はてなキーワード: マンガ喫茶とは
余りにも病院に行けないから元気な夜のうちに病院近くのマンガ喫茶に前乗りすることにした
環境が変わると寝れないタイプだから漫画を読みまくろうと思うんだけど、普段あんまり漫画を読まないからわからない
オススメを教えて下さい
・読みたい漫画
メンタルに優しい皆善人悪い人のいない優しくて可愛い世界の漫画
もしくは
嫌なことを考える暇がなくなるような謎解きとかで頭が忙しい漫画
ブラックラグーン(着物の女の子が表紙の巻まで読んだ。今日続き読む)
ストレンジプラス(16巻くらいまで読んだ。今日続き読む→無かった)
鍋に弾丸を受けながら(ネット掲載されてない分今日読む→無かった)
弟の夫
犬のかがやき
・読めない漫画
①前向きにお仕事頑張ってます系、クリエイター頑張ってます系は今は無理
元気な昔はハチクロも東京トイボックスも楽しく読めたけど今は読めない
左利きのエレンとかひだまりスケッチとか気になってるけど今は読めない…
オススメ教えてください
・追記
マンガ喫茶ついた!
人の見分けがつかなくて挫折してしまったけど同じ作者のおたんこナースは好き
こっちはなぜか人の見分けがついた
・追記
マンガを読もうと思って加入したら全巻読めるのは稀だった。
環聖の「泪~泣きむしの殺し屋~ 」が8巻まで読めるのは良かった。
月980円分は高いと感じるので月末には解約する。
そのときにまた加入するかもしれない。
■『消えたママ友 (コミックエッセイ)』野原 広子 (author)
おすすめ。
丸書いてちょん。
みたいなキャラしか出てこないのにミステリーエッセイのジャンルで一位だったから読んだ。
失踪したママ友とその友人らが知ってる断片的な情報をつなぎ合わせて行方不明の原因を探っていくミステリーになっている。
身近なご家庭ミステリー風味。
誰も真相にはたどりつかず、Good End後のTrue Endで種明かしがされるのもお約束。
お気持ち表明は陳腐化してつまらんのだが起承転結がきっちりしていてよかった。
小説形式だったら読むのも億劫なつまらん物語だが、絵で女社会の面倒くささの「空気」がよく出せている。
基本的に人間不信で言葉一つで関係が壊れる女たちが集まってコミュニティを形成している。
■「顔で選んだダンナはモラハラの塊でした (コミックエッセイ)鳥頭ゆば (author), モグ (other)」
恥を公開して金儲けにつなげる強さがあって大変元気で頼もしい。
こういうの読んでると子連れの女同士で結婚してきっちり家計と家事分担して生きていけばいいんじゃねーの?と思ってしまう。
今読んでる
絵はポストカードみたいで可愛いが自分は動物はそんなに好きではない
3Pであきた
仕事を終え20時前に帰宅し、一人で夕食を食べながら嫁と適当に会話をする
だが嫁は知らない
私が定時に退社し新大久保のイメクラでセーラー服のコスプレした20代の女の子と一戦交えたあとであることを知らない
昨年10月から取引先へ外部出向となり、毎日定時で退社出来ることとなった
まっすぐ帰宅するのはもったいないので、嫁に内緒で毎日マンガ喫茶に行ったり、パチンコに行ったり、風俗に行ったりしてから帰宅をしている
出向先での時間外勤務は自己申告なので、毎日2時間くらい残業をしているように申請している
虚偽申告でせしめた時間外手当で風俗に行き、何事も無かったかのように帰宅して普通に振舞う
この一連の流れが本当に楽しい こっそり悪いことするのって本当に本当に楽しいんだよね
クレカのキャッシング枠で引っ張ったお金をパチスロで溶かしてるみたいなあの状況
「ああぼくは今、本当に!悪いことを!している!!」という充実感
虚偽申告バレたら懲戒解雇なんじゃないの? バレっこねーよ なんかあってもテレワークって言い張れば問題ナッシング
この時期に風俗で濃厚接触って新型コロナやばくね? キャバクラやピンサロはまずいけどデリは1対1だから低リスクだっつーの
