はてなキーワード: 国民国家とは
http://www.asahi.com/articles/ASJ807DWVJ80ULBJ017.html
まずタイトルを読んで、乾いた笑いが出た。
自分は「放射脳」というほどではなく単に国の原発政策にやや懐疑的な一市民に過ぎないが、
それでも、「国家」とか「政府」が歴史的にみて10万年続くものではないということくらいは常識として理解している。
10万どころかたった1万年でも、保証できる存在など今の地球上に存在しないだろう。
近代の国民国家だけを意味するのでないとしても、1万年続いた組織体などまだ人類はもったことがない。
政府は、10万年先にこの土地に居住する「なにものか」に成り代わって、勝手に
その使用権を代行し用途を決め権利を先取りしてツケを回しているわけだ。
もし10万年分の借地権料が、先払いなら、私たちは未来の世代にいったいいくら支払えばいいのだろう?
そして10万年分の借地権料の支払いを、どうして利益を得る我々でなく、未来の世代に背負わせるのだろう?
今後いったいどれだけの手形が必要なのか、誰も数える気すらなくしたまま原発は続く。
「1000年後まで管理しますよ」と私が保証してもあなたが保証しても、誰もそれを信用しない。
それでいい。誰もその寿命を超えて何かを保証することなどできないと思う。それが健全な常識というものだ。
なのに「国家」と「10万年」という取り合わせを、奇妙に思わないことがとても奇妙だ。
常識を失わなければ維持できない。それが原発というものなのか。
「信頼せよ」という。「任せろ」という。常識を失った顔で言う。
パリにおけるテロの一報を聞いた時、シリアやイラクの『まっすぐな国境線』を私は思った。
『ISを空爆しているからテロに遭った』という単純な話ではないのだ。
その『国民国家』が軍事力で相互に牽制し合う秩序、『ウェストファリア体制』ができたのは1648年。西欧という、極小の地域で生まれた。
18世紀以降、西欧諸国はこの『国』という真新しい概念を世界中に押し付けていく。
日本も例外ではなく、武力による恫喝でウェストファリア体制に組み込まれた。
明治維新と言えば聞こえは良いが、列強の外交圧力に屈服したにほかならない。
ウェストファリア体制の押し付けで、最も割を食ったのは中近東とアフリカだろう。
かの地域に『国』などなく、あるのは氏族社会(日本では部族(tribe)社会と呼ばれるが、国際的には氏族(clan)を用いる)だけであったし、今もそうだ。
氏族社会にとって『国』は不要どころか、不自然な国境線と独立・民族戦争を生んだ悪魔と言って良い。
うまく想像できない人は『明治維新に失敗した日本』を想像すれば良い。
成り上がりの強国に植民地支配され、解放後もモノカルチャー経済で貧困に喘ぎ、近代化できずにいる日本を想像すれば良い。
恨みを持たない方が不思議だろう。
英仏露が中近東を引っ掻き回した、100年前の一次大戦も『国』の押し売りであった。
同情しなくもないが、被害諸国から見れば悪の統領である。9.11は必然だった。
時に米国と対立するフランスだが、両国の同盟関係は100年以上も続いている。
サルコジ以降はNATOにも復帰したから、軍事同盟国でもある。
パリにおけるテロは、9.11をスケールダウンさせただけで、構造は同じだ。起こるべくして起きた。
日本は?
考えるだに恐ろしい。
フランスと同じではないか。違うのは『ISを空爆していないこと』だけだ。
日露戦争の時は『列強に一矢報いた第三世界の星』だったかもしれない。
しかし、その栄誉はすっかり摩滅し、今は跡形も無い。
イラク戦争を支持・派兵し、米国の同盟国で、米軍海外基地(規模では世界第二位)を有している。
湾岸戦争の時のように、大金をバラ撒くのか? 口だけの『平和外交』を続けるのか?
馬鹿にされるだけだろう。
もう誰も覚えていないと思うけど、3年ほど前、ここに、"Hello world!"というタイトルのエントリを投稿した。あの話の続きをしようと思う。
※このお話はたぶんフィクションです。実在の人物や団体とはあんまり関係ありません。
※前回のあらすじ:高校中退→工場派遣→プログラマ→ホームレス→自立支援施設→プログラマ→海外放浪→職業訓練→世界一周アプリを作る
あれから3年、いろんなことがあった。またプログラマとして働いたり、またホームレスになったり、福島で除染作業員をしたり、本当にいろいろあったけど、 今回の主題にはあんまり関係ないのでざっくりはしょる。今回の主題は世界一周についてである。
僕はいつか世界を巡る旅をする。10年くらいかけて。わりと本気で。その計画を立てるためのアプリケーションも作った。でもそのアプリは正式リリース以降、開発が頓挫している。開発を進めるにあたって、致命的な問題があることがわかったからだ。それは、開発者である僕自身が、この世界について何も知らないに等しい、という問題だ。
開発者は、システム化する対象に関して、誰よりも精通していなければならない。業務用アプリケーションの開発なら、 その会社の業務フローについて、社内の誰よりも詳しくなくてはいけない。システム開発とはそういうものだ。そして今度の対象は世界だ。すべての国だ。それを僕自身が知らなくてはならないのだ。
しかし世界は巨大で、そして複雑だ。
国連加盟国は現時点で193か国。それぞれの国の下に州や省や県があり、その下に市区町村があり、そういった階層的な行政単位以外にも、歴史的背景から自治区になっているところや特別行政区、連邦直轄領もあり……。
そういや連邦ってなんだろう。なんとなく知っているようでいて、詳しくはわからない。王国と共和国ってどう違うんだろう。国の形ってなんでこんなにいろいろあるんだろう。いやそもそも国ってなんなんだ。どうすれば「国」になるんだ。
