はてなキーワード: フレーバーテキストとは
FGOのフレーバーテキストやガチャ実装時の紹介文があちこちの資料・ウェブサイトから剽窃していることが判明し絶賛炎上中の件について、ディライトワークスではない別のソシャゲ会社に勤めていた経験から、「こんな感じだったのかなー」という妄想を書き連ねておく。
このあたりに影響されて。ちなみに順不同。
https://anond.hatelabo.jp/20200127132401
https://mizchi.hatenablog.com/entry/2020/01/27/172334
https://kirimin.hatenablog.com/entry/2020/01/27/204453
初めてガウル平原に出たときの感動を超える経験を、今後プレイしたRPGで、できるだろうか?
新しくRPGをプレイするときに、いつも比べてしまう存在。それがゼノブレイド。
リメイクも今年出るらしいが、リメイクゆえにあのときの感動を超えられないだろう。
ゼノブレイド2は面白いゲームだったけど、自分的には大傑作とは言えなかった。3を楽しみにしています。
なぜこれがここにあるのか?それは誰にもわからない。
しかし、我々がデジタルダンスミックス安室奈美恵を買ったときから、
CGモデルを舐めるように下から見るという行為が大切だと思って生きてきたはずだ。
最近はカメラが自由に動かせないゲームが多く、真下から見ることは難しい。
DOAX3はそんなことない。俺たちの自慢のモデルを舐めるように見てくれ、という熱い思いがあった。
仕事から帰ってきた後に、仕事のように単調な作業プレイをして、水着を集め、配る。
DLC(という名のガチャ。水着が直接売られていたら買ってただろう)は決して買わないという誓いのために、
アホみたいなプレイ時間を強いられる。当時の2chではプロデューサー早矢仕氏の悪口しか書かれていない。
ただ、スレではみんな一体となって、オートセーブを避けて、効率的に水着を集める方法を共有してたんだ。
こんなゲームがあるだろうか?ちなみにスカーレットはやってない。
ゲームは綺麗なCG表現だけではない、ということを明らかにしたゲームであり、
またインディーゲームからメジャーゲームに上り詰めたにもかかわらず、
コミュニティからも愛されている稀有なゲームである。それ以上の説明は不要。
このゲームのためだけにPSVRを買う価値がある。そういうゲーム。
なぜSIEはこのゲームを真面目に押さなかったのか、いまいちよくわからないが、
マリオのようなベタなキャラクターを持っていないSIEの欠点が出てしまったともいえる。
金でもバラまいてディズニーの有名キャラなり、マーベルのキャラなり使えばよかったのに、
だが、ゲームの出来とは無関係なので、アストロボットやってほしい。
よくオールタイムベストのゲーム選出でクロノ・トリガーが選ばれていて、
「実際、クロノ・トリガーそこまでのゲームじゃないだろ」という感想をよく見かける。
たしかにクロノ・トリガーはそこまでのゲームではないかもしれない。なら、なぜ選ばれるのだろうか?
それはクロノ・トリガーの演出が異常に記憶に残りやすく、記憶の中で美化されているからだと思う。
オープニング、ドラゴン戦車での横向きの戦闘、裁判、魔王決戦など。クロノ・トリガーらしいゲーム画面がいつでも思い出せる。
ニーアオートマタをプレイしながら、何も似ていないけど、これはクロノ・トリガーの後継者だなぁと感じた。
そうかもしれない。しかし、私は十年後も遊園地廃墟のシーンを覚えているだろう。
ある意味でストーリーを捨て、クエスト、サブクエストも大半を捨て、
続編ではおそらく別解が示されることだろう。今から楽しみだ。
撃ち合いを塗り合いと呼ぶ詭弁によって、新たな次元に昇華したゲーム。
徹夜してやったストーリー重視のゲームは、逆転裁判、ダンガンロンパ、レイジングループなど数あれど、
リアリティのあるフィクションの中で、続きが気になるストーリーを作り上げたのは、これか龍が如く0だけ。
龍が如く0はあくまで続編であり、桐生ちゃんと真島の兄さん人気を使っているが、これは完全新作。
その観点で、こっちを選んだ。ピエール瀧の代役だけが悲しい。彼が復帰したらピエール瀧をDLCで売ってほしい。
テン年代はCSにおけるFFの存在感がなくなった10年だと感じる (FF11, 14は除く)
JRPG (この言葉は好きではない)がいつのまにか蔑称となり、
「量より質」という言葉の対義語(?)に「量は質に転化する」という言葉がある。
JRPGの進化の一つの方向性に、この量質転化があるのではないかと思う。
FE風花雪月でも似たようなことを感じたし、
つまり、見た目のテクスチャに凝るよりも、膨大なテキスト(フレーバーテキストを含む)に凝った方が
ゲーム体験の質は高まるのではないかという仮説だ。ペルソナ5は確実に質に転化した新たなJRPGだ。
ある意味では上記のペルソナもそうかもしれない。(3で確変した)
さて、私事ではあるが、私はひょんな事から知人の紹介を以て物書きとして仕事をすることになってしまった。
同人小説の一つも書いたことはなく、詩を紡いだこともないズブの素人が物書きとなってしまったのだから、これは一大事である。
世の中に生々しい悪臭を漂わせるクソのような文章を生み出すに違いない。同業の諸先輩方には申し訳のしようもないが、生きていくためには書いてみるしかないようだから、一つ堪忍していただきたい。
