はてなキーワード: 彷徨とは
親の夢は絵に描いた餅
霞が関は俺には無理な口
親は力で支配しがち
裸で熱湯の湯舟に放置
飯は床にぶちまける措置
強いられる意図の察知
進学先は名門じゃなきゃ平手打ち
泣けば口に布つめる処置
見て見ぬふりのゲスな父
もしくは二人がかりのリンチ
帰りたくないそんな家
いつも警戒親の奇襲
まずい飯並みに無味無臭
憧れた緑川光
将来進路ひどく幼稚
求められる社会的地位
言えるわけない胸の内
努力足らぬとムチとムチ
壊れていく俺の気持ち
順位下がる成績表
夢は妹にバトンタッチ
飛びついたのはブラック企業
俺は親の夢叶えるマシン
生きる意味なし痛ましい
過労死より少しマシ?
そのキレイゴトじんましん
積もる憎悪を持て余し
咳払いなどぶちまかし
まるで配信者の生きざま
自由の身なんと素晴らしい
財布の中身は清々しい
ネットで使い回し
それ奪ったのが荒らし
気にしていない金の貧富
望んだのは居場所の補修
悔いる俺無様リタイヤ
余命刻むタグホイヤー
アバターに食い込む錆びたワイヤー
迎えられないニューイヤー
審判で決する雌雄
二度消される罪人囚
それを喜ぶかつての友
ネコチャンですよー(パチパチ)
一昨日はどうにも毛先が気になって
毛先だけと思って
切ったら
ロングがセミロングの切りっぱなしになってしまったという……。
🐈ヤバい。ネコチャン髪短いと跳ねるんニャ!!
しかもかんがえてみると
この髪は
https://publicdomainq.net/images/201710/25s/publicdomainq-0014777vcl.jpg
実にこんな感じ。
かといってこれ以上切ると後ろが切れニャい(あくまでセルフカット)
一晩立って外出する前に
いきなりコテで巻いて
やっと買い出しにでたネコチャンでした。🐈
「もうやめて!ネコチャン家の野菜はもう0よ!」
でら寒かったのにお野菜がもう0、
葉物なしですごしたんだけど流石に玉子も切れて
タンパク質がもうない……。とろけるモッツァレラとパルメザンチーズが
同時に切れるって😨🙏🏻
誕生日ように注文したミルク餅とヨックモックシガールのチョコ味は
お昼に大根サラダを平らげてしまったネコチャンは重い腰をあげたのです。
勿体ないけど不織布マスクにお気に入りのウレタンマスクを重ねてでかけ、
ダノンビオを食べて
また違う不織布と水着素材のマスクをつけて白菜などを買い出しに。
フワフワであったかいじゃん。もう一枚買おうかな。
2往復買い出し。
これでとうぶんは持つと思いますニャ。
お野菜が切れると体調が良くなくなるので
やっぱり健康第一ニャ😼
(長文ゴメンニャ)
ここ3ヶ月電車はのってないから、先週買ったクロスバイクで一路新宿へ
いやー、これが東京ですか
平日の朝なのにすいててええなぁ
と快調に自転車をこぐ
中野坂上から淀橋を通って西新宿のキツい上り坂をヒイヒイいいながら登り
ようやく西武新宿駅につく
ついたのが10:15
列が5人ぐらいいて
と思ってスマホでメール受付の画面を出して待っていたたところ前の人が
予約のメールが見せられない
とかで列の流れが止まった
まあそれはいいんだけど、なんか聞いてると
「10:50に予約した○○です」
それがいけるなら時間潰しせずにさっさと列に並べばよかった
「ほーん」
と思いながら、まあ自分の番になったのでメール見せてiDで決済して検査キットを渡された
「中にストローが入っているので、それを使って容器に入れてください」
と思って容器を開けたらストローが入ってた
なんだよこれ!外から見たら模様かと思ったじゃねーか!
まあいいや
ストローを口にして、検査ブースの正面に貼られたグレープフルーツや梅干しの画像を見るが
そんなもんじゃツバなんてでねーよ!どうしよう??
今隣のブースの眼鏡の地味娘もこうやってツバだしてるのかなぁ?
と思うと興奮してきてツバが出てきだした(嘘です)
なんか久しぶりにみたらドキドキしてきたのは本当です
ひきこもりは全然平気だと思ってたけどそういうこともあるんだな
とりあえず本題に戻ってツバもでてきたけど
ぜんぜんたんねーじゃん!
もうしわけございません!
ぜんぜんたんねーじゃん!
もうしわけございません!
やってるうちになんとなくコツがわかり
口を閉じて舌で絞り出すようにして唾液を下前歯のあたりに集め
集った唾液をストローに舌で押し込み
口を開けてストローを離すと
ちょっとずつ唾液が容器の中に落ちていった
なんとか泡まじりで1.5cmたまったので蓋をしめて袋に入れて提出
手間取ったけど15分ぐらいだったなー
と思ったら陰性結果のメールがきてた
もしかすると複数人で主催をしたのが間違いだったのかもしれない。
私の心が狭いだけなのかもしれない。
でも本当にこの件で私は今後の同人活動に一歩引いた姿勢ができてしまった。
オタク友達と話すのが楽しいと思って初めたTwitterだけど、もう作品公開の告知しかしないと思う。
◆
およそ1年前、同じカプ(以下○△)で活動している仲良し4人でアンソロ出したいねという話になった。
4人とも○△でそこそこの数作品も本も作っていたし、何より○△のアンソロがまだ出ていなかったから。
誰が主催する?え〜私は無理だよ。なんて話をしていたら、誰かが「じゃあ4人でやる?」と言った。
そうしてとんとん拍子で4人が主催のアンソロを作ろうという話になった。
私は執筆者への声掛けや、連絡、取りまとめの係。
Bちゃんは執筆者への献本の手配、通販サイトとの連携をする係。
CちゃんはアンソロのHP作成やTwitterで情報を発信する係。
誰か一人に負荷が掛かり過ぎないように分担した。
誰にお願いするか、テーマはどうするか、ページ数はどのくらいにするか、装丁はどうするか、印刷所はどこを選ぶか。
ある程度決まったと思ったらまた決めなきゃいけない事が出てきたり、4人揃ってSkype出来なくて不参加の人の為に情報を共有したり。
深夜まで話し合いながら作業は本当に大変だったけれど、4人全員が同じ方向を向いていたし、頑張ろうね、良い本作ろうね、と互いに励まし合いながらどうにか乗り越えられた。
◆
それから8ヶ月後。
執筆者の誰一人欠ける事なく、締め切りを延ばす事なく、無事に原稿が集まった。
勿論アンソロの事はちゃんとやるよ!と言っていたけど、Twitterにも前程の頻度で浮上しなくなっていたし原稿の完成もBちゃんが一番遅かったから少し心配だった。
もしBちゃんが本当に忙しくてどうにもならない!という事なら3人でフォローするつもりでもいた。
どうにか入稿し、あとは本の到着を待つばかり!という頃になってBちゃんからの返事が目に見えて減った。
例えば私が「Zさんは2冊献本して欲しい(今回は2冊までの献本は可能としていた)って言ってたからお願い!」と伝えても返事が無かったり、Cちゃんが「HP更新したからみんなTwitterで拡散して!」とグループDMに送っても返事が無い所かTwitterでも何もしなかったり。
Bちゃんを除いた3人でSkypeをした時は、Bちゃん最近大丈夫かな、お仕事忙しいって言ってたもんね、なんて話題が出る程。
何か分担変わろうか?とAちゃんがグループDMでBちゃんに聞いても返事は無かった。
たくさんの人がアンソロを楽しみにしてくれていたし、Twitterも拡散してくれて○△界隈では話題になった。
予約してくれる人が多くて刷った部数が全部予約で埋まってしまい、慌てて増刷をする程だった。
Bちゃんからの返事の無さは前ほどではなくなったけど、相変わらずこちらの連絡には5回に1度返すくらいの頻度だった。
どうしてもBちゃんからの返事が無いと先に進めないとなった時、普段は人に物を催促する事のないCちゃんが「Bちゃん返事して〜」とDMを送った。