僕は大学を出ていない。美術系の専門学校を出ていて今は工場に勤務している。
専門学生の時は17時まで学校で18時〜22時までがマンガ喫茶でアルバイトの繰り返しの日々だった
飲み会やサークル、ゼミの話に全くついていけなくて話題にも入れなくて辛い
のは言い訳にはならんのでしょうか
お酒も飲めないし、上下関係の大切さもイマイチよく分からない。
思えば小学校 中学校 で不登校だったのも影響があるかもしれない。
仕方ないよね、世の中は結局 ちょい平均より上の人生が基準になっているもんね
普通ってなんだよ。皆んなの普通は俺には受け入れがたいよ 。頑固だって言われても、頭が固いなんて思われても俺は俺なんだよ。
そういう人間なんだよ。うんちなんだよ💩
腑に落ちない出来事の数々
加藤麻子は1970年に名古屋市千種ちぐさ区(当時)の猪子石で生まれ、4歳のときに今の実家がある郊外に引っ越してきた。父・義太郎と母・江美子の一人娘である。地元の高校を卒業した後、父親の紹介で地元の塗料関係の商社に勤めた。
会社で知り合った男性と20歳の若さで結婚、2年で寿退社をすることになる。新居は最初は賃貸で借りていたが、麻子の実家の隣の売りに出ていた中古住宅を両親が買い取り、そこで結婚生活を送るようになった。しかし、夫が同じ職場の女性と浮気していることをすぐに麻子は知ることになり、ほどなくして不仲になってしまう。それが原因で、半年間にわたって家庭内別居のすえに正式に離婚したのが1999年の夏のことである。
実家とは庭を通じて行き来できる構造になっているが、よもや隣家では娘夫婦が家庭内別居生活を送っているとは知るよしもなかった。夫婦は子どもができないため、不妊治療に通ったり、夫も生殖検査を受けるなどをしていた。麻子は地元のレンタルビデオ屋でパートをやりながら主婦業を続けていたが、離婚後、外に出ることも多くなり、地元の眼鏡店やホテルのバー、漫画喫茶等でアルバイトをするようになっている。その頃から、アルバイト先を正確には両親には伝えていなかったが、パソコンを使えないと仕事ができないからと、パソコン教室に通っていたこともあった。
漫画喫茶「B」で働きだしたきっかけは、離婚後、自分でさがしてきたということしか両親は知らない。当初は名古屋市緑区に麻子は通っていたが、やがて中川区へ同店が移るというので麻子もいっしょに中川区へいくと両親は聞かされた。働きだした頃は1時間半以上かけてクルマで通っていて、店は24時間営業だったこともあり、シフトについていくためにやがて麻子も中川区に最初のアパートを借り、のちに行方不明になったワンルームアパートへと引っ越した。実家に住んでいたのは31歳までだったから、親元を離れてから、何らかの「事件」に遭遇して行方不明になるまで10年ちかくが経過したことになる。
その間、麻子の両親は娘の経済状況をひたすら案じ、できる限り援助をしてきた。生活費が慢性的に足りず、困窮していることだけはわかっていた。ことあるごとに、「(生活は)やっていけるの?」とたずねても、「やっていける」という返事がいつも返ってくるだけだった。
麻子の両親はこの約10年間で物品合わせて相当額の援助をしてきたが、親が麻子のためにかけていた保険を担保に数十万を借りていたことが判明したときは、江美子があわてて問いただすと、「友達のお母さんが入院しているから、その子のためにおカネが必要だった」と言い訳をした。麻子はサラ金から借金を重ねた形跡もあった。
のちに警察から両親が得た情報によると、事件が起きる1年ほど前から「B」から給料は出ていなかったらしい。つまり、ただ働きさせられていた可能性が高い。たしかに両親はそれまで一度も給料の明細書を見たこともなかったし、勤務シフトも見たことがなかった。
もしアルバイト代が出ており、両親が援助をしてきた額があれば十二分に生活はできたはずなのに、どうして多額の金銭を調達する必要があったのだろうか。
