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2021-04-24

5年間不登校だった息子

昨日、めでたく高校入学式に行った。

涙が止まらない。

 

不登校になったのは、小学生五年の時だった。

理由は、ゲームに熱中し過ぎたかである

しかし、他にも要因があって、息子が不登校になる前に、上の娘の方が不登校だったのである

娘は息子の三歳上だが、小学生六年の時、悪質な担任に当たり、とんでもない差別というか、エコ贔屓を超えたレベルほとんどいじめに近いことをされ、担任からなかなか原因が発覚せず(本人は自分が悪いと思い込んでいた)、相談相手最初担任なので、全然からなくて娘を叱ってばかりいた。担任が原因だと分かったのは不登校になって三ヶ月くらい経ってのことである

それは、なんとか解決したが、その時、下の息子は「学校へ行かなくてもいい」ということを覚えてしまったのである

最初は、親も全然からなかった。

今日はなんかしんどい

などとしばしば言っては、ほんとにずっと布団の中で寝込むので、親も仕方ないかなと思って休ませていた。

共働きから、昼間は息子しか家にいない。

実は、しばしば学校をそんなふうにして休んでは、親がいなくなると、ずっとゲームをしていたのだ。

それがエスカレートして、学校いじめられてるとか言い出し、問い詰めても誰がいじめてるとか内容とかをまるで言わず、娘の例があるもんだから、原因がわかるまで待つしかないとなった。

しかし、ある日、やはり息子はどこか嘘をついているという感じがしたので、「家にいてもいいけど、ゲームは親がいない間は禁止する」としてゲームを取り上げた時に、息子は半狂乱に近い状態になったのだ。

やっと、ゲームが原因だと分かったのは、多分5年生の夏休み前くらいだったと記憶する。

 

ところが、怒っても怒っても、息子は頑として学校に行こうとしない。

色々聞いてると、どうも不登校が続き過ぎて、クラスメートに恥ずかしくて学校に行けないという気持ちになったらしかった。

しょうがないので、保健室登校から始めようということになった。

ゲームは、この時、禁止したり、或いは時間制限したりはしていたが、たまに取り上げたりと、方針一定していなかった。

但し、不登校児童はできる限り自分意思学校に行かせようとしないといけない、と学校などから指導されるので、夫婦で話し合い、息子を叱るのはやめようとなった。

そして、一週間に1、2回だけど、保健室登校をするようになった矢先の出来事

妻のせいだとは思わないけど、妻が息子をこっぴどく叱りつけ、ゲーム機をバケツの水に沈めて使えなくしてしまったのである

その時息子に生じた不信感が、彼を五年間自宅に閉じ込めるきっかけになってしまったのだと思う。

 

正直、「どうして、あれほど息子を叱ってはいけないと二人で決めたのに……」とは思ったけど、反面で妻の方が、家にいる時間の少ない私よりは一生懸命対応しているので、責めはしなかった。

それから、散々、色々な関係機関への相談や、或いは、中学校を学区外にして、小学校友達に合わないようにしたり、色んなことをしたけれど、結局、この五年間、何も出来なかった。

そのうちに、引きこもりが酷くなって、息子は家族とも顔を合わさなくなった。

食事だけは、自室ではなく、ダイニングで取ってもらおうと、息子の食事は必ずテーブルに用意し、息子がリビングに出てきやすいように、夕飯時などは他の家族全員が顔を合わせないよう息子が食事の間は別の部屋に引きこもった。

 

そんな生活を続けて、とうとう、ほんとに顔を合わさな父親の私のことを、息子は大っ嫌いになったらしい。

何故なら、不登校になるそもそもの原因、任天堂Wii u とスプラトゥーンを、息子への褒美にと買い与えたのは私だったかである

一年間、自宅の風呂洗いを続けたら、買ってやると約束し、彼はきちっとそれを守り通したから、買い与える以外にはなかった。

どうして大嫌いになってるのを知ったのかは覚えていないが、私は息子と顔を合わせないどころか、自宅にいる間は咳すら我慢し、存在を消す以外になかった。そうしないと、あからさまに息子は自室のドアをバンバン蹴ったりして暴れ出すからだ。

 

そして今年かな、一月頃に、息子は私がブチ切れるざるを得ない行動に出た。

死ね

と、他もまぁ色々と書いてあったけど、そう書いた手紙を私のいる部屋の扉の下に滑り込ませたかである

怒り狂った私は、怒鳴り散らしながら、彼の部屋の鍵のしまっているドアを外から開け(外から簡単に開く)、送風機を持って待ち構えていた息子を布団の上に押し倒して二、三発軽く殴った。

その時、散々私は息子に色々なことを言った。確か、「「死ね」などと書いた手紙を書ける神経があるのは、お前が五年間も友達とかコミニュケーション取らなかったからだ!」みたいな話かな。

それまでの数年間、会話らしい会話どころか、息子の声すら聞いたことがなかった。

やっと話し始めた。

「本気で書いた訳じゃなく、パパのイビキとか咳とか聞こえてくるとめちゃくちゃムカついたから、冗談のつもりだった」

こちらが、あまり意識し過ぎたせいで、逆にちょっとしたことが息子には気に触るようになってしまたからだと思う。

 

それから少し経って、息子が「学校に行きたい」と、妻にLINEした。

息子が学校に行きたいと思っていること自体は、少し前から知っていた。

息子は息子なりに、このままではダメだと思っていた。

でも、親が何も言っていないのに自分から言い出したのは初めてだった。

から普通高校は無理なので、週少しだけ登校のある通信制だけど、いいか? と聞くと、行くという。

そして、その高校から提出書類をもらって、息子は所信表明のようなことをその提出用紙の一つに書いた。

そこには

友達が欲しい」

と書いてあった。

私が、「死ね」と書かれて息子に怒ったときに「友達コミュニケーション取らないからだ!」と言ったことに影響されたのかどうかは知らない。

でも、それを見た私は、ほんとに死ぬほど嬉しかった。

もちろん、それがぬか喜びになってはいけないから、現時点でもそうだけど、まだまだ様子見を続けなければならない。

 

だけど、きっともう大丈夫だと思う。

彼は、自分一人で、高校入学式に行った。

がんばれ、負けんな! 心の底からそう思う。

2021-04-18

アトピーだった私は不良として扱われた

まれつきのアトピー性皮膚炎だった。今はかなりマシになって、割と気楽に暮らせているが、子供の頃は症状がひどくつらいことは多かった。

特に苦労したのが食物と衣類だった。食べ物の話は省略するとして、着るものは基本肌触りの良い綿のものしか着られなかった。それでも首周りが非常に敏感で、襟がついたものなどがほぼ無理だった。首に布が触れているとすぐにかきむしって首が赤くなってしまう。

小学校田舎公立だったので、制服等はなく、着るもの特に苦労はしなかった。

問題が始まるのは中学校からだった。同じく田舎公立中学校だったが、もちろん制服があった。制服というのはたいてい綿生地ではない。そしてうちの学校男子は学ランだった。学ランというのは、中にYシャツを着た上で、詰襟学生服を着るものである。当然こんなものは着られなかったので、入学前に校長との話し合いがあった。

端的に言って、クソだった。校長こちらが何を言っても「私服登校は認められない」「代替のものを用意してほしい」「ただし見た目は同じものにしてほしい」それしか言わなかった。そもそも首に襟が触れるのが無理だと言っているのに、見た目を同じにしたら実現不可能だろうが。

といっても親としては仕方がないので、制服を作っているメーカーに行き、着られる素材で制服をオーダーした。Yシャツも特注した。

それでも無理なものは無理なので、私はYシャツの上の方のボタンを開けたり、Tシャツを着たりして、学ランも第1ボタンとか第2ボタンまで開けていた。

学ランが制服だった人はわかると思うが、たいていの学校で学ランの第1ボタンを開けていると怒られる。なんで怒られるのか、だれも理由説明できなかったが、とにかく怒られる。生徒指導というやつは、理由説明できないことで怒ってくるので最悪であった。こちらがアトピーの話をしても、それをわかった上で「ルールから」と強制してくる。

小学校の頃はおとなしい方の男子として生きていたけれど、こうなってしまうと完全に周りからは不良として扱われた。ので、もうおとなしく真面目に過ごすのは止めた。

まず、毎週火曜日実施されていた朝礼を、卒業まで全部サボることにした。どうせ校長の話くらいしかされないわけで、もうこの校長が俺の人生に何らプラスの影響を及ぼすとは到底思えなかった。朝礼が8:30から始まるので、火曜は8:50(授業開始時間)に登校した。朝礼に遅れて、8:35くらいに体育館に走っていくと生徒指導に怒られるのだが、最初から行かなければ誰にも怒られなかった。

次に、教師がいるところで遊んでいるとすぐにボタンを閉めろと怒られるので、保健室登校をするようになった。教室に居場所がなかったわけではない。が、それでも休み時間等に見つかって怒られるので、逃げた。幸い保健室には本物の不良等がいたので、そこで怒られることはなかった。また、保健室先生はこういうことで怒ってこなかった。むしろ気が合ったのでいろんな話をした。

保健室や用務員室によく行くようになると、そこにもともといた不良や、教室に馴染めなかった人とも結構仲良くなった。ここで仲良くなったやつとは今でも付き合いがあるくらい。

授業はそれなりに出ていたけれど、授業中に服装について注意してくるのは、生徒指導や限られた教師のみで、そのときにどうこう言ってくる人は多くなかった(事情を察してくれる先生もいた)。

そんなわけで、本当に最初のころは辛かったけれど、後半2年くらいは適当に過ごしてなんとか乗り切れる程度の生活をしていた。

受験シーズになった。田舎の県立高校はだいたい中学校と同じく制服存在する。この絶望的な制服縛りをもう3年やるのは勘弁だったので、どうしたもんかと思っていたのだが……。

私は高専というものを知ってしまった。高専は大体の場合制服がない、私服登校が許可されている。ただし専門分野がえらく限られ、そもそも入学時点で学科選択する必要がある。

が、あまり悩む必要もなく学科は即決し、受けることにした。学校見学に行くという話をしたら、後ろの席のやつが「高専って偏差値高いぜ?お前入れると思ってんの?」と言ってきたので、無視した。

そうだよね、第1ボタン開けて保健室登校して朝礼サボってる遅刻魔が、そんなにいい学校行けるとは思わないよね。と思ったけど面倒なのでこれ以降、同級生に進路の話を一切せず「ニートになる」と言っておいた。

幸いにも、理科数学けが異様にできたので、「たぶん大丈夫じゃね」という言葉を塾の先生からもらえた。

その言葉の通り、大丈夫普通に合格した。中学校同級生は、未だに私がどこの高校に行ったか知らない人がほとんどだろう。

高専天国だった。まず私服である。全てから開放された。

一応校則もあるらしいのだが、言われたのは「校内で喫煙をしてはいけない」「校内で飲酒をしてはいけない」ということだけ。入学初日から茶髪金髪普通にいる。

制服呪縛から解き放たれた私は、元通りおとなしく過ごすことができて、心穏やか。

授業は若干ハードではあったけれど、同級生はどんどん留年していくけれど、幸いにも即決した専門分野にえらくハマって、学校死ぬほど楽しかった。特に4年、5年は毎日24時過ぎまで学校にいた。

