はてなキーワード: いとうのいぢとは
90年代から絵を描いてる人って自分の絵柄が古くなるのがいやで今時の絵柄に近づけようとしているのか、絵柄が変わってしまう人がいる
たとえば、種村有菜はジャンヌ~KYOKOのときの絵柄をずっと貫いててほしかったし
いとうのいぢ先生は2000年代のハルヒブームのときの絵柄を貫いてほしかった
高橋留美子先生、枢やな先生、青山剛昌とかのベテランは「自分」を貫いてるから絵柄が令和になっても変化することがない
自分の絵のくせや自分らしいタッチを最高だと思ってるから変化しない
種村有菜先生やいとうのいぢ先生の今の絵柄を好きなファンはたくさんいるんだから、私の考えは「正義」ではないということは重々理解
してる
鬼滅の刃の作者は自分の絵柄、描き方にむちゃくちゃこだわりを持っているからきっと鬼滅の後に新しい次回作を描いたとしても絵柄は変わらない
・あるSF編集者が自分の担当したアンソロジー本(『日本SFの臨界点』と『2010年代SF傑作選』)の表紙を掲載し、そのツイートが広くバズった。
・それを見てある読者が twitter で以下のような発言を行い、反響を呼んだ。
「なんでSF小説とかアンソロの表紙って漫画・アニメ絵の女の子ばっかなの?恥ずかしくて持ち歩けないんだけど。自らターゲット狭めてマーケット小さくしてる気がする。(中略)誰も彼も「売れるから」で思考停止している気がしてならない。」
それに対して当該編集者がfusseterで以下のような反論を行った。
・「女の子」に関して
・イラストレーターには『性別を指定しない抽象的なキャラクター像』で発注したもので、『女の子』ではない,
・キャラクター的であることそのものに対する違和感にしても、少なくとも現場ではそういうものにしようという意向ではなかった。
・「恥ずかしい」に関して。
・特に若年層ではキャラ絵が「恥ずかしい」と思う感性はあまりないはず。
・キャラ絵が想像力を狭めるということはなく、むしろ想像力を喚起するもの。
・表紙に対する意見について
・表紙を描くイラストレーターたちにも評判を気にして傷つくなどの感情はあるんだから、そういう人に届く危険を認識したうえでSNSを使え。
・事実として違う(SFマガジンの書評欄に見られる書籍の表紙を引き合いにだして)。
・今回の表紙の意図について
二者間で応答された論点は以下のように要約される。
1.なぜSF小説・アンソロの表紙はキャラ絵の女の子ばかりなのか
1.は事実認識としては適当ではない。ただ、主観的で不正確な感覚でも、その感覚が広範に共有されていればシーンに対する認識としては強度を持つ。
たとえば、読者の記憶に残りやすい「目立つ」コンテンツの表紙にアニメ絵率が高かった(ように思える)場合、多くのユーザーは「表紙にアニメ絵ばかり」という認識を持ち、関係するアクターやシーンの振る舞いもその認識に沿って動いていく可能性がある。
ハヤカワは伊藤計劃の『ハーモニー』『虐殺器官』の文庫化の際に、伊藤計劃作品のアニメ映画でキャラデザを務めたredjuiceを起用した。ちなみに表紙に、ではない。本をすっぽり覆うタイプのオビにイラストを反映させたのだ。実質的には「アニメ絵の表紙になった」とみなされても仕方がないし、事実そのように勘違いしている人も散見される。
シライシユウコのイラストレーションに対するファンダムの記憶は伊藤計劃や百合SFと密接に結びついており、2010年代の「気分」を確実に決定づけていた。
「シライシユウコが表紙を描くこと」は他のイラストレーター(キャラ絵寄りであれそうでないであれ)が担当するより確実にある種の指向性を帯びやすい。
どういう指向性か、と問われるとなかなか言語化しにくいが、このイラストレーターが伊藤計劃の『ハーモニー』の単行本版の表紙を担当したこと、伴名練のデビュー作である『少女禁区』の表紙を担当したこと、ライトノベル作家の短編が多く採られた『ゼロ年代SF傑作選』の表紙も担当し『2010年代SF傑作選』がその「再登板」でもあること、百合SFブームを決定づけた『SFマガジン』の百合SF特集号の表紙も担当していたこと、等々から鑑みて、「百合SF」に代表される近年のSFを代表するイラストレーターとみなされうる、といったところだろうか。
