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志摩スペイン村の入園料5700円に「安すぎません?」広報直撃! 大盛況報道で生まれた復活イメージに“中の人”が困惑する理由 | 集英社オンライン | ニュースを本気で噛み砕け https://shueisha.online/articles/-/250821
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上記記事に以下のコメントを付けたら、意外と評判良かったので、色々補足しつつスペイン村について語ってみる。
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ここ10年毎年1,2回スペイン村行ってる身からすると、vtuber好きっぽい雰囲気の客が昔の1割、多くても2割体感増えた印象。USJとレゴランドの間くらいのクオリティ。スペイン村は伊勢志摩旅行とセットで良さが出る場所
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## vTuberの影響で増えてるのか?
上記コメントでもあるように、体感では以前よりも1〜2割増えた印象。
id:marilyn-yasuさんがコメントで補足してくれてる。
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id:mak_inさんが書いてることの裏付けとして過去に資料で年間入園数の推移を読んだところ1割強ほどの増加量。コラボ期間が主なので平時から1割とは言わんが無視できないくらいの人数が来てるのは間違いない感じ。
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実体感をもっと詳細に記載すると、コラボ期間に入る前から、ンゴちゃんの言及からのスペイン村ブームになった時点で既に1割くらい増えてた印象で、イベント期間に行った際は2割くらい増えてた印象。
以前から見かけた組み合わせとしては、乳児から小学生くらいまでの小さな子どもを連れた親子連れ、カップル、2-3人での女子旅、たまに大学生仲間っぽい男女、これがほとんどだった。
これがンゴちゃん言及以後、元々いた人たちの数はあまり変わっていないものの、以前はあまり見なかった組み合わせの人たちを見かけるようになった。
総じて、なんとなくオタクっぽい雰囲気に、何らかのvTuberグッズを身に着けてるのでなんとなく分かる。
中高生1人を連れた親子、2-3人男旅、ソロで来てる人(男女ともにいる。ただソロ率は女性の方が高いような……)。
大学生仲間っぽい男女も増えてて、前は比較的陽のオーラ強めの集まりが多かったが、陰のオーラ強めの人が増えてる。
これら以前見なかった属性が増えたことでだいたい1-2割増という感じ。
## なんでそんなこと詳細に体感で分かるんだ?
僕自身が遊園地苦手過ぎて、ワイフや子ども達がアトラクションに並んでいる間、乗り物に乗れない子と待ってるから。
うちは子ども4人で、一番小さい子は常に誰かベビーカーに乗ってて、誰かが乗り物に乗れない。
そうなると、待っている間、特に何もすることなく、ずっとぼーっと園内を眺めてることになる。
ただぼーっと眺めてるだけなので、自然と人間観察とかしてしまう……
## 何故そんなにスペイン村に行っているのか?
子どもが産まれてからは、ワイフの実家によった際には必ずスペイン村に行くことになっている。
これは志摩スペイン村が志摩市民向けに格安のチケットを提供してることが関係してる。
https://www.parque-net.com/ticket/isepassport/index.html
昔はチケットの購入条件が緩く、価格ももっと安かったのでこれを悪用し、スペイン村の近くのコンビニの前で、駐車場の案内みたいな雰囲気でパラレルの下、椅子に座ってるオババがダフ屋みたいなことをやっていた。
10年近く前に対策されて、受付で志摩市民だと証明しないと入場できないようになった。
今このチケットは志摩市民が年間パスポート買ってからでないと別途チケットを購入できなくなったので、子沢山だと知る義父母のご近所さんが、帰省シーズンになるとくれるようになった。