その後は「スーツを着ないで就職する」という難題が待っていたのだけれど、それは別の話。

最近は流石にアトピーの人も増えただろうし、学校もこういう前例がいっぱいあるだろうし、柔軟な対応をしてくれると信じたい。

だが、昨今のブラック校則の話を見ていて、もし現代自分中学生だったら乗り越えられなかったかもしれないと思った。私はたまたま運良く平和な不良生活ができて、その後も特に困ることもなかったけれど、万人におすすめできることでもない。

ただ、あの頃の自分と、もし今同じようなつらさを抱えている人がいたら伝えたい。教師に怒られるのは面倒だし、そのときは嫌だろうけど、お前の皮膚は一度かきむしったらその後もかゆいし、血は出るし、完全に元通りに回復するまで1ヶ月以上かかる。そして怒ってくる教師は、俺のアトピー悪化とそれに伴う将来について一切何も面倒を見ないし責任も追わないだろう。だから気にせず校則なんて破れ、お前の皮膚のほうが全然大事だ。怒られても血は出ないし、回復に1ヶ月を要するようなことはない。

あと、高専はいいぞ。

2020-06-13

ADHDってなんですか

私は「ADHD特性」と言われている多動やら衝動やら不注意やらをビンゴしてる人です 強弱はあるけど特性自体は全部あります

なので締切超過と遅刻忘れ物とはお友達でした ついでに人の話も聞けないし活字も読めません

結果教師からの信頼が地に落ち会う度に小言を言われるようになりました

学校以外でも締切超過で失敗し続けました

そんな自分社会で生きていける未来が見えず鬱になりました

親は引きこもりへの当たりがキツいので何も言い出せずただ保健室登校をして時々学校を休んで無理矢理登校させられてとんでもなく苦しかったです

結局言い出せて精神科行って療養期間に漕ぎ着けたものの何も楽しくなかったし自殺しかけました

自殺しかけた時にその親が「生きてるだけでいい」って言った事と療養中に自分趣味に生きがいを見いだせた事で辛うじて生きてます

でも友達受験して進学してる姿を見るようになりました あとやっぱり生きてるだけでは何にもならない気がしてきました

焦ったので私も高卒認定取って受験勉強して…と考え始めたのですがやって大学入学した所で同じ事の繰り返しをしてしま可能性を考えると鬱気が酷くなりました

でもよくよく考えると私の失敗はADHDが大きい要因である事が殆どだっためそれを治せばいいのでは?と考えました

小さい頃からADHD特性がかなり強かったから多分自分は真性のADHDなんだと思います

と考えて気づきました

私は初診の時にADHDだと自己申告してテストでもADHD判断されたのですが、貰った薬を調べてみたらADHDの薬は一つもありませんでした

ADHDの話ははぐらかされるので言えませんでした

その病院は去年くらいに「もう来なくていいよ」と言われた境に行ってないです

ADHD対応してる病院が少ないとは聞いてたけどここまでとは知らず

であれば他の病院にもないのでは?こんな田舎町に最近発見された病気を扱うところなんてないのでは?と思うと何も信じられなくなりました

何より治療もままならないような病院お金を払おうとすると親が怒ります

行動取れません

ADHD」という存在のものを疑うようになりました

物忘れが激しいのも締切守れないのも毎日遅刻するのも三日坊主なのも世間では一般なのでは?みんな努力解決しているのでは?

違うと言われ続けてるのにそう思わずはいられません

もうどうしたらいいかからなさ過ぎて毎日鬱です 助けてください

どうしたらいいんですか ADHDってなんですか

2019-12-02

anond:20191202221910

違うよ 骨折難病理由でも入院中に衛星授業きいてても出席日数がたりなければ留年か退学が現在法律

それと別に単位に関する法律もある

まあ俺は文科省じゃねえからわからんけど知り合いが重病になったときそういわれた

来るだけでもこないと我が校だけじゃどうにもできません、当然転校も無駄です。

逆に救急車にのったままでも敷居さえまたいでくれれば我が校でなら全力でごましますって

知り合いは救急車がわりに親の送迎+保健室登校での自習授業(寝てる)でそれをなしとげたので留年はしなかった

2019-11-06

不登校中2、今後の人生不安

初めて書かせて頂きます。書き殴った記事なので読みにくさは許してください。

不登校中2です。

小1から学校に馴染めず、保健室登校だったり廊下で過ごしたりしてました。

まともに授業受けたことはありません。

勉強数学は得意で数検準二級の勉強をしたりしています。その他はダメ

無事発達障害と診断され中学支援学級なのだが、馴染めず不登校になりました。

先月は少し学校行きましたが、なんか上手く行かず今週からまた休み始めてます

将来はフロントエンドエンジニアになりたくて、コードを書くのを少し勉強していますが、上には上がいて...

こんな自分に夢が叶うのか不安です。

...書いたらなんだかスッキリしました。また書きます

2019-09-09

人生ドラフト

1位 小学校勉強スポーツもできるやつ。中学受験を匂わせつつ公立上位校を狙う。

2位 同じく小学校勉強できる。しかし、中学受験のため同級生から距離が離れる。

3位 勉強はできない。スポーツだけ。体育祭常連かつ切り札中学体育祭での活躍も期待。

4位 勉強しかできない。カーストは上よりした。

5位 カースト上位の取り巻き中学上がると2軍落ち。

育成ドラフト

1位 勉強はできない。数学英語もわからへん。でもうちは友達いからええねん。

2位 その友達うちらブダチやし。

3位 カースト下位。印象は静か。中学でも勉強成績はさえない。

4位 不登校中学ではなんとかしようと親の目も気にしている。

5位 いじめ被害者学校保健室登校。常に問題児扱いを受けている。中学からフリースクールへいくつもり。

育成から成長した千賀、甲斐、その他選手はすごい。

2019-05-10

高校中退した話

どこかに書き留めておきたかった。

フェイクは一切無し。知ってる人が見たら多分バレてしまうけど、それでも吐き出したかった。

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理科が好きだから、理数科のある高校に進学したい。

親にはそう説明した。

嘘ではない。実際に理科は好きだったし、数学も嫌いじゃなかった。

でも選んだ理由はそれだけじゃなかった。

 

高校知名度は下から数えたほうが早いだろうけど、偏差値は中の下付近で極端に低いわけでもない。

頭が良ければもっと偏差値が上の高校を選ぶし、頭が悪ければもっと下に名前を書くだけで通るという有名な高校がある。

大きな実績も歴史もない、そんな選ばれにくい高校

小学校中学校と暗い学生時代を過ごした私にとって、“同級生と一緒になる確率が低い高校学科”が高校選びの一番のポイントだった。

 

残念ながら中学同級生0人とはいかなかったものの、クラスに3人だけ、全員私と同性だった。

彼女たちは数少ない同じ中学出身者というだけで、私を仲間に入れてくれた。

私がいじめられっ子だったことは、勝手に水に流していて何事も無かったかのような振る舞いだった。

そのことに傷ついた。

中学ではただ周囲に合わせていただけで、自分たちを守るために仕方がなかったのかもしれない。

ならばなおさら、せめて一言だけでも言葉が欲しかった。

私が何年もつらい毎日に耐えなければならなかった理由が、空っぽだったのだから

私がつらい思いをしていた間、自分たちは守られていたのだから

 

でもそんなことを今さら蒸し返すまいと、終わったことだと思うようにした。

過ぎた時間は取り返せない。これから楽しくやれれば、いつか忘れられる日がくるだろうと。

しかし、そうはならなかった。

 

クラスには私のほかに、似た過去を持った子がもうひとりいた。

そしてその子は不運にも何人ものいじめっ子と同じクラスになった。

見かねて声をかけようとすれば、周囲の子たちが私を止めた。

そんな周囲を止める方法、変える方法がわからなかった。

あれよあれよと勢いと人数が増え、その子入学半月もせずに孤立して保健室登校になった。

 

大きなガラス窓の保健室は昇降口の向かいで、むしろ晒し者という感じだった。

登校して一番最初に見えるので、クラスメイトの一言目がその陰口になるのはほぼ必然だったのかもしれない。

の子教室にいないのに陰口は止まず、いつしかクラス内が常にギスギスするようになった。

 

クラスメイトの会話の内容は大部分が低俗週刊誌のようになった。

駅で見かけたというだけで盛り上がれるほど狂っていた。聞いていられなかった。

日に日に不安が大きくなっていった。

このままあの子保健室にいるとしても、教室にも標的が必要になるのではないか

そしてそれは私になるのではないか、と。

忘れようとしていた過去が蘇って、毎日が苦しくてどうしようもなかった。

周囲の言葉が全て私に対してのものに聞こえた。

 

予想通りあの子ネタはすぐに尽き始めて、他の人にそれを求めるようになった。

クラス内は決まったグループでほぼ固定され、互いに監視し粗探しをするようになった。

他のクラス上級生のこともあれこれ言うようになった。

あっちのクラスではこんな噂があるとか、着替えが遅いか更衣室を一緒に使うはめになって邪魔だとか、

会話ができる時間は誰もがそんなことばかり話していた。

 

私は、いつ小学校中学校時代のことが掘り返されるか不安不安でたまらなかった。

毎日が恐怖だった。

グループの誰かが口火を切れば、瞬く間に広まってしまう。

下手なことを言わないように、刺激をしないように、とにかく必死で顔色を窺った。

今日大丈夫でありますようにと祈りながら登校して

明日大丈夫でありますようにと祈りながら下校した。

 

状況は何も良くならないまま、夏休みになった。

朝起きても学校に行かなくて済む。それだけで救われた。

でもそんな天国のような時間永遠ではなく、夏休みは終わりを迎えた。

憂鬱しかたなかった。

また戻るのか、大丈夫だろうか、休みの間誰からも連絡がなかったのは何かあるからなのではないか

そんな不安がぐるぐると渦巻いた。

中学のころはそれでも登校できていたのに、もうできなかった。

それからは登校することなく家に引きこもっていた。

 

ひと月が過ぎたころ、担任がやってきた。

うちのクラスは40人いるけど8人が同じように学校に来てなくて、先生も参っている。

女子も何人か休んでるけど、誘い合って一緒にがんばって登校してみないか

そんなことを言っていた。

ぼんやりと話を聞きながら、40人中8人って多いなと考えていた。

そして休んでいるのは私だけじゃないということに、なぜか少しだけほっとしていた。

 

