はてなキーワード: 好きだ、とは
私がここで言う推しは芸能人とかアイドルとかではない。現実に関わる、いわゆる「好きな人」のことである。これまでの人生で恋が叶ったことないので、そもそも叶えたいという気持ちが無くなってしまった。そして多くの人がそう認めているように「片思いしてる時が1番楽しい」。
故に私は勝手に密かに思い続けることにした。特に大きなアクションとか働きかけはせずに、自分の内で見守る、自分の内で楽しむというスタンスで恋をすることを、私は推し活と呼んでいる。独り善がりだとか、気持ち悪いとか幾らでも言ってくれたまえ。その感覚は何も間違ってないから。
まず、推しの好きなアーティストや曲を集めたプレイリストを作った。プラス私がこれを聞くと推しを思い出すという、推しのイメージ曲も入れている。実は推しと好きなバンドが被っているという奇跡が起きていて、1回だけそのバンドの話でほんの少しだけ盛り上がれたことがある。一生の思い出。プレイリストの名前のところには、文字は入れずに、推しにまつわる絵文字を羅列している。推しとのちょっとした会話から得た情報、昔やってた部活、トレードマーク的なもの、他の人から聞いた推しの趣味、好みなどにまつわる絵文字だ。元気を出したい時に聞く。
それから推しグッズを制作した。私は昔からイラストレーターの中村佑介さんの画風好きだ、(アジカンのジャケットのイラストを長年担当されている) いろんなアイテムがポップに、ごちゃっと、しかしどこか整然と並んでいて、それによって1つのストーリーやイメージを完成させている、あのイラストの書き方が好きで。ああいう感じでやはりここでも推しにまつわるイラストや画像を上手いことごちゃっと並べて1つのイラストにした。(うまく説明できない) そのイラストをプリントしたサコッシュをsuzuriで作った。非公開で完全に自分用に。もしこのイラストを推しが見たとして、自分のことだって気づくのかな。笑 アイドルでもなんでもないただの一般人のグッズのために2000円出した。まだ手元に届いてないけどめちゃくちゃ楽しみだ。
いつまでもこういうことをしていきたい。
4回って言い方でわかる人もいるかもしれない。私は関西の大学生だ。頭は良くないけど、そんなに後悔しない大学生活だった気がする。まだまだやりたいことあるしね。
本来なら舌ピなんて1回で開けて楽しんで就活を前に閉じるものかもしれないけど、私はやっと内定が出た直後に開けた。そこの会社に行くかはまだ迷っているけど、我慢できなかったので。
ピアスは病院で開けた。ニードルかなと思ったらピアッサーで、少しずれてしまったけどまぁ満足してる。開けたのは先週土曜だから、そろそろ3日くらい。まだじんわり痛いし、違和感もある。舌を火傷した時や、口内炎が出来たような痛み。咀嚼すると痛みが強くなる。熱いものは駄目。辛いのとアルコールと煙草は控えている。奥歯の方に押し込めるものは割と食べれる。スープや飲み物や豆腐とかプリンは全く問題なし。茶碗蒸しが大活躍している。
両耳たぶは開いてるけど、他は開けてなかった。
耳は高校の卒業式のその日に開けた。アマゾンで買った一番安いピアッサーで、その日に。高校は校則が厳しくて、携帯持ち込み禁止、寄り道禁止、髪染めピアス禁止、アルバイト禁止、SNSのアカウント作るの禁止、他にも色々禁止だった。校則に書いてあるだけとかじゃなくてほんとに先生に見つかったら指導されるレベルの厳しさだった。有名ではないけど幼稚園からある女子校だからそんなものかもしれない。今となっては懐かしいけど、それは私が隠れてバイトもSNSも寄り道もしていたからで、真面目に守っていたならきっと後悔していただろう。
一度無断で休んだ時は反省文を書かされた。学校へ行くくらいなら死のうと思ってホームドアのない電車を探していた時、行かなくてもいいんじゃないかと思った。先生や親も死ぬよりサボる方が嬉しいんじゃないかなんてやたら冷静に客観視してた。反省文を書きながらこれは何の反省なんだろうと思った、だって死ぬか行かないかの二択だったのに。
両耳のピアスは私としては早かったが世間的には遅いだろう。私はいつもそうだった。みんなより全部遅い。化粧を覚えたのも高校3年だった。
前髪を初めて作ったのもはたちになる少し前だ。高校生の時から散々ある方が可愛いだろうと言われていたし思っていたのに。
髪を初めて染めたのもはたちすぎてから。しかもインナーの一部で殆ど分からないくらい暗い青だった。でもそれがきっかけで色んな色をやった、インナーだけど。大学入って直ぐに染めてたらもっと色んな色が出来たのにとも思う。
次は全頭してみたいと思っている。遅いかもしれないけど、遅すぎはしないだろう。だって大学生だし。ぎりぎり。
いつも遅い。みんながやり始める頃にはそんなの興味無いとばかりに見ていて、後からやりたくなってもっと早くても良かったなと後悔する。そしたらもっと楽しめたのに。
成人した直後からワインを飲んでいる。家にカクテルセットがあるというと驚かれる、大学生では珍しいかもしれない。日本酒もすき、ジントニックもすき。クラフトビールもすき。そんな感じ。
幼少期に読んでた本は大抵大人びていた、気がする。少しだけ。英才のように文豪たちを読破したとかカントを読んだとかはない。今はキルケゴールの死に至る病を買って、大学生だと言うのに意味が分からなくて呻いている。もしこれを読んだ方の中に哲学好きな方がいたら、あれを上手く読み解く為のコツとか解説書なんかを教えて欲しい。
閑話休題。
遅いとか早いとか、そういうことは無意識に思ってしまう。早いうちに触れるのはいいことだ、何歳になっても遅いなんてことは無い。そうは言っても現実はその通りでは無い。
小説家やイラストレーターになりたかった。学生のうちに仕事を受けられるようになっていなければそれで生計を立てるのは難しい。そもそもいちばん暇な大学生でプロのレベルまで出来なかったのは才能がないのだろう。能力ではない、やり続けるという才能が。
研究者になりたかった。小学生の頃の行きたい大学はマサチューセッツだった。ちなみに今も昔も英語ができたことは無い。向き合う度に外国語は向いていないことをひしひしと感じる。
研究者に憧れがある、科学者、数学者、天文学者、宇宙の真理やこの世の理、最先端の技術、未知の可能性、人類の進化、魔法と区別がつかなくなるまで発展する科学技術。無闇な憧れだ。論文も本も何も理解出来ず、どういうふうに系統だっているのかも分からない。でも憧れている。でももう遅い。私はサインコサインすら分からない。
頭がいい、と思っていた。昔は。人と会話することもある程度得意だ。
国語は勉強しなくても偏差値が取れた。小学生で漢検2級を取った(これは母の全力の献身によるものだ、私の努力ではない)。他の教科も聞いてたら何とかなった。でも中学2年くらいから授業を聞かなくなって、数学や理科ががくんと落ちた。相変わらず国語はトップ近くで、社会は本から得た知識でなんとかなって、英語は長文とリスニングで何とかした。文法はからきしだった。
高校ではやれば出来るのにと言われ続けた。地頭は良いのにと。そうかもしれないと思っていた。そう思いたかった。
でもそうでは無いのだろう。
