はてなキーワード: 孤立とは
https://twitter.com/pink_yellowish/status/1057925168406773761?s=20
【2012年】
□第2次安倍内閣発足
【2013年】
●アベノミクス発表
●東京五輪決定
【2014年】
●消費税8%引き上げ
□第3次安倍内閣発足
【2015年】
【2016年】
【2017年】
●森友問題
【2018年】
【2018年続き】
●省庁の障害者雇用水増し発覚
【2018年続き】
□第4次安倍改造内閣発足
【2018年続き】
●平井大臣 選挙運動費用収支報告書に約700万円分の無宛名領収書61枚
【2018年続き】
●片山さつき 暴力団交際者から事務所無償提供&秘書給与肩代わり
【2018年続き】
【2018年続き】
【2019年】
【2019年続き】
【2019年続き】
●安倍首相「自衛隊募集は都道府県6割以上が協力拒否」実際は9割協力
●政府統計 2018年1月から日雇労働者120万人外し賃金操作
【2019年続き】
【2019年続き】
【2019年続き】
【2019年続き】
●消費税8%据え置きの軽減税率食料品 政府指針で増税前値上げを推奨
●エジプト・シナイ半島で活動する多国籍軍に陸上自衛官の派遣決定
●塚田一郎副国土交通相 下関北九州道路建設計画「私が忖度した」発言辞任
●新元号「令和」に米NYタイムズ紙「Order and Peace(命令と平和)」
【2019年続き】
●米WSJ紙社説 日本の消費増税が「自傷行為」になるとの見解
●F35戦闘機 米報告書で未解決欠陥966件 100件以上は安全に関わる重大欠陥→政府100機追加購入
【2019年続き】
【2019年続き】
●WTO逆転敗訴 政府の「日本産食品の科学的安全性認められた」は虚偽説明
●日の丸掲揚と君が代斉唱に従わない教職員の懲戒処分 国際労働機関ILOが是正勧告
【2019年続き】
○元号が令和となる
●経産省キャリア職員 覚醒剤使用で現行犯逮捕 省内の机から注射器押収
●自民党兵庫県議谷口氏 選挙期間中当て逃げ 親族が身代わり出頭
【2019年続き】
【2019年続き】
●トランプ氏来日 過剰接待 大相撲でソファ土俵にスリッパ 日米で批判
【2019年続き】
【2019年続き】
●人口自然減 初の40万人超 出生率3年連続減 出生数過去最少更新
【2019年続き】
●国家戦略特区 政府WG委員関連会社 提案者から指導料200万円
●非正規雇用者 10人中4人に増加 年収200万円未満75%
【2019年続き】
●老後2000万円報告書「質問への答弁控える」政府が閣議決定
【2019年続き】
【2019年続き】
●国連特別報告者 日本メディア独立性疑念への日本の拒絶反応に「驚愕した」
【2019年続き】
白人ラップミュージシャン「エミネム」が主演した映画「8mile」を観た。
デトロイトのダウンタウンで生活する主人公の日常を追い、ラップバトル大会で勝つまでを描いたもの。
エミネムは、トレーラーハウスで母親と暮らし、自動車のプレス工場で暮らす日々。
アメリカ版ワーキングプアといった階層の生活ぶりがリアルに伝わってきて、ストーリーに引き込まれた。
日本より、ずっと治安は悪そうだが、荒廃した街の風景は、疲弊した日本の地方都市とも通じるものがある。
主人公のエミネムには、ラップ仲間がいて、夜の街を仲間と車で徘徊する。
実際の世の中には、友だちもいず、貧困とともに孤立、孤独に苛まれている人も多いだろう。
エミネムにはラップという特技、それを後押しする仲間もいて、閉塞した日常からの出口を見出しスターへとなった。
だから、レッドゾーンとグリーンゾーンを簡単に分けることができる。
手頃な事務室を徹底除菌してしまえば、そこがグリーンゾーンになる。
クルーズ船では、基本的に感染しているかどうか分からない人と医療の人の2種類が居て、
発症した人がでるたびに、その人が使った部屋と歩いた通路がレッドゾーンに変わる。
船内では感染者がでるたびに、レッドゾーンを辿って船外に運び出す。
感染者と同室だった人間は、レッドゾーンとなった部屋に残される。
感染者の出ていない部屋の人間は、暫定グリーンゾーンの部屋のままだが、両隣の部屋から感染者が出たら
もはや扉の向こうはレッドゾーンという、孤立した暫定グリーンゾーンになる。
14日間、ゾーンの状況を刻々と変化させながら、感染者が増えないように
頑張っていたんじゃないかなぁと思ったり。
6日前、慢性化している扁桃炎を半年ぶりに発症し、いつものように40℃まで熱が上がった。扁桃炎とは、喉にある扁桃腺という組織が病原体によって腫れ上がり、様々な症状が引き起こされる病気だ。そもそも免疫の役割を担う部位なので、その症状は正しい反応ではあるが、僕のそれは大きすぎて、過敏に反応してしまうらしい。