国連に加盟していればいいのか。いや国連非加盟の国もあるじゃないか。国家の三要素(領域、人民、主権)を満たしていればいいのか。しかしそれを満たしていることを誰が認定するんだ。他国からの承認があればいいのか。その他国は誰が国だと承認したんだ。政治的問題から国なのか国じゃないのかはっきりしない地域だってたくさんある。国とか国じゃないとか最初に言い出したのは誰なのかしら。
それは世界一周アプリの開発中に国データをちまちま作っていたときにも思ったことだ。もしかして「国」というのは、僕が思っていたほど絶対的で、はっきりしたものではなく、相対的で、曖昧なものなんだろうか。
わからない。わからないことだらけだ。こんなもの本当にシステム化できるのか。複雑ってレベルじゃねーぞ。これが仕事だったら「うんこー☆」とかいいながら全力で投げ出しているところだ。しかしこれは仕事ではない。これは仕事ではないので、真剣に取り組まなければならないし、投げ出すわけにはいかないのである。
だけど、 どうしたらいいんだろう。世界はあまりに巨大で、複雑で、茫洋としている。何かとっかかりが必要だと思った。基点が必要だと思った。人でも物でも事柄でもいい。それをとっかかりにして、基点にして、少しずつ裾野を広げていけばいいのではないか。そう思って、自分の記憶を探ってみる。僕の基点、時間軸と空間軸の原点、それは子供のころ、ブラウン管の向こうに見た、落書きだらけの大きな壁だった。
1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。僕が9歳のときだった。ニュースは連日連夜、この話題で持ちきりだった。興奮気味に壁を壊す人たち、全身で喜びを表現する人たち、泣きながら抱き合う人たちもいた。世界中が大騒ぎになっているようだった。僕はその映像を、意味もわからずただぼんやりと見ていた。
それからしばらくして、社会科の教科書の世界地図が大きく書き換わった。ソ連という国がなくなり、新しい国がたくさんできたのだという。国がなくなる? 国が新しくできる? その意味もまたよくわからなかった。
時間軸は一気に飛び、ベルリンの壁崩壊から20年以上たったころ、僕は生まれて初めて日本を出た。半年かけて海外を放浪した。特に目的もない旅だった。だからその場所に行ったのも、ほんの気まぐれだった。
ベトナムのホーチミン市にある戦争証跡博物館。ベトナム戦争の記憶を後世に伝える博物館だ。旅の途中にふらりと立ち寄ったそこで見たものを、僕はいまでもフラッシュバックのようにありありと思い出せる。
銃器、対戦車地雷、その他さまざまな武器弾薬が「こうやって使われていたんだ」といわんばかりに、実際に使用している場面の写真と並べて展示されている。銃を突きつけられて悲壮な顔をしている男性、道ばたで血まみれになって死んでいる子供、虫の死骸のように雑多に並べられた人の死骸、そんな凄惨な写真がこれでもかと並ぶ。
何か、自分の中で価値観が急速に書き換わっていくのを感じた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、いろんな言葉が浮かんでは消えていく。
「資本主義」
「共産主義」
「イデオロギーとは何だ?」
そのとき同時に頭の中に浮かびあがってきたのが、子供のころに見たベルリンの壁崩壊のニュース映像だった。あれから20年以上たってようやく僕は、あの人たちがどうしてあんなに泣いたり喜んだりしていたのか、少しだけ理解できたのだ。
あの博物館で僕がもっとも強く感じたのは、「戦争は悲惨だ」という事実ではなく、「どうしてここまでのことになったのか?」という疑問だった。人が人を虫けらのように殺す、その理由が知りたい。そこには絶対にそれなりの経緯があるはずである。東西冷戦とは何だったのか、僕はまずそれを知らなければならない。
しかしこうなるともう最初から世界史をやり直したほうが早いんじゃないかと思った。よし、時間軸を一気に人類の歴史の始まりまで巻き戻そう。
まずは大河流域で文明がおこる。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河。うわー、すげー懐かしい。そして農耕が発達する。食料を安定して収穫・保存できるようになると権力が生まれる。そこからは世界各地で似たような権力闘争が延々と繰り返される。
特に印象深いのが「カノッサの屈辱」だ。十代のころ、学校でこれを習ったときは意味がわからなかった。この人たちは何をそんなに必死になっているんだろうと思っていた。いまならわかる。目的は、権力そのものなのだ。人の頭を踏みつけること、人を思い通りに動かすこと、それ自体が目的であって、権力によって得られる富や名声は二の次なのだ。それは自分の経験を振り返ってみてもわかる。ヤンキーの世界でもエリートの世界でも、どんな場所でもどんな階層でも、人間が集まれば、始まるのはいつも頭の踏みつけあいである。それが直接的か間接的か、下品か上品かという違いはあれど、やっていることは同じだった。だから世界史に記されたこのくだらない争いの数々も、いまは実感を持って理解できる。
そして絶対的な権力者である神によって凍結されていた歴史が、ルネサンス以降、急速に動き始める。宗教改革、名誉革命、フランス革命。それまで聖職者や王侯貴族が持っていた権力が少しずつ引き剥がされていく。そしてフランス王国はフランス共和国に。ああそうか、王国と共和国の違いって「王様」がいるかいないかなのか。さらに現代の「国」という概念、国民国家というのも、このころに生まれてきたもののようだ。人類の歴史から俯瞰すれば、ここ200年くらいの「流行」にすぎないのだ。
