はてなキーワード: 漠然とは
この時期、ニュースを見ていると各地の成人式の模様が流れてきて、曇りなき眼の20歳の若者が「ここまで育ててくれた親に感謝」「親孝行していきたい」とコメントするのが定例で、既に中年の域の私としては眩しすぎて目が潰れそうになる。
だからてらいなく「感謝」と言える子達を見ると「おお…」と感嘆してしまう。
要所要所で言えば、親に感謝すべき点(大学まで行かせてくれたこと、多兄弟で貧乏だったけど食べるに困るまではいかなかったことなど)はあるのだが、母親がADHD気味で、家庭内は地獄の様相だった。
子供達が自立して家を出た今も、現在進行形でキ◯ガイ行為を繰り返し、周囲に迷惑をかけ続けている。
この歳までずっと引き摺っている漠然とした不安感は、母親が生きている限り続くのだろう。
周囲からは「そうは言っても親だろ、大事にしろ、親孝行したいときに親はいない」と散々言われたけど、思考を転換することは出来なかった。
早くに死んでくれていたら、「苦労させられたけどあの人も苦労していたし、良いところがあったんだよな」と思い返せたかもしれない。
ただ、今の時点では無理だ。
後悔しないように尽くすのではなく、死んでから後悔しようと決めた。
今、私にも小さい子供がいて、何年後かには誰かから「親に感謝」思想が植え付けられるのだろうけど、個人的には「親に感謝」思想はいらないと思っている。
本心で思っているなら別にいいのだが、保育園や学校等で父の日、母の日、自分の誕生日に感謝の言葉を述べさせる、とかいう強制イベントはいらない。
私がずっと悩んできたこと。別に学校の勉強が不得意だとか、そういうことではない。とにかく生きる上で必要な「賢さ」もとい要領の良さが欠けているのだ。
自分の特徴を、言い方を変えて少し良く聞こえるような風にすると「ナイーブ」「真面目」なんて形で言い換えられるかもしれない。悪いことではない。でもとにかく生きづらい。そして真面目な癖に積み重ねる努力ができない。真面目系クズです。これは生きる上での致命傷だと思う。この文章だって最後まで書き終えることができない気がしている。
私が目指しているのは、目の前のことに向き合ってコツコツと努力を積み重ねつつも、楽観的で人生を軽やかに楽しめるような人。そんな人になるにはどうしたらいいのか、少しばかり考えてみたのでここに考察を記したいと思う。軽やかながら努力できる人には以下2点の特徴があると考える。
1.「今ここ」に集中できる
人間が不安を感じるのは未来について考えた時、後悔を感じるのは過去について考えた時と云われている。今この瞬間、何をすべきか、どう過ごしたら自分の人生がより楽しくなるかを感覚的に捉えられている人は、おそらく前にあげた2つの感情をブロックする力があるのではないか。目の前のことに集中できるからこそ、その場で全力を出すことができる。そして楽しみにも繋がる。一瞬一瞬全力を出すことで、積み重なって努力となる、そんな図式があるのではないかと思う。
例えば漠然と「官僚になる」という目標を掲げた人がいたとして、今の状態からひとっ飛びに官僚になれる訳ではなくて、難関大学に合格する、優秀な成績をおさめる、試験対策を行う等、複数のマイルストーンを自分に強いて、それを少しずつクリアすることでようやく官僚への道が開けていく。マイルストーンの設定=適切なタスクの細分化といえる。1.の話に通ずるところがあるが、細分化されたタスクにひとつひとつ向き合って消化していくことで、努力が自分の血肉になるのではないかと思う。
上記2点が、現状私の考える人生における「賢さ」の要点だ。目下のところ、この2つに注力して人生を過ごしたいと思う。
もちろん、要素としてこの他にも挙げられるものがあると思う。ただ私のボケまくっている頭ではこれ以上の要素を抽出できなかったので、もし思いつくものがあればコメント頂きたい。
私にとっては最高の映画でしたが賛否両論あるのも納得の内容でした。
20年前、マトリックス三部作の仮想現実ではその頃のインターネットに対して漠然と抱かれていた、老若男女人種言語関係なく平等に戦える未来の世界というイメージや、アングラ感からくる怪しさのようなイメージを描写していました。
謎の多い世界で真実に目覚めた救世主が機械と派手に戦い人類を救う物語は全世界的に大成功を収めました。
そういう成功体験もありますし、バックにいるのもWBですから商業的にどうすれば成功するかなんて承知の上でウォシャウスキー監督は、あえて今のインターネットに抱くイメージを新作のマトリックスに落とし込んだのでしょう。
三部作から20年後の現代ではSNS人口の拡大のおかげで回線の向こうにいる誰かの生活臭すら感じられそうになるほどインターネットの怪しさは薄れ、誰かが収入目的や遊び道具として出来の悪いbotをばらまくしょうもない世界になったのに、一人一台レベルまで普及したスマホによってどこからでもアクセスできるためそこから容易には抜け出せなくなりました。
色調が緑色に怪しく補正されることもなくなりアングラ世界の象徴みたいなメロビンジアンは没落しエージェントはbotに役目を奪われ新たに目覚める人類もいなくなりました。
そしてマトリックスの外の世界では機械と人間の休戦状態が続いているためネオが救世主として活躍する場もありません。だからネオはトリニティただ一人のために戦います。
しょうもないのに抜け出せないバーチャルな世界を舞台にした物語なら、現実で触れ合う誰かとの縁の大切さがテーマになるのはありきたりではありますが自然なことです。
ありきたりというのは多くの人がその結論に至るということでもあるので馬鹿にはできませんし。
成功したいなら昔と同じミステリアスな世界で昔と同じように救世主が人類の危機に立ち向かうストーリーにすればよかったのは映画に詳しくない私でもわかります。
しかし誰かの期待に応えて内容を決めるというのはマトリックスのテーマの一つである「選択と自由意志」を監督自ら破ることにも繋がります。