あるとき、「漫画喫茶の営業の権利を買いたい」と麻子が言い出したことがあった。「B」のオーナーである杉本恭教が売ると言っているらしい。両親は漫画喫茶なるところがどういう仕事なのかを知らなかったため、麻子が実家の近場にあるマンガ喫茶に連れて行った。
提示されていた値段は1500万円以上だったが、そんなにするはずがないと両親は訝った。麻子は結婚生活をしていた住宅を担保にしてほしいとまで言い出した。そういう多額の用立てを麻子はそれまでに何度か頼んできたことがあったが、両親はまともに取り合わなかった。
麻子が姿を消してから、麻子にまつわる腑に落ちない出来事を両親はいくつも思い出すようになった。たとえば、事件から3年ほど前に麻子がたまたま実家に帰ってきたとき、ゴミ袋を持ってきていた。江美子は、処分してほしいと頼まれた。分別する必要があったためゴミ袋を開けたところ、請求書やサラ金の借用書が出てきた。江美子がサラ金の借金に気づいたのはこのときである。ガソリン代や本人以外の携帯電話の請求書や領収書も多かった。携帯を複数台契約していることを麻子に問いただすと、地方から出てきた「B」のアルバイトの子が未成年のため契約できないから自分が代わりにしていると答えた。
どうやら、「B」のオーナーに頼まれてやっているらしいとにらんだ江美子は、直接私が断りを入れてあげるから解約しなさいと言うと、なぜか麻子は頑なに拒んだ。その後も何度も口を酸っぱくして解約をするよう諭したため、いったんは解約したが、また契約をし直していた。麻子はどうして、4台もの携帯電話を契約していたのだろうか。
マンガ喫茶元経営者夫婦逮捕 名古屋女性店員不明(2013/04/22 05:50)
去年4月から行方不明になっていた名古屋市の女性店員の遺体を捨てたとして、警察は、女性が以前勤めていたマンガ喫茶の元経営者夫婦を逮捕しました。
死体遺棄の疑いで逮捕されたのは、名古屋市のマンガ喫茶の元経営者・杉本恭教容疑者(47)と妻の智香子容疑者(45)です。
警察によりますと、杉本容疑者らは去年4月、経営していたマンガ喫茶で以前働いていたアルバイト店員・加藤麻子さん(41)の遺体を愛知県南知多町の山林に捨てた疑いです。
警察は、19日にミイラ化した遺体を見つけ、歯形鑑定で加藤さんと断定しました。
杉本容疑者らは「遺体の処理に困った」と話しているほか、殺害をほのめかす供述もしていて、警察は殺人の疑いでも調べる方針です。
名古屋市で去年から行方不明になっていた41歳の女性の遺体が愛知県内の山林で見つかり、警察は21日、女性が以前勤めていた漫画喫茶の元経営者夫婦を死体遺棄の疑いで逮捕しました。
警察によりますと夫婦は女性の殺害についても認める供述をしているということです。
警察によりますと今月19日、愛知県南知多町の山林で女性の遺体が見つかり、去年4月から行方が分からなくなっていた名古屋市の加藤麻子さん(当時41)と確認されたということです。
警察は、加藤さんが以前アルバイトをしていた漫画喫茶の元経営者夫婦が任意の調べに対して「遺体を遺棄した」と話したため、去年11月から山林周辺の捜索を続けていましたが、遺体が発見されたことを受け、昨夜、この夫婦を死体遺棄の疑いで逮捕しました。
逮捕されたのは、杉本恭教容疑者(47)と妻の智香子容疑者(45)です。
これまでの調べに対し、夫婦は加藤さんの殺害についても認める供述をしているということで、警察は殺人の疑いでも調べることにしています。
長くなったので分割したやつのつづき。前のは → https://anond.hatelabo.jp/20180402204454
11話まで。
「よりもい」ってのは「宇宙よりも遠い場所」のひらがなの部分だけを読んで「よりもい」。この手の略称は「はがない」以外に定着した試しがない。
正直にいうとストーリーはそれほど好みじゃない。序盤で「わたしを馬鹿にしやっがって、ざまあみろ!」みたいなシーンがあったけれど、なんとも思わなかった。
