はてなキーワード: 心理テストとは
今家庭教師で中学生教えてるんだけど、中学数学と高校数学って別物だったんだな~って。
中学生までは算数とか数学とか本当に苦手で、高校入りたての時も自分は数学ができないって思い込んでいたから最初はあんまり成績良くなかったんだ。
けど、煩雑な計算はあまり伴わない整数とか、証明とか、「数学的概念」を見つめる分野に入った途端めちゃくちゃ出来るようになった。
中学生の時までは定期テストで50点とかのザコだったのが、高3の全統模試で偏差値70以上はとれるようになったんだよ!!本人がびっくり。
計算は苦手だったからどうあがいてもだるい計算しなきゃいけない微分積分はよくミスってたんだけど、
式の性質を考えて簡潔な形に変形したり、どういう現象が起きているのかを見つめたり、抽象と具体を行ったり来たりするのが数学なんだな~パズルみたいだな~って気づいて好きになっちゃった。
数学の本質は「計算」じゃなくて、「数を使った思考」なんだ!!と。式の本質を見て、うまーく変形したり見方を変えると計算ミスが減ったり、問題解く工程が減ったりして、奥が深い。
中学数学は距離とか重さとか量とか求めるような問題ばかりで、結局算数の延長線上の、生活に当てはめることが多い科目だったけど、
高校数学は純粋な「数の学問」って感じ。数とそれに関する概念やら定理やらを使って、純粋な"数の”問題を論理的に分解して解くシンプルで抽象的な科目だった。
中学数学は単位やら何やら数字以外で注意しなきゃいけない部分が多くて苦手だったんだろうな~って気づいた。
そんな私は大学生になって精神科で発達検査やら面談やら心理テストやらなんやら受けた結果不注意優勢型ADHDとの診断が下りました。ありがとうございました。
コミュ2話
ポイント1
フレデリカ「(間を挟まず)それでー? シキちゃんがここに来たかったのって――(以下略)」
間を挟まなかったのは、友人との論争を避けるためだろうか?
宮本フレデリカにはもうある答え、一ノ瀬志希にはまだない答え。
志希には「愛に生き続ける」「一瞬で愛に死ぬ」「楽しく生き続ける」「一瞬で楽しく死ぬ」選択肢があるのではないか。
どれもこれも魅力があり、しかし全ては選べない。迷っているのだ。
「秘密のトワレ」なんて歌いながら、Pへの深い愛情を持ちながら、絶対に行動に移さない理由だろう。
志希は「他に迷惑を掛けても、自分のしたい事はする」と考えているが、フレデリカは迷うことなく「みんなハッピー」
…書いていて思ったが、フレデリカは志希が致命的な事を起こす前に「娯楽」を提供しているのでは?
考え過ぎだろうか。
ポイント2
志希「(父親のデスクで家族写真を見つけた後)……ん? 隣にもう一枚、隠してある……?」
フレデリカ「(嬉しそうに)シキちゃん、だね。 アイドルの……お仕事の、写真」
志希「(少し考え込む)…………。」
志希「こっちの写真は、あたしがもらってこっかなー。」
フレデリカ「人間の目が前についてるのは、未来を見るためだからねー♪」
これは面白かった。
つまり父親にとって「今の志希」を見つめるのは「過去に縋る行為」の可能性がある。
もう再婚とかしているのか?
いや、それなら家族写真は何故OK? 娘の反対を押し切って再婚、しかし上手く行かず離婚?
そして、この時の志希の発言は暗くない。 父親に悪感情を抱いている訳では無いようだ。
「フレデリカは志希の過去を知っている」「志希の”ときどきいいこと言う”発言」
これが気になった。
フレデリカは「みんなハッピー」なので志希が嫌がれば口を噤む。
だがPは”志希が納得している”事実があっても「可哀想だ!」というかも知れない。Pが事あるごとにその過去をを持ちだせば志希はウンザリするだろう。
これは「Pを理解する」まではおあずけ。
後に奏から「海の向こうはどうだった?」と聞かれ「何も無かった」と志希は答えている。
話したくなければ「この話はまた今度」と言うはずなので、本当に「ケリがついた事」なのだろう。
そして「ときどきいいこと言う」
志希は普段から人の発言をしっかり聞き、それを評価している事が分かった。
最も親しいと思われるフレデリカさえそうなら、志希が「誰かに依存する、身をゆだねる」事は無いのでは?
コミュ3話
ポイント1
志希「わかんないことが怖いなんて、あたしにはぜんぜん共感できなーい! なんでなんでーっ!」
奏「あのね、志希。これは一般論だけど……普通、分からない事は怖いわよ(以下、一般論は要約)」
奏「人は怖いから分かり合うために努力する、だが完全には分かり合えない だから自身を矮小化し分かり易く記号化する」
奏「ちょっと。せっかく人が真面目に話したのに、台無しじゃない」
フレデリカ「でもさー。退屈になってくだけなら、『本当の自分』とか『理解』なんて、いらないのにね」
フレデリカ「それよりは、みーんなが楽しくなれる『ウソ』のほうが、ハッピーハッピーだと思うんだ♪」
まず、奏は志希へ「分からないかも知れないけど、教えてあげる」
そしてフレデリカが茶化し、志希も続く。
「みんなハッピー」が好きなフレデリカが何故「真面目な話」を率先して茶化したか?
当然「みんなハッピー」のためだ。
ここで茶化さなければ、奏は志希へ「理解できたか」聞くだろう。
そして志希は真面目に返す。「理解した」「理解できない」「途中までは理解している」
意見が奏と重ならなかった場合「誤魔化しをを好まない」志希では以前の心理テストの焼き増しになるかも知れない。
フレデリカが警戒するのも当然。
奏は「僅かでも理解し合う事」を大事なものだと考え、だから志希にも解説した。
話が切り替わったので意見は述べていないが、志希も持論は持っているだろう。
この後、志希は桃華に「分からないと言えるのは良い事だよ、半端に分かった気になるより、ずっとね(要約)」
……いつかもう一度「LiPPS」コミュが来た時は「Trinity Field」並みだと、私は期待している。
ポイント2
桃華「(二人のアイドルとしての姿勢に疑問を持ちながら)あなたたちはいったい、なにがしたいんですの?」
志希「(少し勿体ぶって)あたしはね、あたしがしたいことをしたいの。それ以外は、どーでもいー」
フレデリカ「フレちゃんは、みんながハッピーになることをしたいなー♪」
~フレデリカ、ここで「あとはお楽しみ、ご期待あれ」と言って会話を切る~
また答えを待たず切ったなコイツ!