本を読んでも理解できないことが増えた。読み終わっても中身を忘れることが増えた。あんなに無限に読めると思っていた本を、もうしばらく最後まで読めたことは無い。難しくなったら駄目だった、ライトノベルは多分いまでもサクサク読める。
私は天才でも秀才でもなくて、やる気とかいう最大の生まれ持つ才能も持っていなくて、やる気がなくてもなんとかなる能力もなくて、全く興味の湧かない仕事内容の会社に就職しようとしている。
昔はゲームなんて時間の無駄だと本気で思っていた。それなら勉強した方が世界も広がって能力も高まって良いと。
勉強なんてもう何年もしていない。ソシャゲに毎日数時間と毎月数万を使う立派なソシャカスだ。
ピアスやタトゥーには憧れていた気がする。酒や煙草にも。アウトロー感のあるものには憧れがあって、でもテンプレートな安い人間にはなりたくなかった。でもなってしまった。
白衣を着て、日本でも有数の大学院で試験管を持ったり数式を書き散らしたり、ドイツ文学やフランス文学を原文で読んで純粋理性批判について論文を書くような学生だったら、髪がペールブルーとターコイズの二色で舌や唇にピアスが開いてて身体にタトゥーが入ってたら最高にかっこよかったかもしれない。
そんな格好をしている美大生なんて山ほどいる。
そんな格好をしている鬱の社会不適合者なんて山ほどいる。
私がなりたかったものにはもう一生なれなくて、それでも表面だけで真似できるものだけ、努力しなくてもできるものだけ、真似している。
大学は楽しかった。散々文句を言ってやる気がなくてチャイムがなって数十分後に来てチャイムと同時に帰っていたけど、物を作るのは楽しかった気がする。ともだちもいる。そうそう人を友人と口に出せない私が友達だと確信を流石に持てるくらいには仲がいい、はず。
桜の咲く公園で夜にビールを飲んだり、宅飲みでマリカしたり、自主休講して展示を見てパフェを食べたり、ナイトプールにいったり、ディズニーとユニバにいったり、覚えてもいないくらいたくさん話して笑ってた。最近は知り合いの家に酔った勢いで雀卓をアマゾンで買って送り付けてルールを説明した。自分も分かってないのに。
彼らにとって大した思い出でもないかもしれないが、私にとっては一人では死んでも得られないそれらをくれた事に死ぬほど感謝している。
ずっと死にたいという思いはあって、でもその中にもう死んでも構わないというポジティブな希死念慮があることは間違いなく楽しかった大学生活のお陰だろう。いやなこともたくさんあった、アルバイトも大変だった。バイト先に警察が来たこともあった、これはいい経験だけど。人生で経験できることはできるだけしておきたいので普通にその時も良かったなと思っていた、店からはたまったものじゃないだろうが。
そんな気持ちだからバンジージャンプも行ったりした。単に絶叫好きなだけかもしれないが。ピアスもその一環かもしれない。開けなければどんな痛みかなんて知らない。舌ピ開いてるあのキャラクターとかも、開けた直後はポタージュとか豆腐とか食べてたのかな、と思うとちょっと面白い。
シーシャも行った。今度葉巻もいく。
努力の要らないものばかり。ボランティアでもしてみれば良かったな。したい気持ちはあるけれど時間とか労力とかいきなりその日鬱になったらとか思うとなかなか出来ない。
習い事もしてみたかった。音楽がからっきしだから何か楽器とか。バレエとかダンスとかにも興味がある。踊るのはすきだ、振り付けは真似するのが苦手だから即興ばかり。音楽を流して踊り続けるのだけは得意だ、人に見せたことは一度もないけど。あとボルダリングとか、薙刀とか、色々やってみたかった。
そういう系だとサバゲーもある。これはサークルに思い切って入った。楽しかった。銃を買ったけれどコロナでサークルが停止してそのままなくなってしまったので一度もフィールドで撃てなかった。いつか思いっきり撃ちたい。
スキーやスケートは好きだから、フィギュアスケートもやってみたかった。ずっと憧れはあるけどスケートリンクが近くにあったことがないのでこれはしょうがない。
バイクにも乗ってみたい。一度後ろに乗せてもらって、免許取りたいといったけれど、結局バイクを持つのが大変なことやお金を考えて取っていない。
美容にはすぐお金を使ってしまう。というか費用対効果だ、時短になるならやっておきたい。二重はやった。脱毛はもうすぐ一回目がある。まつパもやりたい。レーシックもやりたいけどカラコンを入れなくなりそうだと思うとちょっと躊躇する、眼鏡も少し気に入っているので。外した方が可愛いけど。
少しでもかわいくなりたい。自分が死ぬほどかわいくなくて、死ぬほど魅力がないのを知っているから、少しでもってなってしまう。
アイドルになりたかった。歌手でも俳優でもいい。最近はミュージカルがすきだからミュージカルにも憧れる。服のモデルもいい、写真撮られるのも色んな服を着るのもだいすきだ。
でも私は人前が苦手だ。頭で苦手だと思ったことはない、好きなアーティストのライブにいっても、こんなにたくさんの人の前で歌ってこんなにたくさんの人に愛されるのはどれだけ快感だろうということを考えてしまう。
でも人前に出ると勝手に身体が震えて、平衡感覚がおかしくなって、喋れなくなる。大学の発表でもそうだ。上手く話せなくなる。頭は冷静だから対処はできるけど、身体は勝手に震える。
人前というか知らない人と歌う機会があったことも少しあって、褒められたら嬉しかった。けど歌手やアイドルになれるほどじゃない。顔も可愛くないし、ダンスも下手だ。自分では出来てるつもりでいても動画を見るとキレのなさに絶望する。これは本当に才能だと思う。
女の子のアイドルゲームが出来ない。羨ましくなってしまうから。男の子なら普通に推せてたまに羨ましくなるくらいだけど、同性だと近いから難しい。でもなりたいのは男の子のアイドルだ、イケメンと一緒に可愛い女の子にキャーキャー言われるなんて最高じゃん、と思う。
先生になりたかった。人に物を教えるのはすきだ。上手い方だと思う、友人に教える時も。相手の知識量や理解力に合わせて単語に解説をいれ、分量を変え、分かりやすそうな例えを使う。フラットな目線を持っているとも自負しているし、向いている気もしてる。先生と言うよりかはマンツーマンで指導する方が向いているかもしれない。
でも一度家庭教師に登録していて、仕事の話もあったけど、大学名で難色を示された。多分向こうの親御さんが文系か理系の学生がいいと言ったんだろうな、とぼんやり思った。同じ大学でも塾講師をしている子はいるので普通に学力があれば大丈夫なんだろう。私には教える力はあっても学力はない。でもやる気がなかったからこそやる気を出させたり、本を解説するのだけは本当に上手いと思うのだけど……まぁ、仕方ない。
他にもいろいろ夢はある。理想の生活もたくさんある。でももう叶わない。分岐点はとっくの昔にある。
今できる楽しそうなことだけを積み重ねて、本は難しくて気力がない時には読めないからソシャゲの周回とTikTokをして、少しずつあの日の高潔な私が死んでゆく。取り返しはもうつかない。じきに働かなきゃいけなくなる、働けるかは分からないけど。
せめてできる新しいことをしようと思って日記を書いた、ちょっと憧れていたから。ツイッターでフォローしてる文章の上手い人のnoteが良かったから、ああいうものを書きたいと思った。
