はてなキーワード: 若者批判とは
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彼は外国人の話し方の真似をしてるんではなく厳密には外国人インフルエンサーの"キャラ"を真似してる。「オマエラニ、オシエテヤル」が彼女の売り。すぎちゃんの「〇〇だぜぇ〜」と同じ。タレントはキャラを作って世間に売って有名になる。だから彼のは彼女のオマージュ。
若者批判するならわかるけど、山本太郎だけ叩くのは筋が通らんわけやね
https://www.tiktok.com/search?q=%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%A0%E3%82%88&t=1730436771040
やっぱり年齢層とか考えても、左のおっさんおばさんばっかりなんだなあ
安倍が死んだ後に「酷い政治家だったが」とか叩きつつ哀悼の意を表している振りをしているコメントばかりで大量のスター
まあそういうところであると知ってはいたけど、自分たちがもうマイノリティであるということもこの人らは知らんで叩いてるんだろうなあって
あ、それはおかしいとか、今の若者批判とかはどうでもいいです。そこ論点じゃないんで
こういうコメントばっかり見るとますます安倍批判するぶくまかの人らは若者に嫌われるだろうなあ
俺たちは正しいんだ!!!という論調で頑張ってるブクマカの人達が今や少数派である事に自分たちで気づいてないの、哀しいねえ
まあ頑張ってその思考を広めてみてね
言い方があまりに今の若者が嫌う言い方すぎるんで、ますます嫌われて理解されないだけと思うけど、ここで傷をなめ合って世間は愚かだと喚いといてくれ
自民が嫌いな人もいっぱいいるよ
自民を批判はしても安倍さんを民主主義の破壊者だ!みたいに言う奴はあんまおらんで
今も会長の価値観が色濃く、上のほうは酒・タバコ・ゴルフでつながった旧来型組織。
社長交代後も、役員勢は会長といっしょに価値観をはぐくんできたメンバなので、会社方針はそうそう変わらない。
社長も外部抜擢ではあるけれど、元々会長の飲み友達。(ただ、会長よりはだいぶ価値観がマシ)
酒の場で物事を決め、酒の場で情報リークしてしまう会長は、会社の一番のセキュリティホールともいわれるとかなんとか。
女性活躍推進法に基づく一般事業主行動計画をつい最近まで掲載していなかったし、やっと掲載された行動計画もお粗末な内容。
(ぜひ見てみてほしい。探すのも大変だが、やっと探してPDFを見たときに脱力する。一部上場企業だぞこれ)
新卒採用のサイトでは、女性向けのマミートラック完備の旨が明記されている。
人事が制度改革を頑張っても、会長の価値観の強い上のほうで却下される構造。
なお、会長はワークライフバランスも大嫌いで、例のコラムにもその旨を繰り返し書いている。
深夜まで働いてそのまま飲みに行って、また会社に戻って、そうしてできたのが自分でありこの会社であり、
ライフを大事にしたいなどという今の風潮はふざけている、という考えだ。
この価値観から、深夜休日に会社にいる人ほど評価されるし、残業という概念がそもそもない。
結局酒・タバコ・ゴルフの縁がないと役員に顔が覚えられることがなく、評価されないので、
優秀な人ほど、まともな価値観の他社へ移ったほうが良いからだ。
会長含め役員勢は女性登用の風潮が大嫌いだ。なぜなら、本当に優秀な女性はおのずから目立って出てくるはずで、
と思っているが、実際には優秀な女性は、会社を離れていっているので、いないように見えるだけというわけだ。
これを機に会長色が薄れてくれたらよいのだが。
ブクマでも誰かが書いていたが、あの連載も教養深く面白い内容だったのが、
ここ数年は海外行脚自慢と昔話、若者批判ばかりになって、しんどくなってきていたし、
口を開けば創業時のあの頃はすばらしかった話ばかりで、未来の話を全くしないし、
なんというか、あれだけ世の中に変化を起こした人が、変化についていけず硬直していくというのは、見ていて本当につらい。
「最近の若者は~」で始まる若者批判は、いつの時代もなくならないものである。50代くらいのサラリーマンが、居酒屋でビールを飲みながらくだをまく様子がありありと思い浮かぶ。きっと彼らも30年位前に同じようなことを言われていたのだろう。
しかし、批判の対象となっている「若者」の中には、こう思っている人も多いだろう。「この『若者』とは果たして誰のことを言っているのだろうか?」と。
例えば、「最近の若者は根性がない」などという話を、仕事や勉強に頑張っている若者の前で言っても、白い目で見られるだけだろう。または、「最近の若者は向上心がない」と、若い起業家が集まるセミナーで言えるだろうか?