だが二人はしっかり”軸”がある。
志希は「自分がしたい事をやる」
誰でもそう、と思うだろうか? だがそれならわざわざ口に出す必要も無い。
これは恐らく「自分に噓はつかない」と言っているのだろう。
相手を気にして自分の意見を出さない…何とも「家族関係がこじれそう」とは思わないだろうか。
対してフレデリカはブレない。
「みんなと楽しく」こそが目的。 そのためならば嘘も厭わない。
いつかこじれそうですなあ。
ポイント3
志希「……ふぅん?」
フレデリカ「なんだかさー、嫌だったんだー。シキちゃんのこと、勝手にわかられたみたいで」
「『本当は寂しがり屋の可愛いオンナノコ』なんてさ、すっごくわかりやすくて、つまんないでしょ?」
「カナデちゃんはそれが普通だって言ってたけど……、だーれも楽しくならない、退屈なだけのホントウなんて、アタシたちに くっつけてほしくないの(口調は明るい)」
志希「(笑顔になって)その退屈なものが、本当に真実(ホントウ)だったとしても?」
志希「……ふふ」
フレデリカ「それに、シキちゃんは、誰かに理解させてあげられるほど、簡単じゃないでしょ?」
志希「……ねーねーフレちゃん。フレちゃんはさ、あたしのこと、怖い?」
フレデリカ「ぜーんぜん、怖くなーい♪」
志希「(笑い声を上げて)いいね、いいねいいね! やっぱり、フレちゃん、すっごく面白い!」
「うん、いいよ。興味湧いてきた。フレちゃんとなら、あたしは何ができるのか。あたしたちの実験を、始めよっか」
~以下略~
長い。ひたすらに長い。
ちょっとまとめる。
フレデリカが「アタシたちを舐めないで、そんなに退屈な存在じゃない」と言う
志希は「いや、実際はそんなものだよね」
(今回のSR2枚中、志希だけ「自身は退屈な部分も有る」と発言しているので、これは志希の事)
フレデリカは「だったら嘘をつけばいい」志希はこの答えに思わずクスリと笑う
フレデリカは「怖くない」と返しそれを聞いた志希は堪えきれず、といった感じに笑い声を上げる
志希は「やっぱりフレちゃんは面白いね いいよ、興味湧いたし付き合ってあげる」
そして志希は自己評価が低い! 「自分は他より少しは頭が回るだけ」とか思ってたりするのだろうか?
ここでフレデリカは「だったら嘘をつけばいい」
話を伏せても誤魔化すことは無かった志希に「嘘をつけばいい」!
真意は恐らく(でも、その必要はないよね)(でも、そんな事しないでしょ?)こんなところ。
それが分かるから志希は笑う。
そして追い打ちに「それに、理解できる人いないよね」
これは、志希へのメッセージ。
志希にとっては志希は単純な存在。でも「客観的」に見れば志希はとんでもなく難しい。
ねえ、そうでしょう? だと。
そして志希は笑い、フレデリカに付き合う、と言った。
志希が笑ったのも納得だ。
嘘をついても「幸せ」を大事にするフレデリカ。なら、恐怖を隠しているのか?
志希が「簡単ではない」事を知るフレデリカ。なら、口では「簡単じゃない」と言いつつ自分は志希を理解しているのか?
本当に怖くないか、本当は怖いのか。
まあ、多分。
コミュ5話
ここは短い。
これだけだが…Pとしては大事だろう。
書いとく。
ここらで失礼致します。
飲み会とかでいきなり「心理テストやりまーす」とか言って、4枚くらいの絵を見せられて好きなのを選ばされた。
なんでもそのうち一枚を選ぶと「あなたは深層心理的に同性愛者の傾向がある」そうだ。
他の人でその絵じゃないのを選んだ人は「うっわ、あっぶねー。セーフセーフ」とかはしゃいでた。
自分はそのテストを知っていたのでわざと同性愛者のものを選んでおいたらやっぱり言われた。
「増田くんて、コッチ(てのひらを口元で立てる)なの?」
さあ、どうでしょうねと適当に笑ってたら、他にアウトの絵を選んだ人がいて
「おまえらつきあっちゃえよー」
「やだー、お似合いー」
とか盛り上がってた。
自分以外の絵を選んだ人はそんな空気を読んだらしく、「え?そんな。トゥンンク」みたいな態度とってた。
ここでもし本当に「あ、自分ゲイなんで。そのテストあたってますね」
って言ったらどうなるかなと考えた。
誰かのためになればいいなぁとは思ったけど、ほぼ自分のために書いた文章というか日記なので読みにくいと思う。ごめんなさい。
最近、鬱っぽいというか夜勤中に精神的余裕がなくなるスピードが早いのと物忘れがひどくなってきたので、心療内科に行ってみたんよ。元々、自分は精神的な病気なんかとは関係ないと思ってたんだけど、ツイッターなんかでわかり手さんとか借金玉さんとかのツイートやブログ見てたら行ってみるのもありかなぁと思いまして。
心療内科の初診の予約取るのもわりと時間が必要だった。電話をすることへのストレスと電話をしたらもうあとに引けない気がしたから。でも、仕事中に頭がパンクしそうになった時があってそこでもうダメだと思って勢いで予約の電話をした。
とりあえず、電話に出てくれた看護師の人には鬱っぽくてということで受診の予約をした。
初受診当日、逆算思考が苦手なのと方向音痴な自分を気遣ったら予約時間の40分以上前に最寄駅に着いてしまったので30分くらい散歩してから病院に向かった。
何というか、最寄駅から病院の場所を確認して散歩で時間を潰している間、ずっと憂鬱だった。怒られるわけじゃないと分かっていても、どんなことを聞かれるんだろうと考えていると頭がずっしりとしてくる。
それで、いよいよ、初受診の時間。心療内科らしく待合室のソファも診察室の椅子もふかふかだった。
ドクターには具体的に困っていることを聞かれたので前述した通り、夜勤中の精神的余裕の無さと物忘れがひどくなってきていることを伝えた。
それから、鬱の診断を下すための質問をされた。DSM-5とかいう本(世界共通の診断基準って言ってた)に沿って質問されて、それによると鬱ではないということで、抑うつという鬱っぽい状態だと思う的なことを伝えられた。
それから、順序が曖昧だけど次にADHDかどうか診断する質問をされた。集中力はあるかとかそういうやつ。それによるとたしか、軽いADHDとのことだった(ADHDに軽いとかあるかどうかわかんないし、もしかしたら自分を障害者と認めたくない自分の意識が邪魔して軽いやつと認知したのかもしれない)。
まぁ、その時点で多少はショックだったんだけど、高校で塾やめたら一気にガタ落ちした成績のこととか集中力の件とか思い返すと、しょうがないかぁという感想。
で、たしか次が心理テストでA4の紙に実がなっている木を書かされた。ドラマとか映画で見たやつ!と思いながら、真ん中にこれだと小ちゃいかなぁ…でも大きく書くのめんどくせえしなんでそもそも大きく書かんとあかんのやと思いながら木を書いてリンゴを3つほど付け足した。書いた後にリンゴの味を聞かれたので普通ですかね、と答えた。
診断によると自分は頑固で人の目を気にして抑圧状態になってると言われた。まあ、たしかにーという感じだったのでそうですねーと答えて、ドクターからの総合的な見解はADHDとそれによる二次障害的抑うつ状態とのことだった。
集中力がなくて仕事がうまく回せてないのをどうにかしないとという話の結果、コンサータが処方された。あー、借金玉さんが言ってた飲んで吐き気と戦いながら仕事するやつかと思いながら、それを2週間分処方してもらった。
それと、ドクターからは仕事のストレスを溜め込むのはよくないから自分でブログに書くなり愚痴ノートを作った方がいいとの言葉も頂いた。
で、先月にインターネットのお陰でできた彼女の家に向かうバスの中でぼおーっとEva CassidyのFields of goldを聞いてたらどういうわけか涙が止まらなくなった。どういうわけもなく、自分が発達障害であるというショックがそのタイミングで襲ってきたんだろう。彼女には病院に行くとは言ってたけど、「なんの病院?」という質問には答えられず、健康診断の聴力検査でひっかかったから耳鼻科に行くと嘘をついた。
自分が障害者であることを家族にも彼女にも、今度新幹線で久しぶりに会いに行く数少ない友達にも言えないなぁと考えるとセンチな気分になってバスの中で泣いてしまった。
重く考えすぎだよなぁとこれを書きながら思いつつも、あと1回くらいは泣きそうだなとも思う。案外、言ってしまえば周りは受け入れてくれるのかもしれないけど、急に「俺、実は発達障害だったんだよね」と知り合いに言われても反応に困るだろうから、とりあえずは言わないでおこうと思う。
それにしてもなー、これからどうしよう。いや、特別どうもしないんだけども。
とりあえず、彼女の家で帰宅を待ちつつ、夕食の献立を考えつつ彼女に貸したスプラトゥーンでもするかなぁ。あ、コンサータ飲んだらウデマエ上がるかな?