だから以前のような魅力を持たなくなった世界で仲間の力を借りながら大切な誰かのためのストーリーにすることを自由意志で選択したのでしょう。
レザレクションズに以前のシリーズのようなノリを期待していた人には残念ではありますが、ウォシャウスキー監督はとてもテーマに対して誠実で愚直だと思います。
人気シリーズのリブートでこういう映画を作ってくれた監督をはじめとしたスタッフの皆さんと出演者の皆さん、ゴーサインを出したワーナーブラザーズには感謝しかありません。
もう上映終了している映画館も多いと思いますが、みんながこの映画を観てマトリックスを好きになったり嫌いになったりしてほしいなと思います。
漠然と25万人くらいだと思ってた
2日から今日まで休みだった。僕の仕事は、サーバ運用で、仕事納めが31日で、仕事始めが1日だった。幸いにして3日も連続で休めた。おそらくこの仕事をしているうちは、帰省も恋愛もおこらないだろうと漠然と思う。
たとえば、電車、小売りの人たちが年末年始も働く。それは見える。見えるから話題になる。電気、ガス、水道ほかいろいろ。動いて当然と信じられているすべての仕事は見えないのが大半だ。動いて当たり前ではない。僕のサーバ管理もこのうちに入る。動いて当たり前だと思われている。
そんなことはない。絶対にない。常に改善されている。ハードウェアは壊れにくく、壊れる前にアラートをあげてくれる。サーバ自体は仮想だから万が一でもサービスに影響はない。
僕の仕事はそこまでだ。
最近、その上のアプリケーションの作りが雑だと思う事件が増えた。維持運用の僕たちは、いろいろと資格を取れと言われる。業務のうちだし、資格はたとえ、今の場所を離れても、僕の身からは離れない。僕のために資格を取っている。ずっと勉強しているが、たぶん、こんなのは当たり前だろう。
一方で、アプリケーションは資格がない人が集まって作っているように見える。これだけ社会基盤になったのだから、いいかげんシステム設計、開発に資格が必須とされてもいいだろう。とりわけセキュリティ関連は資格が必須ではないだろうか。データファイルがインターネットに晒されていました、と言われても、それは僕の担当分野ではない。定期的に機械的チェックは行うけれど、そこまでで、そのレポートに対して対策が取られたかは報告は必須ではない。レポートを出すまでがこちらの仕事だからだ。
アプリケーションの設計が下手だと、運用に押し付ける「設計」を平気で採用する。そんなものは事故の元にしかならない。
そんな設計でどうして動いているんだろう。
自分の気持ちを整理したくてこの文章を書いています。自分の気持ちの整理なので、言葉をあまり選んでおりません。もし、この文章を見て不快になった方が居ましたら申し訳ありません。
父親が自殺してもう何年か経ちました。何年か経ったという曖昧な書き方は、本当に何年経ったのかわからないから。
何十年も経ってない。成人式には一緒に写真を撮ったので、多分8年とか7年とか、それくらいだと思う。そんな事もわからないほど、私は自殺した父親の事を考えないようにして生活してきた。
どうでもいいからではなく、逆で、考えてしまったら生きていられないくらいだから。
父親が亡くなって、最初の数年は命日も覚えていたし、毎日のように父親の事を想って悲しくて泣いていた。めちゃくちゃ辛かったけど、父親の事を忘れてのうのうと生きていくのは違うと思ってた。それと、その頃父親の死がきっかけで、もともと不仲だった母親や妹などの家族との仲も悪化して、自分が家を出て行く形になり、その頃はもう二度と母親や妹に会わないつもりくらいでいたので、父親の事を記憶以外で思い出せないようになったら、本当に何も無くなってしまいそうで怖かったから。写真の1枚も持ってなかった。なので当たり前に動画も何もなくて、声も思い出せないし、顔もそのうち忘れてしまうかもしれないし。
だから、忘れないようにほぼ毎日父親の事を思い出しては、悲しくて泣いてた。
そんなふうに、毎日毎日泣いてた自分に当時から付き合っていた人が「泣かないで」と言ってきた。私を想ってのことだろうけど、私のことをあまり配慮してるとは思えない言葉だったと今になって思う。その人が周りの人に言いふらして、周りの人からも「泣くな」と言われ、泣かない為には父親の事を考えることができなくなった。
そうして、私は父親の事を考えなくなった。
それからもう何年経ったのかもわからなくなってしまった。命日も覚えていない。なんとなく9月だったと思う。父親の事は顔ももう思い出せない。声も思い出せないし、どんな人だったのかも思い出せない。
そうしたら、もう本当に泣かなくなった。毎日泣かずに生活できている。でもずっと、うすい膜みたいに希死念慮がまとわりついている。
父親が亡くなった日、亡くなった家で寝転びながら、もうここで死にたいなと明確に思った。今から行けば、まだ追いつけるかなと思った。
今でも、父親という文字を打つだけで泣けてしまう。おとうさん、と呼んでいた。おとうさんと文字で打つだけで泣いてしまう。それくらい、整理が未だついていません。
もっとちゃんとずっと、父親の事を考えて、覚えていて、整理をつけるべきだったのだろうかと思う。それとも、もう忘れてしまって楽しく生きて行くべきなのだろうかとも思う。でも、後者を選んだけど、それは叶わなかった。
父親の事を忘れたけど、楽しくは生きられなかった。
それからずっと死にたいと書いたけど、死にたいと漠然と思っているだけで、明確なきっかけなど無いので実行する事もなく。しかし無理やり楽しく生きようとする人生なので、意味とかないから終わってもいいかなという状態。
そこそこ年齢も重ねてきたので、たまに身体に今まで体験した事のないような異常が起こったりするんだけど、そういう時、やっと死ねる?と思ってすこし嬉しくなってしまう。
死ぬ理由が欲しい。父親の事を普段忘れてしまっているので、本当に意味もなくただ、漠然と死にたいなと思って生きている。理由のある希死念慮なら、解決策ってありそうなんだけど(例えば、借金が…とかそういうの)本当になんの理由もなく漠然と生きていたくないのでどうしようも無い。