どうして登校しないのかと尋ねられた。

いろんな思いが膨れ上がって、言葉が出せなかった。

唯一絞り出せたのが、あのクラスにいることが辛いという一言だけ。

の子いじめ関係があるかと聞かれ、頷いた。

中学のころの出来事フラッシュバックするのだと伝えるよりも先に、担任が口を開いた。

クラス内にいじめがあることは知っている。

しかし、先生間でもいじめはある。どうしようもないことだ。

ほかの人がいじめられてるのが辛いなんてピュアな心はいいけど、それじゃあダメだ、と。

 

担任は、生徒のいじめを止めさせるのではなく、やられる側が諦めることを求めていた。

それに見当違いだ。

しかに誰かがいじめられていたら心が痛むけど、私が一番苦しいのはそこじゃない。

私の過去担任は知らないのだろう。

しかし伝えたらどうなる。ここから広まっていくのではないか

きっとすでにクラスでは私のことが知られているだろう。そこにさら自分で油を注ぐような真似はしたくない。

一度は伝えようとしたことを話すのをやめた。

 

いっときだけ仲間に入れてくれた同じ中学の子たちからは、そのあとも一度も連絡はなかった。

わかってはいたけどやっぱりな、という気持ちだった。

担任以外、誰も私を訪ねる人はいない。あのクラスに私の居場所はきっともう無い。

私はますます引きこもっていった。

 

秋が過ぎ冬になり、新年を迎えたころに再び担任が訪ねてきた。

このままだと留年になるからと、休学か退学をすすめられた。

ここで休学にしたところで、行ける気も、行く気もしない。

私は退学を選んだ。

2019-04-28

anond:20190425182402

同業の下請け中小なのでかなり共感した

また増田にいろいろ書くと良いと思う

それとは別に親戚に中学で引きこもった娘さんがいる

社会性は中学校で止まりバイトすら出来ずもう30になる

鬱で引きこもりがちになっても、保健室登校定時制高校大学就職というルートもあったんだなと知見を得た

今となってはどうにもならないが

2019-04-25

長い話

今、残業中なんですけどもうデスクで涙をこらえるのに必死で何もできないので気をそらすためにも自分の話を書きますね それぐらいは許される職場なんです。いいでしょう。私がすべて悪いだけの、きっといい職場なんです。

私は小学校中学校、合計で五年間ぐらい不登校保健室登校)でした。原因はなんだろうな。今考えてもわからないんですけど、とにかく行けなかったんですよ。なんでだろうね。

面倒くさかったんです。たぶん。鬱かなってちょっとだけ思ったりもしたけど、でも、私は当時からオタクで、ネット動画とかを見て笑ってたからただの甘えだったのかもしれない。徹頭徹尾、甘えているだけの人間なのです。小学校の三年か四年から二年ぐらい通えなくて、六年生で復帰したけど、中学校一年でまた行けなくなりました。勉強ができないわけでも無かった。昔から地頭は良い方で、ただ集中力は無かった。何事も長く続けられなかった。極度の面倒くさがりで、家事も何も一切できなかった。

両親は、学校に行きたがらない私を叱ることもなく、いろいろ考えてくれました。なんたらスクールみたいな不登校児の集まるところに連れて行ってくれたり、カウンセラーが居る部屋に週数回だけ通うように調整してくれたり。

結果としては、私は自分の中でなんで教室に行けないかからないまま中学の三年間を過ごして、そのまま都立チャレンジスクールっていう学校に進学しました。都立高校で、定時制

そこには私みたいに理由もなく学校に行けなかった人って全然いなくて、病気だとか、働かなくちゃいけないから夜間で通うとか、親が離婚してから生活が変わって学校に行けなくなったとか、たくさん理由があったんです。私はなんで自分がここに居るんだろうってちょっと思ったりもしたけど、未だに仲よく遊ぶ友達ができたのもここでした。

学校は楽しかった。

でも高校はやっぱり三年しかなくて、私は大学に行くことにしました。良いなと思った大学を目指して、母がこのころ癌になったのに無理して私に英語家庭教師までつけてもらったけど、受かりませんでした。その年だけ倍率が平素の三倍ぐらい高かったんです。なんでだろう。

結局私は担任先生の勧めで、少し遠いけど私なら絶対入れる私立大学文学部に入ることになりました。試験はびっくりするほど簡単で、これなら中学時代の私でも入れるな、と思いました。教科は現代文だけでした。

でもこの大学で、私は今でもたくさん遊びに行く友人ができたし、その一人は先日入籍しました。おめでとう。

大学は面倒くさいこともたくさんあったし、さぼったりもたくさんしたけれど、たぶん楽しかったんだと思いますバイトを始めたのも大学に入ってからです。最初は友人の勧めで飲食で働いていたんですが、給料未払いで数か月で辞めました。

次に私が応募したのは、カードゲームショップでした。ちょうど流行ってたんです。シャドバなんて出る前で、ハースストーン一部の人しかやってないし、MTGオンライン全然無かったころの話です。私はろくすっぽカードゲームなんて知らないままそこに面接に行って受かりました。

仕事はたぶん楽しかったです。結局二年半ぐらいやったのかな。みんなオタクだったし、嫌な客もいたしわかんないこともいっぱいだったけど、それでもバイトって責任もなくて気楽だったし、本当に楽しかったと思う。

その時直属の上司だった男の人とは今でもなんだかんだ年に数回会って、二人で飲んだり二回ぐらい日帰り旅行したり誕生日ディズニーしたり一緒にコンサートいったりします。私たち関係は何なのか、こうやって書きだしても未だによくわかりません。良い友人なのかな。友達以上恋人未満の関係結構好きです。気楽だし。いい関係ですよね。

そして私はバイトと遊びと勉学と文化コンテンツで日々を過ごしました。三人しかいないゼミでひいこら卒論を書き、その間に就活しました。

弊社は、確か私の学校に来ていたうちの一つだったと思います

私の父は大きな会社でそれなりに能力もあって、管理職ではないけれど責任感のあるポストについています。そんな彼と日々話をしたりしているうちに、私もこの業界にしたいな、と漠然と思っていたので、そこを受けてみることにしました。一応ほかにも数社受けました。

受かったのは二社。もう一つは金融系の会社で、少し怖くて辞退しました。その時私は卒論が楽しくて、就職の方がたぶん大事なのにそんなこと全然考えてなかったんだと思います

そうして弊社に決めました。もうゼミ以外には大学に来る予定なんてなくて、バイトばっかりしていて、オタク趣味お金を使いたかった。早く就活を終わらせたかった。

もともと視線恐怖症なのもあって、沢山の人がいる中で自分アピールしたりすることが怖かったのかもしれない。

私は卒論を頑張って(学部で優秀賞をもらいました)、大学を無事卒業して、弊社へ入りました。

入ってから、ああ、結構体育会系というか、業種のくせに古臭い企業だな、と思った事は事実でした。けど、父が言うにはこの業種の中小はみんなこんなものだという話だったので、特に気にしませんでした。自分マメさが求められる事務職は向いていないと思っていたからです。

それでも今の部に配属されて、訳の分からない言葉はいっぱいだし、教えてくれる先輩の一人は私に教える片手間ずっとグラブルをやっていた。もしかしたらグラブルをやっている片手間私に色々教えてくれたのかもしれない。

今のオフィスは、弊社の大口顧客(元請け)がほぼほぼ占めているビルです。

私は二年間、同じプロジェクトで、ワーカーホリック上司の下で仕事しました。

上司イエスマンから無茶な仕事をいっぱいもらってきちゃうし、自分ワーホリからほかの人も同じぐらい働けるとか思っていたし、謎に有り余る体力で飲み会かにも大体参加していましたが、怒らないし、わからないというとある程度は聞いてくれたりするし、たぶんとってもいい人でした。私が生意気言っても怒りませんでした。ただ彼自身は毎月残業60時間かいってるワーホリでした。いまでもそうです。

それでもそのプロジェクトは楽しかったです。つらいこともたくさんあったけど、愛着もありました。

なんだか身体おかしいな、と思ったのは去年のどこかぐらいからだと思います。去年は忙しい月が数回あって、残業が40時間を超えるぐらいの月が飛び飛びに数回ありました。

から起きるのが早くて、朝五時とかに起きちゃっていたんですが、三時ぐらいとかに起きちゃうようになりました。

私はスマホ依存症に近いものがあって、何かあるとすぐスマホを見ちゃうんですが、それのせいもあったのかもしれません。睡眠の質がきっとどんどん悪くなっていきました。

プロジェクトは今年の春が大詰めで、みんなピリピリしてたし、急な雑務も増えました。

ある日、一度、風呂場で痙攣のような現象を起こしました。

視界が一瞬真っ白になって、風呂場の椅子に座りこんだと気が付いたときには、身体のいろんなところが強くしびれていました。特に強かったのは手で、勝手に力強く握りしめられていて動かせませんでした。

母を呼びました。母は全裸で浅い呼吸をしながら手を強く握りしめている私のことをひどく心配してくれました。父も風呂場の外にはいてくれて、状態を調べたり、スポーツドリンクをくれたりしました。

その日は固まった手で何とか飲み物を飲んで、少ししたら回復しました。

でも、結局数日たってからも体調がすぐれず、午前半休を取って病院に行きました。

のしびれの正体も知りたかたからです。結果は「抑うつ状態から過呼吸引き起こしたのでは」ということでした。

医者さんには産業医面談を受けるように言われました。私は素直にワーホリ上司へそのことを話して、午後に出社しました。

休憩スペースで面談しました。診断の詳細、そして産業医面談というものを受けるかどうか。

受けるなら俺から上に言うよ。そういわれて、少し困りました。プロジェクトが本当に大詰めだったからです。私はその時まだ二年目のぺーぺーでしたが、そんな私でももしいなくなってしまったら困るかもしれないと思ったからです。結局上司はそのあと産業医面談の話はせずに、春から仕事の話をされて終わりました。

その週の金曜日、私はどうしても体調がすぐれず、うまく動けなくて、会社休みました。

もう一度産業医面談の話をしました。

私自身が、どうしてこんなにストレスを感じているかがわからなかったからです。それが仕事のせいなのか、無意識プライベートでため込んでいたのか(その時ちょうどフォロワーちょっとトラブルがありました)、単純に満員電車ストレスなのか、わからなかったからです。

翌週、私のところにやってきたのは課長でした。

別に産業医面談拒否するわけではないし、受けたいなら調整するんだけど」彼の言葉はこう続きました。「俺たちの権力より上だから部署移動とかを指示されたら逆らえないしなあ……」

課長は私が部署を移動することになってしまった場合人間リソースの低下を懸念していたのです。

「とりあえず、今月は今のプロジェクトを頑張って、春以降もう一度相談します」私は言いました。

しかしたら、本当に私が居なくなったことでこのプロジェクトクリティカルな何かが発生してしまうかもしれない。それが嫌だったのです。課長が明言してしまうことで、それが私のせいにされてしまうのも嫌だったのです。

