はてなキーワード: 漠然とは
妻と別れたいと思っている。
結婚する前は、ちょっとしたすれ違いはお互いに寄り添うもの、と自分は勝手に考えていた。
しかし現実は違い、妻は一切折れず、自分が常に折れるようになってしまった。
怖いのは、妻はこれを無意識に、あるいは自覚的に行っているところである。
聞かなければなかったのと一緒、とでも思っているのだろうか。
あるいは何も思っていないのだろうか。
結婚した当初は、
妻と本気で向き合いたいと思い、
妻はそれをのらりくらりと避けた。
次の日にはなかったことになっている。
それが何度も続き、自分は妻と向き合うことをやめた。
妻と一緒にいると、
それとも妻がずれているのか、
わからなくなってくる。
これから妻と一生一緒にいるのは、
おそらく無理だなと感じている自分がいる。
その意味で、一番の失敗は、
すれ違いがあるとはいえ、
年齢的にもそろそろというところではあったので、
少ない機会で見事に授かった。
子のことは夫婦共々とても愛している。
ただ、だからこそ、
おそらく今後は子のことでも揉めるのであろう。
それとも一生この生活を送るのだろうか。
もし運良く妻と別れることができたとして、
子供はどうするのだろうか。
わからない。
オタク文化の源流を辿る議論が始まってしまってるけど、シベールとかの話は「美少女」の発明の話で「萌え絵」の話とは違うよなと思った
そもそも萌え絵ってなんだよ、誰が定義したんだよという話なのだが(「美少女」のほうは議論がたくさんあるから今さら新規の説は立てようがない)
まず現代、萌え絵ってなんだろうというと、人目につくとこに掲示される絵で判断するのが一番で、「コンビニで売ってる雑誌の表紙」と「パチンコ屋の店頭看板やのぼり旗」がもっとも判断に適している気がする。これらはオタクもオタクじゃない人も誰もが目にするからだ。
・パチンコ海物語……昔に比べるとだいぶ寄せてる気はするが、まだ萌え絵には至ってない
・せがわまさき……これは人によって判断が分かれる気がする。劇画認定する人がおそらく多数派だろうが、石川賢の記憶がある人からすれば萌え絵認定されそう
・まどかマギカ……萌え絵認定に異論を唱える人はあまりいないと思われる。が、よくネット炎上の槍玉に挙げられるタイプの「萌え絵」とはまるきり別系統でもある
・エウレカ……たぶん萌え絵認定なんだろう。なんだろうけど吉田健一の系統って萌え絵なのか?
・エヴァ……たぶん全員一致で萌え絵認定されるのはこれだけではってぐらい共通認識。ただ貞本義行の顔ってかなり古典的な部類であり、「量産される深夜アニメ」「量産されるエロ同人誌」とはまるきり別系統
・ツインエンジェル……シンフォギアとは別系統で萌え絵分類の代表例か。いわゆる「アニメ絵=美少女絵=萌え絵」という認識にピッタリとはまりそう
・攻殻機動隊……押井守アニメの印象が強すぎてハードなイメージがあるが、少佐は劇画じゃなく萌え絵分類だと思う
……こんな感じだろうか。並べただけである
で。並べてて思ったのだが、初代マクロスの美樹本絵は「萌え絵」になるのだろうか
美樹本晴彦というと「美少女」の代名詞だが萌え絵と言われると違和感が強い。似たような例だと、あだち充も「美少女」の代名詞だが萌え絵とは言いづらい。
おそらく、美樹本・あだち系美少女が入ってこないのが、自分の認定する萌え絵を、往年の美少女絵につながるものと考えにくい大きな理由だ。
じゃあ他には?
わからなかった。
ということで別アプローチを考えてみる
日本国内で「萌え絵」が一般に認知されたのは圧倒的にパチンコパワー(およびソシャゲのTVCM)だと思うが、マンガでいうと、ガンガンが分水嶺という気がする
ガンガン以前は、すこしづつ勢力を増していても、表にでてくる量としては意図的に抑えられていた感じがある。ジャンプでいうと本誌の「そういう枠」はウイングマンやバスタードや黒岩よしひろあたりという認識。なおオレンジロードは「美少女」ではあっても現代の萌え絵系統とは別枠だと思う
週刊誌と月刊誌でなんとなく棲み分けされてもいて、月刊誌枠は「そういう絵柄」が多少は許容されてるイメージ。増刊サンデーが当時のオタク少年御用達といった
で、「オタク少年向け」枠に少年キャプテンやコミックコンプが参入して少しづつ売り場面積が増えていったが、「そっち系の絵柄」でメジャー制覇したのはガンガンだろう
ではガンガンは「美少女」で成功したのか? というと、それは違う感じがある
それまでロリコンブーム以降の同人誌の盛り上がりやマイナー誌での蓄積を整理、洗練された上で、「黒岩よしひろとかああいう感じの絵ばっかりの雑誌」が美少女じゃない路線で成功したということだと思う
そうすると、「ガンガン」の時点で、いったん「美少女」は途切れてしまっている。実際、年齢層的にも、それまでのキャプテンや増刊サンデーの世代より下の世代向けで成功したのだろうし
「萌え絵」といって、世間的に「なんかオタクっぽい絵」というとき、ガンガンに代表される絵でしょ、というイメージが、自分の中にはある
そうなるとそれは「美少女」とはちょっと違う。世代がある程度まで一新した上で、改めて、既にある美少女概念が借り物として再導入されたと見るべきじゃないのか
その際には当然、以前からの「美少女」も参照にされているが、そこは一直線で見るべきではない気がする。たとえば、あだち充的な美少女はそこにはいなかったように
同人作家が既に年商で千万とか億とかいわしてたのを背景に、そこから作家を連れてきて成立してたわけだし
だいぶ迷走してきた
うーん
///
反応ありがとう。ちょこちょこ読んでるけど消化しきれてないので返事はごめん
読めばわかると思うけど、「萌え絵はいまひとつ曖昧な使い方にしかならない気がするんだけど、しかし自分でも漠然とはイメージがあるし、とりあえず自分内の定義を探してみっか」という話です
ひとつだけ反応すると
>ガンガンの具体的にどれ?