どうするべきなんだろうか。もう疲れてしまった。母方のおばあちゃんがまだ存命なので、おばあちゃんだけは悲しませたくないなという思いだけはあるので、それが最後のストッパーになってる。
自分は長女だった。多分、父親は長女の私の方がかわいいと思っていて妹よりも可愛がってくれようとしていたが、妹からすればおもしろいはずもなく、私も妹に気を遣い父親に甘えられずにいた。今更、もっと父親に甘えておけばよかったと思う。未だに父親に甘えたい子供のままになってしまっている。ずっと進めない。
どうしたら楽になるんだろう。ずっと苦しいし、解決するはずもないし。
誰も助けてくれるはずもないし。
中国製は怖いみたいな漠然としたこと言ってるのは情弱そのもの。
むしろ国産PCの方がへんなメーカーアプリたんまり入ってて脆弱性やらアフィコードやら仕込まれてて酷い有様ってことすらある。
そりゃ個人輸入で国内流通してないようなどマイナーな中華メーカーのPC買ったらセキュリティ上よろしくないというか専門家じゃないとリスクを判断しきれない事は確かだけど
普通に流通してるレノボやら何やらの大手中華メーカーに中華であることに由来する「怖い」部分なんてねーよ。
むしろ国内の弱小ガラパゴス企業よりも中華グローバル企業の方があらゆる面で洗練されてるまであるわ。
そもそもWindowsっていろいろあるってWindows搭載PCのバリエーションの話じゃなくて文字通り読めばWindowsのOSバージョンの話の可能性すらあるだろ。
https://anond.hatelabo.jp/20211226230142
上の記事を書いた増田なのだけど、思っていたより反響があったのでブコメに上がっている疑問点に可能な限り答えたいと思う。内容の重複するコメントが多かったので、要旨を丸める。
Q 本当に死にたい人間はこんなに精力的になれない、婚活も結婚もしようとしないはずだ。
A 友人は、婚活をしていたし、結婚もしていたし、国内外の旅行にも行っていたし、資格の勉強をし、亡くなるほんの数か月前に簿記2級に合格するような知性とバイタリティを持っていたし、貯金もあった。だが、死んだ。
活動的であるかどうか、「自分が生きると思わせてくれる何かがあるかもしれない」という一縷の望みに賭けて努力する(婚活や資格取得)かどうかということと、死にたい気持ちは全くの別物であることを理解されたい。寧ろ努力した結果、報われなかった、あるいは何らかの果実を得たものの「やっぱり生きたいと思えなかった」と落胆することで死に一歩近づくことがある。
そしてこれは言っておかなければいけないことだと思うけれど、「本当に死にたい人間なら」というのは、単に「私の観測範囲内では」という話に過ぎない。実際のところ、死にたい人間も多種多様だ。
希死念慮者は死によってでしかその意思が肯定されないのか、それは違うと思う。希死念慮者は、「死にたいという気持ちを抱えた生きた人間」だ。単に自分の想定に沿わないからといって「ニセモノだ」という話をされたのでは、サバイブした事例の話は出来ないことになってしまう。
Q 2019年に破産の申請が通り、仕事がうまくいかなかったにもかかわらず2020年にはバイクを買って数か月も働かずに旅に出られるだけのお金が貯まるのか?
A 裁判所から破産の決定が下りたのは2019年だが、相談をしたのは2018年であり、相談時点で全ての債務の返済及び利息の加算は停止する。その為、2年近く給与を貯蓄し続けることが出来た。仕事がうまくいかなかったのは、単に自分の無能さに嫌気がさしているということ。私は歩合の無い普通のサラリーマンなので、無能でも減給になったりはしなかった。
A 実際ひときわ美人だから。もはや生きることにうんざりしていた私は、「まあ、この人でも良いかな」みたいな妥協をしてまで他人と付き合う気はなかった。なので、ひときわ美人だったことはやはり俗っぽいけれど重要な点だったと思う。しかし最も重要なことは、このエントリは妻も監視しているということ。
Q 2020年年末から「新潟経由スタートで南下」し「冬の北海道をバイクで走破」は、積雪によって不可能ではないか?
A 年末という書き方が悪かったと思う。これは「12月」と読みかえて欲しい。当時、新潟から日本海沿いに寒波が下りてきていた。私は寒波から逃げるように日本海を南下したので、日本海では積雪に遭遇していない。九州では、大分の九重連山で積雪に悩まされたが、それは乗り切ることが出来た。また、東北・北海道については春に入り雪解けを待ってから上陸したので、「冬の北海道を走破」はしていない(春季でも所どころ積雪はあったが)。
A 実際に行動を起こした(自殺未遂、友人の自死、発信し続けたこと)という点において、漠然と死にたいと思うだけで気付いたら理解ある彼くんが人生をリードしてくれたという案件とはフェイズが違うと思う。
が、「人間を救えるのは人間しかいない」と結んでいるように、一度袋小路に陥り自力では抗えないほど閉塞してしまった人生は、理解してくれる(しようとしてくれる)他者によってしか救われないと思う。犬も歩けば棒に当たるみたいなことが伝わってくれれば嬉しい。
Q 首を吊っても縄が切れることはあり得ない。
A 私の場合、購入して数年経った中型犬用のロープを用いたので、劣化していたことと、そもそも中身がスカスカだったこともあり切れたのだと思う。また、これは私が体験談を聞いた範囲での話だが、縄が切れて首吊りが失敗する事例は割とあるようだ。
Q 「遺書は、私に書かされたものではないことを示すために、自宅に届いた携帯料金の請求書の裏に書かれていた」ってどういうこと?
A 友人がわざわざ自宅から持ってこなければ、通常、携帯料金の請求書は手に入らない。そういう紙の裏に書くと、遺書が自発的に書かれたものである(私に無理やり書かされたのではない)という事実を裏付ける証拠になる。
Q ホテルで死のうとするなんて、ホテル側に迷惑だと思わないのか?
A 誠に申しわけございません。
Q 実話? 創作?
