はてなキーワード: エバンスとは
右上に行くほど落ち着いていて、左下に行くほど個性的、っていうイメージ。
清楚 | ||||||
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鈴谷アキ | シスター・クレア | ベルモンド・バンデラス | ||||
鈴木勝 | ルイス・キャミー | 小野町春香 | 桜凛月 | モイラ | ||
レヴィ・エリファ | エリー・コニファー | 来栖夏芽 | 愛園愛美 | ニュイ・ソシエール | ||
物述有栖 | 雪城眞尋 | 先斗寧 | 戌亥とこ | 舞元啓介 | ||
天宮こころ | 葉加瀬冬雪 | アクシア・クローネ | フレン・E・ルスタリオ | ドーラ | ||
家長むぎ | 西園チグサ | レイン・パターソン | イブラヒム | 社築 | ||
森中花咲 | アルス・アルマル | 瀬戸美夜子 | 竜胆尊 | 夢追翔 | ||
天ヶ瀬むゆ | 朝日南アカネ | 長尾景 | 白雪巴 | |||
安土桃 | 鷹宮リオン | 健屋花那 | 夜見れな | 神田笑一 | ||
夢月ロア | ラトナ・プティ | 緑仙 | 叶 | 加賀美ハヤト | ||
魔使マオ | 奈羅花 | 飛鳥ひな | 渋谷ハジメ | 早瀬走 | ||
ガキ | 椎名唯華 | 星川サラ | リゼ・ヘルエスタ | 静凛 | 黛灰 | 大人 |
笹木咲 | 海妹四葉 | 甲斐田晴 | ローレン・イロアス | オリバー・エバンス | ||
えま★おうがすと | 東堂コハク | 葛葉 | 夕陽リリ | 弦月藤士郎 | ||
宇志海いちご | 空星きらめ | 三枝明那 | 春崎エアル | シェリン・バーガンディ | ||
勇気ちひろ | 卯月コウ | 山神カルタ | 黒井しば | レオス・ヴィンセント | ||
町田ちま | 本間ひまわり | アンジュ・カトリーナ | える | ジョー・力一 | ||
北小路ヒスイ | でびでび・でびる | エクス・アルビオ | 伏見ガク | |||
周央サンゴ | 語部紡 | フミ | 成瀬鳴 | |||
魔界ノりりむ | 赤羽葉子 | 樋口楓 | 不破湊 | グウェル・オス・ガール | ||
矢車りね | ましろ | 壱百満天原サロメ | 剣持刀也 | 花畑チャイカ | ||
葉山舞鈴 | 相羽ういは | 雨森小夜 | ギルザレンIII世 | 郡道美玲 | ||
文野環 | 月ノ美兎 | 轟京子 | 鈴鹿詩子 | |||
狂気 |
「共通言語たるドメインモデルを、そのままコードと1対1対応しなければならない、という思い込みや風潮。
既存のWAF(Web Application Framework) の利点を潰してどうする…」
こういう誤った思い込みをエンジニアにさせているのは、ドメイン駆動設計の原典である「エリック・エヴァンスのドメイン駆動設計」が、いかに抽象的な内容で、ある意味では哲学的であったかを、明示するものでは無いか。
プログラムとはメタファーであり、現実を、もしくはそれに準ずる写像的な世界観を、コードに忠実に再現するものでは必ずしも無いと考える。この記事の増田は「過度な抽象化」とも書いているが、プログラムというか、そもそも言語そのものが物事の全てを表象できるものではなく、ある一側面の一イメージしか切り取れない不完全なものだし、それ自体が問題ではない。現実とソフトウェアの溝を、ユーザーとエンジニアの溝を、ドメインとソースコードの溝を、いかにして埋めるかというのが、ドメイン駆動設計の本質だし、その埋め方についてはエリックエバンスは一例を示しているに過ぎない。EntityやValueObjectなど、必要なら使えば良いし、不要なら使わなければ良いのだ。ただし、元々何が問題なのか、問題だったのかという点について、いかにして向き合うかが肝要であり、それは技術論や方法論の話ではない。