扁桃炎を初めて発症したのは大学2年生の夏頃で、それから2年半が経つ。合計で6回ぐらいは発症しているだろうか。今までの発症時期から推測すると、台風が近づく等の理由で気圧が変化したときと、気が抜けたときに発症するらしく、今回はおそらく後者だ。大学最後のテストが終わり、バイト先の塾で担当していた生徒の受験が終わったことは、今までの緊張を一気に和らげたのだろう。
そんなわけで発症した扁桃炎だが、これがめちゃくちゃつらい。基本的に40℃前後の熱が3日ほど続いて、そのあと2、3日かけて徐々に熱が下がっていく。その間、なんの生産活動も知的活動もできないのでストレスは溜まるし、何より体力的に厳しい。今回も5日目まではこのルートを辿っていったのだが、6日目の今日、初めてそこから逸れた出来事が起こった。
体温が40℃になっていた。「あれ?」と思って再度測り直しても同じ体温を示す。全く意味がわからなかった。いまだに体調は優れないものの、明らかに症状は軽くなっている。もしかしたら、高熱に対して自分の感覚がマヒしてるのかもしれない。とりあえず長期戦に備え、後輩に買い物を頼む。冷蔵庫はおかゆとポカリでいっぱいだ。新型コロナも疑った。厚労省の相談窓口に電話すると、「3つの条件のうち1つでも当てはまったら各自治体の相談センターに連絡しろ」とのことだった。全く当てはまらなかったので、相談対象者ではないらしい。
やることがなくなり、落ち着きを取り戻してきたので、一旦ゆっくり考えてみる。なぜ体温計は体調に見合わない高熱を示すのか。体温計の故障をまず疑ったが、実際に脇を触るとめちゃくちゃ熱い。というか、脇だけがやけに熱を発しているようだ。「なんか変なことしたかな…?」と思い今日1日の行動を振り返ると、一つだけ心当たりがあった。
朝、脇にデオナチュレを塗ったのだ。恥ずかしながら私はワキガ体質で、ワキガ用の手術はしたものの、今でも臭いが少し残っている。デオナチュレはミョウバンを主原料とした消臭剤で、良く効くので愛用していた。「ミョウバンって発熱反応なかったっけ?」と思い、調べてみると、水を加えると発熱するらしい。そこで左脇を丹念に洗い、水気を良く拭き取り、再度体温を測ってみる。
ビンゴだった。体温計は37.8℃を示し、それは今の症状の度合いとちょうど釣り合っていた。4日後の旅行に行ける安堵感と、たくさんの買い物をさせてしまった後輩に対する若干の罪悪感を覚えながら、こんなことを思いついた。
「これ仮病に使えるやん!」
最高の名案だと思った。ネットを調べてもこのライフハックを知る人はいない。この度が過ぎた情報社会で、こんな有用なライフハックを自分が発案したという事実に震えた。ただ、よく考えてみると「高熱を示す体温計を提示することによって、休むことが認められる」という状況は実は少ないのかもしれない。社会人が会社を休むとき、わざわざ体温計を見せるのだろうか?色々と考えた結果、上記の状況が確実に成立するのは、「小中学生時代において学校、習い事等を休むとき」だと考えた。
そしてそれを考えついたとき、自分の中学校時代が頭に浮かんで離れなくなった。あのときに使えたなあ…と考えだすと止まらなくなってしまった。
私の生まれ育った町は、地理的に孤立しており、独自に発展を遂げたタイプの田舎だった。いわゆるムラ社会だったので、うまく周りと同調する必要があり、地理的特性故に逃げ道が全く見えない環境だった。
小学校のとき、少しいじめられた。いじめっ子に同調した言動に変えることでいじめはなくなった。3年生から野球を始めた。理由はひとつ上の兄がやっていたからという一点。家系的に代々運動神経は良かった。私だけ少し悪く、特に足は遅かったが、世間の平均と比べれば明らかに上だった。実際、高校の体育の成績は3年間続けて10点満点だった。ただ、レギュラーには一度もなれなかった。ミスが多発する少年野球の性質的に、足が速くてかき回せる選手が好まれるからだ。一度レギュラーの一人が怪我で離脱したとき、代理で2週間ファーストを務めた。めちゃくちゃ活躍した。打率は5割を超えてたと思う。でもその子の怪我が治った途端、すぐベンチに座らされて、たまに代打で出る程度に戻った。ここまで層の厚いチームはめずらしいと言われたが、どうすることもできず、ただ悔しいだけだった。