それに対して「え?私の返事待ちだった?」と返って来た時には怒りを通り越して呆れてしまった。
◆
最近はツイートをする事なんてほとんどないから珍しいなと思っていたら、内容が『最近別のジャンルのカプ(以下☆□)にハマっている』だった。
新しいBちゃんのアカウントを見れば、Bちゃんが仕事で忙しくなったと言っていた頃に作ったようだった。
そこでのBちゃんはほとんど毎日のようにツイートをしたり、新しいフォロワーとリプのやり取りをしていたり、本当に楽しそうだった。
私は激しく憤った。
別のジャンルに行った事や、新しいアカウントを作った事に怒っている訳でもない。
Bちゃんがアンソロの事を適当にしたまま、碌に返事もしないまま、新しいジャンルではしゃいでいる事に憤りを覚えた。
アンソロの事でまたSkypeしようとグループDMで決めた時、珍しくBちゃんも参加した。
久々に話したBちゃんは本当に楽しそうで、☆□がどれ程素晴らしい物なのかを熱弁していた。
みんな良い歳の大人だからそれを「うんうん」って聞いていたけど、正直私はこのままBちゃんの話を聞いているだけなら自分の原稿を1コマでも進めたかったから、途中からは適当に流して作業しながら聞いていた。
Bちゃんが話したい事を話し終えると話題は当然アンソロの事に移ったけれど、さっきまでの勢いが嘘のようにBちゃんは静かになって、代わりにスマホの画面をカツカツ叩く音が響いた。
大方今ハマっているジャンルのクエストにでも精を出しているんだろう。
アンソロの話なんて興味が無いというようで、本当に嫌だった。
その割には「じゃあこうしよう」と決まりかけていた事に「え〜でもそれってさぁ」と口を出してきてまた話がごちゃごちゃになったり、かと思えば「私は3人を信頼してるから、3人で決めた事なら何でも従うよ」と言ってきたり。
正直この頃には、Bちゃんの事が嫌いになっていた。
◆
無事本が通販サイトとBちゃんの家に着いた時もこちらから尋ねるまで連絡はなかったし、執筆者への献本も一言「これから送る」というような連絡は無く私達の知らない内にいつの間にか行われた。
献本と一緒に送るプレゼントのギフトカードとノベルティはちゃんと全員に届いたらしいけれど、メッセージカードは入っていない人もいれば2枚入っているという人もいて散々だった。
私がお願いしたZさんへの献本は、やっぱりというか何というか1冊しか送っていなかった。
微々たる物かもしれないけれどZさんへ追加で送った送料やメッセージカードの刷り直し代、送料は当然私達の売り上げから引かれ、当のBちゃんは全然気にしていないようだった。
私達主催の分も遅れてBちゃんから本が送られてきたけど、本1冊がぺらんと入っただけだった。
以前Bちゃんも参加していたSkypeで「主催は3冊ずつ持っておこうね」と話したのも忘れてしまっているようだった。
私はBちゃんのそのあんまりな姿勢に文句を言いたかったけれどAちゃんも Cちゃんも気にしていないのか、スルーしているのか、何も言わなかったので黙った。
アンソロを手に取ってくれた方がたくさんリプやDMをくれたけれど、それにありがたいと思いながらも変に冷めている自分がいた。
執筆者の人も私達を労ってくれたけど、当然Bちゃんにも同じように賛辞の言葉を送っていたのも、仕方の無い事だと分かってはいたけれど、もやもやした。
◆
最近Bちゃんは別垢で何かあったらしくまた私と繋がっているアカウントに戻ってきつつある。
それでも話す事は☆□の事ばかりで殆どファボも付かない。
それが悔しいのか知らないけれど、時々思い出したかのようにアンソロの話を持ち出したり○△の話をしたりする。
最近○△の本も出した。
当然私はBちゃんのツイートに反応する事も、本を買う事もしていない。
グループDMでAちゃんやCちゃんが「本買ったよ!」とか「よかったよ!」と言っているので、上辺だけの同調はしている。
Bちゃんの新刊はこれまで支部やベッターにアップした物の再録だったので、私も内容を知っていたから会話に付いていく事には困らないのが不幸中の幸いだった。
Bちゃんは私達に対する配慮なのか、既存のアカウントでツイートする言い訳が欲しいのか分からないけれど○△の事はまだ好きだと言う。
そう言う割に私達が○△の話をグループDMでしていると全く関係の無い話に無理やり変えたり、何なら☆□の話を始めたりする。
☆や□のキャラどころか、その作品も私達3人はよく知らないのに。
最近の○△で活躍している描き手の話になると、Bちゃんはあからさまに興味が無くなるようでまたスマホの画面をカツカツし始める。
○△の話は出来ても、同人は追っていないから自分が分からない話はつまらないのだろう。
AちゃんもCちゃんも、Bちゃんがまだ○△を好きだという言葉を信じているようで、話に上がった描き手の人を勧めたりどれ程すごい作品かを話しているけれどBちゃんの返事は毎回「今度見てみるね」で、その『今度』が訪れた事は一度も無い。
いい加減AちゃんもCちゃんも気付けば良いのになあとも思ってしまう。
でもそんな事したらAちゃんやCちゃんと気まずくなるのは目に見えているし、Bちゃんには本を送ってもらう為に本名も住所も教えてしまっているので、何かあったら怖いしそれも出来ない。
最近では前と変わらずBちゃんに笑顔で話しかけているAちゃんや、SkypeにBちゃんが来ると喜ぶCちゃんにもモヤモヤしている。
二人ともアンソロの事はもう過去の事と割り切ってBちゃんに接しているのに、私だけが子供でBちゃんを許せていないと突きつけられているような気になる。
アンソロの執筆者には本当に感謝しているし、本を手に取ってくれた人にもありがたいと思うけれど、正直今回のアンソロの件で私は何もかも嫌になってしまった。
それでもハマっているカプってそう思って離れられる訳でもないから、私はまだこのカプで本を作ったり作品をアップしたりしている。
本の発送する時、通販サイトとやり取りをしている時、他の人の本を買う為に通販サイトを彷徨っている時、Bちゃんの適当な、投げやりな態度を思い出してはイライラする。
今よりadhdが一般的ではなく、大人のadhdも有名でなかった10年近く前のことだ。
コンサータのおかげで授業中に眠くなることはなくなった。
元から集中力に問題はなかったので、授業を聞いてさえいれば成績は上がる。
コンサータにより集中する力が改善されたのではなくて、コンサータの覚醒作用で授業を聞くようになっただけだったのかもしれない。
遅刻癖(遅刻することが分かっていても行動を途中でやめられない。)も、提出物を忘れる(たまに気付くけれどやれない。)のも治っていなかった。
効果がないわけないのだから、効果があるように振る舞わなければいけない。当時は思っていた。
(実際集中力は上がっているはずだったし。)
工夫してどうにかなるように努めていた。翌日の朝やる行動を最小限にするために、前日に翌日の準備を完璧にした。(完璧になったか不安で眠れない日も多かった。もちろん完璧にできていることの方が少なく、翌朝また焦るが遅刻回数は減った。)提出物は…未だにギリギリアウトとセーフを彷徨っている。
両親も、わたしも、医師もadhdだと思ってた。コンサータの手助けを借りて少しだけ上手に生きられてると思っていた。
一人暮らしになり、主治医から大学近くのメンタルクリニックを紹介された。
と言われた。詳しいことは後日聞きに行く。
私、なんだったんだろう。
長いし、読む価値は無いので、読んでからガッカリしたとしても自己責任でお願いします。
子供の頃からなんとなく漠然と、自分の人生は二十歳で終わると思っていた。
高校受験、学校見学で魅力的な学校を見つけ、どうしても入りたくて、頑張った。
憧れた高校に入学して、そのあと何をしたらいいのか分からなくなった。