しかしフランス革命って華々しいイメージだったけど、こうして改めて調べてみると、革命政権の恐怖政治によって何万もの人間が処刑されていたり、何度も王政に戻っていたり、混沌としすぎていて、華々しいなんてとてもいえない血まみれの革命だったのだと気づかされる。
そんな混沌の中、産業革命を経て、歴史はさらに加速する。権力のあり方も変わる。聖職者や王侯貴族に変わって資本家が台頭してくる。資本主義が加速する。貧富の差が拡大していく。賃金労働者は悲惨な労働環境で搾取され続ける。暗澹とした空気の中、社会主義・共産主義という思想が台頭し始める。ロシア革命が起こる。世界初の社会主義国、ソビエト連邦が誕生する。
いままで社会主義ってあまりいいイメージはなかったけど、こうして順序立てて成立の経緯を追っていくと、歴史の中での必然性がわかる。みんな、もう誰も頭を踏みつけあわずにすむ世界が欲しかったのだ。だから既存の権力や富や労働のあり方を強制的に変える。そしてそれが国の形を変える。そうか、国の形ってこういうふうに決まるのか。
しかし計画経済ってなんだろう。どうしてそんなものが必要になったんだろう。と思って、初心者向けの経済学の本を何冊か読んでみた。めちゃくちゃおもしろかった。経済ってこういうものなのかと思った。市場経済では必ず景気は好況と不況を繰り返し、いつかどこかで恐慌を引き起こす。そんな繰り返しをさせないために、計画経済では政府の計画にしたがって商品を生産する。そうか、そんな経済の形もあるのかと思った。ずっと現代日本で生きてきた僕にとっては、市場経済があたりまえすぎて、市場の自由がどうの規制がどうのといわれても、これまでピンとこなかった。「あたりまえ」のことは、対比されるものがないと、それを知覚することさえできないものなのだと知った。
その市場経済へのアンチテーゼとしての計画経済は、しかし破綻する。いつ、どこで、誰が、何を、どのくらい欲するか、なんてことを計算し尽くすには、リソースが足りなさすぎたのだ。結果が出ているいまだからいえることなのかもしれないけど、少数の頭のいい集団の演算能力よりも、多数の平凡な人間の無意識的な分散コンピューティング(見えざる手)のほうが演算能力は遥かに高いのである。
そして社会主義自体も破綻する。ソ連型の社会主義では一党独裁を必要とする。しかし絶対的な権力は絶対的に腐敗する。それは歴史が証明している。独裁政権は必然的に暴走していく。これも僕は経験として知っている。「いじり」がいつも「いじめ」に発展するのと同じだ。他人をおもちゃにできる、自分の思い通りにできる、これは権力である。そして「いじり」は場の空気によって正当化されるので抑制がない。抑制のない絶対的な権力は暴走する。だから 「いじり」はいつも「いじめ」に発展する。企業内のハラスメントや家庭内の虐待も同様だ。人間は好き勝手にできる状況に立たされたとき、好き勝手に振る舞うものなのだ。そうか、チェックアンドバランスってそのために必要なのか。絶対的な権力は絶対に生み出してはならない。権力は絶対的に抑制されなければならないのだ。三権分立を唱えたモンテスキューさんマジパネェすわ。
こうして自由主義・資本主義の矛盾への疑問から生まれた社会主義・共産主義は、自身に内包していた矛盾によって自壊していく。そして時間軸と空間軸はまた原点に戻る。冷戦の象徴であり、永遠に世界を二分し続けるかのように思われていたベルリンの壁が、ささいな行き違いからあっけなく崩壊する。ほどなくしてソビエト連邦から次々に構成国が離脱し(国が新しくできる)、連邦は解体される(国がなくなる)。
天秤の片方から社会主義・共産主義が脱落したことにより、その後、世界はまた自由主義・資本主義へと大きく傾いていく。混合経済の社会主義的な部分が次々と取り払われていく。その結果が、派遣法改正だったり、リーマンショックだったりするのだ。そしてそれらは僕の人生にも多大な影響を与えている。そうだ、これはひとごとではない。遠い昔にあった「歴史」でもない。僕がいま生きている「現代」の話なのだ。
そうか、世界ってこういうふうに動いていたのか。少しずついろんなことがわかってきた。国とは何か。イデオロギーとは何か。なぜ法の支配が必要なのか。なぜ憲法が必要なのか。しかしそれよりも何よりも、ひとつ重大な事実を確信した。それは、世界のすべてを知ることは絶対にできない、ということだ。
ミクロの領域――個人の感情や行動、これはわかる。マクロの領域――世界の市場や情勢、これもわかる。しかし両者がどのように関連しているのか、個人の感情や行動が、どのように影響しあい、どのような力学が働いて、世界の市場や情勢を動かすのか、逆に、世界の市場や情勢が、個人の感情や行動にどのような影響を与えるのか、それを計算し尽くすことは、誰にもできない。それは人間の演算能力の限界を遥かに超えているからだ。
「俺は世の中の仕組みをわかってる」「裏の論理まで知ってる」と嘯く人にはたまに出会うけど、そういう人が本当に世界の仕組みを知っていたことは一度もない。本当にただの一度もなかった。陰謀論はマクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路をショートさせただけの反知性主義にすぎない。僕はそんなチートに興味はない。僕は真正面から、正攻法で、その回路を解析したいのだ。そうでなければ意味がない。
ああ、そうか、経済学とは、それを解き明かそうとする学問なのだ。マクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路。それを解析するのが、経済学や、その他の社会科学なのだ。僕はそれを、もっと深く学ばなければならない。