A この種の疑問に回答しても栓ないと思うけれど、実話。読んでくれてありがとう。
真面目に答えてくれる人がいたので、やりすぎると増田らしくないけどちょっとだけお返事します。あと、全体に増田の言ってることはよく理解できるので、特に異論のないとこは省略するよ。
まず「更生と刑は両立する」のくだりについては、「それは日本の制度がおかしいのでは?」としか言いようがない。わざわざ更生させといて、それから殺す。それに何の意味があるのだろう、って、合理的思考ができる増田は不思議に思わないだろうか。だいたい、裁判でも「改悛の情が明らか」であることが減刑の理由にはなるよね。懲役刑だって、反省態度で仮釈放までの期間が変わる。これは実質的な減刑じゃないかな。駐車違反をネタに「反省したら刑が割引なんてないでしょ」という理屈は、ちょっと納得がいきかねるね。
次に「国家」という仕組みへの不信の話。
国家を信じないなら何を信じるのか、というのは旧きリベラリズムにとっての急所だし。そもそも国家が信用ならないなら、終身刑のほうが不安だ。国家が正しく終身刑をやりとげる、という「国家への信頼」はいったいどこから発生するのか。
実は君はここで、致命的なスキを晒していると俺は思う。
なるほど、立場が変われば見方も変わるものだなあ、と感心しながら読んだ。増田の周りの「旧きリベラリスト」たちは、そこで沈黙したのかなあ。
まず、増田は国家を信頼し、犯罪者を「裁く」目線で物を言ってる(一応言っておくがそれがいい悪いという話じゃない)よね。一方、旧サヨクに共感する私としては、国家というモノにいつ何時理不尽に「裁かれ」「殺されるかもしれない」という目線で物を言ってるんだよ。だから、国家が終身刑を「やり遂げる」ことができないとしても「ああ、やっぱりな」と思うだけだ。終身刑を誤るなら、死刑だって誤るだろう。そして、後者を誤るよりは前者を誤る方が、取り返しがつくだけマシだと思う。だって終身刑を失敗して誤って仮釈放してしまったとしても、誤りが判明したらもう一度収監することである程度取り返しはつくけど、「間違って死刑しちゃったわ(テヘペロ)」だと何をどうやったって取り返しなんてつかないんだから。(ここでも、増田は多分誤って釈放された凶悪犯を想定するだろうね。そして私は誤って殺される無実の囚人を想像するわけだ。これは価値観の問題、物の見方の違いとしかいいようがない。)
ついで、「国家に代わる何があるのか」「それが旧リベラルの弱点だ」と増田は言うけど、現代だって、日常的に人々が信じているのはもっと身近なコミュニティや属する組織なんかであって、「国家」などという漠然としたものによっかかって生きてる人って、霞が関の中にもあまりいないんじゃない? いたらあんなに不正がはびこらんでしょ。ああいう不正って、国家とかそういう漠然としたものじゃなくて、自分の目の届く範囲の狭い狭いコミュニティに殉じるからこそ起きるもんだよね。小さな組織、小さなボス、それに従うから、大きな外から見たら「不正」としか見えないことに手を染めるわけで、彼らがいくら「お国の為」と口にしようと、それは口当たりのいい欺瞞に過ぎないくらいのことは、増田にだって分かってるだろう。
それに、たとえば終戦直後、国家が国家として機能していなかったときも人はそれなりにたくましく生きていたわけで、国家がなけりゃ人はない、なんてことはない。もちろんそれが理想的な社会だったとは別に言わないけど、近代国民国家を〈唯一完成した人類社会の最終形態〉みたいに言うとなると、それは無邪気すぎるんじゃないかなあ。国家に不信を抱くのは、むしろ現在と未来を生きる人間にとっては必須の要件だ、くらいに私は思ってるんだけども。
それから、死刑をする最大の理由はお金だ、って話。増田はそれを「現実的」な立場で語ったつもりなんだと思う。その現実主義を揶揄するわけではないよ。けど、それなら次に述べる四つの点についてどう思うかは聞きたい。
米各州で死刑制度廃止の動き、経費削減のため https://www.afpbb.com/articles/fp/2572851
いや、死刑制度を維持するのって、意外とお金かかるんですよ? 「生かしておく方が金がかかるに違いない」というのは思い込みで、文明社会で人一人殺すというのはそんな簡単なことじゃないんだ。日本とアメリカで事情は違うと思うかもしれないけど、見方によっては日本の方が"殺し方"としてはより丁寧であって、それはつまり「よりお金をかけて殺している」ということでもあるんだよね。
さて、そうやって莫大な経費をかけて死刑を執行して、それで社会に一体どんなプラスがあるんだろう。増田も同意してくれたように、そこには見せしめとしての抑止効果もないし、遺族感情なんて不確かなものは宛にならない。つまり、死刑によって得られるプラスなんて、無いんだ。
一方、終身刑であっても、何割かの囚人がそこで「更生」したとする(何割かの更生は期待できる、という話は前にした)。彼らは自らの体験を語るかもしれないし、それが誰かに影響を与えるかもしれない。「更生」という言葉が語るように、それはプラスの効果であるだろうね。事件の全容が「更生」した犯人自身の口から語られることで、社会にあったセキュリティホールを少しふさぐことができるようになるかもしれないし、見落とされていた福祉の穴が埋まるかもしれない。また、道を踏み外しかけた人が、はっと踏みとどまれるかもしれない。何よりも、重大な罪を犯してしまった人でも、心から後悔し立ち直ってもう一度人生を歩もうと思えるようになれるのだ、というロールモデルを示すことは、社会にとって大きなプラスだと思うが、どうだろう。終身刑にだって、制度としての仮釈放はあるんだよ。
前の項目の中にもあげたことだけど、死刑というのは、犯罪の根源についての追及をそこでストップさせてしまう。なぜそんな犯罪が起きたのか、社会はそれとどう向き合うのか。どうすれば類似の犯罪は防げるのか。そういった議論を、全て、「我々の社会とは共存できないモンスター」のせいにして、封じ込めてしまうのがぶっちゃけ「死刑」という制度なんだよね。そういう目線で死刑と言う制度を考えたことはあった? 非文明社会、非文明国なら、それでいいんだよ。というか、それしかできない。たとえば、文明社会から離れた孤島で、30人くらいのコミュニティで原始的な生活を営んでいたときに、原因不明の殺人が起きたとして、明らかに犯人と分かっている奴がいたとする。そりゃそいつを吊るすしかないよな、なにせ原因が分からないし社会の不安を解消する方法がそれしかないんだから。でも、本当は深掘りすれば、殺人衝動を起こさせる風土病が原因だったかもしれないし、殺された奴に原因があったかもしれない。もっと文明が発達して、いろいろと調べる手段があれば、助ける方法があったかもしれないな、と、増田がその島にいたら思うかもしれない。私もそう思うんだよ。現代の「死刑」が、何もかもを明らかにして、完璧に調べつくして、その上で執行されている…というようには見えない。
いや、死刑議論は哲学だ、なんて言を弄するのは止めにして、もうこれいい加減真面目に考えるべきなんじゃないかと思うんだけど、世界で死刑制度の現況を見てみれば、
……という状況なんだよね。でもって、アメリカもさっきのニュースで見たような状況なわけで。で、君、どっちのグループに入りたいねん! て話なんだよ。こと”人権”という視点で世界と向き合う時に、死刑制度を存置しているということは、マイナスに働く要因ではあってもプラスに働くことは一切無いと言える。ここでも死刑制度は明らかに「高く」ついてるんだよ。死刑制度を擁護することは、実質的に人権問題において、中国やイスラムの側に立ちますよと言ってるに等しいわけで、これがリスクでなくてなんなんだろうと思うわけです。