地元の公立中に進んだ。Fランではない大学に進んだ人が200人中20人くらいの、いわゆる低学歴の世界だった。続けて当然、という雰囲気に合わせて野球部に入部した。同級生がグレ始めるだけでなく、既にグレている先輩との付き合いも始まった。部活の顧問は勝利至上主義者だった。教育的な観点は全く持っておらず、ただ自分の願望を叶えるためにやっていたような人だった。そのために、最初の段階で完全にレギュラーを固定し、補欠には何の機会も与えない。公式戦はおろか、練習試合にもまともに出さない。出すとしても2軍試合のような形だったので、相手がかなり弱く、活躍しても何の評価もされない。ただ恥をかかされているだけだった。平日全てに朝練と午後練があるだけでなく、土日も休みは基本的に無いため、疲労はかなり溜まっていた。当然、授業は睡眠時間となる。
公式戦には1秒たりとも出させてくれなかった。練習試合でも、他の上手いメンバーと一緒にプレーをしたり強い相手と対戦することはなかった。一生懸命に見える、という理由で明らかに自分より下手な奴の出場機会が多かった。片道4時間をかけて泊まりがけで遠征したとき、たくさんの練習試合が組まれていたにも関わらず、自分だけ出場機会がなかった。チームは結局、最後の大会で全国まで進んだが、ずっと「早く負けろ」と思っていた。最後の全国大会は背番号さえもらえず、観客席に放り込まれた。やる気がないように見えるからと言われた。全国大会なので色んな人が見に来ていた。チームメイトの保護者はもちろん、先生や同級生も来ていた。ベンチにも入れなかったことを悟られないよう1番前の席に陣取り、一切振り向かないようにした。
ずっと辞めたかった。でも辞められなかった。裏切り者の烙印を押されたくなかった。唯一の社会であった学校が、自分の居てはいけない場所になってしまう。
月に1日だけでいいから、憂鬱な気持ちを抱かなくていい日が欲しかった。周りを納得させられる、部活から逃げる術が欲しかった。
たまにズル休みをするだけなら、根本的には何も解決されてないかもしれない。現代の感覚から言えば、さっさと部活をやめて他のコミュニティ持て、という解決策になると思う。でも、やっぱり中学生当時の自分にそれは難しい。あのとき、目の前で高熱を示す体温計を見せることができたら、どれだけ気分が楽になっただろうか。
夜中になると、なぜ自分がこんな目にあわなければならなかったのかと思い、涙が止まらなくなる。現在21歳、大学3年生。半年前に目が8年ぶりにちゃんと見えるようになった。中学1年生の頃からである。8年間本当に長かった。
8年前の秋頃、中学1年生だった私は小学校以来のゲームのやりすぎで視力が低下していた私は黒板の字が見えづらくなっていることに気づいた。眼科に行き、視界が悪くなっていることを告げられ、まだ外見などあまり気にしていない半分小学生脳だった自分はメガネをかけることに決めた。いわゆるガチャ目で、左目が0.2とかなのに対し右目がほとんど見えない0.01みたいな状態だった。ゲームをやるときの姿勢が悪かったのが原因かもしれない
ここまではよくある話だし、目が悪くなるというのが怖かったとはいえ周りにもメガネをかけている子供はたくさんいたので、絶望感のようなものはなかった。メガネをかければ普通に周りが見えるようになったし、日常生活に支障はなさそうだったからだ。
しかしいざメガネ生活が始まると、以前とはどうしても変わってくることがあった。一つはメガネキャラが定着してしまったこと。もともとそんなに明るくない性格だったのがメガネをかけたせいでさらに暗くなってしまった。別に友達づきあいは変わらないんだけど、中3にかけて子供が見た目を気にしだすようになるなか自分の見た目の悪さも気になるようになってしまった。
そしてもう一つは激しい運動がフルでできなくなること。メガネをしているのでサッカーとか野球とかできるだけ端っこで見るだけになってしまった。中学の時はサッカーに無理やり参加してメガネが割れたことがある。中学3年生の頃には自分のことがのび太のように見えたし、周りからもそう言われるようになった。
ここで何故コンタクトを使わないのかと思うかもしれないが、これがこの悩みの大きな問題点だったのだ。自分はどうやらコンタクトが合わない体質らしく、眼科に行ってもガチャ目だからコンタクトが合わない、メガネじゃなければダメだと言われていた。実際コンタクトをつけてみると、とにかく気持ちが悪い。つけていると船酔いのような気分がして額から汗がだらだら出てくる。一回コンタクトをつけて学校に行ったことがあるが耐えきれずにコンタクトを外してしまった。いわゆる眼精疲労というやつなのだが、本当に眼精疲労?と思いたくなるような症状が出てくるので、いやいやメガネに戻さざるを得ない。
そして高校生活が始まると、この外見コンプレックスに散々悩まされることになる。もともとメガネが似合う顔でもなく、絶対ないほうが良いのだけど、メガネを外すことができない。この消せないコンプレックスが悩みの種で奥手な性格がさらに奥手になり、高校ではあまり周囲に心をひらけなかった。別にいじめられていたわけではないのだけど、とにかく自己評価が低くて周りと上手く接することができなった。なんというか顔に傷がある感じなのである。だから人前に出るのがいやだった。
