はてなキーワード: 一部の人とは
マイノリティの権利を確保したり女性の社会進出を後押ししたり難民をがんばって受け入れようとしたりと言うのは先進国の常識というか世界はかくあるべきという方向性がそっちを向いていることに異存はあまりない感じじゃないですか。実際どの程度できているのかは別としてそういうのが正しいこととして進められている。弱者や少数者が辛い思いをしなくて済む世界、性別によって生き方を強制されない世界はすばらしいと思うのでどんどんそうなるべきだと思っていたんだけど最近その信念が揺らいできてる。
たとえばヨーロッパでは難民の数が多すぎて社会が不安定になりつつあるという。高福祉社会に教育レベルの低い難民(難民になるぐらいだからお金もないし学校にも行けないような状態の人が多い)を受け入れて福祉コストだけじゃなくて社会への同化コストとかその他いろいろで大変だとか。
そういうようないろいろを見ていて思ったんだけどみんななかよく同じ権利を抱えたままズブズブ沈むぐらいなら一部の人が割を食おうとも国全体がトータルで豊かになることを目指した方が幸せになれるんじゃないかなあと思ったり。もちろん幸せになるのは誰?トータルってなに?白人様?資本家?とかそういうのはいろいろ難しいのは当然なんだけど少なくとも今の人類の知恵と技術のままいくら意識だけを高めてもみんなが幸せな社会っていうよりは共倒れ社会しかやって来ないように思えてしまう。年寄りの人権を今のまま尊重し続けて住居も暮らし方も自由にさせるのなら僻地にも介護施設を作って認知症が車を運転し未来ある子供を巻き込んで事故を起こし続けるわけでそんな金が日本には無いように世界のどこに大量の難民を養ったりあらゆる弱者を守れる国があるのだろうか。決定的なカオスを避けるためには限定的な不利益を許容するしかないってことはないだろうか?それとも人間様が人間様たる尊厳でもって博愛を維持し自滅していくのが人類の進む道なのだろうか。
大半のケースにおいて、
決められたタクト(時間間隔)で、決められた作業をすることが要求される。
そして、それ以外のことはしてはいけない。粛々と、与えられた作業をこなす。
ごく少数の管理者の下に、とてもたくさんの人がそういう作業をしている。
じゃあその管理者は何をしているかと言うと、やっぱりルーチンワークだ。
ルーチンの複雑さが違うだけで、99%以上の人がルーチンワークをしている。
製造管理だったり販売管理だったり会計だったり給与だったり色々ある。
それでも、作っている内容が異なるだけで、プロセスは同じだ。
繰り返す。私は何度でも繰り返す。
質問「渋谷系ってどんな音楽なの?」
回答「渋谷系とはムーヴメントであり、音楽のジャンルを示したものではない」
Wikipediaによれば、「東京・渋谷(渋谷区宇田川町界隈)を発信地として1990年代に流行した日本のポピュラー音楽(J-POP)の一部の傾向を分類化したものである」とのこと。
代表にフリッパーズギターやピチカートファイヴ、オリジナル・ラヴなど。流行は90年代後半には終息していったといわれている。
渋谷のCDショップを中心に発信された流行(ムーヴメント)を表す言葉として用いられたのが始まりらしいが具体的な起源はよくわかっていない。
ミスチルやスピッツも渋谷系として扱われたこともあったらしい。
こんなに曖昧でよくわからない渋谷系だが、本来は流行そのものを類型化したものであり、特定の音楽ジャンルを指したものではなかったという認識は間違っていないだろう。
2016年現在、「渋谷系っぽい」という感覚は一定数の人間の共通の認識として共有されているように感じられる。
しかも、渋谷系というワードを好意的に使っているのは、なぜか渋谷系ムーヴメントを経験していない20代以下の若者たちが多いようなのである。
あくまで自分の観測範囲での話だが、確実に若者にとっての「渋谷系音楽」というものが存在するのだ。
お笑いでいえば「エンタ芸人」「レッドカーペット芸人」「あらびき芸人」みたいなもので、そういった括りはお笑いのジャンルではないのだけれども、
「エンタ芸人っぽい」という感覚はなんとなくであるが存在する。
あるいはビートたけしの「ダンカンこの野郎!」のようなものかもしれない。
*
あるいは、なぜムーヴメントから20年経った今でも渋谷系という言葉が使われるのか。
これは個人的な考えだが、それは「渋谷系以降の音楽が渋谷系の文脈で語られ過ぎた」ことに起因していると思う。
音楽は語られることで歴史となる。
当たり前の話だが、語られなかった音楽は音楽史に残らない。
渋谷系があまりにも語り手によって評価されたために、その後の音楽にも渋谷系の文脈が用いられてしまった。
そして、「渋谷系の文脈で語られた渋谷系以降の音楽」(≒渋谷系フォロワー)が現在影響力を持つようになり、それらを語るときに、渋谷系という言葉を使わざるを得ない状態にあるのだ。
私の考えでは「渋谷系っぽい」音楽のイメージ形成に大きく影響を与えたのは、渋谷系の人物ではなく渋谷系以降の人物なのである。
さて、ここでは、広がっていった「渋谷系っぽい」という認識に対して「定義が曖昧だ」とか「間違ってるよ」といった指摘はしない。
ここでは、実際のところ若者たちはどんな音楽を「渋谷系っぽい」と思っているのかを、曖昧なワードらしく曖昧に書き連ねていく。
2012年3月、NHK-FMで「今日は一日“渋谷系”三昧」という番組が放送された。
渋谷系で10時間番組を持たすというだけでもNHKすごいなと思うのだが、この番組でのプレイリストが大変に興味深い。
フリッパーズギター、ピチカートファイヴなどの曲が多く流される中、ブームが終息した1990年代後半以降の曲もいくつか放送されている。
ROUND TABLE、Cymbals、カジヒデキ、Chocolat、Chappie、南波志帆などなど……
NHK-FM 今日は一日渋谷系三昧のプレイリストまとめ - NAVER まとめ
これらの音楽も広い意味では渋谷系と認識することができる(されている)ということなのだ。
注目したいのはカジヒデキ。
彼は「最後の渋谷系」「遅れてきた渋谷系」と評されることが多いが、彼は現在の渋谷系のイメージ形成においてかなり重要な位置を占めている。
なぜか。それは2008年の映画「デトロイト・メタル・シティ」に関わったことによるものである。
同名漫画が原作の実写映画で、渋谷系音楽を愛し、ポップミュージシャンとしてデビューするため上京した主人公が、なぜかデスメタルバンドとしてデビューし、しかもカリスマバンドとしてブレイクしてしまうというお話。
そして、映画において、主人公・根岸の歌う「甘い恋人」を作曲したのがカジヒデキなのである。
ある意味で作中における渋谷系の象徴となるこの曲は、視聴者に渋谷系のイメージを強く印象付けた(同時に公然猥褻カットも強く印象付けた)。
――「DMC」では、根岸君が思う「渋谷系=可愛くてポップ」という、かなり表面的なイメージで描かれていますよね。
「渋谷系=可愛くてポップ」という解釈はちょっと? だったりしますが、実際僕の歌詞もそう言う側面を持っているし
(中略)「可愛くてポップ」は渋谷系の要素としては小さいと思うんだけど、フォローアーにはそういう人が多いことを考えると、決して間違った解釈ではないんでしょうね(笑)。
さて、最近、「渋谷系」を前面に押し出した若手バンドが2つ現れた。
ひとつが「OK?NO!!」というバンドである(2015年に既に解散している)。
全員平成生まれの渋谷系宅録ユニット、OK?NO!!によるフル・アルバム。ポップだけど、どこか骨太で、ビートで踊れてパーティな新感覚ビートポップ・グループOK?NO!!。Cymbalsの影響を多分に受け、"Beat Your Cymbal!! Life is a party!!"を声高に叫びながら遂に全国リリース!