そもそもそういった「若者批判」をする人たちは、どれほど若者と接しているのだろうか。おそらくは自分の身の回りにいる数名だけではないだろうか。その数名がたまたま出来が悪かったり素行が悪かったりした時に「最近の若者は…」という思いが湧くのだろう。非常にくだらない話である。
そういった批判をする人たちが、「最近のおじさんは電車で痴漢ばかりしている。おじさんは皆性犯罪者だ」と言われたり、「最近のおばさんは気に入らないことがあるとすぐクレームを入れる。おばさんはクレーマーだから気をつけた方が良い」と言われたら、どう思うだろうか。「ふざけるな!自分はそんなことしない!一緒にするな!」と憤るのではないだろうか。
当然である。一部の事例を挙げて全体を評価することほど愚かなことはない。少数の非常識な「おじさん」「おばさん」がいるからと言って、全ての中年が悪いはずがないのである。そして、それは若者も同じなのである。
もちろん、批判に当てはまる人もいるだろう。根性のない若者や、向上心のない若者もいる。痴漢をしているおじさんや理不尽なクレームをつけるおばさんもいる。だが、それは必ずしも多数派ではない。多数派であったとしても、全員ではない。
誰かが「最近の若者は~」と批判した時、批判の対象となる人は、「若者」という漠然とした集団ではない。それは批判した人と同じように、個別の名前を持ち、血の通った一人の人間なのである。
そんな基本的なことも忘れて、「最近の若者は~」「これだからおじさんは~」と安易に批判する人は、「想像力が欠如している人」ではないだろうか。
そして、想像力の欠如は容易に差別を生み出す。「最近の若者は~」という批判は、人種差別や性差別と、本質的な違いはないのではなかろうか。
集団を批判することに意味はない。個別の事例については、その当人を論じるべきだ。イスラム教徒がテロを起こしたからと言って、全てのイスラム教徒が悪い訳ではないし、痴漢を犯した男性がいるからと言って、全ての男性が痴漢を犯す訳でもない。同様に、あなたの身の回りにいる若者が出来が悪いからと言って、全ての若者が出来損ないという訳もないのである。
ちなみに、冒頭に例として挙げた「50代くらいのサラリーマンが、居酒屋でビールを飲みながらくだをまく」というのも同じだ。「若者批判をするのはそういう下らないおっさんたちだ!」というただの偏見であり、合理的な意見ではない。もちろん冗談ではあるが、正直そういうイメージが湧かなかったかと言えばウソになる。自分も偏見が捨てきれていないことを反省しなければならないと感じた今日この頃であった。
似非科学というのはいつの時代もなくならないものだ。パッと思いつく例だけでも、血液型性格診断、ゲーム脳、環境ホルモン、水素水、マイナスイオン、等々、枚挙に暇がない。多くはマスコミによって支持され、テレビ番組で特集が組まれ、その科学的根拠があいまいにも拘らず世間に流布されて浸透する。テレビ番組などはあたかもその説を「検証」しているかのような映像を作り、怪しい肩書の専門家のコメントを添える。視聴者の多くはなんとなく「科学的に証明されている説なんだ」と信じ込み、疑問を持つことなく受け入れてしまう。一億総白痴化社会の完成である。最近はネット上で多くの意見を比べて読むことができるので、情報収集能力の高い人たちはそこまで騙されやすくないとは思うが、未だテレビや新聞が主な情報源である人たちにとっては、上述の似非科学が今でも信じていることが多い。特に血液型性格診断などは、宗教のように信じ込んでしまっている人も相当数いるだろう。
私も子供の頃はこれらの似非化学に騙されやすい人間だった。最近はほとんど見ないが、昔はテレビが娯楽の中心だったこともあり、夕食時などはよく見ていたものである。特に、捏造問題で打ち切られた「発掘あるある大事典」などは、親が好きだったこともあって毎週見ていた。その中で血液型性格診断の特集を何度か行っていたことは、今でも何となく覚えている。番組の中で「数名の幼稚園児を血液型別に分類してその行動を観察する」という検証が行われており、ものの見事にその血液型の特徴が行動として現れていた。見ていた私は「やっぱり血液型と性格には関係があるんだなー」とぼんやりと納得していたが、今になって思い返してみれば数名の幼稚園児の行動で結論を出すのは早急すぎるし、番組が「○型かつ××な性格」の幼稚園児を数名集めることなど造作もないことだし、そもそも集められた幼稚園児の血液型が本当に表示通りだと証明する根拠は何も無い。極めつけはあの「あるある」である。そういえば「あるある」はマイナスイオンの特集も何度かやっていた記憶がある。まあ、放送内容の真偽を検証するのは今となっては不可能に近いことだからやめておくにしても、心理学会において血液型性格判断の真偽は何度も検証されており、いずれも関連性を肯定するものがないことから、かの理論が出鱈目であることは疑いようがないだろう。