特定のどれかって感じじゃないですね
いかにもそれです、って探すというと夜麻みゆきとかがいかにもそれっぽいんだけど、そこに限った話でなく
それまでの少年マンガ誌ぽくなさの一方でやっぱ少年マンガ誌ぽさはある、という感覚
去年ぐらいから丁寧な生活を始めた。もともと生活習慣は良くなかったのだけど、在宅勤務の影響で終わった生活を送るようになってから自律神経が乱れに乱れた。
勤務時間の直前に起きてそのまま机に向かう。空腹を感じたらuber系のサービスでマックとか特盛の牛丼とかを食べて血糖値を爆上げする。これを3回繰り返す。
勤務時間が終わればそのままゲームしたりyoutubeみたり彼女と通話したりする。もちろん残業することもあった。その時もう一回uberで小腹を満たす。
夜遅くまで起きて、以上の事を繰り返す。睡眠時間は5~6時間くらい。
そういう生活を1年くらい送っていたらブクブク太っていき、胸焼けや不眠などの不調が出始め、これはまずいと思い生活習慣を変えることを決意した。
朝は早めに起きてヨーグルトとか納豆とかを食べる。朝日を浴びながら30分くらい散歩をする。帰ってきたら軽く掃除したり手軽な家事をする。
頭が冴えた状態で仕事を始め、昼食は鶏むね肉を茹でたものと野菜サラダ。最近はドレッシングも自分で作るようになった。
炭水化物を急激にとらないので眠くなりにくく、眠気と戦う労力がごっそりと減る。
勤務時間が終わればもう一度掃除や家事を行う。晩御飯は少し手の混んだ自炊をする。レパートリーが増えてきて嬉しい。
そしてジムで筋トレをしあとは、 ゲームしたりyoutubeみたりして過ごす。睡眠の一時間前になるとモニターを見るのをやめ、本読んだり彼女と通話したりする。
他にも友人と積極的に会話するようにしたとか塩分をなるだけ控えるようにしたとか、細かな工夫は色々ある。
その結果体重は在宅勤務前の体重よりも下になったし、色々あった不調は収まったり軽減されたりした。
ここからが本題なんだけど、丁寧な生活を始めてしばらくしてから結婚をしたいという意欲が一切なくなった。何なら結婚したくないとさえ思うようになった。
昔は明確に結婚したいという意思があったし、彼女とはコロナが収まってからタイミングの良い時に結婚したいねとも話していた。
今はその気持ちが一切なくて、何のために結婚をするのかよく分からない状態にいる。
自分にとって結婚は未熟な自分が一人前の人間になるための物という認識だった。
ところが自分で自分を満足させられるという経験をしたことで、結婚に何かを求める必要がなくなった。
漠然とした欠乏感や不安感が取り払われたおかげで現状に非常に満足している感じ。
それ自体は好ましいのだけれど、彼女の方はバリバリ結婚する気なのが問題。
彼女は最近外堀を頑張って埋めているらしく、母親から「あんないい子絶対に逃しちゃだめだからね」みたいなLINEが来たりする。
こういうのも以前は何とも思わなかったんだけど今となってはひたすら重荷でしかない。
結婚する意欲が無くなるだけでなくそれ自体を忌避するようになったのは、結婚という文化には性別による役割を押し付ける側面があるからだと思う。
例えば彼女は俺がプロポーズをすることを熱望している。片膝ついて箱パカされるのが夢らしく、某イケメン俳優がプロポーズした話を少なくとも3回はされた。
でも俺からすると「なんでそんなことしなきゃいけないの?」って感じで、一方的にプロポーズを要求されても困る。
また男女平等が進んだと言っても、何だかんだで女性は男性が経済的な負担を負うことを求めているのでそれも結構憂鬱。
プロポーズとか養うとか、そういう「男性」を押し付けてくる結婚という文化が嫌で仕方がない。
せっかく丁寧な生活で自分の生活を楽しめるようになったのに、「男性」をやらなければいけないのつらすぎる。
彼女は子供も望んでいるので、分かれるとしたら早めに別れたほうがいいんだろうけど別れを切り出すタイミングが分からない。
クリスマス間近のこの時期に別れを切り出すと揉めるのは確実だし、周囲の人間や親からも顰蹙を買うだろう。
かといって彼女のプロポーズの圧を耐えながらクリスマスを過ごすのも気が重い。プロポーズ無かったら絶対に不機嫌になるじゃん...
働けば働くほど自分のいいところなんか何にもないなと思ってしまいひどく辛い
明日も会社に行きたくなくて仕事のことを考えていたら全然眠れなくなってしまった
みんなどうやって割り切ってるんだろう
あ〜働きたくない、みたいな漠然とした嫌悪感じゃなくて、仕事の何もかもが嫌
休みに勉強しようとかの気持ちが起きてこない、仕事だけじゃない、何にも頑張れない
休みにゲームしようかなと思っててもベッドから起き上がるのがしんどくて、
結局夜になって今日一食もご飯食べてないのは良くないと思ってコンビニ行くだけで精一杯だ
結局きょうもPS4起動できなかったし、家事も何にもできなかった
なんでこうなんだろう なんで頑張れないんだろうな
嫌になってベッドでずっと寝てるだけなの、何してるんだろうと思うけど起きてるのがしんどくて寝てしまう
寝たいわけじゃないんだよ、でも寝てないと辛くて、それを説明できない
休みのうち半分くらいただ寝ている
たまに遠出するのはなんとか出かけられるから、鬱じゃなくてワガママなだけ
でも、出かけて人と会うと、その振る舞いの全てが不愉快だったなみたいになって、
帰ってくると楽しくない思い出になってて、つらくてまた寝てしまう
そしてそういう気持ちで寝るから悪夢ですぐに起きるし、寝付かれない
少ないお小遣いで何買って読もうかなってしばらく考えた。来月の二日に『その花の名を知らず』(長野まゆみ)が発売されるというので、もう何も買わずに来月末まで待って、またお給料が出たら我慢して貯めた千円に新たなお小遣いの千円をプラスして買おうかなと思ったけど、やっぱり後回しにすることにした。なお、『その花の名を知らず』は『左近の桜』シリーズの第四弾である。二年くらい連載されていたらしいので、1冊で二巻ぶんあるはず。
ついでだから、最近読んだ訳ではないが『左近の桜』を紹介しておこう。
左近桜蔵(さこん さくら)は、武蔵野のとある旅館の女将の息子である。彼の家の生業は、実は男性専用の連れ込み宿だ。
ある日の夕方、桜蔵は番頭の代わりに客を迎えに出て、間違えてこの世ならざる者を拾って来てしまった。その一件以来、桜蔵はしばしば謎の引寄せ体質により、亡霊を拾って来るようになる。そんな桜蔵のことを父の柾(まさき)はそれはお前が「女」だからだと言うのだが……。
舞台は現代の東京ながら、江戸情緒の僅かに残る世界観。主人公の桜蔵が己の変わった体質により事件に巻き込まれ、毎度「アッー!」なことになる、短編連作集。また、桜蔵の出生の秘密を解くミステリー要素ありいの、桜蔵と父柾とのBL要素ありいの、読み応えがあるシリーズ作品だ。
個人的に気になるのは柾×桜蔵あるいは柾←桜蔵のほんのりBLがこれからどうなっていくかだなぁ。柾に対する桜蔵の思いはうっすら恋情もありつつ父への慕情とか憧れ。作中時間が経つごとに着々と老いていく柾と成長していく桜蔵。いずれ桜蔵が父を超えていく父子相剋物語になるのか、それとも桜蔵が成熟した「女」となって柾に抱かれるかなんかするのかっていう。