それだけ自己評価が低いので、常になんか暗いオーラが出ていた。自分の姿が嫌で写真に写りたいとも思わない。だから高校時代の写真はほとんどない。だけど頑張れるところは頑張ろうと思って勉強は頑張った。順位が貼り出されて学年一位という経験もしたのだがクラスで友達がいないためご飯を食べる時は一人という惨めな思いを味わっていた。今思えばそんなの気にしなければいい話なのだけど、それがいやでいつも教室の隅っこの方にいた。運動も十分にできないのでだんだん運動神経は落ちていき、本当に勉強のできるのび太くんみたいになっていた。自分の長所が勉強しかないのが嫌だった。
だから高校1年生くらいの時から視力回復トレーニングを色々やって見たのだが、如何せん効果がない。あの手のトレーニングはたまにネット上で効果があったとか書いてあるが、ほとんど無理である。一度目は悪くなったら自力で視力は回復しないと思う。だから高校12年生の頃は本当にどうしようもなくて、とにかく外見コンプレックスに苦しんだ。
そうこうしてるうちに高校3年生になった。17歳という、人間として容色がもっとも美しくなる頃、受験勉強とともに私のこの外見・視力コンプレックスはさらに肥大化した。大学受験の不安よりも私は一生このままなのか、見た目にコンプレックスを抱え続けなければいけないのかという不安の方が大きかった。本当にメガネが外せないのかと悩み苦しみ、勉強そっちのけで眼科に何件も通い、なぜかメガネを10本近く買った。大学病院での検査も検討したが、大学受験との兼ね合いで断念した。そんなものだからそれまで維持していた成績は下がり始め、大学受験は第一志望に受かることはできず、コンプレックスも解消されないまま大学に進学した。浪人という選択も考えたが、当時のコンプレックスははっきり言って異常で、浪人したら今受かっているところにも受かるような気がしなかったため浪人を断念した。
大学に入ってからもこの外見コンプレックスに悩まされた。最初の頃は無理やりコンタクトをつけて登校していたが、だんだんきつくなってメガネに戻してしまった。そしてメガネにすると人前に出られない(?)ので、サークルも次第にフェードアウト。大学1年の秋には学内で自然と孤立の道を選んでしまっていた。そんな人間が生きる道はインターネッツで、授業から帰宅してはネットサーフィンをする毎日を一年冬〜二年秋まで送っていた。ネットサーフィンをしているうちにコンプレックスを忘れようとしていたのかもしれない。だが、20歳になったタイミングでまた忘れていたコンプレックスが再発がした。成人というのは大きなイニシエーションで、私の忘れようとしていたコンプレックスがまた復活していたのである。
今度はさらに孤独コンプもこじらせていて、高校の同期が大学で楽しくやっている中自分は部屋で一人ネットをしているのがコンプレックスになった。正直もう外見なんか気にしないで普通に人と付き合えばいいというのはわかっていた。でももう二年が終り、就活が始まるという段階で今更人付き合いを増やせるとも思えなかった。だから二年の冬休みはとにかく暗くて、どうすればいいんだろうという気持ちになった。不安と苛立ちが爆発し、家族にわけもなく当たり散らすようになった。散財もするようになった。一種のパニック症状である。原因不明の病というのはどんなに軽傷でも人の精神を不安にするもので、私の心は不安に押しつぶされていた。人間の思い込みというのも一つの病だと思う。
そして2019年の5月に、最後の望みをかけてそれまで行った事のない眼科を受診した。もう大方視力回復に間することはやり尽くしていたので、唯一やっていなかった。オルソケラトロジーという治療法にかけてみた。治療内容はググって欲しい。結果、オルソケラトロジーでも視力は回復せず、私のコンプレックスは解消されないみたいだった。
オルソケラトロジーを行う際に渡されたレンズを目にはめても一切気持ち悪くなかったのである。
オルソケラトロジーは夜間に角膜を矯正するためのレンズをはめて就寝し、翌朝になったら角膜が矯正されているので視界がよくなるという治療法である。この夜間にはめるレンズを昼間につけていても、全く気持ち悪くならなかったのである。
中学1年生以来、およそ8年の時を経て裸眼で見る世界はとにかく新鮮だった。少し度が弱かったが裸眼で道路を歩ける。水泳もできるしサッカーもできる。近くのビルの社名が裸眼で読める。夜は月がブレずに見える。鏡をみてもあの忌々しいメガネはない。あの時は嬉しかった。私が8年間、青春の間ずっと苦しんできた悩みはいとも簡単に解決したのである。