進むベき方向性は見えてきた。しかしここからどうするか。独学ではもうこのへんが限界のような気がする。つぎはぎだらけの学習じゃなく、もっと体系的に学びたい。でもどうやって学べばいいのかがわからない。僕はまず、学び方を学ぶ必要があるのだ。それには、どうしたらいいのか。
大学に行く。どうしてそんな選択肢が浮かんできたんだろう。これまで僕の中にそんな選択肢は存在していなかった。そのはずだった。これまでずっと金も時間もなく、ただ日々の生活に追われるばかりで、そんなことを考える余裕は一切なかった。そんなことを考えるくらいなら明日の飯の心配をしたほうがいい。ずっとそう思って生きてきた。
何より僕には自信がなかった。自分みたいな中卒の人間が高等教育を受けたところで何の意味もないと思っていた。そんなの僕にはまったく関わりのない知識階級の人間の世界だと、大学なんて僕にはまったく何の関係もない、別の世界に存在するものだと思っていた。
でも思い返してみれば、その認識は少しずつ変化していた。いろんな仕事をしたり、あとさき考えず旅に出たり、プログラムを組んだり、文章を書いたり、そしてそれを不特定多数の人の目に晒したり、ずっと何かに追われるようにそんなことを繰り返してきたけど、その過程で、僕は何か大切なものを拾い集めてきた気がする。それはたぶん、自尊心と呼ばれるものだ。幼いころに失い、ずっと欠けたままだったそれを、僕はこの歳になって、ようやく取り戻すことができたのだ。
だからいまは自分が高等教育を受けることに意味がないだなんて思わない。大学が別の世界に存在するものだなんて思わない。ああそうか、だからいま、このタイミングで、「大学に行く」という選択肢が、僕の前にあらわれたのか。
あとはこの選択肢を選び取るかどうかだ。
いまの時代、大学に行くなんてそんなにたいしたことじゃないのかもしれない。だけど少なくとも僕にとってそれは、とてつもなく勇気とエネルギーが必要なことだ。ホームレスになることよりも、右も左もわからないまま海外に飛び出すことよりも。
現実的な問題もたくさんある。資金、学力、人生の残り時間。いろいろと考え始めると、解決しなければならない問題が多すぎて、わけがわからなくなってくる。もうどうでもいいじゃないかと投げ出したくなってくる。でも僕の中の何かが、そうさせてくれない。僕の中の何かが、そうじゃないだろうと責め立てる。
これには覚えがある。この熱には覚えがある。これは、あの旅の途中、自分の中に発見した、マグマのような熱量だ。感情になる前の感情。行動になる前の行動。名前なんてつけようもないほどプリミティブな衝動。僕はいままさに、それに直面している。そしてその熱量からは、どうあがいても逃げられない。それだけは確信できる。
だったらもう、覚悟を決めるしかない。本当にもう、そうするほかどうしようもない。
僕は大学へ行く。
そうやって覚悟を決めてみると、ものすごく気が楽になった。気分が軽くなった。
ああどうしていままでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。その想いはずっと自分の中にあったのに。
主観は人によって違うのでやむをえないが俺の立場は以下のとおり。
俺:今までの解釈の延長線上にあるから、少なくとも新たな問題はない。(9条の改憲するときにかかる時間やコストに言及したのは、君の主張のデメリットや矛盾をつくためにすぎない。俺は先の解釈変更や今般の安保法制のための程度なら9条の改正は不要との考え)
少し付け加える。
今までの解釈が憲法の範囲内だというなら今般の法制もすでに枠にはまっている。
時の政権に特に9条に関する限り、事実上ほぼ無制限の解釈の自由があることになると見ることが可能なのは事実だ。
しかしそれは、現在の制度自体がもつ欠陥(統治行為論により9条に関する限り行政府の一部門が合憲性を事実上最終的に判断する制度)に起因している。制度の欠陥を安部首相がついたとみてもよい。
これが9条だけの話ならばまだしも、他の条文にまで援用されると確かに恐るべきことになる。
補足)
原語がデモクラティズムではないことにそれは現れている。したがってデモクラシーによって守られるべき価値がデモクラシーそのものによって毀損されるのはゆるされず、その価値とは「国民の幸福」である。
なお、侵略が許されないのは、それによって得られたなにかをわれわれ日本国民はもはや「幸福」とは呼ばないからである。
また、近代のデモクラシー以前から国家は存在している。デモクラシーを採用しない国民国家はありえるが、国民国家の基盤がないところに近代デモクラシーは不可能。さらに国民国家は国家の一種に過ぎず、国家は領域、人民、暴力によってなる。(つまりよりもっとも野蛮な国家すら、領土や人民の防衛はその責務である。ましてや現代日本においてをや)
より下部にあるより基礎的な層への脅威はそのままわれわれのデモクラシーへのより根源的な攻撃でもある。これへの防御を表層の制度の字義的解釈に拘泥して阻害したり、それをもってデモクラシーの破壊と叫ぶのは本末転倒。むしろ表層にある制度の欠陥が露呈したとみて、制度の改善をこころみるべきである。
制度の改善が著しく困難な時には、より基礎的な価値を防衛するために統治機構はさまざまな方便を考え出す。
今回の解釈変更も、そもそも安保と自衛隊を黙認するための統治行為論もそれだ。
これについては、まあ、君にはそう見えるかもしれんという感じか。
俺にとって外国の侵略が君が考えるよりは重大な危機と考える理由の一部は「論点の背景にある価値観の相違」の補足に述べたつもりである。多少分かりにくいかも知れないが、筋道はおえるのではと思う。
ところで君は先に大戦の惨禍を縷縷述べ、その原因を国家の暴走にもとめた。