もちろん、シライシユウコは上記以外にも多くのすばらしい仕事を残している。ヤングの『時をとめた少女』など『2010年代SF傑作選』よりも「少女性」が強い絵も描く一方で、円城塔の『エピローグ』(単行本版)やヴァーリイの『逆行の夏』などのようなさほど「少女性」が目立たない絵もある。
そうしたイラストレーターが表紙を担当することで、某評論家のいうように様々な出自、トーンを持つ収録作のイメージを一つのカタにはめることになるのは否めない。それはイラストレーターの罪ではない。
『日本SFの臨界点』に関して言えば、伴名練が編纂するということで『なめらかな世界と、その敵』での「キャラ絵の人物がアップになっている表紙」が文脈的に意識されているのだろう。
『なめらかな世界と、その敵』の収録作はジュブナイル的な色彩を帯びた作品が多く、表紙の選択はかぎりなくマッチしていたと思う。だがその文脈を発表年代も書き手もバラバラなアンソロに持ち込むのは(表紙を決めるのは編集者なので作家ではなく編集部として)作品群を「私物化」、あるいは領土化する行為として糾弾されてもしかたがない。
とはいえ、アンソロジーを編集するのはひとつの創作活動でもある。DJのようなものだ。どんな作品を選ぶか、どんな順番で収録するか、といったことが作品個々の印象や読み味を大きく左右し、「一冊」のイメージを決める。その点で、表紙を「私物化」するのも表現の一部であるかもしれない。増田個人の意識としてはアンソロの表紙もまた(アンソロ自体のコンセプトにもよるが)「私物化」されるべきと考える。
ハヤカワは伴名練という作家に過剰な文脈を背負わせすぎなきらいもあり、それはあまりよろしくないと感じるが、『日本SFの臨界点』は伴名練の作品・批評のひとつとして見なすべきではないか。
アンソロを編纂するということはそのくらい暴力性を孕んだ行為なのだ。「埋もれた作品を発掘する」などといった無邪気な善性だけで成り立っているものではない。作品について一切指向性を持たせたくないのなら、表紙をつけず、amazon あたりで短編単位でひとつずつ売るしかない。
2.に関しては編集者の反応があまり噛み合っていない。「恥ずかしい」と感じることはどこまでも個人的な感情なので、「若者には違和感がない」と反論してもあまり意味がない。発端となったツイートで「恥ずかしい」に続く文がマーケティングの話なので、マーケティングの話をされていると思ってもしょうがないというか、増田も普通に読んでればそう取ると思うが。
また、編集者の立場としてはイラストレーターを守りたい気持ちで「いや、恥ずかしくないんですよ」と反論したくなるのもわかる。表紙についての議論をすることに対してやや脅迫的ともとれる言辞をしているのも、そうした仲間を守りたい意識のあらわれだろう。その判断は編集者として間違ってはいない。
ともあれ、その人が「恥ずかしい」と感じたならば「恥ずかしい」のは仕方がない。また、読者や作家にもそうした感覚に共感する人々が一定数存在するようなので、そうした心情を斟酌しないのはいかがなものかと思う。最低でも文面の上ではそうした消費者の感情に向き合うふりくらいはしておくべきではなかったか。
Twitterではよく「表紙が恥ずかしくて買えないとかガキか」という意見が目にされたが、そういうマウントの取り方もよくないと思う。
3.については(元の発言者は重要視していないとしているが)完璧に食い違っている。片方は「キャラ絵にすることでターゲットを狭める」と主張し、もう片方は「キャラ絵にすることでターゲットを広げる」と主張している。百合SFブームを仕掛け成功させたことや、この論争がそもそも『2010年代傑作選』と『日本SFの臨界点』が"バズった"結果生じたものであることを踏まえると、(編集者もまたマーケティングのプロではないにしろ)編集者側に理があるように思える。
SFというものはキャラクター文化と親和的なのだから、そっち方面から未開拓の読者を拾った方がよいと判断するのは筋が通っている。「キャラ絵で買わない新規消費者」より「キャラ絵がついてることで買ってくれる新規消費者」ほうを多く見積もっているのだ。興味を持ってくれる読者層を有効に開拓してこなかった業界の怠慢を一挙に巻き返そうとしている節はあるにしろ。