8年間の悩みが解決した理由もよくわからないのだが、私はどうやら「ソフトコンタクトだと体質的に無理なのだが、ハードコンタクトなら大丈夫」という事だったらしい。理解不能である。確かに私はコンタクトなんてどれも同じと思って、安いソフトの方を買っていたが、そんな意味のわからない解決法はネットでどれだけ探しても見つかったことがなかったし、中学一年生の時から百回は受診したどの眼医者もしてくれなかった。
目が治ってから、私は号泣した。普通病気が治ったら嬉しいと思うかもしれないし、私もそうだろうと思っていたが、こんな意味のわからない理由が原因だったこと、外見コンプレックスのせいで今まで失ってきたものが多すぎることに嗚咽し、自暴自棄になり、さらに家族に当たり散らすようになった。8年間もコンプレックスに苦しんだこと、そのコンプレックスが実はすぐに治ったことを受け入れることは難しかった。ストレスの度合いでは大学受験に落ちたことなんか大したことではない。私は12-20までの8年の間でもっと色々なことに挑戦できただろうし、もっと色々な人と仲良くなれたはずなのである。
8年間の理不尽は私から自尊心を奪い、一気に自暴自棄に陥らせた。3年春学期の単位は全て落とし、gpaは目も当てられない数値になった。部屋は片付けなくなった。暴食を繰り返し、体重は半年で10キロ増えた。家中の皿を割った時は家族から家を出て行けと言われた。
学生時代のほとんどを思うように過ごせず、就職というラウンドまで来てしまった。現実を受け入れられなかった。3年の秋はなんとか学校に行っていたが、授業を受けている間も病的にずっと後悔していた。後悔先に立たずだけど、あの時ああしていればというのをずっと考えてたら1日が終わるとかザラであった。留年したので就職なんてどうでもいい。21歳の誕生日は家族以外誰も祝ってくれなかった。家族からも暗くて一言も喋らないから怖かったと言われた。
カウンセリングに年明けから行ったが、正直今できることをやれ、気にするなとしか言われず、自分でもそれしかないとわかっていたので行く意味はないと思ってやめた。しかしテストを受けるまでずっと落ち込んでて、単位も半分くらい落としたと思う。せっかくコンプレックスが解消した顔は激太りした上にやつれきっていた。
ただテストを終えたくらいから、ずっとこのままでもどうしようもないというのは体がわかってきた。ようやく、現実に脳みそが追いついて気がする。もう一度三年生が始まり、就職活動も始まる。何一つ悪いことはしていないのだが、人生を再スタートさせなきゃ行けない。今まで失ってきた分、これからはいい人生を歩みたい。
一人だと寂しいってのが全く分からない。
IT土方のいわゆる偽装派遣もどきで某大手I社の業務に送り込まれて
そこの連中となじめず精神破壊寸前まで追い詰められた過去が俺にはあるからな。
2年くらいそこにいて地獄を味わい気が休まったのは一人逃げるように昼外食してた時と、
やっとの思いで帰って来て家でホットコーヒー口にしてぼーっとしてた時くらいだった。
首寸前でようやく契約満了してその満了日そこの雇先に「あなた今日は生き生きしてますね。」と(おそらく嫌味で)言われて
心から「はい!」と答えてドン引きさせたほどだった程の悪夢だった。でもあの「はい!」に全く後悔はない。
あそこから離れて今は普通にやってるし今の会社の連中とは普通にバカ話もしてるし関係は全然いいと思うが、
少なくともプライベートには誰も入れたくないんだ。
もともとその気はあったと思うが、あれ以来特にプライベートは一人じゃないとだめなんだ。
自分があの地獄を耐えて今があるのはその逃げ場所があったからだと確信してる。
それがなくなったら自分は光速で崩壊するだろう。自分には一人の瞬間がない状態なんて絶対に耐えられない。
話したきゃ適当になじみの店に行って店員とだべるよ。それで十分だ。
世の中未だに俺に結婚しろよ一人じゃ寂しいぞと言ってくるのいるんだけどさ、
でも、あの地獄を経験してる俺には届かないよ。孤独地獄なんて集団の中に孤立するから感じるんだよ。
平たく言えばいじめだってそうだろう。一人じゃない。だから苦しさが倍増する。理解のない連中が周りにいるほど恐ろしいものはない。
そういう連中ほど追い詰められて事を起こすといけしゃあしゃあと「相談してくれればよかったのに」とか「自分は悪くない」って言うんだ。
全部がそうだとは言わんし、そうじゃない事例もある。I社はそうだったかもしれんが少なくとも今俺がいる会社はそうじゃないと思ってる。
俺だって後輩にそういう思いはさせたくないから相談されたら極力親身に答えるよう俺なりに気は使っているつもりだ。