ドメイン駆動設計の記事を書いたり、勉強会で発表をしている人間は、原典やそれに付随するドキュメントの内容を、無批判に信奉し、そのようにしなければならないという強迫観念に追われているのではないか。そもそも、本当に理解しているか怪しいし、不安だから教科書の内容にしがみつこうとするのだろう。さらにこの手の連中は、昨今のCQRSやイベントソーシングやマイクロサービスなどとも絡めて話をし出すから、タチが悪い。「ドメイン駆動設計はこの手の技術スタックと相性が良い」という言葉を何度も見かけたが、技術的な方法論はそもそも無関係だったはずだし、そうやって安易に結びつけてしまうから、ユーザーが置き去りになって来たんじゃねーのと、暴言でも吐きたくなる。問題の本質はどこにあったのかを、聖典の内容や、流行り廃りの技術とは切り離して、エンジニアは三思九思すべきだ。
別にこうあらなければならないという法律や決まりは無いし、好きにやれば良い。モデルと1対1にならなければ、分割する事を選択するのも一つの向き合い方だ。ドメイン駆動設計の信者ににゃんにゃん写真でも撮られて、ばら撒くと脅迫されているのであれば勿論話は別だ。恥ずかしい写真を魚拓されたくなければ、とりあえずEntity、ValueObject、Repository、Service(笑)位は最低限、用意するのが身のためだろう。
自分の頭で考えて、自分の責任で判断するという当たり前の事に立ち返りたいものだ。ドメイン駆動設計という盲目的な宗教からいかにして抜け出すかが今後のエンジニアの課題だろう。
追伸
http://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2021031680068
米国の有力シンクタンクの一つ「戦略国際問題研究所(CSIS)」は15日、米国務長官と国防長官の来韓を前に取りまとめた「韓米同盟のための勧告事項」と題された報告書の中で「北朝鮮の人権問題は、米朝間のいかなる政治的な関係改善の過程においても必ず問題として取り上げねばならない」と指摘した。
トランプ政権でギクシャクした韓米同盟の活性化策を提案しているこの報告書は、CSISのジョン・ハムレ所長とハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が共同で作成した。ワシントンのある外交筋は「韓米同盟の復元に言及した有力シンクタンクの報告書に、北朝鮮の人権問題が取り上げられること自体が韓国政府にとっては痛い点だ」との見方を示した。韓国政府は2019年と20年に続き、今年も40カ国以上が参加した国連人権理事会の北朝鮮人権決議案の草案提出に参加しなかった。そのため「韓国は北朝鮮の人権問題から顔を背けている」との批判を受けている。
米国の元官僚らは韓国による一連の対応を過去に例のない強い言葉で非難している。エバンス・リビア元国務省東アジア太平洋担当首席副次官補は14日(現地時間)、米政府系放送ボイス・オブ・アメリカ(VOA)に出演し「北朝鮮の人権問題に対する韓国政府の立場は、率直に行って失望しているし恥ずかしい」と述べた。
先日まで韓国で大統領特別補佐官を務めていた世宗研究所の文正仁(ムン・ジョンイン)理事長が「人権問題が持ち上がれば北朝鮮との交渉が破綻するリスクが高い」と発言したことについては「北朝鮮住民にとって最悪のメッセージだ」と指摘した。
マイケル・グリーン元ホワイトハウス・アジア担当先任補佐官は「北朝鮮の人権問題に対する今の青瓦台(韓国大統領府)の対応について、歴史はこれを良くは評価しないだろう」と指摘した。ロバート・コーエン元米国務省人権担当副次官補は「韓国が共同提案国から抜けたことは、決議案の影響力と北朝鮮の人権じゅうりんの慣行に反対する国の結束を崩壊させる」と主張した。
VOAは「今年も韓国が共同提案国に加わらなかったことについては、失望や懸念を通り越して怒りに近い反応が出ている」「北朝鮮の人権政策に関する限り、米国の元政府関係者たちから『同盟国に配慮する外交的なレトリック』を聞くのは難しかった」と報じた。