薬を飲んでいれば出社はできました。なぜか倒れたときから咳が止まらないけれど、風邪が長引いているのだろうと思いました。

私は抗不安剤睡眠導入剤を内科でもらっていたので、薬がなくなった時についでに咳止めの薬をもらいました。

そうしたら、電車で倒れてしまいました。

咳止めとして飲んだ抗生剤と私の相性が悪かったのかもしれません。私は朝の満員電車の中でお姉さんに助けてもらい、途中の駅で降りて、でも歩けなくて、駅員さんに車いすに乗せられて詰め所みたいなところの長いすに横たえられ、母親が来るのを泣きながら待っていました。

母は病気です。私が高校の時からずっと治療しています。手術もしました。私なんかよりもずっと大変なのに、毎日ご飯を作ってくれて、こうして迎えに来てくれるのです。私は親不孝者でしたが、母が迎えに来てくれたので、駅から外に出ました。その日は散歩をして、会社休みました。

体調の悪化が治りません。毎日薬を飲まないとうまく動けません。

それでも日は回るので、春から新しいプロジェクトに参画することになりました。すでにある程度進んでいるプロジェクトは初めてでした。

私はわからないなりに、以前の経験知識を使って頑張ろうと思いました。そのプロジェクト上長は先日面談をした課長でした。

参画してから一週間ほどした日、私は唐突課長仕事の依頼を受けました。

曰く、新しく仕事必要ものを一から作るのだと。

この業種において、一から自分で作ることは大して難しくはありません。今のプロジェクトの様子確認も兼ねて、大丈夫です、やります、と言いました。

どうやら課長のその認識根本的に間違っていたらしいと知ったのは、その週末のことでした。

どうやらそれは、私が触ったことのないソフトを触って、すでに動いているシステムに「絶対ミスをすることなく」仕様追加をするというものでした。

私は困惑しました。だって自分が触ったことのないものを「ミスなく」と言われても困ります練習ができません。経験もありません。

しかも、それは私一人でやるという話でした。ベテラン技術者が後ろについてくれると言いましたが、彼は他の仕事で忙しく、週に一回、数時間様子を見てくれるだけでした。

彼がとっても忙しいのは知っていました。だから仕方ないとは思いました。上長に聞いていた話と全然違っても、もう請けちゃったと言われたら若手にはどうすることもできませんでした。

元請けからはことあるごとに「絶対ミスは許されない」と言われました。私は状況の調査から始めました。

手順書や設計書は用意されていました。ただ、前任の会社中途半端撤退していたため、それが正しいかどうかの調査から始めなければなりませんでした。

けれど、私が触ったことのないソフトウェアの設計違いを、どうやって見つければいいのだろう。それはとっても疲れることでした。

上長はいつもなぜか忙しそうで、私が疲れたとか、産業医面談の話についてを問いかけることは憚られる雰囲気でした。半分炎上していたのかもしれません。プロジェクト経験が私含め半分以上を占めていた上に、その中で唯一構築経験があった私が一人での仕事に回されてしまいました。

ベテランはしきりに「ポテンシャルを見込んで」と言いました。

ポテンシャルって便利な言葉ですよね。とりあえずそう言っておけば良い感をひしひしと感じます絶対失敗できない仕事を依頼されたなら、失敗しない人を連れてくればよかったのです。

私はそれでも何とか資料を調べて不明点を上げ連ねて、ベテラン上長との進捗報告に参加しました。訳が分からないことだらけでした。たくさんのことを言われましたが、すでに集中力平時の半分ほどしかなくなっていた私にとって、それは呪文のようでした。半分ぐらいわかりませんでした。わかったふりをしました。

産業医面談に行けなかったので、有名な精神科のある病院の予約を取りました。その時にはもう、睡眠導入剤がないと眠れない生活になっていました。

新しい病院で、紹介状は無いんですとだけ伝えて診察を受けました。睡眠導入剤のほかに睡眠安定剤をもらいました。でも、睡眠安定剤を飲んだら昼間もものすごく眠くなってしまったので、二回しか飲めませんでした。結局抗不安剤睡眠導入剤だけを今でも飲んでいます。飲まないと眠れないし、仕事に行けないからです。

このころからホーム電車に不必要に近づいてしまうようになりました。(私が使っている路線都内なのにホームドアがないのです)無意識でした。私は死にたいのかな、と思うようになりました。

転職をすればいい、とか、周りの友人は言っていましたが、どう客観的に見たって私のメンタルが弱いだけの甘えなので、私が悪いのです。昔から私が社会や親に甘えているだけなのです。その自覚があったし、転職はとっても怖いもののように思えて仕方がありませんでした。だって自分には実力がないのです。転職活動で落とされることも怖かったです。評価されないことは、訳の分からない仕事を一人でやらされることと同じぐらい怖いことでした。

今日も偉い人たちを交えての打ち合わせがありました。私はやっぱり、「絶対ミスできない」ということを念押しで言われました。それならなぜ、ソフトウェアに触ったことがないたかが三年目の私がその仕事をしなければならないのかがわかりません。他の人にも仕事内容の相談ができません。調べても全然出てきません。他のメンバーはいろいろみんなで相談しながら前に進んでいるのに、私は自分が一つわからないことがあるだけでそこに立ち止まってしまます解決策がわかりません。どうすればいいかわかりません。集中力がなくて、どうすればいいかもよくわからなくなってしまいました。

少し、辛いな、と思いました。

別に残業が数百時間だとか、あまりにも激務だとか、そういうことはありません。家族はとっても優しいです。私はきちんと笑えています。両親はたくさんのことに関して理解もあります。母は自分身体も悪くて病院に通っているのに、私が精神科に行くとき一緒についてきてくれました。

部長課長主任ワーホリですが、きちんとしてはいると思います中小ですが、それなりに長く続いている、頑張っている会社です。

から、私があまりにも社会に甘えているだけなのです。私が弱くて、今まで甘やかされてきたから、ちょっと普通なぐらいのところに来ただけで耐えられなくなっているのです。

それは悪いことだと思っていますだって私が弱いのが悪いんです。甘えなのです。でも、強くなる方法がわかりません。

どうしてこうなったんでしょう。生まれときから弱かったのでしょうか。私はどうすればいいのでしょうか。何が悪かったのでしょうか。仕事ができないことが悪いのでしょうか。

薬を飲んでいるとお酒が飲めません。友人との飲み会も、友人が気を遣って飲み放題プランを外してくれます。気を遣って一緒にソフドリを飲んでくれようともします。

優しさが申し訳ないです。私が弱いだけなのに。私が弱くて薬を飲んでいるだけなのに。

仕事が嫌いなわけじゃありません。色々考えて、正解を導き出せたときや、トラブル解決できた時はとっても楽しいです。

ただ、たぶん、もう一人だけいたら、こんな気分になっていなかったのかな、とは思います自分にとって、「絶対ミスできない」一人きりの仕事が、案外つらいのでしょう。ゆとりなのです。弱いのです。世間様に甘えているから仕方がないのです。責任を一人で負いたくないのです。「わからない」と隣に相談する環境が欲しいのです。

会社の最寄りの駅にはホームドアがありません。今は想像するだけだと思ってはいますが、段々と黄色い線の向こうを歩いていってしまって、いつか飛び込んでしまったら、と思うととても怖いです。それも、私が弱いからなのでしょう。

お母さんのごはんもっと食べたいです。

お父さんともっとお酒を飲みたいです。

生きたいです。オタク楽しいし、ちゃん毎日笑っているし、友人もいい人がいっぱいいます。でも、いつまで生きればいいのか、よくわかりません。勝手に涙が出たり、ベッドから動けなくなってしまます

私よりもっとつらい人はそれこそ数えきれないほどいるはずなのに、どうして自分はこんなにも弱いのか。どうしたら強くなれるのか。

なんで生きてるのか、わからないのです。

それを吐き出したかっただけなのです。

2019-03-16

公立不登校落ちこぼれだった妹が東京大学合格した

先日、妹が大学合格した。

印象的な出来事だったので、ネットの海のどこかに残してみたいと思った。この場のことは代名詞増田さんなことくらいしか知らないが、唐突自分語りをしても許されそうなのでここに書くことにする。

妹と私は年が離れており、私は妹の生まれた時から姉と母親中間みたいな立場で妹の成長を見守ってきた。

幼い頃の妹は、子供らしくて可愛い子だったけれど、あまり要領の良い方ではなく、優等生タイプだった私としてはヒヤヒヤすることが多かった。たとえば、自分から率先してクラスの中心にいる意地悪な女の子取り巻きになって、何でも借りパクされてしまうような子だった。

この頃から成績は良くなく、田舎公立小学校テストでも平気でひどい点をとっていた。妹曰く「提出さえすれば自由時間になるから半分は解かずに出してた」とのことだったが、それを差し引いても何をどこまで理解していたのかはわからない。たぶん人間関係的に、良い点を取らない方が便利だったのだろうと思う。

そんな妹は、地元中学校に入ってから、当然のように性格の悪い女の子取り巻きになって媚びへつらうようになってしまった。成績は5教科で280点くらい。そして、案の定といっては可哀想だが、ひどいいじめに巻き込まれ不登校になってしまった。

このとき私はちょうど東京国立大学合格一人暮らしを始めたところだったのだが、電話で親と話しながら妹の気持ちと将来を思うと、心がヒリヒリした。妹の体験と比べたら大したものではないが、自分にも荒んだ公立中学校独特の空気の中で、自己肯定感を失っていく気持ちには身に覚えがあった。

妹が幸運だったのは、両親が進歩的な考えの持ち主だったことだろう。

保健室登校で今の学校に通ったらどうかと言う私や学校教師意見無視し、両親は妹を不登校児の集まる遠方の私立中学にさっさと転校させてしまった。とにかく制服が可愛く、規則が緩い学校だった。集合写真を見ると、男子生徒の地味さと女子生徒の派手さがアンバランスな程際立っていて、私は「こんなのいかにもじゃないか」と心配した。

しかし、妹は、この特殊学校への転校という大きな賭けに勝ったようだった。半ばカウンセラーのような先生方と一緒に時間をかけて精神回復させ、1年ほどすると転校前の同級生がいない遠方の遊び場になら外出出来るようにもなった。

また、この頃から、いつかは昔の同級生を見返してやりたいと思うようになったようで、美容勉強を頑張るようになった。特に勉強に関しては、多くの同級生通信制定時制高校に進学する中、普通科高校に行きたいと強く希望した。当初の妹は不登校時代ブランクのため中3頭になってもbe動詞活用だとかx^2-4=0の因数分解だとかが分かっていなかったのだが、元が低いだけにやる気になってからはぐんぐん伸びた。そして、進学校ではないものの、偏差値60弱くらいの私立高校の進学系のコースに最低点で滑り込んだ。なぜ最下位なのを知っているかと言うと、入学後に先生から異例の二者面談を組まれ、激励されたからだ。