しかし、科学的価値は小指の爪の垢ほどもない血液型性格診断であるが、この似非化学が私に教えてくれたことが二つある。それは「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」ということと「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」ということだ。付け足すなら、当時私はまだ純粋なティーンエイジャーだったので、「大人は平気でうそをつく」ということも学んだと言えよう。
私が初めて血液型性格診断を反証する意見に触れたのは、中学二年生のことだったと記憶している。当時別段読書が好きでもない(むしろ嫌い)だった私が、たまたま休み時間に図書館に立ち寄り、ふと目に留まった一冊の本を手に取ったのがきっかけだった。それは村上宣寛という方の著書『「心理テスト」はウソでした。受けたみんなが馬鹿を見た』(2005、日経ビジネス)という本である。新作であったこの本は本棚の上に表紙が見えるように立てられており、そのセンセーショナルなタイトルに興味を惹かれたのを覚えている。
10年以上前に読んだものであるためにうろ覚えな部分もあるが、本の内容は大きく2つに分かれていた。前半が血液型性格診断への反論、後半はまた別の心理テストへの反論が主であった(後半の内容は忘れた)。本文の中で、今日の血液型性格診断の源流である能見正比古氏の著書をけちょんけちょんに貶し、また血液型性格診断のような「占い」を人に信じ込ませるための心理テクニックである「バーナム効果」についても詳しく説明があったと記憶している。
当然、本の内容は著者の考えであり、本の内容が絶対的事実であるとは(今となっては)思わない。しかしこの本の内容は、血液型性格診断が科学的根拠のある学説だと何となく思い込んでいた私にとっては、とても衝撃的な物であった。血液型性格診断そのものというより、これまで固定観念的に信じ込んでいた常識が、脆くも崩れ去った瞬間で、まさしく目から鱗であった。活字嫌いな私が、数日図書館に通って本を読んだのは、(マンガ喫茶を除けば)後にも先にもこの時だけであろう。「借りて読めよ」と言われるかもしれないが、当時の学校図書館のルールで、新作は借りれなかったのである。
新しい知識を得たら人に言いふらしたくなるのが能のないアホウドリの常である。当時は全盛期こそ過ぎたものの、血液型性格診断は世間一般に根付いており、それを否定する論調は(少なくとも大手メディアでは)ほとんど存在していなかった。要するに「他の誰も知らないことを自分だけが知っている」ような状況だったのだ。腕のケガだと偽って毎日手に包帯を巻いて通学していたリアル中二病の私にとって、これほどドヤれる材料は無い。とは言え、何の脈絡もなく血液型性格診断の話をするのも変である。友人との会話の中で血液型の話が出てくるのを待ち、出てきた瞬間にこれでもかと否定する。それによって「頭が良い奴」と思われて皆からちやほやされる。正に完璧な計画だった。
ところが、実際に反論してみたところ、いずれもあまり芳しくない結果に終わってしまった。どや顔で血液型性格診断を否定しても、「でも何となく合ってる気がするし…」と、決まって歯切れの悪い反応しか返って来ないのである。挙句教師からも「屁理屈ばっかりこねるな」と言われる始末。今となってはどちらが屁理屈なんだと思わざるを得ないが、確かに思い返してみれば、血液型の話でわいわい盛り上がっている時に、キモいデブがどや顔で否定して来たら、場が白けてしまうのは明白だろう。要するに私の敗因は、イケメンではなかったことである。
冗談はさておくにしても、それ以降、私は血液型性格診断の話が出てきた時、余程仲の良い間柄でなければ、ニコニコして受け流すようにした。まさに2017年現在でも血液型性格診断肯定論者の方が言うところの、「否定する奴はモテない」という説を支持する対応であった。情けないとは思うが、当時ただでさえ友達が少なく、これ以上周りから孤立するようなことは避けたかった私を責めることなど出来るだろうか。ちなみに今は目上の人でなければそれとなく否定している。相変わらずチキンであった。まあ、事実は事実として、TPOに合った会話合わせというのは必要だと思っている。
そこで私が学んだことが、先の「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」の二つだ。血液型性格診断を信じている人に、上述の心理学会の話や、バーナム効果の話をしても、決まって返ってくる言葉は「でも何となく当たってる気がする」「私の周りでは当たっている」と言ったものだ。査読のある学術誌に投稿された数千人規模の調査結果よりも、自分の身の周りの数名の事例を優先するのである。当然その事例には得てして強い確証バイアスが掛かっているのだが、本人はそれに気付くことができない。「客観的事実よりも自分が信じたいことを信じる」典型例である。
これは、似非化学に限らず社会の中のあらゆる現象に対して言えることである。例えば昨今、「若者の○○離れ」という言葉をよく耳にする。○○の中には、テレビ、新聞、車、バイク、酒、読書など、ありとあらゆるものが入り得る。そして、その原因は大抵若者に帰着させることが多い。「最近の若者は人との関係が希薄だから酒を飲みながらのコミュニケーションをしないのだ」とか、「世間や政治に対して無関心だからテレビや新聞を見ないのだ」とか、とりあえず若者を悪者にするような結論が多いが、決して「社会の変化によってニーズも変容し、製品価値が相対的に下がった、すなわち製品自体が時代の変化に追いつけなくなったのだ」といったような、自らに責任を帰着させることは決して言わない。やはり自分が信じたいことしか信じていないのである。