高校3年生。もう授業はだいたい終わろうとしている、というところで担任が突然発情した。
今日の4限目、HRの時間。普段はちょっとしたプリントを解いたり、担任のダベりで消化される金曜の4限なのだけど、今日は異様だった。
ここまでで大体わかってもらえると思うが、やたらと性的な匂いのする1時間だったのだ。僕は別に騒ぐことでもないと思ったのだけれど、クラスメイトがやたら「気持ち悪い」だの「まじで訴えようかな」とか言ってるから「これ僕がヤベーやつかも」って心配になったので客観的な意見を聞きたい。
例えば内容はこうだ。目の前に海があって、連想されること。砂漠があって、連想されること。コップがあって、連想されること。そしてコーヒーがあって、連想されること。ああ少し違うな。コーヒーに関しては「まず、好きか嫌いか。それから、どのようにして飲むかを答えて」っていう問いだった。この書き方だと匂わせすぎだが、最後のやつは“SEXに対する価値観がわかる”という程の問いらしい。
「4問目、コーヒーの問題な。これから連想されるのはあなたの……SEX…SEXに対する価値観です」
そうさらっと喋った。みんな、突然のSEXにびっくりしてた。だんだんざわざわし始めて先生の顔が曇ったりしたんだけど先生は突き進んだ。
「次の問題な。女とその彼氏がいます。二人は川を隔てて離れ離れになっており、女が男に会いに行くには舟を出してもらわなければなりません。そこで女は舟を出してと頼むんですが、船乗りにSEXを要求されます……。」
もうあんまり覚えてないけど、まあこんな感じ。ひたすらSEXを連呼(と言っても5回ほどだったかな)した1時間だった。
一応僕の見解を述べておく。教育現場でのそういう発言は「教育」のために必要である、という根拠がいるように思う。例えばエイズという病気を説明する上で感染ルートの説明は欠かせないし、それをきちんと教えることが事前予防にもつながる。一般的には「保険体育」の授業で扱われ、これは教育のあるべき姿だ。が、今日のは少し違う。何の気なしに持ってきた心理テストに1時間かけ、「みんなの詳しいところ暴いちゃうぞ☆」といったノリでSEXの話をした。これは普通でない。だけどあくまで「心理テスト」と言う後ろ盾があったし、僕にはこれがセクハラであると断言できなかった。「あくまで心理テストの答えを読んだまで」みたいな。
みんなが異常に反応するので、「さてはてめーら中学生童貞だな?」と言ってやったんだけど、まあ騒ぐ理由もわかる。だけど、フロイト先生の夢分析よろしくそういうものはいくらでもあるのを知っているし、まあ取り立てて言うほどの事じゃないんじゃねーのって思うの。
僕の意見は特定の人から非難されるような内容であることは理解してるんだけど、僕らはもう、高校を出ようとしているんだよ。これまで触れてきた文学・美術作品・映画等で変にSEX慣れ(なお童貞)しているからみんなのリアクションは少しばかりオーバーに思えた。小・中学生の前で発言したらそれこそ問題になるだろうが、今回はそれほどじゃ…と言うのが僕の見解です。
まあ女子にとっては性的嫌がらせみたいなものだろうから、セクハラ認定されるのかね。知らないまま大人になっちゃうのは恥ずかしーって思ったから書いた。詳しい人教えてください
<追記>
【増田の主張である「高校を出ようとしてる年齢の相手に性的な話を振ってもセクハラではない」ってのが正しいならば、社会人は職場で性的な会話を振られてもセクハラだと訴えられないことになってしまうのでは…? 】
ごめん。どうしても「セクハラ」というと特定の人に対して看過できない性的嫌がらせが行われた時に告発されるイメージだった。この状況のこういう言葉くらい許容されてもいいんじゃないか、っていう認識だったけどそんなもんじゃないよね。少なくとも僕は絶対やらないし。
普段から女子に集中的に話しかけたりしていて、少々煙たがられてはいたんだけど、あの瞬間は特別にやばい感じがした。それこそブコメにある「プッツンしたんじゃないか」のレベルで。ただ、これまではこんなこと1度もなくてあくまで普通の優しい先生だったから、まずはセクハラどうこうじゃなくて指摘されてる脳血管障害みたいなのを心配したいと思ってる。
僕は少し前までだいぶ学校休んでたんだけど、学校行けた日は毎日声かけてくれて卒業まで応援してくれた。特別に「ここだけは出席して単位とっとけ」カレンダーみたいなのも作ってくれて、実際、卒業が決まったのは(卒業に必要な単位を取り終えたのは)この日だったのだ。もうギリギリで掴み取った卒業だから、結構嬉しかったし先生にも感謝してるわけ。
あの後の先生疲れ切った顔してたから、「やらかした」みたいには思ってそう。必死にエゴサしてたらこのエントリ出てきてもおかしくないし、文章読めば僕が誰か簡単にわかるよね。まずは女子生徒に謝るべきだと思います。それから、なんで最後の最後でああなってしまったんですか。
八年前、摂食障害と強迫神経症と欝で精神科のお世話になっており、その時に心理士のおばさんに週一でカウンセリングを受けていた。
ロールシャッハ4時間半、木や風景を描くのに2時間半、その他の心理テスト的なのを複数回。その時点でヘトヘトだったが、今までの人生を、記憶の限り振り返りながら話すカウンセリングの時に、何としてでもおばさんが「家族に問題あり」と言わせようとしているのが分かってさらに辟易した。
・その時に母親に何か言われたのでは?
・祖母と母親の仲があまり良くなかったことであなたは傷ついたのよね?