もうひとつがPOLLYANNAだ。
最新型渋谷系ポップバンド POLLYANNA / ポリアンナ
2014年6月に結成。都内を中心に活動中。
OK?NO!!にいたってはCymbalsの影響を公言しているし、POLLYANNAも「TAKE ME WITH OVERLAND」という曲を聴けばCymbalsの影響を受けたのだろうと推測できる。
(実際に影響を受けた旨の発言もある)
Cymbalsは渋谷系ムーヴメントより後に出てきたバンドである。
しかし、Wikipediaを見てみると「ポスト渋谷系」と表記されている。
当然、彼らは渋谷系アーティストの真似事をしていたバンドではない。
あえていえばThe Whoなどのブリティッシュロックの影響が強い。
にも拘らず彼らを表すときには「ポスト渋谷系」などといった言葉がどうしても付きまとう。
それ故に彼らを知った若い世代は彼らの音楽を渋谷系音楽だと認識するのだ。
Cymbalsの初期のバンドコンセプト「かわいくっていじわる、ただしパンク」を渋谷系を表す言葉として捉えている者もいるようだ。
元Cymbalsで現TWEEDEESの沖井礼二はあるインタビューで以下の発言をしている。
TWEEDEESのライブには、高校生のお客さんも来てくれます。で、彼らが何で僕の存在を知ったかというと、ゲームミュージックだったりするんです。北川くんの場合はアニメだったかな。若い方の中には、フリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴではなく、CymbalsやROUND TABLEを渋谷系だと思っている人もいるみたいで。そこは自分でもよくわからない感覚です。
沖井礼二と黒田隆憲が語る“ポップスの暴力性”とは?「気持ちいいところは過剰にした方がいい」|Real Sound|リアルサウンド
ゲームミュージックやアニメに触れて渋谷系を知る若者が多いようである。
Cymbalsの楽曲は「Rally」「Show Business」が版権曲として音ゲーに収録されていたし(音源は異なるが)、沖井礼二は「空への扉」「Break on Through」「Runnin' away」などの曲をpop'n musicに提供している。
音ゲーと渋谷系の関係については渋谷系のイメージ形成において重要な部分であると思うのだが、私では手に余る。
以下のブログの方が詳しいのでそちらを参照されたい。
ポスト渋谷系にみる、音ゲー楽曲と邦楽シーンの影響関係(前半) - ダストポップ
さて、ここでKONAMIによるWeb連動型音楽配信企画「ひなビタ♪」について触れておこう。
キャラクターによる楽曲をバックストーリーなどを含めて提供していくメディアミックス企画で、
多数の楽曲が音ゲーに収録されている。
その中には渋谷系音楽が好きなキャラクターも存在し、公式サイトでは「アキシブ系って何?」というコラムも掲載されていた。
そこにおいて渋谷系とはどんな音楽かの説明がされているので引用する。
アキバ系とシブヤ系は音楽のジャンルなんだけど、今だとちょっと古い言葉になるかもしれないめう。
アキバ系はキャラソンやアイドル、電波ソングといったキャラクター的な見せ方をする音楽めう。
めうは、もともとこの2つの文化には共通するものがあると見てるめう。
ぼーかるの声質に対するこだわり、夢見がちで妄想好きなところ、非日常を好むことなどめう。
お互い表現手法は全く違えど、感覚的には非常に近いものを持っていると思うめう。
他に2つを結ぶものに、ゲームがあるめう。
めう調査では、シブヤ系の人もアキバ系の人もゲームが大好きめう。
チップチューンという音楽はゲームのような音でシャレオツな曲を作っていたりするめう。
*
そう言えばさ、めうめう。
最近のアニメの主題歌とかって、シブヤ系の人達が曲を作っているのをよく見るよね?
まりり、いいところに目をつけためうっ!
その流れは今後もっとくると、めうは見てるめうっ!
アキシブ系とは一時期アニソン界隈で一部の人が用いていた言葉で、定着したとは言い難いが、Wikipediaに記事もあるため一定の影響力は持っていると考えられる。
また、上記のコラムにおいてアニメ主題歌を渋谷系の人たちが作っているという指摘があるが、渋谷系ムーヴメントで活躍した人物がアニメ主題歌を作った例というのはそんなに多くない
(ちびまる子ちゃんOP「ハミングがきこえる」、スクールランブルED「オンナのコ♡オトコのコ」など)。
ここでいう渋谷系とは、ほとんどがポスト渋谷系、つまり渋谷系以降の人物たちのことであろう。
「きんいろモザイク」のEDでは、90年代後半にQYPTHONEというバンドでデビューした中塚武による楽曲「Your voice」、「My Best Friends」が使用されているし、
「たまこまーけっと」のOP「ドラマチックマーケットライド」では元ラヴ・タンバリンズの宮川弾が編曲で関わっている。
また、ヒャダイン(前山田健一)も渋谷系音楽を好んでおり影響を受けているとされている。
さらに、アニメ主題歌において語らずにおけないのがROUND TABLEの北川勝利である。
Ninoをボーカルに迎えたROUND TABLE featuring Ninoとして多くのアニメ主題歌を手掛け、また坂本真綾、牧野由依、中島愛、やなぎなぎへの楽曲提供など、枚挙に暇がない。
(ここでフライングドッグというレーベルと渋谷系の関係なども語りたいところだが、とりとめもないので割愛する)参考:渋谷系と声優とレーベルの話 - AOI-CAT's diary
アキシブ系というワードが用いられるとき、必ずと言っていいほど北川勝利の手掛けた楽曲が挙げられる。
アニメ好きの中には北川勝利は渋谷系の中心人物であると認識している人も少なからずいる。
昨年放送されたアニメ「アイドルマスター シンデレラガールズ」はMONACAの田中秀和が音楽を手掛けているが、劇伴のテーマは「渋谷系」であったと明かされている。
最初にそういうオーダーがありました。もともと僕は「渋谷系」の音楽が好きで、90年代の渋谷系を参考にしましたが、当時の「渋谷系」は海外の古い音楽を参考にして作られていたり、Jポップに対するカウンターカルチャーのような捉え方をされていたりもしたので、そういう気持ちで作った感覚があります。
オーダーで「渋谷系」が出てくるあたり、音楽ジャンルとしての「渋谷系っぽさ」は既に確立したのかもしれない。
加えて「乙女感のあるサウンド」というディレクションもあったらしく、「渋谷系」と「乙女感」は結びつくものだという認識があるのだと捉えることができる。
以下のPVで流れるBGMを聴けば、彼なりの渋谷系の解釈が聴き取れるだろう。
(追記:サントラの試聴が始まってたのでいくつか貼っておく)
【楽曲試聴】「The Girls Etiquette (M22)」
【楽曲試聴】「The Dancing Glass Slippers (M25)」
少し時間が戻るが、2013年、アニメと渋谷系の繋がり、そして渋谷系イメージ形成において重要な役割をもたらしたと思われるアルバムが発売される。
総合プロデュースは北川勝利。そして参加するアーティストはカジヒデキ、沖井礼二、矢野博康、宮川弾、中塚武、ミト、神前暁、古川本舗、ドラムに宮田繁男、ギターに奥田健介など。
多くは渋谷系ムーヴメントが終息した後に出てきたアーティストである。
2nd、3rdアルバムになるにつれコンセプトは変わっていくが、この1stアルバムでは明確に渋谷系というコンセプトは存在していたようだ。
1枚目では、わりとわかりやすく「渋谷」というキーワードがあって、(後略)
花澤香菜×北川勝利が明かす、“極上のポップソング”の作り方「人生と音楽がより密接になってきた」|Real Sound|リアルサウンド
花澤香菜というボーカルとの相性とその完成度から評判になり、「渋谷系ポップス」としてリスナーに受け入れられた。
Amazonのレビューでも渋谷系について言及したものが見られる。Amazon.co.jp: 花澤香菜 : claire - ミュージック
花澤香菜の音楽は渋谷系だという語り口はネット上で多く散見される。花澤香菜 渋谷系 - Twitter検索
ここにきて、渋谷系ムーヴメント当事者ではないアーティストによって「渋谷系っぽい」音楽が一つの到達点に達したのである。
若者にとっての渋谷系とはこのアルバムだ、と大げさに言ってもいいのかもしれない。
また、この「claire」に加え、沖井礼二や末光篤、筒美京平などが参加した竹達彩奈「apple symphony」の2つに影響を受けたアイドルプロデューサーがいる。
でも今年に入って、大きな衝撃を受けた3枚のアルバムがありまして。
──全部挙げてもらってもいいですか?