柾と桜蔵の本当の父親がどういう関係だったのか、過去の話もいつか明かされるのか、たのしみ。
さて、結局『その花の名を知らず』を買うのを見送って買ったBL……というか、非BLはこれ↓
脚本家の蓮野は仕事が忙しくなり、ただでさえ苦手な家事が回らなくなってしまった。そこで、前からちょっと気になっていた後輩の日暮を呼び出し、家事手伝いのバイトを頼むことにした。
苦もなく家事をこなし、頼めば一緒にご飯も食べてくれる日暮に対し、蓮野は感謝以上のなんとも形容しがたい思いをつのらせていき、やがて日々を日暮のことばかり考えてしまうようになる。
前におすすめされてpixivで読めるぶんだけ読んだんだけど、一巻まとめて読んで、すごいなと思った。
何がすごいって、四コマ形式のコマ割で描かれていること。一ページ8コマの配分なんだけれども、ちゃんと四コマごとに軽くオチのようなものがついているというか、そこで一区切りがついているということ。四コマをはみ出して半端なコマ数で一旦途切れるということがない。そして、8コマぶんで一回り大きな一区切りだし、数ページで「1話」として綺麗に完結している。そして1冊の漫画として綺麗に終わっている。(全2巻らしいんだけどね。)
す、すごい……作者は四コマを描くために生まれた、四コマの神なのか? BLとしてどうこうという以前に漫画が上手すぎてこわい。絵も可愛いしなぁ……あぁ、すごい……。
作者自ら本作を「BL」と明言しており、編集部もBLとして売り出したようなのだが、本作は某BLレビューサイトには「非BL」作品に分類されている。何故なのかというと、単にBLレーベルの作品ではないからだと思う。だが、レビューを見てみると、本作が「非BL」に分類される理由はレーベルの問題以外にもあると思う読者もいるのがわかる。
実は商業BLにはけっこう厳しめのルールがあって、それを満たさないものをBLとは見なさないようなのだ。私の知っている限りでは、以下のルールがあるっぽい。
そんな感じなので、セックスどころかキスもハグもしない『日々、君』はBLではないと言われてしまう訳だ。けれども、恋愛になりそうでならない感じでもだもだしつつ、着実に互いの距離感を縮めていく描写は、恋愛ものの基本かつ根幹って感じがするよなぁ。
なお、上記で紹介した『左近の桜』もレーベルの問題で非BLなんだけど、亡霊達×桜蔵という、桜蔵総受けBL状態でありながら本命のカプと見なされる柾×桜蔵はずっとノータッチ状態なのがまた非BLとされる一要素かもしれない。
はぁ……、商業BL(とそのファン)って面倒臭いな。以下、BL雑記。
商業BLにはルールがあるが、個人で書いているぶんにはそこまで厳格にこれはBLだがあれはBLではないとかやらなくていいはずだ。
ところが、Web投稿サイトに投稿するとなれば話が微妙になってくる。中にはBLガチ勢字書きや商業で食っていきたいセミプロBL書きとかも混ざっている。読み手にしても、漠然とBLっていうのは男同士でヤってればいいんでしょと思ってるだけの人から、商業BL同等の物を読みたい人もいる。
私個人の感覚では、BLを書いて投稿サイトに投稿し、多くの人に読まれたいと思ったら、商業BLのルールに則った物を書くのが無難なのかなって感じる。人類の半分が女だからって登場人物の半数が女だったりとか、攻めが浮気しまくりとか、カプ離別バッドエンドとかは書かない方がいいんじゃないかと……。ただ無視されるだけならまだしも、「それはBLではないです」って苦情が来たらつらいし。
じゃあ、そんなBLルールは窮屈だからってBLタグを外して「ヒューマンドラマ」だの「サスペンス」「学園ドラマ」etcのタグだけ着けて投稿すれば、後から親切な読者に「BL」タグを追加されるとか、「腐媚びキメェ」と苦情が来るかもしれない……。なまじっか面白い物を書いてしまった場合、BLと明記しなければ人はそれを一般向けとして読む……ばかりか、何となく「男性向け」に近いものと読んでしまい、後から「なんだよ女向けじゃねえかよ」とか「もっと男が喜ぶようなこと書けよ」って苦情も来るかもしれない。
……とかいう話を、最近、とあるBL字書きコミュニティで話し合ったのだった。BLというジャンルがあるせいで、BLではない男×男の作品って行き場がなくない? と。
で、どうする? って話で。対話の相手は、そんなら仕方ないから腐女子から顰蹙買ってもいいからBLと言い張って書くよ、とのこと。一般向けと見られて、もっと人気を出すために男向けの表現……たとえば従順で可愛い巨乳の女を書くくらいなら、生意気で男の言うことをきかない女の登場する「BL」を書きたい、と。なるほど。
プロの世界なら、純文学とかエンタメ系という性別どっち向けとかないジャンルで書いていけるけど、Webの素人小説書きはどっち着かずではやっていけないんだよね……という話。
それとは別に、私が思うBLの不自由で厄介だと思う点は、BLは男同士の関係が恋愛に帰結するということ。虐待も執念も「愛ゆえ」ということになってしまうので、へたに男→男の性犯罪からの復讐譚みたいなものを書いてしまって、それをBLとしてWebに投稿しちゃったりすると、暴力描写が「癖」とみなされ一部の読者がたいそう喜ぶ……かもしれない。というのは、よろしくないよなぁと思う。たとえば殺意は殺意なのだが、BLマジックがかかると恋情や愛情になってしまう。という歪さかげんにむずむずする時がある。
清廉なこころのあり方と幻想的な描写、というイメージで語られることが多い作家だと思うが、まだあまり作品を読んだことがない人で、このぐらいの理解でいたら、損をしていると言いたい。
宮沢賢治の良さは他にも、観察眼を突き詰めると対象への愛情とともに冷徹さを伴う好例のような、少し寒気がするほど容赦のない描写や、人を食っているとしか思えない異様な会話劇があって、これはサンドウィッチマンの文字起こしされた漫才を読んでいるのと同じくらい笑える。みんな読んだらいいと思う(『気のいい火山弾』『毒もみのすきな署長さん』がおすすめ)。
…
さて『ツェねずみ』だ。
これも宮沢賢治の短編で、ある種の人間とそれが引き起こす不幸のことを、他の文芸作品では触れた経験がないぐらい明らかにしており、衝撃だった。
…
ツェねずみは要領が悪い一方で欲が深く、性格がねじ曲がっているので、誰かから親切を受けても、「もっと自分のためになるように優しくすることもできたのに、それを怠った」という考え方をするため、みんなから死ぬほど嫌われていた。
本来なら恩を受けた時点でプラス(という表現もアレだが)のはずが、工夫次第でもっとプラスにできたはずのことを、そうしなかったので実質マイナス、というのがツェねずみのロジックだ。
ツェねずみが自分の理屈をどう考えているのかは書かれていない。
宮沢賢治がここに意識的に言及していないのかはわからないが、明示されていないことが実に効果的だと思う。俺は、「最初は自分でもムチャな理屈だと思っていたが、言い続けているうちに世の中がこれで渡れることがわかったので、次第に正気を失ってきた」と読む。