ツイッターで「抑えるべき感情をあらわにした、その正々堂々たる姿勢に感動した」という旨の感想を見て、なるほどなあと思った。
あのシーンに感動しなかった理由はふたつ。ひとつは、単純にああいうストレートな物言いをあまり好まないこと。
もうひとつは、情熱に満ちた人を小馬鹿にする人間というのは、自分の言ったことをたいして覚えていない、深く考えないことがほとんどだから、「ざまあみろ!」と言ったところで、「クソ!してやられた~!」なんて思わないということ。何事もなかったかのようにスルー。いじめられた側はいじめの記憶が脳に焼きついているけれど、いじめっ子はまったく覚えていないことがよくある、というのに似ている。
こんな考えだからか、ストーリーにはあんまり入っていけなかったし、最後どうなるかがそんなに気にならない性格なんでラスト一歩手前で視聴終了。じゃあ、なにを観ていたかというとアニメーションの出来の良さとギャグシーンだ。
まず、キャラデザ。美形のキャラと美形じゃないキャラがちゃんと描きわけられている。かといって、美形じゃないキャラもちゃんとかわいく描かれている。このバランスの良さがすごい。
つぎに、テンポの良さ。軽すぎず重すぎず、適度にギャグシーンが挟まれ、見やすさと納得感をうまく両立させている。最後に映像の鮮やかさ。地味なシーンでもアニメーションの鮮やかさが加えられ、青春の輝きがうまく描写されている。
まあ一言でいうと、マッドハウスのアニメーションが好きだなあ~!ってことだ。マッドハウスは好きなんだけど、なかなか好みの内容のものをやってくれないからフラストレーションがたまる一方(森見登美彦はもういいよ……)。でもマッドハウスにはこれからも期待してるし楽しみにしている。
七話まで。
アクションシーンは手間がかかっているわりに楽しくないし迫力もいまいち、もっさりしているように感じた。コクピットの露骨なエロ要素は、変に視聴者を絞っているだけだからやらないほうがいいし、やるならもっと徹底してやってほしい。
一話から六話までのストーリーは主人公の挫折と苦難と達成の話でそれはいいんだけど、スランプに悩んでいてそれを解決しようと積極的に行動している主人公が、うじうじしているように見えるのはもったいないと思った。
設定をつくり込んでいるのは好意的に見ると察することができるけど、画面からその設定の奥行きが匂ってこない。なにかのメタファーっぽい設定(パラサイトと呼ばれるパイロット、男女がエロ態勢で操縦するロボ、パパと呼ばれる上層部など)もそんなのもういいよ……としか思えない。
いまどき、うじうじして許されるのはシンジ君くらいだし、メタファーをやって許されるのはイクニ監督だけだ。つまり九十年代の覇者の特権だ。
あと、キスってなあに?ってのは古臭いしEDのセンスもちょっと古い。大人と子供がどうたらってのもどうでもいいし七話の展開はいまさら一話みたいな展開をしてどうするさっさと話をすすめてくれ一話完結だとしてもおもろくねえよ次回予告を見ても話がすすみそうにないしもういいや。
たぶん深夜アニメを見慣れていれば見慣れているほど中途半端さを感じるんじゃないかと思う。
七話まで。
留年という萌えにまったくつながらない設定をどう調理するんだろう?という興味で観つづけたけど、余計な設定でしかないというのが結論だ。
留年設定もそうだけどキャラの関係性もいまいちだし、話の起点が留年以外になにもなく、その結果、下ネタに頼らざるを得なくなるという始末。日常系で露骨なエロは悪手だ。
あと、無駄にもにょもにょ動いてたのはなんだったんだろう?その八割以上がかわいい動作でもないし、演技でもなかった。手間をかけていたわりに作品の魅力に全然つながっていない。
この作品は、かわいければそれでOK!という萌え玄人にしかおすすめできない。
六話まで。
バトル系のラノベアニメとしてよくできていると思った。展開は少年マンガのように熱いし、将棋のことをほとんど知らないから解説の多さも鬱陶しくないどころか、ありがたく感じる。
