことや、この論争がそもそも2010年代傑作選』と『日本SF臨界点』が"バズった"結果生じたものであることを踏まえると、(編集者もまたマーケティングプロではないにしろ編集者側に理があるように思える。

SFというものキャラクター文化親和的なのだから、そっち方面から開拓の読者を拾った方がよいと判断するのは筋が通っている。「キャラ絵で買わない新規消費者」より「キャラ絵がついてることで買ってくれる新規消費者」ほうを多く見積もっているのだ。興味を持ってくれる読者層を有効開拓してこなかった業界の怠慢を一挙に巻き返そうとしている節はあるにしろ


ある一定の方向へ突出しすぎている表紙を出すことでそれ以外の読者を切り捨ててしま可能性はある。たとえば、ライトノベルの表紙絵はキャラ絵を好む読者以外へのリーチをハナから諦めている。キャラ絵を用いてる点では『臨界点』と変わらないが、よりパラメータがいわゆるオタク寄りに調整されている。最近スニーカー文庫ハルヒ角川文庫から再発されるにあたり、有名ないとうのいぢの表紙から実写を用いたいかにも一般向けの表紙へ切り替わったことがあった。これは「キャラ絵を切り捨てる層」への訴求を試みた例だろう。

ハルヒのメインターゲットであった層を掘り尽くしたので、本来ターゲットにしていなかった層も掘る余裕が出てきたのだ。メガヒット作ならではの展開といえるだろう。


キャラ絵を用いた表紙と、写真を用いた表紙。

間口を広く取れるのは後者だ。特定の層により訴えるのは前者だ。

どちらを取るかは出版社戦略次第だ。ハヤカワが大手より体力の低い中小出版社であることも考慮にいれるべきかもしれない。


だが、特定の層に訴えるマーケティングときにその層に含まれていないと感じた消費者への疎外感を生じさせる。そのことには出版社自覚的であるべきだろう


より個人的感想

個人的感想をいえば、シライユウコ絵が「マンガアニメ的絵」だという意識はあまりなかった。林静一から中村祐介に至るイラストレーター系譜(もちろん彼らにくらべたらややまんが的ではある)に連なるような存在として認知していた。

臨界点』のイラストもそこまでキャラ絵として意識していなかった。「恥ずかしい」と感じられるキャラ絵とは、それこそライトノベルの表紙絵くらいのレベルだと思っていたのだ。

たとえば、『臨界点』がライトノベル的な表紙であったら、増田も「切り捨てられた」と感じたことだろう(それはそれとして本を買いはする)。

こんなことを萌え絵に対して不感症になっている典型的日本人の謗りを受けそうであるし、実際そういう面も否めないのだろう。増田はよくTwitterで論争になる公共の場所で広告に使われる萌え絵について「恥ずかしいだろ」と(その是非とは別のレイヤーで)思ってしまう人だ。本当に「恥ずかしさ」の基準はひとそれぞれだなと思う。

今回話題になった表紙が即女性に対するオブジェティフィケーションにつながるとは思わない。

一方で、キャラ絵を用いたSF小説の表紙が女性という表象にまったく何も背負わせていないとも思わない。本人たちが意図するしないにかかわらず、文脈的には「百合SFムーブメントを作り上げた編集者」が、「伊藤計劃百合SFSFマガジンの百合特集号の表紙を描き、百合イメージが強いイラストレーター」や「百合SFムーブメントの一翼を担った新進作家」と作ったものなのだ。人はそこに「少女」を見る。その「少女」は私たちの築き上げてきた「少女」のイメージを背負っている。そこに無自覚はいられない。

私たちはどのレベルの「恥ずかしさ」で合意するのか。SFという貧しく狭い領域マーケティングコンプライアンスをどう天秤にかけていくのか。

今はまだ問いの出ない問題だ。作家しろ編集者しろ読者にしろ、一個人ではどうにもならない問題でもある。

だが、他人の感じる「恥ずかしさ」を「時代遅れ」と切り捨てることなく、あるいは読者同士で向き合うことで、ある方向へ流れていけるかもしれない。そこから先は、未来の話だ。作家たちの語るべき領域だ。