・母親はストレートな方なのね。繊細だから気になることは無かった?
etc…
摂食障害が同性親との関係不全による因子が強いなんてことはハナから知っていたが、ここまで誘導されると妙に腹が立つ。
自分から見て母親は毒親でもない田舎の肝っ玉母ちゃんであり、当時は病気について知ろうと色々奔走してくれていた。
結局のところ、専門医と自分で出した結論は元々の性格と小学校での経験に根がありそうだということだったが、そのあともおばさんはことある事に「母親がー」と言い続けた。
それから3年ほどで生活環境を一新し、今は病気だったことを自分で忘れるくらいの回復ぶりを見せた。
心理士がみんなそうでは無いということは分かりつつも、うさんくせーなと未だに思っている。
ディズニーが嫌いでも彼女にせがまれてどうしてもって時とかでも楽しくなればいいなーって思って書きます。
思いついた順に書くから先に謝っとく!
☆長くなってしまったんで、本当に重要な要点だけここに ファストパスを上手く使って絶対に並ばない。休憩を多め、ご飯はちゃんと食べる。話を考えとく。※混雑の日に行かない。
なんか当たり前になったけどこれだけ。
これを参考に一緒に予定立ててくれたらって思うよ!一緒に予定立てることのすごく楽しかったりするよ!
http://info.tokyodisneyresort.jp/schedule/stop/stop_list.html
http://www.tokyodisneyresort.jp/sp/atmosphere/lists/park:tdl/
http://www.tokyodisneyresort.jp/sp/help/fastpass.html
http://info.tokyodisneyresort.jp/s/calendar/tdl/
本気でトイレに困ったら、最終手段としてホテルに駆け込むのをおすすめしてる。
http://www.tokyodisneyresort.jp/sp/special_srv/detail/str_id:tdl_photo/
こんなに長くなるとは-。他にもたくさん書きたいけど、疲れた。。。
他にも考えることはあると思うけど、それは行く人のことを考えて喜びそうなのをチョイスしてください!
予想以上に読んでいただいたみたいで有り難く思っています!その反面、不十分な点、不適切な点も多かったと反省しております。
たしかに下僕という表現は、良くなかったなと思いました。ごめんなさい。僕が伝えたかったことは、嫌いな人がディズニーに来たらたぶん温度差のある発言を無意識にしてしまうのではないかと考え、その一言を発言する前に待ったをかけてほしいなということです。変更したいなと思うのですがブコメでたくさんスターをもらっているようなので変えていいものか今迷っています。
あと、これを見て行きたくないと思ってしまった人にもごめんなさい。たしかにこれだけ要求されると行きたくないなと思うのも当然だと思います。長文ですいませんでした。
嫌いな人で行かないといけない人は、トラバにとても参考になるものがあったのでそちらのほうをご覧になってほしいと思います。
https://anond.hatelabo.jp/20171215133644
※行く日程は重要。最強に混雑してるともうほんとに身動き取れないのでそれは避けること。
https://anond.hatelabo.jp/20171215224052
女の趣味に合わせる気満々なだけでは、いつか見限られるぞ
女は自ら楽しむ男に惹かれる。
色んな楽しみ方があるのは同意です!自分たちが楽しめるならなんでも良いと思います!
どちらがリードするとかではなくて一緒に楽しんでくれたらいいなと思っています。
あと、お父様方の意見も多くて、それ用の記事を作ったら喜んでもらえるかなと思い、悩み中です。
+α 50個書いてみました!
似非科学というのはいつの時代もなくならないものだ。パッと思いつく例だけでも、血液型性格診断、ゲーム脳、環境ホルモン、水素水、マイナスイオン、等々、枚挙に暇がない。多くはマスコミによって支持され、テレビ番組で特集が組まれ、その科学的根拠があいまいにも拘らず世間に流布されて浸透する。テレビ番組などはあたかもその説を「検証」しているかのような映像を作り、怪しい肩書の専門家のコメントを添える。視聴者の多くはなんとなく「科学的に証明されている説なんだ」と信じ込み、疑問を持つことなく受け入れてしまう。一億総白痴化社会の完成である。最近はネット上で多くの意見を比べて読むことができるので、情報収集能力の高い人たちはそこまで騙されやすくないとは思うが、未だテレビや新聞が主な情報源である人たちにとっては、上述の似非科学が今でも信じていることが多い。特に血液型性格診断などは、宗教のように信じ込んでしまっている人も相当数いるだろう。
私も子供の頃はこれらの似非化学に騙されやすい人間だった。最近はほとんど見ないが、昔はテレビが娯楽の中心だったこともあり、夕食時などはよく見ていたものである。特に、捏造問題で打ち切られた「発掘あるある大事典」などは、親が好きだったこともあって毎週見ていた。その中で血液型性格診断の特集を何度か行っていたことは、今でも何となく覚えている。番組の中で「数名の幼稚園児を血液型別に分類してその行動を観察する」という検証が行われており、ものの見事にその血液型の特徴が行動として現れていた。見ていた私は「やっぱり血液型と性格には関係があるんだなー」とぼんやりと納得していたが、今になって思い返してみれば数名の幼稚園児の行動で結論を出すのは早急すぎるし、番組が「○型かつ××な性格」の幼稚園児を数名集めることなど造作もないことだし、そもそも集められた幼稚園児の血液型が本当に表示通りだと証明する根拠は何も無い。極めつけはあの「あるある」である。そういえば「あるある」はマイナスイオンの特集も何度かやっていた記憶がある。まあ、放送内容の真偽を検証するのは今となっては不可能に近いことだからやめておくにしても、心理学会において血液型性格判断の真偽は何度も検証されており、いずれも関連性を肯定するものがないことから、かの理論が出鱈目であることは疑いようがないだろう。
しかし、科学的価値は小指の爪の垢ほどもない血液型性格診断であるが、この似非化学が私に教えてくれたことが二つある。それは「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」ということと「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」ということだ。付け足すなら、当時私はまだ純粋なティーンエイジャーだったので、「大人は平気でうそをつく」ということも学んだと言えよう。
私が初めて血液型性格診断を反証する意見に触れたのは、中学二年生のことだったと記憶している。当時別段読書が好きでもない(むしろ嫌い)だった私が、たまたま休み時間に図書館に立ち寄り、ふと目に留まった一冊の本を手に取ったのがきっかけだった。それは村上宣寛という方の著書『「心理テスト」はウソでした。受けたみんなが馬鹿を見た』(2005、日経ビジネス)という本である。新作であったこの本は本棚の上に表紙が見えるように立てられており、そのセンセーショナルなタイトルに興味を惹かれたのを覚えている。