高校生活は何をすればいいのかわからなくて、とりあえず「それっぽい」ことをして終わった。
憧れた高校生活は、ほとんど何もせず、ただ好きな制服を着て、かっこいい校舎を彷徨くだけだった。
それで満足していたし、それ以上はなかった。
大学は行きたくなかった。
やりたい事はほぼなくて、勉強もできないし、将来の目標も無いから、行く意味が分からなかった。
小学生の頃の昼休み、友達に「絵が上手いから漫画家になればいいじゃん」と言われた。
その時からなんとなく漠然と、自分は漫画家になるんだ、と思っていたし、漫画家になるなら専門学校の方がいいと思っていた。
あとは、当時見た3D映画がかっこよくて、そういうのを作る人になりたいと漠然と思って、そういう専門学校も考えていた。
結局、絶対大学じゃなきゃダメだという両親に説得され、漫画も3Dも学べる大学に入った。
新設の学部だったし、入試説明会や案内には、漫画やアニメ…それこそ専門学校のようなラインナップが書かれていて、親が許さず専門学校ではなくこちらにきた、という人が私以外にも大勢いた。8割はそうだったと思う。
実際、入学前に散々確認した3Dのモデリングに関する知識のある講師は、入学後には存在しなかった。
かろうじて漫画の講義はあったが、ただのオタクおじさんが自分のロリ趣味を語って聞かせるだけで、そこに学べるもの(例えば、そのロリの魅力、なぜいいのか、どういうところがファンの心を掴むポイントなのか、などを話されればまだしも、ただ「かわいい」としか話されなかった)は無かった。
これは、このままここにいても意味がない。このままじゃ無駄な時間を過ごしすぎる。
二十歳まで残り2年、アルバイトを頑張って、大学在学中に夜間の漫画専門学校に通った。
それでも学校に行ったのは、私自身がそうしないと一作も描けない人間だったからだ。
つまり、この時点で気づくべきだった。
私に漫画は向いてない。
授業は週一、1年間。必死で稼いだバイト代のほとんどを注ぎ込んだ。最大限に有効活用して作品作りに役立てようと息巻いていた。
入学特典として、時間外でも個別相談で作品を見てもらえたので、入学2ヶ月後、早速初めてのネームを見てもらった。
ストーリーも何もかもボロボロで、とても酷いネームだったと思う。
それでも、丁寧に指導してもらえて、学ぶことがたくさんあって嬉しかった。
教えてもらった事を活かすために、早速新しいものを描いて、2週間後にまた持っていった。
「あなたのネームは長いし、見るのに時間がかかるからなぁ。僕、家が郊外で遠いし、嫁が家で待ってるから」
それ以来、週一の授業も休みがちになり、半年をこえた頃には専門学校は行かなくなった。
自分でなんとかしなきゃ。
とにかく、まずは一作。
そうして、専門学校卒業前に1人で作品を完成させ、初めての持ち込みに行った。
せっかく描いたし、なるべくたくさんの意見を聞いて次に活かしたい。
5個の編集部に持ち込みに行った。
うち2箇所で、二度と漫画を描くなと言われた。
そんなバカな、誇張が過ぎると思うでしょ?一箇所はあくまでやんわり、自分の担当作家と私との違いを長々と話した上で、向いてないと思うと言われた。
もう一箇所は誇張無しでハッキリと、「二度と描くな」だった。
でも、2度目を描くことも許されないとは思わなかった。
帰り道の足取りは重かった。
初めての単身上京、知らない街。
足を止めたら消えてなくなる気がしたから。
うち一つは、みんなの憧れで厳しいと言われる場所で、なんならそここそ絶対無理だと思っていた場所だ。持ち込み予約の電話時点で扱いが悪かったし、当日も約束の時間に行って、30分待たされて、待ってる間他の人が酷評されているのが聞こえて、怖くて途中で帰ろうかと思っていた。
でも、そこの編集者が1番優しくて、また見せてほしいと言われた。
でも結局、編集部の名前が凄すぎて恐れ多いし、なにより田舎者の自分はそう簡単に持ち込みに行けないので、もう1箇所の名刺をくれた人にネームを送るようになった。
結果から話すと、うまく行かなかった。
その頃には大学も卒業の年になり、最後の思い出のつもりで卒業制作を別の編集部に投稿した。
持ち込みの時にも行った編集部だが、持ち込みの反応はかなり悪かったし、きっと今回もダメだと思っていたが、卒業旅行中の魚市場で受賞の連絡を貰った。
漠然と、自分は漫画家になる、と思っていたから、就活はしていなかった。
元々していたアルバイトをフルタイムにして、漫画を描いていた。
しかしバイトがハードすぎて漫画を描く時間はなかった。休憩時間に事務所でトーン貼りしたりしてた。
鬱になった。
正確には鬱になったのは卒業制作中、同じゼミの子と比べられるプレッシャー、作品ができない焦り、バイトの繁忙期が重なってパンクした。
ある日突然、プツンと何かが切れるような感覚があって、それ以降、目の前で話しかけられても、音声として認識できても言葉として理解できなかった。
話を聞いているのに、聞き取れない。理解できない。
当時の店長に相談して、接客から裏方作業に切り替えてなんとか過ごしていたが、色々あって結局辞めた。
元々2年で辞めるつもりだったし、漫画もバイトもうまく行かなくて、就活を考えた。2年以内ならまだ第二新卒枠がある。
それでも雇ってくれるという会社があった。絵を描ける技術を買ってくれて、新しく雇用形態も増やして、漫画の夢を追いながらうちで働けるようにサポートしてくれる、と。
すごく嬉しかったが、断った。
雇ってくれるという会社は、夜の街に近かったし、それに隣接するお店も取引先になっていた。
両親はそれが心配だったらしい。
「周りの人に、そんなとこで働いてるって言えるの?」
私は働いた事がないから分からないけど、親が言うならそうなのかも、と思ってしまって、断った。
今思えば、あの時あの会社で働いていたのが、1番幸せな分岐だったのかもしれない。
面接をしては落ち、を繰り返している間にふと、どうせ働くなら漫画に近い場所の方がいいのでは?と、アシスタント先を探すことにした。
当時はまだアナログが主流で、どこも都内で通いの募集ばかり。田舎者の自分には不可能だった。
家から自転車で行ける場所、未経験者可、自分にとっては最高の条件。
早速応募して、面接。
そこで初めて、現役の漫画家さんと話した。
作家さんの仕事場はフルデジで、ワンルームに作家さんと私用のPCと液タブが、それぞれ壁を向いて設置されていた。他は何も無い。
お互いにコミュ障で、会話はあまり弾まなかった。それでも、ネームを見てもらったり、トーンの貼り方をなんとなく教わったりした(基本的には「いい感じにして」の指示だったので、ほとんどは独学だった)。
その作家さんは漫画業界の闇に触れすぎて疲れていたので、ほとんど話し相手の役割だったが(そもそも週刊と月刊の2本連載をほぼ1人で描く狂人だった)、私にとっては貴重な話がたくさん聞けた。
あと、その話を聞いてて、「漫画家なんてなるもんじゃないのかもしれないな」、とも思った。(作家さんが毎日のように辞めたいと言っていたから。そもそも異常な執筆量を1人でこなしてたし、そりゃ辞めたくもなるわな、と今は思う。)
そこで1年半すごし、作家さんの連載の終了と共に辞めた。
その頃は、何度か原稿を送って、1番小さい賞を何度か取っていた。しかし担当さんとはうまくいかないし、原稿送っても「悪くは無いけどよくもない」しか言われず、何をどうしていいか分からない状態だった。
そしてふと、自分は今まで一度も漫画を楽しく描いた事がないことに気づいた。
展開が、目線誘導が、読者の盛り上がりが…
初めて描いた時から、そんな事を気にしてばかりで、自分自身が楽しく漫画を描いたことがなかった。
アシスタントも無くなり、名実ともに無職になり、再度就活を始めた。