また、血液型性格診断を信じている人の共通点として、否定しようとすればするほど攻撃的になって反論するというものがある。先の中学生の時の教師がその典型例だろう。理論的な反論が出来なくなると「屁理屈をこねるな」と論点をずらして逃げるのである。「否定する奴はモテない」というのも同様で、血液型性格診断の真偽について反論しているのに、「モテるモテない」の話にすり替え、さらに相手を「お前は場の空気の読めないモテない人間だ」と罵倒しているのである。そうなってしまうと、もはや冷静な会話は成り立たない。こちらがいくら事実を述べても、返って来るのは罵倒だけであり、最終的に相手が逃げてしまうのである。そこに残るのは無駄な時間の浪費と徒労感だけで、何ら生産性のない労力を費やされることになる。
こちらもやはり社会全般で言えることだ。例えば「若者の犯罪はゲームやアニメによる影響だ」などの持論を展開する人に、「若年層の犯罪率は年々下がり続けており、反対にゲームやアニメの市場は伸び続けている。」と反論しても、恐らくその後は謂れなき若者批判と罵倒くらいしか返って来ないだろう。論理的な反論を受け入れられない人間にとっては、実は事実などどうでも良く、会話を勝ち負けを決める手段としてしか考えていない。そして自分が負けるのが嫌だから、最後は子供のような罵倒に終始し、逃げてしまうのである。こういった手合いは、「自分の非を素直に認められない」ことも共通点と言えるだろう。人間であれば誰しも少なからず負けず嫌いな側面は持っているが、この手の人間は特にその傾向が強い(と何の統計的データもなく私の主観でそう思っている)。
似非科学のような嘘を信じ込んでいる人は、宗教の信者に近い。もちろん宗教を否定している訳ではない。宗教というものは、「事実か否かを証明する術がない」にもかかわらず、「否定は許されない」というのが特徴である。これ自体は別に悪いことではなく、「鰯の頭も信心から」と言うように、それを信じることによって本人の精神的支えとなるのであれば、それで良いと個人的には思っている。客観的に証明できなかったとしても、個人の中で信じていれば問題はないのである。ただし行き過ぎると他者に対する不寛容に繋がり、戦争や弾圧に容易に発展してしまうため、注意は必要である。仏陀とキリストと「顔を描いてはいけないあの人」の誰が一番偉いかというような論争は、決して行ってはならないのである(仏陀とキリストが同じアパートの一室で生活しているマンガはあるが)。
「宗教」と「似非科学」の明確な違いは、前者は「事実かどうかわからない(事実であることに重きを置いていない)」のに対し、後者はそれが「明確な嘘」だということである。明確な嘘を流布すれば、社会に対して損害が生まれる。血液型性格診断であれば、近年問題になっている「ブラハラ」なる差別を生じる。ゲーム脳であれば、本来何も悪くないゲーム会社が風評被害を受ける。水素水であれば、医学的根拠のないただの水を健康に良いと信じ込んで高額な値段で買わされる消費者が現れる。そして、損をする人の裏側では、他者を騙して得をする悪人も存在しているのである。大抵は嘘っぱちの本を書いた奴とその取り巻きだ。
だからこそ似非化学は撲滅しなければならないし、似非化学の考案者やそれを流布するメディアは批判されなければならない。日本は表現の自由が保障されているから何を言おうと自由であるが、それはあくまで公序良俗に反しないことが前提であり、嘘によって不正な利益を得るのは詐欺である。表現に対して批判を行う自由もあるのだから、客観的に見て明らかに事実と異なる論説に対しては、毅然とした態度で批判すべきである。
そして、一般消費者である我々は、常にその情報が事実であるか否かを見極める努力が求められる。媒体を問わず、メディアは平気で嘘をつく。他人に言われたままのことを信じる人間は、その情報が誤りであった場合に他人に責任を求めがちである。何が正しいか自分で判断し、自分の責任において選択する力こそが、情報化社会を生き抜くために必要なスキルと言えるのではないだろうか。
バブルや高度経済成長期で潤ってる社会ではどん底スタートからでも社会からのブーストが掛かって
いくらでも成り上がることができたんだろうし年功序列社会だから長くいるだけで給料アップして
それが自分の正当な頑張りであると疑問を持たずに受け入れられる時代をあなたは生きたんでしょう。
でも今は違うんです。
今はそうじゃないんです。
あのころよりも経済が悪化したし雇用も悪くなったし年功序列はもうないし昇給もしないことが多々あります。
これが現実です。
でも実りません。
結果が出ないと努力してないというのなら、
甲子園球児で優勝しなかったチームはすべからく努力していなかったのですか?