具体的に何を書いているのかという話だが、主にソシャゲのシナリオとフレーバーテキストの仕事をしている。
シナリオは新規追加キャラクターに付帯する「ガチャを回したくなるようなストーリー」であり、フレーバーテキストとはアイテムやキャラの説明文といった類のものである。
自他ともに認めるズブの素人であるから、面白いストーリーも売れるキャラクターも分からずに右往左往している私の論は大変滑稽であると思うが、思考を整理しながら意見を頂きつつ、私のような後進があった時の手がかりになればという考えでタイピングしているのでご容赦願いたい。
物申したい訳ではなくて、自らの認識と世の中の齟齬を確かめつつ、様々な意見に触れられれば良いと考えた訳である。
物書きとしてスーリーを生み出す以上、面白いと思われる作品を作らねばならない。
しかし、困ったことに今までの人生で面白いものを作ろうとして作ったことはない。作りたいから作った絵や模型は少々あれど、人にウケる事を目的とした作品を作ったことは全く無い。これでは何を良しとすれば宜しいのかが分からない。
初っ端から大きな壁にぶち当たり、困り果ててしまった私は「ここはひとつ、自分が好む『面白さ』を分析し、自分と同じ感性の人間にウケる物を作ることから始めよう」と考えた訳である。
そのために、まずは自分が好きな作品をリストアップしてみようと思い立った。
そうして思いつくままに好きな作品をリストアップしてみた訳だが、どうやら具体的なことは何も分かりそうにない。 困った困った。
(例として『攻殻機動隊』『エヴァンゲリオン』『松本零士戦場まんがシリーズ』『姉なるもの』『装甲悪鬼村正』『DARKER THAN BLACK』『Fate/stay night』『イヴの時間』『カウボーイビバップ』『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』『殻ノ少女』『ARIA』などが浮かんだ)
パッと見で抱く第一感は、大抵の作品には何処か仄暗さがある事、ハーレム物ではない事(Fateはハーレムに近いが)が共通項であるという事ぐらいだろうか。
(一見明るく見えるARIAだって地球の海はすでに人の泳げない環境になっており、テラフォーミングされた火星の海で人が営む話だし、その他の作品も主人公格のキャラが暗い過去を背負っていたり、あるいは直面している状況が暗かったりする。)
あとは私が「根暗で面倒くさいタイプのオタク」のような何かであることぐらいは分かるのかも知れない。
本筋に戻るが、素人なりにこれらの作品を嗜好する人間が好む『面白さ』とは「その世界をキャラクターを通して知ること」ではないかと私は考えた。
例えば草薙素子がメスゴリラではなくか弱い少女であっても、碇シンジが熱血爽やか少年であっても、私は攻殻機動隊やエヴァが好きだっただろう。
なぜなら彼らがどのような性格や外見であっても、あるいは登場せずとも、世界設定が同じならだいたい同じように世界は動くだろう。
極論を言えば草薙素子がか弱い乙女であり公安9課に勤めていなくとも人は義体化し続けてゆくし、あるいは碇シンジが初号機に乗れと言われた時点で超ノリノリであっても、最初に戦う第三使徒サキエルにはコテンパンにされ、進化し続ける使徒を食い止めきれずにサードインパクトを迎えるだろう。
キャラの性格や外見がウケなくとも物語は進行し、あるいは登場せずともその役目は別の人物が担当して物語は収まるべきところに収まる。なぜならその世界はそういうニーズを抱えて生まれるからだ。
しかしそれではつまらないから、面白く見える視点を借り受けることで、物語は娯楽作品として成り立たせることが可能になる。
結論として、私は「キャラクターとは世界観に内包される1つの要素であって、世界の覗き穴でしかない」という考えに至った。
しかしこれを知人に語ったところ、「世界はキャラクターに内包されている」という返答を得て混乱することになり、こじらせ続けた結果としてこの日記を書くに至ったのである。
まず私は混乱を与えた知人に「なぜ世界はキャラクターに内包されるのか?」と問いかけてみた。
すると彼は「大塚英志を読みなさい」と言うので、彼が勧める「物語消費論改」に目を通し、今の私にうってつけの本のように思えた「キャラクター小説の書き方」も読んでみた。
大塚英志の書く文章は客観的なエビデンスを示す事よりも、一つの前提を提示した上で理論を展開する事に重きを置いているように思え、彼の取る左翼的立場(いわゆる大多数の革新派とは別物との自覚があるのか、自身は『サヨク』と表記するが)が突如乱入して辟易する事もあり、中々体力の必要な内容であったが、ひとまず読み切った。
彼の書き込んだ政治的なノイズと、理論展開をしたかっただけの文章をフィルターに掛けながら読んでいくと、どうやら物語というのはキャラクターがいないと生まれないものらしい。
キャラクターが初めに存在し、ストーリーを作る中で世界が見えてくるのだという。
なるほど、確かに何かしらのネタがなければ物語は書けないし、世界を描写することができないように思える。
例えば年齢や性別を設定されたA子さんというキャラクターだけがそこにいて、世界観がなかった場合はどうだろうか。
この場合、A子さんに生まれるのは虚無の中に放り出されたと言う事実だけである。
もし、その「『何もない世界』を受けてA子さんが得た情動こそが物語である」というのならば、それは虚無と言う世界観がないと成り立たないのではないか。
逆に、例えば「中世風の世界」があったとしよう。登場するキャラクターの設定は何もない。