相変わらず履歴書を笑われて、嘘つきな採用担当に意味不明な事を言われながら、最後に自分の好きなものを描いてみようと思った。
何を描いても、誰にも何も言われない。
好きなように、楽しく。
結果的にやっぱり「読者の目が〜」とか「起承転結が〜」とかを気にしてしまい、完全には楽しくなかったけど、それでも、今までで1番気楽に描けた。
せっかく描いたし、SNSにあげてみた。
今まで私の漫画は学校の先生と、編集部の人くらいしか見たことがないし、反応をもらえた事はない。
いいねが1万件ついた。
びっくりした。
たった一晩で想像もしない人数が見てくれた。感想のコメントもいっぱいついた。
嬉しかった。
それから、就職が決まるまでの間…と、少しずつ好きな作品を描いた。
これで漫画は最後にしようと思っていたのに、やっぱり描きたくなった。
ほとんど返事はなかったが、1箇所だけ返ってきた。
そしてそこで、いきなり連載になった。
今までもらった事ない反応が続いて、ある種のハイ状態だった事もあり、その連載もうまくやれる気がしていた。
そして実際単行本も出した。
これだけ聞くと、SNSで人気出て連載、書籍化、すごく順調っぽい。
当時の自分もそう思っていた。
でも実際は違う。
話数が増えて、人気もちょっとずつ出て、物語にちょっと複雑な内容を追加した。
とはいえ、ただエロシーンが続くだけでは読者も飽きるし面白くない。何より話が続けられない。
そして元々少年漫画が描きたかった私は、エロだけを描くのは本意では無い。
今までは「いつか人気が出れば複雑な話も描けるから」と言われて頑張っていたが、その「いつか」が来ない。
担当にはっきりと、「絵がそこそこ描ければ話なんてどうでもいいから」と言われ、自分から打ち切りを申し出た。
今でも配信サイトのコメント欄には続きを望む声が書かれていて、非常に申し訳ない。
描けなかった。
今度こそ、きちんと、話で勝負できるように。
連載の経験もあるし、単行本も出てる。今までとは違う。採用にならなくても、作品を良くする話をしてもらえるはず。
「よくこれで本が出ましたね」
持っていったネームも単行本も、今までのどの持ち込みよりも酷い評価だった。
曲がりなりにも約2年、頑張って描いていたのはなんどったのか。
当たり前といえばそうかもしれない。
過去に2社で連載をしたが、その二つ共が作品の打ち合わせはほぼ無かった。
一社に関しては一応ネームチェックがあり、エロの量だけ指示された。
もう一社に関しては、企画段階で一度だけ電話があり、メールの内容の復唱だけして終わった。以降は何を送っても「いいですね!」何も良くない。こっちが頑張って、相談しても特に取りあわれず、返事は全て「いいですね!」
一応お金をもらっていたけど、やってる事はSNSの投稿漫画と同じ。
商業作品の魅せ方のノウハウはもちろん無く、作品作りの才能がない自分には、自分だけの力で読者を惹きつける漫画を描くことはできなかった。
3度目の、「もう漫画やめよう」が来た。
悔しいけど、やっぱり自分には描けない。
その漫画は、内容にアラは感じていたが、今までで1番楽しく描けた。
その作品を持って出張編集部に行って、そこでも2社声がかかった。
描けなかった。
私の中でイメージするキャラは持ち込みの時から変わっていない。けれど、いくらネームを描き直しても、担当さんからはキャラブレ、別人になってるという指摘をされた。
だんだん自分でもそのキャラがどんな子なのかわからなくなった。
しばらく練り直して、やはり変わらなくて。
諦めて別の話を描くことにした。
そこからは真っ暗闇だった。
どんな話を描いても、中身が全部同じと言われる。
下手に考えるより、自分の好きなものを好きなように描いて、それを膨らませる。
そう言う方法で描いた方がうまくいくタイプなのは自覚していたから、そのように描いていたつもりだ。
結局実力も追いついていなかったし、描きたいものも分からなくなってダメだった。
そんな事が2年近く続いた。
別の編集部の人に、考えている途中のネームを見せたこともある。
足りないのは実力じゃなくて話の一番の見せ所だ。あとちょっとでうまくいきそうだし是非頑張って。
それは、私が初めての持ち込みの時からずっと言われている事だった。
そろそろ30になる。
二十歳で死ぬと思っていたのに、10年もロスタイムを生きてしまった。
一番仲がいいと自分では思ってたし、昨日まで仲良く遊んでたのに。
突然クラスの男子からいじめに遭い、それを一番仲が良い友達に相談していた。
男子を使ったいじめの首謀者がその子だと気づいた時は目の前が真っ白になった。
はっきりと意思表示をした。思い直してくれることに期待した。
「別にいいし」
友達を作るのが怖くなった。
どんなに仲良くなっても、弱みを握られるだけだ。
ある程度損得が考えられる生徒が多かったから、いじめにはならなかった。
3年でようやくできた友達は、卒業と同時に「私たち高校の間だけの友達じゃん」と言われた。
友達って難しいな。
親には言えなかった。
友達に言うとまたいじめられるかもしれない。親なら相談に乗ってもらえるだろう。
そのまま卒業した。
そう言われ続けて卒業した。
何人か連絡先を交換して話したりした。
仲良くなった人もいる。
ちょうどアシスタントを始めた頃で、それまでバイトの都合で服装に制限があったし、オシャレはほぼした事がなかった。
ネイルと言うにはお粗末だが、100均の安いマニキュアを買ってなんとなく色をつけて喜んでいた。
100均のマニキュアを使った事がある人なら分かると思うが、乾くのが早い代わりに、木工用ボンドみたいにペロッと剥がす事ができたりする。
オシャレに無頓着な私はそれが何となく楽しくて、塗った後しばらくたって剥がれたマニキュアをめくったりもしていた。
ある日、LINEのやりとりで仲良くなった1人に食事に誘われた。
趣味の話とかゲームとか、そう言う楽しい話をしていた、異性で初めてできた友達の感覚だった。
自分の指先が、剥がし掛けのマニキュアでボロボロなのを完全に忘れて食事に行った。
向かい合った個室のテーブルで、その爪に気づいたその人に、「ネイルやってるの?見せて」と手を握られた。
そして、ボロボロの爪を見られた。
「オシャレだね」
怖くなった。
ボロボロにハゲた公園の遊具のペンキみたいな指先を綺麗と言ったのだ。
しかも、気持ち悪い笑顔を貼り付けて、視線は全く手を見ていなかった。
男女でただの友達になれるのは大学まで、そのあと仲良くなれるのは下心のある人だけらしい。
それがたまらなく怖かった。
その後も何度か友達までの付き合いの人はいたが、例えばふとした瞬間肩を触られたり、手を握られたり。
そう言うのが怖くて続かなかった。
そのままもうすぐ30だ。
家を出る能力がないので実家暮らし、毎日両親…特に母に怯えて生きている。
「家にいるんだから家事しなさい」「他の人は外に働きに出てるんだから」
少ないながらに在宅でアシスタントはしている。
両親の中で、外に通勤していない、在宅労働は「仕事」ではないらしい。
本当は拘束時間が長い職場だが、家事があるため作家さんに頼んで短くしてもらっている。
当然、その分給料は減る。
給料が少ないから、その分早く自分の原稿で稼げるために作品作りに励む。焦る。
それでもようやく希望が見えてきて、前向きに色々挑戦できそうになってきた。
真夜中に叩き起こされ、いつ結婚するのかと叱責された。
完全に寝ていたので、はじめ何を言われているのか分からなかった。
勝手な想像だけれど、老衰で死んだ人をザオリクで生き返らせたとしても、すぐにまた老衰で死んでいくような気がする。
するとまた老衰する。
そこで、もう一度ザオリクをかけて、という具合に無限ザオリクによって、死を回避することが出来る。
どの程度の期間経過するとザオリクは効かなくなるのか?