というわけで、増田が「死刑制度を存置するのは、単に経済的合理性のため」という立場を取るなら、以上4点については反論する必要があると思うのだけど、どうだろう。
私は別に「美しい矜持を飾るためにお金払おうぜ」と言ってるわけじゃないし、別に経済的に合理的だから死刑を廃止しようと言ってるわけでもない。私が死刑を廃止した方がいいと思ってる理由は、全く前に書いたとおりだ。でも、単に経済的な合理性を考えても、実は死刑には合理性がないんじゃないかとは思ってるよ。
大雪になると立往生した車のCO中毒死の危険が叫ばれるが、はっきり言ってこの責任はメーカーにある。車の構造の問題だからだ。
更にちゃんとその辺りの説明が出来ずに漠然と危険性だけを叫んでいるマスコミにも問題がある。
これについて説明する。
自動車のエアコンシステムには冷暖以外に内部循環と外気導入があるのはご存じと思う。
外気導入にするとバルクヘッド(運転席と前部エンジンルームの隔壁)に開いた穴のシャッターが開き、ファンを通して室内に外気が吹き込まれる。
だが出口が無ければ室内の気圧が少々高くなったところで空気は入らなくなる。
その為に出口となる通気口が必要だ。そしてこの通気口は換気の用を為すためにも室内空間のなるべく後ろ側にあった方が良い。
因みにこの通気口はドアを閉めた時の閉まりやすさにも影響する。通気口が無いか狭い場合、ウエザーストリップ(ドアのゴムパッキン)の圧縮にも力が奪われた上で空気を圧縮する事になるので、力の弱い人はドアを閉める事が困難になる。
ここから排気ガスが侵入するのである。そして構造上、ワンボックスワゴン型がとにかくこの問題に脆弱である。
それ故オーナーがその危険性を認識しにくいし、掘り下げ力が足りないマスコミも然りである。
車内の最後部に配置する必要から、その場所は車種により異なる。
・セダン
最近めっきり減ったセダンだが、後部通気口の位置は洗練されていることが多い。
概ね、左後ろ座席のドア(右ハンドル車)に仕込んである事が多い。ドアを開けるとドアか車体側のウエザーストリップの外側にスリットや穴が見える。これが外側の通気口だ。
内側はドアの内張りにスリットがあったり、アームレストに隙間があったりする。更にシートの裏側に穴があって、トランクを通過してドア部シャーシ側に開口している凝った作りのものもある。
いずれにしろこの構造だと排気ガスを吸いにくいから比較的安全な構造と言える。
ズバリ言うと、左側ボディ側面最後部のバンバーに隠れる場所にある。具体的にはこの動画の14:53付近を見てもらうと判り易い。
https://youtu.be/4fphaU3cdVo?t=893
これは今塗装中でバンパーが外してある。これは外車で左ハンドルなので右にあるが、右ハンドルの日本車なら反対側の左の同じ場所に同じように配置されている。
内側はその上の荷室内後部に内張りにスリットがある場所や内張りに隙間が設けてある場所があるはずだ。トールワゴン所有者は実車で確認して欲しい。
この場所ははっきり言って最凶最悪の場所だ。何故なら普段はバンパーで蓋がされているが、そのバンパーはフラッシュサーフェス化の為に下部以外車体をピッタリ覆うものだからだ。
車体下部はさながら水上置換の集気びんだ。排気ガスはどんどん供給され、更に暖かいので上に上ろうとする。そこに脱出口が一つだけある。
それが後部通気口だ。排ガスに含まれるCOは重いので普段は下にたまるが、排ガス自体が暖かい上に閉鎖空間にどんどん供給されるので一緒に室内に入っていく。
ここの通気口にはバルブやシャッターはない。入りたい放題だ。「換気の為」と思い窓を少しだけ開けていればその速度は加速されるかもしれない。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nissan_Skyline_C111_2000_GTX-E_001.jpg
ガーニッシュ(飾り)を兼ねていた時代のものだ。必要な開口なのでデザインに取り込んだのだな。
これは80年代のハイエースだが、車体後部にスリットが見える(この型は車体両側にある)。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/64/Toyota_Hiace_50_Wagon_001.JPG
こうやって見える所にあると、排ガスが侵入しにくいだけでなくて、オーナーがその役割や仕組みを認識しやすい。
ここに水がかかれば車内に侵入しそうだし、外部の臭いや有毒ガスもここから入りそうだと想像がつく。
そもそもフラッシュサーフェス化する理由は、空気抵抗低減と騒音低減の為だ。出っ張りや凹みというのは高速走行時にそこで空気の乱流や渦(カルマン渦列)を生む。乱流はゴーーという音で、カルマン渦はピューーという音だ。
この為にドア外板の中とかバンパーの裏に移動させられたのだ。更にバンパーもフラッシュサーフェス化されているので鉄のバンパーむき出しではなく、ウレタン樹脂で車体と面一にするカバーが付いた。
走行中の車体付近は空気が流れているから負圧になっており(ベルヌーイの定理)車体下も然りなのでこんな奥に隠された場所でも空気が吸いだされて用を成す。
代わりに全然考慮されていないのが停車時の排ガスの侵入である。ウレタンバンパーの上部は外板と密着しているから上った空気は上に抜けず通気口に全量が入ってしまう。
2016年には三重県の駐車場で仮眠中の19才二人がCO 中毒で死亡するという事故も起きている。
https://www.sankei.com/article/20161007-EJKMGZCUSJIRFLJ6U4NPX3TUMA/
この車両も軽のトールワゴンである。軽微なマフラーの破損が死亡事故に繋がったものだ。
一般的にマフラーの破損はCo中毒に繋がりやすく注意が必要な故障なのだが、それでもトールワゴンのこの通気口の場所という脆弱性が無ければ死亡には至らなかったとしてか思えない。
マフラーが少々壊れただけで死ぬ、という構造は安全性の面からどうなのか?個人的には相当にイカレてると思う。
トールワゴンはSUVから派生した、クロスカントリー性を撤去した低床レジャービークルである。
故にこういう特徴がある。
↓
SUV:車中泊しやすい、通気口は排ガスが侵入しやすい危険な場所にあるが車高が高いので塞がれにくく事故には至らない事が多い
↓
トールワゴン:車中泊しやすい、通気口が危険な場所にあり車高が低いので雪で容易に水上置換状態になる
という訳で、構造的な危険性がちゃんと認識されないままになし崩し的にSUVをそのまま低床化してしまったのだ。
更に車中泊しやすいのが問題で、起きていればCO中毒の初期症状、頭が痛い、眠いなどに気が付くが、寝てしまえば死亡事故まっしぐらである。つまり使用目的の上でも危険性が高い。
隠されているために後部通気口の事など知らないオーナーが殆どだろう。
だからマニュアルにも記載し、シール貼付などで「この車の通気口はここにある」「ここから排ガスが侵入する」と表示するのが必要と思われる。
またマスコミもちゃんとこの事故の構造的問題を認識して啓蒙に努めて欲しい。バンパーを外して「ここに通気口があるせいで排ガスが入るんですよ」「寝てた場合は必ず死にます」という報道をしているのを見た事が無い。
https://jaf.or.jp/common/kuruma-qa/category-natural/subcategory-snow/faq255
「外気導入口から排ガスが侵入」とか書いてるのよ。その前に後ろの通気口から入ってるんだよ!内部循環にしてても後ろの通気口にはシャッターが無いの!窓を開けても煙突状態になるから余計に車内に入っちゃうの!