入場の際には、義父母と一緒に受付し、僕らだけ入場するようにしてる。
チケットくれるご近所さんには、こちらのお土産を持っていってる。
## スペイン村の噂: 東京ディズニーランド超えの待ち時間、園内ガラガラ、どっちが正しいのか?
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ガラガラだった志摩スペイン村が客急増でディズニーRより待ち時間長く…なぜ
https://biz-journal.jp/company/post_380711.html
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スペイン村は、単純に敷地がデカく、その割に客が少ないので、一見ガラガラなのは今も昔も変わってない。
先に書いたように増えたのは1-2割なのに、何故激混みの印象を与えるような待ち時間が長い、という話があるのか。
それは、ンゴちゃん言及以前から、スプラッシュモンセラーと氷の城は並んでいたから。
特にスプラッシュモンセラーは回転率がかなり悪い割に、人気のあるアトラクションだ。元々シーズン中は60分待ちとかは普通だった。
これは、スプラッシュモンセラーが必ず1組1台で乗せ、1台辺り2分程かかるので30組いれば1時間はかかるから。
https://www.parque-net.com/attraction/splash_montserrat.html
スペイン村、場所の広さの割に客が少ないだけで、客自体はちゃんといるので、普段からそれくらいかかる。
他は一度に何人も遊ぶので、混むことはほぼない。
ただ今回のイベントで増えた比較的若い層が、とりあえずスプラッシュモンセラーに流れたこともあり、いつもより待ち時間が長くなったように感じる。
先の言及で、ソロで来てる人が増えた、と書いたのは、スプラッシュモンセラーを待ってる間、以前はいなかった一人で乗る人を結構見かけたから。
遊園地を一人で!?と一瞬思ったが、混んでないからか、広いからか、親子が多いからか、何か分からないけど、遊園地はみんなで!みたいな集団圧力みたいなのがココには全く無いので自分の好きなまま楽しめるのは、なんかめっちゃ良いな、と思った。
ちなみにスペイン村で一番有名なアトラクション、ジェットコースターのピレネーは一度も複数人で乗れることもあり、ほぼ待ち無しで乗れる。
そもそもスペイン村に来るような層は、ピレネーはハードルが高過ぎて、スプラッシュモンセラーくらいがちょうど良く、ニーズが少ないのかもしれない。
普通に美味しい。
名古屋スペイン協会の人らと仲良かったこともあり、結構色んなスペイン料理屋には行き色々教えてもらい分かってる方だと思うが、スペイン村の料理はちゃんと作ってあり、遊園地の中であるにも関わらず、外で普通のスペイン料理店で食べるクオリティで出してくれる。
僕が遊園地苦手な理由の一つに、何も彼にも全てが高い割に、だいたいファーストフードにも満たないひどい味だ、というのがある。金払うのは良いけど、払うならちゃんとしたものが食べたい……
外だと普通のものが遊園地の中で食べられるだけで、異常に美味しく感じてしまうかもしれない。
同じ理由で、大人気、ンゴちゃんイチオシの世界一美味しいチュロスは、遊園地の中では世界一美味しいかもしれないと思わせてくれる。
ちなみにレビューとか見ると、スペイン村の中のレストランの中で、いくつか酷評されてる場所があるが、コレは価格が遊園地にしては安く、味が遊園地っぽい場所である。
お財布と好みで選んでもらうと良い。
キャラクターショーが、ドン・キホーテ、チャッキーなどのキャラがパティオの飾りを競うコンテストを行う、という内容だったのだが、バイキンマン的な立ち位置のアレハンドロが優勝して、盛り上がる内容だったこと。
娘のアンパンマン見てていつもバイキンマン可哀想だと思ってたので、何故か無駄に感動してしまった。
https://www.parque-net.com/kids/zukan/arejandoro.html
あと、フリーレンとフェルンのコスプレしてる人がおり、勇者ヒンメルになりたい息子のために一緒に写真を撮ってもらった。
息子は恥ずかしながらも目茶苦茶喜んで、あれから勇者ヒンメルごっこを良くやるようになった。
僕は遊園地が苦手でも家族の希望で連れて行かれる。コロナ明けてから両方に行った。
USJは単純に派手だし楽しめる場所だよ!!という空気感が凄かった。
ただ人気の場所だということもあり、人がとにかく多いのと、それに伴う攻略法を予習してこなしていかないとマトモに遊べないのは正直しんどかった。
一方で、沿道をまわるショーは、スペイン村も遜色ない気はした。
なんやかんや言って、長い歴史と本場スペインダンサー達のパフォーマンスが、資金力の差を埋めてる気がする。
レゴランドは、よく「子ども騙しだ」と言われることがあったが、良くも悪くも大人よりも子どもに刺さるコンテンツが多い気がした。
レゴのアニメや、マイクラ、ロブロックスのおかげで、レゴの世界観は、思った以上に子どもらに刺さったみたいで、大人の満足感の少なさの割に、子どもの満足感がかなり大きかった。
一方、スペイン村はキャラクターショーなどはちゃんとあるものの、キャラクター自身のコンテンツ力が弱いせいか、子どもらの刺さり具合は弱かった。ショーの良さや遊園地全体で挽回、という感じ。
というわけで、レゴランド以上、USJ未満、という感じで、USJでは強すぎ、レゴランドでは弱すぎ、という人にはスペイン村がちょうど良いのかもしれない。
## 実際に自分がやってるまわり方
シーズン中、もうスペイン村には行き慣れてる or 僕のように遊園地のアトラクションが得意でない人は、ムーンライトパスが良いのかもしれない。
16時以降入場だが、物販や代表的なアトラクションはだいたい17時までやってるので、ササッと目的のものだけ消化し、ナイトショーを楽しむ。
ナイトショーは、ショー自体のクオリティも高いが、花火の量も凄いので、価格の割にかなり楽しめる。
ただし、スペイン村は伊勢志摩旅行とセットで楽しむと良さが引き立つ場所であり、伊勢志摩旅行の魅力の大きな点に宿の食事が挙げられるので、スペイン村のホテルでない限り、どちらかを選ばざるを得ないことが難しいところ。
元気があったら、こんな感じで続編として経験談からの伊勢志摩旅行のポイントもまとめるかも……
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追記:
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はてな記法で書き換えたんだが、どうも上手くいかず……スマホからだとあかんのか……?微妙に間違えてる??