余談。あるミステリ作家が「消費者意見に対して真剣に向き合わず、味方を囲い込んでる」と例の編集者にキレてブロックしたことについて。むしろ、fusseterの文面ではTwitterでの論争の不毛さに触れているように、犬笛にならないように注意を払っているように感じた。よくやるように擁護ツイートRT連発みたいな行為にも走っていないし。

個々のフォロワーたちが発言したり群れたりするのは止められないだろうし、それを「味方を囲い込んでる」ように見えたとすれば、多分に先入観が強い。

意見に向き合え」というのはその通りだと思う。本人がおそらく可能な限り真摯に向き合っているつもりなのはfusseterで重ねられるエクスキューズからも読み取れるが、だとしても人はどこかで何かから目を逸らしてしまものだ。当事者になればなるほど防衛機制は強まる。ただ例の編集者自分に対して意見を言ってくる人を尽く敵と見做して戦争しかけるタイプには見えないし、あの作家の言うことなら無碍にはしないはずなので、ブロックする前に意見交換を行なって互いの認知を均したほうが幾分有益であったはずだ。

この問題については意見を出してる作家業界関係者でさえ恐る恐るというか、批判しろ擁護しろ通り一辺倒のことしか言っていない印象がある。

その穏当さが党派的な対立を強めていはしないか業界トピックとして捉えるなら、公の場で作家同士でもっと突っ込んだ話し合いを行うべきではないのか。

2020-03-07

生物部を舞台にした小説漫画

中高と生物部に所属し,今は生物系の分野で大学教員をしています

生物部を舞台にした小説漫画は非常にまれで,もし皆さんが知っていたら教えてほしい。

私が知っているのは,筒井康隆が書いたラノベビアンカ・オーバースタディ」だけだ。

主人公は,高校ウニ生殖研究する生物部員ビアンカ北町

 このラノベの特徴は

いとうのいぢイラストかわいい

編集者太田が悪い

 この太田さん,私は仕事のできない新米編集者イメージしていたのだが,舞城王太郎西尾維新竜騎士07などを発掘した敏腕編集者だそう。

 しかし,うちの学部図書館ビアンカ・オーバースタディを入れたのは誰なんだ?優秀すぎるぞ(笑)

注:内容は,主に美少女精子を○したり,△したりする話です(笑)

2019-10-20

anond:20191020135932

自分最初に「あれ?この絵柄ってよく見たら少女漫画じゃん」と気付いたのは門井亜矢の下級生(1996年)だったな。いとうのいぢもそうだけど、エロゲ原画家って女性が多かったから、少女漫画からいわゆる萌え絵への影響の一端を担ってるだろうね。

2019-09-08

anond:20190903215546

なんとなく理屈ではわかる。。……が女性を(-)と設定した時に対比され際立つ(+)の男性性だけでなく、例えばハルヒと居る時のキョンポジション男性性を感じるタイプも居るはずでそういう層に訴求する道は無いものだろうか。流石にハルヒというハイパースペック完璧美少女自分を同列にする度胸はないが、そこは適当デブヒロイン版のイメージがなかったのでw

この辺が正直頭沸いてるというか何かのギャグなのかと思わずツッコミひとつも入れたくなってしまうのだが、そもそも涼宮ハルヒというキャラクターに対するオタクから評価平野綾があの通り盛大に自爆する前のリアルタイムですら単なるDQNのもの、つまり作中のモブが考えていたのと同様「できれば関わり合いになりたくない存在」というのが多数派であり、だいたいが物語としても美少女という設定とそれを裏付けいとうのいぢ先生の絵と京アニの神と称された作画がなければ、それこそ同時期に放映されていたMUSASHI -GUN道-のごとく何もかもが破綻していたとしてもおかしくはなく、キャラクターとしての知名度はともかく好感度に関して言えば長門の方がよほど上だったじゃねえかこの野郎と当時を振り返らざるを得ないのだった。