ローキューブが切り開いた(?)ネタ系のロリも貪欲に吸収していて、作品のエッセンスになっている。念のためにいっておくが、作者はロリコンではない。将棋とロリ系作品を研究した成果がこの作品だ。
でも、いまいち好みじゃなかった。窮屈さを感じた。
どういうことかというと、ありえなさそうな、おもしろい設定・状況のほとんどに現実の将棋界の根拠があるのがなんか嫌だった。
たとえば、マントをつけて試合に挑む棋士。ありえねえ~とおもしろがっていたら、どうもこれは将棋ファンならだれでも佐藤天彦名人が元ネタになっているとわかるらしい。
ほかにも、試合中に喋りまくったりするのも一応は可能らしいし、一番ありえなさそうな、女子小学生が住み込みで弟子入りですら実例があるらしい。用意周到すぎる。
なんでこんなに用意周到に現実とリンクさせてるかっていうと、現実の将棋界がおもしろいからってのももちろんあるけど、ネット上でのツッコミ(叩き)を避けるためだ。
ありえない設定・状況・展開に「こんなのありない!現実的ではない!このアニメは糞!」となんの考えもなしで書き込む輩が大量発生するけれど(ここ五、六年でさらに増えたような気がする)、それを避けるためだ。こういういまの状況は窮屈だ。木を見て森を見ないどころか、木も森も見ず、枝がたった一本折れているのを見ただけで、みんなで寄ってたかって糞!糞!と叩きまくる。SNSの時代の窮屈さ。それに巧みに順応している原作小説ひいてはアニメ作品にも窮屈さを感じてしまった。
七話まで。
一言でいうと萌え以外のポテンシャルが低めのダリフラ。設定を詰めこみすぎて、うまく回せていない。
とくに序盤はダメで、いちおうフックらしきものはあったけれど雑然とした展開の犠牲になっていたし、急な展開に無理やりキャラが動かされている印象があった。やっぱ序盤でコンセプト・ストーリーの展望をはっきり打ち出すのは大事だよ。
それでもなんとな~く観つづけたのは古き良き萌えアニメの匂いを感じたからであって、途中からストーリーや設定が見えてきたものの、なんとな~く観るのをやめてしまった。
でも嫌いじゃないし録画はまだ残しているし、春アニメがつまらなかったらなんとな~く視聴を再開するかも。
五話まで(一話未視聴)。
ネットでの評判がよかったのでひさしぶりにプリキュアを観てみたけれど、なんかいろいろテーマ性やらメッセージ性やらが、これでもかとてんこ盛りで鬱陶しかった。
力のプリキュアがフィジカルの問題で苦悩する、つまりみずからの強みが強いがゆえに自分自身を苦しめる、というのは女児向けアニメには難しすぎるよ。
でも、今年のプリキュアが世の中の大半の教育者よりもまともなのはよくわかった。道徳教育よりは断然まともなんで、作中キャラと同年代の中学生に観てもらえればいい影響があるんじゃないかと思う。
こういうことを書くと、子供を馬鹿にしすぎだ、完全に理解はできなくともなにか大切なものは伝わるはずだ、とか言う人がいるけれど、ガキの頃に観た「オトナ帝国の逆襲」になにか大切なものを感じたかと問われれば「とくに感じなかった!」と言い切ることができる。たしかに、しんちゃんが東京タワーを駆け上るシーンは印象に残ってたけど、ただのお涙ちょうだいモノとの区別がつかなかった。まあガキだったからしかたない。「オトナ帝国」で感動・感心するのは大人だけの特権だ。
子供が楽しんで観れて、大人も唸るテーマ性・メッセージ性を組みこむバランスは、女児向けアニメのなかではやっぱり「プリパラ」が頭ひとつ抜けてうまい。とくに、このあいだ最終回を迎えた「アイドルタイムプリパラ」の後半部分の夢を巡る物語はとくにうまかったと思う。
アニメ作品としては良作になるのかもしれないけど女児向けアニメとしてはちょっと間違っていて、キャラデザが萌えに寄っていて好みだっただけに残念だった。
【小泉さん】二話まで。食べるとき不必要にエロい顔するのいい加減やめてください。ラーメン屋行ってとなりにああいう奴がいたらどう思うよ?