中世風の世界といえば、人の頭の中には剣戟や鎧がたてる金属音や、あるいはそこで生活する人々が桶を片手に井戸に水を汲みに行く姿などを思い浮かべるだろう。
そして、多くの人は中世と言われただけで頭の中にヨーロッパの景色か、日本の中世を思い浮かべたのではないか。
あたり前のことだが世界観には内包する事物があり、事物には経緯がつきまとうものである。
世界観を定めたことで、これらの自然な在り方の幅が定まり、人物も含めて存在する範囲が決定される。
たとえ時間が静止していても、大木には新芽から育った歴史があり、水すらも水素2つと酸素が結合したという経緯が発生する。
私はこれらの変化こそが物語なのではないかと考えているのである。
即ち、その世界で起こった変化を拾い上げた時に、初めて事物がキャラクター化すると考えているが故に、私はキャラクターが世界に内包されるという考えが捨てきれない。
そして、物語の本筋というのは、それらの小さな変化全ての集合体であり、世界観そのものがストーリーであると考えてしまっているのだ。
うーん…困った…。なんでキャラクターに世界が内包されるのだろうか。
A子さんの主観から書いた物こそが物語であり、A子さんの認知した物こそが世界観であると定義するのだろうか?わからん…
うーんこまった。うんこまった。
なぜ困っているのかは次項で触れよう。
上記の様に「世界にキャラが内包されている」と考えている私が、物書きとして初めて書くことになった物語はソーシャルゲームに追加される新キャラのイベントストーリーだった。
この仕事のキモは、有料のクジ引きでプレイヤーが獲得できる新キャラをプレイヤーに対して強烈に売り込むことである。
具体的には運営会社が考えるキャラクターの「良さ」を引き立てるためのお話を一本仕上げるのだ。
ここで私は早くも躓いた。
何故ならソーシャルゲームにはベースとなる世界観があり、主要キャラはすでに出揃っており、本筋の進行に何ら問題のない所に、いきなり「強烈な売り込み」を必要とするキャラが登場してしまうからである。
本筋の話に必要のないキャラクターを、いかにも重大で必要な魅力を持っているかのように持て囃し、そのために何かしらの話を世界観という大地から発掘して、プレイヤーの周りに再配置する作業となる。
そして、運営としては本筋に明確な終わりを与えてしまうとプレイヤーが離れてしまうから、本筋だけを避けて大地を穴ぼこだらけにしながら不要物ばかりが増え続けていき、やがてはプレイヤーの周りに綺麗にそびえ立つ「本当はどうでもいいキャラ」の山が本筋を隠してしまう。
これは、私の「世界に内包されたキャラクター」の考え方だと避けて通ることは叶わない結果のように思える。
しかし、「キャラクターに内包された世界」という考え方であれば、大地の形は定まっていないので、きっとプレイヤーの周りに何処からともなく取り出した土を積んでゆく作業となるだろうから、なるほど確かにそちらの方がソーシャルゲームに向いている。
ただし「どこからその土(物語)を持ってきたんだよ」という疑問とともに、「別にその土がなくてもこの世界は存在しているし、その山は不要じゃない?」という感想を得る私のような面倒な者も少々発生するだろう。
「要・不要でしか語れない虚しい奴め」と言われればそれまでだが、こちらとしてはいきなりステーキか、或いはさわやかハンバーグでも良いが、兎も角ステーキハウスで3000円のステーキを注文したら、鉄板の上にステーキを覆い隠さんほどのミックスベジタブルを乗せられた心持ちなのである。
いきなりステーキの店員としても、ステーキが主役なのに上役の指示でステーキを切り捨ててでもミックスベジタブルを山程ぶち撒けろと言われて途方に暮れててしまうだろう。ステーキの前でアホ面を晒してミックスベジタブルを握りしめている店員こそが私なのである。
私は本筋を覆い隠さんほどのサブキャラを並べるという在り方は、本筋へたどり着かせない為だけの行為にしか思えず、ベースとなる世界観にガチャの新キャラを紐づけていく意義を上手く見いだせなかったのだ。
前項で困っていたのはこの点であって、物語がキャラクターに内包されているのであれば私の考えが間違っているだけなのだが、どうやら一応理屈は通っているように思えてしまっている。
え?意義はお金を稼ぐ事だし、キャラも理由なく存在していてもいいじゃないかって?
まあその通りなんだけどさ…青臭くってウブな駆け出しとしては、ちゃんと物語を進めたいわけよ…
え?面白ければ本筋がどーこーはどうでもいい?
それも最もな話よ…だけど、面白いって何さ?
ようやっとこの4項目にして表題に触れられた。
展望も何もなく書いてきたので、まずはここに着地できた事で一安心である。
「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクター」に塗れた作品であっても、成功しているコンテンツというのは存在する。
何を隠そう大部分のソシャゲは「本筋が遅々として進まず(或いはほとんど存在せず)、本筋に絡まない=世界の動きに絡まないサブキャラクターに塗れている」にも関わらず、利潤を得やすいガチャ商法を確立し、商業的に成功していると言えるだろう。
しかし、これは「プレイヤーが楽をして手に入れられる娯楽としては」という但書が付属するのではなかろうか。
例えば、人が10時間の自由と完全に健康な体を手に入れたとして、目の前に据え置きのゲーム機とスマホが置いてあり、何れかの"ゲーム機"で好きなゲームをして10時間消費できるとしたらどちらを選ぶだろうか?