私は承認欲求が強い。物凄く。いいねひとつに一喜一憂して、私より評価されている人全員が羨ましくて、なんとかいいねをしてくれそうな人に届いて欲しいけどそれを表に出せない。せめてタグをつけてRTをするくらいだ。
私は私の作品が好きでも、クオリティが低いことは知っていて、それでも好きだと言って欲しくて、でも他の有象無象の、私から見てあまりにも稚拙で低俗な作品といっしょくたにいいねされてると悲しくなる。こういうところが本当に性格が悪いと思う。けれど好悪はもう変えられないし、今更承認欲求も手放せない。昔は承認欲求なんてないと、どうでもいいと、むしろそれを持っている人になんでそんな感情を持つんだろうと疑問にすら思っていたのに、自分に承認欲求があるとしたら全てが腑に落ちた。無いと思い込んでいても消せなかったものは、多分もう消えてはくれない。
私は自分が底辺であることを知っていて、それでも結局どこかによく見られたいという願望が残っていて、ナルシストなところもあって、性格の悪さもあって、それがこの文章からも滲み出ていることが本当にいやで、でも取り繕うことすらしないのも嫌だからどうしようもない。
理想の自分になりたかったと思いながら、今日も自分をひとつ成長させてくれるはずの買い込んだ本をめくることすらできず、朝になった。
この文章は最初からひたすら思いついたことを脱線するまま書いて、読み返しや修正もしていない。
どうせ誰にも刺さらないことを知っている。私の作品が好きですという感想を匿名で貰ったことは一度もない。一度も。本の感想も。
最後まで読んでくれた人が数人でもいたら御の字だろう。
それでも誰かが読んでくれて、コメントをしてくれることを夢見ている。認めたくないけど、心のどこかであわよくばインフルエンサーとかがTwitterに投稿したりして、バズって、はてな文学みたいな扱いを受けたりしないかななんて期待している。醜い。でもこの醜い感情を抱えていたくないから書いてしまおう。心に秘めていたりツイッターでぼかしながら細切れに話してることを、全部思いのまま書きたくてこの文章を書いた。
何が刺さるんだと言われたら自分でも分からない。実力以上の評価が欲しい訳でもない。努力もしないくせに数字だけ貰えるなんてことはないと分かっていて、それでも楽なことの方がすきでそちらを選ぶ。趣味だからなんて言い訳せずに絵の練習でもしていたら今頃もう少しましだっただろうか。漫画も描きたかった、漫画の方がバズるから。表現媒体としても面白い、ネタを思いついても小説では書けないこともある。でも描こうとしても絵が下手すぎて結局再現は出来ない。
楽な方に楽な方に流れている。
ひとつ開けたら憧れの気持ちが止まらなくなってしまった。人生で一回は開けておきたい、テンプレートに近づくとしても。死にたいとか鬱だ何だとかいっている言葉が、昔より軽くなりそうだ。ファッションが変わっても私の中身は何も変わらないのに。
楽な娯楽だ。努力しなくてできる変化、合法的な自傷。腕を切ったことはない、痛いから。でも首を絞めることはある。いつか首を吊るためのシミュレーションのように。一度失敗したきりだけど、いつかはきっと死ぬだろう。寿命まで耐えられるとは思えない。
本当は耐えて欲しい。耐えられるくらいでいい、その程度でいいから、幸せになりたい。
普通の人になりたい。創作をする、私は天才だと思っている友人は、死にたいけれどその死にたさも自分だから治らなくていいと言っていた。
私は幸せになりたいから心療内科に通った。意味はあんまりないけれど。
これを書いている間もずっと舌が痛い。これが収まる頃にスクランパーとインダストリアルを開ける。思い切り食事ができるのはまだ先になりそうだ。
何度も終わらせようといい感じに結べそうな文を書いているのに書きたいことが溢れてしまう。
私は人に知って欲しいたちだ。なんでも、やったことや見たもの、感じたことや思想、なんでもすぐツイートしてしまう。勿論セーブはかなりしているけれど。そしてそのツイートを全部見て欲しいと思ってしまう。何故なら私は好きな人のツイートを全部見たいタイプだから。ある程度好意を持っていたら何を喋っていたか知りたいかなんて当たり前だと思うけど、世の中では意外と少数派らしい。でも私の中ではそれが当たり前だから、ツイートを見ていないと言われる度にそんなに私に興味がないのかと傷つく。表には出さないようにしている、めんどくさいと思われるから。でもあえて出す時もある、相手が平気そうだったり、そういうキャラで私がやっていけそうなら。メンヘラちゃんのキャラでいたら、少しだけ私の本音を言うことができる。
だからひたすら書き連ねるのは楽で楽しくて、でと整理されてない文章なんて誰も読みたくないだろう。でも日記というか、書き散らしというか、日々の所感としてはこんなものかもしれない。
舌が痛いし眠くなってきた。多分何も無ければ無限に喋り続けられるだろう。自分の話をするのが好きだ、相手に知ってもらいたいから。好きな人のことはなんでも知りたい、血液型とか、健康診断の話になった時の視力とか、すぐメモってしまう。私の記憶力が悪すぎてメモっているだけで、覚えておきたいというだけなんだけど。締めに頭の中で用意しておいた文章のストックがもうない。前のを引っ張ってこよう。ちょっと書き換えて。
そうやって楽な方に楽な方に流れている。
今度はスクランパーとインダストリアルを開ける。お手軽な変化を得て、なんとかぎりぎり生きている。バイトの当欠も、説明会のキャンセルも、自主休講にしすぎな大学も、なんとかなってるとは言えないけど、取り敢えずまだ致命傷ではない。致命傷ではないけど、ゆるやかに死んでいくのだ。
きっと今の私は、昔の私が一番なりたくなかった姿だろう。働きたくないとか甘えるやつ、努力しないやつ、後回しにするやつ、遅刻するやつ、頭の悪いやつ、死にたいと
○ご飯
朝:納豆たまごかけご飯。昼:おかし。夜:クルクル寿司。(たまご、納豆、オクラ、ネギトロ、いか、シン・イカ、えび、漬マグロ、カンパチ、シマアジ)
○調子
○シン・ウルトラマン
けれど、だからこそ、人の生死は理屈で決めちゃいけない、そう感じさせられた映画でした。
ザラブ、メフィラス、ゾーフィらリピア以外の外星人は地球人類を尊重しておらず宇宙規模や多次元規模のマクロな視点、カトクタイの滝君の言葉を借りると神の如き視点から地球人を攻撃をする理屈を付けていたのが、この作品を読み解くキーワドだと感じた。
ゾーフィはベータボックスにより兵器に転換できるから、人類を抹殺すべきだ。
メフィラスは自分が上位の存在になって独占したいから、人類にベータボックスを授けて兵器化を進めるべきだ。
リピアと同じく現生人類を好きだ、と語るメフィラスも、その気持ちにこそ嘘は見受けられないものの、やっていることは侵略行為であり、彼の好きなある程度マクロな人類は守られるが、ミクロな視点で見たとき傷つく弱い人たちが生まれるのは明白で、作中でも言及されていた通り。
この理屈付けの有無こそが、リピアとそれ以外の外星人たちを切り分ける大きな違いなのかなあ。
理屈が付けれないリピアに対する、そうでなかったザラブであり、メフィラスであり、ゾーフィである、そう感じた。
結局、理屈なんてどんなふうにも付けれて、例えばゾーフィの言う地球人類の兵器化の危惧だって、だからこそ光の国で手厚く保護する必要があると言う結論でもいい。
