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2017-02-15

マンガラノベRPG世界観について物申す

よく異世界生モノ小説とかJRPGパロディ風の物語が、いくつか言いたいことがあるので並べて記述する。

仮説「最近は大作JRPGも出てないから馴染みもないし、MMORPGってそこまで普及してるもんじゃいかMMORPG演出が当然のように記号化されているのが納得いかない」

1.評論家は「若者ゲーム演出に馴染みがある」と言う。言うほど若者ゲーム演出に馴染みがあるのか?

2.日本RPG世界観ベースになったと思うドラゴンクエストファイナルファンタジーMMOを除いて近年のナンバリング作品が出た年数を挙げる

3.ドラゴンクエストIXFINAL FANTASY XIIIは共に2009年、8年前の作品2016年FINAL FANTASY XVはとりあえず除く)

4.よく異世界転生のモチーフにされるMMORPGって日本ではそもそも馴染みがあるの?そこまで普及してる印象ないんだけど。

5.調べたらMMORPGドラクエ10Wii版だけで売上100万本超えてた…

6.最近MMORPG基本無料からPSO2(同時接続最大13万人)とかネクソン系のやってる人多いのかな……意外と若者の間でMMORPG普及してんの?マジで

7.そもそも若い人の定義が間違っていた。私は若者10代だと思っていたが…

8.ライトノベルしろマンガしろ主な購買層は20代後半~30代だった。その世代JRPG直撃世代か。なるほど。

9.結局MMORPG演出が多用されるのってなんでなの?テンポ良くなるためのおまじないなの?

10.こんなこと延々と書いておいて言うほどラノベアニメも見てないんだろ?って言われるとその通りとしか言えない。どうせ偏見しか書いてない。

11.私の趣味ゲームだけどRPGほとんど遊ばないので結局私のイメージだけで書いてるだけじゃん

12.収集が付かなくなった。終わり。

RPGパロディ世界観ってそれはそれでもう日本的RPGから独立したマンガ小説ジャンルになってるのかね。

RPGパロディものゲーム化してRPGになるとそのパロディ感はただの三流になっちゃう…なっちゃわない?パロディパロディじゃなくなる瞬間とは。

そもそもJRPGの源流がTRPGファンタジー小説じゃんというツッコミがきそうだ。

<追記>

こんな投げやりな増田でも反応くれるはてな民は本当に尊い

消費者よりも製作者側にとって馴染み深いもの舞台装置になりやすいのは当然といえば当然なのかも。

5年後は世代も切り替わってソシャゲベース世界観とか出てきたら面白そうだよね。

そろそろAIも発達してきたので人間AIの見分けがつかないゲーム舞台にした物語とか読みたい。

将来的には人間よりもAIと遊ぶ方が快適になるとバンナム原田Pも言っていたので。

SAO映画の新作は予告で見たけどARとかMR描写脚本にとても力を入れているみたいなので、ああいうのは良いと思いますSAOの本編見たことないけど。

HoloLens流行流行れ…

2017-02-13

http://anond.hatelabo.jp/20170202144732

元増田あんまりオススメするから読んだよ、『ソシャゲライタークオリアちゃん』。

これ、普通につまんなくて出来悪くて、普通につまんなくて出来の悪いラノベってなんなの、ということを考えるのにすごくいい素材になってしまっているように感じた。

ラノベなんてみんな同じだろw」というような声がどこからともなく(というか元増田ブコメあたりから)聞こえてくるんだけど、そんなことはない、『クオリアちゃん』はかなり出来が悪いよ、ということをしっかり言っておきたいな、と思って、エントリを起こす。

小説としての出来云々じゃない部分、ソシャゲシナリオライターとしての主人公たちの生き方については

http://hishamaru.hatenablog.com/entry/2017/02/09/003000

http://anond.hatelabo.jp/20170203190941

この批判が当たっていると思う。

とりあえず俺はクララ先輩には機を見て空売りを仕掛けていくことをオススメしたい。

さて。

漠然と出来が悪い、と言ってもわかんないと思うので、サンプルを用意する。

と言っても、ここで新城カズマとか古橋秀之とか秋山瑞人とか石川博品とか出してもそういうのは例外と流されるだけだと思うので、もっと普通っぽい奴を見繕いたいところ。

例えば、商業性があると評価された実績のある人が書いた作品、すなわち「アニメ化作家の新作」と、ラノベ業界作品を送り出す人たちが評価して世に出した「新人賞受賞作」……と考えて本屋ラノベ棚を見てたら『勇者セガレ』((アニメ化作品はたらく魔王さま!』の和ヶ原聡司の新作))というやつと『通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?』((第29回ファンタジア大賞大賞受賞作))というやつが目に入ったので、買ってきた。増田のために『クオリアちゃん』と合わせて2000円くらい課金した計算である

http://dash.shueisha.co.jp/bookDetail/index/978-4-08-631161-8

http://dengekibunko.jp/newreleases/978-4-04-892615-7/

http://fantasiataisho-sp.com/winners/mother/

作品とも試し読みがあるので読み比べてみてほしい。冒頭だけだけど、それでも出来の良さの違いが見て取れるから

一見して『勇者セガレ』のレベルがとびきり高く、『お母さん』がその次、『クオリアちゃん』は論外、と俺は思うけれど、そう思わない人もいるだろう。

説明する。

小説には、概ね、お話が付き物だ。もちろん、お話で引っ張る小説は低級、みたいな話もあるんだけど、一般的エンタメ小説(多くのライトノベル一般的エンタメ小説である)においては、そういう議論はあまり考える必要はない。一般的エンタメ小説じゃないラノベに出くわす可能はいつでもあるので頭のすみっこにはおいておいたほうがいいけれど、でも、今回の三作品は全部一般的エンタメ小説志向なので大丈夫

さて、一般的エンタメ小説にはお話がある、という話だった。

勇者セガレ』なら、父親に異世界を救った勇者過去がある、と知ってしまった少年が、異世界での魔王復活を巡る騒動に巻き込まれお話。『お母さん』なら母親と一緒にMMORPG世界ダイブして冒険しながら親子関係を見つめなおす話。『クオリアちゃん』なら平凡な男が惚れた先輩に巻き込まれる形でソシャゲシナリオライターになる話。

んで、さっき示した試し読みで、そういう話だ、とわかるまでにかかる文字数は大体どれも同じ、5ページくらいなんだけど、その最初のとっかかりまでに与えられる情報無駄のなさを見てほしい。

勇者セガレ』は単刀直入お話全体像テーマ、というやつだ)を提示し、そのテーマについての主人公の開始時点での認識提示し、そして、それが揺るがされる場面が、いい意味で突然始まる。