多くの人は据え置きゲーム機を選ぶと思う。
ソーシャルゲームを10時間プレイするということは、多くの場合は右手の親指で、画面の右下を5秒毎にタップする10時間を過ごすことになるだろう。
ソシャゲのファンタジーゲームよりもドラクエXI、スマホの荒野行動よりもPS4のPUBGのほうが良いユーザー体験を得られることは当然である。
(バトロワゲーにおける「物語」とはプレイヤーのプレイそのものであると私は考えている。つまり、より派手に快適に臨場感を得られるPUBGのほうが物語を鮮明に作り出すことができると思っている。まあ、異論どころか非難轟々かも知れないが、本題とは離れてしまうので一旦放置してほしい。)
しかし現実には日本のゲーム市場はソシャゲが大きな地位を不動のものとしている。
これは、プレイヤー自身が体験・考察・のめり込む事なく「楽に手に入れられる娯楽」を欲しているからだろうと思う。
つまり「さっと注文して、さっと食べ終えられるファストフード」のニーズが高まっているのだと考える。
ここで本題に戻るが、端的に言ってファストフード的娯楽に、「大きな物語の展開を推察し、その行く末を記憶して楽しみにする」という『面白さ』は重すぎる。
世界観や、大きな物語の動きを受け取ることができるプレイヤーに対して、ファストフード的娯楽を求めているプレイヤーが圧倒的に多い。
故に本筋を覆い隠してでもサブキャラを増やしまくり、ゲームの本筋とは関係のないキャラ推しの話を通勤電車の中で10分で摂取させ、その体験を通してガチャを回させて達成感を与える訳である。
本筋というハイカロリーでの御馳走を消化するには、健康な消化管と食後にゆるりと過ごすことができる時間が不可欠だが、これは時間とタスク処理に追われる現代人にはちょっと厳しい要求だ。
故に、消化が楽で手早く終わるローカロリーな立ち食い蕎麦である、本筋に干渉しないキャラシナリオをちょいと摘むぐらいがちょうど良いという世情があり、まぁ立ち食い蕎麦も許せないほどマズイ訳ではないから多くの人が食べるのだ。
そしてこの2つを比べた時、多くの人は無意識のうちに御馳走と立ち食い蕎麦を「比べるべきではない両者」と判断して、或いは意識的に御馳走を我慢して立ち食い蕎麦を選んでいると言う構図なのだろう。
どちらを食べてもひとまず空腹は収まり、なんとなくか明確かの違いはあれど「美味しかった」という感想が残るから、死に物狂いで御馳走を求める酔狂なグルメ以外は、立ち食い蕎麦でも満足感は得られるのである。
つまり、ベストである必要が無いと言うのが、物語の器たる創作物に求められているのではないか。
結局のところ私はここまで考えた所で面倒くさくなってしまった。
本当は物語の捉え方を考えていたはずなのに、到着したのは「求められる面白さ」になり、挙句の果てにはステーキと立ち食い蕎麦だ。救いようがない。
さて、脱線し続けた挙げ句、私はこの記事の命題である「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクターは何が面白いのか?」という問いには、一旦以下の答えを与えることにしようと思う。
Q.「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクターは何が面白いのか?」
A.「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクターは一番面白い訳ではないが、なんとなく面白い位にはなる」
つまり、結論として、「本筋の展開する面白さ」は今の創作物には重すぎる。
キャラを立たせてキャラを売った方が、消費者に優しいし、会社としても嬉しいのだ。
ベストではなくベター良いから、世界に干渉できないキャラクターでも十分であり、安心できる経営につながるということだけは確かなようだ。
私は物書きの入り口に立った以上、そこをうまいことやっていく必要があるらしい。
さて、私の眼前にそびえ立った、ステーキの上にぶち撒けるべきミックスベジタブルはどうしてやろうか。
ミックスベジタブルを手早く、それなりに美味しく仕上げる方法をご存知の方、或いはこのステーキとミックスベジタブルが載っている鉄板料理の良い拵え方をご存知の方がいれば、教えていただければ幸いです。
デレステのガチャが1月31日に更新され、新たにSSR「想いプレゼント」佐久間まゆが実装された。
これについて、一部のまゆPが不満を表明している。
要するに、「佐久間まゆの左手首が露出している」ということが受け入れがたいということらしい。
その理由として、主に以下の2点を挙げている。
・佐久間まゆはキャラクターとして右手首を他人に見せない設定がある。
・佐久間まゆの左手首は、これまで必ずリボンや手袋で隠されていた。
なるほど、確かにこれが事実であれば、キャラクターの根幹にかかわる設定が
しかし、事実はどうなのだろうか。まゆPの主張する「設定」は、正しいのだろうか。
まゆに左手首を他人に見せない設定などはないし、まゆの左手首はこれまで複数回にわたって露わとなっている。
一部まゆPの批判は、シンプルに「思い込み」が原因なのであって、またその批判を安易に鵜呑みした周りの人間は
もちろん、事実を把握した上で、どう意見を表明するかは自由である。が、その前提となる事実が誤って伝わることは好ましくない。
したがって、今回の投稿は議論の前提となるトピックについて、それぞれ誤解を解く目的で作成したものである。
■実際の佐久間まゆについて
佐久間まゆは2012年6月に、モバゲー版デレマスの広島エリア追加時の新規アイドルとして登場した。
いわゆるヤンデレとしての特徴を強く持ったキャラクターであり、初カードであるR佐久間まゆのフレーバーテキストを見ると
Pへの強烈な愛情、女性に対するライバル心、Pからの好意の渇望など、闇を感じさせる部分が多い。
「まゆを置いてかないで下さいね」
「このリボンが○○さんに繋がってればいいのに…」
両腕に赤いリボンが巻き付けられ、手首は露出していない。同じく特訓後は左手首にのみ手袋がつけられており、
やはり手首はうかがい知れない。
これらのイラストとテキスト描写から、典型的なヤンデレキャラの特徴としてありがちな手首への自傷行為痕を隠している、
といった推測がされることもあった。おそらく、「左手首を見せない設定」というのはそのあたりから類推され、広まったものであろう。
だが、その後の登場においてまゆが手首や手袋について言及したことは――各カードのフレーバーテキストだけでなく、
アニメやシンデレラマスターのCDまで引っ張り出してきて確認したが――ただの一言も存在しない。
唯一関係すると思われるのは、シンデレラガールズ劇場 第343話における、以下の会話である。
まゆ「この…リボンですか? 意識して取り入れるようになったのアイドルを始めてから…なんですよ」