読みにくいのは承知してますが、仕方なく、Markdownのままにしてます。
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スペイン村だったら、フラメンコショーのことも触れてー!!あれは生で見たら素直に感動する。
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評判が目茶苦茶良いことは、噂には聞いてるのですが、常に乳児を連れてる状態だと子どもらが我慢できないので入れなくて、スペイン村20回以上行ってるのに、結局一度も観れてないです。
なので、言及できてないだけです。
逆に言えば、スペイン村の客の大多数を占める親子連れが、うちと同じく、このフラメンコショーには行けてないので、特に事情がなければさっと入れるのでオススメです。
名古屋スペイン協会繋がりで何度かプロのフラメンコショーは見に行ったことあるので、その際にはそこと対比しながらコメントできれば。
クーデターというか、淡々と異論を提示し続けてるだけでしょう。
あと「今が良くない」と言っても「じゃあどうすればいいのか」がないと人はついてこない。
特に一番は経済思想なんだけども、それで対抗馬となるのはMMTぐらい。
それから、維新は事実上自民の別働隊と新自由主義の尖兵として、自民に歯向かう人を罵って屈服させることを担当している。近年であれば学術会議みたいにね。
で、安藤裕議員と、西田 昌司議員がMMTを訴えてるが、案の定安藤裕議員の選挙区京都6区に維新が候補者中嶋秀樹を立てたね。
淡々と持論を説く議員こそ怖いんでしょう。石破みたいに政権中枢への攻撃であれば、集団圧力ではめ込んで潰せるけどね。
ま、自民自体ガタついているからなんとか「他の核になりそうなやつを早く潰したい」ということでこんなこと書いてるんだろうなー。
今年も残り半年を切り、光陰矢の如しの意味をしみじみと感じる。
このイベントに関しては経営者の思いつきで勝手に始まり、職員同士の対立や陰口など様々な問題を引き起こしたがそれらを乗り越え、なんとか開催に向け一丸となった(表面上は)
各職員に仕事が割り振られ掲示の作成や商品の準備などをそれぞれが進めているが当然普段の業務も並行して行わなければならない。
残業が必要になる時もあるが、残業代は出ないのでキャパシティを超える職員も中にはいて、家に持ち帰ったりサービス残業で割り振られた仕事をこなそうとしている。
業務時間内にも作業を行う時間を作れるように、普段より集中して取り組む社員に対して他の職員は口々に「大丈夫か」、「態度がおかしいぞ」、「暗い」、「機嫌が悪いから話しかけないでおく(決めつけ)」などと口にする。
仕事に集中することは悪いことなのだろうか?仕事中もコミュニケーションが必要なのは分かるが、その社員も自ら最低限の発言はするしこちらから話しかければいつもと変わらぬ様子で雑談だって出来る。
普段はよく笑うし冗談だって言う。そんな彼だって集中している時は寡黙になったっていいではないか。
不必要に騒ぎ立てる周りの人間のせいで、彼は無理して雑談をしたりコミュニケーションを取ろうとしているように見える。
色んな人間が集まる職場で自分の思い通りにならないと異端と責める集団圧力が恐ろしい。
そもそもの問題として自己肯定感が低いので人の好意をうけとめることが出来ない。
いい人だ、優しい人だ、と言われると「この人は私に対して間違った評価をしている」と思ってしまう。
学校や職場などを離れたあと、自分のことを覚えている人間がいるのかどうか、自分はあの時友だちだと思っていたけれど本当はそう思われていなかったのではないか、とぐるぐる考えてしまう。結局メールアドレスが変わったことの連絡もできず、新しい環境になる度に真っ新なアドレス帳になる。
話しかけるのも話すのも話を聞くのも好きなので初対面の場はすごく得意だ。目の前の相手は未知にあふれていて、相手から見た私もなんの情報がない。色々な人の話を聞くのが好きだし、自分の色々を話すのも好きだ。
ある程度情報を持った相手と話すのが難しい。この人はなんの話しが好きで、嫌いで。私はこの話をして、これはしていなくて。諍いをしたことはあっただろうか?この人は誰と仲が悪かったっけ?