みんな生きるのに必死で、でも結果が出ないのが不景気なんです。
たまたまあなたが産まれた時代がイージーゲームだっただけです。
将来あなたのケツの穴を拭いてあげる、体を拭いてあげる世代をいじめないでください。
こんなクソの役にも立たない助言をしても超効率化社会の現代では意味がありません。
勿論、あなたが碌に頭も使わずに目の前の仕事だけしてきた人間だということは分かります。
だからこそ幼稚な精神論でしか若者批判できないのも分かります。
あと大学を就職予備校だって言ってるアホ共はマスゴミに踊らされすぎ&踊らされた結果ホントに勉強しなかったアホ(かつ大学全般に行く価値がないわけじゃなく、そいつが仮に偏差値が高くても価値のない大学に行った、活用できなかっただけ)
授業受けるだけで、すげー賢い人たちの世界の見方を何となく知るだけで、どういうキャリアの選択肢があるか知るだけで、価値だろ。それは賃金とかそういうどうでも良いことの差でも、専門との授業の差(そもそも目的が違うだろ)とかくだらない、本当にくだらない物差ししか持たないお前らにはきっと一生理解できんのだろうな。
それに「今の大学はダメだ」とか言い続けるとホントにダメになるぞ。ガキが減って平均的にダメになってるかもしれないけど、なんとかすべきという視点ナシに「ダメだダメだ」っつー奴らは、
ただ迷惑などころか害だ。害悪だ。言い続けるとホントにだめになるんだからな。
それじゃダメだから頑張ってる人を一番最寄りの大学に見に行ったり(名前書くだけで入れるFランにもいるぞ)、教育に熱心な議員に投票するとか、バカでもできるだろ。
とりあえずその汚い口を今すぐ閉じろ。若者批判したいだけなら害悪だから鏡でも見てろ。
貶したいからただダメだって騒ぎ立てるのは自分が馬鹿だって大声で宣伝してるようなもんだぞ。せめてまともな大人ならこれからどうなるべきか話せよ。
http://anond.hatelabo.jp/20130323124047
中二病、高二病、大二病、社二病を乗り越えて患うのが35病だと思う。30代後半から徐々に発症する。
若者のだったつもりがいつのまにかおっさんおばさんの仲間入り。こんな症状が出たら罹患を疑うべき。
正直、頭が禿げるとか加齢臭がするとか脂肪が増えるとか肌が荒れるとか、そういうのは年齢とともにやってくるものなのでしかたがないことだと思う。
でもこういう「会社や店で横柄な態度のおっさん」が年寄りになると、最終的に菅直人や石原慎太郎や田中真紀子みたいなジジイやババアが出来上がるのだと思う。
若いころ「武満徹を殺せ」なんてビラを巻いていた坂本龍一も、今ではすっかり説教クソジジイになっている。
35病の厄介なところは、中二病などと違って年齢を重ねれば重ねるほど悪化していくところだ。
最近は女性だけでなく男性向けにもアンチエイジングが流行っているそうだけど、年をとりたくなければまずは見苦しいおっさんおばさん言動と行動をやめるべきだ。
かく言う俺も今年で34だ。街で見苦しいおっさんおばさんを見かけると「俺もそのうちああなるのか」と非常に憂鬱になる。
「それ年齢関係なくて、そういう奴は若くてもそんなだ」というご意見を頂いている。確かに石原慎太郎も坂本龍一も富野由悠季も若い頃から尊大な嫌なやつだったと思う。
でもこの人ら、年齢を重ねるごとに尊大さが悪化して説教クソジジイになったじゃないですか。これって年齢とは決して無関係とは思えないんですね。人生経験がかえってマイナスに働くというか、成長ではなく老化していくというか。
この文章からにじみ出ていると思うけど、俺も子供の頃から世の中を斜めに見る嫌な子供だった。それが嫌な若者になり嫌な大人になった。このままいけばきっと嫌なジジイになるのだと思う。三島由紀夫が45歳であんな死に方をしたのは、そういうジジイになるのが嫌だったからだと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20130330190713
35病のサンプルとしてリンクしておく
http://twitter.com/NaokiTakahashi/status/16132083256
これのぶくまみて思ったが、いつもは反差別的なこと言ってる人でもアニメアイコンにレイシストや馬鹿の比率が高いのが事実であれば、嘲笑して当然っていう意識の人が多いんだな。「外国人のほうが犯罪者率が高い」「女性のほうが離職率が高い」というのが統計的に事実であれば、同じ仕事で賃金が違っても合理的な区別であって差別じゃないという価値観とどの程度差異があるのやら。まあこういうことを言うと「性別や人種は先天的なものだから云々」というお決まりのせりふを言うのだろうな。つまり後天的に選んだ宗教や支持政党や職業や居住地でなら、同一労働別賃金であっても合理的な区別であって差別ではないと。宗教差別や職業差別の存在など認めないということなのだろう。こういう考え方からすれば自民党支持者や創価学会員を嘲笑するのも当然のことながら、アニメを趣味とするものの中にこれらの比率が高ければ、お宅丸ごと馬鹿にしてもいいじゃんということなんだろう。