そして、それへの反省あるいは対策として、立憲主義の厳格なる遵守を要求していたように見える。わたしの考えもまた私の主観では立憲主義を厳格に遵守するものであるがそれはともかくとして以下の点を指摘する。
天皇親政により立憲政治を絶命させようとした二・二六事件は立憲主義を逸脱した昭和天皇の勅命によって頓挫させられた。先の大戦はやはり立憲主義を逸脱した昭和天皇の聖断によって収拾された。
デモクラシーが前提とする立憲主義の手続きを墨守することによる不利益はデモクラシーのコストとして甘んじて受けるべきだというなら、昭和天皇は指をくわえて見ているべきだったということになる。
もし本当にそう歴史が推移したならば、前者についてはより早く大戦に突入する結果を招いたことであろうし、後者については惨禍がどれほど拡大したかはまったく俺の想像を越える。
こうした歴史をどう考えているのか。
せっかくなので本筋以外の点についてコメントする。
緊急性の有無について。
では安全保障法制の必要性に君が納得してくれるにはどういう事態が起こればいいのか?尖閣の近海で中国艦隊とにらみあう日本艦隊と米軍艦隊が攻撃され(補筆ここから:個別的自衛権行使が可能な状況を作り出して反撃するために:補筆ここまで)盾になった自衛艦が撃沈されればよいのか?そして自衛官が何十人も戦死すれば君は納得してくれるのか?それから政府解釈を変更し、安保法制を作り、衆参両院で審議・成立・施行・訓練か。一体、何ヶ月・何年かかるのだろう。その間に中国は尖閣にヘリポートを作らないのだろうか?そもそも安保法制ができればまだしもましだが、その間、朝日新聞は「中国にだって言い分はある。日米にだって落ち度はあった」と中国の三分の理と我が方のかすかな落ち度を一生懸命、報道してくださることだろう。ありがたいことだ。現在の安部内閣の指導力は支持・不支持の側双方が認めざるをえないところであろうが、そのときに指導力の乏しい内閣が日本国を指導していたら右往左往してヘリポートの完成を見守るばかりであろう。そして日本と利害の相反する国がとらえるのは当然、そういう内閣が任にあたっている機会である。
「緊急性」がないなどとはとても賛同できない。
沖縄を独立させ衛星国にするぐらいなどと簡単に言うが、中国の衛星国と言えば北朝鮮だ。その惨状を知らぬ訳ではあるまい。沖縄の同胞140万人の運命を共産主義者の圧制に委ねることを「程度」などと評するのは、沖縄県民の日本国民としての権利を軽視した恐るべき差別的な発想といわざるを得ない。そもそも一地方の分離・独立は国民国家の存立に関わる事態だ。
政府が国民を保護するためになすべきことをせずに国民の幸福追求の権利が結果として侵害されたり繁栄や財産が制約・制限・侵害されるならば、それは政府の暴走の一種だ。
日本国はデモクラシーを奉じている。すなわち日本国民の意志によって政府は交換可能だ。日本国民の理性を信じ、陶冶することこそが日本国のデモクラシーの発展に寄与する。
そのためには冷静で論理的な議論ができる環境が不可欠である。そしてそれに果たすメディアの役割は重大である。
私と君がした議論は、それなりに生産的で冷静・論理的であったと思う。しかしながら今般の安保法制に関する議論はメディアでも議会でも極めて幼稚だった。
日経新聞は「与野党どっちもどっち」などと見識ヅラを装っているが、個人的には野党の幼稚さに主たる責任があると思う。
世界的な軍事バランスの変化を前提にする以上、多少の時期の早晩に違いはあれ、日本の安全保障体制の見直しが必要なのは国民の幅広い層がすでに認識している。
一方、自衛隊と日米安保の機能の必要性も日本国民は受け入れている。
これらを是認した上で、安保法制に反対する唯一筋道だった論理は9条改憲をセットにし、われわれ日本国民が奉ずるデモクラシーと立憲政治の危機を訴えることだ。
だが、安保法制反対(朝日新聞購読層、民主党、社民党、共産党支持層)の人々の多くは9条改正に反対だ。だからこの論点に、一生懸命焦点を当てないようにしている。その装置が「憲法学者の圧倒的多数」なるその中身が明らかでないフレーズだ。
こんなつまらんごまかしが通用すると思っているのだから、国民を馬鹿にしているのは朝日新聞や野党だろう。
多少の逸脱はあったにせよ与党側の対応が不誠実だとする非難は、むしろ悪質なクレーマーが型どおりの応答をせざるをえないコールセンターの係員を非難している様子を想起させてしかたがないのだ。
なんて最近思う。ヘロデ時代はローマとくねくねだったのに、後にユダヤはローマと絶望的な戦争をするようになる。
アメリカを宗主国とか言ってる人たちは、どこかで、この古代のユダヤの人たちが抱えていたパトスを抱えてるんだよ、きっと。
そしてこれも人間の業という奴かな。
国民国家というのは、ある国民がその中で様々な権利を享受する枠組みで、その外に一歩出たら基本戦争状態なんだな。
だから武器が必要で、ぶっちゃけいつでも戦争できる状態じゃないといけないわけ。日本がそれを免れてるのは、日本との戦争でかなりのコストを負担せざるを得なかったアメリカと、痛手を負った中国との絶妙な利害のバランスによるものなわけだよ。
アメリカがこの極東地域から手を引けば、日本は、かなり現実的な意味で核を持って中国と対峙することになるんだろうなと思う。そうなった時に、やっぱりアメリカを仲間にしといた方がお得だったよな、が見えてるから日本は安保を支持してんだろうなと思う。
私は日本生まれの日本育ち、日本国籍をもつ血統的には完全なる日本人だが、日本が嫌いだ。以前は、ある英語圏で永住者として暮らしていたが、あるきっかけで日本に戻ってきた来た後、その国に帰れなくなってしまった。日本に戻ってきたことをいまは本当に後悔している。だが完全に後の祭りである。