ある一定の方向へ突出しすぎている表紙を出すことでそれ以外の読者を切り捨ててしまう可能性はある。たとえば、ライトノベルの表紙絵はキャラ絵を好む読者以外へのリーチをハナから諦めている。キャラ絵を用いてる点では『臨界点』と変わらないが、よりパラメータがいわゆるオタク寄りに調整されている。最近、スニーカー文庫のハルヒが角川文庫から再発されるにあたり、有名ないとうのいぢの表紙から実写を用いたいかにも一般向けの表紙へ切り替わったことがあった。これは「キャラ絵を切り捨てる層」への訴求を試みた例だろう。
ハルヒのメインターゲットであった層を掘り尽くしたので、本来ターゲットにしていなかった層も掘る余裕が出てきたのだ。メガヒット作ならではの展開といえるだろう。
間口を広く取れるのは後者だ。特定の層により訴えるのは前者だ。
どちらを取るかは出版社の戦略次第だ。ハヤカワが大手より体力の低い中小出版社であることも考慮にいれるべきかもしれない。
だが、特定の層に訴えるマーケティングはときにその層に含まれていないと感じた消費者への疎外感を生じさせる。そのことには出版社は自覚的であるべきだろう
個人的な感想をいえば、シライシユウコ絵が「マンガ・アニメ的絵」だという意識はあまりなかった。林静一から中村祐介に至るイラストレーターの系譜(もちろん彼らにくらべたらややまんが的ではある)に連なるような存在として認知していた。
『臨界点』のイラストもそこまでキャラ絵として意識していなかった。「恥ずかしい」と感じられるキャラ絵とは、それこそライトノベルの表紙絵くらいのレベルだと思っていたのだ。
たとえば、『臨界点』がライトノベル的な表紙であったら、増田も「切り捨てられた」と感じたことだろう(それはそれとして本を買いはする)。
こんなことを萌え絵に対して不感症になっている典型的な日本人の謗りを受けそうであるし、実際そういう面も否めないのだろう。増田はよくTwitterで論争になる公共の場所で広告に使われる萌え絵について「恥ずかしいだろ」と(その是非とは別のレイヤーで)思ってしまう人だ。本当に「恥ずかしさ」の基準はひとそれぞれだなと思う。
今回話題になった表紙が即女性に対するオブジェクティフィケーションにつながるとは思わない。
一方で、キャラ絵を用いたSF小説の表紙が女性という表象にまったく何も背負わせていないとも思わない。本人たちが意図するしないにかかわらず、文脈的には「百合SFムーブメントを作り上げた編集者」が、「伊藤計劃の百合SFやSFマガジンの百合特集号の表紙を描き、百合のイメージが強いイラストレーター」や「百合SFムーブメントの一翼を担った新進作家」と作ったものなのだ。人はそこに「少女」を見る。その「少女」は私たちの築き上げてきた「少女」のイメージを背負っている。そこに無自覚ではいられない。
私たちはどのレベルの「恥ずかしさ」で合意するのか。SFという貧しく狭い領域でマーケティングとコンプライアンスをどう天秤にかけていくのか。
今はまだ問いの出ない問題だ。作家にしろ編集者にしろ読者にしろ、一個人ではどうにもならない問題でもある。
だが、他人の感じる「恥ずかしさ」を「時代遅れ」と切り捨てることなく、あるいは読者同士で向き合うことで、ある方向へ流れていけるかもしれない。そこから先は、未来の話だ。作家たちの語るべき領域だ。
余談。あるミステリ作家が「消費者の意見に対して真剣に向き合わず、味方を囲い込んでる」と例の編集者にキレてブロックしたことについて。むしろ、fusseterの文面ではTwitterでの論争の不毛さに触れているように、犬笛にならないように注意を払っているように感じた。よくやるように擁護ツイートのRT連発みたいな行為にも走っていないし。
個々のフォロワーたちが発言したり群れたりするのは止められないだろうし、それを「味方を囲い込んでる」ように見えたとすれば、多分に先入観が強い。