10年以上前に読んだものであるためにうろ覚えな部分もあるが、本の内容は大きく2つに分かれていた。前半が血液型性格診断への反論、後半はまた別の心理テストへの反論が主であった(後半の内容は忘れた)。本文の中で、今日の血液型性格診断の源流である能見正比古氏の著書をけちょんけちょんに貶し、また血液型性格診断のような「占い」を人に信じ込ませるための心理テクニックである「バーナム効果」についても詳しく説明があったと記憶している。
当然、本の内容は著者の考えであり、本の内容が絶対的事実であるとは(今となっては)思わない。しかしこの本の内容は、血液型性格診断が科学的根拠のある学説だと何となく思い込んでいた私にとっては、とても衝撃的な物であった。血液型性格診断そのものというより、これまで固定観念的に信じ込んでいた常識が、脆くも崩れ去った瞬間で、まさしく目から鱗であった。活字嫌いな私が、数日図書館に通って本を読んだのは、(マンガ喫茶を除けば)後にも先にもこの時だけであろう。「借りて読めよ」と言われるかもしれないが、当時の学校図書館のルールで、新作は借りれなかったのである。
新しい知識を得たら人に言いふらしたくなるのが能のないアホウドリの常である。当時は全盛期こそ過ぎたものの、血液型性格診断は世間一般に根付いており、それを否定する論調は(少なくとも大手メディアでは)ほとんど存在していなかった。要するに「他の誰も知らないことを自分だけが知っている」ような状況だったのだ。腕のケガだと偽って毎日手に包帯を巻いて通学していたリアル中二病の私にとって、これほどドヤれる材料は無い。とは言え、何の脈絡もなく血液型性格診断の話をするのも変である。友人との会話の中で血液型の話が出てくるのを待ち、出てきた瞬間にこれでもかと否定する。それによって「頭が良い奴」と思われて皆からちやほやされる。正に完璧な計画だった。
ところが、実際に反論してみたところ、いずれもあまり芳しくない結果に終わってしまった。どや顔で血液型性格診断を否定しても、「でも何となく合ってる気がするし…」と、決まって歯切れの悪い反応しか返って来ないのである。挙句教師からも「屁理屈ばっかりこねるな」と言われる始末。今となってはどちらが屁理屈なんだと思わざるを得ないが、確かに思い返してみれば、血液型の話でわいわい盛り上がっている時に、キモいデブがどや顔で否定して来たら、場が白けてしまうのは明白だろう。要するに私の敗因は、イケメンではなかったことである。
冗談はさておくにしても、それ以降、私は血液型性格診断の話が出てきた時、余程仲の良い間柄でなければ、ニコニコして受け流すようにした。まさに2017年現在でも血液型性格診断肯定論者の方が言うところの、「否定する奴はモテない」という説を支持する対応であった。情けないとは思うが、当時ただでさえ友達が少なく、これ以上周りから孤立するようなことは避けたかった私を責めることなど出来るだろうか。ちなみに今は目上の人でなければそれとなく否定している。相変わらずチキンであった。まあ、事実は事実として、TPOに合った会話合わせというのは必要だと思っている。
そこで私が学んだことが、先の「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」の二つだ。血液型性格診断を信じている人に、上述の心理学会の話や、バーナム効果の話をしても、決まって返ってくる言葉は「でも何となく当たってる気がする」「私の周りでは当たっている」と言ったものだ。査読のある学術誌に投稿された数千人規模の調査結果よりも、自分の身の周りの数名の事例を優先するのである。当然その事例には得てして強い確証バイアスが掛かっているのだが、本人はそれに気付くことができない。「客観的事実よりも自分が信じたいことを信じる」典型例である。
これは、似非化学に限らず社会の中のあらゆる現象に対して言えることである。例えば昨今、「若者の○○離れ」という言葉をよく耳にする。○○の中には、テレビ、新聞、車、バイク、酒、読書など、ありとあらゆるものが入り得る。そして、その原因は大抵若者に帰着させることが多い。「最近の若者は人との関係が希薄だから酒を飲みながらのコミュニケーションをしないのだ」とか、「世間や政治に対して無関心だからテレビや新聞を見ないのだ」とか、とりあえず若者を悪者にするような結論が多いが、決して「社会の変化によってニーズも変容し、製品価値が相対的に下がった、すなわち製品自体が時代の変化に追いつけなくなったのだ」といったような、自らに責任を帰着させることは決して言わない。やはり自分が信じたいことしか信じていないのである。
また、血液型性格診断を信じている人の共通点として、否定しようとすればするほど攻撃的になって反論するというものがある。先の中学生の時の教師がその典型例だろう。理論的な反論が出来なくなると「屁理屈をこねるな」と論点をずらして逃げるのである。「否定する奴はモテない」というのも同様で、血液型性格診断の真偽について反論しているのに、「モテるモテない」の話にすり替え、さらに相手を「お前は場の空気の読めないモテない人間だ」と罵倒しているのである。そうなってしまうと、もはや冷静な会話は成り立たない。こちらがいくら事実を述べても、返って来るのは罵倒だけであり、最終的に相手が逃げてしまうのである。そこに残るのは無駄な時間の浪費と徒労感だけで、何ら生産性のない労力を費やされることになる。
こちらもやはり社会全般で言えることだ。例えば「若者の犯罪はゲームやアニメによる影響だ」などの持論を展開する人に、「若年層の犯罪率は年々下がり続けており、反対にゲームやアニメの市場は伸び続けている。」と反論しても、恐らくその後は謂れなき若者批判と罵倒くらいしか返って来ないだろう。論理的な反論を受け入れられない人間にとっては、実は事実などどうでも良く、会話を勝ち負けを決める手段としてしか考えていない。そして自分が負けるのが嫌だから、最後は子供のような罵倒に終始し、逃げてしまうのである。こういった手合いは、「自分の非を素直に認められない」ことも共通点と言えるだろう。人間であれば誰しも少なからず負けず嫌いな側面は持っているが、この手の人間は特にその傾向が強い(と何の統計的データもなく私の主観でそう思っている)。
似非科学のような嘘を信じ込んでいる人は、宗教の信者に近い。もちろん宗教を否定している訳ではない。宗教というものは、「事実か否かを証明する術がない」にもかかわらず、「否定は許されない」というのが特徴である。これ自体は別に悪いことではなく、「鰯の頭も信心から」と言うように、それを信じることによって本人の精神的支えとなるのであれば、それで良いと個人的には思っている。客観的に証明できなかったとしても、個人の中で信じていれば問題はないのである。ただし行き過ぎると他者に対する不寛容に繋がり、戦争や弾圧に容易に発展してしまうため、注意は必要である。仏陀とキリストと「顔を描いてはいけないあの人」の誰が一番偉いかというような論争は、決して行ってはならないのである(仏陀とキリストが同じアパートの一室で生活しているマンガはあるが)。
「宗教」と「似非科学」の明確な違いは、前者は「事実かどうかわからない(事実であることに重きを置いていない)」のに対し、後者はそれが「明確な嘘」だということである。明確な嘘を流布すれば、社会に対して損害が生まれる。血液型性格診断であれば、近年問題になっている「ブラハラ」なる差別を生じる。ゲーム脳であれば、本来何も悪くないゲーム会社が風評被害を受ける。水素水であれば、医学的根拠のないただの水を健康に良いと信じ込んで高額な値段で買わされる消費者が現れる。そして、損をする人の裏側では、他者を騙して得をする悪人も存在しているのである。大抵は嘘っぱちの本を書いた奴とその取り巻きだ。