そこからの妹は一層、人が変わったようだった。「JKっぽい遊びは中学でもうこりごり」とばかりに、不登校時代にやっていた痛いSNSネット上の囲いも捨て、半ば遊びだった彼氏もいなくなり、字が綺麗になり、プリクラが減り、電車内で英単語帳を読むような高校生になった。高校レベルクラスも、半年で1番下から1番上まで上がり、これには両親と私も驚いた。

特にビリギャルに倣ったのだろうが高1高2では英語ばかりを熱心に勉強していた。英語系の塾にも通い出し、1年ほどで当時TOEIC800点の大学院生だった私をゆうに追い越してしまった。中学まで不勉強だった名残で、英単語帳に出てくる日本語単語の方を知らない、漢字が読めないということが多発し、英語の語彙が増えるに連れて日常会話がルー大柴化した。その後、次第に英語以外も徐々に勉強するようになり、成績はうなぎのぼりだった。もちろん本人の中では、伸び悩んだり、不安になったりすることもたくさんあったそうだが、側から見ていると面白いほどに成長していた。志望大学もどんどん上がっていった。

そしてこの春、妹は通常より1年余分にかかったものの、早慶MARCHの滑り止め受験校3校をすべて合格したのち、晴れて第一志望の大学に進学する。妹は「これでようやくお姉ちゃんと肩を並べられるわ~。姉が○大生とか、これまでは人に言えなかったんだからね」と言った。

からすると、どん底から這い上がってきた妹の方が、とっくに自分よりすごいと思っていたので、妹がまだそんなことを思っていたことに驚いた。でも、自分プレッシャーになっていたと同時に、ひとつの道しるべにもなっていたようでそれは嬉しい。

もともと地頭が良かったんだろうとか、親に金があったからできたことだとか思う人もいるかもしれない。また、大学合格なんてまだ単にスタートラインに立っただけじゃないか、まだ何も終わってないぞという指摘があるかもしれない。ごもっともだ。それでも、私はここまで来た妹の努力がすごく誇らしいのだ。

この先の人生私たち出身地田舎じゃできないことをたくさんしていってね。姉はあなたのことを応援しています

増田より

2018-10-07

そもそも自分教師だと思ってる思い上がりがやばい

気に入らない奴を注意できたらなーって妄想してる保健室登校児じゃん

2018-06-05

anond:20180605141745

高校は私も納得できないことが多かった。

小学生団体行動しなければならない」わかる。

中学までは義務教育」まあわかる。

高校は、好きで来てるんだろ、おとなしくしておかないとご褒美をとりあげるぞ。」←わからない。(小学校ときこういうひどい先生にあたったことがある人は異論があるとおもいますが、公立はめったにいないとおもう。とにかく自分とこの場合こういう感じだった。)

ちょっと教頭より上に話すべきときが来ているように見える。

もしお子さんにテニスやらせてもらえないことなどによる鬱症状か、

または強いこだわり、眠気がでていたら2か月くらいいやがっていても医者にかからせて診断書をとる。

(こだわりについて発達障害の診断が出ることも視野に入る)

 

診断書という公的ものがあれば学校という企業トップ

担任先生おかしな点について、また対処、今後の処遇についてまともに「相談する」気が出てくると思う。

うつ病は命にかかわる病気だということも社会的認知されてきた。

子供自分医者にかかろうなどということは全くできない。親がいうまでシャツの裾が外に出ていることさえわからない。

自分健康状態未成年には全く判断できないし手続きもやれないので、

発達障害/鬱と親がレッテルを張ってしまっては将来が・・」とかいう妙な遠慮はしないほうが逆に将来のためにもよい。

 

自分の子の例だと大学受験障碍者枠になった。

卒業までまともなクラス替えはしてもらえず(文転さえ禁止された)、

テストだけ机にしがみつくように受けて40点以上をとり、

保健室登校卒業可能出席日数をゆびおりかぞえて乗り切った。

大学になってからようやく本当に勉強が好きだった自分をとりもどしつつある。

高校おかしい。この子理不尽に耐えられない。

それを3年間手をこまねいてみていると本当にダメになってしまうので、行動してください。

自分は遅すぎたとおもいながらできるだけのことをやった、不幸中の幸いルートだったとおもっている。

(ちなみに生徒側も例年になくひどい子がいる学年で、担任諦観以外のことをなにもしていない感じ。

社会でやったら犯罪だっていうのが1人、民事訴訟ものが1人。

よくみんな我慢できたなとおもったら浪人率が例年になくすごいらしい)

2017-12-09

小学生時代に2回学級崩壊に巻き込まれ

寝つけられないけど横になってて、ふと思い出したから殴り書き

自分が住んでいた故郷田舎中の田舎

生活に車は必須だし、故に使われない電車は1時間に1本あるかないか

市営バスは早々に廃止された

町は田んぼだらけでコンビニは当然、スーパー農協のみ

そんな田舎でも学級崩壊は起こった

1度目は、3年の時

正確には崩壊とは言わないと思う

担任だったかで、若い女の教員メンヘラをどんどん悪化させていって授業所じゃなくなった

最初の春はまだ授業受けられていたけど夏辺りからおかしい行動が増えていく

授業中に黒板に書いていた途端、突然「前を見るな!」とヒステリック叫び生徒に机に伏すよう命令したり、

体育で開始の礼で生徒皆が「お願いします!」と大声で言うと(決まってる挨拶)、「お願いしますじゃないだろ!!」とか叫んだり

ちなみにその時確か手に持ってたボール顔面にぶつけられた記憶がある

私の挨拶の声が煩かったからかもしれないし、偶々かもしれない

20年近く昔だから殆ど記憶がないけど、その後家に帰ったら校長教頭が謝りに来たらしい

(日常的に私に体罰下す親父は暴力肯定派だから上記詳細を聞かずに許したらしい。教師が罰で手を出したと勘違いしたのかもしれない。そして当事者であり被害受けた私には謝罪されてないよ…。)

担任につくベテラン教員は、おかしくなり始めた頃には教室に来なくなった。

秋以降は授業は自習ばかり。

メンヘラ担任保健室登校(?)し、生徒を排除した保健室で養護教員と話している(カウンセリング?)所を自習中の教室を抜け出しては覗いた記憶

から、3年の授業は殆どしていない

次に起きたのは6年時

これは生徒が教師の授業をシカトし、私語したり遊んだり、仕舞いには担任を苛めたりとやりたい放題

ちなみにこの担任は上の問題教師と同学年の別クラス担当していて、自習の時とか代わりに担任代わりしてくれた人

自分は手こそ出してないけど、その問題行動を起こす生徒達に注意できるほど人間出来ていなかった

そもそも私自身が影口やエンガチョ的なのされていたから余計強く言えなかった

で、また殆ど6年の授業してなかった記憶

2017-10-22

死ななきゃいけない気持ちに振り回されていた僕のお話

内面の整理のために吐き出しています、その関係上乱文になってると思います

僕の中学時代地獄だった。

間違いなくあそこに地獄があった。

少なくともあの時の僕にとっては地獄だった。

虐められた、とても虐められた。誰も味方がいなかった。

虐められるターゲットだった。友人は居なかった。一人だった。

家の中にも安らぎはなかった。家もまた気を張る場所であった。信頼ならない場所であった。

母は精神障害者だった。弟は知的障害として小学校の時分から養護学級の者として生きていた。父はそんな二人の世話に明け暮れていた。

とても頼ることなど出来なかった。

学校では「死ね」「キモイ」そんな言葉がずっと浴びせかけられていた。常に居場所がなく、昼休みは別の校舎の廊下音楽室の陰といったひと気のない場所避難する時間であった。

とても辛かった。そんな場所だった。

部活小学校の時にサッカーが好きだという理由サッカー部に入った。大失敗だった。

部活にも勿論居場所はなかった。選ぶ場所を間違えた。

部活中にも時折、野球部の方からボールが飛んできて僕に当たっていた。たぶん、ぶつけられていたのだと思う。頭に何度も当たっていた。とても辛かった。

中学校1年の2学期から休みがちになった。1学期でも体調を崩しがちであったが、休むために休んでいたのはこの頃だったように思う。

とても行くことが嫌だった。そんな風に休むものから勉強も遅れがちになった。宿題が溜まったのもより行きづらさに拍車をかけた。

英語がついていけなくなった。

家は貧しかった。貧しいが故に常識も知らなかった。小学校宿泊研修で初めてリンス存在を知る程度には貧しかった。

とても閉じていた。服もなく、娯楽を知らず小学校夏休みの絵日記に苦労していた、そんな記憶が残っている。

旅行に行く人達を羨ましく思いながら、隣町の祖父母の家に行く位が一番の遠出だった。

どんどん私は中学校に行けなくなっていた。田舎中学校故だろうか、治安もよくない学校であったのも一因だったとは思う。

通学の自転車指定自転車だったが、指定の物ではないものを買い与えられ、そのことがまた虐めの原因にもなっていた。

通学することが苦痛だった。

家の中では良い子でなければ、迷惑をかけないようにしなければならず、学校には居場所がなく、そんな状況が続いていた。

中学1年の三学期にはほとんどいけなくなっていた。ひたすら虐めの恐怖に怯えていた。布団の中でまるまって何故虐められるのか分からず、相談できる相手もいない、一人で苦しみ続けていた。

家の外に出るのが怖くなっていった。休んだことを揶揄されることもまた恐怖だった。ひたすらに家の中で時間を過ぎ去るのを願っていた。夜になってようやく少しだけ外に出られるような有様であった。

中学2年には全く通うことができなくなっていた。申し訳ないと感じつつも動くことができなかった。昼に父が職場から帰ってきてお昼の支度をしてくれる時間が僅かばかりの気晴らしといった毎日であった。