「意見に向き合え」というのはその通りだと思う。本人がおそらく可能な限り真摯に向き合っているつもりなのはfusseterで重ねられるエクスキューズからも読み取れるが、だとしても人はどこかで何かから目を逸らしてしまうものだ。当事者になればなるほど防衛機制は強まる。ただ例の編集者は自分に対して意見を言ってくる人を尽く敵と見做して戦争をしかけるタイプには見えないし、あの作家の言うことなら無碍にはしないはずなので、ブロックする前に意見交換を行なって互いの認知を均したほうが幾分有益であったはずだ。
この問題については意見を出してる作家や業界関係者でさえ恐る恐るというか、批判にしろ擁護にしろ通り一辺倒のことしか言っていない印象がある。
その穏当さが党派的な対立を強めていはしないか。業界のトピックとして捉えるなら、公の場で作家同士でもっと突っ込んだ話し合いを行うべきではないのか。
なんとなく理屈ではわかる。。……が女性を(-)と設定した時に対比され際立つ(+)の男性性だけでなく、例えばハルヒと居る時のキョンポジションに男性性を感じるタイプも居るはずでそういう層に訴求する道は無いものだろうか。流石にハルヒというハイパースペックの完璧美少女と自分を同列にする度胸はないが、そこは適当なデブヒロイン版のイメージがなかったのでw
この辺が正直頭沸いてるというか何かのギャグなのかと思わずツッコミのひとつも入れたくなってしまうのだが、そもそも涼宮ハルヒというキャラクターに対するオタク側からの評価は平野綾があの通り盛大に自爆する前のリアルタイムですら単なるDQNそのもの、つまり作中のモブが考えていたのと同様「できれば関わり合いになりたくない存在」というのが多数派であり、だいたいが物語としても美少女という設定とそれを裏付けるいとうのいぢ先生の絵と京アニの神と称された作画がなければ、それこそ同時期に放映されていたMUSASHI -GUN道-のごとく何もかもが破綻していたとしてもおかしくはなく、キャラクターとしての知名度はともかく好感度に関して言えば長門の方がよほど上だったじゃねえかこの野郎と当時を振り返らざるを得ないのだった。
読む前に知ってたこと
・アニメになってる
うーん・・・合わなかった
原作を読んでいなくても、漫画としてのクオリティが高いこと、原作をうまく漫画化してるであろうことがうかがわれるって意味ではかなり質が高いコミカライズだとは思う
4巻でコンパクトにまとまっててアニメ全部見るよりも手軽に楽しめた
ずっともやもやしたまま人が死んだりして、結局謎もそういう現象のままってことみたいだし
一応主人公がかかわる事件は終結したけどこれからも同じような事件は続いてくんだよね
なんとなく漂流教室的な閉鎖空間でのバイオレンスパニックみたいなの想像してたから、ホラーミステリーでちょっと拍子抜けした
最初眼帯して意味ありげな話する中二病のリッカみたいな子が中二病にしか見えなかった
なんとなく6番目の小夜子みたいな話だった
あとひぐらしっぽいとも思った
リング系列は面白かったし好きだけど(ループまで含めても好き)
単純に綾辻がキライってのも偏見を助長してるのかもだけど(どんどん橋、落ちた読んで大嫌いになった。館シリーズは読んでない)
背徳的な興奮を味わうのが好き
大塚麗華
個人的に最近うれしかったのは稲光伸二が性食鬼でかなりエロ書いてくれてることだな
出るトコ出ましょ!のときからこの人の絵柄すきだったから、ここまでエロ書いてくれてることにすげー興奮して抜きまくったわ
最近の子どもだと、シャイニングシリーズでTony知って後からエロも書いてることにめっちゃ興奮したりするんだろうか。。。
俺は残念ながらエロを先に知ってた派だけど、まだエロゲができないときにTony絵のエロゲの雑誌のページだけスクラップして持ってたわ・・・
いとうのいぢと蒼樹うめはまあ。。。つーかうめてんてーでぐぐったら阿澄佳奈の写真出てくるわ
ゼロの使い魔の原作のイラストかいてた人もエロゲかいてたけど個人的な好みではなかった
あーパチンコのリオ書いてるこうたろがエロゲ原画したときはめっちゃ興奮したな!あれもなかなか久しぶりに興奮した!
つっても相当前だけど。
うーんもっとぞくぞくする背徳的なエロを感じさせてほしいなあ・・・
好きだった子がAV女優に出た作品をにやにやしながら集める行動と似たようなもんかなー
朝っぱらから何書いてんだよ俺
いでおろーぐや僕と彼女のゲーム戦争はちょっと違うだろうしなんだろ?