…
そんな中で、唯一ツェねずみに優しく接するものがいた。「鼠捕り機」だ。
宮沢賢治の作品では、物体でも機械でも平気で人格を持って話し始めてしまう。木の柱だとかバケツだとか、そういうものだ。
他の物体がツェねずみに嫌気がさして付き合いをやめていく中、鼠捕り機だけはツェねずみと仲良くしようとする。
その理由は、鼠捕り機が(宮沢賢治の時代でさえ)人間社会にはもう不要、という扱いになっており、邪魔者とみなされていたので、鼠捕り機も他に親しく付き合える相手がいなかったからだ。
鼠捕り機は自分に仕掛けられた魚の頭やハンペンを、あえて罠の扉を閉めないことで、ツェねずみと交流を持つ。本来的には殺される者と殺す者という構造であったはずが、ねずみの強欲(と狂気)、鼠捕り機の孤独によって、いびつな友好が成立する。
…
悲劇は、ツェねずみの尊大さに制限がかからなかったこと、そして、鼠捕り機の忍耐が特別優れていたわけではなく、通常の寛大さしかもたなかったことで生まれる。
ツェねずみは、相手が機械の本分を放棄して食べ物を与えてくれているという、ある種の奇跡が自分に起きていることに気づかない。この幸運をどん欲に消費し、さらに良い物を鼠捕り機に求める。相手をののしることさえする。
あるとき、鼠捕り機はののしられて一瞬われを忘れ、罠の扉をおろしてしまう。ツェねずみは閉じ込められ、お互いは本来の、殺される者と殺す者の関係に戻る。
…
鼠を殺さない鼠捕り機、という存在は非常に奇妙だ。まともに生きにくい変わり者であると同時に、現代社会風で言えば「意識が高い」「キャラクターが立っている」という考え方も、できなくはない。
ただ、自分が変わっていることを自覚して、それを生きる上での背骨にしてやっていこうとすると破滅が起きる。
変わり者は、自分が変人だと知ると、まるでこれが一種の才能と考えたくなりがちだが(個性が重視されるはずの現代ではなおさら?)、実際は関係がない。世の中的には本当はなんの意味もないことだ。
なので、「変わり者として生きていこう」という目標は基本的に破綻するさだめにある。
社会からは、なんでもいいから普通にやってくれ、と要求されるし、より強大な理由としては、変わり者自身の中にもちゃんと「普通」の部分があるからだ(鼠捕り機でいう罠としての本分)。
社会と自らの内側の本性によって、人間は結局、まともに生きていかざるを得ない。鼠捕り機でいえば、優しかろうが意識が高かろうが、罠は罠らしく獲物を殺して生きていくしかない、ということだ。
…
対象が親しい人間でも漠然とした世の中全体でもいいが、基本的に自我というのは、幸運をあり得ないものとして感謝するのをおこたりがちで、むしろそれを平時のベースとして、さらに豊かなものを求めようとする。
要求する相手が生身の人間だろうと、社会という概念だろうと、いずれにしてもこんなことはいつまでも続かないので、いつか破綻を迎える。
自分の望むものが度を過ぎていたので客観的には不幸でもなんでもないが、こういう「幸福を幸福として認識できないバグ」が心理に埋め込まれていることが、別の意味で「不幸」ではあるかもしれない。
…
おそろしいような気がすることとして、ねずみと鼠捕り機のカップリングは、ある種の人間関係として、友人・恋人・家族同士の間で、思いのほかこの世で多く起きているような気がする。
たぶん社会のあちこちで、「自分には特別な才能があるから少し変わった生き方でもやっていけるし、罠としての本分を超克して目の前のねずみと生きていける」と錯覚した鼠捕り機と、「まあこれぐらいは相手に要求しても飲むだろう」と思い込んだねずみが、ある日双方のブレーキとアクセルをぶっ壊して悲劇を生んでいる。
また、俺が自分で感じたように、一人の人間の中にも、ねずみと鼠捕り機の両方が住んで同居している場合がある。宮沢賢治の『ツェねずみ』を、俺は『気のいい火山弾』と同じでサンドウィッチマンとか千鳥の漫才の台本とおなじくらいのつもりで読み始めたが、人間の本性と世界との関わり方の運命的な破滅についておそろしく冷徹に書かれていて感嘆した。すげえと思う。
…
難しいのはねずみと鼠捕り機の関係で、鼠捕り機は自分の忍耐が切れて相手をとって食ってしまう前に相手から距離を置いた方がいいと思うが、人間という存在の希望も美しさも、鼠捕り機が自分の本性を乗り越えたり、周囲から押し付けられた役割を放棄して世の中を意識的にサヴァイヴしていくことで描かれがちだということで、実際それに成功した人は素晴らしいと思うし、この辺は正直どうにもならんのかな、と思っている。
漠然とではあるが境界線が存在するという点には同意するんだわ。ただ、それは個々人、文化、時代(というか時期といって差し支えないほどに短時間)で大きく異なるから、特にこういう規制云々の文脈でそれを「区別可能」と言うことには抵抗があるな。そういう意味で「形式的にのみ可能」では?と言いたい。
「概念的な区別」という言葉の定義が、私と増田で食い違っているのかな。
言葉の定義なんて宣言してしまえばなんでも良いんだけど、私が「形式的な区別」と呼ぶとすれば、「法的な区別」や「言語化可能な区別」のことを指すかなと。「概念的な区別」というのは、そのように明示的に言語化することはできなくとも、漠然と先験的に「ある」と思われる区別のことを指すのかなと。
「概念的」という定義の曖昧な言葉を使うのが良くなかったのかもしれない。
前回 https://anond.hatelabo.jp/20211124015201#tb
絵心がなければ、絵の道は行き詰まる。
文才も想像力もなければ、筆の道は行き詰まる。
反射神経も動体視力もなければ、ゲームを遊ぶことさえ行き詰まる。
プログラミングは、書けば動く。
コピペして、繋いで、くり抜いて、入れ込んで、数字を弄り、エラーコードに従えば、そのうち形になる。
広がりだしたインターネットの海が見せる可能性、巷に溢れる比較的できの良い教材たち、才能のない者たちでさえ「なれるよ」と道を示される。
善意でその道は敷き詰められていた。
市販ゲームを分析してそれっぽいコピーを作って楽しむゲーム製作をするオタク。
この両者である。
とはいえ最近のゲームと漫画の話ができればなんとなく流れには乗れた。
むしろ、流行りのドラマだったり音楽だったりに対して今で言う『リア充』のような匂いを感じてアレルギーを感じているだけの偏食者の集いだったのだろう。
私はその中で、少しずつプログラムを学んでいった。
何かを作りたいと思って手持ちのコードを組み合わせようとしだすと途端にその闇の深さが見えた。
それでも、漠然と「これが将来の自分の仕事になる」と思っていた私は必死にゲームを作ろうともがき続けた。
エスカレーターで上がった高校に上がってそっちではプログラム部という名前になっていたゲーム研究会に入った。
4年目、流石に間に合った。
間に合ったが、先輩の作ったゲームのコードを弄って、他のゲームから持ってきた要素を組み込んだだけのバッタもんだった。
なぜ4年もかけてこんなことになったのか?