【バイオレット】二話まで。京アニの高級感ただようアニメーションが好きな人は好き、嫌いな人は嫌いってだけの、ある意味とってもわかりやすい作品。
【シトラス】二話まで。百合という枠・様式に甘えすぎ。内輪で評価されても外では通用しない。
【ビートレス】二話まで。この原作小説をアニメ化するのに必要なクオリティが全然足りていない。まあディオメディアだしね……。原作ファンには同情する。
【たくのみ】二話まで。こういう雑学系のやつはマンガで事足りる。あと不必要にエロくするのはいい加減やめてください。
【戦記】二話まで。硬派なの?軟派なの?どっちかに振り切ったほうがいい。サクサク進みすぎて戦記物なのにあっさり感がある。
【ハクミコ】三話まで。マンガ喫茶で既刊全巻読んじゃった。そのほうが手っ取り早いしおもしろい。
【恋雨】三話まで。マンガ喫茶で既刊全巻読んじゃった。そのほうが手っ取り早いしおもしろい。
【メルヘン・メドヘン】二話まで。ダメなアニメ化の典型。二話までの展開は20分あれば余裕でやれる。「俺様ならもっとおもしろくアニメ化できるぜ!」なんてズブの素人に思わせちゃいかんだろ。
漫画喫茶に限らず、お店等に置いてある本を「お客さんが店内でタダで見る行為」
ただ「お店にある本を読む」行為については取り決めはないのです。
なので漫画喫茶は、お客さんが本を読むたびに出版社などにお金を払う必要はないですし
喫茶店や食堂・美容院・待合室などに週刊誌や新聞を置く場合、許可もお金も不要です。
本屋の立ち読みもOKなのです。詳しくは下記サイトなどをご覧ください。
●特集:マンガ喫茶と著作権を考える(「B館」極私的マンガウォッチングさん)
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kouji/mkissa1.htm
※ただし下記判例によれば貸本には当たらず、「店内での閲覧」になるようです。
似非科学というのはいつの時代もなくならないものだ。パッと思いつく例だけでも、血液型性格診断、ゲーム脳、環境ホルモン、水素水、マイナスイオン、等々、枚挙に暇がない。多くはマスコミによって支持され、テレビ番組で特集が組まれ、その科学的根拠があいまいにも拘らず世間に流布されて浸透する。テレビ番組などはあたかもその説を「検証」しているかのような映像を作り、怪しい肩書の専門家のコメントを添える。視聴者の多くはなんとなく「科学的に証明されている説なんだ」と信じ込み、疑問を持つことなく受け入れてしまう。一億総白痴化社会の完成である。最近はネット上で多くの意見を比べて読むことができるので、情報収集能力の高い人たちはそこまで騙されやすくないとは思うが、未だテレビや新聞が主な情報源である人たちにとっては、上述の似非科学が今でも信じていることが多い。特に血液型性格診断などは、宗教のように信じ込んでしまっている人も相当数いるだろう。
私も子供の頃はこれらの似非化学に騙されやすい人間だった。最近はほとんど見ないが、昔はテレビが娯楽の中心だったこともあり、夕食時などはよく見ていたものである。特に、捏造問題で打ち切られた「発掘あるある大事典」などは、親が好きだったこともあって毎週見ていた。その中で血液型性格診断の特集を何度か行っていたことは、今でも何となく覚えている。番組の中で「数名の幼稚園児を血液型別に分類してその行動を観察する」という検証が行われており、ものの見事にその血液型の特徴が行動として現れていた。見ていた私は「やっぱり血液型と性格には関係があるんだなー」とぼんやりと納得していたが、今になって思い返してみれば数名の幼稚園児の行動で結論を出すのは早急すぎるし、番組が「○型かつ××な性格」の幼稚園児を数名集めることなど造作もないことだし、そもそも集められた幼稚園児の血液型が本当に表示通りだと証明する根拠は何も無い。極めつけはあの「あるある」である。そういえば「あるある」はマイナスイオンの特集も何度かやっていた記憶がある。まあ、放送内容の真偽を検証するのは今となっては不可能に近いことだからやめておくにしても、心理学会において血液型性格判断の真偽は何度も検証されており、いずれも関連性を肯定するものがないことから、かの理論が出鱈目であることは疑いようがないだろう。
しかし、科学的価値は小指の爪の垢ほどもない血液型性格診断であるが、この似非化学が私に教えてくれたことが二つある。それは「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」ということと「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」ということだ。付け足すなら、当時私はまだ純粋なティーンエイジャーだったので、「大人は平気でうそをつく」ということも学んだと言えよう。