『お母さん』はそれに比べれば随分もたつく印象だが、それでも母親と息子の関係物語だ、ということは十分手早く、一直線に提示されている、と言っていい。

クオリアちゃん』は無駄だらけだ。同級生に平がからかわれる話とか、いらない。

そもそも主人公の平凡さに何故ここまで言葉を費やすのか。クララ先輩にソシャゲシナリオライターの道に誘われる場面から入っていい。主人公が平凡さを脱して何者かになるお話なんだからスタート地点を明示しなければいけないのでは、というのは罠だ。平凡だ、とは、平凡という特徴がある、ということではない。非凡な特徴がない、ということだ。ならば、クララソシャゲシナリオの道に誘われるまで、何らかの特徴があるかのような描かれ方をしてはいけない。この主人公、狙ってか事故でか、かなり平凡ではないキャラなのだが、それもまあ、いいのだ。普通男子高校生と言って始まった話で主人公がとんでもない過去を思い出す、すげえ設定が明らかになるなんてのはよくある話だ。語り出す位置に変な癖をつけないことで間口を広められることだけが平凡な主人公という設定の美点で、それをこなしたらあとはどんどこヘンな奴にしていっていい。逆に、ヘンな設定をあとから盛りやすくするためにも、平凡さを積極的に描くのは悪手だ。

ここには多分、ライトノベルキャラクター小説である、という誤解がある。

商業性を認められたアニメ化作家も、送り手に評価された新人賞作家も、テーマ登場人物関係性を提示するところから小説を書きだしている。主人公人物像に無駄に筆を費やしたりしていない。主人公人物像を描いてはいけない、のではない。主人公人物像は、この際テーマ関係性よりも後回しにすべきだ、という話だ。

ライトノベルキャラクター小説だと早合点していると、主人公キャラクター性を提示するのが大事だ、と思い込んで、本筋のお話よりも先に名前からかわれるエピソードを入れ込んだりしてしまうのではないか、と思う。

そうした結果、ソシャゲシナリオライターの手伝いを頼まれるという展開の驚きが盛れなくなる。驚きのない掴みは最悪だ。

そもそも、ソシャゲシナリオ仕事を手伝うことになるって普通に考えて驚くような話なのか、という問題はある。

ソシャゲシナリオ仕事の手伝いを頼まれて驚くのは、ソシャゲシナリオに関わることをまったく想定していなかった場合だ。主人公脚本科の学生なんだからゲームであれシナリオ仕事を頼まれるのは、そんなに違和感のある話ではない。先輩に手伝ってと頼まれた、なんてのは、ライターデビュー王道と言ってもいい。

どうすればソシャゲシナリオライターデビューで驚きを演出できるのか。主人公ソシャゲを嫌いだ、という設定にしたらどうだろう……と王我は作者にささやいてはくれなかったのだろうか。

これも、関係性やテーマを後回しにしたことで生じた問題だ。ソシャゲ主人公関係をちゃんと設定していないから、こうなる。

ソシャゲマニア制作現場に関わることで現実を知る、でもよし、ソシャゲ嫌いが制作現場に関わることでソシャゲを認められるようになる、でもいい。ソシャゲどころか物書きとさえ無関係主人公なら(脚本科に在籍し、名作の名台詞を書きぬいてノートを作っている主人公はどう考えても無関係ではない)ソシャゲというものに触れる、というだけでも驚きがあるだろう。

半端にクリエイター志望でソシャゲ特に何も思うところがない主人公、というのは、掴みのインパクトを出すには最悪だ。

テーマ関係性、お話というあたりにあまり気を回さず、四姉弟の設定とかでインパクトを出そうとしている((『涼宮ハルヒの憂鬱』の構造をいただいているつもりなのかなって思いついて、ちょっと戦慄した。あれはハルヒについての話をあの三人がしてくれる構造であって、異能者が三人ただ自分異能を見せてくれるという構造ではないのだ。))んだけれど、そりゃ読者にも驚く理由がないよね、としか言いようがない。『ハルヒ』は、読者と視点を共有しているキョンハルヒ普通少女だと信じる理由があって、だからこそ、超常的な存在なのだ、と語る長門たちの言葉に驚かされることができる。本作では、クララタイムリープしない、オーガが異世界転移しないと信じる理由がどこにもない。だから、平がどれだけ驚いても読者は( ´_ゝ`)フーンとしか思わない。

あとがきラノベ200作品勉強した、って書いてあって、それは感心なんだけれど、でも、勉強する方向を間違えてはいなかったか、そこは疑問。

ライトノベルキャラクター小説だ、とか、男オタク向け作品関係萌えじゃなくて属性萌えだとか、そういう俗説を真に受けて、バイアスをかけた勉強をしてしまったんじゃないだろうか。

結果、普通につまんなくて出来の悪いラノベになってしまったんじゃないだろうか。

 

なお、ソシャゲ周りの設定について付言しておけば、作中作初恋メモリーズ』のシステムは、『プリンセスコネクト』に似ている、らしい。まあ伝聞なので確言はできないんだけど、だとすれば、元増田が言うほどソシャゲとは違うものの話をしているわけではない。とはいえ、『チェインクロニクル』のライターが書いた本で『プリンセスコネクト』の創作秘話を読まされることをみんなが望んでいたかどうかは不明だけれども。

2017-02-10

野尻抱介さんの考える表現規制のありかた、そしてライトノベル

SF作家野尻抱介さんがあるツイートをして話題になりました。

野尻抱介中学になったらラノベなんか読むな、大人の本を読め。大人の本で本物の教養セックス暴力や愛や人生を学べ」「中高生迎合したラノベなど消えてなくなれ」

https://togetter.com/li/1075475

ライトノベルについて悪し様に言っているかのように捉えられて話題になったのですが、一方で「これは野尻さんの主旨ではない、悪質なまとめだ」という意見も見られました。

後者意見賛同する記事も出来ました。

SF作家の「中学になったらラノベなんか読むな」が文脈外れて盛り上がる 「俺TUEEE!」ばかり読んでたらダメなのか

https://news.nifty.com/article/economy/business/12117-5589/

ここで野尻さんの一連の発言についてわかりやすく二点に分けると、

ライトノベルは消えてなくなれ、大人の本を読むべきと個人的には思うが、そう言った個人好き嫌い感情表現規制を論じてはならない。ライトノベルを消すか残すは読者が決めること

権力ライトノベルを奪いにきたら守らなければならない。そのためにフィクションの沈溺から脱し、ファクト理解しよう。サブカルを守ろう

ということを言っています

主旨は「ファクト理解してすべてのフィクションを守ろう」といったところでしょうか。

上述の記事でも、

もともと野尻さんは、「自分好き嫌いにかかわらず弾圧には抵抗しなければ」という旨の文脈発言していたが、結果として、ラノベの是非について喧々諤々の議論が盛り上がることとなってしまった。野尻さん自身最初のほうだけ読んで噴き上がっちゃいかん」と釘を刺していたのだが……。

と触れられています

なるほど。

それで合っていると思います

「ある発言」を踏まえていなければ。

野尻さんがライトノベルについてツイートしたのはこれが初めてではありません。

この素晴らしい世界に祝福を!」はコンプレックスまみれの視聴者を徹底的にいたわった作品

https://togetter.com/li/931628

<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

これは「個人感情」ですよね。ここまではいいです。(「アニメ」と書かれていますが、アニメを見た上で原作ライトノベルへの批判をしているようです。くわしくは以後の会話を見てください)