ゲーム内では、どれだけ死亡状態で放置してもザオリクをかければ生き返る。
肉体がどれだけ腐乱していても、全く問題なく生き返るということだ。
その間、魂はどこに存在しているのか?
肉体の中にとどまっているのか?
単に肉体を再生しているだけではないのか?
ザオリクはどこへ向かっていくのか?
もし存在しているのなら、パーティ人数をチートすることさえ出来れば、世界中の全員をパーティ化することで不死の世界が構築できる。
世界は一つのパーティであるべきだし、すでにひとつのパーティであるともいえる。
魔王の死の直後、ザオリクで生き返らせる部下をがいないのはどういうわけだろうか?
動物的魔王ではなく組織を作る人間的魔王ならば、当然そういう存在を配置させているはずなのだが?
ゆえに必ず勇者の装備には魔王の復活をおさえる効力がある、とどめを刺すアイテムが必要である。
ザオリクの条件とは?
ザオリクがある世界ならば、この世界とは死生観が異なるはずである。
魂はどこにあるのか?という問題の回答はザオリク経験者に聞けばわかる問題だ。
なんの記憶もない。
なんらかの記憶がある。
ブラック度★★★★★
海外の知ってる人は知ってるけどそんなに有名じゃない大学を中退して失意の帰国。日本的なものを求めて関西圏に住んでみることにした。
とりあえずはじめたバイト先で、Web関係をやってくれる人が欲しいから社員にならないかと言われて社員になった。
週休1日。毎日8時から22時まで厨房やホールに立ちながら休みの日や帰宅後にWeb関係の面倒を見ていた。昼休みは買い出しに行かされてまともに休めず、週1日の休みは関連NPOの農作業従事(任意だけど半ば強制)をさせられた。月給18万で、手取り15万くらい。残業代などは一切なし。時給換算すると最低時給を割り込む。
あまりにも酷いので休みを増やすか給料を増やすかして欲しいと申し出たところ人格否定や嫌がらせがはじまったのですぐにやめた。我が社畜人生の汚点。残業代未払訴訟を起こさなかったことをいまでも悔やんでいる。
在職中、基本情報を取った。
ブラック度★★★★★
ハロワに見切りをつけて転職サイトから応募した小規模のソフトウェア開発会社に就職。
なんと一発目から社長面接だった。面接して情報処理の基礎確認みたいなテストを受けたらあっさり採用されて常駐先(みんな知ってる国内大手メーカー)に送りこまれた。実質派遣状態でいわゆる偽装請負というやつだった。月給23万くらいで見込み20時間の残業手当込み。常駐先がヤバくて、月平均80時間、ひどいときは100時間超えて残業をしていた。おかげて毎月35万から40万くらい給与収入があった。ボーナスはなかったので年収400万前後とか、そんなもん。ソフトだけじゃなくて電気とか、マネジメントの補佐とか、海外とのブリッジSEとか、とにかく色々なことをやらせてもらったおかげで技術者としての引き出しは増えた。
常駐先の事業部が解散してしまったので、辞める前はスポットでいろんな現場に行かされた。
会社が大口顧客を失ったのでヤバいかもと思って転職先を探すことにした。
在職中にセキュリティスペシャリスト(現情報処理安全確保支援士)とネットワークスペシャリストを取った。
あと、結婚した。
ブラック度★★★★☆
某大手メーカーの子会社に入った。年収はたいして上がらなかったけど家賃補助や確定拠出年金などの福利厚生が充実した。最初に派遣された現場がいまいち合わず、社に相談したところ関東圏でいいポジションがあるとのことで異動になった。
異動後は請負で開発していたんだけど、しばらくして親会社へ出向というかたちで実質派遣常駐の人質に出された。もと研究所メンバーが多い部署で、いい意味でみんなテキトーで社不だったので居心地は良かった。
研究開発やりながらオフショアのマネジメントとか商品開発とかもして、常時3つくらいのプロジェクトを抱えている状態だったけど、働き方改革の流れで残業時間はぐっと減った。
多くても月60時間くらい。
最終的には年収600万くらいで離職。
在職中に・エンベデッドシステムスペシャリストとシステムアーキテクトを取った。
ブラック度★★★☆☆
3社目の親会社。出向先で気に入って貰えて引き抜かれた。どうも最終学歴が高卒だったことが入社時にちょっと問題になったみたいだったけどぼくはよく知らない。上の人がなんとかしてくれた。人づてにその話をきいていたのでさすがに辞める時はちょっと後ろめたい気持ちになったけど、気持ちよく送り出してくれて本当に感謝している。
仕事内容は3社目とほぼ変わらなかったけど自分で決められる範囲が増えて楽しかった。
年収700万くらいになった。
在職中にプロマネを取った。
ブラック度★☆☆☆☆
大手メーカーにいると技術者でいられないことがわかったので、転職活動をはじめた。給与水準を落としたくない&イチ技術者でいたい、となると国内企業はほぼ全滅してしまったので欧州系の外資に入った。年収800万でスタートして半期毎に2%くらいづつ昇給した。繁忙期以外はそんなに残業はなかった。コーディング作業が多くて楽しかった。ポジションや年齢関係なく社員同士がフラットな関係を持った良い会社だったと思う。
休学したまま大学に戻ることをすっかり忘れていたことを思い出して大学に問い合わせたらすでに退学したことにされていた。本社転籍か海外出向コースを密かに目論んでいたため、ビザを取るには最低でも学士くらい持ってないとやばいかなと思って通信制の大学でとりあえず学士を取ることにした。
ブラック度★☆☆☆☆
なんとなく連絡してきた首刈り族とやりとりしていたら米国に本社がある多国籍企業に転職することになっていた。転職してしばらくすると組織変更で地方の拠点をメインとするチームに組み込まれた。そのまま関東に残っても良かったんだけど、関東の人の多さにうんざりしていたのでこれ幸いと引っ越すことにした。福利厚生はたいしたことないけど確定拠出年金の拠出額が多いので満足。仕事もそこそこやりがいがあって楽しいけど在宅ワークが多くなって無駄な会議が増えた。
派遣社員がいるのでそこの格差は感じるけど、基本的には人間関係がフラットで居心地は良い。
なんだかんだで年収が大台に乗った。
マネジメントにあまり関与しない国内のエンジニアとしては巨大テック企業を除くとほぼ上限の年収に達したと思う。
最初に変な行動を始めるのは変なやつに決まってるので、いまヴィーガンとかやってるのは元々メンヘラとか発達障害とかの精神に問題がある人間ばかりだが、これはどの分野でもなんでもそうだから仕方ない。
キャズムを越えた時点で普通の人ばかりになる。時間の問題。しかし、もしそうなったら、いまヴィーガンに“逃げて”いるような人は、もっと自分が自分らしく輝けるはずの次の依り代を求めてまた彷徨うだろう。
僕は自分に関して出口が無いとはもう思わない。
仮にそう思っていたとすればそれは凡そ十五年前から四年くらい前の間で、基本的にそのくらいに感じていた「出口のなさ」は僕の人生からは大幅に減退している。つまり僕の人生は直近四年くらいは「出口のなさ」に苛まれずに済んでいるということだ。
しかし一方でこの「出口のなさ」を他者から感取する機会が増えた。「こいつ出口ねえな」と他人に対して思うのである。正直、自分でもこの述語用法の意味がよく分からなかった。「『出口がない』ってなんすか」という話である。なんなんすか、と大分長いこと考えていたのだけれど、半年くらいぶりにようやく答えが出た。
極言すれば「出口のない」やつは基本的に選択肢が目の前に一つしか浮かんでないタイプのやつだ。