答えは明白だ。
途中からゲームを作ろうという気持ちが折れて、ゲームをやるだけの人になっていたからだ。
それは正しかった。
当たり判定のプログラミングを自分で書いてからは当たり判定が見えるようになっていた。
これやると多分バグるなと思って試してみて実際にバグったのを見て「手抜きだな」と呆れたりもした。
そういったことが出来たからと行って、それが自分のゲームづくりには活かせなかった。
努力の才能と、努力以外の才能、その両方が恐らく足りなかったのだろう。
「俺にゲーム作りは無理だ……」
結婚するならちょっと内気でお勉強も普通にはできるメガネの優しい人、普通のサラリーマンで出来たら技術職だといいな
そういう相手は私を好きになってはくれないようだった
要するに私は長らく父親みたいな人を好きだった、そう信じていた
父親は私を娘としては可愛がったが、若い時の父親はパートナーとして私を決して選ばないのだなあ、とある時気づいた
片手で足りる付き合った人は皆それぞれで、「メガネの普通の人」なんかとは結局付き合う機会が無かった
メガネかけた父親のような人と結婚する、という想像は完全にただの思い込みだったと証明された
結婚してはじめて、そういやこういう人が好きだったかもしれないと思ったりもするけど
結果論かもしれない
よく行く場所として見晴らしが良い所があり、そこからだと周りの景色がよく見える。
その景色を見て、気づくことがいくつかあった。
まず山が遠い。
自分は山が近い田舎で育っており隣の市や町に行くのでも、山のそばを通ったり、山を越えていかなくてはならない。
日が照った時に見える山の斜面の影や山々が連なっている様子など確認できるぐらいの近さだ。
その山がここだと遠く小さく見える。
ぼんやりと山の姿が確認できるが、灰色のように遠くでぼやけて見えるだけで、詳しい様子までは確認できない。
また鉄塔の数も多いなと感じた。
最初は、この鉄塔に関して気づいていなかったのだが、鉄塔の明かりの点滅を見て気がついた。
点滅している明かりが多いなと思ったのが、最初の気づきである。
都会の夜景は好きだ。
その夜景の中でも点滅しているライトがいくつかあるのだが、それも景色を良いものにしているように感じる。
さっき話した鉄塔の光もそうだが、ビルに取り付けられたライトも点滅しているものがある。
これらのライトが光っている様子を見ている時は、自然と心が落ち着く。
炎を見ている時の感覚やループしているgif画像を見ている時の感覚に近い。
VA11-Hall-aというゲームがあるのだが、そのゲームの最初のメニュー画面を見ている感覚にも似ている。
この景色の光の1つ1つが人々の生活によって作られる光である。
自分がいる場所は、あまり人気のない場所で、自分の周辺は暗く人もいない。
反対側の景色は、正面側と比べて建物が少なく光も少ないため、対照的な様子になっている。
少し歩いたら、人気の多い場所に出ることができる。
また、ここに来たい。
そう思った。
検索をすることがますます億劫になっている、もはや不可能である、ということに気づいた。
ところが、もはや検索したい対象があまりに漠然、フィーリング、印象の塊のようなものになっており、文字列と結びつかない。
であるから「都内 喫茶店 落ち着く」「電動 自転車 軽い」のように検索するわけだが、こんな検索ワードでは全く精度のいい情報は出てこない。
この「次」の検索ワードが、思い浮かばない、出てこない。自分の求める「集合」にたどり着く検索ワード、ボンヤリとした印象はあるのに、それを検索しようとしても望んだ結果は得られず、徒労に終わる。
そうすると、「都内 喫茶店 落ち着く」「電動 自転車 軽い」と書いた検索人はぐるなびや価格comや楽天など、有り体のネット市場と連動したサービスに回収される。
一方「次」を求めた検索人は、検索で徒労を繰り返した後、一筋の巧妙に出会う。「次」が何かは分からないままだが、関連した情報をどんどん投下してくれる「教祖」を発見する。
こうしてインターネットは完全に「大きなネットワークビジネス化」と「小さなネットワークビジネス化」してしまう。人々は検索で幸福にはなれない。個人の意思の薄い市場のランキングを頼りにするか、情報教祖に自己を明け渡すか。この2択。
マスコミが力を取り戻し、世の中はネットワークビジネス化してしまった。昨今とか言ったがここ15年くらいのスパンだな。
最後に「検索」がまだ生きている場所。それは結局、コンテンツ、クリエイター、セレクターがたくさん生息している場所だ。「検索」すれば予想を裏切るような魅力的な情報が溢れ出し、体系化や情報整理が同時的に行われている。そこには「教祖」はいない。あぁ、結局死んだのは検索ではなくコンテンツなんだな。
メールを整理してたら親のブログを見つけてしまった。少し自殺する気が失せたが情緒が安定しない。ブログごときで揺れる自分が嫌になって、気分は最悪だ。
私は3年前以上の記憶は意図的に思い出さないようにしており、親からみた自分自身を読んでもどこか他人事にしか思えない。無邪気に小学生してた頃があったことが信じらないのに、記憶の残骸と部分一致するのが気持ち悪かった。
そして過去の親にも自殺を考えるほどの状況があって、それでも自分のことをちゃんと大切にしてくれていたことが感じ取れて憂鬱だ。親だって人間なんだよなーって実感した。
これがドラマだったら改心して、前向きに生きていくのが正解なんだろうな。親孝行して、看取るまでちゃんと生きなきゃいけない。ベタなトゥルーエンド。絶対に親の介護はしたくないが。
でももう生きることを頑張りたくないから死にたい。死にたいというか消えたい。ありがたいことに世界を恨んでるわけじゃないので、透明人間にしてくれるなら死ななくても済むかもしれない。透明人間になって、隣の晩ごはんでも眺めていたい。何もできなくていいのでテレビ感覚で人の人生を見ていたい。でもなれないので困っている。
「苦しみたくない」がわがままで甘えで、その全部は私の責任だと認めるから『楽に』死にたい。就活したくない、すべての締切が辛い、人と話したくない、ずーっと遊びたい、苦痛を感じたくない、痛いのが嫌だ。この場合の苦痛に一般的に言う「向上するための努力」を含む。
自分より辛い状況で頑張っている人に比べたら全然恵まれているかもしれない。寝床も明日のご飯もあるし、なにしろ親の金で絶賛モラトリアム中だ。ここでちょっと頑張ればなんだかんだやっていけるかもしれない(超楽観主義)。
だが自分にめっちゃくちゃ甘いので無理なもんは無理なのだった。だって安楽的な自殺が成功することに期待しちゃうくらいには甘ったれだ。「言い訳しないで死ね」といわれれば「でもでもだって」、「努力しろ」といわれたら「でもでもだって」と返すのでよろしく。
それでもこの先の自分に期待するよりは自殺の方が確実性が高く、生きていても苦痛なんだろうと思う。局所的な快楽は漠然とした苦痛を超えられない。その根拠なき妄想は十分に自殺の理由になると思う。それに自分でさっさと苦痛を感じる器官を壊す方が楽だし早いのは事実。
それでおわりなんだが、私のシミュレーションの中では、自分が自殺してもそんなに影響ないかなと思っている。実際、親以外に連絡先持ってないから連絡しようがない。
自分は単に変な奴だと思っていたけど、ネットで自閉症の体験談や話をよく見るとまさに自分について書いているかのように自分の体験と一致しているので、自閉症じゃないかと疑い始めた。
正直、今まで鬱だとかで心理カウンセラー等の相談窓口を利用しても、いまいち意味のある機会にならなかったからそんなに期待できない気がしてる
自閉症が治るわけじゃないみたいだし。
漠然といろんなことに細かく困っていてストレスを感じているし、上手く努力ができないことに悩んでいるけど、答えが出ない気がする
自閉症ってやっぱりやばいのかな?友達が作れないのはとても困る
自閉症の人と仲良くできる?