中学3年のころには少しだけ保健室登校のようなことをしていた。それでもほとんど休んでいた。勉強についていけなくなっていた。将来の恐怖に押しつぶされていった。

受験があった。とてもできず、また遠方へ通えるような財力はなかった。地元の県立高校に進学した。

高校に入った。周りは大人になっていたからか、虐められることはなかった。だが、僕自身人間不信になっていた。やはり一人だった。

そして、とても落ち着かなくなっていた。

授業中に突然笑いだすようなこともあった。エア友達脳内会話して笑いがこぼれていた結果だった。

ギャップを感じていった。普通が分からなくなっていった。休むようになっていった。精神科へ通うことを勧められた。ここで初めて通うようになった。

月イチでの通院の日々だった。それでも行けないことには代わりはなかった。

出席日数が足りなくなっていった。補修を受けるようになっていた。補修にも行けなくなった。単位を落としてしまった。通わなくなった。

単位複数落ちてから、一つだったら頑張ればなんとかしてあげれたと言われた。もう遅かった。手遅れだった。

留年するか転校するか退学するかの選択肢となった。金銭上、転校することは出来なかった。そのまま退学することになった。

高校に入ってからしばらくしてから与えられた携帯ネット依存するようになっていった。

普通じゃなくなっていく苦しみを誤魔化していた。なんとか逃れようとしていた。

ネットに居場所を求めるようになっていった。その間は少しだけ救われていた。

現実は苦しかった。

将来への絶望は消えなかった。

父母弟の介護をしつつ、田舎から出られず永久にそのまま終わるようにしか思えなかった。

ネットへの依存は加速していった。

17になった。心を誤魔化すためのゲームで繋がりができていた。オフ会に参加することになった。

オフ会に参加するのが唯一の遠出だったと思う。

隣の県まで電車で行った、少しだけその時は救われていた。

18になった。早く頑張らなければ、何かしなければという焦りと苦しみがちりちりと焦がしていたが見ないようにしてゲームに没頭していた。

19になった。オフ会で会った友人たちが大学生になっていった。僕は一人取り残されていった。

また一人になった。

一人の時間が長くなった。その分だけ余計に焦りと苦しみが増していった。向きあおうとして、オフ会の友人との繋がりを控えた。

より苦しくなっていった。薬に甘えないようにせねばと思ってあまり通院してなかった時期でもあった。

夜に原付飛ばしてみたり、自分なりの反抗をしていた。それでも苦しさは消えなかった。

夏の終わり、自殺を図ろうとした。海の近い町だった。このまま砂浜から海に入っていけば泳げない自分死ぬのではないかと感じていた。

服が海水を吸って重くなっていった。明確に死の恐怖を感じた。このまま自分が死んでいなくなる恐怖だった。この世から消え去りたくないと感じた。

砂浜へ引き返した。びしょ濡れのまま、一人家に帰った。自殺しようとしたなんて打ち明けることなど出来なかった。

死ななきゃいけないという感情はそれでも消えなかった。僕は考えを捻じれさせていった。

死ななきゃいけないなら、自分自身死ぬことを納得できる人間になろうとすればいいじゃないかと考えるようになっていった。

当時のニュースの影響もあって、大量殺人者に憧れるようになっていった。ああすれば死ねる!と。

30になったら行おうと思っていた。そこまでの命ならと思って、散財するようにもなっていった。

課金ゲームにハマっていった。諫められても、助けてくれなかった親への恨みから正当化していった。

深みにはまってどんどん続けていた。

20になった。成人式を迎えた。流石に焦りを迎えた。

バイト探しをするようになっていった。田舎から求人は貴重だった。

毎度のごとく落ちていった。

21になった。レンタルショップバイトに受かった。バイト代はすべて課金ゲームにつぎ込んでいった。

22になった。僕はバイトのままだった。世間就職にまた焦っていった。

23になった。友人の誘いで地元原発作業員になった。入ってウキウキ気持ち原発への嫌悪感がごちゃ混ぜになっていた。

半年で辞めてしまった。よりヤケになっていった。クレカ借金を作れば自分死ぬことに納得いくだろうと破滅的な行動が増えていった。

24になった。転職サイトで中途で入社した。ネット販売員だった。営業だった。件数全然取れなかった。頑張っても取れなかった。

頑張ることの意味が分からなくなっていった。努力しなくなっていった。ネットへの依存は深まっていった。

グループ内で転籍させられた。借金は増えていった。死にたくてたまらなかった。

25になった。課金ゲーで出会った友人に職に誘われた。僕は後先考えずに飛びついた。殴られるような営業から逃げられると思った。

転職先は良いところだったが付いていけなかった。そのころにはもう考えてもストレス意識が飛ぶようになっていた。

転職先を辞めてしまった。

無職になった。生活保護を受けるようになった。治療を受けても、あまり合わなかった。借金は残ったままだった。

四か月経ち、今日バイトを始めた。あまりのおぼつかなさに愕然とした。

死ななきゃいけない声が聞こえていた。今までは、周りを批判的に見たり、自分の実力を弱く見せたりして補助を貰おうとして誤魔化していた部分も遂に終わりを迎えた。

虐められていたときに亡くなった祖父母へのお別れの気持ちも1週間ほど前に整理がついた。

中学のころからの死ななきゃいけないを外すときが来た。そんな風に思えた。

借金は今、自己破産手続きが進んでいる。

2017-06-11

http://anond.hatelabo.jp/20170610205032

中学時代適当に授業を聞いて提出物を出すだけで私はトップの成績でしたし

毎日のように登校してちゃっかり提出物出してる時点で全然適当に授業受けてたわけじゃないのよねえ

精神的にも辛い状況下で不登校保健室登校の時期もあって、気がついたら提出物なんかろくに出したこともないまま卒業したわ俺。

そのせいでいくら実力テストの点数上げたところでせいぜい偏差値60ちょい下の県立高校がいいとこだったんだよね

貧困とか関係なしに健全関係保った家庭にいて、地域コミュニティにも馴染めていてなんだかんだ学校にも居場所があるのは恵まれてることとしか思えないんだよなあ…

金の心配せずに高等教育受ける生活なんて全く想像も出来ない様な人だっていくらでもいるし、「とにかく高専専門学校で頑張ってそれで就職しなきゃ」って、それ以外の将来考えたらバチが当たるんじゃないかってそんな風に考えてる、余裕のない奴もいるんじゃん?

それを考えれば元増田だってまれ環境にいたわけだ。視野大学に進学するという選択肢が入ってくる環境、器用に大学生活を謳歌しながら院まで行ける環境。抜け目なくインターンから始めてしっかり内定とれる環境ね。

増田もとても運が良かったって言ってるけど、その通りで人間関係やら金のトラブルの有無やら色んなことが複雑に絡まりあって結果として成功に至ってるんじゃん。

増田の安定した現在も昔の出来が良かったエピソードも厳密にいえば自分だけの力によるもんじゃなくて、それは増田自身もわかってるかもしれないけど、やっぱりこうやっていいたくて。

なんつうか元増田ってぶっちゃけ結局「奨学金借りてましたー」ってだけでわりかし普通な学生生活送ってた人にしか見えないわ。

進学して要領良く「いいとこ」に就職できてる結果がある以上、勉強してきた環境に恵まれてたという他ないんだよ。結果論なんだよ。

別に元増田価値観ケチつける気はないんだけど、こういう自分を劣悪な環境出自だとかハンディ持ちだとか紹介して展開するポジショントークって、はっきりこれが駄目だって言いきれないけどなんだか不愉快だわ。

なんつうか高専までの同級生とか自分家族とか地元友達とかもう無意識に見下してる感じがするし、大学以後の言い方もなんか「こんな優秀でブルジョアな人々が集まるハイカルチャー場所の一員になれて幸せっす」みたいな。他人有益無益に振り分けてるっつうか、勝ち馬に乗りたいという気持ちというかなんかうまく言えないんだけどさ。

まー「自分のやりたいことがわからない」のもなんとなく納得出来ちゃう権威主義というのかそういう卑しさが垣間見えるのかな?

やりたいこと見つけるとか夢の実現とか、そういうことは追いつけ追い越せと競い合ったりするもんじゃないと思う。そんな他人からかっこいいと言われたいが為だけに頑張る様な真似をせず、マイペースにやっていくなら「自分が何をやりたいのか」なんてはっきりわからなくてもいいと俺は思う。

平たくいったら「恵まれてないとか卑下すんな嫌味ったらしい。半ば学生のあっさい仕事観や学問観なんざだらだら書き込んでんじゃねえ。うざったいんじゃ黙って働けや。」ってことです。こんな愚痴聞き流してくださバイバイ

きっと増田は可愛くて気立てのいい人と結婚できるよ。(男だよね?)

2017-03-30

ボーダーライン

12年間、ブランクはあるもの家庭教師をしている。

昔は自分学生だったので、気楽な気持ちでやっていたし、市街地から離れたところでの指導だったので、子供も親御さんもおっとりしている人ばかりだった。必ずおやつ飲み物が出され、成績が上がらなくても特に何も言われなかった。

生徒は本当に勉強のものが苦手で、集中力がない子も多かった。彼らの指導はしやすかった。

しかし今は、親の求めるものも高くなってきているし、おやつ飲み物も出されない。別にそれは全然構わない。

私が気になっているのは、「特別支援学級に入れることをすすめられているが、普通学級にいたい生徒」である小学校1年生でテストは0点、こちらが質問しても、全然違うことを答えたりするそうだ。

知人で、勉強が非常に苦手で、特殊学級(私たちの頃はそう呼ばれていた)をすすめられていた人がいた。その人は特別学級には入らず、偏差値の高くない高校では成績も良く、今では就職し、結婚して子供もいる。コミュニケーションはまったく問題のない人だった。

からすれば、普通学級に入れておきたいだろう。世間の目もある。しかし、低学年のうちはよくても、コミュニケーションなどに問題があれば、トラブルを起こしかねない。

私自身も、どこか問題がある生徒ではないかと言われていた。私は定規で直線が引けず、コンパスが使えず、いつも漢字の同じ部分を間違えた。お手伝いをしなさい、と言われても、ただ見ているだけではどこを手伝えばいいのかわからない。友達もおらず、植物図鑑を見て花の名前を覚えたり、とにかく本ばかり読んでいた。結局、保健室登校をするようになってしまった。

保健室登校をしている子はもう1人いて、その子友達がいなくて、怒ると暴力をふるう子だった。口でのコミュニケーションが苦手だったのだと思う。

結局彼女中学校にも行かなかった。私は不登校留年を繰り返しつつ、今もどうにか生きている。心療内科に通いながら働いている。診断名は躁鬱だ。ADHDADDには該当するような気がするが、はっきりとはわからない。

家庭教師をする前は接客業をやったり、ほんの少し飲食関係をしたことがあるが、恐ろしいほど仕事が出来なかった。精神状態が悪くなり、逃げるようにやめたこともある。幸いなのは、私がものすごく人に恵まれていて、仕事ミスが多くても周りの人がフォローしてくれたことだ。これには本当に感謝している。

しかし、算数がさっぱりわからない子って、どこがわからないんだろう? 会話が成り立たないって、どんな感じなんだろう? そのような子とうまく接する方法が、私にわかるだろうか?