例えば、野良猫がいたとすれば、その野良猫を前にして取れる選択は幾つかある。「無視する」「声を掛ける」「鳴き真似をしてみる」など。でも、この「出口のない」タイプは常に「無視する」しか選択肢がないタイプなのだ。いや経済的に選択肢のないタイプとは違う。つまり思考が固定化されていて、ある程度以上の自由度のある選択肢を取れないタイプなのである。あるいはそこに「迷いの無さ」というポジティブな述語を導くことができるかもしれないけれど、いやそんなんじゃねえんだと。行動の固定化というのは迷いもなければ意志もない。そこにその選択肢しか無い状態なのである。
そういう奴ってホントにいるんすか? という質問に対しては、ホントにいるよ、としか答えられない。
しかもこういうタイプの人は、別にコミュニケーション能力が劣ってるとかそういうのではないのである。むしろコミュ障タイプの人よりも一定のコミュ力や社会的能力を身に着けている人ほどこういうタイプに陥り易い。つまり、一定の成功体験を経てその成功体験によって行動パターンを固定化させてしまっているパターンの人なのである。ある種の成功体験がむしろ彼らに行動の固定化を迫るのだ。「これまでこうやって成功していた。だから次からもこうやろう」と。まあ気持ちは分かるんだけど。
はっきり言ってこの自己の固定化って、つまり「出口なし!」ってな状況じゃないか? それって地獄じゃないか? と思う次第である。上手く言えないんだけど、選択肢のない状況は即ち自由のない状況に直結するのだと思う。それって端的に地獄じゃないだろうか。
かつて、十五年ほど前に僕はこの地獄から逃れるために本当に命を掛けて戦った。十五年前に戦闘を開始して僕はそれを十一年間続けたのである。だから今はその出口のなさ、自己の固定化によって苦しむことは殆ど無くなっているのだけど、今もなお当時のことを思い出すにつけあれは地獄だったと思う。ずっと僕はカフカ的地獄の中にいた。自分が一人しかいないという地獄だ。全く選択肢が無いという地獄だ。本当にそれはこの世の地獄だったのだ。
でも僕は自己の固定化から抜け出した。それは文章表現の寄与によるものだ。僕は昔から詩や小説を書くのが好きだったし、ついでに言うと歌を唄うのも好きだった。つまり自己表現が好きだったんですね。で、自己表現というのは避け難く自己の多重化である。自己の表現したものと自己それ自身は微妙に異なっていて、そこには僅かなグラデーションがある。微かな色彩の差異。表現の直後から時間が経つにつれて広がっていくところの微差。十年前のテキストはまるで他者の書いたそれのように感じられる。「これ本当に俺が書いたっけ?」てな具合である。でも本当に僕が書いたのである。
僕が救われたのは十五年前に2chの専門板『詩・ポエム』板に書いた一篇の詩によってであった。
それは本当に救いだった。
「あれ? 地獄終わったじゃん」僕の十年以上彷徨っていた地獄が、その詩を再見することによって終わったのである。それは健全な自己の多重化であった。自己が自己でありながら他者であるという経験。自分が書いたにも関わらず他者が書いたとしか思えない十年の誤差、時間差。それが心に真っ直ぐ突き刺さったのだ。僕は僕であって同時に僕ではない誰かであるという、矛盾の受容。それは、僕が僕以外の誰かであるという分裂ではなく、矛盾の解消であり受容だった。それは僕にとって明確に救いであり、救済だったのだ。
僕の人生には出口ができた。すっごくそれは素敵なことだった。何せ息ができるのだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
でも、僕が人生で出会うのは「自己の多重化・矛盾の受容」とは正反対の方向へと突き進む「自己の固定化」方面の人々である。そっちには地獄しかねえんだよそれは僕が通ってきた地獄なんだよ! というメッセージは彼らには届かない。彼らは成功を通じて地獄へと進んでいくからだ。彼らはそのやり方である程度の利益を得た経験があるからだ。でもなああああそれは地獄なんだよ! そっちに出口なんてねえぞ!
クソみたいな長文で腐女子のお気持ちではあるがカツカレーとかハンバーグカレーの比喩とかでなくストレートに捻りのないマカロンそのものへのお気持ちということはあらかじめ言っておきたい。
マカロン、名前だけはポピュラー思うものの、食べたことのある人はどれぐらいいるのだろうか。
マカロン、プリキュアでも言及されていたような気がするが基本的にさほど美味いものではないと思う。デパートによく入っているような有名なマカロン専門店のマカロンも食べたが、やはりその認識である。
マカロン、それは誰かが言っていた、仏壇に供える砂糖菓子とさほど変わらないという表現がぴったりで、見た目だけのファッションスイーツと言われても仕方がない存在である。
私自身も長らくそう思っていたが、弟にもらった神戸のある店のマカロンだけは、はっきりと次元が違っていた。
さくっ、しっとりとした優しい食感に、濃厚で複雑な味わいがぎっしりと詰まっている。
噛むほどに、極小の絶品ケーキが舌の上でほどけていく。ベタベタな表現だろう、だが、味の宝石箱や!と言いたくなるほどの素晴らしいものであった。
そこには、従来の単調な甘さのマカロンはなく、食感、香り、味といった複雑で高次元の味わい、いや食体験をもたらすそんなマカロンが存在していた。
私はすっかり、マカロンが好きになっていた。
あの食体験への驚きをなんとしてでもまた味わいたいと、帰省する弟には毎度あのマカロンを土産にするようにとお願いしたりした。
他にもそんなマカロンは存在するのかとマカロンを見るたびに買って食べ比べたりもするようになった。冒頭の有名店への評価はこのときに感じたものであるが……意外にもシャトレーゼがなかなか頑張っていると感じた。
そしてマカロンを食べ比べて感じたことは、やはりあの店のマカロンは別次元だったということだ。
そして別次元のマカロンと私の蜜月は、残酷にも唐突に終わりを迎えた。
それは直接遠方のあの店に、マカロンを買うぞと勇足で行ったときのことだ。ショーケースにマカロンが並んでいないことを確認して、店員さんに尋ねると「マカロンはもうやっておりません」と、非情にもあっさりと全ての終わりを告げられたのであった。
もう二度と、あのマカロンが食べられない。
私は絶望感でいっぱいになった。しかし大好物の食べられないこの世界でも、生きて行かなければならない。
おぼろげに面影のあるシャトレーゼのマカロンを食べては、あの店を思い出しながら自分を騙して数年を生きてきた。
……そして、再会は突然にもやってきた。
一年前、辞令が出てすこし遠くに転居した。私は軽度ではあるがアトピー持ちで定期的に皮膚科に通わねばならない身である。たまたま新しい職場で勧められた皮膚科にはじめてかかったときに、皮膚科の隣がオシャレな感じのケーキ屋であることに気がついた。
皮膚科の待ち時間というものは、何故かどこの地方のどの皮膚科に行っても大抵の場合長い。クソほど長い。半日が無駄になることもザラだ。暇にあかせて隣のケーキ屋のクチコミを調べることにした。
なんということだろう。店のオーナーは、神戸の……あの店で修行した人だということがわかった。皮膚科の待ち時間というにもかかわらず、胸がはずむ。そして、居ても立っても居られなくなって受付に「外で待ちます」と告げてケーキ屋に駆け込んだ。
マカロン。
ああ、マカロン。
ショーケースに、きっちりと色とりどりのマカロンが整列している。
あの店からも遠く離れたこの街にお前は暮らしていたんだな。奇跡が幾重にも連なったこの再会に、謎の感動が呼び覚まされる。いや、まだだ。このマカロンがあのマカロンと決まったわけではない。まずは、食べてみるほかにはない。
それだけあれば、きっと別人なのか本人なのかわかるはずだ。裏切られてしまうかもしれないのにこれ以上ないほどにうきうきとしながら私はそれを購入した。