私が初めて血液型性格診断を反証する意見に触れたのは、中学二年生のことだったと記憶している。当時別段読書が好きでもない(むしろ嫌い)だった私が、たまたま休み時間に図書館に立ち寄り、ふと目に留まった一冊の本を手に取ったのがきっかけだった。それは村上宣寛という方の著書『「心理テスト」はウソでした。受けたみんなが馬鹿を見た』(2005、日経ビジネス)という本である。新作であったこの本は本棚の上に表紙が見えるように立てられており、そのセンセーショナルなタイトルに興味を惹かれたのを覚えている。
10年以上前に読んだものであるためにうろ覚えな部分もあるが、本の内容は大きく2つに分かれていた。前半が血液型性格診断への反論、後半はまた別の心理テストへの反論が主であった(後半の内容は忘れた)。本文の中で、今日の血液型性格診断の源流である能見正比古氏の著書をけちょんけちょんに貶し、また血液型性格診断のような「占い」を人に信じ込ませるための心理テクニックである「バーナム効果」についても詳しく説明があったと記憶している。
当然、本の内容は著者の考えであり、本の内容が絶対的事実であるとは(今となっては)思わない。しかしこの本の内容は、血液型性格診断が科学的根拠のある学説だと何となく思い込んでいた私にとっては、とても衝撃的な物であった。血液型性格診断そのものというより、これまで固定観念的に信じ込んでいた常識が、脆くも崩れ去った瞬間で、まさしく目から鱗であった。活字嫌いな私が、数日図書館に通って本を読んだのは、(マンガ喫茶を除けば)後にも先にもこの時だけであろう。「借りて読めよ」と言われるかもしれないが、当時の学校図書館のルールで、新作は借りれなかったのである。
新しい知識を得たら人に言いふらしたくなるのが能のないアホウドリの常である。当時は全盛期こそ過ぎたものの、血液型性格診断は世間一般に根付いており、それを否定する論調は(少なくとも大手メディアでは)ほとんど存在していなかった。要するに「他の誰も知らないことを自分だけが知っている」ような状況だったのだ。腕のケガだと偽って毎日手に包帯を巻いて通学していたリアル中二病の私にとって、これほどドヤれる材料は無い。とは言え、何の脈絡もなく血液型性格診断の話をするのも変である。友人との会話の中で血液型の話が出てくるのを待ち、出てきた瞬間にこれでもかと否定する。それによって「頭が良い奴」と思われて皆からちやほやされる。正に完璧な計画だった。
ところが、実際に反論してみたところ、いずれもあまり芳しくない結果に終わってしまった。どや顔で血液型性格診断を否定しても、「でも何となく合ってる気がするし…」と、決まって歯切れの悪い反応しか返って来ないのである。挙句教師からも「屁理屈ばっかりこねるな」と言われる始末。今となってはどちらが屁理屈なんだと思わざるを得ないが、確かに思い返してみれば、血液型の話でわいわい盛り上がっている時に、キモいデブがどや顔で否定して来たら、場が白けてしまうのは明白だろう。要するに私の敗因は、イケメンではなかったことである。
冗談はさておくにしても、それ以降、私は血液型性格診断の話が出てきた時、余程仲の良い間柄でなければ、ニコニコして受け流すようにした。まさに2017年現在でも血液型性格診断肯定論者の方が言うところの、「否定する奴はモテない」という説を支持する対応であった。情けないとは思うが、当時ただでさえ友達が少なく、これ以上周りから孤立するようなことは避けたかった私を責めることなど出来るだろうか。ちなみに今は目上の人でなければそれとなく否定している。相変わらずチキンであった。まあ、事実は事実として、TPOに合った会話合わせというのは必要だと思っている。
そこで私が学んだことが、先の「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」の二つだ。血液型性格診断を信じている人に、上述の心理学会の話や、バーナム効果の話をしても、決まって返ってくる言葉は「でも何となく当たってる気がする」「私の周りでは当たっている」と言ったものだ。査読のある学術誌に投稿された数千人規模の調査結果よりも、自分の身の周りの数名の事例を優先するのである。当然その事例には得てして強い確証バイアスが掛かっているのだが、本人はそれに気付くことができない。「客観的事実よりも自分が信じたいことを信じる」典型例である。