ただ、俺自身にはあの悪夢の2年が強烈すぎたようだ。あの2年で俺は一生一人の方がいいと思ったしそれから10年たっても変わってない。死ぬまで変わらないだろうとも思っている。
吐き出させて下さい。
私は産まれて30余年、常に独りでした。
別に孤児でもなければ、天涯孤独でもありません。話し相手は少ないながらもどの年齢でもいたし、いじめを受けたわけではありません。
それでも私は、どうしようもなく孤独でした。どこで誰と何をしていても、自分が何物とも繋がっていないような感覚ばかりがありました。
理由は何とでもこじつけられる気がします。望まれて産まれたとは到底信じられない家庭環境。遺伝的、精神的欠陥。それらを覆せなかった自分の弱さ。
…思い出せる昔の記憶は、階下から響く両親の罵り合い、私が男でありながら腰を振る兄。視線ひとつくれず、仏頂面で鬱陶しそうな顔で過ごす母。家事をろくにしない母への憎しみを私にぶつける父。
記憶にある唯一の母の声は、休日の朝に朝食をせがんだときに聞いた、「風邪ひいたから」という子供でも分かるような嘘。塩ごはんや牛乳ごはんなどという手料理も、それが普通だと信じたかった。
両親は自分の問題だけで手一杯で、明らかに私を愛していなかったが、それでも奇妙なバランスの上で形を保っていた。だから消極的にも期待していた。いつか両親が真っ直ぐな愛情と関心を私に向けてくれることに。だから耐えるように、道化を演じてみたり問題を起こさないよう強く自分を抑え込む術を自然と身に付けていった。
同級生達とは、関わる度に違和感を感じていた。彼らから発せられる、家族からの温かい愛情やそれに基づく自信めいたものを感じるのが辛く、眩しく、何より悔しかった。私もそうありたいと願い同じように振る舞うのだが、自分を偽った罰なのか、常に自分の中にヘドロのような憎しみが募り、それがときに漏れだしては、私の人間関係を破綻させていった。
…ある日、母が消えた。言葉ひとつも、書き置きも無く、突然と。だが何の感情も湧かず、涙も流れなかった。幼心に予想と覚悟はしていたのだろう。そうして、孤独と共に生きるというテーマが課せられた気がした。…それからは、忍耐から麻痺が生きる手段だった。
家はまるで会社のように感じた。父という経営者の下、勉強という仕事の対価に衣食住という報酬を得るような環境。己を律しきれず感情を顕にすれば、待っているのはクビ、つまり死ぬこと。逃げ出す勇気も、自分で環境を変える強さも無かった。経を淡々と読み上げるような修験者のように、無痛のうちに日々が流れていった。
不幸にも中途半端に事務処理能力が高かったのか、大学に入学できた。大学は理系で、物理を専攻する学部だった。今にして思えば私はそれそのものには興味は無く、ただただ盲信できる唯一無二の真実を、家族や自己の内面ではなく、外側の世界に求めていたのかも知れない。
契機はすぐに訪れた。その頃の私は誰の、何の助けも無く生きることに歪んだプライドを懸けており、独りの力で講義をこなそうとしていた。しかし当然のように挫折した。当然のように孤立した。
ある朝、いつもと同じように無痛のまま大学へ向かおうとしたが、体が動かず、講義をサボった。その日からぷっつりと糸が切れたように、大学に行けなくなった。
そしてそのまま2年間引きこもった。無痛という手段も通じないと分かってしまった私には、生きるために何をすればいいのか分からなくなってしまった。しかし罪悪感以上に、解放感と、呪縛から逃れたような安心感があった。そして同時に、いよいよプライドも生きる理由も意欲も自負も、全て失った。
兆候はあったがその頃から急激に死に惹かれるようになった。自分が事故や病気でいきなり死ぬ妄想をしたり、楽に死ねるという情報から練炭と七輪を買い、日常的に自傷をし、着々と死に近付いていった。流れる血と生々しい傷に、不気味なほど安堵と溜飲が下がる思いを感じた。堆積した恨みの攻撃性の解消と、自罰感情と、ボロボロの精神の投影先を見出せる行為だった。それゆえ日々エスカレートし、あるとき刃が大きな血管を切った。噴水のように噴き出す血を眺めながら、まだ死ぬ準備が整っていなかったため、止血の処置をした。特に感慨は無かった。ああ…あのまま放っておけば死ねるんだ…と、妙に冷静になっていた。
そこから、少し何かが変わった。本当に死の一歩手前にまで陥っても、やっぱり私に救いの手は差し伸べられず、また自分の力で生き残ってしまった、と思うと、諦めを通り越した何かが芽生えた。自分は生きることも死ぬこともできない、苦しみ抜いて幽鬼のように漂うのだろう。歪んだ悟りのような暗い閃きを覚え、そこから自傷は少なくなっていった。そこからの記憶はほとんど無い。大学へ行かず引きこもっていることがばれ、地元へ戻った。また無痛から忍耐の日々へ逆戻りした。挫折を経験したが再起を図る息子を演じつつも、心の底では誰かが殺してくれることを願うばかりだった。