美嘉「いや~それは乙女っぽい★なんだよ~」
まゆ「知りたい…ですか?」
「きつく結ばれて…『絶対ほどけませんように』…って」
これを読めばわかるように、まゆがキャラクターとして重視しているのは「リボン」である。
実際、フレーバーテキストには「リボン」についての言及が数多くある。
※「恋愛シンドローム」佐久間まゆ+ 「ふたりを繋ぐ…運命の赤いリボン」
「深紅の絆」佐久間まゆ+ 「まゆの物語は◯◯さんと出会って始まったの…だから運命の赤いリボンは貴方に繋がってるって信じてるんです。
このリリボンが絡みついて…貴方と私を強く結びつけてくれるって…」
ぷちエピソード ステップアップ2「それに、もしトップアイドルになったとしても、まゆとプロデューサーさんのこの運命の赤いリボンは切れませんからね♪
まゆのココロとカラダを縛るリボンですけど……プロデューサーさんとずっと繋がったまま。ずっと、ずっと、永遠に……うふふふふ♪」
要するに、まゆというキャラクターを尊重するのであれば重視するべきなのはリボンの有無であり、その結ぶ場所がどこかは問題でない。
実際、「ハロウィンパーティ」特訓後は左手首でなく首に、「バレンタインパーティー」特訓後は右腕から首にかけて、リボンを結んでいる。
ましてや、左手首の露出云々についてはキャラクターの本質と全く無関係だ。
そもそも、「左手首が露出しているイラストがない」というのも事実でない。
例えば「深紅の絆」では両腕とも全く何も身に着けていない姿で登場し、まゆは何の忌憚もなくそれをPに見せつけている。
また、仮にこれが温泉という特殊な状況だからと除外したにしても、「CDデビュー」では、特訓前は左腕にシースルーと思われる手袋をつけ
容易に手首が確認できる状態であるし、特訓後に至ってはリボンの巻き付けが非常に緩く、完全に左手首が視認できるイラストとなっている。
(肝心な部分はマイクで隠されているようにも見えるが、右手の位置と比較する限り、隠れているのは手のひらであり手首ではない)
また、CD「恋が咲く季節」のジャケットにおいて、まゆは左手首に何もつけていない。
速水奏の「愛くるしい」SR特訓前映り込みでも、左手首は無防備である。
多言語対応を想定したPCゲームなんかでよく見かけるけど、各言語用の翻訳用ファイルの英語-日本語の対応リストを埋めていくような形になっていて、その内容を言語設定に応じてテキストが表示される変数に挿入されるような感じのシステムになってるのよ。
それで、特にシステム的な用語や、固有名詞的なものは、同じ単語を複数個所、例えばステータス画面とアイテム用のフレーバーテキストとイベント時のNPCのメッセージから呼び出してたりする。
なので、インベントリの表示欄のつもりで『vehicle』を例えば『車両』に翻訳したら、運搬用ロボットの解説文に「基地内の資材運搬によく使用される車両」と表示されたり、イベントで「とっとと脱出するぞ、あそこからテキトウな車両をいただいていこうぜ」みたいな流れで指示された場所に行ったら飛行機の格納庫だったりしてしまうわけよ。
先ごろスクウェア・エニックスからリリースされたサーヴァント・オブ・スローンズ(以下サヴァスロ)があまりにも酷いのでヘイトの吐き出し場所としてここに記す。このゲームはいわゆるクローンゲーというやつで、Supercellのクラッシュ・ロワイヤル(以下クラロワ)をベースにしているのだが、後発にもかかわらずあらゆる所が劣化していてクラロワユーザーとしては憤懣やるかたない仕上がりになってしまっている。
特にデッキ編成画面の乱雑っぷりといったらまさに地獄。編成方法もクラロワとまるっきり同じなのにユニットの並べ替え機能はついてなくて劣化感丸出し。特定のキャラクター専用ユニット表示もユニットの絵に常にフェードインアウトしているため非常に邪魔。あの画面にGO出したアートディレクターは降格してほしい。またゲーム中では「ソウル」「アルカナ」「エーテル」「ゴールド」「サヴァスロポイント」などの単位が乱立しているにも関わらず個別の説明はなく、アルカナなどは今の所持数も表示されないため何もかもが煩雑。
クラロワの優れているところは対戦スキームだけに留まらず、対戦準備画面を起点に、すべての機能にロードなしでスワイプ遷移できる極めて合理的なUI設計にあった。にも関わらずサヴァスロはそこは踏襲せずいわゆる和製ゲームアプリの文法で機能の配置を行ったため、本来のスムーズな遷移は失われ、どこに移動するにもロード、ロード、ロード…。スクエニには二度とUXという単語を使ってほしくない。
クラロワのバトル画面までのステップは
と5遷移もあり、圧倒的テンポの悪さを誇っている。VS表示画面はおそらく仕様書にシャドウバースの対戦前画面のスクショでも貼ってあったと思しきレイアウトだが、解像度足りてないのに無理矢理拡大された小汚い「VS」の文字と安っぽい稲妻エフェクトのせいで本当に気分が萎える仕上がり。そもそもあの画面いる?おまけにバトル冒頭ではモーション・セリフが1パターンしかないリーダーキャラのカットシーンをバトル前後で毎回見せられ、スキップもできない有様。ホントにクラロワ研究したの?
そもそもリリース直後だからか、通信エラーで対戦画面に行くことすらできなかったり、ショップ画面に遷移するとエラーでタイトルに戻されたり、クラロワに比べるとこのゲームには快適さという概念は1ミリたりとも無い。
では肝心のバトルスキームがクラロワに比肩しているかといえばそういうこともない。ここでも際立つのはUIの悪さだ。手札をタップすると表示されるユニット情報パネルはデカデカとゲーム領域を隠すため、左側のタワーの状況がわからなくなる。また、フィールドに出たユニットをタップすると攻撃範囲が表示されるという本家にはない機能があるが、これがユニットを設置する際の攻撃範囲表示とまったく同じのため、ユニットの設置ミスが頻発する。
クラロワはゲーム中のバフ・デバフ表現を文字に頼らず配色とエフェクトだけでうまくデザインしていたにも関わらず、サヴァスロは「ATK」とか「SPD」とかの文字がうじゃうじゃと沸き、戦況把握を妨げまくる。ラヴァハウンドみたいなユニットが弾けたあとの表示はiPhoneでは文字が潰れていて認識できないレベルだった。
ユニットも似たような造形のものが多く、ベビードラゴンみたいなやつとインフェルノドラゴンみたいなやつや、ゴブリンと槍ゴブリンみたいなやつなどは攻撃されるまで判別は難しい。ユニットのモデルも解像度の問題なのか全体的に小汚いし、キングタワー的な砦が攻撃されるとハリボテみたいなリアクションとるのもチープだし、ルックとしてクラロワに勝っているところは今のところ一つもない。だいたい「ブラウニー」と「槍ブラウニー」とか、「スケルトン軍団」とかなんでわざわざクラロワの日本語ローカライズされた名前に寄せてんだよ!もっと槍兵とか骸骨とかいくらでも避けようあっただろ!