<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

悪書辞典を引けば「読者、おもに青少年に悪影響を及ぼす本」と記されています

ぐぐれば「悪書追放運動」などが最初の方に引っかかるでしょう。コミック低俗有害から売ったり読んだりしてはいけません、といった運動です。つまり表現規制ですね。

なんと。野尻さんは個人的感情のまま、規制を叫んでいたではありませんか。

そのひとが今度は「サブカルを守る」と「規制反対」を訴えます

と言ったことを踏まえると、今回の発言の「主旨」はこうなるでしょうか。

ファクト理解してフィクションを守ろう、ただし私が悪書指定した本はのぞく

2017-02-02

ルッキズムあなたの隣に

例えるならばよくあるライトノベルやれやれ主人公である。俺にゃ関係ねえとか言いながら、

性格破綻した少女をただ美人というだけで残念とかいう便利なフレーズごまかし、

結局そいつのやることにいちいち首を突っ込まずにはおれぬのと一緒だ。

そこそこ有名な同人作家原画家イラスト担当していなければ、何この基地外で終わりである

からラノベ挿絵が9割とか言われるのだ。あのイラストがないと話のリアリティまで損なわれる。

ただしイケメンに限るとか、それはお前らがそう考えてるからだとか、そんな次元問題ではない。

男であろうと女であろうと何の主義者だろうとオタクだろうと、誰だってそうだ。

外見がお気に入りなら、そいつに言うことはだいたい甘い!

その度合いに多少の差はあれど、誰にとっても強大な敵なのだという事実を見据えた上で、

いろいろ考えなければならないのだ。

2017-01-30

野尻先生まとめ記事文脈について

https://togetter.com/li/1075475


野尻先生Tweetをまとめた記事ホッテントリに挙がっています

ブコメコメントを見てるとあのまとめ記事文脈を読み取るのが少々難しいみたいなので補足しておきます


まずきちんと確認すればわかりますが、あのまとめ記事を作ったのはラノベ天狗です。

ラノベ天狗とはラノベ蔑視する人にただひたすら恐怖を与えることを目的活動を行っているユーザーです。


Twitter:https://twitter.com/srpglove

はてダ:http://d.hatena.ne.jp/srpglove/

天狗活動について:http://d.hatena.ne.jp/srpglove/20141003/p1


一応Tweetの流れをまとめると以下になります


発言者A「トランプイスラム系入国禁止したらしい」

発言者B「トランプを舐めてた」

野尻先生「確かに舐めてた。アニメの話とか色々思い出したよ(未来少年コナンとか)」

野尻先生「こういう時こそサブカルを守らねばならん。」

野尻先生中学生になったらライトノベルは読むなと思ってる。大人の本で教養とか学べ。中高生迎合したラノベは消えてなくなれと思ってるんだけど・・・

野尻先生「こう言うと、お前が言うなって言われるけど、昔から小説ばっか読んでると馬鹿になるぞが持論。フィクションへの耽溺からしろ

以下それに伴い他フォロワーラノベ馬鹿にしながらいろいろ戒めるというTweetが流れる。


という流れになります

野尻先生発言を追うとわかります野尻先生が一連の流れの中で言いたいことは一応

「こんなご時勢だけど、サブカルは守ろう。サブカルは坑道のカナリア。そして守るためにはフィクションにばかり夢中にならずにちゃんとファクトも捉えた方がいい。」

みたいな内容なわけです。


しかし、このまとめ記事の本当に言いたいことはここからです。

まとめ記事コメントブコメでは一部気づいている人もいます

結局ラノベ天狗氏が言いたいのは

「良い事言った気になってるけど、あなたラノベ蔑視したことは消えませんよ。」

と言うことなんですね。

このまとめ記事ではTweetを一つだけ切り取ったわけではなく、きちんと前後の流れも全て掲載しているのですが

これはつまり野尻先生が言いたいことを全て踏まえた更にその上で批判しているのだという意思表明なわけです。


からまとめ記事タイトルがああなるわけなんですね。

この


ラノベ天狗氏が記事をまとめている

野尻先生の一連の発言を一応全部まとめてる

・更にその上であのタイトルをつけた


という3つの点を踏まえないとあのまとめ記事文脈は正しく読み取れません。

というわけでできればそれを意識して読むと意図が正しくわかるでしょう。

2017-01-22

http://anond.hatelabo.jp/20170121203857

単純にnot for meで済む話だわなぁ。

そこでゲハブログメンタル化してしまっり、過激派信者がひねくれた反撃をしてるのとかはアウトだけど、そういうのがなければ問題ないのでは。

お互いの意見感性を素直に受け止め、失礼がないように尊重しあってサヨナラ。

音楽性の違いにより解散

http://b.hatena.ne.jp/entry/316987564/comment/flatfive

流行り物は面白い要素が有るから流行る。他者感性理解できるチャンネルを増やすめにも、(好きになるかは別として)なるべく理解しようと思ってる。もちろん無理する必要は無いんだけども。


http://b.hatena.ne.jp/entry/316987564/comment/ninosan

自身だってワンピース進撃の巨人アカデミアも西尾維新全部もまるで面白くないが生きていけます。(好きなのもたくさんあるので心配無用


http://b.hatena.ne.jp/entry/316987564/comment/merico2404

流行ってるから無理に手を着けなくても良いんですよ(つか何でこんなブレイクしちゃったんだ?と正直思っている。結構人選ぶタイプだと思ってたので)


http://b.hatena.ne.jp/entry/316987564/comment/xenon_abe

理解できないものは恐れに繋がるからね。合わないにしても納得しておきたいんだよ。


http://b.hatena.ne.jp/entry/316987564/comment/rti7743

無理してまで見なくていいし理解しなくていい。


http://b.hatena.ne.jp/entry/316987564/comment/politru

fate面白さを自分理解できない。というか、(へー、fgo流行ってるんだ?え?なに?元はfateってアニメやってたん?ん?ライトノベル??え?windowsゲーム?)って既に追いかけきれない。jojoを初めて知った時に似てる


http://b.hatena.ne.jp/entry/316987564/comment/nost0nost

ほんと定期的に現れるよなw 世の中で流行ってるもの理解しないと死んでしまマン この手の人間が書く文章からにじみ出る独特の厨二感は何気に嫌いじゃないけど


http://b.hatena.ne.jp/entry/316987564/comment/maronysan

他人が楽しんでる事に対してわざわざ「何が面白いのかわからない」って言うやつ絶対いるけどそれわざわざ言うことの何が面白いのかわからない

2017-01-20

ものすごくおもしろ小説を書けるAIの開発とか

anond:20170120123524

しかボタンひとつ二次創作小説自分主人公にしても自分祖先主人公にしてもわりと元の人格再現して読める感じになる

小説家亡者全員志望 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1290327232エンタメ系やライトノベル系を志望する方たちは、

単位に上る」

 

アルファGOよりさらに強くて早いAIの開発とか

→碁の棋士が全員志望

 https://www.nihonkiin.or.jp/player/saiyou/result/ 人数不明

 

脳内景色からすぐ作れるアニメAIとか

アニメーター志望者全員死亡

 