だからこそ似非化学は撲滅しなければならないし、似非化学の考案者やそれを流布するメディアは批判されなければならない。日本は表現の自由が保障されているから何を言おうと自由であるが、それはあくまで公序良俗に反しないことが前提であり、嘘によって不正な利益を得るのは詐欺である。表現に対して批判を行う自由もあるのだから、客観的に見て明らかに事実と異なる論説に対しては、毅然とした態度で批判すべきである。
そして、一般消費者である我々は、常にその情報が事実であるか否かを見極める努力が求められる。媒体を問わず、メディアは平気で嘘をつく。他人に言われたままのことを信じる人間は、その情報が誤りであった場合に他人に責任を求めがちである。何が正しいか自分で判断し、自分の責任において選択する力こそが、情報化社会を生き抜くために必要なスキルと言えるのではないだろうか。
たぶんいつからかおかしくなってると思うんだけど、客観的な判断ができない。
鬱ではない、不調ではないのは体調からも分かる。
昔と比べて明らかに変化した点は次のような感じ。
・10年以上遊んでいたいくつかの趣味を楽しいと思えなくなった
・いつ死んでも満足している気がするが、死への恐怖も同時にある
・何を食べても感動しない
それに加えて食への興味も急速になくなった
原因がわからないし鬱なら鬱で疑えるけれど
どうもそういう症状でもないっぽいので心理的変化が何か確認したい
酷い内容しか出てこない上に
健常者を対象としてるのではなく
病院にいくならどこへ行くのが適切か教えて欲しい
鬱のときのようなどうしようもない苦しさもなく
危機感もないがこれがもし止めないといけないことなら行動しておこうと考える
追記
きちっとした性格で、頼りがいがあり、人に対しても親切です。
論理的に物事を考え、現状を正しく評価し、結果を予測する能力を持っています。さまざまな物事の原因をすばやく見抜けるため、理屈っぽい、あるいは悲観的な印象を与えてしまうことがあるかもしれません。しかし決して悲観的なわけではなく、物事がうまく進まないことがあっても、状況をうまく受け入れ、それに容易く適応することができます。
やや内向的です。物事を深く考える傾向があり、一人での時間も楽しむことができます。カリスマ性があり、温かく野心的で、鋭い知性を持ち、積極になりたいときは積極的。周りの人に大きな影響を与える力を持っているタイプです。
なにこれ本当に酷いな
救いようのないオタク。
心療内科を受けるべきと言われた。
目にハイライトが入っていない人がたくさん来ている。
中学生くらいの子どももいた。子どもを見る親の目が心配の言葉に支配されていた。
身の上話と仕事の事を聞かれて、
調書を纏められた。おお、心療内科ってこうするのか。
そしてまた待たされた。その間にいくつかの心理テストをやるようにと言われ、それをやっていた。
とうとう医者に会う時が来た。
あって始めに言われたのが、
「休職されるべきですよ」
あれよあれよという間に
おお、そうきたか。
そして、休職が決まった。
何と無く楽しそうな事をしていたからという理由で中途で入った会社。
最初の1年は悔しい思いをたくさんした。
でも同時にたくさんいい経験をした。
フリーターでぷらぷらしていた自分にいろんな事を教えてくれた。
そう言い聞かされていたけど、蓋を開けたらそれどころじゃなかった。
まったく業務の仕組みが違う。
ここに来たら前の事は忘れて欲しい。
そう言われて目の前が真っ暗になった。
そこで歯を食いしばって2年目になった。
周りの事が少しずつ見えてきた。
そして、自分を馬鹿にしていた新人さんに対して目に見えないいじめがあるのに気付いた。
新人さんは腹のなかでは何を考えているか解らない子だけど、正義感は強い子だと思っていた。
若さ故にいろんな事に気が付いて、声を大にして言うタイプ。母親に似ていた。
それを上司へと伝えた。
暫くして彼女は助けられた。
それで良かったのだ。
今度は負担が私に振りかかった。
いじめは無かった。
が、業務量が格段に増えた。
私は仕事が出来るようになっていた。
新人さんがいなくなった後、この職場が上手くいくように、穏便に済むように、務めて明るく振舞っていた。
女ばかりの職場だから、当然ある事なんだろう。両親に話してもそんな結論ばかり。
私はオタクだ。
だから、癒されるのはオタクコンテンツだと思って、愚痴は両親に話し、好きなコンテンツを消費してストレス発散をしていた。
していた、ように思っていた。
いろいろな不調が出てきた。
身体が鉛のように重たい。
考えがぐるぐるし始める。
このCDとかグッズは売ったらいいさ。
でもこのぬいぐるみたちはどこへ行く?
私はオタクだ。
だから、この症状がなんなのかは薄々わかっていた。
でも見ないふりをしていた。
いよいよおかしいと気付いた時には、
好きなはずの作品を見ても、心から楽しかった!とはならなかった時。
心療内科の医者はこういうタイプの人間はどこにでもいると言っていた。
途端に罪悪感が湧いてくる。
冷静を保つにはどうしたらいいんだろう。
何かするべき事は?
とはいってもぼくの場合は軽度であることと、ここ数年ちゃんとした受診をしておらず不正確な部分が多いです。
なにより自己診断の面が強いので話半分でお願いしたいです。ほんと半端者です。
自分が心療内科に受診したきっかけは職場でのトラブルでした。よくあることです。
当時20代半ば、事務系と土方が半々の職場でした。特に事務系でそのトラブルを遺憾なく発揮しました。簡単にいうとこんな感じです。
事務の殆どは書類作りと整理、パソコン半分手書き半分という感じです。量はありますが新人研修の延長を超えません。この仕事を2年ほどしていましたが、ほぼ毎月同じようなことで怒られてばかりです。
例えばある1ヶ月の内容は「別の部署から仕様書を貰う->物品をパソコンに入力->契約->受領->請求書を貰う->書類一式揃えて支払いに回す」とこれだけです。仕様書が遅いとかは特になく、むしろとても早く持ってきてくれます。田舎なので契約もいつもの業者ばかりでとても楽ちん。そこそこの人がやれば月の半分は遊んでいられるような、そんな仕事です。
でも僕は、これが全然できませんでした。書類様式を覚えるのも何ヶ月かかったか。常に上長が監視し、先輩からアドバイスを貰い、業者も他部署も全て好意的でした。それなのに9割がた僕のところで何もかも止まっていました。点検が終わっていない書類でデスクは常に満杯。最後は僕の印鑑すら取り上げられた始末です。
僕を庇ってくれる人もたくさんいました。でも僕の仕事ぶりはその好意を軽く踏みにじります。笑顔で泥を投げつけてました。
毎月同じような書類の不備と怒轟の嵐。
僕の安らぎは、たまにある社外での泊まり込みの施設整備でした。その時は何もかも天国だったのです。
もうわかると思いますが、僕は自分のことを客観的に見るのが苦手です。知らないことを知られたくないがために質問もあまりしなかったと思います。そのくせ自分勝手な解釈で行動するので優先順位は全てデタラメ。コンプライアンスに触れるようなことを堂々としようとしたのは2・3度ではなかったはずです。僕は僕を理解せず、周りも人の形をした汚泥をみる表情に変わりました。
当然こんな状況で仕事が長く続くはずがありません。
とうとう本部の人から社内のカウンセリングを勧められ、そこから外部の病院への通院となりました。