クラロワはフレーバーテキストひとつとっても、特性の説明だけでなくユニットの個性に応じたユーモアが散りばめられている。
一方サヴァスロはどこかで見たようなテンプレ文言のオンパレード。それだけならまだしも、国産なのにところどこど日本語がおかしい所まであるのが腹立たしい。
例)
→「転んでもただでは起きない」って言いたかったのかな?
他にもバトル画面中のスタンプ文言も丸パクリなのになぜか「グッドゲーム」はないとか、DRAW用のリアクションがなくて引き分けなのに毎回負けモーションを見せられて萎えたりとか、別端末でプレイする際は毎回引き継ぎの操作を求められる超前時代的設計とか、このゲームにユーザー満足度というものは存在しないのだと思う。
いろいろ書いたが、とにかく後発で丸パクリなのに新しいゲームスキームを切り拓いたクラロワへのリスペクトが一切感じられないのが本当に頭にくるし、残念だ。LoVのリソース流用して人気のスキームなぞれば売れるやろ的な浅はかな企画意図と、ただそれに従うだけでオリジナリティを一切発揮しようとしない開発側の思考停止が透けて見えるようで悲しくなる。愚直に本家をトレースして同レベルのところまで磨きあげ、そこからアイデアを足せばよかったではないか。せっかくこんな面白いゲームをお手本にしているのだから。
最近の例でいえば、中国が作ったアズールレーンは艦これのコンセプトを踏襲しつつ、「顧客が本当に欲しかったもの」みたいな仕上がりを実現した。後発だったらあれくらいやって然るべきだ。日本企業がやっていることといえば、フィンランドの生んだあの美しいゲームに特許でイチャモンつけたり(グリーの敗訴を心から願う)、劣化コピーを作ったりするばかり…そりゃ後進国って言われるよ…。
クラロワのファンであるがゆえに殊更クソに映るサヴァスロだが、ユニットやフィールドの特性に丸パクリでない部分もわずかにはあるし、ブラウニーとかママリリちゃんとか、かわいいユニットがいるという極めて少ないアドバンテージもあるので、ぜひ奮起して「面白いゲーム」になるか今すぐサービス終了してください。
私はけっこう濃い設定あるキャラが毎月出てきて使いつぶされるソシャゲやってて、
そのフレーバーテキストと、月一のランキングイベントで稀にキャラが出てきて会話があるくらいが燃料
昔からの4人組のキャラの内結局2人しか進化しなかった友達は闇堕ちしてた
(でも、その4人で特別長編ストーリーがあったので、まだマシな方じゃんと私は思ったけど悲しいのは事実だし、流石に本人には言わない。)
だから、こういう一定のキャラがいて、キャラを大切にしてくれるソシャゲは羨ましいなーと思っていたのだけど、
同じキャラが衣裳を変えて別カードとして出てくる作品もまた別の苦しみがあるのだなと思った
オタク歴腐女子歴が人生の半分を超えたし、好きなジャンルも増えたけどやっぱり筋肉のあるキャラがずっと推しキャラだ。
太い二の腕とか、割れた腹筋とか、服の上からでもわかる筋肉の表現が好きだ。
バトル物でも学園物でもスポーツ物でも線の細いキャラよりはがっしりした骨の太そうなキャラを好きになる。
もちろん身体だけで好きになるんじゃなくて、その体格に見合ったバトルや演出、守れるものの多さ、その為の性格の良さを全部ひっくるめて好きになるんだけど、
でもそういうキャラは決まってSNSやファンの間では「ゴリラ」って呼ばれる。
動物のゴリラは温厚で好きだし、檻に落ちた子供を救った事実もあるし、そういうことが言いたいんじゃない。
私は嬉しくない、怒りすら覚える。
ただ筋肉があって強いだけなのに、人間より知能の低い動物と一緒にされているのが不快でしょうがない。身体しか見てないような表現に嫌気がさす。
いままで通ってきたジャンルだけでも推しをゴリラと呼ばれることに2回は遭遇した。
公式画像の頭部だけゴリラにされたコラ画像や、ゴリラ呼びをネタにした二次創作も大量に流れてきた。
流れてくるってことはみんなそう呼ばれることを嫌だと思ってないし面白がってるんだろうな〜と思って声を大にしてこのことは言えなかった。
けどジャンル公式からその表現が出てくるとは思わなかった。絶句した。
ゲームの推しキャラを使い込んで使い込んで親愛度MAXでやっと手に入れられる限定のカード、そのフレーバーテキストは推しをゴリラだのなんだの紹介するものだった。
初めて見たときは何の声も出なかった。
そのゲームでの私の推しは誰もが認めるような爽やかな騎士のキャラで、主人に忠義深く、仲間も大切にし、真面目で真摯で少し天然で、そして身長の割に体重がしっかりあって鎧の上からでも体の逞しさがわかるようなまさに理想の騎士だった。
ストーリーで出てくる時にあまりにも強すぎてユーザーのトラウマになったキャラだったから、それでファンが強すぎる、ゴリラだの何だの言うのはわからなくもない。
けど、公式のゲーム中でその大好きなキャラの親愛度をMAXにして(相当大変)やっと得られる、そのキャラだけの特別なカードが、いわゆる「ネタ」だった。
他のキャラ達は関連のある物とか、場所とか、出来事とか、そういうものがカードになっているのに何故私の推しだけネタカードなの?