ただ自公政権を批判したいからイメージの悪そうなおたくを持ち出してるような気がしないでもないが。こういう事言うと、小泉を朝鮮人認定、その支持者をフリーター認定する人みたいな感じで「いや俺はフリーターor朝鮮人orおたくを差別するつもりはないよ、フリーターor朝鮮人orおたく認定されて差別だと思う人のほうが差別意識持ってんじゃね?」みたいな切り返しをするんだろうけどね。余談だが、こういう人はなぜかB層をフリーターやニートの若者のことだと思ってるのが多い。もとのプレゼン資料では老人・主婦のことだったのに、いつの間にか摩り替わってる。自民党に投票したのは2000万前後いるわけだからどう考えてもお宅やワープアの若者だけでそこまで集まるわけないのになぜか若者批判だけをする。小泉改革を支持した中高年正社員や専業主婦や高齢者へ矛先を向けないのはなぜなんだろうか。周りにいる支持者を面と向かって批判できないから、ネットでこそこそ反論してこなさそうな貧乏人やオタクを叩いてるんじゃないかと思えてならない。
『モンスター社員続出で右往左往する現場 「自己チュークラゲ」ゆとり世代を戦力化するコツ』
http://president.jp.reuters.com/article/2009/10/24/BA8D7BF0-BA29-11DE-A839-21F13E99CD51.php?rpc=110
ゆとりゆとりと嬉しそうに新入世代をあげつらう記事の書き手が何歳(いくつ)か知らねえが
「近頃の若者は……」と紀元前の古代エジプトの時代からいわれ続け、そんなステレオタイプの若者批判論をいさめた「いまどきの若い者はとはばかるべきことは申すまじく候」という山本56の言葉も残っている。それにしても、企業の現場では首をかしげたくなるケースが続出しているようなのだ。
オイオイ、誰かも言ってたけど、お前それ、一昔前の過激フェミそのものじゃん。同意してる奴もアホか。そろいも揃って中学生か。
なぜ、フェミニストたちは
まあ出だしからして凄いからな。「フェミって男女平等じゃなくて、女尊男卑になってない?」とかではなくいきなり「なぜ求めるのだろう」って、前提にもうフェミ=女尊男卑なことは決定済みなのかよ!っていう。んででは具体的に一体どこのフェミがそうなのか、そもそもこの場合の「女尊男卑」って何を指してるのか、全くちらりとも話に出ず適当な主観論で話が進む。
だが、世の中の女性たちは、どうも
「平等」ではなく、「女尊男卑」を求めているように感じてしまうのだ。
「世の中の女性」ってまたこれでかい主語を突然何の説明もなく出してきたよ。平等云々って話をしてるときになんつー暴挙だ。まさしくそうやってひとくくりにされる事自体、差別のうちの一つじゃねーの?下の方でも「そういう女性がいるからいつまでも馬鹿にされる」的な事を言ってるが、そういう女性が一部いるからって女性全体を馬鹿にするほうがそもそもおかしいんだろ…。
また「感じてしまう」とか、なんか「最近の若者ってどうもね…ゲームのやりすぎで、まともな倫理観というか、そういった大事な日本の文化がですね、根付いていないように感じるんですよ…」と同レベルの無内容ぶり。
たとえば、仕事よりもプライベートを優先し、見た目にお金をかける女性。
もちろん、生き方として否定はしないが、それならば家事全般しっかりやり、
「良き妻」であるべきではないのか。
ここも意味が分からん。あと一行目の「女性」はきちんと「既婚者女性」と書いておくべきだろ。
「仕事よりプライベートを優先し、見た目にお金をかける」ことと「なら、家事全般しっかりやり良き妻であるべき」のつながりがすげえ意味不明なんだが…別に男が仕事よりプライベート優先して鉄道模型に金をかけるのと同じで、そしてそれはどこがどう責められるべきところなのか?まず仕事よりプライベートを優先する、これは欧米では普通の事で、問題ない。単に日本が社畜や奴隷がたくさんいるだけ(たぶんアンタもそうなんだろーが。社会人ならプライベートより仕事を常に優先させるべき的奴隷思考の持ち主だろ?)。見た目にお金をかけるってのはさらに意味不明。稼いだ金何に使おうが勝手だろがwさすがに前時代のフェミも「女っぽいことに金を使っちゃいけない」なんて馬鹿な事は言わなかったぞwてかどんだけ家父長制だよw「良き妻」って言葉のセンスからしてもwここでいう「良き妻」はだから何のことなのかも、また説明がない。主観と印象だけで話が進む。若者批判と似た構図。
またここがブレてんだよな。「専業主婦」を非難してるのか、「専業主婦なのに、働き手にも家事の手伝いを相当に求める人」を非難してるのかどっちだよ。専業主婦そのものを批判すると、当然ながら専業主夫もアウトになるんだが……
私は、もっと社会が男女平等になり、稼げるほうが収入を得て、稼げないほうが家事を受け持つのが当たり前の社会になってほしい。
っていってる。だったら専業主婦(主夫)になること自体はいいんじゃないのか?