メフィラスの現生人類が好きだからこそ自分が管理するという考えも、今の人類が好きなら尚更余計な神の介入は避けた方が現状維持になる、という考えでもいいわけで。
とどのつまり、神の視点から見れば人類を抹殺する理屈も人類を守る理屈もどうとでもなるんですよ。
そういう神の如き視点を持つ外星人たちと比べると、リピアの理屈は心もとない。
人類が愚かで幼いことも認めているし、神永が子供を守った理由も理解できていない、メフィラスと違ってゾーフィに指摘されるまで人が好きになったこともわかっていない。
けれど、わかっていないからこそ、理屈が付かないからこそ、そこに生きている市井の人々の、普通の人々の多種多様な生き様を見守ることの尊さをリピアは知っていたのかな。
コーヒーも服も、一人では作れない群れないといけない弱い生き物である人を、ただ守る。
ゼットンが空に透ける最中でも当たり前の人生を送っていた普通の人々、あのカットが僕はすごい印象的だった。
そして、ゼットンを倒すために群れの力で導き出した計算式で二段変身じみた殴り方をするウルトラマン。
光の国のウルトラマン達は、地球人から見ると神の如き強さなんだけど、それでも1人の知恵じゃ足りないことがある、群れることでウルトラマン1人じゃできないことができるようになる。
リピアはそれを身をもって知って、自信が神ではないとタキくんに教える。
ウルトラマンが、これからも作中で名前の出てこない普通の人類を見守りながらも、一緒に暮らして見守り続けてほしい、そうはならなかったのが少し心苦しいのですけど……
それでも、マルチバース的には人類と共存するウルトラマンもいるだろうし、シン・ウルトラマンの世界もこれからも続いていくのだと思う。
なんかクタクタダラダラととるに足らないことを書いてしまったけど、
「痛みを知る(のは俺だけでいいから)一人であれ」的な自己犠牲スピリッツではなく
「痛みを知るただ一人(の神ではない普通の人)であれ」という、意味なんだなあとスタッフロールで聞きながら感じたことを言語化したつもりでした。
https://togetter.com/li/1884669
といっても、最初の方を1分程度眺めただけで、あとははてぶコメントで推測・補ったという程度なのですけれど。
そのお嬢さんは、スマホ依存なのでは・・と感じます。そして、性依存になる可能性もゼロではないのではと心配になってしまいました。
本や体験談などを聞くと、根底にあるのは「不安」や「寂しさ」です。
愛情が向けられているか不安になり、寂しさを埋めて欲しいからSNSや出会い系等を利用しすぎてしまうのだと解釈しています。
心配している。と。
言葉にして、そしてお嬢さんが嫌がらなければ、一緒にお食事をしたり外出をしたりして楽しい時間をともに過ごしてください。
勿論、一方的な押し付けになってしまっては逆効果ですし、難しいとは思うのですが。
ただ、提案して、そして嫌がった場合に、その意思を尊重してもらえた。そして自分のことを好いてくれているから提案したのだと感じることはできるでしょうし、無駄ではないと思うのです。
なにか好きなもの(個人的には、お菓子やケーキよりお料理お惣菜だったら素敵だなと思うのですがw)ないか?あったら一緒に食べないか、とかそんなやりとりをして、関心を持っていると愛情を分かりやすく伝えてあげて欲しい。
見知らぬ相手に年齢詐称して会うリスクを冒すというのは、寂しいのではないかと、自分の体験からも思うので。
自分も反抗して自傷行為や軽い家出、売春未遂(というのも変ですが)を沢山行いました。
そして上記のは、例えば自分がそれくらいの年の頃にこういう暖かい言葉がけをもらっていたら嬉しかっただろうなと夢想しながら書いてみました。
最初は拒絶するだろうけど、気にかけてくれているんだと少し喜ぶ、幼い子供の自分を想像して。
細田守監督といえば「時をかける少女」や「サマーウォーズ」で有名だし、
近年でも金曜ロードーショーで何度もリバイバルされたり、サブスクで定期的に見放題になるので知っている人も多いだろう。
私は細田守監督作品が好きだ、出会いは1999年の劇場映画「デジモンアドベンチャー」(20分映画)、
それに続く2000年の「ぼくらのウォーゲーム!」(40分映画)だ。
どちらも非常に短い上映時間にも関わらずそれを感じさせない魅力が多く、本当に大好きだ。
「サマーウォーズ」は「ぼくらのウォーゲーム!」のセリフリメイクとして、デジモンアドベンチャーを見ていなかったひとにも勧められる高品質な映画として大変嬉しかったし、絶対に映画館で観続けてやるぞと思うようになった。
しかし、「おおかみこどもの雨と雪」を皮切りに、細田監督はスタジオ地図という独立スタジオを立ち上げて映画を作るようになったのだが、どうにも様子がおかしい。
様子がおかしいというのは語弊があるかもしれないが、なんだか「感動路線」や「国民的映画」というのを意図して作り出そうとしている印象を受けた。
そして「バケモノの子」「未来のミライ」といった映画を世に送り出したわけだけれど、クレジットを見ると「時をかける少女」〜「おおかみこどもの雨と雪」まで脚本を担当していた奥寺佐渡子氏の名が消え、細田守氏が直接脚本を書くようになっていた。
おそらく観た人の評判から「未来のミライ」のことはご存知の方も多いと思うが、その他も脚本の質としてはかなり低品質に思えた。
具体的には登場人物の感情曲線が支離滅裂で、動機と行動に一貫性がなにもない。
作りたい展開を作りたいように継ぎはぎしている。
そういった印象を受けた。
そして、満を辞して公開された「竜とそばかすの姫」は極力期待しないようにして公開日に劇場へ足を運んだ。
だが、自分は少しは期待していた、なぜなら舞台が「ネット上の仮想世界」ということで、原点回帰のような面が伺えたからだ。
独立後は自然派やファンタジーに寄った作品が多かったので、監督のオタク的心理を取り戻してくれると少しは期待してしまっていた。
しかしいざ観た内容は、「時をかける少女」と「サマーウォーズ」を足して薄く引き伸ばして再生産し、モヤモヤっとしたまま〆て終わりのような作品だった。
最後のスタッフロールで全国の日本テレビ各局番宣スタッフが長々と列記されている部分だけが色濃く脳裏に残っている。
もちろん、場面の絵作りとしては高品質なところもあるし、単純にミュージックビデオとして見ればそう悪くない場面もあることはあった。
しかし、それらを踏まえても、一本の映画として観た場合に違和感やモヤモヤばかりを劇場の外に持ち帰る脚本はいただけないなと思った。
「感動路線」「国民的映画」を目指しているそぶりは続いていたが、感情移入できるキャラクターも「観てよかった」「おもしろかった」と太鼓判を押せる要素も消え失せていた。
脳みそがチンパンジーなので、始終展開があり画面に飽きない映画が大好きだ。
これまで見た映画で特に楽しめた映画を頑張って挙げる、ぜひ同じような傾向のまだ見ぬ映画を教えてほしい。
グランド・イリュージョン - 始終退屈せずを体現した映画、華がありスタイリッシュな登場人物たちに魅了される
ドラゴン・タトゥーの女 - ダニエル・クレイグと影のある女と陰謀、カッケー、以上
女神の見えざる手 - "アメリカが彼女に振り回される" みたいなキャッチコピー、僕もぐるんぐるん振り回された