そのキャラが大好きだからたくさんクエストに連れ回して親愛度を上げて何度もなんども戦って、そしてやっともらえるカードで「ゴリラ」?
そのキャラが歩んできた人生の大きな出来事とか事件とか戦いとか人間性とか全部無視してゴリラ??
笑って済ませて終わり?
それでも、やっぱりファンは笑ってるみたいだった。
そのカードが見たいからそのキャラ引きたい、って言ってる人もいた。
ファンが言うのはまだ良い、でも公式がそれを逆輸入してどうするんだ。
愛をもってそのキャラを使ってるのに、ネタで返さないでほしい、今からでも良いから訂正してほしい。
そんなカード欲しくない、貰っても嬉しくない、親愛度上げたくない、好きなキャラなのに。
私は嬉しくないよ、悲しいよ
Twitterで何回か見たがテレビの報道でトランプ次期大統領への反対メッセージの訳が間違ってるというツイートがあった。
そもそもテレビ放送の字幕は音声の字幕の可能性もあるのでその時点でどうなんだと思うこともあったが、つけられた訳への文句多すぎないか。
そんなに英語力あるのかみんな。明らかに間違いじゃないかって言ってるのもあるけど翻訳でついたものはただの訳じゃなくて文化や風習、ジョークとかも全部ひっくるめて別の言語にしなきゃいけないものだから多少の違いはあるものじゃないの(有名な翻訳だとMtGの I know my ABC'sのフレーバーテキストとか)。
戸田奈津子さんの訳とかよく槍玉に挙げられるけど彼女の翻訳はそういった点がすごいわけで、もちろん誤訳や固有名詞に特有の癖はあるのは認めるけど(そういう非難は本人より配給会社とかに言うべき)、テレビの事情は詳しくないがおそらくプロがお金をもらってやってる訳より優れた訳を簡単につけられるものなの。
ゲーセンにおける人間関係はおおむねコミュニケーションノートによって形成される。場合によっては、 twitter などの SNS や、2ch、したらば等のスレッド型掲示板の場合もあるだろう。都会や人口密度の高い地域でのゲーセンは人間関係がプレイに寄与する所は少ないが、田舎のゲーセンは濃密なムラ社会となっており、常連に逆らう事はすなわち論理的・物理的出禁の危険性を孕んでいる。
そういう前提とは一切関係なく、ゲームをやっていて女性と仲良くなれたらとても良いのではないかと思う。何かを始める動機は人それぞれだし、それが不純でも純真でもどうせ100円1プレイの価値は誰がやっても同じなのだから。完全なる主観で適当にモテそうな音ゲーを列挙していくので、音ゲー警察諸氏は余り目くじらを立てないでほしい。
それと、ゲーセンの常連はプレイヤーの顔を意外と見ているし、ゲーセンのゲーム機は公共物である。モテるモテない以前に、人としての最低の水準は守りたい (個人的には、ゲーセンでゲームばっかりやっている人間は自分も含めそもそもに何らかの問題を孕んでいる気もしなくはないが)。
現在もっとも女性比率が高いと思われる音ゲー。ドラム式洗濯機のようなデザインの(というミームの奔流に飲まれすぎた余り公式自らドラム式洗濯機を自称するようになった)筐体であり、2台あるうちの片方がプレイ中の場合もう片方も使用できなくなるという設計になっている。
今ゲーセンにいる女性と交流するためにもっとも適している音ゲーだと思う。
ただ、私事で申し訳ないのだが、肩こりがひどく腕が上がらない為ちゃんとやり込んでおらず、どんな評価体系が存在しており、どういう仕組みでコミュニティが出来上がっているのか全く知らない。ただ普段見ている女性比率と、動画サイト等にアップロードされるさまざまな動画からそう判断した。オフで即ハメ音ゲーに漸近している音ゲーだと考えられる。
maimaiと同じくセガの音ゲーである。操作体系が独特で、上空にあるセンサーの間、虚空へ手を振りぬく操作を求められる。これも結構女性客が付いているが maimai と同じ理由で俺には遊べないので不明。比較的生まれて日が浅い音ゲーで、このゲームをやりこむ前に「このゲームが長生きするのか」という事を各自考える必要があると思っている。
10年前のカジュアル音ゲーの代表格であり、わずかなアニメ・立ち絵(ハリアイ絵)と楽曲のフレーバーテキストだけで数多の女性をスケブ片手に筐体に釘付けた。直線的でシンプルな縦長の筐体、カラフルな9つのボタンがポップでキュートなこのゲームの目印だ。今でこそ「9ボタンとか多くて難しいですよね~」等と言われるものの、カジュアルな音ゲーと競技性のある音ゲーを両立させたその功績は音ゲー界の革命児と言えよう。
最近は相対的に楽曲のパワーが落ちてしまっているのと、流行性の高い版権曲も2~3作で消えるため男女問わず顧客の定着が行われにくくなっている気がする。ゲーセンでこのゲームをやり続けている女子はコアなユーザーが多く、彼女らと警戒されずに話題を合わせるためにはそれなりの上達が求められるだろう。
ゲームシステム的には、プレイヤーの技術を一切要求しない昨今の音ゲー事情としては稀なデザインとなっており(技術を要求したら大不評だったので、以後撤廃された)、はじめてすぐの段階でもすべての要素を楽しむ事が可能となっており、やりこまないと話題に乗り込めない……というような事態は発生しない。
段々書くの飽きてきた。IIDX はコナミの音ゲーで、サウンドブースのような骨組みのデザインに、2つのスクラッチ、14個のボタン、あと正面に謎のボタンやレバーのある筐体である。
あらゆる音ゲーの中で最も高密度な譜面が降り注ぐゲームの為、その内実はともかく非常にアスリート性を高く感じるゲームとなっている。一方で譜面の密度が高いだけでもあり、ある段階を経るまではきわめてシンプルな構造となっている。