ジリジリとかビービー鳴るタイプの機械は触りたくないし花火や爆竹には近寄れないしパーティのクラッカーも苦手。大きい音が鳴り続けるのも苦手。カラオケも苦手。音楽鑑賞は苦手
うるさい環境や人がいつも話しかけてくるような環境やごちゃごちゃした部屋にいるとすぐ具合が悪くなる。暑さや湿度に弱い。人から触られるのが嫌い。気を許してない相手の気配がするだけでもあまりうれしくはない
特に友達などの言葉の意味や寂しいという言葉の意味がよくわからない。何を以て仲がいいとか悪いとか判断してるのか謎。
こんな感じで集団から浮いてるんだけど、自閉症だからだとすればすごく納得できる。
普通に生きてる人たちがみんな大体コミュ強で仲間意識が強くてすぐに結束して音や環境の変化に強いのも、すべて生育環境や個性だというには(自分から見て)普通の人たちの特徴は均一に感じるし、自分とあまりに違う
生まれつき脳機能的にマイノリティなのだとすればよく理解できる。
理由が特に見出せないと普段の何気ない雑談はできればかなりの割合でスルーしたい。9割はスルーしてる。どうしてあんなに毎日似たようなことを延々と喋るのかよく意味がわからない
子供の時に親に頭を撫でられることやだっこされるのを断固拒否していたらしい
上述
小さい頃はやっていたと思う
没頭しすぎて我を忘れてしまう
意識の矛先を切り替えて別のものに向けるのがとても苦手で非常に苦痛
などなど…。
感想とか書きづらくって、自分の中で漠然と消化するしかなくってそのうち冷める
乗り物として結構好きだし路線図おもろいやんけ〜とか軽い気持ちで触れると、詳しい人がシュバってきて怒られたり
そのへんの趣味としての規模が大きいジャンルは、まだ自分一人で楽しむ余地はあるけど、問題なのはファンの母数が少ないタイプのやつ
俺が界隈で一番詳しいって顔してるヌシみてーのがのさばってると最悪
「マイナーで異端なタイトルにハマっちゃってツレーっすっっw」を呪文のように呟く割といい歳したおっさん(おばさん)のキツさやばい
かつて趣味で小説を十年近く書いていた者だ。俺も理系だが、理系は歴史を学ぶ上で決して弱みではない。むしろ、物事を大局的に眺め、出来事の意味や結果をロジカルに考えるうえでは助けになるし、論理的な文章も得意だろう。なので、自信をもって執筆に向かってほしい。
とはいえ、いきなり中世ヨーロッパを舞台にした小説を書くのは難しい。農民であれ騎士であれ、生活の細部を思い描こうとするだけで筆が止まってしまう。朝起きて顔を洗い、用を足して食事をする、その半時間のことなのに細部がさっぱりわからず、筆が進まない。ありがちな悩みだが、深刻な悩みでもある。
仮に十年前の日本を舞台にした小説を書こうとしても、「当時はスマホが既にあったか」「はやっていた音楽は何だったか」「あの事件はもう起きていたか」など、俺たちの記憶は甚だ頼りなく、資料に頼らざるを得なくなる。ましてや、生まれる前の出来事など仮定に仮定を重ねた蜃気楼のようで、資料なしでは立ちすくんでしまう。よくわかる。なので、俺が読んで面白かった本を共有したい。
ところで、増田は世界史を勉強したいと述べているが、どうも「小説を書くための中世ヨーロッパの知識が欲しい」と「知識欲から漠然と世界史について学びたい」が混在しているようだ。ブクマやレスを見ると、その両方に対する回答がある。俺は、ひとまず前者について答えたく思う。後者については、中央公論社の「世界の歴史」シリーズか、講談社の「興亡の世界史」を読んで、そこから気になったキーワードからどんどん広げていくといいと思う。なお、俺は前者しか通読していない。
さて、過去の世界を生々しく想像するためには、俺は四つの視点が必要だと考えている。数理的視点、物質的視点、非物質的視点、それからエピソード的視点だ。以下、それぞれについて述べる。各々の視点に応じて、手に取るべき書籍は異なってくる。
さらに、この四つの視点があると、頭の中で歴史の知識を整理するのに役に立つ。少なくとも俺にとってははやりやすい。
過去の世界は偉大なようだが、人口は現代よりも少なく、都市の規模は小さく、穀物や工業製品の生産量も少ない。そういうわけで、もしもタイムスリップして中世の大都市を眺めたとしても、その小ささに俺たちは意外さを覚えるかもしれない。確かに現代にも通用する芸術作品はあるかもしれない。時代は異なるが、ピラミッドや紫禁城のような壮大な建物もあるだろう。とはいえ、庶民はそんな生活とは無縁であったはずだ。パリの城壁は今や環状線であるが、今のパリの都市圏はそれを越えて広がっている。
さて、小説を書く上ではリアリティが必要になる。それを支えるのが数の感覚だ。例えば、ある国家の人口がどれくらいで、即時に動員できる兵士がどれくらいで、都市と都市の距離がどれくらい離れており、移動速度はどれくらいか。集落の規模はどの程度か。船舶で運べる量は。モデルとする時代の数字をおおよその知っておくことで、明らかに不自然な描写は減らせるだろう。このあたりについては「銃、病原菌、鉄」や通史的に世界の人口を扱った書籍が助けになると思う。細かいことは気にしなくていい。オーダーが合っている程度で充分だ。数字を確かめるだけなら、ウィキペディアだけでもいい。これは英語版を併用することを薦める。
要するに衣食住の細部だ。先ほど騎士や農民の一日を想像するのが難しいと述べた理由はこれになる。増田が必要としているのはおそらくフランシス・ギースの出しているシリーズだ。都市や農村、城の生活が細かく書かれている。
他に、当時栽培されていた植物や動物については、「世界史を変えた50の○○」シリーズもいい。ある素材が手に入るか入らないか、あるいは知識の有無だけで国の命運が変わるというのは、たびたび起きてきたことだ。中世ではないが、例えばヒッタイトで鉄の製法が独占されたこと、柑橘類で長期航海の敵、壊血病が防げるとか、そうしたことだ。
また、具体的な書名はいちいち挙げられないが、図版の多い図解○○のようなシリーズも良い。もし、増田が視覚的にものを考えるタイプならなおのことだ。慣れていくと建築や芸術の○○様式というのが何となくわかるようになってくる。
加えて、児童書も侮っては行けない。専門家が監修した子供向けの本は、えりすぐりの内容を含んでいる。仮に含まれていないとしても、これだけは伝えておきたいという基礎知識は抑えてある。これは立花隆が言っていたことだったと記憶しているが、なじみのない分野を学ぶためには基本的な内容の本を三冊読むといいそうだ。なぜなら、本当に大事なことはその三冊すべてに書かれているからであり、結果的にその分野の基礎を身に着けることができる。