日本が嫌いな理由はいろいろあるが、そのひとつは、日本民族以外の人たちがほとんど住んでいない、この同質性にある。同質なのは当たり前じゃないかというかもしれないが、たいていの国は、いくつかの異なる民族から構成されているのが、むしろ普通のことだ。普通でないのは、日本の方なのだ。
日本はあまりに教科書どおりの国民国家であり、ほとんどの国民がそれを当然視しているが、実は、国民国家など、この数百年で作られた便宜上のものにすぎない。そして、それが便宜上のものにすぎない以上は、やがて、消えていく運命にあるということだ。実際、その過程は、欧州ではEUという形で始まっている。東南アジアでも、まもなくASEAN経済共同体(AEC)が発足する。歴史は、移民が増え、国民国家が解体消滅する方向に、ゆるやかな速度で向かっている。
ところが、日本だけは、あまりに日本人だけで凝り固まっているために、近い将来の大幅な人口減が確定しているにもかかわらず、依然として移民を受け入れようとしない。なにも、単純労働者ばかりが移民ではない。高収入の知的労働者なら、移民であっても、社会保障や治安への負担も少ない。むしろ、若い移民が入ってくれば、彼らは社会保障を支える側にまわり、税収に貢献し、消費の拡大という形で、経済に貢献してくれるだろう。
だが、こういう合理的な議論が日本ではできない。右翼をはじめとする一部の国民が、日本民族の神秘的な純血性を信じており、こうした「外の血」を入れようとする論客に対して個人攻撃を行うため、みな口を閉ざしてしまうからだ。
結果として、日本はこれから衰退の一途をたどることになるだろう。人口が減っていく国に未来など無いことは誰が見てもあきらかだ。もっと深刻なのは、ここまで追い込まれても国民に危機意識がないという点だ。これが一国が衰退していくときの姿なのだろうか。
私は、いま日本でやっていることに区切りがついたら、いずれこの国を出ていくつもりだ。こんな国と心中する気はさらさらない。反日でも売国奴でも、なんと呼ばれようが平気だ。日本を「救う」つもり満々の右翼たちにこの国の未来は任せることにしよう・・・彼らが主張するように日本が復活するようにはまったく思えないのだが。
そういった理論武装では日本における第一人者と言ってもおかしくないんじゃないの。
中田考を本当に批判する気なら相当に腰を据えてやらなきゃいけないと思う。
少なくとも「ある原理主義者がラマダンを破っていた」くらいでは小揺るぎもしないのでは。
たしかイラク人質事件でもコメントを出していたはず。ググってみては。
「大部分の人は折り合いを付けている」とは言っても、
現実に折り合いを付けられないムスリムが(IS以外にも)たくさんいるわけでしょ。
それを「ムスリムの少数」として無視できるんだったらアメリカもこんな苦労はしてないんじゃないの。
中東に欧米型の民主主義を押し付けようとして失敗した、なんていう批判もあるわけじゃん。
てことは「原理主義でなんか生きられない」と同様に、
「民主主義でなんか生きられない」「世俗主義でなんか生きられない」
という言い分だってありなんじゃないの。
ワールドカップ初戦の西村主審のジャッジが「誤審か?」と騒がれたことについて、ある方のツイートにかぶせる形で“日本人だから(西村審判を)擁護する……”という趣旨のことをつぶやいたところ、その方から反論をもらいました。
で、1往復やりとりしたあと、ちょっとつらつら考えてみました。
リプライを返そうと思ったけど、答えというより自分の頭の整理になってしまったのと、
あと単純に長すぎるので、ここに書かせてもらいました。すみません。
詳しいどころか、サッカーそのものにはぶっちゃけ興味ないです。
でも、初戦の審判を日本人が務めたことは嬉しいし、そこで誤審騒ぎになったことに興味を持ちました。
私と相手の方ではスタンスが違いましたね。
1.ブラジル対クロアチアには興味がないし、その審判にも興味が無い。
1a.ブラジル対クロアチアには興味がないが、日本人審判が誤審と言われるのは嫌。
私はもともと1.なので、今回の件では1a.です。
だからといって、
1b.ブラジル対クロアチアには興味がないが、日本人審判が誤審と言われるのは嫌なくせに、日本と仲の悪い国の審判が誤審と言われたら喜ぶ。
2.ブラジル対クロアチアはもちろん、大会期間中ずっと緊張感ある試合を見たい。初戦のジャッジは大会全体に影響することもある。なのであのジャッジには反対。
2a-1.日本と外国の試合での審判のジャッジも冷静に見ることができる。
2a-2.日本と外国の試合で日本不利なジャッジにはさすがに冷静になれない。
2といえる人はサッカーの観戦力があるのでしょう。楽しいだろう、と思います。うらやましい。
さらに2a-1の人もいるし、2a-2の人もいるでしょう。
私はどっちもアリだと思います。
でも、
2b.当事国ではないサッカー先進国の専門紙が誤審と言っているのだから誤審だ。
きっと、2.、2a-1.、2a-2.の人も、一緒にされたくないでしょう。
でも、今回、そういう意見もいくつか見かけました。
今回は、私と相手の方がお互い1.と2.である=サッカーの審判に対する思い入れのレベルがまるで違うことを知らないままやりとりが始まりましたが、まぁこういう掛け違いはよくあることでしょう。
そのときに、1.の発言に対して「おまえ1b.だろwww」「だまれ2b.め」と言ったり、
逆に2.の発言に対して「おまえ2b.だろwww」「だまれ1b.め」と言ったりする応酬にはしたくないな、と思います。
(結構たいへんだけどね。自分の得意分野で自分と違う意見を言われた時は特に。自戒を込めて)
さてこれは正しいのか?