僕の幸運は、会社の業務は比較的緩いことと、そのような精神面での問題に寛容な風潮があったこと、そして通院したのがそこそこマトモな部類に入る(と通院仲間から言われた)ことでした。たまたま駅の看板を頼っただけなんですが。
そこはいわゆる心療内科であり、鬱や僕のような人間のためのリハビリを行う施設も併設しているやや先進的な場所でした。
初期に2時間弱のテストを受け、僕に発達障害の傾向があると言われました。残念ながら口頭説明だったので詳しい結果については明確に覚えていません。
そこから色々あり退職準備と併行して自立支援のプログラムを受けることとなりました。入院ではなく平日はそこに通院して一日を過ごすのです。治療ですが内容は極めて簡単なものが多く、知らない人が見ると幼稚園か老人ホームのような印象を持つかもしれません。
僕はそこでもポンコツでした。なんでも話せますしどんな個性も許される場ではありますが、僕はとにかく無知で独りよがりで幼稚でした。職場環境のせいではないことをこんな形で理解するとか、今思い出してもきつい。
僕は心療内科で広汎性発達障害と診断され投薬治療も受けました。でも効果があったのかはいまでも疑問です。そもそも心理テストの結果も一般人寄りだったはずですし、退職後にその病院から遠く離れてしまったので今となってはどうなのかよくわかりません。転院先は面倒であまり好印象でなく辞めてしまいました。
僕が他と違っていると感じたのは小学生くらいからです。当時から随分と幼稚な行動が目立つ子供でした。テストの成績が悪いわけではありませんし素行が悪いのではなく、しかし振り返ると妙に浮いていました。
「ふわっと」した感覚が今でも続いています。たぶん精神年齢は実年齢からマイナス10歳くらいかと思います。
この歳になっても生きづらさは続きます。とにかく物をなくしがちなのです。子供の頃からこの現象を「妖精の仕業」と考えるほどに日常化しています。
物をなくすというと勝手に捨ててしまう印象かもしれませんが、違います。表現が難しいですが思考と身体がずれるのです。無意識下でものを移動しているので、過程がまるで見えないこともしばしばです。自転車のライトを靴の中に入れていたり、手袋を片方だけコートのポケットに入れて放置したり。必要なものを手に持っていたのに、玄関先でそれを持っていないことに気づいて部屋とを何往復もします。
誰にでもあることかもしれませんが、僕の場合はそれがほぼ毎日起こります。だから僕の周りにはものが溢れます。
必要ないものでも捨てられません。常に目に見えないと危険です。机の中にしまったら次にいつ取り出すか不明なまま時が過ぎていきます。しかも整理整頓もできないので部屋には書類や本が地層となります。
だから僕はペンやメモ帳を手に持ってどこかに置こうとした場合、できるだけ指差し確認をするようにして脳に刷り込みます。
僕にとってペンとメモ帳は大事なものです。日々の出来事を書くのさえ億劫ですが、これがないと自分の最低限のことさえ空虚に感じます。役に立っているというより精神安定剤です。
心の支えは、同じゲーム仲間だったりこんな風に拙い文章を書くことくらいです。それもだいぶつらいですが。
今度再就職しますが、決して良い結果にはならないと思っています。僕は、僕の中の子供をどうしても躾けられないのです。また同じ失敗をするのかと憂鬱です。
僕は普通の人のように振る舞えない、けれど亜人にもなれない。半端者です。
よく発達した発達障害の人がとてもまぶしい。
※このダイアリーは長文です
いきなりだが、次の一文を読んでみてほしい。
「私は世界でひとりきり」
さて、あなたはこの一文についてどのような解釈を持っただろうか。少し考えてみてほしい。
別に心理テストをしているわけでも何でもないのだが、自然に(1)の解釈を持った人は色んな意味で幸福な人生を歩んできて、今現在も歩み続けている人なんだろうと思う。少なくとも(2)の解釈を持ってしまうような人からすれば、そう思える。かくいう私は「ひとりきり」という言葉を聞いて「個性」よりも「孤独」を連想するタイプの人間である。
話は少し逸れるが、数年前まで週刊少年ジャンプで連載されていた「魔人探偵脳噛ネウロ」というマンガがある。知らない人のためにこのマンガをざっくりと紹介すると、「魔界から来たドSの魔人が女子高生を奴隷化して数々の難事件を解決していく」SMアクション謎ときマンガである。本能に忠実に従って爆弾を爆発させまくる主婦や直接注射すると筋肉ゴリゴリに変身できるスープを作るコック、自分でこしらえた家具を身体に装着して戦う家具屋など、常識の枠にとらわれない犯人が毎回登場することで少し話題にもなった。私は中学生のころジャンプを購読していたので、毎週このマンガを読んでいた。別に「魔人探偵脳噛ネウロ」が読みたくてジャンプを購読していた訳ではなく、「せっかくジャンプを買ったのだからついでに読んでおこう」程度の気持ちで読んでいたのだが、このマンガがあるエピソードに入ったとき(正確にはそのエピソードが終わった時)、私は強い衝撃を受けた。それは「こんなにも私の気持ちを代弁してくれるようなマンガがあるのか」というものだったが、その衝撃は今でも覚えている。人に「一番心に残っている作品は?」と質問されたとき、すぐに「魔人探偵脳噛ネウロ」と答えるくらいだ(作品自体がめちゃくちゃ好きというわけではないが)。
さて、猿のような中学生にそこまでの衝撃を与えるエピソードはどんなものかというと、以下のようなものである。
①探偵事務所に超有名歌手の「アヤ・エイジア」という人物が現れ、仕事を依頼する
②依頼内容は事務所で首を吊っていた彼女のプロデューサー・マネージャーへの警察による自殺判断の調査
③ネウロと主人公が探偵調査を行った結果、実はプロデューサーとマネージャーは自殺ではなく、他殺だった
⑤謎解き終了
私のミジンコレベルの要約能力では読者の方は恐らく何のことかサッパリ分からないと思うが、興味がある人は原作(2巻だったかな)をあたってみてほしい。
ここまで簡潔・適当に要約したのは、私が衝撃を受けたのはこの事件のトリックや謎解き、犯人ではないからだ。私が最も衝撃を受けたのは自身のプロデューサーとマネージャーを殺害したアヤの動機だった。動機については当日記の核心となる部分なのでもう少し丁寧に説明する。
アヤはある特殊な能力を持っている。それは「ある特性を持っている人間を、『歌』を歌うことで失神させる」というぶっとんだものである。では「ある特性を持つ」人間とはどんな人間かというと「自分は世界にひとりきり」と感じている人らしい。アヤによると、全ての人間の中の数%(正確な割合は忘れた)は先天的にこの特性を持っており、この特性はなかなか消滅するものではないという。そして、アヤ自身も「自分は世界にひとりきり」と感じる人間だった。彼女は「ひとりきり」であり、「ひとりきり」を完全に理解できたが故に「ひとりきり」の特性を持つ他人の脳に直接干渉・失神させることができたのである。彼女はこの能力を歌手としてフルに発揮し、数年のうちに全世界に名を轟かせる超有名歌手になった。
そんな彼女を影で支えていたのがプロデューサーとマネージャーだった。両人ともアヤがデビューしたての頃からアヤのことを親身に、時に厳しくサポートしており、アヤにとってはかけがえのない人物となっていたのである。しかし、彼らがアヤに近づけば近づくほど、アヤは「ひとりきり」という感覚を失ってゆく。彼らがかけがえのない人になればなるほど、アヤの能力は弱まり曲の売り上げも悪くなる。アヤは悩みに悩んだ結果、能力の消滅を恐れてプロデューサーを、その次にマネージャーを殺害した。2人が死んで「ひとりきり」の感覚を取り戻した後のアヤの曲は再び世界的に大ヒットするようになった。