これは当時の人間が何を知っており、どんな風に考えていたかを指す。直接は物質として残らない、人の頭の中にあった知識や文化にまつわることだ。当時の科学知識、価値観、法律、迷信などもここに含めてよい。
さっき中世人の朝を想像するのが難しいと述べたが、昼以降の社会生活を想像するのはこれでさらに難しくなる。
たとえば俺は異世界ファンタジーをあまり読まないのだが、中世には叫喚追跡という風習があった。当時のイングランドの自由市民は犯罪が生じた場合には、その犯人を逮捕・処罰する義務を負っていた。隣保組織の長は角笛を吹き、大声で喚声をあげながら犯人を追跡しなければならず、また周囲の住民もその指揮に従って追跡に加わることが義務付けられていた。しかも、この協力を怠った住民に対しては制裁が課せられる。寡聞にして、こういうファンタジー小説は読んだことがない。
ここまではいかないにしても、海外文学を読むとなじみのない、ちょっとしたジェスチャーや迷信に出会うことがある。欧米だと、指を交差させることで幸運を祈るし、ロシア人は今でも扉越しに握手をすることを嫌う(宇宙ステーションでさえ)。この辺にリアリティは宿る。ジェスチャー関係なら、中世とは少しずれるが「常識の世界地図」が面白い。
法に関しては詳しくないがが、習慣や生活については先ほど述べたフランシス・ギースの本が参考になると思う。価値観では「中世の秋」がいいだろう。科学史については、増田は理系だから「磁力と重力の発見」を薦めたい。難易度はかなり高いが、知識がいかに科学になっていくかを肌で感じられる。
当時の職業に関しては、未読だが「十三世紀のハローワーク」がいいらしい。
キリスト教・宗教史に関しては、聖書のエピソードの概略や聖人伝を知っているといい。絵画が好きなら名画で学ぶ○○といったシリーズがたくさん出ている。ただし、聖書がわかったからと言ってキリスト教がわかったことにはならないので注意。
これは著名な人物の伝記に関する話だ。あるいは、当時の人々が親しんでいた物語も含めてもいい。こういう偉人の伝記や小話をたくさん知っていると、歴史好きの物知りとしてマウントを取ることができるが、その出来事が世界史上でどのような意味があったかを語れなければ、自己満足で終わり益は少ない。とはいえ、興味深いのは確かで、プロットの参考になるかもしれない。
このあたりの知識のためには、児童書も含めて伝記を読みあさることになる。または、ハプスブルク家の歴史だとか、各国史だとかを扱った新書を乱読する。絵画に興味があるなら、これも名画で見る○○のようなシリーズがおすすめだ。
当時の人々に身近だっただろう中世の騎士の物語については、ブルフィンチがアーサー王伝説、シャルルマーニュ伝説をまとめている。それとは別に「マビノギオン」も面白い。とはいえ、いきなり原典に当たる必要はなく、入門書を読めばいい。
ギリシア・ローマ神話は呉茂一の本が細かいところまで網羅しているし、ホメロスもオウィディウスも岩波文庫に入っているが、呉茂一の本は初心者には細かすぎるし、原典に当たるのは趣味の領域だから、小説を書くなら入門書で充分だと思う。同様の理由で、「史記」だとか「ローマ帝国興亡史」なども趣味に属する。当時ならではの視点は面白いが、鵜呑みにできない誤謬もあるだろう。
もちろん、単純に上記の分類にすべて本が収まるわけではない。大抵の通史・各国史はこれらを兼ね備えている。
以下、何となく面白かったものを思いついたままに書く。「中世ヨーロッパの歴史」「十二世紀ルネサンス」「ケルトの水脈」「西ヨーロッパ世界の形成」(ただしこの本は著名な王の事績がほとんどの載っておらず、当時の価値観や考え方についてのページがほとんどで、そこがアマゾンで叩かれている)。それから、隣人からの視点として「「イスラーム」から見た世界史」「アラブが見た十字軍」など。
書き洩らしているかもしれないが、今のところ思いつくのは以上だ。
他に、中世を舞台にした小説・映画もおすすめだ。難解だが読み応えのあるミステリ「薔薇の名前」、SFだが「異星人の郷」がいい。「大聖堂」は未読だ。「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」はコメディだが細部の正確さは中世映画随一であるとのこと。毒のある笑いに抵抗がなければおすすめ。
中世風の舞台を描くために中世について勉強する。素晴らしいことだ。俺は敬意を表する。それに読んでいるうちにどんどん楽しくなってくるだろう。何かを知る、これは純粋な喜びだ。
だが、小説を書く以上、ある程度は想像力で補わないといけない。ある場面を書く際に必要な情報があるとしても、そもそもその資料は存在しないかもしれない。研究者でさえわからないことは多い。俺もこれだけ読んできたが、わからないことだらけだ。むしろ、疑問が深まった感さえある。細部も忘れてしまった。増田はぜひ自分で本を買ってメモを取るなり線を引くなりしてほしい。読み飛ばさず、時間を掛ければそれだけ得るものも多いだろう。
もっとも、描写に困った場合は、該当シーンを省いてしまうのも手だ。小川哲がどこかで述べていたが、ある歴史SFを書くときに、細部を省略したシーンがあるという。ストーリーにあまり関わらない部分を省くのは、立派なテクニックだ。読者だって中世建築の細部について延々読まされても困るだろう。
もうひとつ忘れてはいけないのは、増田は研究者になろうとしているのではなく、小説を書こうとしている、ということだ。知識は目的ではなく、手段だ。これを忘れてしまうと、他人の設定の粗を探したり、中世なのに価値観が現代的なのを揶揄し始めたりする。こうなると、物語世界を素直に楽しめなくなる。
大事なのは歴史的正確さよりも、読者を喜ばせることだ。そういう意味では、演出として火薬が出てきたっていい。あるいは、読者が感情移入しやすくするように、人を殺してなんぼの武将ではなく、戦争で人を殺すことをためらう武将として、描写する必要がある(ドラマの戦国武将がやたらと戦争を嫌い、優しいのはそのためだ)。異世界ファンタジーの読者が読みたいのは中世ではなく、中世っぽいものだ。そもそも中世ヨーロッパ風なのに唯一神を信じていないファンタジーは多い。
そういう意味では、本を読んでもその知識が直接生きることは少ないかもしれない。くれぐれも、読者に向かって知識をひけらかしてはいけない。あるシーンの正確さのために資料に当たるのはいいが、その成果を延々披露しては読者のストレスになるだけだ。もちろんそういう衒学的な歴史小説もあり、固定ファンはついているが、ネット小説の読者には少ないだろうし、ネット小説の肝であるPVを稼ぐことにはならない。これはいい悪いではなく、ネットと書籍の媒体の差だと思っている。