connie NONA REEVESの「POP STATION」、花澤香菜さんの「claire」、竹達彩奈さんの「apple symphony」です。
Negiccoとは新潟県を拠点とする3人組アイドルユニットで、近年ではピチカート・ファイヴの小西康陽やオリジナル・ラブの田島貴男、ノーナ・リーヴスの西寺郷太、シンバルズの矢野博康などの楽曲提供を受けており、
花澤香菜と違い、渋谷系ムーヴメント当事者の参加もあり、これこそ渋谷系の正統だとみることもできるが、時期的には花澤香菜よりワンテンポ遅れての評価になっており、ポスト渋谷系と渋谷系の順番が逆になっているように見えるのが面白い。
さらに面白いのがノーナ・リーヴスで、花澤香菜やNegiccoの楽曲にメンバーが参加した影響からか、現在では彼らも渋谷系扱いされることがあるという点だ。
世代的にはROUND TABLEやCymbalsと同じ世代であるのだが(奥田健介はCymbalsのサポートメンバー)、
ノーナはマイケル・ジャクソンやプリンスの影響が色濃く、当時は彼らを渋谷系と評する人は少なかったはずだ。
しかし現在、「渋谷系っぽい」音楽に関わりを持つことで遡及的に渋谷系の枠に入ってしまうことがある。
また、アイドルといえば、沖井礼二がかつて手掛けたさくら学院バトン部のユニット「Twinklestars」も渋谷系と評されることがある。
矢野博康もNegiccoや夢みるアドレセンスの楽曲を手掛けており、アイドルファンには彼らを渋谷系アーティストだと思っている人も少なくない。
また、Perfumeから中田ヤスタカに遡ってcapsuleを知った者は、初期のピチカート・ファイヴを彷彿させる楽曲を聴いて「これが(ネオ)渋谷系」と認識するようである。
渋谷系以降のポップスが語られる際に「渋谷系を彷彿させる」などと表現されることで渋谷系のイメージは少しずつ形成されていった。
当時の渋谷系ムーヴメントにいたアーティストではなく、渋谷系の文脈で語られた音楽によってイメージが形成されたのである。
*
さて、ここまでとりとめもなく「渋谷系っぽい」音楽を追ってきたが、こういった曖昧な認識は今後も広がっていくのだろうか。
それは、アニメやアイドル、ゲームなどを通して渋谷系の種が既に播かれてしまったからである。
「渋谷系っぽい」音楽に触れた若者はその音楽を渋谷系であると認識する。その流れは、渋谷系に代わる便利なワードが出て来ない限りは続くのではなかろうか。
例として「アイカツ!」を挙げておこう。
「アイカツ!」とは女児向けアーケードゲーム及びそれを原作としたアニメであり、その楽曲は音楽の多様性やトレンドに非常に敏感であるとされている。
2013年には既に旬を迎えていたEDM・ダブステップを取り入れた曲をOPに起用しているし、他にもメタルやロカビリー、ディスコ、ジャズなどあらゆるジャンルを取り入れている。
その中にも、いわゆる「渋谷系っぽい」音楽というものが存在し、子供の世代にも渋谷系の種は既に播かれている。
アイカツ!ミュージックビデオ『恋するみたいなキャラメリゼ』をお届け♪
レトロクローバーということで、作曲編曲的にもレトロで可愛い方向性で作ってみました。渋谷系!お気に入りの1曲です…!
サビで5度が半音ずつ上がっていくコード進行にレトロ感を感じるのは僕だけでしょうか…?)^o^(— 石濱 翔(MONACA) (@MONACA_ishihama) 2015年5月28日
本来の「渋谷系」の意味するところから少しずつ意味合いは変化し、若者にとっての「渋谷系」は既に当時のムーヴメントであった「渋谷系」とは異なるところへ向かいつつある。
DMCにおいて強調された「渋谷系=可愛くてポップ」というイメージや、ひなビタ♪で紹介された「ちょっとシャレオツなカンジの雰囲気ポップス」というイメージが強くなっているようだ。
アンチラの件、どうにも納得がいかないので書かせてね。
個人的には、返金(ここでは詫び石のこと)は必要ないか、返金するなら回して得たすべては返還されるべきだと思う。
このガチャの結果は残ったまま、宝晶石が3,000個返却された。
この3,000個で再び10連ガチャを回すこともできるし、別のことにも使うこともできる。
言ってみれば、3,000円で20回ガチャを回せるということだ。
これはとても不公平だと思う。
自分はその少し前に、クリスマスクラリスに万単位で投入して討ち死にしている。
これはなぜ返金されないのか。
確率なんて感覚的なものであり、実際のところは運営にしかわからない。
クリスマスクラリスだって、表示されていた程度に出ていたとは思えない。
結局、アンチラは一部の人が騒いで問題になったので返金された。そういうことだろう。
自制せず大量に課金した人が騒いで返金されるって、どこのクレーマーだよ。
前に、Android版でGoogleから返金(ここでは本当にお金のこと)があったと話題になったが、あれも不公平だと思う。
運営は関与していないとか、プレイヤーには関係のない話で、同じことをして一部の人には返金され、一部の人はそのままというのは問題ではないか。
恐らく声を上げれば問題にできるのだろう。
そこまでのパワーが無いなら泣き寝入りしろ、というのは随分横暴な話だ。
自分の意思で課金して、騒いだ人間だけが得をする(もしくは騒がない人が損をする)仕組みはおかしい。
返金するなら、その分で得たすべては返還されるべきだと思う。どちらを選ぶかは、プレイヤーに選択させる。
それが筋ってもんでしょう。
やった本人はTwitterに投稿しただけなのだが異常なまでに叩かれている。
この騒動の怖い所は、伏せ丼の是非云々はそっちのけで叩かれてるというところだ。
なぜそうなったのか。
それにまんまと乗せられて多くの悪意が伏せ丼をした人物に向けられた。
おそらく叩いてる連中の多くは、伏せ丼をした人物と直接面識は無く
具体的になにか迷惑をかけられたわけでもない。
この投稿者が私の知人なら「店に迷惑だからやめろ」と注意したかもしれない。
少なくともそこには店に対するリスペクトがあったはずだ。
この炎上騒動のおそろしいところは
私は都内某区に住んでいる。
普段から私と交流してる人なら、都内の○区がいい天気なのだなと分かるだろう。
そもそも自分のツイートという独り言に他人は関係無いのだからこれでいいのだ。
炎上騒動はいつ何時自分に降り掛かってくるかもしれない恐ろしさがある。
煽られた自称・善意の人たちによって粛正されるかもしれない恐怖。
今後こういう傾向はもっと加速していくだろう。
生き辛い世の中だ。
7,8年ほど昔の話になるけれど。文章の練習ついでに投稿してみます。
当時中学生の自分は「ラグ○ロクオン○イン」というオンラインゲームに学校から帰った後の自由時間の大半を費やすほどハマっていた。
そのゲームの世界は、中学のクラスの狭いコミュニティとは違って、様々な人がゲームを楽しんでいた。そこでは、自分よりも一回り二回り上の社会人が多くログインしており、年が近いといっても高校生や大学生のプレイヤーばかりで自分と同じ年齢層の中学生は滅多に見かけなかった。
そんな世界だったので、自分が中学生であると告白するのはちょっと怖くて、リアルのことを気軽に話せるぐらいに仲良くなったギルドの人にしか伝えなかった。
一回りも上の社会人の彼らたちに伝えたところで、どのような反応が返ってくるかと不安だったが、彼らは物珍しい対象だと思ったようで、年上として可愛がってくれたりもした。(リアル女子中学生プレイヤーという重宝される存在なせいで所謂ネトゲギルドの姫みたいな状態にもなりかけたが)
一部の人たちは今でも親交があり、私が成人した後も年に一度くらいちょっと高めなご飯を奢ってくれる。
そんな中、当時仲良くしてくれたプレイヤーの一人にいきなり「自分と付き合わないか」とwis(1:1でできるチャット)で告白された。