2019-02-04

伝説ラノベビアンカ・オーバースタディ

筒井康隆中学生のころから読んでいたので,嫌いではない。

パプリカとかアニメも好きです。まあ,時かけもね。

あの筒井康隆ラノベを書いていたというので読んでみたのだが,ぶっ飛んだ。

主人公は,高校ウニ生殖研究する生物部員ビアンカ北町だ。

私がお勧めする理由

・数少ない「生物部」を舞台にした小説である

 (しかし,筒井康隆生物部に入ったことはないだろうな)

いとうのいぢイラストかわいい

太田が悪い

 この太田さん,仕事のできない新米編集者イメージしていたのだが,舞城王太郎西尾維新竜騎士07などを発掘した敏腕編集者だそう。

 しかし,うちの大学図書館ビアンカ・オーバースタディを入れたのは誰なんだ?優秀すぎるぞ(笑)

 内容は主に精子についての話です(笑)

2018-10-09

anond:20181009102327

そりゃオタクだって女児向けアニメっぽさ」は見分けることができるし、

もちろん「90年代萌えアニメっぽさ」とか「2000年代エロゲっぽさ」とか、

あるいは「美樹本晴彦っぽさ」とか「いとうのいぢっぽさ」も見分けることができるわけで、

「見分けることができる」から萌え絵じゃない」は論理として成り立ってないんだよなあ。

2017-10-11

[]原作綾辻行人 / 漫画清原紘Another」全4巻

読む前に知ってたこ

アニメになってる

いとうのいぢキャラデした

・「アナザーなら死んでた」という言い回しがある

階段から落ちて雨傘につきささる死に方がある

うーん・・・合わなかった

原作を読んでいなくても、漫画としてのクオリティが高いこと、原作をうまく漫画化してるであろうことがうかがわれるって意味ではかなり質が高いコミカライズだとは思う

4巻でコンパクトにまとまっててアニメ全部見るよりも手軽に楽しめた

でも面白いかと言われるとうーん・・・

ずっともやもやしたまま人が死んだりして、結局謎もそういう現象のままってことみたいだし

死者がわかってもふーんでしかなかったし・・・

一応主人公がかかわる事件終結したけどこれからも同じような事件は続いてくんだよね

なんとなく漂流教室的な閉鎖空間でのバイオレンスパニックみたいなの想像してたから、ホラーミステリーちょっと拍子抜けした

最初眼帯して意味ありげな話する中二病のリッカみたいな子が中二病しか見えなかった

なんとなく6番目の小夜子みたいな話だった

あとひぐらしっぽいとも思った

ホラーミステリーはなんとなく合わないなあ

リング系列面白かったし好きだけど(ループまで含めても好き)

単純に綾辻キライってのも偏見助長してるのかもだけど(どんどん橋、落ちた読んで大嫌いになった。館シリーズは読んでない)

赤沢さんのアニメデザインが好きだったけどそこまで出てこなかった気がするので残念だった

2016-01-13

この人エロかいてたの!?っていう

背徳的な興奮を味わうのが好き

でも最近は逆パターンしかなくて寂しい

あずまきよひこ

tosh

真鍋譲治

こんちき

大塚麗華

雨がっぱ少女群

個人的最近うれしかったのは稲光伸二が性食鬼でかなりエロ書いてくれてることだな

出るトコ出ましょ!のときからこの人の絵柄すきだったから、ここまでエロ書いてくれてることにすげー興奮して抜きまくったわ

最近の子どもだと、シャイニングシリーズTony知って後からエロも書いてることにめっちゃ興奮したりするんだろうか。。。

俺だったらめっちゃ興奮して抜きまくるな・・・

俺は残念ながらエロを先に知ってた派だけど、まだエロゲができないときTony絵のエロゲ雑誌のページだけスクラップして持ってたわ・・・

いとうのいぢ蒼樹うめはまあ。。。つーかうめてんてーでぐぐったら阿澄佳奈写真出てくるわ

ゼロの使い魔原作イラストかいてた人もエロゲかいてたけど個人的な好みではなかった

あーパチンコのリオ書いてるこうたろがエロゲ原画したときめっちゃ興奮したな!あれもなかなか久しぶりに興奮した!