そしてまた不幸にも、さほど時間は掛からず定職に就いた。待っていたのは、学生時代より遥かに開いていた周囲との差。普通の人々が青春や友情や愛情を経験している間に自分がしたことといえば、暗闇の中でもがき蠢いていただけ。真の孤独は人と人の間にあるという言葉通り、人に近付く度に遠く感じた。
…しかしそんな生活もそれなりの期間が経てば慣れていった。相変わらず人間の振りをするような不自然な過ごし方であったが、歳を重ねた恩恵なのか、排斥に対するヒリヒリとした警戒心、切迫感は和らいでいった。多様性を容認する組織だったからかも知れない。孤独は続いていたが、別種の孤独を抱えた年上の人々との関わりが、私の乾いた傷口を薄く濡らした。
そんな積み重ねから、ようやく初めて「人間」というもの形の一端に触れられた気がした。同時に、自分の家系の歪さを思い知らされた。そして、ようやく家系が受け継いできた負の連鎖に気が付いた。
狡猾さと傲慢さ。口では愛を語り、家族を意のままに操作し、自分の理想を叶えるための道具としようとする悪辣さ。その邪悪な気質を、互いに感じ取っているからこそ罵り合い、また山彦のように帰ってゆき、自分をも傷付ける。そんな不毛なやり取りをしながらも、本当は誰よりも自分が得をしたい、愛されたいと思っているからこそ離れられない。その矛盾と混沌の中で、私の家系は奇妙な内臓のようにぐぎゅるぐぎゅると腐って混ざりあっていた。
私は先月、家族と絶縁した。帰省しない私に業を煮やし職場に押し掛けてきたとき、従わぬ者に実力行使をする傲慢さに、どうやらこの人達とは一生分かり合えないらしいと確信した。
いよいよ社会的にも孤独になったが、さしたる感慨も無かった。きっとこれもどこかで予想と覚悟を済ませていたのだろう。私の手元には、いつの間にか独りで生きるには充分な資金があったのも、このことを予見していたからのような気さえする。
今になって思う。私は無意識のうちに、生きるための最善を選択していた。代償や失ったものは多いが、今では孤独も不幸も憎しみも、その先にある役割、天命のようなものを果たすためだと感じるようになった。両親や神の寵愛を受けて産まれた者と、孤独に魅入れられように産まれる者もいる。そうしてその中間が中庸となり、人々の生き方の基準が出来上がる。そういう仕組みなのかも知れないと、ぼんやりと考える。
相変わらず生きる理由も意欲も無いが、自分が生き続けることには何らかの意味があるから、こうして結果的に死んでいないのだと思う。人生のどの段階でも、死のイメージといつか自分は人を殺すだろうという直感があった。人生のどの段階でも、自分を解放して周囲を巻き込んで破滅することはできた。だがその度にそれを踏み留ませてきた何かを知ることが、目下の関心だ。天寿を全うする気はさらさら無いが、何らかの答えを得るまでは生きてみようと思う。それをもし得られたとき、孤独の意味と真の栄光を手に入れられると信じて。
…長くなりました。ここまで見ていただいてありがとうございます。
いやね、コレはクラスの真ん中より下に居た人間なら分かる話だろうけどね
それなりにスクールカーストが高い所でキラキラと発光してるリア充様が、
ちょっと高い自転車を通学に使ったくらいで不愉快になるイジられ方はしないんですよ。
残酷だけど
だからこの子は気を使われる立場の人間ではないんだよね…残酷だけど
そもそもこんな相談を、ネット投書に匿名で投げてる時点ででさぁ
リアルで身近に肯定してくれる同年代が居ない、最下カーストより少し上くらいのキョロ充でしょ?
その「友達」とやらには随分と下に見られてるよね ストレートに言ったら舐められてる
残念だけど、その「友達」は君がどういう逸脱をしても舐めてかかるし不愉快なイジりをしてくるよ
「『その友達に』認められたい」って欲望があるなら、残念だけど中学卒業しても絶対に叶うことが無いから
彼らは君の努力や筋トレには興味がない 君を笑うダシとしてしか見てないからね
だから本当に自転車が好きなら、その自転車だけを友達する覚悟でボッチになってツッパり続ける必要があると思う
それはとても険しいけど、そこまで熱中できるならそれはとても立派なことだし、頑張ってほしいと思う
とは言え、この投稿…どうも行間から良くない欲望の匂いがするんだよね
珍しく侮蔑を込めて投げつけている「イキリ」って言葉に集約されてるんだけどさ
違うよね?
中学生に不相応な高額ブランド品が手に入って見せびらかしたいんだよね?
友達にも本当は一目置いて貰いたかったんだよね? 「羨望の目」で見てほしかったんだよね?