今思えば、完全に年下の女の子を狙った下心見え見えの事案なのだけれど、当時男性と付き合ったこともない女子中学生の私は舞い上がってしまった。
ゲーム内の彼は多少横暴な所もあり、性格がキツいことで多少トラブルを起こすこともあり、恋愛的な感情を持たなければあまり好きではないどころか苦手な相手だった。
そんな彼に告白されると思わなかったけれど、人に厳しかった彼に認められたようで嬉しくて、交際関係を結ぶことを承諾してしまった。
匿名でも言えることは限られると思うので、深くは言えないが、彼は13個も年上で自分が住む地方とは新幹線と使っても3時間もかかるような遠いところに住んでいる人なのが分かった。
彼に私の住んでいる地方の話をすると、「それなら大学生になったら自分の住む所に来てよ!今は遠距離恋愛だけど、君がこっちに来たらずっとそばにいられるよ。」と頼まれ、大学生になったら自分の住む地方に来てほしいというお願いをされた。今思うとメチャクチャな頼みだし、これを実践しようと思って親に受験費や学費を出してもらったのは大変申し訳ないと思う。
当時の私は、ルックス、学力共にダメダメで、自己肯定感がとても低かった。そのせいで、会ったことがない人であっても、自分が求められることが分かるのが嬉しくて「この人が私を求めてくれるのなら頑張ってみよう」と一念発起した。
高校時代は彼に嫌われないように化粧やダイエットを頑張ってみたり、中学の時もネトゲ漬けでだいぶ低かった成績も、中三の時から頑張り始めたことで進学校に入ることができ、入学後も、学年順位の一桁をキープするぐらい頑張ることが出来た。年頃の女子高生ということで、クラスメイトの男の子に告白されたり自分と成績を競い合った男の子を好きになりけかたこともあったけれど、私を待ってくれている彼のことを考えると、どうしても裏切ることはできなくて、気持ちを抑え込めた。
そんな思い出を抱えながら、高校時代の3年間は、周りが初めてキスしただのセックスしただの話している中で何も経験をしないまま過ぎていった。だけど、その分勉強も頑張ったことで有名な私立大学の政治経済学部に受かることができ、親も褒めてくれたり友人たちも祝ってくれた。
だけど入りたかった理由が「ネトゲで好きになった会ったこともない男の人のために頑張った」なんて、はっきり言うことは最後までできなかった。
そして大学入学後、彼からすぐに「桜を見に行こう」とデートに誘われ、初めて彼に会った。
写真で顔は見たことはあって、やっぱり年齢通りオジさんだったけど元々顔立ちは綺麗な人だった(と思っている)事は分かっていたので、ネトゲのオフ会や出会い系でよくあるような初対面の相手の見た目に対して嫌悪感を持つこと等はなかった。
デートの道中では、今までずっと電話やメールでしていたような何気ない話をすることができて、それができるだけでも幸せだと感じられた。
帰り際には不意に深いキスをされてびっくりした。今まで異性とキスすらしたことがなかった自分にとって刺激の強い体験だったのだけれど、それを友達に話したら「桜の散る中でキスするなんてすごくロマンチックだね!」なんて言われたりもして幸せな気分のまま初デートの日を終えた。
だけど、確実に違和感を覚える出来事が増えたのは、それからだったと思う。
初デートの日の後に彼からメールがきた。「○○(私)の家に遊びに行ってもいいかな?」という私の家に行きたいという旨のメールだった。「でも引っ越したばかりだから何もないよ?」と返信すると、「いいよ、○○(私)がいるんだから!」とかなりクサい文面が返ってきて、当時純粋だった私は喜んで彼を家に招いてしまった。
そこからは、エロ漫画の展開のように、服を脱がされてあれよあれよと処女を捧げてしまった。クジラックスのエロ漫画で女子中学生が和姦で犯されてる漫画が最近LOで載ってたけれど、まさにそんな感じだった。
そんなことを思ったけれど、すぐに忘れて彼を見つめる事しかあの時の私は出来なかった。
ここでかなり驚くことが起きる。Facebookのメッセンジャーアプリを利用したメール機能から、彼のセフレを名乗る女性から彼の裸寝顔写真付きで「私は彼とセックスしてヤリ捨てされました。あなたはこれを見てどう思いますか?」と川本真琴もビックリの暴露メールが送られきた。たぶん彼女は、私や彼のTwitter等のSNSを監視していて、私の存在を既に大学入学前から知っており、私と彼が家でデートしたタイミングでこのメールを送ったのだと思う。
私はさすがに初めての彼氏とセックスして数日で浮気暴露メールが送られてきたのは衝撃的過ぎて、最初は涙を流すことすら出来なかった。とりあえず彼に伝えると「え!?これはなんだよ!?オレはヤリ捨てなんかしてねーよ!なんなんだこれ!?」と困惑するだけの様子で何が起こったか分からない模様だった。まず否定するのはヤリ捨ての方なのかよ。
その後彼は長文メールで謝ってくれたが、しばらくした後に彼の共通の友人に彼とのメールを見せると「なんかナルシスト男のポエムみてーだな」とバッサリ切られた。(このメールを人に見せる私も大概酷い人間であるが、当時は浮気されたショックが抑えられなく、知り合いに相談しまくっていた。)
普通ならこれがきっかけで別れているのだろうが、当時は彼の事を「処女を初めて捧げた運命の人」のように見ていたので、「これを乗り越えなきゃ、きっとこれからも続かない!」とダメな方のポジティブシンキングの発想で関係を続けることを決意した。
だが、その後も試練は続き所謂「デートDV」や「モラハラ」だと思えるような発言や行動を彼は繰り返すようになり段々心を蝕んでいった。
例えば、ここで言える限りだと私が泣きかけても身体を痛めつけてきたり(彼が言うには『プレイの一環』)、私に対して暴言や「もっと可愛らしい口調で話せ!今のお前は可愛くない」「ちゃんとダイエットをして40キロ切らないと
別れる」などと、今の私を否定するようなモラハラ発言をするようになった。
その後交際を8か月程続けたが、結局彼から別れを切り出されて気づいたらフラれていた。
理由は、「お前の入っているサークルが男ばかりのオタクサークルでそこでお前がチヤホヤされてると思うとイライラする」といった私のオタサーの姫疑惑(実際はもっとほかにかわいい子がいたのでそのようなことはなかった)と「俺の命令通りにダイエットをしなかったからムカつく」といった終始ずっと私の体重の対する注文だった。ここは彼の頼み通りにしたかったけれど中々思い通りにダイエットできず体重を大幅に減らすことはできなかった。
今思い返してみると分かるのは、出会いからして、彼は私自身を見つめて好きになったというよりも「自分の言いなりになってくれそうな年下の女の子」を彼女にしたかったのだと思う。
だから、結局は彼は私のことが好きなわけではなかったのかなぁ、とも思う。最後まで彼の思い通りの女の子になれなかったのは悪かったと思うけれど、私の口調や体型を彼の思い通りに変えることは果たして彼のためになっても、私のためにはなったのだろうかと考えてしまう。
そう考えてしまった時点で私はもう彼のことより自分のことの方が大切に思えるようになってしまったのだろう。
そんな経験を経て、人のために何かをするより自分のために行動した方が人生うまくいくな、と考えるようになったのは彼のおかげもある気がする。
彼からは別れた後も何度か「会わないか」とセックスの誘いを匂わせる連絡は来たが、自分のために生きることを決めた私は彼に振られた後、大学内のサークルのかっこよくて優しい先輩と距離が接近するように行動し、交際を始めていた。
だから、彼には「あなたと会うと今の彼氏が心配するだろうから、会えない。ごめんなさい。」と送ったところもう返信は返ってくることはなかった。
彼が何しているかはもう分からないけれど、私が幸せに生きるためにはこれでいいんだと思う。