算数がわからない子の気持ちはわかるような気がする。私も算数なんてさっぱりわからなかったからだ。ただ、算数がわからなかったことよりも、数学がわからなかったことのほうが印象的である。私は公式意味を知りたかったのに、先生説明ではわからなかったのだ。

算数がわからない子の中には、数の多い少ないがわからない子もいるらしい。それは新たな世界であるし、それは面白いことだ、と私は思う。

何をボーダーラインとするかは様々ぁなぁと思ったのだった。

2017-03-07

結婚を考えてた彼女いじめっ子だって知った

Facebookに1年付き合ってた彼女とのツーショット写真を初めて載せてタグを付けたら高校同級生からメッセージがきた。

もしかして(彼女名前)さんと付き合ってるの?」って。

聞くと同級生彼女と本当に地元が一緒で出身中学がも同じだった。

いじめてたんだって中学の時一部の女子を順番交代で。

いじめいじめて、飽きたら標的を変えていじめる、みたいな感じで、順番で。

いじめの具体的な内容は悪口ばらまいて孤立させたり、男子に頼んで殴らせたり、給食ゴミ入れて食べてるのを笑ったり、保健室登校になった子を保健室までわざわざ追いかけて大声で悪口言ったり。

むかし彼女からいじめられたことあるの、私は被害者だったのって聞いたことがあったんだ。

中学3年の時、女子から無視されていじめられてたって。

でも正しくは

女子バスケ部の子彼氏を寝取ったか女子バスの反感を買った」のと「今までのいじめが露呈したので3年の後半は孤立してたこと」らしい。ちなみに同級生から聞いた話と彼女から聞いた話の一部は一致した。


高校同級生は一緒に励まし合って受験勉強頑張ったりしてずっと仲良しだった、嘘つくような人じゃない。

言うか迷ったけどやっぱりその女といるのは応援できないって言ってた。

あと自分仕事教師なんだけど、そこらへんを考えて言ってたほうがいいと思って言ったってさ。

ちなみに彼女教師なんだけど、同級生地元ではあの女が自分の子供の担任とか絶対イヤだよねってなってるらしい。

同級生は、別れさせたいわけじゃないけど、その女と結婚とかするならもう俺とはあんまりかかわりたくないんだって。それでいいぐらいの覚悟言ったとさ。

それを聞いて何年か前に見たいじめの恨みは本人に返ってくるとは限らないって言葉を思い出した。



ずっと付き合ってた彼女否定されて、悲しいような信じられない気持ちでいっぱいだ。

同級生のことを信じるかも迷ってるし、ちょっと怒ってる、彼女バカにするなって。

彼女には何も言ってない。俺の前ではかわいい彼女なんだ。

もし真実でも、人間は変わっていくものだし、誰かをいじめていた彼女はもういないって信じたい

2016-08-23

貧困女子高生について思うこと。

私が高校生だったころ、一時期保健室登校だったのだが、毎日睡眠をとりに来る女子がいた。

彼女は一学年下で、睡眠時間を削ってバイトをしているため、寝にきていた。

それは、先生たちも承知の上だった。

そもそも、私の通っていた高校バイト基本的禁止

だけど彼女の家庭は、かなりの問題を抱えていた…らしい。

私は、睡眠のために遅れてしま彼女学業の面倒を見ていた。そのとき、ちらほらと話をしてくれた。

両親ともにパチンコ狂いで、共働きだけど給料は全部パチンコに使ってしまう。

もちろん、彼女学費も、まだ小学生の弟・妹の給食費その他学費も出してくれない。

から彼女バイトをして、自分学費・弟妹の給食費などを出している。

そのバイト代さえ、ときどき親が持って行ってしまう…。

学校側はできる限りのことをしているようだった。

まず、彼女バイト先は学校が紹介したところだった。

なるべく時給がよく、でも危険ではないバイト

昼間は学校に通っているから、自然バイト夕方~夜間になる。

から、その時間帯に働いていても女子高生というブランドを持つ彼女危険さらされないような(つまり風俗だとかそういういかがわしい界隈ではない)仕事を探して、紹介していた。(私が高校に通った当時は援助交際真っ盛りで、女子高生というブランドさえあれば、いかがわしい方法で数万円稼ぐのは楽な時代だった)

そもそも、彼女の家は収入自体がないわけではないから、どんなに日常生活に困窮しても生活保護は受けられない。

収入自体が少ないわけでもないから、奨学金対象にもならない。

福祉課の人や学校の人が何度足を運んでも両親はパチンコでいないか、いたとしても話を聞かない。

あんな親ならいないほうがいい、と、彼女は何度か泣いた。

私は、かける言葉が見つからなかった。うちの親もある意味で毒親で、そのせいで私は病んだけど、彼女と違ってお金に困ったことはなかった。

からとにかく、彼女学業の遅れだけは取り戻させてあげようと、頑張って勉強を教えた。

彼女の、夢の話は聞いたことがない。

彼女が何かをやりたいと思っていたとしても、おそらく進学は無理だろうし、まだ小さい弟・妹のために高校卒業したら働く、と言っていたから。

高卒での就職は、希望する就職先に成績順で割り振られる。「ここに就職したい」という生徒が二人いたとしたら、成績が上の子面接権利を得られるのだ。

から就職希望であっても成績はいいにこしたことはない。

出席時間数はぎりぎりで調整していて、それだけでも不利だからちょっとでも勉強頑張ろうね、と励ました。

そして、(幸い私も勉強だけはできたから)彼女に教えられるだけのことを教えて、私は一足先に大学に進学した。

大学入学してからも、時間に余裕があるときは母校の保健室に行き、彼女勉強を教えた。

そして彼女卒業のころ、保健の先生が、彼女希望していた就職先に就けることが決まったと教えてくれた。

金融関係仕事で、お給料高卒としては高いほうらしい。

できるだけ早く独り立ちして親から離れ、弟と妹の面倒を見ながら暮らしたいと言っていた。

よかった、と思った。

就職が決まったお祝いに、ちょっといいペンケースと筆記用具一式をプレゼントした。(大学に入ってからは私もバイトしてたから、そのお金で)

同情とかじゃなく、純粋彼女応援たかたから。だから勉強を教えたし、卒業後も時間を見つけては保健室に顔を出した。

たぶん彼女は、趣味に使うお金なんて持っていなかった。趣味に使う時間もなかったと思う。

彼女の家庭は、収入だけ見れば「貧困家庭」ではない。だから生活保護奨学金も受けられる対象にはならない。

だけど、彼女は間違いなく例のうららちゃんより「貧困」だ。

救われるべき「貧困女子高生」だったと思う。



型にはまった貧困家庭NHKの例の番組でいうと、家にクーラーないとか、パソコン買えなくてキーボード練習とか)は、わかりやす視聴者イメージさせるための「演出」かもしれないけどね。

でも、ちょっと詰めが甘いんじゃないのかなぁ。

貧困女子高生って設定で番組に出すなら、ツイッター関連なんかあらかじめ調べておくべきでしょ。

女子高生なんてツイッターやってる可能性高いんだし、すぐ特定されるようなことしてるから炎上ちゃうんだよ。

しかも例のうららちゃん、ツイッター削除する前に捨て台詞で「貧困じゃない」みたいなこと書いてたとか。

あと、最近うららちゃんの姉とかいう人が現れてたり。

ぼろが出すぎなんだよ。

スマホも普及して、これだけみんなが簡単ネットアクセスできる状況で、暇を持て余してる人だっているわけで。

あん簡単ツイッター特定されて、散財っぷりがさらされてるのは、NHKの落ち度だよ…。

テレビって、いまだにヤラセをがつがつやってるけどさ…。(業界の人が一般人装って街角インタビューされるとか)

そんなの、すぐ特定されるってそろそろ気づいたほうがいいんじゃないのかなぁ。

貧乏ですー学費ないので学校いけません」とか言いながら、あれだけ散財してたら、そりゃ叩かれるよ。

うららちゃんが、私が勉強教えた子みたいな感じだったのなら、叩かれなかったと思うよ。

探せばもっと適切な人材はいたと思うけどね。

うららちゃん側から売り込んできたのか、NHK側が打診したのかわからないけど…。


これからあい番組やるなら、「ツイッターで散財っぷりを公開してないですよね?」の前確認絶対必要だね。

2016-08-09

どんなに顔が良くても

保健室登校の子大人になってモテ無いな

それ以前に33現在学校休みがち、保健室登校、出席不良だった友人は正社員数0

女は可愛くてもモテて無い

男は全員無職フリーター

やっぱ小学生時点で淘汰されてんだな

2016-04-27

いじめられる人間が悪いの意味理解

養護教諭をしていて保健室登校の生徒を見ている。

なんというか…そりゃいじめられるよという生徒ばかりで呆れる。

ダウン症気味とかADHD能力が低い子供はまぁ本人というより生まれが悪かったねと思う。

しかし半分以上の生徒が単なるクズ

好きな事しかしたく無い、聞きたく無い。

家では言うことを聞いてもらえる、親が仕事に行ってるから好きに出来るのに。

他の人の言うことを聞くのは嫌だ、面倒だから勉強もしたく無い遊びたい。

努力はしたくない、他人なんてどうでも良い、他人迷惑を掛けても底辺で良い。

そんな子供ばかり。

親に様子を聞いても遊びには行っているけれど学校は来れない。

いじめを受ける前に大抵周囲の人間問題発言問題行為をしている。

いやホントいじめられるのは本人に原因が有る場合ばかりだよ。

ミニティサイコパスカスを入れない事で種の保存作用が有るのだと思う。

群れに入れて繁殖させてはならない個体を弾いているだけだなぁ…。

2015-09-02

14歳処女喪失。相手は。。。

もう10年以上前のことである

当時、中学校クラスに馴染めずいわゆる「保健室登校」をしていた。

家では両親、兄弟と楽しく過ごしていた。

ゲームばかりしている毎日で、ゲームのなかで素晴らしい曲に出会い、その曲を作ったバンドに没頭していった。

しかしそのバンド10年前の段階で既に解散(このバンドでは解散という単語は使わなかったが)しており、資料がどこにもない。

そこで大変便利だったのがインターネットの個人ホームページ

そのバンドファンサイトに入り浸っては、バンド現役時代からのファンの人々と楽しく交流していた。

当時のラジオの書き起こしや、雑誌インタビュー書き起こしなど、貴重な情報を得ることができた。

そこで出会った、ある男性

そのバンド初心者ファンで、10代だったこともありとても優しく色々と教えてくれた。

レアなグッズを無料で譲ってくれるというときにはとても嬉しかった。

でも、宅急便で送ってくれるとなった時、親が心配し、住所を教えるのを頑なに拒んだ。

今考えると当然だと思う。だって見ず知らずの男性に住所を教えるのは、恐ろしいから

しかし、どうしてもグッズのほしい私は、「男性に会って直接もらう」という手段を選んだ。

もちろん親が心配するから内緒である



夏休みのある日。

横浜だったか川崎だったか

駅で待ち合わせて、ネットカフェに行った。ペアシート席。

そこで、持ってきてもらったDVD再生してもらった。

目の前のライブ映像に釘付けだった私。

隣にいる男性より、画面に映るバンドメンバーのことだけ考えていた。

すると、隣にいる男性と手が触れて、避けようとすると抱きかかえられてしまい、対面座位のようになっていた。

状況がよくわからなかったが、オトナっぽいことをしているということにドキドキしていた。

男性に言われるがままに、キスして、服の中に手を入れられ胸を触られて、下腹部も触られた。

喘ぎ声みたいなものは出なかった。ため息のようなものが出た。

私の引きこもりデブの身体のどこがいいのかわからず、男性の息が荒かったのが意味不明だった。

放心状態でネットカフェを出て、見ていたDVDを始め、雑誌類やら書籍、出回ってない音源CDをもらって帰ってきた。

その後も数回、レアなグッズと引き換えに、身体を触らせたり、コスプレしたりした。

「いつか本当に好きな人ができた時の為に備えて」セックスをした。

学校で楽しくない自分をイキイキとさせてくれるのは、彼だけであった。

女として、見てくれていたと思う。

グッズは増える一方で、自分は何をやっているんだろうと気付いたのが15歳。

受験も控えて、周りの状況を見て焦った部分もある。

突然、もう会いたくないといって別れることにした。素直に別れてくれた。

その後、また別の年上の彼氏と付き合って、彼氏誕生日を迎えた。

初体験の相手と私の年齢差の数字と同じ年になった。(例、20歳差だったとした場合彼氏20歳ね)