完璧情緒教育もできる教育AIとか

教職死亡

 

キングコング西野AI

絵本製作者死亡

2017-01-15

「超潔癖主義」の非現実性

くさや問題が表した潔癖主義

ファブリーズの件もそうだが、今の日本は「超潔癖主義」に蝕まれすぎではないかと思う。くさやが臭いのは誰がどう考えても事実なので、地元はこのCMに便乗するくらいでいいと思う。

何かにつけて「地域差別ガー」というバカにはあきれてしまうが、つまるところ地域の抱える不都合な事実を外部が指摘することを拒絶するけつの穴が小さい子供である。それこそ、彼らの好きな言葉を借りれば「言論弾圧愛好家」ではないか。文化や社会には二面性がある。

私が生まれて間もない頃の話だが、1980年代1990年代鉄道文化が洗練されていたという話題がSNSや掲示板で流行している。はっきり言って、不良が巣を作りそうな文化がそこにあったわけだが、それでも鉄道ファンは誇らしく思う。「鉄道王国」も日本文化だと自尊心を持っているはずだ。

本来文化・社会性とはそういうものではないか2000年代新自由主義旋風だって文化や科学技術などの高度化の裏に犯罪の高度化や富裕層人口インフレ問題もあった。2010年代1960年代の再来のようなのムードの裏に貧困問題があった。オートバイブームの裏にはシビアな封建もあった。

オタク文化マイルドヤンキー問題共通点

オタク今日社会全般で受け入れられているという。あれといえば、昭和負の遺産にもかかわらず迷惑者が誰も輩出しなかったことを「世界に誇る日陰者」と自画自賛する書き込みが拡散されたことが多くの人に衝撃を与えたものだった。案の定オタク自身の努力で出世が実現するとスゴイ発言まみれになった。

冷静に考えてほしいのだが、同じ大衆の同胞であるべき人達がそれと村八分にされる時点で、そもそもすごくなんてないのである。そもそもオタクとは昭和時代学歴社会実験の失敗に伴いヤンキーと共に発生した負の遺産である本来ここで必要な発想は、負の歴史として再発防止策を考えることであり、恥かしく思うべきことである

仮にもしオタクがすごかったとしてもそれは個人個人がすごいのであってオタクはすごくないのである社会が立派だったとしても、それは日本人の寛容性のことである。もしあなたが大衆の一員であれば、さほど無関係ではないか

私は「オタクスゴイ」とそっくりな問題を抱えているのが「マイルドヤンキー」ではないかと思っている。地方リア充話題が出ると、なぜか不良とこじつけ話題が出てくる。不良とは縁のない人でもヤンキーのように扱われる、あの変な社会空気である

当たり前だが、リア充すべてが悪人なわけではない。大体ヤンキー本来の意味は実は汚い。もともとはアメリカ人白人を罵る言葉として生まれたものだ。ジャップと同じ意味合いアメリカ人が「ヤ○○」の言葉を使うものとしてとらえてほしい。

マイルドヤンキーに代わる言葉はあるだろ。とんでもなくダサそうな文化を謳歌しているのは一握りの地方民のうちの一部とか、不良経験者だけではないかと思う。あのグダポンの撒き散らす固定概念への批判としてもいうが、私は地方を何度も見てきたが、北関東でもマイルドヤンキーなんて一握りの数しかいなかったよ。

そもそもマイルドヤンキー言葉根底に都会人による地方人への偏見がある。車好きを例に挙げるまでもなく、外国には日本人が思い浮かべる都市部人間殆どいない。むしろマイルドヤンキーの特徴として挙げられる、「買い物先でショッピングセンター依存している」人は日本を出れば都市部ですら腐るほどいる。国土全体で鉄道依存社会が成り立つ国は、日本を除けば、オランダみたいな地形に恵まれる地域シンガポールのような都市国家以外にない。

「超潔癖主義」の究極である子供ファシズム

私はこの潔癖の究極が「子供至上主義だと思う。日本人はみな車嫌いで鉄道好きというおかしな風潮も、子供のために嗜好を装う仕草だという。必死すぎる。大人な人は、それが普通なしょうがないと受け入れるべきではないか。一番ひどいのは私鉄だ。

子供日本人美徳だと、道徳的な人を表す言葉として普及しているが、これはあの押しつけがましい「道徳」と同じうさん臭さを感じて、私は不気味に思っていることである子供って要は非現実的理想の追求であり、病気だ。

そもそも日本私鉄社会の根源は鉄道公有化の失敗だとか戦争連続による財政難だとか、歴史上におけるネガティブもの副産物である。今でも「幼稚」とかいう。それはつまり堂々とした対等な存在としてリスペクトするものではなく、結局これは子供なる年齢を使った言葉で「恵まれない現実にある人達」を見下している、前時代的な、差別を連想する表現である

欧米圏を見ればわかるように、鉄道弱者というか、つまりよそ者、あるいは貧乏人や弱者のためにある公共施設であって、所得関係なしに使うことをよしとする、ましてや商売の道具としてみなす日本おかしいのである

一昔前ですら日本ではここまで「子供」はうるさくなかった。子供大人らしい事由成熟した男女を目指した途上段階であり、気づけば加齢で大人になっていた、あるいは10代ですでに見た目も中身も大人同然という人もごろごろいて、それがわずか15年ほど昔までの常識だった。

あるいは「リア充な美しい大人は好きですか」というように、青年性を脱した兄や姉であるべきだった。正しさではなく「美しさ」が評価された。この美しさという言葉自体清潔を意味するもので今の異常な潔癖主義に通じたのも、もちろん事実ではあるけどね。

不都合現実」を受け入れた理想の発展が必要

特定環境を聖域化し、あるいは特定の人を「聖人」化してみなし、それを潔癖性を極めた発想とともに崇拝し、潔癖と反する不都合な事実を見て見ぬふりをしたり、あるいは無理してでも隠蔽させようとしたり、それを指摘する存在を許さない、あの感覚。グダポンの言葉を借りればこれは畳精神である

昔の高校を題材にした作品から黒髪すっぴんさんの描写を削減し、わざとそうでない人を代わりに差し替える。これも聖域を作る発想に由来することではないかと思っている。

その点、例えば私が韓国学生をみて感動をしたのは、日本において学生というと黒髪が少ないイメージなのかもしれないが、実際には黒髪のおりこうさんが多くいたこと、そういう風潮がそこかしこにあったため、他人に緊張することがなかったかである

バス停留所で会話したローカル若い女性は、なんかお茶目で、自分生活圏にやってきた外国人を楽しませようというホスピタリティがあって、ものすごく魅力的だったが、やっぱり大人オタクで、至上主義のない国のほうがよほど大人も魅力的だなと感じたのだった。

これは地方にも言える。マイルドヤンキーの連中なんてありゃ「普通リア充か重度なオタク」だ。オタク?ってくらい偏執的で、大衆らしさに欠けている。いわゆる元ヤンさえ良くも悪くもリア充らしさがない(事実、彼らが外国に行くとサブカルオタク扱いになる)広い意味での問題なのだ