今でも親交のあるネトゲの友人にこの話をしたところ、「まぁあぁROではこんな出会いがあったけど次やるToSでもきっとまた新しい出会いが…」と言われたが『いや、ネトゲの出会いはもういいです』と即返答した。
オンラインゲームで大人と関わることは悪い事だけではないです。だけど、良い意味でも悪い意味でも人生を変えるような出会いをしてしまう経験をする羽目になる可能性もあるので、今ゲームにハマっている中高生には気を付けてほしいです。1回大怪我した方が人生上手くいくこともあるかもしれませんが。
20世紀初頭、英国の経済学者であるケインズ卿は、主著の中で「考え方ほど強力なものはない」と説いた。つまり、人の行動要因のうち、最も影響力が強いものは、外部的要因よりもその人の内部要因、すなわち考え方だというわけだ。
ひるがえって現代の英国では、中東出身者の2世、3世となる若者たちがイスラム国(という名のテロリスト集団)へと帰属すべく、混乱を極める中東へと世代を超えた里帰りをしている。こうした若者たちが常軌を逸したテロリスト集団に忠誠を誓う要因は何だろう。ある人は欧米社会における中東系への差別が原因であるとし、ある人は貧困が原因であるという。しかし、これはあまりにも皮相的な見方ではないだろうか。どの国にも貧困と差別は存在する。それにも関わらず、なぜ一部の人々、特に豊かな先進国の若者が海外の狂信集団への参加を企図するのだろうか。
ここでケインズ卿の金言を思い出してほしい。何よりも人を駆り立てるのは考え方だ。もちろん、乾燥した砂漠地帯へと向かう若者たちの中には自意識をこじらせ、過激思想に染まった狂信者もいることだろう。だが、その多くは渡航直前まで通常の市民生活を送っていた一般人である(と報道されている)。ということは、通常の市民生活に浸透するごく一般的な常識の中にこそ、彼らを破滅的な行動に追い込む何かが潜んでいるとは考えられないだろうか。
健全な若者たちを追い込んだもの、近代社会の「一般常識」とは、「人は役に立たなければ生きている価値がない」という考え方だ。このあまりに妥当に思える考え方にこそ狂気が秘められている。
中東に渡航した若者の多くは、同国の他の若者と同等の高等教育を受けており、言い換えれば社会的に役立つ(と見なされるべき)存在である。彼らは教育によって社会常識と能力を身につけ、社会への参加と貢献を望む(ごく健全な)精神性を身に付けていたはずだ。だが、彼らはその意欲と能力を十分に活かすことが出来ない環境下にある。
無論、こうした差別や貧困だけが問題ならば、例えば南米や東南アジアのスラム民のごとく、それを人生の既定路線として別の生き方に適応することも出来ただろう。だが、彼らは私たちと同じように近代的な市民としての精神性を埋め込められた「一般人」なのである。
資本主義であれ社会主義であれ、近代社会おいて市民は、「人の役に立たなければ生きている価値はない」と考えられている。言い換えれば、人の役に立つことが人生の意味・意義・目的である。それは経済活動の本質でもある。だが、英国をはじめとする欧米社会は、中東系の若者たちが近代市民としてごく一般的で健全な希望を満たすことを許さなかった。結果として「人の役に立ちたい」という健全な欲求は、全く不健全で狂気の塊とでもいうべき集団への参加・貢献へと姿を変えてしまう。なぜなら、イスラム国はそうした近代市民として望ましい欲求の全てを満たしてくれるからだ。
あなたの人生には意味がある。あなたは人の役に立つことができる。あなたは必要とされている。だからこそ、私たちに参加・貢献してほしい。
こうしたメッセージが実存的な欲求を満たせずに鬱々とした日々を過ごす若者に届き、その心の隙間に棲みついたとき、彼らを押しとどめる要因、すなわち彼らを暴走させない「考え方」を欧米社会は提供できていたのだろうか。事実、イスラム国はすぐれて近代的な精神性を持つ集団であり、表面的な暴虐性と狂信性を剥ぎ取れば、そこにあるのは英国と全く同様なもう一つの近代社会であり、宗教というフックによって近代市民を惹きつける別種の帰属集団たりえるわけだ。よって、若者たちの豊かな社会から貧しい狂信団への「宗旨替え」という一見奇妙な現象は、単純に欧米社会の失敗と敗北の証左なのである。
ところで、これは私たち日本人にも無縁の問題ではない。むしろ喫緊の問題でもある。中東系の若者には(擬制とはいえ)神への信仰が残されているようだが、私たちには一体何が残されているというのだろうか。この社会による無言の死刑宣告に抗うため、私たちにはどうふるまう余地があるだろうか。自身の社会的価値の欠如を自覚し、世間という名の集団圧力に圧迫され、閉塞し、窒息したとき、私たちは静かに(そう、「誰にも迷惑をかけない」ように!)命を棄てる道しか残されていないのだろうか。
かつての武士階級にとって自死は、名誉を守る行為だ(という共通理解があ)ったが、近代市民たる私たちにとっては疑いなく、何の疑いもなく、言葉通りの犬死でしかないだろう。それとも、これも一つの考え方に過ぎないのか?
大学に入るまではそう思っていたけれど、全くそうではなかった。
まあ、そこに土を固めた路盤くらいはあるけれど、自分が走るレールは一切敷かれていない。自分が敷かなきゃならない。
不器用でもいい。都会チックでもなんでもない、枕木がまばらでレールが多少歪んでいても走れるものを作っていく。それでこそ人生だろう。
PCまくらぎだったり、スラブ軌道だったり、新幹線のような高規格な路線が敷ければいいけど、そんなのはまあ無理だとしても、だ。
それに、敷かれたレールの上を走るにしたって赤信号で突っ切れば事故は起こるし、スピードを出しすぎれば脱線もする。逆に、エンジンもモーターもついてない車輌になってしまえば、せっかくのレールも錆びていく一方だ。敷かれたレールを走るのも技術が要るのだ。大抵の人は走れるもんだけど。
ごく一部の人は、敷かれたレールの上を走りたくはないなんて言ってそれを実行している人の中には、森林を開拓して、沼地を固めて、路盤から作っていく人もいるけれど。
野心的ではあるけれど、さすがに僕はそこまでの野心は持たなかった。
勉強をサボって、2回も留年して、この段になってやっと焦って、一体何をしてるんだろう。走らなきゃならない。走るための道を造らなきゃならない。
早くレールを敷く作業に戻れ。もう十分、休んだだろう?
一部の人は問題ないと思ってるようだけど、2chの反応を見てると既に被害者が加害者になり始めている。
被害者なんだから大丈夫なんじゃ、とか甘いこといってる人いるけど、既に社会構造全体の弱者と強者の対立軸が見え始めてる。
考えなしに被害者側の情報公開しすぎると、遺族がぼこぼこにたたかれるぞ。
はてな民はしょせん2ch民だろ的にあまくみてたり忌避してる人がいるけど(弱者じゃないから気づかないのかな?)、俯瞰的にみると
ここまで弱者と強者が切り離され始めてるのかってもっと危機感持つべきだと思う。
被害者を叩いてる人たちはどうしようもないクズだけど、同時に彼らも救済しなければならない社会の構成員だからね。
彼らが如何に満たされなければならないのかって点は考えないとならない。
もし、2chネラーがネトウヨが多いから嫌いでどうでもいいって考えの人いたとしたらそれこそネオリベ的な嗜好に陥ってることを自覚して欲しい。
※追記
id:cybercurry ねらーだけを救済するという意味ではなく、社会全体として弱者とどう接するべきなのかということ。あのような感情を持っている人が2chねらーだけだとおもいますか?
すこし極端な例になりますが殺人を犯したからといって社会的なケアを怠って彼らを更に放置するべきなのか?といえばわかりやすいかもしれませんね。←この意見にもし、殺人犯は罰を与えて放置すべきというのであればそれはいわゆる弱肉強食な論理ですよね?