つっても相当前だけど。

うーんもっとぞくぞくする背徳的なエロを感じさせてほしいなあ・・・

好きだった子がAV女優に出た作品をにやにやしながら集める行動と似たようなもんかなー


声優だと割とある感じするなー

朝っぱらから何書いてんだよ俺

2016-01-06

これって何のラノベかわかる?

いでおろーぐや僕と彼女のゲーム戦争ちょっと違うだろうしなんだろ?

今読んでるラノベの話をするが…なんだろう。オタクじゃなくて、ネット脳ネットコンテクストを形だけ演じてるのをオタクと呼び、定義された主人公。それをラノベ的な強引な展開で押し付けて、女の子があまりにも当たり前すぎる正論を言うスタイル。…これは小説じゃない。ブログだよ

作者はおそらく、大学生ぐらいからオタクにのめり込んだエロゲオタだと思うんだけど…高校生エロゲオタ・美少女ゲームオタクってこんなに描かれるといびつなのか。なんというか想像がつかない。主人公像を文章説明されればされるほど、「ラノベイラスト機能してない」と感じられて仕方ない

ラノベイラストだ、表紙だ」と言ってるけど、今読んでるラノベは完全に表紙の力が足りてないラノベなれる!SEみたいに「画力が足りてないだけで状況やキャラ設定は的確」というタイプラノベじゃなくて、キャラデザダメ。かき分けもダメ。読んで描いてこうなってるなら、バカだと思う

例えばだけど、ブサイクにしなくても、ラノベ登場人物としてのひねくれ感を出してる「キョン」のキャラデザって偉大だよね。いとうのいぢといえば、女の子描いてるようなアレがあるけど、むしろキョンの冷めたセリフと合う主人公が作れたことの方が実は功績だと思う。俺ガイルの比企谷にも言えるが

学校トップ3にダサい男子主人公なのに、ラノベ挿絵を見ても一切合切ダサさもひねくれ感もないのよね…。ギャルがどうとかネイルがどうとかってヒロイン描写もあるんだけど、ギャル感もなければ、そもそもイラストに爪にこだわった絵も一枚もない。イラストというよりハンコ絵

いや、ラノベとして面白いかと言われると「ラノベではなく、ネット脳な人がまともな女の子論破されて悔しがるさまを【女の子が圧倒的に正しい】とはてなブックマークしたくなるようなブログを読んでる」感覚がする作品。なんというか、ノベルというほどの創造性もラノベというほどの記号性もない


ライトノベルというジャンルや、挿絵キャラデザミスマッチしていることによるイメージ劣化裏切りが、そこそこ面白いラノベという体裁を装ったブログもっと細かく言えば「はてな匿名ダイアリー文学っぽい作品)をそこそこ面白いことすら認めたくならないようなところまで好感度を落としてる

2012-01-08

日本からは何故ゲイツジョブズが現れないのか」ってたまに聞くけど、そもそもアメリカ(と日本)以外の国ではゲイツジョブズみたいなのってそんなにポコジャカ現れてんの?