日本に出てくるテレビタレントには個性らしさがない。オタクがいない(例外はあるが)。根っこからのおりこうさんであることを売りにした俳優・声優がいないし、変わった趣味を売りにする者もいない。誰もがそうなるありのままもないし個人差もない。

これは、日本人一定割合。どちらかといえば韓流ファン経験のある人たちで、同じくマイルドヤンキーか学がありそれなりに品格のあるような人が、ものの感じ方の成熟が遅れたことにあるんじゃないか、と私は思っている。子ども時代や貧乏なときは誰もが感性が幼稚で極端な理想を抱くものだ。

しかし、大人になり、10代になり、豊かになれば、あらゆる体験を通して現実を知るというか、様々な存在を知って、自分自身の肉体と考えの成長もあって、そういう非現実理想を一度捨てることになると思う。代表大学生における運転免許取得ラッシュだ。「免許取得者は学のない人のほうが多い」とか「都会人は一生免許と無縁」の虚構に気づく。

私達ネット原住民的には中二病とか高二病とも揶揄される、つまり冷笑主義にも陥るのだが、その現実実在不都合性を含めた事実の中にある魅力に気づき、そこから新しい夢を見出だしたりするのが、普通の諸外国ならハイティーンか遅くても20代経験する段階で、日本人もかつてはそうだったのではないか

そういうわけで、高学歴だろうと、立派な社会的地位にいようが、年齢が中高年だろうと、マイルドヤンキーと変わらないような潔癖主義理想を振りかざして現実を拒絶したり自由創造表現ユーモアを叩くあの感じは非常に納得がいかない。幼稚な人が多すぎる日本現実がほんとつらいです。

(韓国などの例外を除く)外国コンテンツは、優れた表現ほど徹底的に不都合現実事実に向き合っている。だが、それをただそのまま描いたり、不穏に誇張するだけではなく、そこから楽しさや夢を見出だそうとする傾向があると思う。その際にはお堅い因習を破ることになる。

だがその独創性第一段階にある「お堅い因習を破ること」を全力否定するのがグダポンのいう「畳精神」であり、右派や私の言う「コリアニズム(文化的右傾化)」である。つまりどんな理不尽でもそれがしきたりで、その空間では聖域性を守るために自分が屈しなきゃいけないし、適応しない他者は咎めなきゃいけないという枷を兼ねた同調圧力も発生する。韓流ブームものすごく親しんだ人ほど危ない。

ティーンエージャーになる前の現実離れした理想主義(と、それを理想を向けられた側がそのまま受けとめなければいけないということ)に畳精神コリアニズムはとても相性がいいのである。新しい幼稚な感覚と、古い老いた因習コラボさせると、アニメ漫画特撮ドラマビデオゲームまがいな、子供ヤンキーだという狂うジャパンがあふれるのである

私が現代の日本はともかくとして一昔の韓流華流コンテンツ敬遠したのは、アメリカコンテンツとは違い、理想主義を極めたあのディズニーでさえ、そのテーマパーク映画などに「不都合現実を受け入れた上でのイマジネーション」がないからだ。理不尽もの批判的に描くこともなく、拒絶せずにそれを受け止めることすらしない。現実逃避ありきなのだ

私の記憶する限り韓国中国テレビドラマアニメには、日本人ネガティブ過ぎるとして驚いた自転車乗りの姿が描写されていない。1990年代2000年代(2010年代)に日本型暴走族話題になったが、それを風刺するような作品は出てこない。当たり前だが韓国人中国人オタク風刺するような作品もない(日本ですらオタク風刺作品はあるが)

そういう子どもたちはこうしたコンテンツの変わりに漫画小説(ライトノベルを含む)やゲームいかれた様子を見ることで、それを教訓にすることができるわけである日本作品で言えば喧嘩番長龍が如くに出てくる「不都合現実を誇張した」不健全卑猥日本風景も、実は意外にも理想や夢とどこか通じるものがあるし、その中にもやはり社会に対するメッセージもある。

そう考えると、欧米程でないにしても自由な創意工夫性は日本においてはなんとか健在であり、その自由表現の娯楽を通して成長につながることもできたりし、その上でまた新しい夢が見れるというのが、本当にすごいと思っていて、韓国中国にもそういうクリエティティを獲得するには、まず日本同様に現実至上主義と畳精神解体を加速させることが必要なのだ

2016-12-31

みんな忘れてるけど山本一郎10年前の方が勢いあったのよ

山本一郎風向きが変わったのを見ていて、今から10年ほど前のことを思い出していた。

当時はツイッターはまだなく、ブログブームは落ち着いて、もちろんヤフー個人なんてのもなかった。

そして、その中で山本一郎新時代書き手として、何やらすごい人というブランディング確立していた。

多額の借金DELL株で返済した天才投資家。一生分の資産投資で築いたから、会社経営ブログは遊びでやっている。

今みたいに炎上ネタを暴くみたいなスタンスではなかったが(そもそも炎上するようなネタが当時はネットに転がっていなかった)、あたか政財界を暗躍しているかのような書きぶりと、ネット民丸出しの面白全部な振る舞いがウケていた(後発の匿名掲示板を煽ったり)。

何が本業なのかは今と同じように明かしていなかったけど、「大っぴらに書けないようなすごいことなんだろう」と思っていた。

ホリエモンフジテレビ仲介しただの、月9ゴーストライターをやってるだの、別名でライトノベルを書いてるだの、明言せずにいろいろほのめかしてさ。

当時を知らない人は今が全盛期だと思っているだろうが、実は今よりも10年前の方が勢いがあったのよ。

雑誌の連載を5、6本持っていて、本もコンスタントに出して、深夜テレビレギュラーをやってたり。山形浩生宮台真司が彼と対談して持ち上げていた。今よりもマスメディア山本一郎の「設定」に乗っかっていたよ。

それがマンションを丸ごと買ったという発言が吹かしだったことがバレて、ほかの経歴にもメスが入り大炎上ネット民の支持を失った。

当時はブログコメント欄が開放されていたのだけど、記事更新するたびに大荒れ。雑誌も連載もどんどん打ち切られていって、一本もなくなってしまった。当時あった公式サイトに連載の一覧が載っていたのだけど、それが減っていくのを微妙気持ちで見ていた。

ネット評価は「裏で暗躍するすごい人」から中小企業経営している売れないライター」に変わった。

そこから数年、山本は明らかに低調だった。記事を書いてもはてブには上がってこないし、雑誌テレビにも出てこない。ネットでの存在感は皆無で、はっきり言って「終わった人」扱いされていた。