JAFの実験はセダンには該当するがセダンよりワゴンやトールワゴンが売れてる現状では認識が不十分としか言えない。
最終的には低床車でも密閉型バンパーの裏に隠す今の方法を止めて、コストが少々かかっても安全なところに開口する方法にしないといけないだろう。
だが消費者運動が下火になり国交省もEU規制に倣っているだけの現状だとそれも難しい。遺族が構造の問題を訴えたりすれば流れは変わるかもしれないが。
尚、セダンなどでも車体下部に排ガスが溜まってしまえばシフトレバーの穴やら水抜き穴、前部の導入口から入ってくるのは同じなので時間の差こそあれ中毒死の危険は同じなので安心してはいけない。
なんとなく漠然と嫌いだから家族旅行はリゾートホテルとかばっか選んでいたのだけど、ストリップ取り締まったら温泉街が廃れたツイート見て思い出した。
バブル全盛期の子供の頃祖母につれられ行ったけど、何もなくて面白くなく、幼児だったから空いてる時間にいとこと一緒に男風呂女風呂どっちも行ってみたら、男風呂の方が広くて立派で景色も良くてびっくりして、男女客でこれだけ差をつけるって嫌な所だなーって思ったんだよ。
やがて風俗コンパニオンストリップ目当ての買春おっさんツアーのメッカと知り、汚くて猥雑で男尊女卑な所だなってイメージが強くて。
バブル崩壊しておっさん買春ツアーが消えて、風呂の男女格差もなくなって、なんとなく忘れてたけど、温泉むすめ見て、今でもあそこはエロ女体につられてきた男狙ってんだなと。
死刑制度が無ければ、自分の大切な人間を殺した人間に報復しても制度に殺される心配が無いから、廃止した方が良いやん?
……というのは冗談だけれども、「復讐したい」という気持ちと「死刑という制度への反対」は同時に成立し得るわけで、その二つを直結させるのは、ちょっと飛躍があるよ。同じく、死刑制度存置派が悪でリアリストで、死刑制度廃止派が善でグローバルスタンダード、みたいな思い込みも、ちょっとものごとを単純に見過ぎているよね。
個人的に感じる、そもそも漠然と「人を殺すこと」への忌避感は、「死刑だ!」と叫ぶ人の中にも当然あるわけだよね(だからこそ殺人に対して過剰に反応するわけだから)。だから、「人を殺してはいけない」という規範と整合的なのは、むしろその「人を殺したくない」という気持ちであって、制度をそちらに寄せて設計するというのはそれなりに理には叶ってると思うんだよ。死刑制度が必要と叫ぶ人は心の中では、周囲が蛮族しかいない状況で暮らしていて制度的にそこまでキツく縛らないと誰もが人を殺しかねない、と感じているのかもしれない。……まあ、昨今のニュースを見ていると、ここが蛮族の地であることを、いまいち否定しきれないけれども。ただ、安心を求めたいのは分かるとしても、それはいわゆる「お気持ち」であって、本当にそれが制度としてベストなのか、っていうのはまた議論の余地があると思うんだよ。
たとえば、いわゆる凶悪犯罪に関する資料を読んでいると、「人を殺したら死刑になる(からやめておく)」みたいな歯止めが一体どれくらい有効なのか、まさに「現実的に」考えて疑問に思うことはあるよね。どちらかというと、「人を殺したら自分が殺されるから利益が無いな」と考えて殺人を止めるという思考はほとんどサイコパスの(=極端に合理的にしか物事を処理できない)それであって、一般的な人は、よほど追い込まれたか自暴自棄になって殺人を犯すんじゃないだろうか。だとしたら、「死刑がある」から歯止めがある、という論には説得力がないよね。まあ、「自殺したいけど自分で死ぬのは怖いから死刑になるような犯罪をやりました」とかいうとんでもない人間がいる時点で、歯止め論は破綻しているんだけども。
いわゆる凶悪犯罪(殺人も含めた)を犯した人が社会に戻って、再び刑務所に入る確率って、だいたい1~2割だと言われている。やっぱり1~2割のヤツは凶悪じゃん! て思うだろうか。それとも、刑務所帰りの人にそれなりに冷たい社会であるにも関わらず、凶悪犯罪をする人だって、状況が違えば、あるいは、適切な教育を経たなら、8~9割の人は殺人なんかしない人だった、と考えるか。これは、半分水が入ったコップを眺める楽観論者と否定論者の議論のようなもので、取りようによって見方によって異なるのかもしれない。けれども、これが(すぐ隣にある)死刑囚にも延長して考えられるなら、少なく見ても「死刑」になる人の7~8割は、状況が違えばそんなことしなかった、「普通の人」なんじゃないだろうか、と推測することは可能だ。まあ、そういう風に考える人も世の中にはいるという話として聞いて欲しい。
……自分自身が、生まれつきそんなこと考えるほど楽観的な人間観をもっていたわけではないんだけど、上のように考えて実際に行動に移す人が世の中にはいるんだよ。そして、多年にわたる行動の結果、「どう考えても救いようなんてないヤツ」としか思えないような言動をしてた死刑囚から、真人間のような言葉を引き出すのに成功したりもしている。いや、そんなことお前にできるのかと言われても、普通にできないと思うよ。でも、出来る人がいるわけだから、それを否定するのはおかしいとも思う。実際やってる人は強いよ。死刑制度というのは、そういう人や考え方を否定する制度だと思うんだよね。それって、おかしくないか。
よく言われる「遺族感情」というヤツ、これもくせ者だと思う。遺族感情って何だろう。遺族は全員「復讐」を望まなくてはいけないのかな。復讐を望むことだけが「正しい遺族」なのかな。なんでそれが決めつけられるのだろう。だって、物語とかなら誰だって言うじゃん、「復讐は何も生まない」とか「復讐にとらわれるのではなく、お前の人生を生きろ」みたいな。で、大体においてそれは正しいよね。現実世界でも同じだと思うんだけど。警察があり裁判制度が整備されている現代では、(死刑制度の有無は別として)不公正な行いに対しては社会的に処罰が行われ、個人的な敵討ちをする必要がなくなっている。それは何よりも、「復讐」から個人を解き放つことが社会としては「正しいこと」だと考えられているからじゃないかな(だから、冒頭の話は私の本音とかではなくて、ただの冗談だよ?)。死刑を存置する理由として「遺族感情」をもってくるのは、個人的には危うい理論だと思う。そもそも検証できない一時の感情を絶対の事実のように語って全体の制度の前提にする危うさ。だから「遺族感情」論にも説得力を感じない。実際に遺族になってみないと分からないし、自分がそうなったとき何を感じ何を望むかは分からない。少なくとも、誰かに勝手に自分の錯綜する内心を決めつけて欲しくないとは思うと思う。