これに先立ち国連のトマス・オヘア・キンタナ北朝鮮人権特別報告官は10日、国連人権理事会で韓国政府に対し「北朝鮮と交渉する際には人権問題を同時に取り扱うこと」「5年にわたり漂流している北朝鮮人権財団の設立をはじめとする北朝鮮人権法を施行すること」などを盛り込んだ8項目からなる勧告を発表した。北朝鮮の人権問題から顔を背けてきた韓国政府の職務怠慢に対し、国連として直接指摘した形だ。
このような中で韓国の保守系野党・国民の力に所属する金碩基(キム・ソッキ)議員、キム・ギヒョン議員、太永浩(テ・ヨンホ)議員、池成浩(チ・ソンホ)議員らはこの日、韓国統一部(省に相当)の李仁栄(イ・インヨン)長官と面会し、北朝鮮の人権問題から顔を背ける韓国政府の対応を問いただした。議員らは「文在寅政権は金正恩(キム・ジョンウン)兄妹の顔色をうかがい、北朝鮮住民の人権弾圧に目をつむっている」とした上で「北朝鮮人権決議案の共同提案国に参加し、北朝鮮人権法を正しく施行せよ」と要求した。
国連や米国など国際社会の懸念と批判は、「北朝鮮の人権問題に対する韓国政府の職務怠慢は深刻な状況に至っている」と判断したことがその根底にあるとみられる。
康京和(カン・ギョンファ)元外交部長官は「北朝鮮との交渉テーブルで人権問題を取り上げることは優先順位が低い」と発言したが、韓国政府は今もこのような立場を維持している。
外交関係者の間からは、「17日に来韓する米国のトニー・ブリンケン国務長官が北朝鮮の人権問題を取り上げる可能性」に注目する声が相次いでいる。国策研究所のある関係者は「北朝鮮の人権問題で韓米の足並みがそろわなければ、対北朝鮮政策の調整も難しくなるかもしれない」と懸念を示した。
※タイトルから察せる通り、以下はMCU作品群(特にエンドゲーム)の重大なネタバレを含むので、自己責任で読んでくれ。
まず始めに言っておくと、この記事は通りすがりの他人のクソデカ感情を吐き出すために書いたお気持ちブログであることを承知の上で読んでほしい。
暇でもなんでもいい、別に誰一人として読まれなくてもぜんぜん構わないけど、自分一人で抱えるには大きすぎる感情のジェットコースターを体験した私が気持ちを整理するためのもので、読み終わった後に胸くそ悪くなったとか、そんなどうでも良いことで喚くなとかいう苦情は受け付けてない。
私が私のために書く私の気持ちを整理するお気持ちブログだ。ここまでで、なんだコイツと思ったヤツは悪いが帰ってほしい。
まず始めに言うと、このたび2019/04/26(日本公開)の「アベンジャーズ エンドゲーム」は最高の映画だった。
私は前作「インフィニティー・ウォー」を劇場で見てから「エンドゲーム」が公開されるこの日を、ずっと待ち遠しにしてきた。と同時に、死刑宣告を言い渡される日だと思ってきた。
そこについての詳しい話しは後ほどとして、弊推しはキャプテン・アメリカだ。ここからは8割かれの話しになるので、それを念頭に置いて読んでほしい。
上映が始まり、私はすぐにこう思った。
最高だ。
キャプテン・アメリカのカットはかなり多い方だと言って良いし、何よりその美しい顔面が際立つシーンが多くて終始動悸が止まらなかった。
登場初っぱなの髭を剃り終わったシーンなんかは大変興奮した。鏡越しに送られる目線にゾクゾクした。青い瞳が堪らなく美しかった。
過去に跳んだ先で、「アメリカの尻」と揶揄され腰からのヒップラインがドアップになって私が失神しそうになったり、宿敵のフリをするために「Heil HYDRA」と言って見せたり(!)、タイミング悪く過去の自分VS.現在の自分の凄まじい戦闘を繰り広げたり。
最終決戦なんかムジョルニアを使って(持てたの!知ってた!!でも公式でやると思ってなかった!!)、盾とのコラボ技を披露して無双するシーンなんかもあって、私は終始死にそうだった。
公式で見られないだろうから、二次創作に期待していたアレやソレがすべて公式で起こった。
何を言っているかわからないだろうが私にも未だによくわからない。公式が最大手だった。
上映中、頭に過ぎるのは命日の二文字だけで、あまりの怒濤の展開に呆然とスクリーンを見守るしかなかった。
こんなにも美しくもたくましい推しの姿をこんな大画面で見てしまって良いんだろうか。私は明日死ぬんじゃないだろうか。