風向きが変わったのは2009年ごろ。山本ツイッターを本格的にやり始めたころだ。当初は「懐かしい人が出てきたな」という扱いだったけど、そこで頭角を現し始めた。

それに合わせて、ブログはてブを集めるようになり、かつての調子を取り戻し始めた。

だが、明らかに変わったポイントがいくつかある。大きいのは自分の暗躍をほのめかさなくなったことと、資産について何も言わなくなったことだ。

自分が突っつかれないように注意しているようだ。ちなみにかつて挙がった経歴詐称などの疑惑には何も反論していないし、認めてもいない。

こうして炎上ネタリークを交えつつ面白おかしく書き立てるという芸風で再び地位確立した。ツイッター時代マッチしたのだと思う。

しかし、再び風向きが変わってきた。このまま行くと、かつてのように存在感をなくすだろう。あるいはきっこ上杉隆のように信者に囲まれカルト化するのだろう。

今回の復調は、しかしかつてのように雑誌の連載を持ったり本を出したりには至っていない。おそらく、前回「騙された」と思った人たちは彼を避けているだろう。

2ちゃんねる管理人ひろゆきが特徴的だ。かつては相棒のように目されていたが、いつの間にか仲違い。ひろゆきはたびたび、山本を「嘘つき」だと明言している。最近出たテレビでも「嘘つきが儲かる世の中ってどうなんすかね?」と暗に山本を受け入れるネット社会批判している。

今後の山本がどうなるかはわからない。しかし、素性は怪しいけれど、第三者立場から切込む人、という立ち位置自由さで信頼を得ていた人が、その立ち位置を疑われてしまったら、なかなか信頼を回復できないだろう。

三たび山本が復活するには、今まで頑なに公開していなかった本業を明らかにするしかないだろう。どこと取り引きをしてどんなことをしているのか。それは等身大山本をぜんぶ出すことだ。これは山本の今までのネット活動のツケだ。それを払いきれるのか、あるいは消えるか。山本明日はどっちだ。

2016-12-30

「」を多用する文章が嫌いだ

地の文が少なく、会話が紙面の多くを占める「ライトノベル的な文章」が嫌、という意味ではない。

拙文の「ライトノベル的な文章」のように、キーワードをことさらに囲って強調するために使う「」が性に合わない。

はてなーの中だと、fujipon氏のブログの中でよく目にする。たとえば今日の、

>http://fujipon.hatenablog.com/entry/2016/12/30/131356>

その「最初の一瞬」のために、観光というのはあるのかもしれないけれど。

それも含めての「いろんな人が集まる場所」なのかな、って。

<<

とか。(氏を槍玉に挙げる意図はないです)

この2つのカギ括弧、どちらも別に付けなくても文法的に成立しているし、意味が取れなくなることはない。私的にはノイズに見える。

大学レポートなんかでは、出てくる単語をその文章の中だけのルールで用いるときカギ括弧をつける場合がある(以下、このサンプルを「A」とする、みたいな)けれども、「最初の一瞬」も「いろんな場所が集まる場所」も、その必要は認められない。読みくだす中でいちいち喉に引っかかる。いやなら読むなという話なのだけれど。

氏だけではなく、結構ネット文章特に感性の豊かさでマウンティングしてくる人の文章にこのカギ括弧はよくあらわれる。「何でそんなことするんだろう?」っていつも思ってた。

カギ括弧をあえて用いることで特別さを演出しているの?私が使う「最初の一瞬」は一般的最初の一瞬とは違う、特別な人だけが感じ取って言語化できる特別な「最初の一瞬」である、ということ?

2016-12-24

ネットばかりやっていたら語彙が貧弱になってヤバい

ここ最近ライトノベルすら読まなくなっているのでヤバいなあと思っていたマジでヤバかった。

仕事で使ってる書類コピペ連続自分では何も考えてないかヤバいんじゃねと思っていたけどマジでヤバかったとはこりゃヤバい

どうすればこのヤバさを切り抜けられるのかヤバいぐらい考えた結果ネットをやるのをやめるというヤバい結論になった。

今の時代ネットをやめたらヤバいぐらい早く置いてかれてヤバいのにどうすりゃいいんだ。

2016-12-20

小説ラノベの違いを教えてください」

まず、文字を使った表現物のことを総じて「文学」と呼びます

小説」は、文学のうち「散文で書かれた虚構物語のものを指します。

「散文」の対義語は「韻文」です。詩のように同じ響きの言葉を繰り返したり、短歌俳句みたいに決まった形があるものを、韻文と呼びます。逆に言えば、散文はそういった決まりのない、いわゆる普通文章を指すことになります

散文で書かれた文学としては、他にも随筆評論などがありますが、それらと違って小説は、基本的虚構が書かれています(「事実をもとにした小説」とかもありますけど…)。

その小説の中で、娯楽性よりも芸術性を重視した作品を「純文学」と呼びます一般に、石原慎太郎村上春樹村上龍などは、純文学作家とされています

純文学と対になるのは「大衆文学」であり、芸術性よりも娯楽性を重視した作品となっています。たとえば、東野圭吾伊坂幸太郎湊かなえなどは大衆文学作家ということになります

芸術」「娯楽」という言葉もなかなか曖昧で、明確な線引きはできないものですから、「何となく雰囲気でそうなっている」くらいに思ってください。ちなみに、「芥川賞」は純文学の賞、「直木賞」は大衆文学の賞となります

以上から分かるように、「ライトノベル以外の小説」を示す意図で「小説」「文学」「純文学」といった呼称を使うのは誤りです。「ライトノベル以外の小説」を指す言葉としては、あくまで便宜的なものですが「一般小説」「一般文芸」などがあります

さて「ライトノベル」の話になりますが、ライトノベルが「娯楽性を重視した小説であることは間違いありません。つまり分類としては大衆文学に含まれることになるでしょう。

ひと昔前は、ライトノベル定義するにあたって「イラストが付いている少年少女向けの小説」としておけば、ひとまず間違いはありませんでした(実はイラストのないライトノベルもけっこう出ているんですけどね)。

しかし、近年のライトノベル積極的にその範囲を広げ、さまざまなジャンルを取り込んでいますライトノベル出身作家一般文芸活躍することも増えてきました。

ライトノベル一般文芸中間を狙った、いわゆる「ライト文芸」のレーベルも多数創刊されています。それらの対象年齢は20代40代あたりで、とても「少年少女」とは言えません。

イラストについても、いまでは幅広い作品に付くようになり、それをライトノベルだけの特徴とみなす風潮も薄れつつあります。そもそも「挿絵付きの小説自体は、古くから当たり前に存在するわけですからイラストの有無だけで区別しようというのがナンセンスなのかもしれませんね。