皮膚科の順番が終わって、車のなかで包みをひろげる。見た目は、やわらかく不揃いのところもあるすこし素朴なフォルムで、有名店にありがちなシュッとした綺麗なものではない。でもそれが逆に、あの店を思い出させる。
ひとかじり、口にする。
マカロン。
マカロン、間違いなく、これはあの店の……別次元のマカロンだ。その深みのある美味しさもさることながら、マカロンと離れ離れになって、面影を探し求めて彷徨っていた期間や、そして再会に至るまでの偶然の全てが、特別な食体験となってまた戻ってきてくれたのだ。
例えてよいのかわからないけれど、ペルシアで起こって滅びてしまったマニ教が遠い中国でまだ生きているのを見つけた人も、このような気持ちだったのだろうか。そんな気持ちすら沸き起こるのだった。
マカロン、基本的に美味しいものではない。しかし、私にとってはものすごく美味しいものだ。願わくばこの店がマカロンをやめないように、私はこの店で定期的にマカロンを買おうと、残りのマカロンを噛みしめながら考えたのだった。
……雪用ワイパーが止まるために……バッテリー交換1万少々円……錆が回ってると言う指摘で……下回りの防錆7700円……雪用ワイパーは止まることしか知らず……最大価値から昆人形から黄帽子から前店から日曜日から自動背後霊へ……とお店を彷徨い……夏用ワイパーに変えるという様子見で……2800円少々……助手席と運転席のワイパーの長さが異なることを知る……キッチンからストーブを部屋に移したので……寒い……とは言え……夏休み子供科学電話相談の通り……「風は暖かいところから冷たい所へ吹き込むんだよ」……風が部屋からキッチンへと生じる……もう駄目だ……この風気持ちいい……本当にこれでお箸が付いてるんでしょうか……お答え願います……姿の見えないアイシャドウマン……なお……今日は煙草を買う時1個でいいんですかが……貧困なんですかに聞こえ……はい……1個ですと答えました……いい子何ですかにも聞こえて……はい……1個ですと答えました……
ネットスラングにおいて「地雷」とは、かつてはエロゲー用語のことだった。私の知る限りでは二十年ほど前から使用されていた。
ttps://anond.hatelabo.jp/20201209101046
当時のエロゲーは一本8,800円が基本で、タイトル名とパケ絵とエロゲ雑誌のわずかな情報だけで購入を判断していた。購入前情報と作品のクオリティに乖離が大きいこともしばしばで(端的に言ってクソゲーであること)、そうしたゲームを買ってしまうことを地雷を踏むと表現していた。次第にそうしたゲームのことを地雷ゲーム・地雷ゲー、あるいは単に地雷と呼ぶようになった。アニメは地上波放送なら無料で漫画やラノベは高くても1,000円なのに対して、エロゲーの価格が8,800円と高額であり、しかも購入しなければ内容がわからないことから、金銭的な損失のショックを地雷を踏むことに例えたのだろう。
地雷ゲームを防ぐにはメーカー名(ブランド名)や製作スタッフ(シナリオやCGのクレジット名)で判断をすればよい。しかし、新興ブランドの新作に対してはそうした戦略をとれないので、2ちゃんねる等の掲示板で感想を見てから購入を決めることが賢い判断だった。だからこそ、地雷の可能性があるエロゲーを予約するだの発売初日で購入するだのと宣言することは勇者として崇められたことだったし、感想が「〇〇は地雷だった」でもその情報は重宝されたのだ。
二十年ほど前のエロゲー業界では「はじめてのおるすばん」[2001年](以下はじるすと略す)が話題だった。発売元はビジュアルアーツ傘下のZEROというブランドであるが、ZEROは製作スタッフ名を伏せて実験的なゲームを発売することが多く、内容がクソゲーであることもしばしばだったので地雷メーカーとも呼ばれていた。当時、国際NGOが紛争地帯での地雷ゼロキャンペーンを推進していたので、それになぞらえて地雷ZEROなどと揶揄されていた。当然「はじるす」も発売前は目に見える地雷と評されていた。しかし、児童ポルノ法制定[1999年]から続く規制強化の論調に反発するかの如くに幼く見える女の子が18歳以上と言い張る公式ホームページによる紹介ページが大好評になり、エロゲー業界を超えた大きなムーブメントとなった。当時ネットサーフィン(死語)をしていた人は、「はじるす」紹介ページのパロディを見たことがあるはずだ。この「はじるす」、想定を超えたブームによる品切れが続き、なおかつゲーム内容がおおむね前評判通りでもあったので(メインヒロインがゲーム開始時に非処女であることに物議を醸したが)、地雷ゲームの汚名を返上するほどの人気作となった。発売後2~3か月ほどは、「はじるす」を求めて各地のエロゲーショップを巡回する「はじるす難民」が続出したという。今日でのネットスラングとしての「難民」の意味は、きらら系の癒しアニメが最終回を迎えることによって、アニメによる癒しに強く依存したファンが新たな癒しを求めて彷徨うことである。「ゆゆ式」や「きんいろモザイク(1期)」が放映されていたころに「難民」の用語が流行り始めたが、その元祖は「はじるす」だと思っている。
地雷の意味が変化したきっかけは、同じビジュアルアーツ傘下のイージーオーから発売された「うちの妹のばあい」[2003年](以下、うちいもと略す)であろう。当時のイージーオーは知名度は低く大きなヒット作を出していなかったものの、シナリオ・CG・システムともに一定以上の品質を保持していたので、知る人にはある程度の評価をされていた。「うちいも」は発売前の公式ホームページによる宣伝に力を入れており、なおかつ当時は妹ものブームだったこともあって大きな評判となった。しかし、イージーオーは「寝取られ」のジャンルで知られるブランドでもあったので、古参のファンと何も知らない新参者との間で大きな議論を呼んだ。「イージーオーのことだから、また寝取られ描写があるのだろう」、「いや、公式情報によると妹との純愛にしか見えないので、寝取られはありえない」という具合であった。結論を言うとバッドエンドルートでヒロインの寝取られがある。それも、ご丁寧に攻略ヒロイン全員分にだ。今でこそある程度の市民権を得た「寝取られ」だが、当時はまだ理解できる人が少なかった。純愛を望んだ多くのユーザーにとっては意図せずに「寝取られ」を見せつけられる結果になったので、作品としては不評や反感の意見が飛び交うこととなった。しかし、「うちいも」が「地雷」と呼ばれることはあまりなかった。と言うのも、「うちいも」は前作の「雨やどり」を超えるボリュームのシナリオ・CG量があり、バグや不具合もなかったので「クソゲー」ではなかったからだ。シナリオの内容についても、分岐によってはハッピーエンドもあり、そちらでは「寝取られ」も無く概ね好評を得ていたので、作品全体は「地雷」ではないもののバッドエンドが「地雷」と評されたり、「鬱ゲー」と呼ばれるジャンルを好むユーザーからはむしろ高い評価を得たりもした。これが「地雷」の用語がクソゲーを踏むことから変化して、ジャンルやシチュエーションがユーザーの嗜好と不一致することに対して用いられてきた最初の例だと思われる。ちなみに、イージーオーは「うちいも」の賛否両論の騒動を受けて、公式ホームページで「純愛宣言」をすることとなった。内容としては、今後リリースするすべてのゲームで「寝取られ」描写をしないというユーザーに向けての宣言である。しかし、イージーオーは失った評判を取り戻すことができず、ブランドは解散することとなる。