マージン・コール - 文化祭の前日に夜遅くまで準備しているときの雰囲気が好きだ、そんな記憶を呼び覚ましてくれた映画
エグザム - 閉鎖空間で初対面の人間が集まって何かするっていうよくある設定だけど最後まで飽きない
プレデターズ - 地球のいろんな軍隊の人が突然さらわれて宇宙人と戦う、この映画好きな人と会ったことないけど好きなんや…
オーシャンズ 11,12,13 - プロフェッショナルが集まって何か作戦するって映画は基本大好き、ブラピがかっこよすぎる
スティング - オーシャンズみたいな映画、ちょっと古いけどこれもすべての要素をきれいに配置した良い映画
CUBE - シリーズ全部みたけど初代だけ、余分な要素がない初代が一番好き、なぜ初代以外はだめだめなんだろう
インターステラー - これは本当に純粋な画面映えがよかった、内容も好き
ガタカ - 何かが足りないけれどもそれを乗り越えようと人事を尽くす姿には心をうたれる、派手な画面ではないが目が離せない
フォーカス - プロの詐欺師カッケー、あとこの映画の演技指導をした人の TED の動画も面白いから見てほしい(https://www.youtube.com/watch?v=EDkxFQExFec)
ウォンテッド - 中二病のために作られた映画、中二病なので超楽しかった
ソードフィッシュ - してやってやったという映画、してやられた
プレステージ - 長いけど途中で伏線が頭の中でつながったときは興奮した
真実の行方 - 最初マジで寝そうになったけど話が動き出してからは楽しめた
ものすごくうるさくて、ありえないほど近い - 子供の繊細な心の動きに揺さぶられた
ある程度の女子は服を脱ぐときでも腋を締めて脱ぐけど、小学生が服を脱ぐ時みたいにそのまま両腕を上げて脱いだ女子が腋毛が生えてて、白い綿パンをちゃっちゃと脱いでも陰毛も生えてて、洋式トイレで立っておしっこしてました。
その昔、中国の田舎には普通に「にーはおトイレ」があって、その女子の田舎の外の共同トイレもそうだった。お腹を壊してしゃがんでると、女子が入って来て、なんか笑って言ってるけど、対面の便器に跨ってズボンを下ろしながらしゃがんだ。シャーっとおしっこをしながらワイに話しかけてる。お腹が超痛くて下痢のうんこしてるけど、女子の股間はしっかり見た。下痢の時は勃起する。女子はお尻を何回か上下に振っておしっこを切って、トイレットペーパーを何巻か取って、立ち上がって股間を拭いてパンツとズボンを上げた。外に出て行って、話し声が聞こえて、子供や女子やおばさんが覗きに来た。おばさんはワイのおっきくなたちんこを指差して笑った。みんなが覗いた。ワイはお腹が超痛いし。ワイの連れの女子が言うにはこっちは女子トイレだ。だけど日本人が間違えて悶絶してるのが面白かったって。
その村の暇そうな女子に「我想看看你的屄、?」とか言うと、見たいの?なんで見たいの?と笑いながら短パンの裾からパンツをずらして自分でも見ながら見せてくれる。安い!
そんな女子と一緒に水浴びして、ちょっと汗臭い身体を石鹸で隅々まで洗って、まんこもお尻も洗って髪も2回洗って、新しいさ下着と服を着せて、ホテルの部屋でずっとクンニしとら、何言ってるか分からないけど、びくんびくんとして顔におしっこされる。女子の携帯電話が鳴って、なんか喋ってて、おっぱい揉んでたらドアがノックされて、開けると女子友達がいた。2人は笑って説明かおしゃべりかしてた。わからんからその女子友達のズボンとヨレヨレのパンツを脱がして、浴室で股間だけ洗ってたら自分で上も脱いで、洗って、友達に見られながら多分人生初クンニ。中国人な舐めない。
ワイはTシャツとトランクス姿だったけど、女子はワイのちんこには興味無し。なのでトランクスを脱いでちんこを出した。「わー」とかなんか言ってる。最初の女子の股を開いてちんこを股に持っていったら、女子がワイのちんこを握って自分で入れようとした。色々不安がよぎったけど、そのままいれたら「入ったわね」みたいな顔で笑った気がした。なんかもう、両手でおっぱい揉んで乳首をつまんでクリトリスを弄ったり頑張ると、女子は目を閉じて少し上を向いて何か中国語で喋った。横の女子の顔を見て右手で股間を触るとぬるぬるだった。
これぞ3Pだ!
と思った。「之叫なーり?(ここ何て言うの?)」と色々中国語を聞きながら、3人で楽しかった。その時また電話がなって「女子友達が男子友達連れて行こうかって」とか言われたけど、取り敢えず断った。それでも来た。中国男子は「ワイのちんことどっちが大きい!」と勃起したちんこをだして、ワイのと比べるように横に並べた。同じくらいだった。中国男子は体毛が薄くて体つきが良かった。
「做爱做爱」と言うと、中国男子は恥ずかしがる彼女を脱がして、手に唾を取って彼女の股間に塗って、即挿入した。ワイがクンニすると「うへっ、そんなところ舐めて」みたいな笑い。だけどこっちの女子はワイのちんこも舐めてくれて、良い匂いで、あんあん声を出してて、中国男子の動きが止まる。後から来た女子に四つん這いになってもらい、まんこを開いて「想在这里插入?(入れたい?)」とか言うと、女子もお尻を振って「来(来て)」とか言って、中国男子が無言のままちんこを抜こうとすると、下の彼女が怖い目つきで男子の腕を爪を立てて掴んで何か言ってる。他の女とやるつもりかよ!って怒って、ちょっとだけだから、ね、みたいか。じゃあ私もしても良いの?何を?あの日本人と。したけりゃすればいいじゃん。だから、ちょっとだけね、のところで四つん這い女子は座り直して、多分浮気はダメだみたいな。それから女子2人で彼女を浴室で綺麗に洗って良い匂いにさせて、その間男子2人は萎んだちんこでたわいも無い話して、綺麗になった彼女のまんこを彼氏に舐めろと言うけどなんか嫌がって、じゃあワイが舐めてもいい?う、うん。彼女は恥ずかしそうから切ない顔になって、「さあいまちんこ入れなよ」と交代して、おっぱいもこう触ってさあ、とか、こっちはしっくすないんもしちゃうよ!と遊んで、最初女子がふざけてワイのちんこを手コキしてるときに、色んなエロが頂点に達して、女子のお腹の上にいっぱい出た。「あ?あ!あーっ!しこしこしこ」。気持ちよかった。出た白い液体を見てはしゃぐ女子の顔を持ってデープキスした。歯ががちんがちんあたるけど、次第に慣れるし、精液をおっぱいに塗って、その指を女子の口に入れた。
後の女子が射精して萎んだちんこの皮を引っ張ったりぬるぬる被せたり剥いたりして遊ぶから、また大きくなった。ちんこを指して「これ好き?」と聞くとまんこを指して「あなたがこれをすきなんでしょ?」と笑って言う。後女子に挿入して、もうどうでもいいから「キミ可愛いね!好きだ、愛してる!」とか知ってる簡単な中国語でいうと、多分「私と付き合いたいの?私が好きなの?好きになったの?」とか言ってる。先女子は「私は私は?」みたいにしなをつくってくる。それから手でちんこを抜いて自分に入れて「私の方が気持ち良い」みたいな。後女子「あなたさっきしたじゃない」「外だったじゃん!」とか小競り合いなので、先女子に「ごめんね」と後女子とせっくす。イキそうなので外出し。
「かなわぬ恋なんて言うに及ばぬ
途方にくれるような片思い」
ああそうだ。
推しのことが本当に大好きで、一人の人間として好きで、この感情は恋愛だと思っている。
大好きなんだ!