そういったわけで、いま「ライトノベル」と「ライトノベル以外」の垣根は急速に消失しつつあり、同時に明確な「違い」も無くなってきています

イラストが付いている少年少女向けの小説から、「イラストが付いている」と「少年少女向けの」を抜けば、あとは「小説しか残らない道理です。

2016-11-15

http://anond.hatelabo.jp/20161115161500

横ですが、片方の方は ライトノベルレーベルほとんど角川ということと、

アニメを作るのはアニメ制作会社であることを混同されてないですかね

アニメ制作費は5~6社が合同でお金出し合うので

角川自体大企業であっても関係ないっす

昔の角川映画と違います

2016-11-05

Web小説ライトノベルって『俺でも書けそう』感が凄いよな

漫画作曲界隈だと、一定以上の才能がなければそもそもその創作活動を行うことすら困難だよね。

『とりあえずコンテストに応募すること』を目標とするだけでも相当な数が淘汰されてしまうはずだ。

でもラノベ界隈にはそのボーダーがない、しいて言うならば『日本語がわかるか』くらい。

ハードSF純文学を書くのにはある程度の教養調査必要になるが、

学園ラブコメやよくある中世西洋ファンタジーにはそれすらも必要ないんだろう。

からなのか、文体めっちゃ軽い人気ラノベとか読んでると

『なんの才能もない俺だけどこれなら一攫千金狙えるんじゃないか?』

ってニート自分ですら思えてきてしまう。

本当に凄い。『俺でも書けそう』感が凄い。

2016-10-13

http://anond.hatelabo.jp/20161013130219

どういった方法面白さの担保品質担保をしてるのか不思議

という「個別論ではなく全体論」ということなので、身バレもないだろうしそのへんに絞ったレスをしてみたいと思います

ああ、一個上のP付きっす。

その前に軽く触れると、自分出版系のIP管理からアニメにもゲームにもアプリっぽいのの制作にもPで参加したことが有るという立場増田です。なので、アニメにそこまで肩入れした擁護はないので、そのへんは差っ引いてくださいませ。

まず

アニメ場合は最低ラインでも「まとも率」が不思議と高い

という点なんだけど、それは概ね事実としてある。アニメ制作さえ決めれば空中爆発率は低いし、動く絵としてものは出来上がってくる。

それは「完成して出て来る」ってのを至上命題として業態業務か出来上がってるからっていう部分がまず第一に大きいです。

完成することを第一に求める制作体制

だって予告して、放送枠取ってそこにV(=動画)が到着しなかったら放映できないでしょう? 良くも悪くも「タイトな締切に間に合わせてでっち上げる」ことが常態化しているし、そのためにいろんな仕組みが整備されている。深夜まで作業するのも常識になってたりもする……。ゲームサービスみたいに「クオリティのために延期」というのが「ない」って言う前提で動いているんですね(総集編っていうのは、だからこそ本来例外だし、やばいわけっす)。

「完成すること>クオリティ」って言う価値観なわけです。

でもそれは前提であって「完成する理由」にはなっても「そこそこまともになる理由」ではないですよね。「そこそこまともになる理由」は、個人的には以下の2点があると考えています

強力な前例

ゲームとかマンガとかWebサービスなんかに比べて、アニメ制作スケジュールとかチームの規模感みたいなもの前例豊富で強いです。12話1クールを作る人数はこれくらい、必要役職はこう、時間はこれくらいかかる、そのためのお金はこれくらい。

そういう規模感がはっきりしてる。

だってシーズン数十本も作ってるんだから、そりゃ数字もつみ重なる。

プロジェクトハンドリングはたしか属人性が高いけれど、こういう数字まで共有されていないわけではないです。むしろ一般常識化しすぎてて話題にすらならないほど強固に存在します。そこから外れた作品が皆無というはなしじゃなくて、その規模感から外れるにしろ「規模感という地図を持っている」ことに大きな意味が有るって話です。

特に工夫をしようと思わなければ)アニメ制作バジェットは、穴埋め式のテンプレートみたいなもので、記入欄にスタジオ名とかスタッフ名を入れていけばチン!と出てくるようなものです。「スケジュール遅延による予算の倍増!?」みたいなトラブルは少ないです(劇場版では聞きます)。

製作工程自体も(何か変わったことをしようとしなければ)概ね予定通りに進みますアニメ制作において制作の遅れは作画スタッフの不調とか、確保してたスタッフがうまく稼働できてないとかであって「技術的困難があって見込みが外れた」みたいな事例は少数です。そういう意味では製作期間も読みやすい部類に入ります

アニメに比べれば、ゲームWebサービスや新製品開発は、闇の中を手探りで地図もなしにうろついているようなものに見えます。逆にそちらからアニメを見れば、一度作ったものテクスチャ張替えをして類似商品を量産しているようなものです。

この構造クオリティコントロール意味では強いです。要するに初期予算部門ごとに配分して、それを話数で割って、出来ることはできるし、出来ないことは出来ないって話だからです。これがそのまま職人的な監督のこだわりに対する手綱にもなってますだって、ここでそのお金つかっちゃうと、こっちが足りないですよね? 無理ですよね? と説得が出来るからですね。

個別現場の話で言えば、それをやりくりとか、追加予算をひねり出すとかもPの仕事だけど、前提として上記みたいな構図が有るのはハンドリング面では楽ができる要素です。

クオリティを高める侵攻戦と下げない防衛戦

アニメ場合は最低ラインでも「まとも率」が不思議と高い

という指摘に対する返答が今回の中心なんだけど、「まとも率」ってなんだろう? って言う問が答えのヒントです。

すごく大雑把な話をすると、アニメには(というかコンテンツ制作には)2種類の方向性があって、それは「外れるかもしれないけれどバットを思い切り振り回していこう、当たればホームランだぞ!(はずれれば三振だが)」というのと、「とりあえず進塁打めざしましょ、コケそうになっても最低限くさいバントして大コケはしないように(でもその打法ホームランは出ない)」の2種です。

どっちがいいというものじゃないですが、とにかくそういうふたつの考え方があります。全てのPは例外なく今手がけている作品をどちらにするか考えます

もちろん現実にはもうちょっとかいです。たとえば、ある作品は全体的には手堅くバント狙いなんだけど、音楽だけは超ゴリゴリインディーズ起用でギャンブル、とかもあります声優だけ豪華! とかも。無名だけど実力があって伸びそうなスタッフ中心部に据える冒険というのもあります。とにかくあらゆる判断において「大当たりを狙って強振」か「手堅く固める」の判断があります

ここからが非常に夢のない話になるのですけれど、アニメは(とくに地上波の週刊アニメでは)どちらかというと「手堅く小ヒット狙い」なメディアなんです。だから「最低ラインでもまとも率が高い」という結果になっています

なぜか?

理由は様々にあるんですが、本質的には生存戦略としてそれが(一応の全体認識としては)有利だからです。

あらゆる面で革新的で挑戦を行ってフルスィングをしていくと、三振討ち死に率が高い。ホームラン率3%で三振60%で残りがポテンヒットみたいな印象です。しかもこのフルスィングは、そもそも予算を大きく要求しておいてこういう結果になることが多い。

そこへいくと、小ヒット狙いのコンパクトスィングは、35%三振(=赤字)40%バント34%ヒットで、実はホームランも1%くらいは出るかなー? みたいな構造です。

もちろん、安全性と飛距離の両立ができる企画があればいいですが、それはとても難しいことがもうわかっているので、企画の全体も、細部もジャッジしてどちらかに振っていかなければならないです。

アニメ場合は、しかもその判断製作委員会(もしくはそれに準ずる意思決定機関)で合意しなければならない。多人数での合意なので、どうしても「安全策」が採用されがちです。

(余談だけれど、監督業の一番尊敬できる部分は、そういう安全への堕落に対して『いいや、今回はこういうチャレンジをする。僕等にはその力があるはずだ!』という果敢なジャッジをして、それに向かって猛進してみんなを引っ張れる部分だと思います