考えなければいけないことが多すぎて疲れてしまう。
人々個々のエピソードに興味があったとしても、その人自身に興味が無いから関係が継続しないのだろうと思う。
自分が人に覚えられているかを気にするくせに、自分は人を覚えていないのだ。自業自得だ。
私は私の考える範囲で人に平等だと思う。人に差別ができるほど区別がついていないからだ。誰が何をしたとかの「何を」は覚えてられるけれど、「誰が」はすっかり抜け落ちている。
自分ほど、仲良くする価値がない人間はいないと思う。糠に釘。のれんにうでおし。豆腐にかすがい。
自分はともだちがいないまま、一生を過ごすのだろう。
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正直に言うと自分はこの現状に満足している。
地元を出てから、より一層その思いは強まった。近所の○○さんがどうしたこうしただの。元同級生の▷▶︎さんがどうだのから開放されたからだ。地元はそれなりに田舎で、田舎なりの人間関係の閉塞感があった。
あと、自分として人のことが覚えられないことで得をしていることは集団圧力によるいじめや差別をしない(できない)ことだと思う。
ある時期から完全に人間関係の諸々を覚えるのをやめた(できなかった?)。誰にでも話しかけるし、誰に話しかけられても答えていた。
いじめや悪口をする人間よりも、しない人間といる方がまぁみんな楽なんだろうし安心するんだろう。周りには人が沢山いた。
めんどくさいことはいじめを受けているor集団で無視をされている人にたまたま話しかけた後、つきまとわれたり、行動を監視されたり等、異常に執着されるのはめんどくさいなぁと思う。誰かに特別扱いされたとしても、こちらがその人を特別扱いすることは無い。
先にあげた執着する人はしばらくすると、こちらの対応に不満を持ち、自分を責めて落ち込むor私を異常に嫌うのどちらかになった。
ふむ。
迷ったら、とりあえず、今までのやり方を真似するという方法と、
新しいやり方に挑戦するという方法がある。
あなたは、どちらを選ぶか。
これは、仮の判断ですよ、あとから変えられますよ、という意味。
深く考えず判断を下そうという、
悪くいえば「思考停止」。
ただ、この「とりあえず」という言葉。
どちらにもつけられる。
「とりあえず、今までのやり方を真似しよう」
「とりあえず、新しいやり方に挑戦しよう」
試しに一方を選んでおいて、問題があったら変更しようということ。
実は、「今までのやり方」と「新しいやり方」を無意識に選択している。
「今までのやり方」と「新しいやり方」。
個人のクセではなく文化的な慣習ではないだろうか。
「とりあえず、今までのやり方で行きましょうか」と
今までと同じような選択をしているだけ。
「とりあえず、新しい方法でやりましょか」と、
なるような気がするけれど(想像です)、
これも、今までと同じような選択をしているだけ。
これって、何かに、勝手に決めさせられているっていうことだよね。
自分たちできちんと考えているのではなく、
多分こういうふうに決めておけば、
それに合わせるようにしているだけ。
実は出ないかも知れない。
出るかも知れないけど、何とかなるかも知れない。
「よほどの理由がない限り、迷ったら、新しい方法を試す」というのは
えっ!
変えられるけど、とりあえず、今回は変えない?