それと、専業主婦だからといって「子育て」も手を借りずにやるべきって滅茶苦茶だなこれまた。ある種の子に対する虐待に近いんじゃねーの?「パパは稼ぐ側だからたーくんの面倒は一切見れないのよ、でもママがずっとみてあげるからねぇー」ってか?何なんだそりゃ。つか、そういう論調にするとかえって専業主夫の方が危ないだろ。出産はどうあがいたって主夫にはできないし。つーかそもそも、上では「家にお金を入れられない分家事・子育ては自分ですべき」って、主婦が「出産」は誰の力も借りず(借りれないんだが)やりとげてることはスルーなのか?そもそも「家庭にどれだけ労力をつぎ込んだか、どれだけ与えてるか」をきっちり分けるという考え方を家庭に持ち込む時点でどうかと思うが、それにしてもその考えのもとであれば当然出産分の労力・出産分の仕事の価値は当然付け加えるべきだろ?)
、育児も例えば母乳で育てるとなればかなりの部分働き手に育児も依存しなければならない。そういう事を言い出すと、専業主婦よりかえって主夫の方が「バランスが全然とれていない」と、非難の対象になりかねないんだが、そこまで分かってて言ってるか?まさしくお前の旦那がそういう意味で微妙な立場にいるわけだが。
「自分より収入の多い人としか結婚したくない」という女性が、婚活中の人には多いという。
なぜだろう?
これについてはこのエントリhttp://anond.hatelabo.jp/20090810045832に書いてあるように、男女に賃金格差が(それも先進国的にはありえなぁいなレベルで)あるからだろwどんだけ頭おめでたいんだよおめーはw「なぜだろう」というなら、どうして女がいまだに結婚に経済性を求めざるを得ないかってことを考えてみろよ。
お前はさっきからえらく「世界がニュートラルなことを前提」にして物言ってるが、その前提が間違ってる事に気付けや。前提がデコボコだからいろんな問題が起きてるんだろが。
何なんだよおめーはwそれなら専業主婦志望者は綺麗に合致するじゃねーかよwブレブレじゃねーかお前w
お前の旦那は希少な存在だってこと。そういう男は日本じゃかなり少ない。男側にもいまだに「でもやっぱなんだかんだいって男より女が稼いだりしてるとカッコワルイ」な価値観がある(これはこれで問題)。結構根強い。たまにやってるお見合い番組(バラエティとかじゃねーぞwNHKでやってるようなやつw)でも見てみろ。男のほとんどは自分より年収低くてでもフルで働いて、家事育児は女がやってくれてそんでもって20代の若い子みたいな事言ってるんだぞwお前男の側の問題はさっきから綺麗にスルーしてっけど。そもそも、専業主婦志望の女だけ叩いてるが、妻は専業主婦でいてほしいという男も存在する。だからこそ「専業主婦家庭」がなりたってるってことをお忘れか?いくら一方だけ主婦希望でも相手が受け入れなきゃ結局意味がないだろ。
私がこれを嫌だと思うのは、この女の態度が、ネットでの女叩きにつながるのもあるし、
ネットでの女叩きなんて老人による若者叩きみたいなもんで、叩けるところだけ抽出してひっぱってきては一部の女のことを「いまの女は」と摩り替えて叩いてる、ある種確信犯的にやってることなんだから言ったってしかたねーよ。
このような女性がいる限り、まだまだ「女は仕事ができない、家事でもやってるべき」という見方しか、社会はしてくれないからだ。
つーかだからそれこそが女性差別ってんだろw一部の女がそうだからって「女は」ってくくることがw
で、お前みたいな「主婦?!まったくそういう女がいるから、日本の女はナメられるのよ!頑張って働いてるこっちの足をひっぱらないでよね」な論調は一昔前にあったしフェミもそんなようなことやってたが
流石に今のフェミもそこんとこは反省したとみえ、今は「別に従来どおり専業主婦家庭を望む男女がいてもそれも家庭の多様性の一つなのであり。要は男らしさ・女らしさにとらわれることなく働きたい奴は男女関係なく働けて家事専念したいやつは男女関係なく専念できればいいのだからその結果従来の家庭の形を選ぶ奴がいても構わん」つースタンスだと思ったが。
お前は結局何がいいたいのか、ブレすぎてて全く分からん。
んなこたねーだろ。
地域社会が今よりまともに機能していたころは、若者に何らかの仕事を振れていたし、技術が未発達だったために「必要とされる能力」のハードルが低かった(ごく普通の能力さえあれば畑仕事くらいはできるもんな)。
横だが、「必要とされる」の意味が食い違っているように思う。
この前の増田と二個前の増田が言ってる「必要とされる」は、二個前の増田がこういってるように
馬鹿みたいに人が溢れてる街で、他の人ではなく、あえて、あなたを選ぶ理由って何ですか?
他の人にはできなくて、あなたならできることって、ありますか?
ないなら、どうしてあなたが必要とされるのですか?