決戦が終わったとき、私は本当にそう思ってたし、うぉーがしびってあれこれの解消し切れてない部分も、これなら許せそうだと思った。
あまりにも美しい終わりに涙すら出そうになった。
そう思ったこの瞬間の私をぶん殴ってやりたい。
私の地獄は、このおおよそ2時間半が終わり、あとはちょっとしたエピローグと、長い長いエンドロールだけだろうというタイミングで始まった。
彼は“キャプテン・アメリカ”の仕事として最後の後始末を受け持った。それはインフィニティー・ストーンを過去へ戻す仕事だ。
なるほど、それは重要だな。
このときまだ、呑気にも私はそう思っていた。今すぐそこで見るのを辞めろ。
しかし、装置を作動させても彼は戻ってこない。訝しんで、彼を見つけて。
彼は年老いて戻ってきていた。近くのベンチに座って。だから帰還に気付かなかった。
「もう自分の人生を歩んでも良いんじゃないかと思った」彼がそういった。
目の前が真っ暗になった。
自分の人生を歩むこと自体が悪いことではない。それは私が何処かで迎える彼のハッピーエンドだと思っていたから。
しかし、そうじゃない。そうじゃないんだ。
“自分の人生を歩む”と言っていいのは、戻ってきて、この先の未来を生きての話しではないのか?
なんで?
どうして?
彼が過去をやり直して戻ったと言うことは、“キャプテン・アメリカ”として行った任務を、石を返した時点で完遂したと自己判断し放棄して、過去を改竄して戻ってきたということだ。
MCUが何処までマルチバースを採用していて、タイムトラベルによる世界の分岐やパラレルワールドを取り扱っているのかはわからない。
あの正規の世界線の歴史が変わったわけではないのかも知れない。
それでも、だ。
吐き気すらも覚えた。
散々、タイムトラベルで過去を変えるコトは禁忌であるという下地を本作で作った上での、コレ。
キャプテン・アメリカというキャラクターを馬鹿にされているのかと思った。
頑固で考え方が古いかも知れないが、高潔なる精神の持ち主ではなかったのか。
自分が幸せになるために歴史を書き換えるような、そんな軽率な人間であったのか?
彼の信念は何処に行ってしまったんだろう? 呆然としてしまった。
私の知識はまだまだ浅い方だ。アメコミという沼はあまりに深すぎて年浅い私にはまだまだ知らないことの方が多いだろう。
それでも、複数の媒体から感じ取った「キャプテン・アメリカ」の信念と、今回の彼の行動はあまりにかけ離れていたと思う。
彼は、犠牲を尊んで、彼らのためにも前を向いて歩くタイプの人間ではなかったのか?
今までのMCUでの彼の扱いは、キャラ解釈の違いで殺されるかと思ったシーンが幾度もあった。(それもすべてエンドゲームの監督の作品だ)
それもコレも今日で終わりだと思った。そのはずだった。「シビル・ウォー」からずっと抱えてきたモヤモヤが解放されると思っていた。
まさか最後の最後で私が彼を好きになった信念そのものをたたき折られるとは思ってなかった。
この事実を認識した途端に、私は堪らなくトニー・スタークに嫉妬した。
怒りを感じたと言っても良い。但しこちらは、制作陣に対して、だが。
確かにトニーの最後は、ハッピーエンドではなかったかもしれない。
それでも、彼は誰にも害のない形で己の幸せを享受した上で、自己の“ヒーローである信念”を貫き通して死んだのだ。
誰にも疑いようのない唯一無二の英雄となったのだ。
それに比べて、彼は、スティーブは?
制作陣の都合で言いように改変を繰り返されて、彼のズタズタになった信念を、きっとこの最後で修復してくれるんだと思った。
そうじゃなかった。作品を丸く収めるために良いように使われただけだった。何一つ変わらないどころか、より最悪の形で悪化した。
彼だけではない、ソーだって、前三作で作られてきた彼をすべて壊して何事もなかったように進んだ。
スティーブよりは違和感は少なかったかも知れないが、何故このタイミングで、と言う気持ちが拭えなかった。
ツイッターでは英雄が一般人となって自己の幸せを歩んだ作品だとか、脱マッチョイズムだとか言われてたけど。
だからなんだ?