2.の人から見れば正しくないかもしれないですが、まぁ1.の人もいていいんじゃないか、と思います。
私は、海外で日本人が外国人によく評価されるのは嬉しいし、悪く評価されるのは悔しい。
そして、やっぱり外国の外国人より、外国の日本人の方が気になる。
海外で日本人が逮捕されて重い刑に処されるのは、たとえ罪状が事実でも気持ちよくはないし、
海外で飛行機が落ちた時に日本人の安否確認を優先するのは当然だと思う。
その分野に詳しくないとき、思い入れがないときは、自分は日本人として一旦は「賛」のスタンスをとると思う。
1.に近い。
でも1b.みたいなことは言わないし、2.の人がいることも忘れない。
でも、その分野に詳しいとき、思い入れがあるときは、その日本人に厳しい見方をするかも知れない。
2.や2a-1.に近い。
でも2b.みたいなことは(なるべく)言わないでおこうと思うし、1.の人がいることも忘れない。
※出羽守(でわのかみ)=二言目には「海外では~」「欧米では~」という人は、正直、嫌いですが、
論理や理想も大事だけど、日本という国民国家の国民であることは、なかなか超えられない壁と思うので。
長くてとりとめがないですが、以上です。
そもそも計測できる豊かさや幸福なんてものはないし、「人類はこうあるべきだ」なんていう仕様もない。
資本主義なんて「たまたま海渡ったら鉄も持ってない土民がいたから奴隷にしてこき使ってハッピー」とか
「たまたま砂漠掘ったら原油が沸いてきたから車に突っ込んだらハッピー」
程度の場当たりでしかない。
今後も場当たり的に人間よりロボットのほうが安くて優秀だということになったらそちらに置き換えられるだろう、ぐらいのこと。
まあとりあえず国民国家がいろいろやったおかげで平均寿命や識字率は伸びた。それが幸福だなんて最初から誰も言ってない。
多分、詭弁だと思ってるのは君だけだ。提示したキーワード調べるくらいはして欲しかったなあ。
つまりだ。君が思うような、地縁血縁で結ばれたムラ共同体の連帯の延長上には近代国民国家はありませんよ、ということを言ってるんだ。
国民意識は、国民国家が国民教育によって醸成するものだ。地縁血縁の外にあるものだ。時に対立さえするしな。自然発生も素朴実在もしません。
君も受けてるだろ、義務教育。6年3年受けた課程が俺たちを国民として育て上げてるんだ。生まれたときから遺伝的条件で日本国民としての自覚を得ているわけじゃない。
国民意識は国家がデザインし、教育で植え付けるものだ。古くは教育勅語も廃藩置県も、そのためにあった。国家なしにはありえない。
現代の若者は飲食店の冷蔵庫に入った写真を公開して馬鹿だバカだと叱られているが、昔は大学や山荘に立てこもって仲間を暴行したりして警察に突入されて、それをテレビで全国中継されていたのだから、大幅な洗練と進歩があったと言える。
http://twitter.com/masah/status/371855268063084544
学生運動もコンビニの冷蔵庫に入るのも同じ「自作自演の通過儀礼」であるとみなす考え方は、大枠は外していないと思う。問題はその自作自演の通過儀礼を行う層の学歴の低下だが、これには「大卒就職活動の激化」と、それに歩を合わせた「家庭的小規模産業の衰退」を原因として見て取ることができるのではないかと思う。
どういうことか。
まず、現代の大卒就職活動はじつに「通過儀礼」としてうまく働いている。「日常=大学生活」を離れ、「危険な場所=面接会場」に赴き、「宝=内定」を得て帰還すれば「大人=社会人」として認められる、という一連のプロセスは、多くの民族に見られる通過儀礼の構造そのものだ。これが多くの学生に普及した結果同年代の学力上位半分(大学進学者)にとって過剰な自作自演の通過儀礼は必要ではなくなった。これがひとつ。
もうひとつは、生活の隅々にまでロードサイドの大企業が進出した結果、これまで多くの低学歴な若者の雇用を吸収していた「家庭的小規模産業の衰退」を招いてしまった。彼らを雇い教育するのは血縁あるいは地縁でつながった「知り合いのおっさん」ではなく、本部から派遣されてきた「よく知らない兄ちゃん」に変わったのである。その結果「大人」であることの説得力は遥かに低下し、「ポカをやっておっさんにドヤされ、許される」という職業人としての通過儀礼もうまく提供されなくなった。よって彼らは「仲間内に過激なネタを提供する」という自作自演の通過儀礼に走らざるをえなかったのである。
この分析がある程度正しいとするなら解決策は一つしかない。すなわち、「職業教育の復権」である。学力階層の低い若者には、早いうちから「大人」に混じって働く機会を与え、あるいはまとまったスキルを与えてマックジョブ的な雇用ではなく「大人」の職場に吸収されるようにすることによって、彼らが「大人」になるのを待つしかない。
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「ローソンのアイス用冷蔵庫に入る男→契約解約及び当該店舗の休業を決定!」
http://matome.naver.jp/odai/2137384951250882101
もちろん話はそう単純なことばかりではない。この事例では馬鹿をやった若者は店長の息子だった。これは「家庭的小規模産業に吸収されたとしても、ちゃんと条件が揃わなければ通過儀礼は発動しない」ということをはっきりと指している。
加えて、大学生のアルバイトについてはここで述べた議論以外の対策が必要になる。
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ここで展開されている議論というのはすなわち、「社会全体が彼らにとっての教育の場となれ」ということである。むろん佐々木俊尚氏自身が著書で書いているように、国民国家が崩壊に向かっている現在ではそのようなことは不可能である。
興味深いご意見。