今読んでるラノベの話をするが…なんだろう。オタクじゃなくて、ネット脳。ネットのコンテクストを形だけ演じてるのをオタクと呼び、定義された主人公。それをラノベ的な強引な展開で押し付けて、女の子があまりにも当たり前すぎる正論を言うスタイル。…これは小説じゃない。ブログだよ
作者はおそらく、大学生ぐらいからオタクにのめり込んだエロゲオタだと思うんだけど…高校生のエロゲオタ・美少女ゲームオタクってこんなに描かれるといびつなのか。なんというか想像がつかない。主人公像を文章で説明されればされるほど、「ラノベのイラストが機能してない」と感じられて仕方ない
「ラノベはイラストだ、表紙だ」と言ってるけど、今読んでるラノベは完全に表紙の力が足りてないラノベ。なれる!SEみたいに「画力が足りてないだけで状況やキャラ設定は的確」というタイプのラノベじゃなくて、キャラデザがダメ。かき分けもダメ。読んで描いてこうなってるなら、バカだと思う
例えばだけど、ブサイクにしなくても、ラノベの登場人物としてのひねくれ感を出してる「キョン」のキャラデザって偉大だよね。いとうのいぢといえば、女の子描いてるようなアレがあるけど、むしろ、キョンの冷めたセリフと合う主人公が作れたことの方が実は功績だと思う。俺ガイルの比企谷にも言えるが
学校でトップ3にダサい男子の主人公なのに、ラノベの挿絵を見ても一切合切ダサさもひねくれ感もないのよね…。ギャルがどうとかネイルがどうとかってヒロインの描写もあるんだけど、ギャル感もなければ、そもそもイラストに爪にこだわった絵も一枚もない。イラストというよりハンコ絵
いや、ラノベとして面白いかと言われると「ラノベではなく、ネット脳な人がまともな女の子に論破されて悔しがるさまを【女の子が圧倒的に正しい】とはてなブックマークしたくなるようなブログを読んでる」感覚がする作品。なんというか、ノベルというほどの創造性もラノベというほどの記号性もない
ライトノベルというジャンルや、挿絵のキャラデザがミスマッチしていることによるイメージの劣化や裏切りが、そこそこ面白いラノベという体裁を装ったブログ(もっと細かく言えば「はてな匿名ダイアリー」文学っぽい作品)をそこそこ面白いことすら認めたくならないようなところまで好感度を落としてる
同期とメシを喰っていたときのこと。
そのうちの一人がした、
「俺いとうのいぢ好きなんだよねww」
という発言が、すごい印象に残っている。
今は萌え絵師が氾濫してそこらじゅうに有象無象と居るわけだけど、CGとしての塗りが普遍的じゃなかった頃((90年代末~00年代前半、PhotoShop 5.5~7のあたり))は、こつえーや七尾(の様な絵師)が飛びぬけて崇拝されていた時代、と個人的な記憶がある。
二大巨頭――とは少し言い過ぎかもしれないけど、二人は原画力と塗り技術が「両立」していた数少ない絵師だったと思うんだ。
原画力は時代に左右されない((流行り廃りはあれど、その時その時ニーズにあった人が重宝されると思われる))のかもしれないけど、塗り技術は当時、門外不出のものだったのではないだろうか。
だから、「一定レベルの塗り技術がある程度普遍的なものとなってしまった」今は、絵師の優劣は好みでいくらでも選べてしまうとも言える、と自分は思ってるんだよね。そしてそれは、「誰が好き」「誰が嫌い」と言えるってわけで。これは、とても幸せなんじゃないかな、と常々思う。
逆に言えば、今でも俺は先述した二氏の絵を(いい意味で)好きだし、当時こつえー・七尾崇拝していた世代と話すと、なんだかんだこの話題はアツく語れて楽しいものである。
00年代が終わってしまい、10年代が幕開けたわけだけど、00年と比べれば家庭用パソコンのスペックは10倍どころの騒ぎじゃない向上((10年前といえば、Pentium4がようやく発表された時代だ))をしたし、発表の場も増えた。切磋琢磨する環境が整って、同人誌はお金になるということもあり多方面から((判子技術や金太郎飴ストーリー、エロを絡める定番手法などのこと))技術を追求する銭ゲバもガンガン稼ぎにきている。
オタクカルチャー的に00年代は、「塗り技術の底上げと生産コストの改善」が行われた年代、といってもいいんじゃないかな、とか。え?俺だけ?