これは、似非化学に限らず社会の中のあらゆる現象に対して言えることである。例えば昨今、「若者の○○離れ」という言葉をよく耳にする。○○の中には、テレビ、新聞、車、バイク、酒、読書など、ありとあらゆるものが入り得る。そして、その原因は大抵若者に帰着させることが多い。「最近の若者は人との関係が希薄だから酒を飲みながらのコミュニケーションをしないのだ」とか、「世間や政治に対して無関心だからテレビや新聞を見ないのだ」とか、とりあえず若者を悪者にするような結論が多いが、決して「社会の変化によってニーズも変容し、製品価値が相対的に下がった、すなわち製品自体が時代の変化に追いつけなくなったのだ」といったような、自らに責任を帰着させることは決して言わない。やはり自分が信じたいことしか信じていないのである。
また、血液型性格診断を信じている人の共通点として、否定しようとすればするほど攻撃的になって反論するというものがある。先の中学生の時の教師がその典型例だろう。理論的な反論が出来なくなると「屁理屈をこねるな」と論点をずらして逃げるのである。「否定する奴はモテない」というのも同様で、血液型性格診断の真偽について反論しているのに、「モテるモテない」の話にすり替え、さらに相手を「お前は場の空気の読めないモテない人間だ」と罵倒しているのである。そうなってしまうと、もはや冷静な会話は成り立たない。こちらがいくら事実を述べても、返って来るのは罵倒だけであり、最終的に相手が逃げてしまうのである。そこに残るのは無駄な時間の浪費と徒労感だけで、何ら生産性のない労力を費やされることになる。
こちらもやはり社会全般で言えることだ。例えば「若者の犯罪はゲームやアニメによる影響だ」などの持論を展開する人に、「若年層の犯罪率は年々下がり続けており、反対にゲームやアニメの市場は伸び続けている。」と反論しても、恐らくその後は謂れなき若者批判と罵倒くらいしか返って来ないだろう。論理的な反論を受け入れられない人間にとっては、実は事実などどうでも良く、会話を勝ち負けを決める手段としてしか考えていない。そして自分が負けるのが嫌だから、最後は子供のような罵倒に終始し、逃げてしまうのである。こういった手合いは、「自分の非を素直に認められない」ことも共通点と言えるだろう。人間であれば誰しも少なからず負けず嫌いな側面は持っているが、この手の人間は特にその傾向が強い(と何の統計的データもなく私の主観でそう思っている)。
似非科学のような嘘を信じ込んでいる人は、宗教の信者に近い。もちろん宗教を否定している訳ではない。宗教というものは、「事実か否かを証明する術がない」にもかかわらず、「否定は許されない」というのが特徴である。これ自体は別に悪いことではなく、「鰯の頭も信心から」と言うように、それを信じることによって本人の精神的支えとなるのであれば、それで良いと個人的には思っている。客観的に証明できなかったとしても、個人の中で信じていれば問題はないのである。ただし行き過ぎると他者に対する不寛容に繋がり、戦争や弾圧に容易に発展してしまうため、注意は必要である。仏陀とキリストと「顔を描いてはいけないあの人」の誰が一番偉いかというような論争は、決して行ってはならないのである(仏陀とキリストが同じアパートの一室で生活しているマンガはあるが)。
「宗教」と「似非科学」の明確な違いは、前者は「事実かどうかわからない(事実であることに重きを置いていない)」のに対し、後者はそれが「明確な嘘」だということである。明確な嘘を流布すれば、社会に対して損害が生まれる。血液型性格診断であれば、近年問題になっている「ブラハラ」なる差別を生じる。ゲーム脳であれば、本来何も悪くないゲーム会社が風評被害を受ける。水素水であれば、医学的根拠のないただの水を健康に良いと信じ込んで高額な値段で買わされる消費者が現れる。そして、損をする人の裏側では、他者を騙して得をする悪人も存在しているのである。大抵は嘘っぱちの本を書いた奴とその取り巻きだ。
だからこそ似非化学は撲滅しなければならないし、似非化学の考案者やそれを流布するメディアは批判されなければならない。日本は表現の自由が保障されているから何を言おうと自由であるが、それはあくまで公序良俗に反しないことが前提であり、嘘によって不正な利益を得るのは詐欺である。表現に対して批判を行う自由もあるのだから、客観的に見て明らかに事実と異なる論説に対しては、毅然とした態度で批判すべきである。
そして、一般消費者である我々は、常にその情報が事実であるか否かを見極める努力が求められる。媒体を問わず、メディアは平気で嘘をつく。他人に言われたままのことを信じる人間は、その情報が誤りであった場合に他人に責任を求めがちである。何が正しいか自分で判断し、自分の責任において選択する力こそが、情報化社会を生き抜くために必要なスキルと言えるのではないだろうか。