2021-11-27

宮沢賢治の『ツェねずみ』の話

 宮沢賢治全集を読んでいる。

 清廉なこころのあり方と幻想的な描写、というイメージで語られることが多い作家だと思うが、まだあまり作品を読んだことがない人で、このぐらいの理解でいたら、損をしていると言いたい。

 宮沢賢治の良さは他にも、観察眼を突き詰めると対象への愛情とともに冷徹さを伴う好例のような、少し寒気がするほど容赦のない描写や、人を食っているとしか思えない異様な会話劇があって、これはサンドウィッチマン文字起こしされた漫才を読んでいるのと同じくらい笑える。みんな読んだらいいと思う(『気のいい火山弾』『毒もみのすきな署長さん』がおすすめ)。

 さて『ツェねずみ』だ。

 これも宮沢賢治短編で、ある種の人間とそれが引き起こす不幸のことを、他の文芸作品では触れた経験がないぐらい明らかにしており、衝撃だった。

 ツェねずみという一匹の鼠が屋根裏に住んでいる。

 ツェねずみは要領が悪い一方で欲が深く、性格ねじ曲がっているので、誰かから親切を受けても、「もっと自分のためになるように優しくすることもできたのに、それを怠った」という考え方をするため、みんなから死ぬほど嫌われていた。

 本来なら恩を受けた時点でプラス(という表現もアレだが)のはずが、工夫次第でもっとプラスにできたはずのことを、そうしなかったので実質マイナス、というのがツェねずみロジックだ。

 だから「損失」を弁償しろ、とツェねずみは主張する。

 ツェねずみ自分理屈をどう考えているのかは書かれていない。

 不合理だという自覚があるのか、常軌を素で逸しているのか。

 宮沢賢治がここに意識的言及していないのかはわからないが、明示されていないことが実に効果的だと思う。俺は、「最初自分でもムチャな理屈だと思っていたが、言い続けているうちに世の中がこれで渡れることがわかったので、次第に正気を失ってきた」と読む。

 そんな中で、唯一ツェねずみに優しく接するものがいた。「鼠捕り機」だ。

 宮沢賢治作品では、物体でも機械でも平気で人格を持って話し始めてしまう。木の柱だとかバケツだとか、そういうものだ。

 他の物体がツェねずみに嫌気がさして付き合いをやめていく中、鼠捕り機だけはツェねずみと仲良くしようとする。

 その理由は、鼠捕り機が(宮沢賢治時代でさえ)人間社会にはもう不要、という扱いになっており、邪魔者とみなされていたので、鼠捕り機も他に親しく付き合える相手がいなかったからだ。

 鼠捕り機は自分に仕掛けられた魚の頭やハンペンを、あえて罠の扉を閉めないことで、ツェねずみ交流を持つ。本来的には殺される者と殺す者という構造であったはずが、ねずみの強欲(と狂気)、鼠捕り機の孤独によって、いびつな友好が成立する。

 悲劇は、ツェねずみ尊大さに制限がかからなかったこと、そして、鼠捕り機の忍耐が特別優れていたわけではなく、通常の寛大さしかもたなかったことで生まれる。

 ツェねずみは、相手機械の本分を放棄して食べ物を与えてくれているという、ある種の奇跡自分に起きていることに気づかない。この幸運をどん欲に消費し、さらに良い物を鼠捕り機に求める。相手ののしることさえする。

 あるとき、鼠捕り機はののしられて一瞬われを忘れ、罠の扉をおろししまう。ツェねずみは閉じ込められ、お互いは本来の、殺される者と殺す者の関係に戻る。

 機械悲劇の方が、俺には身近に感じる。

 鼠を殺さない鼠捕り機、という存在は非常に奇妙だ。まともに生きにくい変わり者であると同時に、現代社会風で言えば「意識が高い」「キャラクターが立っている」という考え方も、できなくはない。

 ただ、自分が変わっていることを自覚して、それを生きる上での背骨にしてやっていこうとすると破滅が起きる。

 変わり者は、自分変人だと知ると、まるでこれが一種の才能と考えたくなりがちだが(個性が重視されるはずの現代ではなおさら?)、実際は関係がない。世の中的には本当はなんの意味もないことだ。

 なので、「変わり者として生きていこう」という目標基本的破綻するさだめにある。

 社会からは、なんでもいいか普通にやってくれ、と要求されるし、より強大な理由としては、変わり者自身の中にもちゃんと「普通」の部分があるからだ(鼠捕り機でいう罠としての本分)。

 社会と自らの内側の本性によって、人間は結局、まともに生きていかざるを得ない。鼠捕り機でいえば、優しかろうが意識が高かろうが、罠は罠らしく獲物を殺して生きていくしかない、ということだ。

 一方、ツェねずみの強欲と狂気も身に覚えがないこともない。

 対象が親しい人間でも漠然とした世の中全体でもいいが、基本的自我というのは、幸運をあり得ないものとして感謝するのをおこたりがちで、むしろそれを平時ベースとして、さらに豊かなものを求めようとする。

 要求する相手が生身の人間だろうと、社会という概念だろうと、いずれにしてもこんなことはいつまでも続かないので、いつか破綻を迎える。

 破滅した側の人間はこれを不幸だと感じるだろう。

 自分の望むものが度を過ぎていたので客観的には不幸でもなんでもないが、こういう「幸福幸福として認識できないバグ」が心理に埋め込まれていることが、別の意味で「不幸」ではあるかもしれない。

 おそろしいような気がすることとして、ねずみと鼠捕り機のカップリングは、ある種の人間関係として、友人・恋人家族同士の間で、思いのほかこの世で多く起きているような気がする。

 たぶん社会のあちこちで、「自分には特別な才能があるから少し変わった生き方でもやっていけるし、罠としての本分を超克して目の前のねずみと生きていける」と錯覚した鼠捕り機と、「まあこれぐらいは相手要求しても飲むだろう」と思い込んだねずみが、ある日双方のブレーキアクセルをぶっ壊して悲劇を生んでいる。

 また、俺が自分で感じたように、一人の人間の中にも、ねずみと鼠捕り機の両方が住んで同居している場合がある。宮沢賢治の『ツェねずみ』を、俺は『気のいい火山弾』と同じでサンドウィッチマンとか千鳥漫才台本とおなじくらいのつもりで読み始めたが、人間の本性と世界との関わり方の運命的な破滅についておそろしく冷徹に書かれていて感嘆した。すげえと思う。

 難しいのはねずみと鼠捕り機の関係で、鼠捕り機は自分の忍耐が切れて相手をとって食ってしまう前に相手から距離を置いた方がいいと思うが、人間という存在希望も美しさも、鼠捕り機が自分の本性を乗り越えたり、周囲から押し付けられた役割放棄して世の中を意識的サヴァイヴしていくことで描かれがちだということで、実際それに成功した人は素晴らしいと思うし、この辺は正直どうにもならんのかな、と思っている。

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