そう、思っていた。
叶う妄想なんかもしていた。
でも、思い知らされた。
叶わぬ恋など言うには及ばないのだ、私のこの想いは。
届く・届かない、叶う・叶わない。
そんな次元の話ではない。
言うに及ばぬ恋だ。
どうしようもないのだ。
最後に出てくる「○○町のみなさん」と同じ。
その一員でしかないのだ、私は。
どんなに会いに行っても、
どんなに好きだと伝えても、
どんなにお金を積んでも、
思い上がってはいけないのだ。
恋人役にも、恋敵にも、仲間にも、何にもなれない。
ただのエキストラ。
同じ画面に映ったとしても、その瞳に映ることは、無い。
かなわぬ恋なんて言うに及ばない、
途方にくれるような片思いだ。
今でも好きなことには変わりない。
いつか、叶うときが来たら。
そう夢見ることもある。
ただ、その度にこの曲を思い出すようになった。
そして打ちひしがれるのだ。
現実を突きつけられて、とんでもなくしんどくなる。
しんどくてしんどくて、吐き出すためにこのブログを書いている。
好きです。
決して届かなくても大好きです。
それだけ、とは言えないけど。
大好きなんです。
村人Aでいい。
欲にまみれた私をどうか許してください。
大好きです。
あるいは、オリンピック続行に反対だが、選手は応援したい、というジレンマ。
全国的に感染が急拡大する中、こうしたジレンマに悩んでいる人、多いと思う。
wikipediaによると以下。
認知的不協和とは、人が自身の認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、矛盾する認知の定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。
オリンピックに反対であるがゆえに、応援もしない、さらには選手を軽蔑する、という形で自分自身の内心の一貫性を持たせようとする心的な傾向は、まさに日的不協和の典型例なんじゃないだろうか。
しかし、近代社会というのは、個々人の内心が一貫していることを求めるものでもなく、むしろ個人の好みと社会にとって正しいと思うことがぶつかり合うことを前提とした制度設計がなされている。
例としては、うなぎは大好物だが、乱獲は抑止すべきだ、とか、プラスチックは便利だがプラスチックごみは規制すべき等も思いつく。
自分の欲求と社会のありようが完全に一致しているひとはまずいないだろうし、ありとあらゆる社会問題は、自分のなかに矛盾した形である、個々人の選好と個々人の描く社会の在り方(正しさ、善)を調整する営みなんだろう。
うなぎの例でわかるように、「したいこと」と「よいこと」が矛盾した認知的不協和というのはごく当たり前の心理状態であり、大好物という認知と乱獲防止への政策支持の不一致を解消する必要はない。
うなぎは好きで食べるけれども、乱獲防止政策に賛成という態度はあって当然のこと。むしろこの二重性がなければ、公共的判断は成立しない。
うなぎを食べながら規制に反対する、というのも、認知的不協和の解消方法のひとつといえる。人々が矛盾を抱えたままで「正しいこと」に合意し、公共判断を下せるのは、とても合理的な制度設計だ。
そう考えると、現代の民主政が直接ではなく間接民主制なのか、納得がいく。
個人的には好きではないけど自分が社会の在り方として正しいと思っていることを代表者が討議し、社会として選択する、という場が必要になる。
そうなると、意思決定者にも、討議に参加する代表者にも、欲望だけに囚われない、人間的にも理性的にも分別のあるマトモな人間であってもらいたい。
近代の民主主義を築き上げた初期の人たち、例えばアメリカの建国者のひとりジェファーソンは、
公共的な討議の場を設定するためには、市民としては、そういう矛盾する認知を整理し、公共的課題を自分の欲求から分けて考えることができる分裂症的気質こそ、民主政に必要な市民の資質だと考え、他方、代表者(議員)に必要な資質をアリストクラシー(自然的貴族)と呼んだ。
しかし、一般市民としては、自分のなかの矛盾に耐えられない、というのが当たり前。
社会はこうあってほしい、という思いと、自分はこれが好きだ、という、ふたつの矛盾する認知に直面したとき、
ふつうの人々は、自分の内面を整理するために、どちらかの認知に一貫性を持たせるよう、知らず知らずに認知を修正してゆくことになる。
今回のオリンピックの例でいえば、特に運営側の闇の側面をいやというほど見せつけれられてきたので、人々のオリンピック嫌いが加速し、中止または延期の世論は7割以上になった。さらに、自分のなかでの論理的一貫性を保つために、選手にも賛同しない、という考えすら生まれてきたのは周知のとおり。
オリンピック選手に対するある種の攻撃的な感情は、こうして醸成されてゆく。
社会の規範に合わせて自分に対して一貫性を要求しがちな日本人は特に、自分の欲求を我慢するのはストレスなので、場合によっては、自分だけではなく、他人にも一貫性を強く要求するようになるからだ。
別の例を挙げれば、60年代にセクト化が加速したサヨクの動きが典型例。
また、原発反対するなら電気使うな、オリンピック反対するなら、テレビをみるな、といったよくある論法も、同じ認知の一貫性を他人に求める一例。
サヨクのみなさんは、極端に走り勝ちで、じゃあ電気をつかわない、といって原始人のような生活を始めたりもしてしまう。
自分のなかで一貫性を持たせようとして、あえてオリンピックをみない、応援しないといった姿勢を貫こうとする人も少なくないようだ。
党派性それ自体は、個々人の選好が異なれば自然発生的なものだろうが、
それが過激化するのは、認知的不協和へのストレスのほかに、もうひとつ社会的な原因がありそうだ。
ますます両極化が進んでいき、相手方の一貫性のなさを批判し合うようになるまでには、認知的不協和を解消しやすい立場の人とと
そうではない人たちとの分断が背景としてあるのかもしれない。
コロナ対策では人流の抑制が課題なので、パンデミックが始まった一年前、ステイホームが大きく取り上げられた。
しかし、ステイホームできない、したくない人たちの現実、そして経済再開を望む多くの圧力を前に、
次第に言葉の力は失われ、今では行政も政治家も口にしなくなってしまった。
もっとも同時に、自粛警察もあんまり姿をみなくなったのは喜ばしいこと。
ステイホームができる人と、できない人の立場の差。それを声高に叫べば叫ぶほど、軋轢を生み、社会の分断が加速する。
思い出すのはベトナム反戦運動。ベトナム反戦真っ盛りの60年代のアメリカでブルーカラーと呼ばれる労働者階層が、ベトナム反戦に熱を上げる若者たちに
反感を抱いたのは、自らは徴兵されず、安全な場所から口だけ反戦を叫ぶやり方が気に食わなかったからだ。
コロナ禍でのステイホームのムーブメントでも、それと似たような分断が生じたように思う。
自粛、在宅など社会に貢献できる人々と、ステイホームという形では絶対に貢献できず、むしろ足を引っ張ってしまうようにも見られてしまう業界。
それが特に浮き彫りになったのが、エッセンシャルワーカーというカテゴリからこぼれ落ちた飲食業界だ。
オリンピック選手もまた、一般人以上に、社会の安全と自己実現との間の認知的不協和に引き裂かれ、なおかつ、オリンピック反対派の標的にされるという意味では、深刻な犠牲者だろう。
以上の話は、人々のジレンマを構造的にとらえたらどうかな、という試みだけど、
自分自身が考えた正しさは、オリンピック賛成であれ、反対であれ、現在の自分の社会的立場のなかで認知的不協和を解消しやすい形で論理化されたものであり、
知らず知らずに自分の都合のいいように、正しさの論理的一貫性がアピールされているに過ぎない。
しかし、そんなふうにと口でいうのは簡単だが、ふつうはそんな悟りを開いたようなことはいえないし、そんなもの誰とも共有されない。