また、レッドオーシャンの中世ヨーロッパ風ファンタジーに飛び込むのなら、正確さよりも作者の専門知を活かしたものの方が(ブクマで書いている方もいるが)読者の目に留まりそうである。そして、くどいようだが、これだけおすすめの本を書いてきたが、読者が欲しいのは正確な知識ではなく血沸き肉躍る物語である。
だが、作者にとっての最大の危険は、どんな物語よりも過去に起きた事実の方が面白いのだと気づいてしまうことだ。この罠にはまると、どんな小説も所詮作り事と思われて素直に読めず、何を書いてもむなしくなってしまう。言い換えるなら、創作欲が知識に殺されてしまう。増田には、これに一番気を付けてもらいたい。
それを防ぐには、面白い小説を読み、面白いものを書くこと、これに尽きる。先行作品としての中世ファンタジーを愛し、数多く読み、繰り返し読むこと。
※注意
この記事は大学2留年した24歳が最近思ったことを愚痴ついでに吐き出したものです、文章は散らばってて何を言おうとしたいのかも分かりません、思想を押し付けようとかそういうものはありません
私は最低賃金ランキング下位5位に入る県の人間だ。大学を2回留年し親には多大なる迷惑をかけた。
そんな自分も来年からは就職。全国の新卒平均よりも2万ほど低い月収だが地方だし留年してるし仕方ないと感じた。
さて私の実家は郊外にあり、会社は県庁所在地である。距離的には電車で1時間程度となっておりまあ実家からでも会社周辺に一人暮らしでもどっちでもいいだろう。どちらにしようか、そう考えたときふと「こどおじ」という言葉が浮かんだ。ネットでの考えによると実家ぐらしの人間など言語道断、恥晒しらしい。私も漠然と確かにそうだ、実家ぐらしは恥であると考えており一人暮らしを目標にしていた。
月収から会社からの控除、家賃、水道代、ガス代、電気代、通信費...それら引いた額を予想してみると10万は消える。もちろん実際に行ったわけではない、完全なる予想だ。しかしまあこんなもんなんだろう、残ったお金で食費や交際費を考えればいいだろう、そう考えていた。
次に思い浮かんだのは将来のことだ。2000万問題は皆さん記憶に新しいだろう。食費やらなんやらを残ったお金で使うと貯金できても1万2万くらい、これでは2000万など夢のまた夢である。
親ももう若くない、自分も将来どうなるか分からない、そんな状態で一人暮らしをしたら色々と成り立たない、下手をすると自分が壊れるんじゃないか???ここ数日そんなことを考え軽い鬱になった。食事は喉を通らないし胃はキリキリ痛む。今まで楽しめていたアニメや配信動画を笑顔で見ることもできない。そんな状態が1週間ほど続いた。
ある夜、母がスマホの操作で分からないから教えてくれと聞いてきた。教えたあと何かが決壊したのだろう。ポツポツと不安が全部言葉に出てきた。涙も出た。週1でしか今は学校に行ってないからひげもはやし放題、髪もボサボサの24歳が泣きわめくのは非常にみっともなかっただろう。しかし母はそれをきちんと聞いてくれて一つづつ諭すように教えてくれた。
お前は今2つのことで悩んでいる。知らない会社で働くことへの恐怖と初めての一人暮らしに対する恐怖だ。それを一緒に解決しようとしているから何も解決しない。ならまず一人暮らしは止めろ。そっちは自分でなんとかできる未来である。まずは1年ほど会社に慣れて自分が月にどのくらい得られるのか、どんな生活をするのか、それを知ってからでもいいじゃないか。
もし働いて未来が見えないならそこで転職をしたり副業をしたりと様々な手段がある。でもお前は経験してないから漠然とした不安しかない。具体的な対策が思いついていないだけなんだ。
そう言ってくれた。確かに無理して一人暮らしをして壊れるより実家暮らしでちょっとずつ慣れていくのがいいのは分かりきっている。
なんで自分はそんな簡単なことをしようとしなかったのか。簡単である。親に頼るのは恥だと思いこんでいたからだ。
実家暮らしを恥だと思いこむのはなぜだろう。それは「こどおじ」や「パラサイト・シングル」といった言葉のせいだろう。小さい頃からいい大人は一人暮らしをするものだ、実家暮らしは恥だとなんの理由もないのに思いこんでいた。
でもその言葉はネット上でしか聞いたことがない。某匿名掲示板や笑笑動画くらいしか聞いたことがなく、私の勤務していたバイト先では一切聞いたことがない。
もちろん「パラサイト・シングル」という言葉があるように昔昔からある考えなのだろう。ではなぜ実家暮らしは恥なのか、なぜ親に頼ることを止めないといけないのか。
そういうことを考えると最終的に「別に実家暮らしでもいいや」と考えることにした。
まだ20代と言うが正確には24歳で来年からはアラサーの仲間入りでもある。
勿論ずっと実家暮らしにする気はない。1年位で慣れれば一人暮らしをしたいし3年位してようやく一人暮らしが出来るかもしれない。
将来は誰にもわからない、でも今は誰にもわかる。だったら今を生きることが大事なのだろうな。
何が言いたいのか自分でも分かってません!!
愚痴を吐き出したくて書いただけなので許して下さい
(追記)
私がこのことを考えたのは青い鳥の「手取り13万」なるトレンドを見たからです。
私は1万ほどしか変わらない(予想、基本給だけの計算)のでやばいなぁと思って胃が死んでました
やばいですね
監視されてる時に政見放送見てると上司からの信憑に👺政治への関心が高い+2点でボーナスが入るらしいので政見放送ずっと垂れ流してる。
自作映画研究会の1年生が作ったようなクソ動画の乱射に精神が参りかけながらも漠然と感じたものを書くぜ
みたいな主張が得意技だぜ。
お前らのせいで色々アカンことになってるのにお前らに任せて大丈夫なのかよってツッコミが来る可能性を0コンマ0%考えていない。
圧倒的なまでのノーガードによって、「ガードする必要のあるような後ろめたさはありませんよ」アピールしてくるぜ。
こんな感じだぜ。
熱狂的な自民アンチって感じのコメントが多いがブーメランの本数はヤバイぜ。
その上で俺達だけが信用できるというアピールをかますのが凄いぜ。
勝ち馬に乗るのが当たり前になりすぎてそれが異常という感覚がもはやないぜ。
そもそも政教分離原則を破っていても大丈夫な人しか投票しないというかもはや信者しか投票しないから色々どうでもよくなってそうな感じだぜ。
言ってることは一見まともだけどコイツら自身がまともじゃないのがミソだぜ。
つうかコイツら実際に年齢見てくとマジで若い部類なんけどその若さでムーブが既に老人政治家のソレなのがマジで凄い。
昔と比べるとただただ頭悪い人がコピペで喋ってるだけって感じになってきてつまらん。
「とにかくめっちゃ金配るぜ!」
埋蔵金の話さえないけどとにかくどこからか金が出てくるらしいぜ。
多分。
「おらたちが~~~本物の政治家だっぺ~~」
「がんばっぺ~~~」
すまん。
いたはずなんだけど記憶にないわ。