それって既存のキャラクターの基盤をぶち壊しにしてまで展開してイイモノなのか? しなければいけないものなのか?
仮にやるとしてもこの集大成とも言える全員揃う映画でやるべきコトではないんじゃないだろうか。
本当に、今も怒りで視界が赤くなる。
この映画は巨大なトニー・スターク賛美のための墓場となったのだ。
トニー・スタークを恨むモノは誰もいない。
これほどまでにキャラクターを理解され、制作陣に愛されていた。
本当に本当に妬みで爆発しそうなほどだった。
それなのにトニー派の連中はスティーブを薄情者だといって責める。
スティーブの劇中での言動は推しの私でもフォロー仕切れないところがある(だからといって全面的にトニーを擁護も全く出来ないが)。
だからそれ自体は、特に訂正しようとか思わない。どんな思惑に巻き込まれて信念がたたき折られたとしても、それは“現実”(そと)のはなしであって、“MCUの世界”(なか)には関係ないはなしだから。
それはまるっと彼の罪なのだ。
それでも。
心底羨ましいよ。
脳の神経がすり切れそうなほど羨ましい。
なんで、彼ら彼女らはこんなにも恵まれていて、私はこんなにも苦しんでいるんだろう。
私は作中に責めることの出来る人間などいない。あえて言うならキャプテン・アメリカ本人だが、自分の推しを悪意的に見るほど苦痛なことなどない。
悪人が悪人である所以を好きになったというなら、また話しは違うだろうが、生憎私が好きになったのはヒーローの彼なのだ。
多少の欠点の他に、悪意的に捉えられるところなど、少ないはずなんだ、本来なら。
「エンドゲーム」を見てから、一晩経った今でもずっと脳内をこの言葉が占めている。
私に過去に戻る力があるなら今からでも「ウィンター・ソルジャー」の撮影まで戻ってあの監督を始末してしまいたい。
彼の、キャプテン・アメリカのこのエンディングは、「エンドゲーム」で一区切り(実際は次作スパイダーマンで区切りだが)着くMCUという作品群を丸く収め、また次のフェーズ4に繋げるためには必要で、全体的に見れば“正解”であり、納得のいくモノだったのかも知れない。他人様の感想を読んでいて、そういう気持ちに全く為らないという訳ではない。
でも、理解が出来たからといって、納得が出来るからといって、許容できる訳ではないのだ。
だって彼は、すべての人を置き去りにして、己の幸せに走ったあの男は、もはやヒーローではないのだから。
それは、私の好きになった彼ではないのだ。
信念を貫くことを辞めた人間は、大体にしてこう言われる。
「昔とは別人だ」
MCUの世界では彼にそうなる資格があると思っている人間が多かった。だからこそ中の世界では受け入れられたんだろうが、確かに人は変わってしまっているのだ。
別人なのだ。
私はそれが受け入れられない。
ヒーローを辞めた彼には、もうムジョルニアを持つ資格はないだろう。
だからこその二代目、なのかもしれないが。
今一度言うが、私の推しはキャプテン・アメリカだ。
そもそものMARVEL作品を見始めた切っ掛けとして、彼の単独シリーズの第一作「キャプテン・アメリカ ザ・ファースト アベンジャー」を見て、彼に一目惚れしたからだ。
そんな私の推しの彼を演じるクリス・エバンスは「エンドゲーム」を最後にMCUから卒業すると宣言していた。冒頭でこの日が死刑宣告の日だと言ったのは、そういう理由だ。
もう二度と推しを見ることは出来ないのだから、私は死ぬんだと思っていた。
だけど、違った。死んだのは私ではなかった。
死んだのはキャプテン・アメリカの信念だ。
巨大なトニー・スタークの墓場の奥深く下に虐げられ、無残にもうち捨てられた彼の正義が崩れ去った日となってしまったのだ。
キャプテン・アメリカの信念はすでに散々あのクソ監督兄弟に改変されまくって、ボロボロで、もう雀の涙ほどだったけど。
それでもわたしはかれらしいさいごをのぞんでいた。
一生消えないだろう傷を負った。
それなのに周りには「エンドゲーム」を賞賛する声しか聞こえてこない。
私にとっては、それこそが何よりの“彼が死んだ証明”だった。
私の推しの新作がもう来ることはない。
この先、カメオで出演するとしても、マルチバースの信念の折れてない彼でもない限りはそれは彼ではない。
この記事を投稿することによって私はキャプテン・アメリカの、スティーブ・ロジャースの死した信念への手向けとする。
最初に断わっておくと、乙女JAZZって呼び方はおれが勝手にそう呼んでるだけで、一般的ではないです。