だとしたら、いつ変えるだろうか。
1年後には変えるだろうか。
5年後なら変えるだろうか。
10年後なら。
今の状況変化の早さを見ていると
いつかは、きっと新しい方法を試すよね。
だったら今、変えない理由はあるだろうか。
試しに今回、やってみたらどうだろう。
どうしても変えないのなら、その理由を考え抜いて明確にしよう。
そうすれば、変えるべきでないものも、はっきりするはずだ。
20世紀初頭、英国の経済学者であるケインズ卿は、主著の中で「考え方ほど強力なものはない」と説いた。つまり、人の行動要因のうち、最も影響力が強いものは、外部的要因よりもその人の内部要因、すなわち考え方だというわけだ。
ひるがえって現代の英国では、中東出身者の2世、3世となる若者たちがイスラム国(という名のテロリスト集団)へと帰属すべく、混乱を極める中東へと世代を超えた里帰りをしている。こうした若者たちが常軌を逸したテロリスト集団に忠誠を誓う要因は何だろう。ある人は欧米社会における中東系への差別が原因であるとし、ある人は貧困が原因であるという。しかし、これはあまりにも皮相的な見方ではないだろうか。どの国にも貧困と差別は存在する。それにも関わらず、なぜ一部の人々、特に豊かな先進国の若者が海外の狂信集団への参加を企図するのだろうか。
ここでケインズ卿の金言を思い出してほしい。何よりも人を駆り立てるのは考え方だ。もちろん、乾燥した砂漠地帯へと向かう若者たちの中には自意識をこじらせ、過激思想に染まった狂信者もいることだろう。だが、その多くは渡航直前まで通常の市民生活を送っていた一般人である(と報道されている)。ということは、通常の市民生活に浸透するごく一般的な常識の中にこそ、彼らを破滅的な行動に追い込む何かが潜んでいるとは考えられないだろうか。
健全な若者たちを追い込んだもの、近代社会の「一般常識」とは、「人は役に立たなければ生きている価値がない」という考え方だ。このあまりに妥当に思える考え方にこそ狂気が秘められている。
中東に渡航した若者の多くは、同国の他の若者と同等の高等教育を受けており、言い換えれば社会的に役立つ(と見なされるべき)存在である。彼らは教育によって社会常識と能力を身につけ、社会への参加と貢献を望む(ごく健全な)精神性を身に付けていたはずだ。だが、彼らはその意欲と能力を十分に活かすことが出来ない環境下にある。
無論、こうした差別や貧困だけが問題ならば、例えば南米や東南アジアのスラム民のごとく、それを人生の既定路線として別の生き方に適応することも出来ただろう。だが、彼らは私たちと同じように近代的な市民としての精神性を埋め込められた「一般人」なのである。
資本主義であれ社会主義であれ、近代社会おいて市民は、「人の役に立たなければ生きている価値はない」と考えられている。言い換えれば、人の役に立つことが人生の意味・意義・目的である。それは経済活動の本質でもある。だが、英国をはじめとする欧米社会は、中東系の若者たちが近代市民としてごく一般的で健全な希望を満たすことを許さなかった。結果として「人の役に立ちたい」という健全な欲求は、全く不健全で狂気の塊とでもいうべき集団への参加・貢献へと姿を変えてしまう。なぜなら、イスラム国はそうした近代市民として望ましい欲求の全てを満たしてくれるからだ。
あなたの人生には意味がある。あなたは人の役に立つことができる。あなたは必要とされている。だからこそ、私たちに参加・貢献してほしい。
こうしたメッセージが実存的な欲求を満たせずに鬱々とした日々を過ごす若者に届き、その心の隙間に棲みついたとき、彼らを押しとどめる要因、すなわち彼らを暴走させない「考え方」を欧米社会は提供できていたのだろうか。事実、イスラム国はすぐれて近代的な精神性を持つ集団であり、表面的な暴虐性と狂信性を剥ぎ取れば、そこにあるのは英国と全く同様なもう一つの近代社会であり、宗教というフックによって近代市民を惹きつける別種の帰属集団たりえるわけだ。よって、若者たちの豊かな社会から貧しい狂信団への「宗旨替え」という一見奇妙な現象は、単純に欧米社会の失敗と敗北の証左なのである。
ところで、これは私たち日本人にも無縁の問題ではない。むしろ喫緊の問題でもある。中東系の若者には(擬制とはいえ)神への信仰が残されているようだが、私たちには一体何が残されているというのだろうか。この社会による無言の死刑宣告に抗うため、私たちにはどうふるまう余地があるだろうか。自身の社会的価値の欠如を自覚し、世間という名の集団圧力に圧迫され、閉塞し、窒息したとき、私たちは静かに(そう、「誰にも迷惑をかけない」ように!)命を棄てる道しか残されていないのだろうか。
かつての武士階級にとって自死は、名誉を守る行為だ(という共通理解があ)ったが、近代市民たる私たちにとっては疑いなく、何の疑いもなく、言葉通りの犬死でしかないだろう。それとも、これも一つの考え方に過ぎないのか?