次に「地雷」がキャラクターに対して用いられた例も述べる。エルフの「下級生2」[2004年]である。エルフは今でこそ解散してしまったものの、かつては老舗の有名ブランドであった。「東のエルフ、西のアリス」と呼ばれ、業界大手のアリスソフトに匹敵するほどの人気があった。エルフは「ドラゴンナイト」シリーズや「同級生」シリーズで知られるブランドで、エロゲーをやったことのない人でもタイトル名だけは知っていることだろう。昨年アニメ放送された「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」も原作はエルフにより発売されたエロゲーである。「下級生2」の発売当初はエルフの人気シリーズ続編ということもあって当然多くの期待と注目を浴びることになった。しかしながら、「下級生2」も「寝取られ」(正確には寝取り?)が原因で不評を買う結果になってしまった。メインヒロインの「柴門たまき」は主人公の幼馴染だがゲーム開始時点で医大生の彼氏持ちという、学園ものの恋愛アドベンチャーとしては斬新な設定であった。「たまき」を攻略することは、彼氏持ちの女が幼馴染の男(主人公)と二股デートをすることと同義でもある。そして攻略を進めると「たまき」は二股がバレて彼氏に捨てられることになる。その後もシナリオを進めると、主人公との情事を重ねる際に「たまき」は医大生と肉体関係を持っていたので非処女であると告白するのだ。そのうえ、「たまき」は情事の内容をいちいち元彼氏と比較をするのだ。ゲーム序盤では、「たまき」は主人公の幼馴染でクラスのマドンナ的な存在として描かれていたにもかかわらず、その本性は性悪ビッチ女だったという展開にピュアな童貞エロゲーマーの精神が耐えられるはずもなかった。激怒したエロゲーマーは、エルフのファンクラブを退会しゲームディスクを真っ二つに割った画像をアップした。これが「たまきん事件」の顛末である。「下級生2」が「地雷」と呼ばれたことはもちろんだが、それと同じくらいに「たまき」も「地雷」と評された。これがゲームではなくキャラクターに対して「地雷」が用いられた最初の事例かと思われる。
ちなみに、00年代中頃になると地雷ゲームの呼称はあまり使われなくなってゆく。その理由としては、体験版や公式ホームページによる情報公開が進み、発売前からある程度内容を推測できるようになってきたからだ。さらに、アリスソフトの「妻みぐい」[2002年](定価2,800円)を契機に廉価ゲームが流行って、エロゲーは一本8,800円という常識が崩れたこともある。それにより、新興ブランドがクオリティの不明なエロゲーを8,800円で発売することもなくなったので、エロゲーマーが地雷を踏むことも無くなった。次第に地雷ゲームの言葉は廃れていった。さりとて、クソゲーが消えたわけではない。クソゲー愛好家の間ではHYPERSPACE(通称:超空間)というブランドのエロゲーは有名だが、「地雷」ではなく明らかな「クソ」なので地雷ゲームと呼ばれることはなかった。
なぜ「地雷」の歴史を長々と述べたのかというと、冒頭に述べた増田にて、同人界隈で腐女子が地雷という言葉を用いることを知ったからだ。今でこそ「地雷」は「下級生2」の例で述べたように、キャラクターや人物に対して用いられるのが常である。実在人物においては、合コンの相手・交際相手・風俗嬢などに対して使うことが多いだろう。しかし、腐女子は同人作品の受け入れられないジャンルやカップリングなど嗜好の不一致という意味で用いているのだ。これは「うちいも」における地雷の用法と同じである。そうした観点からみると腐女子が用いる「地雷」はむしろ原点回帰と言えなくもない。そうした意見を述べてみようかと思った。しかしながら、エロゲーとは関係ない文脈で「地雷」を用いている場で長々とエロゲーの歴史を語っても尋常者は嫌悪するだけとなるので、ツリーに表示されないようにh抜きでURLを張ってこのように長々とした文章を描いた次第である。
私は「地雷」用法は本来の意味に立ち返るべきだと言及するつもりなど毛頭ない。ただ単に、インターネット黎明期の頃から続くネットスラングが用いられた当初の時代の雰囲気を主張したくなっただけである。かつてネットスラングはエロゲーマーをはじめとしたヘビーなインドア男が生み出すのが常だった。インターネットは、現在のようにWi-Fiで楽チン接続するのとは訳が違った。高額で場所の取るデスクトップPCを用意し、プロバイダー契約にも金を払い、様々な配線を床や壁に絡ませて、頻繁にフリーズするWindowsで面倒なインターネット接続設定をする。このような芸当は、注ぎ込める時間と金の全てを家の中で消費するヘビーなエロゲーマーにしかできないことだ。手間暇をかけて接続したインターネットの利用方法はもちろんエロゲー情報の収集である。だから、当時生まれたネットスラングが現実では全く使い道の無い言葉となるのも当然のことだった。逆に、現実の言葉がエロゲーマーにとっては違う意味を持つこともある。2007年に月探査衛星の「かぐや」が世間ではニュースになったが、当時Googleで「かぐや」と検索するとエロゲーブランドの「アトリエかぐや」が最上段に表示されるというありさまだった。今では到底信じられないことかもしれないが、もしも日本のインターネット文化を構成したのが引きこもりエロゲーマーばかりだったらというおぞましい現実が、インターネット黎明期に実存していたのだ。
もちろん私もヘビーなインドアエロゲーマーだ。しかし、エロゲーから離れてもう十年以上も経つ。エロゲーとはもはや無関係の私が、「地雷とは元々エロゲー業界で用いられてきた言葉で…」などと述べたところで、誰の代弁にもならない無意味な話にしかならない。GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーは「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と演説したが、その言葉を借りれば「エロゲーマーは死なず、ただ消え去るのみ」と言ったところであろうか。しかし、職業軍人とは違い私はただの一消費者に過ぎず、しかもその趣味を現実世界では誰にも公言できないので、演説どころかこのような匿名ブログでしか述べることができない次第だ。それに、こうして長文を書くこと以外に自身がエロゲーマーであったことの証明ができないので、もはや消えていたも同然だ。
エロゲーマーは死なず、とうの昔に消え去っていたのだ。
二十年以上前の話になるけれど、小学生だった俺は、自分自身が創造したキャラクターに訪われる夢を見た。
彼らは本当に存在していたのだ! と夢の中で俺はとても興奮していた。「早く準備をするといいよ」と、その黒髪の少年が優しく促す中、家に取って返して準備をしていたところで、目が覚めた。
「あれ? 冒険の旅は……?」
そう呆然としつつも、まだ胸の高鳴りは残っていた。この喩えが適切かどうか分からないけれど、某海賊漫画で船長から誘われた船員は、大体似たような気持ちになったんだろうと思う。俺はそんな夢を見た日の朝に、幾分がっかりはしていたものの、夢で味わった旅出の爽やかさは、まるで心の溝をそっと撫でる風のようだった。
それ以来、そのキャラクターが俺の夢に出てくることは無かったけれど、でも、その夢はある意味で俺の道祖神として、その後の人生の招き手となった。
その後、少年期の俺はよく一人で山に出掛けた。知らない町に自転車で行って、その知らない辻を彷徨うのを好んだ。小さな丘を越えて、普段は見えることのない丘向こうの隣町を見下ろした。大きな橋を渡って、隣り島の海辺の町で時間を過ごした。
今では冒険の話を書くことはなく、もっとひっそりとした人間関係の物語を書いているけれど、でもその時見た夢は、俺の原体験として未だに心に残っている。人は誰かに誘われるのではなく、自分自身の呼びかけに従って旅に出るのだ。その時の気持ちを忘れないでいたい。