孤独を感じない人間などいない。しかし、例えば恋人とデートしていても常にどこか心の中に相手のことを信じていない自分がいたり、友人とどれだけ楽しく話せていても心の中に高い壁があるように感じたり、家族と食卓を囲んでいるのになぜか他人と食事しているように感じたり…と、明らかに異常な場面・異常な頻度で孤独を感じる人がいる。少なくとも私は「ひとりきり」の人間だった。だからこそ、訳の分からないぶっ飛んだ謎解きマンガに信じられないくらいの衝撃を受けたのだ。今考えれば「中二病」と呼ばれる症状の一種なのかもしれないが、しかし20代中ごろを突っ走る今現在も、私自身の「ひとりきり」という感情は存在している。さすがにもう中二病は卒業していると信じたいのだが…。
私がなぜ数年前のマンガを扱ったこの日記を書くに至ったかというと、アヤと同じで「ひとりきり」の感覚を失いつつあるように感じたからだ。私はこれまで孤独とともに生きてきた。この孤独は常に1人であるという意味ではない、常に1人であるように感じてきたという意味だ(実際1人でいることが多いのだが)。1人でいると心が安定するので勉強や仕事も捗る。学生時代は1人でいたので受験には成功したし、そこそこの職に就くこともできたし、社会人になってからそこそこの仕事もこなしてきた。しかしここ1年ほどで状況が大きく変わった。職場でかけがえのない友人や心から尊敬できる上司と出会い、彼らとの交流を深めてゆく中で自分が「ひとりきり」でないように感じてきた。そして明らかに仕事の出来が悪くなった。きっと交友関係に無駄な時間を割いているからだと自分には言い聞かせている。
他人からすれば「ひとりきり」でなくなることは良いことだろう。しかし生まれてからずっと「ひとりきり」だと感じてきた私にとって、「ひとりきり」の感覚を失うことは自分自身を失うようでとても怖い。また、今はまだ問題の無いレベルだが「ひとりきり」でないことが生活にまで影響してきていること、さらに今後も悪化しそうなことも怖い。
もしこの日記を読んだ人の中でこのような精神病を知っている人がいればぜひ教えてほしい。
それにしても、私と同じように自分を「ひとりきり」と感じる人はどれくらいいるのだろうか…
大人になるとは、本来の自分の気持ちをひた隠しにすることだと考えて来たし、
世間に適応していくには、社会人として働いて行くためには、それが必要だと考えた。
行き着くところまで行くと、医師へ自分の体調の訴えが上手に出来なくなっていた。
いや、どうも心理テストによると、WAISなどの結果から発達障害の診断が下っているので、
心理的にも、自分の気持ちが、表現しないために分からなくなっているからだろう。
医師「そうですかぁ、それは大変ですね−。」
と言っても聞いて貰えて無い気がした。
「それは、逆流性食道炎でしょうね」と言われて。
薬を貰えた。ああ、話が聞いて貰えたと安心できる。
大脳が病を作り出す、大脳が不安を作り出すなんていうが、どうなのだろうか。
実際に、病がある場合があるし、
カードの裏を確定させる最小枚数を求めるのって、あるあるネタなんだけど、
これを気にパズル作家が増えると良いなと思ったので、パズル的な解説をします
(最近見た数学ネタは好意的だったけど、カード裏のネタは罵倒が並んでたので……)
要は、コレのことね。(クッキーブロックしてると見えないかも)
心理テストです。
あなたの目の前に4枚のカードが並んでいます。カードには、それぞれ「D」「F」「3」「7」と書かれています。
「Dの裏は7である」というルールがあるとして、そのルールが守られていることを確かめるには、— Rootport (@rootport) 2016年3月27日
これ、端的にいうと、条件が足りないか限定が変。だから、不正解の選択肢しか無い。
正解は、「D」と「F」と「3」をめくる。譲歩しても「D」だけをめくる、かな。
(あ、残念ながら「7」をめくる必要はない……)
Dの裏側にフナッシーが描かれてても、別に前提条件とは矛盾しない。
単に『「Dの裏は7である」というルール』に違反しているだけだ。
同じように「Fの裏にDがある」場合は、困ったことになる。
「D」「F」「3」「7」のカードと、「Dの裏は7である」というルールに、
何を限定したら、ルール確認の為のめくり最小枚数を2枚にすることが出来るか?
というのをパズルとして出題したい。
(一番簡単なのは「裏と表を区別しない」&「英字と数字は必ずペア」。でも、それ以外にもあるよ)
「D」「F」「3」「7」のカードと、
「全てのカードに裏表は無く、全てルールに従っている」と限定すると
「3」の裏は何になるだろうか?
例えば上の出題に『ただし「7」の裏が「D」とは限りませんと入れるべきか?』と日々悩むのが楽しいわけです。
ユニーク解(ただひとつの答え)になるような出題が美しいとは思うけど、別解があるか探すのも楽しみの一つ。
みんな、パズルを作るのって、他人のパズルを解くのと同じくらい楽しいよ!
「パズルは、出題の穴を探すのもパズル(ワザと穴を作るのも技術のひとつ)」なので
「元々の問題はこうなので、出題者がダメ」という意味ではありません。
思い込みを利用するのもテクニックなので、出題者が暗黙の前提を強要したらダメ。
それと、せっかくなので、ちゃんと元々の出題者の栄誉を称えておこう。
ピーター・ウェイソン(Peter Wason)の有名な4枚カードの問題は、
(日本人には)ちょっと理解しづらいので、出回っているものは改変されたものが多いです。
元々は4枚のカードそれぞれが、片方は「a letter」で、もう片方は「a number」が載っていて、
"If a card has a vowel on one side, then it has an even number on the other side."
『もしカードの片側に母音があるなら、もう片側には偶数がある』
って、ルールに従ってるか確認するのに、E, K, 4, 7を見せたらどうする?って問題。
(P. C. Wason, P. N. Johnson(1972) Psychology of Reasoning: Structure and Content (Cambridge,Massachusetts:Harvard University Press))
もう答えはわかるよね?
で、アメリカで有名な"Wason selection task"と呼ばれてる論理パズルは、こんなの
これも、もう答えられるよね?
さらに、社会的な関係性で見せると正答率がぐっと上がるってのを証明するために使われたのが、以下の改変版。
(Cosmides, L. & Tooby, J., (eds) (1992) The adapted mind: Evolutionary psychology and the generation of culture (New York: Oxford University Press))
だからまあ、改変版も進化心理学者のLeda CosmidesさんとJohn Toobyさんの出題だったってのは、書き添えておくのがパズル作家の義務になるかな。
(たぶんTwitterで出題してた人がタネ本孫引きしたときにはすでにわかんなくなってたんだと思うけど……原典にあたる人は少ないしね)