そして、もう一度「更生」に関する話に戻るけど、そんな手間を一人ひとりにかけていられるわけないじゃん、って「リアリスト」的な方々から反発の声があがることも予想できるんよ。でもちょっと待って。それって「余裕が無い=お金がない」という、ただそれだけの話だよね。じゃあ、死刑賛成派のリアリストは、「悪いことしたからお前ら死んで」と言うフリをしながら、本当は「いや、お金がないからお前死んで」って言ってるってこと? それってひどくない。何よりも、そもそも「殺人は(理由のいかんを問わず)許されざる罪」というのは、死刑賛成派の大義名分だったのではないのか。そして、百歩譲って「その殺人の罪が余りにも重いがゆえに、死をもってしか購えず」というのが死刑肯定の最後の妥協点であるはずではないの。なのに、いつのまに「いや、実はお金がないからお前には死んでほしいんだよねー」って話になってんの? それ、お金目当てに強盗殺人とか犯した犯罪者の言い分とどれほど違うのか教えてほしい。そんなこと言う人間に、誰かを裁いて死なせる権利が本当にあるの。自称「リアリスト」による死刑賛成論にも、こうして同意はできないことになる。
そして最後に、これは同意されるかどうかは分からないけど、「国家」という仕組みを自分はそこまで信頼してないんだよね。明治、大正、昭和と近代史を勉強したせいかも分からないけど、ものすごく大雑把に言うと「国家」だって運営しているのは人間なので、とても未熟な人間がやらかしがちな誤りを犯すことがよくあるんだよ。善意でつくった法律がとんでもない運用をされて混乱引きおこしたりとか、末端の人の過大解釈を引きおこしたりとか、それによって取り返しの付かない傷を国家が負ったりとか、そんな事例が山ほどあるのね。その中でも特に致命的で取り返しの付かない被害を引きおこしかねない制度が「国家が国民を直接殺せる制度」なんだよ。たとえ獄中であっても、生きていれば、体制がまともになったときに再び戻ることもでき、取り返しがつくこともある。だけど、死んだら全て終わりなんだ。その意味では、余談になるけど、東京裁判で戦争犯罪人を死刑にしたのも、本質的には誤っていると思ってる。東京裁判自体が勝者の裁きであり……云々という話もそうだけど、彼ら戦争犯罪人に真の意味での「責任」があるかないか、生きて語らせた上で、占領終了後に改めて日本人自身の手で検証をさせるべきだったと思う。危険だと言うなら、終身刑として、検証まで徹底的に隔離して置けばよい。彼らを死刑にしたのは、復讐と、象徴的行為(つまり見せしめ)と、それから一歩踏み込んで言えば、別の責任者を免責するためという、きわめて政治的な行為だったんだろうね。戦争をきちんと精算しきれていない、という問題は、そのせいで今も日本に残る「疚しさ」という課題になっている。まあ、多少の「疚しさ」がある方が結果的には全体として健全さを保てる、という見方もあるから、そのことを100%否定したいわけでもないけどね。
まあ、まとめると、元々あった漠然とした「人を殺すことは正しいのか?」という疑問、更生に関わった人の記録、制度的矛盾への気づき……などから、20代半ばからゆるやかに死刑には賛成できないという立場になったという感じ。死刑賛成論が、純粋な正義感から発していることは重々理解する。けれども、今のところ「消極的に、現状を追認し、急激な変化への対応を先送りする……」以外に、現代において死刑を存置すべき理路が全く見当たらないんだよね。というわけで、質問に答えたので逆に教えてほしいんだけど、死刑を存置すべき、何か自分には想像もつかないような理路が他にあるのかな。それとも「死刑は行うべし」というのは、増田にとってはもう公理なのかな。
最近全く同じことを考えている30女です。
恋人のようなそうでないような、たまに泊まりに来る異性の友人がいます。
私たちの関係としては、付き合ってるんだかわからないけどまあ長いこと仲良くやれたら40あたりで別居婚か週末婚でもしますか、みたいなだらしなく曖昧な感じです。
お互い毒親育ちで非婚願望が強いのですがさみしいので、固定で一緒に食事やセックスや外出をするくらいがいいとお互い思っています。
個人的にはこの、月に一回仲のいい異性が泊まりに来る・月に二度外食をする・季節に一度外出をするを続けながら月のうち28日間は一人暮らしというのが一番幸せです。
他人から見たらお互い無責任で、いつかどちらかに本格的に交際をしたい相手ができたらすぐに崩れる不安定な関係ですが、同棲でもして嫌いになるよりいいと思っています。
あとは40くらいになったらもっと漠然としたさみしさが濃くなってくると思うので、わんこと暮らすつもりです。
子どもは大好きなので、友人の子どもを都合よくかわいがったり、トーマスランドなり連れてったり、お祝いしたりしてるととても心が満たされます。親戚のような感じで、年末年始や七五三に呼んでくれる友人がありがたいです。
スーパーで食玩を真剣に選ぶ子どもを見るだけで、あーかわいい。と幸せになります。
記念日やクリスマスにはあまり興味ないですが、気まぐれで件の友人とそれっぽいお祝いをしたりもします。
趣味や仕事で忙しいのと、体力があまりないのでこんな感じで人生を終えられたらいいなと思っています。
世の一人暮らしをしているそれなりの年齢の人と話がしたい。
一人暮らしには色んな理由があると思う。まず単純に1人が好きで選んでしているパターン。もしくは家族がもういない、同棲相手と分かれたなど、一時的にそう、というパターン。それはいい、いずれ結婚するつもり、誰かと暮らすつもり、そうではなくて基本的にこのままずっと一人暮らしだと思う、という人と話がしたい。