アメリカの某サイトで「USAからは何故いとうのいぢ岸田メルが現れないのか」って侃侃諤諤の論争してるの見ながらふと疑問に思った。

2011-02-19

http://anond.hatelabo.jp/20110219183240

読んだことあるよ。あれは電撃じゃなくて角川スニーカーでしょ?あそこは確かにラノベって感じの小説ばかり出してるわけじゃないな。

でも、ハルヒは完全にラノベに取り込まれていたように思う。いとうのいぢ少女漫画チックな絵は多少違和感覚えたけど(アニメのほうを先に知ってたから)

しかに角川スニーカーラノベレーベルと考えると必ずしも萌えと結びついているとは言えないか

2010-03-20

書き手側の技術的向上の功罪

同期とメシを喰っていたときのこと。

そのうちの一人がした、

「俺いとうのいぢ好きなんだよねww」

という発言が、すごい印象に残っている。

今は萌え絵師が氾濫してそこらじゅうに有象無象と居るわけだけど、CGとしての塗りが普遍的じゃなかった頃((90年代末~00年代前半、PhotoShop 5.5~7のあたり))は、こつえー七尾(の様な絵師)が飛びぬけて崇拝されていた時代、と個人的な記憶がある。

二大巨頭――とは少し言い過ぎかもしれないけど、二人は原画力と塗り技術が「両立」していた数少ない絵師だったと思うんだ。

原画力は時代に左右されない((流行り廃りはあれど、その時その時ニーズにあった人が重宝されると思われる))のかもしれないけど、塗り技術は当時、門外不出のものだったのではないだろうか。

だから、「一定レベルの塗り技術がある程度普遍的なものとなってしまった」今は、絵師の優劣は好みでいくらでも選べてしまうとも言える、と自分は思ってるんだよね。そしてそれは、「誰が好き」「誰が嫌い」と言えるってわけで。これは、とても幸せなんじゃないかな、と常々思う。

逆に言えば、今でも俺は先述した二氏の絵を(いい意味で)好きだし、当時こつえー七尾崇拝していた世代と話すと、なんだかんだこの話題はアツく語れて楽しいものである。

00年代が終わってしまい、10年代が幕開けたわけだけど、00年と比べれば家庭用パソコンスペックは10倍どころの騒ぎじゃない向上((10年前といえば、Pentium4がようやく発表された時代だ))をしたし、発表の場も増えた。切磋琢磨する環境が整って、同人誌お金になるということもあり多方面から((判子技術や金太郎飴ストーリーエロを絡める定番手法などのこと))技術を追求する銭ゲバガンガン稼ぎにきている。

オタクカルチャー的に00年代は、「塗り技術の底上げと生産コスト改善」が行われた年代、といってもいいんじゃないかな、とか。え?俺だけ?

2008-07-31

筒井康隆×いとうのいぢ

http://mainichi.jp/enta/mantan/news/20080730mog00m200014000c.html

職場休み時間にこれみて,ひとりで「うぇっ!?」って声上げそうになった.

まー,周りのやつらはいとうのいぢどころか筒井康隆も興味ないヒトタチなんでこの驚きを共有できなかったんですけど.

しかもファウストって.

筒井さんがファウストですか.

ホント懐深いなー,このひと.

まぁ,すげぇwktkしながら発売待ってます.

2008-01-27

芥川龍之介文庫本いとうのいぢにでも挿絵を描かせて電撃から発売すればライトノベルとして成立するのではないのかという思考テスト

2007-12-30

http://anond.hatelabo.jp/20071230100625

最近だとエログ作ってる女性とかが男性週刊誌に取り上げられたりするけど

大半はネカマかアフェリ目的だろうね。

エロゲだと昔から女性スタッフはいたし、今でも原画グラフィックを中心に

女性が活躍してるのはめずらしくない。

有名な所だとみつみ美里とかいとうのいぢとかさっぽろももことか

2007-10-27

http://anond.hatelabo.jp/20071027165812

涼宮ハルヒの憂鬱」が大ヒットしたとき、「京都アニメーションすげえ」、「いとうのいぢ絵すげえ」という声はあっても、「谷川流すげえ」という声を上げた人はどれだけいただろうか。

逆に、「うる星やつら」が流行ったとき、「高橋留美子」の名は日本中に知れ渡ることとなったが、「スタジオぴえろ」や「スタジオディーン」の名を目にした人はどれだけいただろうか。

、、、なんか自分でも訳が分からなくなってきた。ごめん。

 
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