もちろん、そうしたほうがいいという意見を全面的に批判するわけではありませんが、普段左派リベラル的な態度をとっているのであればよくよく考えなければなりません。
id:triggerhappysundaymorning 経済的に困窮している人たちが被害者を裕福な人たちの一員と見ていて、弱者から搾取している加害者の一人だとみなし始めているということ。
その結果として、被害者が更に被害を被り始めているという意味ではそのとおりです。
ああ、あと記事の主題はもう一個あって、弱者の考え方をトレースできてないと危ないよっってこと。
被害者達だから大丈夫でしょうみたいなこといってる人いたけど、経済的弱者がひどく憎しみ始めてるっていう事実を認識していれば被害者の情報を過度に晒す危険性がわかるはず。
ベッキーは今回のことで好感度は下がるし、CMの本数は少なくなるしテレビの出演も減るだろうけど影響はその程度のものでは。
トップの座は失うかもしれないけど、トップじゃなければ芸能界で生きていけないってわけでもないし今後の彼女の頑張り次第でトップグループの地位を確立するのも十分可能でしょう。
「世間のイメージ」というのも結構いい加減なもので、特にネット界隈では声の大きなごく一部の人が叫んでるのが目立ってるだけというのもあるわけで、最終的には有能なら生き残るし、有能じゃなかったらフェードアウトしていくというごくまっとうな結果に落ち着くのでは。
世間の評価という意味では、ゲスの極み乙女。のほうが影響でかいんじゃないかなぁ。作り上げてきた世界観への影響はかなり大きいと思うし、作詞作曲ボーカルをやってた彼への判断というのは厳しいものになりそうな予感。
今でこそ英国在住であるが、30歳の頃は外国人と英語で話すなんてことは到底考えられなかったおっさんである。
非アクティビズム「英語って出来ないんじゃなくて単にビビってるだけと思うのだけど」
http://daisuke-tsuchiya.hatenablog.com/entry/scary-learning-English
日本人が英語ができない理由を勇気や積極性の欠如に求める話は昔からよく目にするが、私は精神論だけでは解決しないと思う。勇気の欠如を否定しているわけではなく、勇気が出ないことには理由があり、そこを解決せずに精神論に帰結させても、一部の人以外はうまくいかないと思うのである。
古い話でしかも英語の話でもなく恐縮だが、むかし「要は勇気がないんでしょ」というエントリがはてな村で大反響を読んだ。
http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20080316/1205641886
アクティブなAが、彼女ができない非アクティブなBに説教する話である。Bは本当は彼女を作りたいのにいいと思ったコに思い切って声をかけることができない、いろいろ自分に言い訳して傷つくのが怖いだけで要は勇気がないんでしょ。ダセェ、とそんな説教である。読ませる素晴らしい文章だと思うが、これも精神論である。Bが草食系だが爽やか青年で、本当に積極性だけでうまくいく可能性も確かにあり、エントリにおけるBはそのエントリの筆者なのでおそらくそのケースであったのだろう。しかし多くの現実はこうだ。Aはイケメンなので女と話をするのが得意であり好きである。女性側も少なくとも悪い気はしない。Bは残念だがブサメンでキモメンなので今のまま変な積極性を出してもうまくいかない。痛い奴、気持ち悪い奴と評判を立てられ、最悪コミュニティーにいられなくなる可能性もある。
想像してみれば簡単に分かると思う。明らかにそういうタイプでない男が、何に影響されたのか、変に積極性を出して女性にどんどん声をかけているその姿を。痛いよね。男も女もお互いにツライよね。勇気がどうという精神論だけの話ではないのだ。簡単に想像できる話であり、だからこそ多くの彼女なしは積極性が出ないのである。もちろん積極性「だけ」で好転する例も否定しない。そういう例もあるだろう。しかしながら多くの彼女なしは、根本原因(の中で変えられる部分)にアプローチしないと、精神論で積極性を出せといっても多くは出ないし、無理矢理出してもツライ結果になる。女性に声をかけても嫌がられない、おかしくない程度のおしゃれと会話、要するに最低限の「雰囲気」を身につける努力を、勇気を出すことと両輪でする必要があるだろう。
何故上の例を挙げたかというと、多くの日本人が勇気と積極性だけ出して外国人に話しかけにいっても、それは長続きしないと思うからだ。ナンパや告白よりずっとハードルが低いのでどんどん試して欲しいが、多くの人は続かない。何故か。ここが大事だ。「多くの日本人は単語を並べて意思表示はできるが、それに対する相手の返答が聞き取れないから会話にならない」からだ。
俗に「日本人は過剰に間違いを気にするから英語が話せない」と言われる。まったく納得できない。会話で間違いを気にするレベルに達している人がどれだけいる?多くの人は間違いを気にするレベルではなく、会話が成立するかを気にしているのだ。
冒頭のエントリはこう言っている。
>既に日本人て話すためのスキルって持ってるんです。少なくとも日常会話レベルであれば。結構多いのが「言ってることわかるけど、どう返したらわからない。」ってヤツです。
私はむしろ逆だと思う。どちらかひとつと言われたら、聞き取れないことこそが問題だ。「パードゥン?」で1度はよい。2度聞き返してもなお分からない。どうする?打つ手なしである。ジ・エンドである。気まずい雰囲気だけ残して会話は終了。必要なことを聞くだけならできるよ。駅はどっちですか。指してもらえばいいし、最悪筆談だっていい。でもそれは一方的に必要なことを聞いているだけで会話とは言わない。
英語圏に旅行に行く人、入国管理官の言っていること聞き取れますか?スーパーでは?マクドナルドでは?使われているのは全部知っている単語だ。でも。聞き取れない。話すほうは勇気でなんとかなっても聞くほうは勇気ではなんともならないのだ。
あなたは会社のパーティーに出ました。フィリピンの子会社から日本にはじめてきたマネージャーが出席していますが、日本語ができないので端で寂しそうにしています。最近英語を勉強し始めたあなたはビビらず話かけました。
あなた「マイネイムイズタローヤマダ。ナイストゥーミーチュー」
カルロ「ハイヤマダサン、アイムカルロ。ナイストゥーミーチュートゥー。ハウアーユドゥーイング?ハウズエブリシンゴーイン」
あなた「(?エブリシンゴーイン?何だ?良く分からん。。。)サンキュー。サンキュー。」
カルロ「(??)(気を取り直して)ディヂューXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX」
あなた「パ、パードゥン?」
カルロ「ディヂュースペンXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXリデーXXXXXXXXXXXXXXXXX?」
カルロ「(イライラしながら)ディド ユー スペンド XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX?」
カルロ「・・・・。」
こんな感じになると思う。日本人は単語を知っていても発音をカタカナでイメージしているので、実際にはかけ離れている発音に慣れないと聞き取れないことが非常に多い。ネイティブほどゆっくりしゃべることは苦手だし、本人はゆっくりしゃべっているつもりでもゆっくりなのは最初の3単語くらいである。何度聞き返しても聞き取れない。一度目のパードゥン?はいい。2度目は相当厳しい。そして2度目でも聞き取れなかったら会話は終わりである。このきまずいツライ会話を多くこなしていくことだけでは英語は上達しない。100回もこなせば上達すると思うがそれまでに嫌になってしまうだけだし、機会も限られている。
繰り返す。話すほうは勇気でなんとかなっても聞くほうは勇気ではなんともならないのだ。
必要なのはもう少しリスニングスキルを高めること。本当の初歩、本当に簡単な会話でよいので、ネイティブの日常会話の発音を理解できるトレーニングをすることが大事なのだと思う。それは英会話学校でもいいがとにかく料金が高いので、スカイプ英会話がよいだろう。だが(上のカルロと違って)ゆっくり何度でも話してくれるフィリピンの人の講師でもハードルが高く続かない人も多いだろう。アプリやゲームなんかでよい。一文の英語をきちんと聞き取って書けるまで20回でも50回でも聞き返すことが大事で、ゆえに聞き返しの使い勝手がよいことが何より大事だ。CD音源などだとこの聞き返しが難しい。
この最初のリスクニングの壁を越えること、挨拶のバリュエーションと挨拶に続く幾つかの典型的な会話、趣味とか休暇はどこに行ったのかとか(多くの外国人は休暇のすごし方の話が大好きだ)、スポーツは何をやるのかなどを聞き取ることが多くの日本人にはできず、だから日本人は日常会話レベルの英会話もできない。多くの人にとって勇気だけでは解決しない問題となっているのだ。
落ち着いてきたので、備忘録がてらまとめた。実際は50冊くらい読んだ。
どうしても恋人とヨリを戻したいと考える人に「復縁は信じていればきっとできます」と