それってそんなに悪いことなんだろうか。自分もそのパターンだけど毎日ダラダラ仕事しながら趣味を満喫してなんのストレスもなく日々を楽しんでいる。家事はそこそこ苦手だけど1人だから仕方なくやっているし、料理は趣味だから飲食は苦にならないし、趣味が多いのであまり暇を感じることもない。根本的に布団でだらけるのも好きなのでいわゆる虚無時間すら満喫している。少ないが友人にも恵まれているのでたまにお出かけしたり、食事に出掛けるのも楽しい。
ただこれ、いつまでこうなんだろう。わたしは一人暮らしで、きっとずっと生活リズムも優先順位も変わらない。考え方なんかもなかなか更新されないだろう。
そんな中で周りの人はすごい勢いで結婚や出産などいわゆるライフステージが変わっていっている。いつまで普通に話していけるんだろう。近いうちろくに遊んでもらえなくなり、一人きりになるんだろうか。それが不安な反面、自分が結婚など人と暮らす気持ちにはなかなかなれないし、一人きりが嫌かと言われればそうでもない。純粋に、だんだん年をとって一人になっていくのか、と思うと漠然とした虚しさみたいなものを感じる。
もちろん自分で選んでこういう結果になっているので、同様に選んで今この立場に近い人がいたら話をしたいなと思う。一人暮らしを選んでいる人、数年後のことを考えた時どう思ってるんだろう。
男オタク文化外から揶揄の意図で「萌え絵」という単語が使われだしたのが00年代。デ・ジ・キャラットの登場前後からのオタク向け絵柄の流行を差してそう呼んだのではないか。CCさくらやエヴァやセラムンの時代には「萌え」という単語は使われていたものの「萌え絵」という概念はまだなかったと思う。
デ・ジ・キャラット辺りからざっくりと男オタクの好みそうな絵柄を「萌え絵」と呼ぶようになったので、デ・ジ・キャラットもハルヒもけいおんも魔まマも駅乃みちかも画風はそれぞれ違っているのに「萌え絵」の範疇となる。定義は漠然としている。
BLなのに「非BL」とは。
作者自ら本作を「BL」と明言しており、編集部もBLとして売り出したようなのだが、本作は某BLレビューサイトには「非BL」作品に分類されている。何故なのかというと、単にBLレーベルの作品ではないからだと思う。だが、レビューを見てみると、本作が「非BL」に分類される理由はレーベルの問題以外にもあると思う読者もいるのがわかる。
男×男=BL ではない。
実は商業BLにはけっこう厳しめのルールがあって、それを満たさないものをBLとは見なさないようなのだ。私の知っている限りでは、以下のルールがあるっぽい。
何よりもボーイズがラブすることが最優先であること。(話の面白さは二の次である)
主な読者である女性を不快にさせることを書いてはならない(例:攻めの浮気描写。女性とのセックス描写。そもそも無駄に女性キャラを出すとかあり得ない。など。)
そんな感じなので、セックスどころかキスもハグもしない『日々、君』はBLではないと言われてしまう訳だ。けれども、恋愛になりそうでならない感じでもだもだしつつ、着実に互いの距離感を縮めていく描写は、恋愛ものの基本かつ根幹って感じがするよなぁ。
なお、上記で紹介した『左近の桜』もレーベルの問題で非BLなんだけど、亡霊達×桜蔵という、桜蔵総受けBL状態でありながら本命のカプと見なされる柾×桜蔵はずっとノータッチ状態なのがまた非BLとされる一要素かもしれない。
はぁ……、商業BL(とそのファン)って面倒臭いな。以下、BL雑記。
BLというジャンルが確立されたせいで行き場を無くす表現もある。
商業BLにはルールがあるが、個人で書いているぶんにはそこまで厳格にこれはBLだがあれはBLではないとかやらなくていいはずだ。
ところが、Web投稿サイトに投稿するとなれば話が微妙になってくる。中にはBLガチ勢字書きや商業で食っていきたいセミプロBL書きとかも混ざっている。読み手にしても、漠然とBLっていうのは男同士でヤってればいいんでしょと思ってるだけの人から、商業BL同等の物を読みたい人もいる。
私個人の感覚では、BLを書いて投稿サイトに投稿し、多くの人に読まれたいと思ったら、商業BLのルールに則った物を書くのが無難なのかなって感じる。人類の半分が女だからって登場人物の半数が女だったりとか、攻めが浮気しまくりとか、カプ離別バッドエンドとかは書かない方がいいんじゃないかと……。ただ無視されるだけならまだしも、「それはBLではないです」って苦情が来たらつらいし。
じゃあ、そんなBLルールは窮屈だからってBLタグを外して「ヒューマンドラマ」だの「サスペンス」「学園ドラマ」etcのタグだけ着けて投稿すれば、後から親切な読者に「BL」タグを追加されるとか、「腐媚びキメェ」と苦情が来るかもしれない……。なまじっか面白い物を書いてしまった場合、BLと明記しなければ人はそれを一般向けとして読む……ばかりか、何となく「男性向け」に近いものと読んでしまい、後から「なんだよ女向けじゃねえかよ」とか「もっと男が喜ぶようなこと書けよ」って苦情も来るかもしれない。
……とかいう話を、最近、とあるBL字書きコミュニティで話し合ったのだった。BLというジャンルがあるせいで、BLではない男×男の作品って行き場がなくない? と。
で、どうする? って話で。対話の相手は、そんなら仕方ないから腐女子から顰蹙買ってもいいからBLと言い張って書くよ、とのこと。一般向けと見られて、もっと人気を出すために男向けの表現……たとえば従順で可愛い巨乳の女を書くくらいなら、生意気で男の言うことをきかない女の登場する「BL」を書きたい、と。なるほど。
プロの世界なら、純文学とかエンタメ系という性別どっち向けとかないジャンルで書いていけるけど、Webの素人小説書きはどっち着かずではやっていけないんだよね……という話。
それとは別に、私が思うBLの不自由で厄介だと思う点は、BLは男同士の関係が恋愛に帰結するということ。虐待も執念も「愛ゆえ」ということになってしまうので、へたに男→男の性犯罪からの復讐譚みたいなものを書いてしまって、それをBLとしてWebに投稿しちゃったりすると、暴力描写が「癖」とみなされ一部の読者がたいそう喜ぶ……かもしれない。というのは、よろしくないよなぁと思う。たとえば殺意は殺意なのだが、BLマジックがかかると恋情や愛情になってしまう。という歪さかげんにむずむずする時がある。