で、ここでいう "乙女" がなにを指しているかというと、「聴いていると胸を押さえてうずくまりたくなる」感覚を指します。
おっさんの乙女心なんてキモいだけじゃ!って話ではありますが、まあ、そこらへんは深く追求しない方向で。
Bill Evans - MASH Theme (Suicide is Painless)_
https://www.youtube.com/watch?v=CS71hU5Xsxk
現代ジャズピアノの道を大きく広げた一人であることに異論はないであろうエバンス。
上に挙げた曲では、イントロからドラム/ベースが入ってくるところとか、テーマから抜けるところで、胸を握られる感じがします。ドラマチックでわりと大味なテーマから、リリカルなフレーズに抜ける部分がどれも秀逸。緩急の波があって、甘ったるいだけではないところなんかも素晴らしいのではないかと。
この曲が入ってるアルバム You Must Believe in Spring は個人的には好きです。
Enrico Pieranunzi & Marc Johnson - Islas
https://www.youtube.com/watch?v=Xo8bJToO8Es
たぶん、一番知られているのは Play Morricone かなと思うのですが、個人的におすすめしたいのはマークジョンソンとのデュオである Transnoche です。これは最初から最後まで胸を締め付けられっぱなしです。上に挙げた曲もこのアルバムから。
ピラヌンツィは一度見たことがあるのですが、すんごいマッチョなピアノを弾いていてビビりました。「え?キャラちがくね?」という。でも、改めてアルバムを聴いてみると、タッチはかなりカッチリしていて、速いフレーズでもあいまいさはないんですよね。実は。。
Marcin Wasilewski trio - Hyperballad
https://www.youtube.com/watch?v=nwZazYKOeqo
ecm の現エース。なのか?わかりませんが、マルチンボシレフスキです。
ビョークのカバーです。もちろん元曲が良いというのもありますが、アレンジも秀逸です。サビがもう。おれの胸は壊れそうです。
この曲が入っているのは ecm での 2nd ですが、ecm からの 1st ではプリンスなんかカバーしてて、そちらも良いです。ecm 以前の作品もありますが、入手性が悪く(おれが買おうとしたころの話。今は違うかも。)、苦労して手に入れた割にイマイチな印象。なので個人的には ecm に移ってからが好きです。
わりとのっぺりとしたプレイスタイルですが、それが"引き"の強さにつながっていると思います。
Ketil Bjornstad - The Sorrow in her eyes
https://www.youtube.com/watch?v=SPNZseT8Ihk
個人的に最も聞いたのがこの曲が入っている Floating というアルバムなんですが、多作でいろんなことをやる人なので、興味があれば掘ると非常に面白い人です。
上に挙げた曲は、ジャズジャズしいジャズと比べると、もう少しダイレクトなメジャー/マイナー感があり、クラシックぽいなあと思わせる要素が見られます。ケティルはそうした要素をかなり高度に消化しており、明るさを増すところ、暗さを増すところ、それぞれ胸に迫るものがあります。
https://www.youtube.com/watch?v=jL9zmiz3Glw
個人的には、今生きているピアニストで最も好きな人かもなフレッドハーシュ。
いろんな人とやるし、いろいろなことをやる人ですが、常に自身のピアニズムを強く維持しているように見えます。
どんなタイプの曲でも、ある方向だけに傾倒していかない強いバランス感覚があるというか、考え抜かれていると言うか。。
ライブ見る機会がありましたが、ソロの一番良いところでサステインペダルを踏んでコード弾きとか、もう、「殺す気か!?」ってぐらい刺さった記憶がいまでも生々しくよみがえります。
おススメは Alone at the Vanguard なんかが順当なところでしょうが、個人的に Julian Lage とのデュオ Free Flying なども挙げたいところ(乙女分は少ないので、乙女分を求める向きには Alone~がおすすめ。)。