重要なのは、こんなふうに構造化して達観する、というか、悟りを開け、ということじゃなくて、
オリンピック観戦は選手の思いを知る絶好の機会。オリンピック反対がトーンダウンした、という論調もあるようだけど、
そうではなくて、自分的には反対は反対だけど、選手たちの置かれている立場もわかって、攻撃性が選手に向きにくくなったということだろう。
飲食でも、これまではタレコミにも怯え、苦しめられてきたけれど、最近は、ある意味、腹を括ったお店も多い。
タレコミも減ってきたという声もきかれる。
こうした寛容さは、行政の飲食業界への不十分な手当が報道されたり、飲食の場で実感することで、人々の認知が再修正された結果だと思う。
人々の認知には多様性が生じるものの、異なる立場の姿が可視化されることによって、自分のなかで矛盾する二つの認知をよりクリアに整理することにつながる。
こうして考えてみると、自粛要請をベースとした日本流の政策は、人々の認知が多様になるとかえって不都合なのがわかる。だからこそ政権与党は、人々が同じ方向を向きやすいタイミングを狙って、オリンピック直後の選挙を好機とみたりするのだろう。
自粛要請は、政策決定(ルール)に従う形で自分自身の好みという認知的不協和を解消しようとする日本人のメンタリティと、同じ社会の構成員にも同じ一貫性を要求したがる相互監視のムラ社会的なメンタリティが合わさって発揮して初めて効果的だといえるけれど、昨今のオリンピック運営のゴタゴタにみられるように、公共的なルールや判断への人々の不信感が強まると、必ずしも政策決定者に都合のいいような仕方で人々が一丸となって、認知的不協和を解消してくれるとは限らなくなる。
などと、都合のいい解釈で認知的不協和の解消を政策決定者自らが行うとなれば、
人々は、ルールへ従うことの意味が不明瞭になり、ああ、結局、好きなようにやっていいんだな、という思いを強め、相互監視は機能せず、自分の生活を変えることなくコロナへの懸念も自分の認知のなかで両立させてゆくだけだ。
しかし、現実には、2020年4月に実現した日本人一丸となったステイホームは夢のまた夢だし、飲食業界は我慢の限界をとっくに超えているしで、
人々はデルタ株猛威の現実にピンときておらず、人によって温度差のある、かなり適当な自粛をしつつ、コロナから目を背けられる絶好の機会とばかりにオリンピックに夢中になっている。
自粛に頼った政策は、結局のところ、オリンピックへの賛否が開催とともに揺れ動いてきたことに典型的に表れているように、認知的不協和の解消の仕方に多様性が出てきた瞬間、崩れ去ってゆく。「コロナは心配、、、」といいつつ普段通りに暮らす人々であふれかえるだけだ。
本来の政策というのは、そんな人々の認知(世論)など無関係に、討議されるべきであるし、人々は討議の結果に対して法的な拘束力を受け入れるべきだ。
例えば、自分の考えと相反していても、オリンピックは応援しているし、これからもしたいが、もし中止という政策決定がなされるならやむを得ない、
あるいは、オリンピックは懸念しているが、もし続行という政策決定がなされるならやむを得ないという態度でいられるほどに、政策決定者への信頼が重要になる。
「ほらみろ五輪楽しんでいる奴らが増えただろ」などという次元で政策を決めるべきではない。
むしろ「個人としては五輪は楽しんでいるけれども、政府には感染対策として中止するなら、中止を決定してもらいたい」という、ジェファーソン流にいえば分裂症的な市民の判断を見極めたほうがいい。
しかし残念ながら、いまの政権にはそうした信頼が全くといっていいほどない。
いつどんな判断をするか、全くわからない。データは出さない。モニタリングもしない。事実に基づかず楽観論でしか答えない。
将来シナリオを示さない。予測や分析を共有しないから、いつも唐突に首相が何かを決心したかのように物事が決まって、人々がついていけなくなる。
わたし:
相手:
3年前に付き合ってた元彼の知り合い
男にふられて自暴自棄になったタイミングと相手が恋人にふられたタイミングがちょうど同じだった。
一晩通話して、お互い一人ぼっちだからとりあえず孤独をごまかすために一緒にいてみようか(≠付き合う)という話になった。
その後ほぼほぼ毎晩寝落ち通話をして、1週間くらい過ぎたときに会うことになった。
ご飯を食べたあと相手の家に直行して、私から求めてセックスをした。
相手から私さえ気持ちよければいいという気持ちが伝わってきて、ああ私は相手から求められていないんだなと悲しくなった。
会ってもう数日したら相手が好きになってしまっていて、付き合ってほしいと伝えたら今のところ恋愛対象として見ていないと言われてしまった。
寝落ち通話をしては翌朝のんびり話したりして、相手が生活の一部になってしまっていて、この生活が相手の未来の恋人に奪われるのが怖くなってしまった。
それからも何度か好きだ、どうか私のことも好きになってほしいと伝えたけれども
恋人としてじゃないけれども好きではある、恋愛対象として見るには私のことを知ることが必要だとか
一緒に何らかの困難を乗り越える必要があるだとかでほんのり期待を持たされる断り方をされている。
先日相手が家に来たときスキンシップをとっても嫌がられないどころか頭をなでてもらったりした。幸せだった。
どうしてこれだけ近いところにいるのに付き合ってもらえないんだろう。
相手がつらいときは私に声をかけてくれるし、私も彼がつらいときは優先して話を聞いている。
正直付き合ったところで今の関係とどう変わるのかという思いもあるんだけれど、
やはり今の関係を相手の未来の恋人に奪われてしまうのが怖くて仕方がない。
すっぱり諦めさせてもらえるのならそれがいいとすら思う。
Covid19感染者を見つけるためのPCR検査が絞られてきたことがこの三度目の要請に至った理由だと考える。
無症状感染者を見つけるための社会的検査、事業所への頻回検査や希望者への検査を渋ってきた。
無症状感染者を早期発見することで感染を広げることを止める事の意義を理解できず、また、濃厚接触者として、接触者の検査すらも厳選したことで、何度も感染の山を作ってきたことは吉村洋文氏の責任であると私は考える。
「どうしたら感染を防ぐことができるのか、感染を防ぐためにはより多くの感染者を見つけることが必要だ、どうしたらそのような検査ができるのか?」ということを考えてこなかったのである。
政治が無能であり、私たちの命が守られていないことは、政治が悪いということが分かってもらえない。
言葉が届かないもどかしさをずっと考えている。
その感染防止の個性の穴を、SARS-CoV-2は見逃さないのである。
たとえばウレタンマスクが好きだ、そのマスクは、不織布マスクに比べて半分しか感染抑止効果がない。
たとえばマスクから鼻を出してしまう、SARS-CoV-2は空気感染なので、空気を吸い込むだけで感染してしまう。
屋内での食事は、マスクをしないから危険である。夜の飲食店ばかり槍玉にするのは感染の山をおさえる、スプレッダーイベントさえコントロールすれば十分であって、感染を防止するためではない、感染の数を少しだけ減らしたいだけなのだ。
酔っぱらいはみんな嫌いだから攻撃してもいいのだ。そういう気持ちさえ政治利用されている。
SARS-CoV-2に対抗するためには、個人の力では無理なのだ。
ところで、私は新型コロナウイルス感染症とコロナと呼ぶのはためらっている。
「ころな」という名前の子はいないだろうか?いじめられてはいないだろうか、といつも気がかりなのだ。
パンデミックが始まって一年以上が経過してしまった。一年である。
感染者が少ないというのは非常に優位だった。
数が増えれば対処できないからだ。ヨーロッパが制圧できないのは、数が多すぎるからである。