ただ、非武装であれば「戦闘行為」が発生しないのはそうでしょうが、「虐殺行為」は発生するのではないでしょうか。戦闘行為←→虐殺行為というのは僕としては連続性のもので程度の差であると捉えているのでその連続性の中の何かが起こる可能性があるということでは「非武装でも虐殺される可能性がある」という論理の方が正しく見えます。
また、非武装や無抵抗について国家としてそれがとれないのは、自己否定といった国体にかかわる側面から国家が主体となってとれないのではなく、リスクの面からとり得ないということだと思います。これについてはいつか論じてみたいと思っているのですが、国家的に非武装無抵抗を標榜するのは「だろう運転」に該当し、国家の安全保障というジャンルでは「かもしれない運転」でなければならないと考えるからです。
「国民国家の国民」という段についても主題として論じてみたいと思っていていくつか考えることがあるのですが、ひとつだけ指摘するとすればその語りようにも連続性があると思われるということです。「サヨク」の人たちの言説では少しでも国家を優先すれば即座に北朝鮮的な全体均一国家がイメージされて批判を浴びせますが、「国民国家の国民」としてでも大きなバラエティがありうると思います。究極の形の一方として全体均一国家があるのでしょうし、他方としてご指摘のような国家を捨てるというアナーキズムがあるのでしょう。そういった意味で僕も国家を捨てる人がいるというのは「アリ」だと思います。
議論についての段もまさに僕がいつか指摘しかったことで、「サヨク」の人と議論が成立しないことの根底には人間観や世界観の差異が大きすぎるのが一因でもあるというのはまったく同意します。これもいつかは論じたいと思っていることなので「サヨク」「ウヨク」の論点からはここでは論じません。
ただ、優越感ゲームというのはわかりませんが、このはてな匿名ダイアリーという場では議論というゲームを通していろいろなことを知ってみたいと思って参加しています。
南京事件のとき、中国側が武器を取って抵抗しなかったか? と言えば、それはもちろん「した」。市民はともかく兵隊はそこにいて、すなわち武装していた。
「友人のサヨクくん」がどう考えていたかは知らないけど、「最初から一切抵抗しなければ、そもそも戦闘行為は発生しない」という意見は、論理的には特に間違いではない。
もちろん、それが「国民国家」として取れる意見ではない(「国家」の自己否定になるから)ことは理解するけど、「一介の民間人」の意見としてなら、ありえない意見だとも思わない。誰もが「国民国家の国民」としてのみ語り、そういう人々だけで構成される社会というのは、とても恐ろしく危ういと思うし、また、「国民国家としての意見」のみがリアルであるという考え方にも首肯できない。人は、一人の人間として、たとえば国家を捨てるという選択もできるし、それは間違った選択とは限らない、普通に「アリ」なことなのだから。
だいたい、議論というのは互いに一定の前提条件を共有していなければ成立しない。あなたが「サヨク」の人とは議論にならない、と考えるのは、あなたの見ている「世界」が狭く、彼らがどのような「前提」で喋っているか分からない、共有できていないからではないだろうか?
もちろん、これは、あなたの周りの「サヨク」の人にも同じように言える。「世界」が狭い、だから「議論」できない。それは、とても貧しく残念なことだ。
だから、あなたもあなたの周りの人間も、「議論」と称した優越感ゲームに浸るだけでなく、まずもっといろいろなこと(出来事や、ものの考え方自体)に興味をもち、知ろうとするのがよいと思う。
右か左か、という話はいったん置いてだね。
世の中、もっともらしい体裁を備えた物語(国民国家とか男らしさとか)というのが色々とある。
それを、素直な心情として、または他の目的があって、周囲にそれを共有して受け入れろと声高に言う人がいる。
いっぽうで、そういう物語への相乗りを簡単にしたくない・できない人、というタイプもいる。
昔のインテリオタクの多くは、そういうふうに「斜に構えるマナー」、あるいは
「間違ったことをしないための、倫理としての相対主義」が身についてる人が多かったと思う。
唐沢兄のようにそれが限りなく上っ面になっていってしまった人間もいれば、
岡田斗司夫のように向き合いすぎてあまり軽やかでない路線に入っていった人もいるけれど。
ゆうきまさみであれとりみきであれ押井学であれ、だいたい既製の物語は疑うタイプだろう。
自分をひととき心地よくしてくれたり、かりそめの居場所を与えてくれるような、安易な物語を拒否する。
特にその物語が人を抑圧したり差別化することで成り立っている場合には。
そうした姿勢は、既製の物語をすんなり受け入れた人にとっては「反体制的」にうつる、ということ。
追記:
ちょうはずかしい! やだ〜! 「これはおしい」タグまでもらってるし!
このまえ朝日新聞オピニオンで内田樹が“「国民国家としての日本」の解体過程”について述べていた。
それによるなら現代のこの傾向はアメリカの機嫌をとる政治家たちによる
排外主義的なナショナリズムを亢進させるためのマインドコントロールに国民がかかっているということになろうか。
あのほら吹きおじさんやほら吹きおじさんの陰謀論ど真ん中論説やそんなもんを載せる朝日新聞についても批判精神を持て
うちだたつるの意見ごときを自分の意見として丸呑みするのは滑稽だ。
「あれ?おかしいぞおれ」と思うようになれ。条件反射をつけろ。
その反射が一生君を助ける。
なんであんなに偉そうかつ間抜けで頭が悪いのかと言うと
もっとも、ネット上の軽挙妄動は未だ考えが熟してない中高生が主だろう。彼らはきっとノリで言っているのだろうが、知らず知らず自身の使用する言葉が、せっかくの鋭敏で豊かな感受性をも害してしまうことがあることは知ってほしい。
君は多分大学1年生ぐらいだろうが
君ぐらいの都市でやるべきことは年上の先賢を見つめ続け必死に追いすがることで、年下の連中を眺めて馬鹿にすることではない。