そこは認めないといけないと思うよ
そういう感情を見透かされてるから、「友達」は君を容赦なくイジってるんだと思う
俺だってそんなスノッブ野郎が物欲しげなドヤ顔して近寄って来たらいい気分はしないよ
こういう部分で自分に嘘を付くと、絶対に手に入らない物を追いかけ続けてマジで苦しむからな
まずは自分の欲望を一度整理して、「出来ること」と「出来ないこと」を切り分けるべきだと思うわ
とりあえず、今の友達に「自転車で」一目置いてもらうのは「出来ないこと」リストに入れていいと思う
・「自転車が好きでずっと乗ってたい」なのか
をハッキリさせるところから始めるべきだと思う
前者なら元サイトの回答者の言う通り、孤立覚悟で自転車を極める方向で頑張ればいいと思う
私はスキが多く、人に付入られやすい性格だと自分がいちばん分かっている。
ただそれを、自分が「演じている」、「まだ御せる」と思ってしまったのが今回の敗因にいちばん近い。
気がつけば私に付け行ってきた奴らに聞きだされた情報が勝手に立ち歩き始め、尾が付きヒレがついて私は孤立してしまった。
いや、孤立したと感じた時点で負けへの道をひた走っていた。
強くあろうと決めた自分の心に背を向け、守りに入ったところですでに勝負が終わっていた。
ぎたぎたにしてやれば良かったのに。
失うものなど何もなく、人間関係は勝手に雑草みたく生えてくるものだと信じていた強さが私にはもう無かった。
ぎたぎたにしてやれば良かったのに。
孤立したことがこれほど心に痛みを与えるのなら、私はもっと早い段階で誰かに助けを求めるべきだったし、
それでも今も「じゃあ誰が助けてくれるっていうんだよ?」という猜疑が消えない。
実際。ただの内輪もめだよ、そこに猜疑なんて表現を使うのもおこがましいけれど。
ただコトがデカくなりすぎて私の手には負えなくなってしまった。
喧嘩を売ったのは確かに自分だったんだけど、見境がなさすぎた。
今になればもう少し受け流して耐えるべきだったのに、私の辞書には「耐える」項目が無い。いつだってすぐ逃げるし、目をそらす。それでも瞬間的に逃げてる自分がイヤで、目をそらしている自分がイヤで立ち向かってしまう。それがいけない。
逃げるなら時速150キロぐらいで逃げ続ければいいし、受け流す方法もそろそろ学んだほうが良いと、わかっては居るんだけどねぇ。
なんか人間性を否定してくる女とは全くうまくいかない。アドバイスおじさん、おしゃべりクソ女、井戸端会議。
黙って仕事しとけ、ボケが…お前らにそれぞれ悩みがあるように私にも深い闇があるんだよ。障害者は免罪符ではないが障害者の気持ちが誰にわかる?
夜の明かりのない雨の高速道路をひたすらかっ飛ばしてるような気持ちで3ヶ月ぐらい過ごした。障害物やカーブに気をつけて運転するだで精一杯だった。
だったのになあ。
あの女、終生忘れることはないだろう。
「私は悪くないし何も知りませーん!」そういう最終奥義みたいな自己防衛が出来る態度、どっから出てくるの?
愛されて育つと自己肯定感が爆発するの?承認欲求とのカクテルで須らくメンヘラになるの?
メンヘラは社会に出てこないで欲しい。褒めるためにもリソースがいるし。
正直わかりません。
「誰かは見ててくれると思うよ」
はい。
文春オンラインの”オリラジ中田敦彦を「フェイク問題に警鐘を鳴らす芸能人」扱いしたNHKの罪 「YouTube大学」問題の核心は、内容の誤りではない”という石動竜仁の記事を読んだのだが、江戸の仇を長崎で討とうとしてる感じが否めない。
それは世の中に責任ある立場でフェイクやデマを垂れ流してきた人があまりにも多く、Youtuberとして教養バラエティやってるだけの中田の間違いを殊更にあげつらうことの正当性を主張することの難しさにようやく気づいたからだと思われる。
NHKはマスメディアそのものであるので誤報に対する責任はただの芸能人やYoutuberとは比較にならないほど重い。
中田敦彦自身をダイレクトに批判することはためらわれても中田敦彦を発言に責任を持つ人であるかのように報じたNHKに対してならば堂々と批判を展開することができる。
あわよくば今後中田敦彦をNHKに出演させないことで自分にとって腹立たしい誤りを垂れ流した中田敦彦に対する意趣返しとしたいという意図が透けて見える。
2018年の関空孤立時の悪意なきフェイクの拡散が一人の外交官の命を奪ったというようなことを石動は書いているが、ネット世論の暴走や中国側の情報操作の可能性などさまざまな要因がからみあうこの事件自体を教養バラエティでの誤りをフェイクは人命に関わる問題だと短絡させるのはかなり無理があるし、誰であってもそういうニュースに対してコメントを求められればそういうしかない無難なコメントをあげつらって、あのときに「責任をもって発信することが大事」といったのに発信に責任をもっていないというのも少々大人げない。
大人げないからといってNHKに対しておまえがあの番組で中田を持ち上げた責任を取れというのも筋の違う話だろう。
多数の中田敦彦ファンからの(理不尽な)批判を浴びてついかっとなって勢いで書いてしまったのかもしれないが、進んで誤りを訂正する気にすらならない人命に関わるでもない問題に他人の金儲けに対するやっかみから中途半端に首を突っ込んだ自身の不明こそ反省してもらいたいと私は思う。
もうひとついえば発信の責任には発信者の身元を明らかにするというものがある。
増田の私は発信者としての責任を放棄している(責任を追求することも可能だろうが)、筆名だけで顔も出さない自称”ヴァーチャルネット売文業者”の石動竜仁(dragoner)はリスタートできる退路を残している点でやや無責任、低品質な教養バラエティも自分の顔と名前で発信している中田敦彦は自身のブランド毀損についてそれなりの責任とリスクを負ってやっているということもできるだろう。
おなじく孤立した