「復縁ってそんなにできるもんではないよ」を同時に言ってくれるタイプの本。
基本的には、「これを読んでる間は相手に余計なことをせずに済んで、そのうち落ち着く」という効能を持つ。
http://www.amazon.co.jp/dp/4804703691/
恋愛ユニバーシティ(http://u-rennai.jp/)を主宰するぐっどうぃる博士の著書。
まさか自分がこんなこっ恥ずかしいサイトと本を何度も読むことになるとは……。
失恋したてのころに友人3人にこの本をすすめられ、私の復縁本を巡る冒険が始まりました。
まあぶっちゃけ本当に復縁したい方は、これ一冊をえんえん読み続ければ十分だと思います。
他の本に書いてあることはこの本とあまり変わりません。
そのうえで、単に復縁にとどまらない「恋愛の基本」や「人生をうまく乗り切る思考法」、
「SNS時代の駆け引き」について書いてあるので、そもそも特に失恋していないうちに読むのがベストだと思います。
さっき復縁したい人はこれ一冊をえんえん読めばいいと書きましたが、それは別に復縁ができる、
という意味ではないのは、読めばわかる。
http://www.amazon.co.jp/dp/4804704086/
川越にある復縁で有名な占い館のおじさんの本。9年間休まず更新しているというブログ「恋愛日記」
(http://okikawa-blog.com/)が結構おもしろかったので購入。ぐっどうぃる博士ほど復縁に特化
した本ではないですが、そのぶん、失恋段階にいない人でも楽しんで読める。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4835628586/
ウェブのインタビュー記事(http://wotopi.jp/archives/32034)がおもしろかったので購入。
ぐっどうぃる博士の本などよりも、復縁をしたい女性それぞれの状況にあわせた復縁メソッドが細かく指南
されているので、ぐっどうぃる博士に飽きてもっと細かいテキストで気を紛らわせたい人におすすめかも。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00OC6THR0/
Drタツコ・マーティンという何やら仰々しい名前にひかれて購入。
読んだけどべつに嬉しい奇跡は起きなかった。さっきから言ってますが、ぐっどうぃる博士をえんえん読んでも
気が紛れなかった場合には一回読んでみるといいんじゃないかという感じです。
とくに復縁にはフォーカスせず、恋愛全般のノウハウや考えかたを指南している本。
そもそも今回の交際はどの時点で間違っていたのだろう、という「間違い探し後悔」
地獄におちいらせてくれますが、次の関係への糧にもなるはずです。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B013EVNKDK/
元ホストクラブオーナー男性が書く「だまされない」ための恋愛指南本。
著者の経歴上、ホストクラブで貢いだり、ヒモ男に積極的にカモられてしまったり、遊び人の男に
ひっかかてしまうパターンの女性に向けて書いているテイストだが、それ以外の男性、女性にも
十分当てはまる要素がもりだくさん。「自分の女友達にやらないことは彼氏にもするな」とか……。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B01463ZUKG/
「引き寄せの法則」とか出てくる結構スピリチュアルな本ですが、「バツ2経験アリ」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00LUG174Q/
ご存知心屋仁之助さんが女性の恋愛にフォーカスして出している本。
「『すあし』な女がモテる」という理論はたしかに……と思わされました。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00INIGAR8/
アンチ復縁本ですね。さまざまな事例を取り上げつつ、ゴマブッ子さんが喝を入れてくれます。
復縁本を読み飽きて心が多少回復してきたころに読むと効果的かと思います。
精神論よりも何らかの科学的なアプローチで失恋の心の痛みを解決したいフェーズに入ると読みたくなるジャンル。
まあ、1)2)を飛ばしてここから読めるくらいのがいいと思います。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00Y07B7GU/
「私にはあの人しかいない……」「どうしてこんなに愛してるのに嫌われたんだろう」
「なんでダメ男ばかり好きになっちゃうんだろう?」などなどに当てはまる人にとてもおすすめです。
依存症と言われると、ごくごく一部の人のことに思って手にとりにくいと思うし、実際誰にでも多少はそういう傾向はあるわけで、
それをすべて「依存症」と断じるのはどうかと思いますが、自分のなかの「そういう傾向」を認識することは大事。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00SY8ZJYC/
妖怪男ウォッチのぱぷりこさんもすすめていた岡田尊司さんの本。おもしろいし読みやすいしとてもおすすめです。
失恋する前に読んでおきたかった本NO1ですね……。まあすべてパーソナリティのせいにするのもどうかと思うんですが(笑)、
そこらの占いや相性診断よりは全然理路整然としていて、一定のロジカルな裏付けがあり、人間関係に役立てやすいかと。
個人的には同じ著者の『愛着障害』(http://www.amazon.co.jp/dp/B009KZ435E/)の本に、
非常に身に覚えのある話が詰まっていて、そのなかでもさらに回避性の人たちにフォーカスを当てた
続編『回避性愛着障害』(http://www.amazon.co.jp/dp/B00HK6ZSL8/)とともに、何度も読み返しました。
http://www.amazon.co.jp/dp/4788914840
これもやはりぱぷりこさんもご紹介されていた越智啓太さんの本ですが、「外見の美しさ」
と恋愛における人々の心理にフォーカスした内容で、とてもおもしろかったです。
人間ってかなり「進化のため」にあらゆる認知を行っているんだなあと思うと、恋愛についても、
「じゃあしかたねえかなあ」という気持ちになることができます。まあそれをうまく利用して
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00RUVI7DO/
加藤諦三先生の本。「神経症八方美人」「愛情飢餓感」「心理的便秘」などの
失恋にかぎらず何かに行き詰まっている人、ストレスを感じてる人におすすめ。
最終的には文学に感情移入して登場人物の感情発散シーンを読むとめちゃくちゃ胸がすきますね……。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00A4BCLCU/
初恋のイチと自分に言い寄ってきてる二の間でゆれうごく主人公の心が細やかに描かれています。
そもそも20代まであんまり恋愛をしてこなかった人には、「失恋」とは別の「喪女」という角度で刺さりまくると思います。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B009GPM4PE/
山本文緒さんの小説。とある常軌を逸した女性の半生を描いた話なのですが、「うわ〜ありえないでしょ」と思いつつも、
誰でもやっちゃいそうというか、人間って結構簡単に常軌を逸しちゃうよなあという反面教師になります。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00WG4B30O/
ひさしぶりに読んでもおもしろい。それにしても映画ではコリン・ファースとヒュー・グラントに迫られるんだよな……最高だ。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00RT8YI1S/
コミックエッセイ。よりやばい状況の人が淡々と人間関係の崩壊のようすを描いているのは胸に迫るものがある。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4091919189/
「お前の恋愛がうまくいかないのは10代のころに芦原妃名子を読んでいないからだ」と友人に罵倒されて購入。
いや〜〜〜〜〜女のメンタルがヘラる瞬間みたいなのがいたるところで描かれていて死ぬ。
http://www.amazon.co.jp/dp/B015QPNP1O/
まあ、すべてのことは吉野朔実があらかじめ書いているな……と思いました。
2chまとめサイトの黄金期は既に終わったとみて間違いないだろう。かつてのまとめサイト群は、2ch上のおびただしい量の言論を切り貼りし、編集し、デコレーションすることで、「大衆に消費される」ことができるメディアとして完成させた。いわゆるネトウヨの隆盛も、まとめサイトの存在と無関係ではないだろう。
翻って今日、「ネット言論の商品化」は新たなステージに突入している。今や大衆が「まとめサイト」の読者になったのである。