「他の誰でもなく「あなたが」必要とされているか」といった意味での「必要とされる」であり
お前が言ってる「必要とされる」は「歯車の一つとして必要」的な意味での「必要とされる」。
後者ならば、別に今の若者でも、いくらでも「ごく普通の能力さえあれば畑仕事くらいはできるもんな」的な、バイトはいくらでもある。
俺の考えとしては、
昔は人権という概念も無かったし、できてからも根付きが甘かった。
だから「別にお前じゃなくてもいい」「歯車的」な「必要」であってもそれは当然の話であった。だから悩むこともなかった(いや、悩んでた奴もいたのかもしれんが)。
今は逆で、人権の思想を学んだり「歯車なんかになるな」なんていわれたり、それぞれの個性とか言われたり親からも昔から比べると親馬鹿気味に育てられる(それが悪いとかでなく)。が、社会に出てみると現実はその理想の思想にまだ伴っていない。ということでギャップが生まれる。悩みが出てくる。
その上、今の若者はそういったことにたいして(いい意味で)青臭い反論や、運動をすることを「カッコワルイ」と思ってる節がある。実際、若者が「歯車じゃなくて俺・私を俺・私として認めて欲しい!」とか言えば、「ハァ?なに甘いこと言ってんだよ」「大人になるってのはそういうことだ」「全く最近の若者はうんたらこうたら」「ゆとり教育が招いたあれでしょうか…若者は仕事をどうこう…」とかマスコミを代表とする「大人」にめっためたに叩かれる。そもそも大人たちがそう言う教育をしてきたこと・まだ若いということには言及しないまま「甘い」というレッテルをただ貼って終わる。動こうとしても大人という世間はすぐそうやって若者バッシングをして終わらせようとする。(といって、「だから動けない」といえば、それはそれで「若者ならこんなバッシングを乗り越えろ」とか「このくらいでダメになるようじゃ、どうせ何やったってダメ」と勝手なことばかり言う。全くどちらが大人気ないのやら)そりゃまあ、「何やっても無駄」感が出るわな。歯車は嫌だけど、それを嫌だといっても大人にバッシングされる。だったらもう刹那的に快楽を求めようとなる。
若者話をするとき忘れてはいけないのは、どんな若者が生まれても、それを生み出した・そういう教育をしたのは大人達ということだ。すぐ若者批判をする大人達は自分たちには微塵の責任も無い、若者が今の若者になったのは若者だけの責任だと思っている節がある。それが最もいけない。責任は寧ろ大人にある(若者に皆無とは言わんが)。人は勝手に育つ訳じゃない。
頼まれたり見るからに立ってるのが辛そうに見えたら譲るべきだとおもうけど
そこはなんていうんだろう義務とかじゃなくて親切心から自然にやるものだとおもう。
新聞の投書欄を見たら老人が立っているのに、若い奴が誰一人席譲らないと怒っている人がいた。
新聞の投書欄を見たら老人が立っているのに、若い奴が誰一人席譲らないと怒っている人がいた。
俺は、今、人に席を譲ることはまずない。
結構経験者多いと思うんだけど、席譲ろうとしても断られて嫌な気持ちになることが多いんだよ。
なんで人に親切しようと思ったのに、大勢乗っている電車の中で恥かいて不愉快な思いしなきゃいけないんだよ。
俺には、席譲らない奴より、席譲られて断る奴のほうがよほど非常識だと思う。
人がプレゼントとかお土産持ってきたら喜んで受け取るのが常識じゃないの?
人のプレゼントやお土産を、「それいらね。」って断わるのって物凄く失礼でしょ?
「こんなのいらね。」と思っても、笑顔で喜んでいるふりして受け取るのがマナーでしょ?
でもなぜか、譲られた席には素直に座るというマナーは世の中にないらしい。
調べると、断るほうにも理由がある。
「席譲られるほど年取っていない。」
「そんなに疲れていない。」
「もうすぐ降りる駅だから」
まあ、断るほうにもそれなりの理由があるわけだ。
考えてみれば、老人だから電車で立っているのが大変な身体弱者って思い込みは失礼な気がする。
逆に8時間以上立ち仕事した人間は、若者であろうとその時点においては身体弱者だよ。
世の中、席譲って欲しいって奴より、どうぞお構いなくって奴のほうが多いんじゃねぇの?
だったらこういう意見もあるし、「席譲る」って、善意の押し付けをマナーにするのもうやめようよ。
席を譲らなかった若者
http://rakudaj.seesaa.net/article/3130212.html
念のため言うけど、俺は人に席譲るのをやめようと提案しているんじゃないよ。
そうした奴はそうすればいい。素直に良いことだと思うよ。
ただ、老人とかに席譲らない奴に、マナー違反というレッテルを貼りをやめようと提案している。
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みんな同じ料金払って、同等の電車・バスに乗る権利また席に座る権利を得ています。
だから、みんな平等に席に座る権利ありますし、他人に席を譲る義務はありません。
もちろん、あなたが、自分の席の権利を人に譲るのは自由です。
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これでよくね?