日本は感染者数が少ないからこそ、コントロールできるはずだった。
従来株でも、毎回、感染の波を大きくしてきた。それは政治の無能さを示すものだと思う。波を低くしていくこそが、低く維持することこそが、政治の役割である。
褒めじゃない。
「○○が好きなんだよね」っていう子がいたとして
「○○好きだって言ってたから」から始まる会話が自然と増えるはずなんだよ。
例えば映画好きってきいたら
今まで見たものこれから見たものについて感想を聞かせてもらうのでもいい→それまで対象を愛してきたことをリスペクトする
好きっていってた監督の情報をニュースでたまたましったらそれを送る→もう知ってるかもとか思わない、だって目的はマウントでも恩売りでもない
断られたらもちろん1人でいくつもりで(重要)一緒に行かないかと誘う→一緒に行けないならいいやでやめるのは最悪
「映画好きなんていい趣味だね!」とか急に褒めても、は?ってなるだけだよ多分……
それが好きだ、大事だ、っていう気持ちに寄り添うっていうかなあ…
熱量までは追いつかなくても
つい目がいくようになるし、りんごについてちょっと詳しくなったり買ってみたりするじゃん
見返りなんて考えもせずそれが目にとまるようになるじゃん
りんごっていいよね!りんご好きな子最高!とか急に言われてもポカンだよ
褒めればいい理論勘違いしてるやつがそれやって結果でなくてよく腐ってるけど…
「相手の大事なものを大事にする」って本気で好きな相手とか家庭を持とうとか決意した相手には勝手に起こることなんだけど
実は十分に意図的にやれることだし、やれば純愛のトレース同然のことが起こせるので、相手に最高の形で好意が伝わりやすい結果高確率で好かれるよ、って話。
実際は大事なところには信念とか価値観とか小さい頃の傷とかコンプレックスとの戦いの歴史がはいってくる。
それを褒めるって違うでしょ。
3年前私は夫婦別姓を選択して結婚した、といっても法律婚ではない別姓なので事実婚だ
周りから同棲と何が違う?と言われないように結婚式もあげた、合計300万くらいかかったが夫が全部出してくれた
結婚生活には大きな不服は無く子供は出来たらいいね~程度でセックスをして子供ができた
結婚する前の事前調査で事実婚だと子供は私の姓になることがわかっていたので当然のように子供は私の姓にすると思っていた
だが生まれる直前になって夫が子供を自分の姓にしたいと言い出した、
そっちが姓を変えるならするよと答えたが夫は拒絶した、当然だろう、それがお互いできるなら初めから法律婚を選択している
そこで夫が出してきたのが家庭裁判所の許可があれば夫の氏にできるということだ
そんな簡単に許可が下りるものなのか私は疑問だったが夫はできると強弁した
ならばと一人目は私の姓で、二人目は夫の姓にしてはどうだろう?と提案もしてみたが夫は逆が良いという
私は結婚前から子供は私の姓になるとお互い了承していたじゃないかと絶対に譲らなかった
今から考えるとなんでそんな事にヒートアップしたのかわからない
もうすぐ育休が明ける、私は仕事に戻らなければならないが保育園は決まっていない、だが保育園が決まったら実家を出て東京に戻らないといけない
仕事にも東京にも戻りたくない、まだ立ち上がったばかりの子供を預けて自分が仕事をしなければならないなんて気が狂いそうになる
そもそも仕事もそんなに好きじゃない、月末月初は毎回残業になり年末は12月31日まで仕事があるような状況に戻るとか正気の沙汰じゃない
なんであの時私は意地をはったんだろう、私がずっと欲しかったのは自分の姓じゃない、家族だったはずなのに
何故姓にこだわり家族を手放したんだろう
いや夫だってもっと早く法律婚じゃなきゃ絶対嫌だって言えばよかったんだ、理解あるふりして今は夫婦別姓でいいと思うよなんて言わなければよかったのだ
子供ができたことは後悔していない、子育ては嫌いだが子供は好きだ、いや他人の子供は嫌いだが自分の子供は好きだ、子供と別の姓になることは今でもやはり考えられない
どうか私と同じ底辺の女性にだけは聞いてほしい、こんな状況になったからこそわかる
夫婦別姓はすべての女性のためにあるものじゃない、あれは強者女性が強者性を維持するためのものだ
私たちのような経済弱者が夫婦別姓を選択しても、私たちが強者女性になることは無い
誰もそうしろなんて言っていない、お前がそう選んだだけだ、男が悪い、男を見る目がない、どうせ散々叩かれるんだろう
ニュータウンじみた町に住んでいる。31歳独身男の一人暮らし。
仕事終わりに散歩をしている。在宅勤務なので、今日外に出るのは初めてだ。
孤独と老化と仕事への嫌悪感で将来に悲観的な想像しかできない。仕事の環境はおそらく恵まれているのに、この気持ちは何だ。
楽しそうに騒ぎながら下校する小学生のガキどもを見て、つらい思い出ばかり残る学生時代を思い出してしまう。
次第にガキどもにやり場のない怒りがこみ上げてくる。
そんな中、ひとりのガキに目が行った。
そいつは一人で下校していて、ビニール傘の柄の部分を首にかけていた。
開く部分は首から横に飛び出ていて、水木一郎のスカーフのようになっている。
朝から在宅勤務だったので、俺は今日雨が降っていたのか知らない。
こいつ、バカだなぁと思いつつ、不意に泣きそうになっていた。
この街にいる他のガキがどうなろうが知らないが、俺はこいつのために税金を納めようって思えた。
もののけ姫の最後の方で「アシタカは好きだ、でも人間は嫌いだ」という言葉があったと思う。あの言葉はサンが人間に肯定的な意見を持つ第一歩だと思う。
人間から物の怪になりかけてそうな自分の心の絶望が少し和らいだのを感じながら、そんなことを思う。
たぶん今日は酒を飲まない。
※この物語はよくあるフィクションです。心当たりがあっても別人です。
女性向けBL同人で小説書いてたんだが評価されないってか見られねえ。
ジャンル自体が斜陽どころか落日。なんせ十年近く前の作品だ。当時はピクシブに投稿あったがそれでもマイナーカプだった。今は言わずもがな、昨年アップされた小説は全部私だ。
閲覧はつくが評価はされない。ブクマもほぼない。書き手は自分だけ。
ジャンル全体で見れば私を除けば月イチで投稿されればいいほうだ。人はいねえ。
たぶんキンリミで二次元ドリーム文庫読んでてなんか書きたいシチュエーションが出てきたんだと思う。ちなみにだけどエロのシチュエーションを豊富にしたくてキンリミとコミフロ入ってる。
一次の男性向けエロ小説を書いてノクターンにあげた。評価がついた! すげえ! いつも書いてる自ジャンルのBLより評価がつく! 嬉しい! 人間が反応してくれている! ここには人がいる!
嬉しくなってちまちまあげた。反応がある。嬉しい。虚空に投げてるわけじゃない。コメントももらえた。ありがとう。すごく嬉しい。
今は1万字くらいの長さのを定期的にアップしている。
長編のほうがランキングとか乗りやすいのかなと思うが長いのよりさくっと読めてさくっと終わるスナック感覚の性癖特化系が好きなのでそればかり書いている。
毎回反応がある。嬉しい。
女性向けBL同人はめっきり書かなくなった。そんなある時コメントがついているのに気付いた。
私の書いたカプが好きで小説が好きだ、もう書いてくれないのかと書かれていた。
私の書いたものの公開ブクマにその人の名前は一つもなかった。非公開ならあるんだろうか。知らん。
同人サイト時代にも感想がなくて閉鎖しますと書いたら一気に感想が来始めるとかいう話を聞いたことはあったが、なんでもっと早く送らないんだろうな。
好きなものを書いてるだけで反応なんて要求するなと思われるかもしれないが、それなら書くだけ書いてローカルに保存して自分だけで見るわ。それを外に出してる以上なにかしらの反応が欲しかった。