例えば、「お笑いコンビの片割れが制服泥棒」というニュース。もちろん第一報は在京キー局や新聞だ。当然、これらのニュースはネットに波紋を呼び、Twitterで、2chで、様々な言葉が交わされる。「あいつ『覚醒』とか『フェラ』とかツイートしてるぞ」「芸歴より犯罪歴の方が長いのか」「相方が可哀想」などなど…。その日のうちにはハイエナのようにネットニュース各社が記事を書く。「○○逮捕ーネットの反応は」
さて、次の日のテレビのワイドショーはどうだろう。警察の発表、プロダクションの記者会見、芸能界への影響ーそれらが語られた後、必ず来るのは「さて、ネット上では…」。もちろん、既にネットの記事を見ている我々にとって、目新しい内容は何もない。それでも、視聴率が漸減する中、若者への訴求力を高めたいテレビ局はネットに触れることを辞めることは出来ない。
これを見たお茶の間の国民は、かつてまとめサイトで暇つぶしをしていた中学生と同じく、なるほど、おもしれーなーとテレビの画面をダダ見だ。かくして、ネット上での一部の人間のおしゃべりは、「ネットの意見」とタグ付けされて、立派に「世論」の仲間入りを果たす。なんと喜ばしいことではないか。ところが、ネットユーザーはそんな報道にも反論する。ここで我らが「はてな村」の登場である。無責任にも他人の言葉を引用するだけで何も有益なことを伝えないメディアに憤る。「生い立ちが原因なのではないか」「被害者の立場が置き去りにされている。芸能界の女性軽視だ」
そうしたフィードバックもまた、PVを稼ぎたいネットメディアにとっては記事のネタだし、テレビにとっても新たな取材材料になるのだ。都合の良いところだけ切り貼りされ、名無しの烙印を押されて再びそれらは国民に消費される。
こういった、情報のサーキュレーションは結局、ニートの妄想を暇な中学生に伝播させたまとめサイトと本質的には変わらないのだ。単に目立ちたいだけのネットユーザーの声を、社会の一側面として(しかし自分には関係ないものとして)消費するお茶の間の主婦。彼女らはまだ、自分が大多数のネットユーザーー語る言葉を持たず刺激的な言葉を求めて検索を繰り返すーと変わらないことに気づいていない。
表現の自由至上主義で他人を傷つけるのが表現の自由なのだと言って憚らない御仁だ。某SNSを久しぶりに見てみたらあまりに遠くに行かれてしまったものだと感慨に耽った。
この戦線で少しでも後退を許せば後は全面突破されるのだと、そういう危惧があるのだろう。その危惧はわかる。俺もオタクだから。自分たちの好きなものが取り締まられるのは嫌だから。クジラッ○スを読んでるだけで訴追される世界になんてしたくないから。
だが、戦線をヘイトスピーチにまで広げるべきじゃなかった。そこも「後退できない戦線」であり、差別発言を撒き散らす自由もまたあるのだと(自分はそれに反対するというエクスキューズをつけた上であっても)言ってしまった段階で、彼は越えてはならない一線を越えてしまったように思える。もちろん彼が差別に反対していることは疑わない。だが俺には、その行動は差別者を側面からアシストしているようにしか見えなかった。
ヘイトスピーチ規制派の理論武装はかなりしっかりなされてる。日本国刑法に侮辱罪や名誉毀損罪があり、それらが民事裁判で争われることもある以上、もとより(国家があらゆる表現に介入しないという意味での)完全な「表現の自由」など日本にはなかった(というか世界のどの国にもない)。侮辱罪や名誉毀損罪も適切に運用することができるのだからヘイトスピーチも法体系の中に適切に位置づけることができるはずだ、という主張はもっともで、ヘイトスピーチ規制消極派・反対派は漠然とした不安しか挙げられていない。というか、規制反対派だってガチガチのレイシストを除けば差別を肯定しているわけではなく、特に表現規制問題から手を広げた論客にとってはあくまで副次的な戦線だろう。彼らにとって本丸は別にあって、本丸防衛のためにヘイトスピーチ規制という戦線を死守しようとしているだけだ。
だが。ヘイトスピーチ規制派と表現規制派は同一ではない。表現規制に積極的な自民党の議員がヘイトスピーチ規制に慎重姿勢を見せ、ヘイトスピーチ禁止法に積極的な共産党が表現規制反対を掲げてきたことを思えば、むしろヘイトスピーチ規制派と表現規制反対派が共通の土俵で戦う可能性はあっただろうし、実際そういうスタンスで動いているひとも一定数いる。
しかし彼の目には、そのふたつは通じているように見えたのだろう。レイシストに対抗する姿勢を示す一部の人びとの中には、積極的に俺たちの趣味を、俺たちという存在を侮蔑し、キモオタと罵り、レイシストと同列であるかのように扱う連中がいる。俺は彼らと同じ戦列には立ちたくない。彼らを批判したくなる気持ちもよくわかる。だが彼らへの批判も度を過ぎれば同じ穴の狢だし、何より、同じ戦列に立つことは拒否しても別の場所でレイシストに対抗することはできたはずだった。けれど彼は、レイシストの主張も言論の自由の範疇なのだとはっきりと言ってしまった。
彼がそう表明するに至ったプロセスについては、よく〈理解〉できる。表現規制は嫌だ。一部のオタクに敵意を示すヘイトスピーチ規制派は嫌だ。ゆえに「表現の自由」を錦の御旗に掲げ、たとえレイシストのそれであっても「表現の自由」は守りぬかねばならない。ヴォルテール。その判断を導き出した理路はわかるのだが、しかし。
「○○人を殺せ」なんてものを「表現の自由」の名の下で正当化したら、「表現の自由」そのものが敵と看做されるのだと、「表現の自由」を掲げる陣営の信用もまた毀損されるのだと、そこに気づくべきだった(本当はこういう「陣営」を一緒くたにした雑な戦術指南なんてしたくないんだけど、そういう雑な括りでの戦術指南に基づいて反レイシスト運動側をdisっていたのはいったいどこの誰だよと)。加えて、彼は「差別」を軽く扱いすぎた。彼がレイシストという批判については、当たらないと俺は思う。でも彼の論理がレイシストに対して極めて甘く寛容なものになっていたのは事実だ。
そしてその甘い論理でヘイトスピーチ規制派に論争を挑むのだからもう目も当てられない。彼の行動はTrollでしかなかった。「表現の自由」全ツッパ。それもいいだろう。だが俺はそんな戦列には加われない。
「お前たちは結局表現の自由と言いつつてめえのズリネタが守られればそれでいいんだろ?」――こんな揶揄を何度も目にする。腹立たしい揶揄だ。俺は、もちろん出発点は非実在青少年ではあったけれど、そこから色々と手を広げて国内外で表現の自由が脅かされているニュースはチェックし続けていたし、少しは声も上げてきた。だからこそこんな揶揄を目にする度に、違う、そうじゃない、と言いたくもなるし、腹立たしいから全ツッパもしたくなる。でも、残念ながら、本当に残念ながら、そこに一点集中してしまっている人というのは一定数日本語圏のインターネッツに存在しており、一点集中するだけならいいがヘイトスピーチ規制論議に殴りこみをかけたり性差別が問題になっている局面で敢えて逆張りの論陣を張ってみせたりする。「○○人は嘘つきの劣等民族」と喚き散らして何が表現の自由だ。ポスターに抗議が殺到して取り下げに至ることのどこが表現規制なんだ。
表現規制反対派に向けられる主語の大きい揶揄には、繰り返すが個人的には大いに不満がある。でもそう揶揄されるに足るだけの人材がこちら側の陣営に大勢いらっしゃるのも事実だ。敵の不行状は全力で嘲笑えばいいが、味方の不行状はどうすればいいのだろう。なるほど、確かに俺は関係ない。しかしそうやって切断処理するには、俺の忠誠心は固くその陣営に結び付けられてしまっていて、結果的に「同じ反対派がすいません」という羞恥と「俺はそんなこと言ってねえだろ!」という憤りを半々の割合で抱えて画面の前で悶々とするしかないのだ。
そうやって悩むのはもう疲れたし、疲れたから「表現規制反対。なぜなら規制は不当だからです。Q.E.D.」で全ツッパしたくなるときもある。でも少なくとも、そういう悩みの元となっている、困った規制派とは縁を切りたい。同じ側にいるけど、違う戦列にいるのだと言い逃れたい。
はてなブックマーク - 新元素に自国の名前をつけることはおかしいことなのか?(&元素の名前の由来を学ぼう) - Togetterまとめ
うわあ最悪…ジャポニウムとか、またくだらない日本人の国威()の発露が始ま..
はてなブックマーク - 日本初の新元素、国際認定へ 理研に113番の命名権、「ジャポニウム」有力(1/2ページ) - 産経ニュース
当初は発見したチームリーダー森田さんの名にちなみモリタニウムと騒がれたが、森田さんは生きているので却下
どうやら人物名は亡くなった偉人でなければならないらしい
偉人なら、加速器を造り理研を科学者の楽園に変え朝永湯川を育てた「仁科 芳雄(にしなよしお)」がピッタリだろう
森田さんたちの所属していた仁科加速器研究センターの名前にもなっている
次にリケニウムだと騒がれたが、理研は地名ではないのでこちらも微妙
こんなかんじだろうか? こちらもゴロが悪いね
結局「ジャポニウム」が一番無難に思える
(ちなみに「ニッポニウム」はすでに申請され却下されているので使えない様子)
しかし、名前を叩くよりも、その発見がどのようになされたのか、研究の意義、科学への影響について知った方が有意義だと思うけれどな