さて、 IIDX には Single Play と Double Play の2種類のゲームモードがあるが、モテるのは Single Play である。本作中にはプレイの腕前を格付けする段位認定というシステムがあるのだが、大体6~7段くらいでたむろするユーザーが多いため、10段くらい取っていれば大体ヒエラルキーの上の方に位置出来るだろう。
このゲームは腕前による人間の格付けが驚くほど強烈であり、段位が自分より低い相手、段位のクリアランクが自分より低い相手、自分がクリアマークをつけている曲にマークをつけていない相手など、とにかく他プレイヤーより一点でも優位性を見つけて精神を上層におかないと即死してしまう人が多い。そのため、このゲームをやっている女性と交流しようと思ったらまず彼女らより上手くなりマウントを絶対に取らなくてはならない。より強い雄になる、原始的な交流と言える。
スクラッチの独特のアナログな操作感、本作特有の高密度には慣れが必要なため、ある程度上達するまでに要する時間は1年程度だろうか。ゲームの要領が良い人ならば、最高段位である「皆伝」まで1年掛からずに到達するだろう。音ゲーのそれなりの上達は見た目ほど難しいものではない。もちろん皆伝の上も果てしなくゲームは続いていくのだが、一般的なプレイヤーは余りそういう事を気にしておらず、ランクを評価体系の9割に組み込んでいる。
ボーカロイドの本家(元祖ではない)、ミクちゃんである。このゲームが出た当時はボーカロイドや東方などニコニコ文化が音ゲーに寄与する部分が少なく、ボーカロイドの持つ集客性は音ゲーにとってまだ不可侵領域である時代だった。太鼓の達人など、一部先んじて目をつけていた作品もあるが、ボカロが音ゲーと密接に関わるようになるのはかなり最近の話である。
そういうわけで、ボカロの御大、初音ミクがゲーセンにいてさまざまなニコニコ動画の名曲を遊べるという事、4ボタンしかないシンプル極まりない操作性などの理由で一大カジュアル音ゲーの地位を築き上げたゲームがこの作品である。女性比率の非常に高い作品であり、混雑時は女性の行列に男性一人だけ混ざるという事も頻繁にあった。
とは言え、このゲームも既にリリースから5年近く経過している上に、もはや初音ミクはボーカロイドの主流ではなくなってしまったこと、ボーカロイドはこのゲームの聖地ではなくなってしまった事などの理由で、最近はこのゲームのユーザーもめっきり減ってしまい、まだ更新が続いているにも関わらず、撤去されるゲーセンも徐々に増えてきた。兵どもが夢の跡である。
立方体をくっつけたような小さな筐体があればそれが jubeat である。ボタン数は16個と非常に多いが、叩く場所が光るため光った場所を叩けば良く、ゲーム的にはとっつきやすい構造となっている。リリース当初こそキー音もなくモグラ叩きではないかなどと揶揄されたが、若い世代を中心としてウケがよく、カジュアル層の開拓に一役買ったゲームであると言える。
出だしは比較的好調で客付きも良かったものの、焼畑農業のようなゲーム内イベントをリリースし続けた結果(だと思う)、定着しているユーザー数はほかのゲームに比べ水をあけられてしまった。
最近はややウェイ系のプレイヤーが多く、ガンダム程ではないがプレイ中に騒ぐユーザーをあちこちで見かけるようになったため、女性ユーザーは少し敬遠気味になっているように思う。流動性の高いユーザーはセガの音ゲーにほとんど移動してしまったと思われ、モテ目的でこのゲームを遊ぶ理由はどこにも存在しない。
kinect を利用したアーケードの音楽ゲームであり、画面に表示されたポーズを取るゲームとなっている。他ゲーのコアユーザーに見られる機能性に優れた服装でプレイするユーザーは少な目で、ミニスカや可愛い衣装で踊っている女性が多く、ほかのゲームをやるフリをしてしょっちゅうチラ見するのだが、イケメンで流麗なダンスを踊れればモテるのではないでしょうか?
同名の女児向けアニメと連動しているアーケードカードゲームである。法律上は自販機扱いで、スーパーなどのゲームコーナーでもよく見かける事が出来るだろう。他方バンナムのアイカツとは商売敵のため、バンダイやナムコのゲームセンターでは絶対に見かけることが出来ない。
システムとしては、1プレイする度にランダムで服のパーツ(体上、体下、靴)のどれかと、「トモチケ」と呼ばれる自分のデータを他人に譲るための半券を得る事ができるようになっており、服装データはプレイヤーIDに紐づけられているため、基本的に交換などで手に入れる事は出来ない。唯一ヘアアクセサリだけ交換可能となっており、こちらもトモチケと同じように交流の材料となっている。
幼女から始まり学生、主婦、OLなどなど幅広い年齢層を取り込む事に成功している音ゲーであり、しっかりゲームをやり込んでいると、女性側から声をかけてきてトモチケやヘアアクセを交換するイベントが発生したりもする。
音ゲーマーとしての腕前はほぼ要求されない反面、無数に存在するコーデを組み合わせるセンス、キャラクターへの多少の理解、希少なコーデを入手するための財力と暇が求められる。
ソシャゲは提供されるストーリー自体は薄いのだけど、ソシャゲがどのように展開していき、それに対して自分がどのようなことを感じたか、そういうものの積み重ねが振り返ってみると物語となり感動に繋がるのではないかと思う
それがアイマスなり艦これなりラブライブなりでは、キャラと自分の物語になり、ほんの僅かのフレーバーテキストだろうとそのキャラをぐっと近くに感じるのじゃないかな
追記
以前のゲームは感動を与える対価として金をもらった。
感動を与える対価として金をもらったのではない、金をもらう対価として感動を与えたんだ