そこで私は彼氏に「今赤ちゃんのコたちが、JKとかJCくらいの年齢になる頃、そのコ達とヤりたいと思う?」と聞いてみた。

すると「いや、俺少しロリコンっ気はあるけど、さすがに今から十数年後はもう勃たないよね!」と言われた。

大人になるにつれて、男性不信になりつつあり

ロリコンとかキモいし、同年代に相手にされない男達が地下アイドルエロレイヤーとかに入れ上げてるのを見てて哀れだなと思う頻度が上がってきたが

自分若い頃対して変わらないことをしてきたんだなと思って少し反省意味を込めてこのエントリーを書きました。

得るものもあったけど、自分の身体はやっぱり大事にしておくべきだったと思っています

あと、両親に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

後悔先にたたずです。

2015-05-13

http://anond.hatelabo.jp/20150512234311

さらりと思ったこと書いただけだったのに、丁寧に回答していただきありがとうございます

増田の言いたいことは凄く分かるし、そのモヤモヤ共感できる。

そこで一つ増田に聞きたいんだけど、滝先生と逆の指導方法、つまり自主性を重んじた方法で自主性って身につくんだろうか?

そもそも自主性を重んじる指導ってなんだろうか?

自分がいた高校顧問は生徒の自主性を尊重してたのか、ただ単にやる気がなかったのか知らないけど、

部活方針なんかにはほとんど口を出さない人で、

そんな顧問の代わりに、自主性=自分の考えを押し通すことだと勘違いした一部の部長やらパートリーダーやらが暴走した。(完全下校時刻を無視した校外での練習など)

その結果、ストレス聴覚やら肺やら神経やらを患った病人が何人も出るわ、部内でいじめにあって保健室登校をする生徒は出るわで散々なことになった。

そんな状態でも状況を改善しようとする生徒は極少数で、そういった人間部活に見切りを付けて退部、病人組は身体の弱さを逆に謝り、いじめ加害者自分正義があると信じていた。

彼らが部活を通して学んだことはなんだったのだろうかと、随分時間が経った今でも疑問に思う。

昔の愚痴になってしまって申し訳ない。

ただ、こういった部活崩壊経験をしているせいで、たとえ兵士としてでもそれなりに全員で結果を残したかったなと自分は思ってしまうし、

先生自分高校にいたら良かったのに、と思ってしまう。

増田の言う通り、モヤモヤする部分はあるし、圧倒的に正しい指導者ではないのにね。

2012-08-21

明確にいじめられはしなかったが

二人組作ってーと言われると基本的にハブられる人間だった。凄い嫌々そうな顔で組まれることが毎回だった。

球技のチームわけは更に苦痛だった。出来る奴だとクラスから推薦された人間が、自分グループに入れる人間を指定する形でチームを組むからだ。

当然自分はいつも最後。目の前で「どっちが取る~?」「ジャンケンで負けたほうでいいんじゃね?」とかやられたときは流石に逃げたかった。

ついでに思いっき学級委員も押しつけられた。クラス投票自分ともう一人地味な子(明確にクラスからハブられてた)が圧倒的多数の票を獲得して当選した時は

正直泣きたかった。

さすがに辛くなって面談の時に教師に訴えたら、「あなたは真面目な子だからクラスから信頼されているんだと思っていた、もっと自信を持ちなさい」と来たもんだ。

それでも出席しないと単位がもらえないとかい学校お題目馬鹿正直に信じ込んでいたんで、何とか学校には行ってた。授業にも出てた。

今考えると自分のことながらすげえなと思う。保健室登校とか何でしなかったんだろう自分意味わからん。たぶん親が怖かったんだとは思うが。

おかげさまで今でもグループワークって奴が凄い苦手だ。

誰かと組んでやらなきゃいけない作業も凄い苦手だ。小テストの交換採点とかいちいち死にたくなる。

大学に行けば解放されるかと思ったけど、結構ちょくちょく授業でもやってくるのがなあ。

2011-09-22

院試落ちた記念

内定蹴って一留して目指してた院試に失敗していよいよ詰んだんだが、

どうしてこんな糞野郎になったのか半生を振り返ってみる。

中学3年生の時私はいわゆる保健室登校をしていた。今考えると理由はよくわからない。

ただ、趣味ゲームアニメイラストを描くことで、2chに入り浸り、

体重は60kg超えのデブ、色黒、毛深い、眉毛も整えない女は迫害されて当然だろう。

実際男子からの扱いはひどく、女子にも話しかけられず、中学時代の今でも友達と呼べる友達は2人しかいない。

よく思い出してみると、毎日家まで迎えに来てくれたり保健室に様子を見に来てくれる子もいたので、

ただの卑屈な思いこみだったんだろう。後悔している。

中学校進学校(?)だったので3年間勉強はしていた。成績が良かったので塾は嫌いではなかった。

その間ずっと、いつか好きなだけ漫画を読みゲームをし、イラストをたくさん描く時間ができるのだろうと思っていた。

結局、保健室登校による内申の低さが祟り、第一志望の高校には入れず第二志望の公立へ行った。

高校時代は、言い方は悪いが、周囲がバカに見えること以外は楽しかった。

コンプレックスは引きずったままだった。変わることを意識し、中学時代は無所属だったが部活に入り、化粧もした。体重はそれでもデブだが少し落ちた。

高校でも勉強は続けた。1年生の時、美大へ進学したいか予備校へ行かせてくれと親に行ったが遠まわしに却下された。

進学塾費用は出してくれたので、そちらに精を出すことにしたのだ。畢竟、イラストはあまり描かなくなった。

学校だったが、3年間で男子言葉を交わした記憶殆ど無い。

大学は、金融関係に勤めている父の影響と、単純に金持ちになりたかったので、経済学部に行きたかった。

数学は好きだができなかったのであまり勉強しなかった。そのうえ厨2病をこじらせたのか現実人間社会に興味がわかず、

政経ではなく倫理に興味津々でセンター倫理選択で、地理はやらなかった。

結局、途中で妥協し経済学部志望を諦め、目指していた大学の中で一番楽に入れるところを受けなんとか現役で合格した。

サークルに入った。大学人間はさすがに素晴らしい人が多く、素晴らしすぎてついていけなかった。

「いつか時間ができたらやろうと思っていたこと」を勉強と一緒にやってきた人たちばかりだった。

絵もかけなければ楽器もできないスポーツも出来ない自分との圧倒的な違いに絶望した。まあ仕方ない。

ふてくされたわたしは、投げやりに決めた進学先に成績がからまないのをいいことに彼氏をつくって遊んでいた。

が、この彼氏地雷だった。

サークルクラス人間と関わると嫌な顔をする。

私が周囲の人間と疎遠になったところで、「悪かった、俺が間違っていた」といい自分人間関係はそのまま。

わたしがなにか新しいことをしようとするととたんにねちねちと難癖付けてくる。

教職をとれば「教師はもっと神聖な仕事だ」就活をするといえば「女は働くもんじゃない」

じゃあ公務員試験勉強のために予備校へ行くといえば「簡単だって親父はいってたけどな」

(彼の父は法学部出身。わたしは大学の専門がまったく試験と関係ない。)

まあそこでやる気を失うわたしも悪いのだが、初めてできた彼氏で、しか自分のことを「好きだ」といってくれるからにはなかなか切れない。

共依存関係でずるずると引っ張り続け、4年生になり、就活勉強ほとんどできないままほぼ大学受験貯金で受けた試験内定をもらった。

しかし、わたしがしたいのはそんな仕事じゃなかった。海外に長期滞在するチャンスが欲しかった。

仕事をするからには、自分仕事を通じて社会課題を解決したかった。

おにぎり食べたい」と書き残して死んでいく人を放っておくような国をかえたかった。

それでわたしは専門を変えて大学院を受けることに決めた。

親に頼み込んで、留年させてもらった。これからは頑張ると決めていた。

にもかかわらず、彼と別れられなかった。他にも男性との間でトラブルを起こした。

通院することになり、紆余曲折を経て結局完全に別れたのが今年の6月

なにかやらねばならないと思っても、もはや、頑張るということを完全に忘れていた。

勉強の仕方も、忘れていた。到達すべきレベルも、やらなければいけないことも、わからなかった。

とりあえず英語試験勉強をした。貯金があったので、合格者平均くらいは、とれた。

けれども、その後机の前に座ってみても増えるのはらくがきばかり。

そもそも問題意識が低いか目的を達成するための手段としての勉強に身が入らないのだろうと思い、

問題意識根底にある原体験の不足を補うためにボランティアに参加してみることにした。

東北支援と、NPO系のものいかないよりはいってよかったとおもう。そこそこに感動もした。

というのは、人は変わるということを目の当たりにしたから。しか怠惰さは残った。

よくこういう文章でみる、「ここで俺は覚醒した。狂ったように勉強した。」みたいな一文が頭にちらつくが、なぜかそうならなかった。

そうしようと思って机に12時間むかってみても、そうならない。没我という状態はついぞあらわれなかった。

それでも最後の4週間、それまでの4年間に比べれば勉強したと思う。結果は駄目だった。

能力が、ないのだとおもう。

頭の回転はそんなに悪いとは思っていない。ディスカッションの進行や即興でのプレゼンはほめられる。

でも、決定的に打たれ弱くて、入念に、継続して何かにむけて努力することがどうしてかできなくなってしまった。

意志の力の決定的な不足。親に申し訳なくて、泣いた。

これからどうすればいいのか正直わからないでいる。やりたいことはあるが、そのために学士入学したところで、仕事にありつける可能性がさらに狭まるのは必至だ。

これなら頑張れると今は思っていても、こんな経過を振り返っては、親どころか自分すら説得できない。

いっそ仕事で満足するのを諦めれば良いのかもしれない。仕事以外に人生の楽しみを見出しそれに傾注するのも幸せかもしれない。

しかし、自分の中で仕事ステータスと捉える側面が未だあって、そのせいで現在すでに、働いている友人たちと連絡が取りづらい。

捨てるべきはプライド、持つべきは意志。しかしそのうまいやり方が、わからない。

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