夢も希望もないけれどこの「集団判断による安全策への流れ」がアニメにおいて「どれもそれなりに見れる作品になる理由」です。

もちろんそういう安全策ばかりでは1作品の勝った負けたに終止してしまうために、どこかでは冒険もしなければならないです。また、円盤の売上という一面的勝敗判断以外にも判断基準はあります

それはたとえば、社内への技術蓄積(この作品を作ったので3Dエフェクト技術が社内に蓄積された)とか、スタッフの成長の舞台としての作品かい視点です。ファンの人が思っているよりもアニメスタジオはずっとそういうお金以外のことを気にして運営されてますお金を信用してないとも言える)。

まあ、冷めた話をすれば、巨大な予算と巨大な人数をかけた企画において、夢物語ホームラン狙いが抑制されるのは当たり前の話です。バブル期ゲーム業界とか、アメリカンドリーム次代のハリウッドが異常だっただけで、億超えの規模動かしてれば慎重な方が当然です。

ライトノベルアニメの相性が良いのはそこで、ライトノベル個人制作でそれはつまりかかった予算が非常に小さいジャンルです。予算が非常に小さいということそのものが直接関係するわけではなくて、そういう個人制作小規模ジャンルであれば、(ある意味非常に無謀な)挑戦ができるということだからです。

他にも色々触れるべき点は有るかもしれないけれど、暇なので書いてみた「アニメ制作フローにQCのヒントが有るのでは?」に対してのお返事でした。思いつくままに適当に書いたので誤字脱字とか、文章の乱れとかあったらごめんなさい。

2016-10-11

魔法少女ライトノベル

アストラルギア 魔法少女はつらいよ2001.08
ばいおれんす☆まじかる!2001.09
撲殺天使ドクロちゃん2002.11
新本格魔法少女りすか2003.10
魔法少女リリカルなのは2004.10
ぼくと魔女アポカリプス2006.02
桜ish -推定魔法少女-2006.10
おと×まほ2007.05
時載りリンネ2007.08
これはゾンビですか?2009.01
魔法少女を忘れない2009.06
くりぽと すくすく☆魔法少女2009.10
アンチマジカ2010.07
魔法少女☆仮免許2010.11
魔法少女まどか☆マギカ2011.01
魔よりも黒くワガママ魔法少女は夢をみる2011.02
魔法少女アーヤ☆アミー2011.06
魔法少女のくせになまいきだ。2011.09
サカサマホウショウジョ2011.11
魔王な使い魔と魔法少女2012.03
魔法少女育成計画2012.06
俺、ツインテールになります。2012.06
魔法少女地獄2012.08
ロストウィッチブライマジカ2013.09
魔法幼女暮らしはじめました。2013.10
魔法少女試験小隊2013.12
閃光のホワイトアウト2013.12
非公認魔法少女戦線2014.01
マジカル†デスゲーム2014.03
特別時限少女マミミ2014.04
僕らは魔法少女の中2014.05
今すぐ辞めたいアルスマギ2014.10
ふぉーくーるあふたー2015.12

魔女」が出て来るだけなのは除外し(ファンタジーがたくさん入っちゃうから)、なるべく「魔女っ子」「魔法少女フォーマット意識していそうな作品を選んだ。「俺ツイ」とか特撮ヒーローフォーマットでもあって微妙だけど入れちゃった。

ちなみに、まどマギ的な殺伐としている作品は「新本格魔法少女りすか」「ぼくと魔女アポカリプス」「アンチマジカル」「魔法少女育成計画」「魔法少女地獄」「ロストウィッチブライマジカル」「マジカル†デスゲーム」「僕らは魔法少女の中」あたりか。企画執筆から時間差を考えると、まどマギの直接的な影響を受けているのは2012年以降の作品かな。まどマギの影響で魔法少女ものが増えたのは確かだと思うけど、いちおうラノベ全体の刊行点数が増加している…2005年から10年で2倍くらい?…のも考慮してね。

あと、男が魔法少女になる話が意外に多くて「ぼくと魔女アポカリプス」「桜ish」「おと×まほ」「これはゾンビですか?」「アンチマジカル」「魔王な使い魔と魔法少女な」「魔法少女育成計画」「俺、ツインテールになります。」「閃光のホワイトアウト」あたり。

なにか抜けてたらごめん。

参考にしたページ

魔法少女なラノベ(魔女なラノベ付) - REVの雑記 - LightNovel Group

魔法少女ライトノベル特集〜殺伐系から魔法少女(物理)まで〜|ブックオフオンライン

ライトノベル並みの文章しか書けない

最近ブログを始めたのだが、文章力の低さに絶望してる。

馬鹿にしてたライトノベルと変わんない。

2016-10-04

[]

紅天女を読んだ。ようやくです。勾玉三部作は、巻が進むごとに小説がこなれていく感じがして興味深かった。

今作は、三部作の中で一番キャラクターがたっている小説だった気がする。荻原規子小説はRDGしか読んでなかったけど、キャラクター造形の基部はこのころにもう固まっていたんだと思う。

また今作は、三部作最後を飾るにふさわしい出来になっていた。総決算というべきか。勾玉白鳥で描かれていた人物が、換骨奪胎されてより生き生きと描かれていた。

内容としては、下巻の前半が面白かった。特に阿高と藤太と苑上の三人で行動している場面。冒険小説のようにわくわくしたし、コミカルな掛け合いが楽しかった。

上巻だとあまり感じられなかったけど、下巻になり苑上視点から見ると、阿高も藤太も勇ましいというか、男らしく感じられて面白いなって思った。

反面、上巻二章の終盤部はちょっと好みじゃなかった。なんていうか、身分差の恋にありがちな展開だったし、何よりもまた運命かよって思った。

昨今の小説、とりわけライトノベルだと、掟や定めなんかにぶち当たった時、それらのルールをぶち壊す方へ向かう話が多い気がするんだけど、勾玉シリーズはそうじゃない。

あくまでも定められたルールを受けとめる。そのうえで、枠の中でどうするかって考えたり、悲嘆にくれたり激昂していたりする。

それがちょっと物足りなかった。運命に逆らう物語は、やっぱり格好いいもの

結果的に薄紅天女運命なり定めを打破する展開になるんだけど、あくまで結果でしかなくて、登場人物主体的にあがくことがなかったから残念だった。

二章で描かれてた過去話はその点最悪で、起こったてしまったことであり、現状に連なる原因の一つであるから仕方がないのはわかるんだけど、またこんなのかって思ってしまった。

あと、上巻のアイヌとの小競り合いが呆気なく終わってしまったのが気になる。舞台が移るから仕方がないんだけど、憎たらしいキャラアテルイとアベウチフチがいつの間にかフェードアウトしてしまった印象。

でも、最終的にはハッピーエンドでよかった。千種と藤太がちゃんと結ばれてくれたらいいなって思う。

実をいうと、阿高が安倍晴明になると思ってた。時代全然違うやん。その上、無空のその後については最後最後まで気がつかなかった。うーん、この

次は竜に~の二部作を読む。

そして

SAO映画になる

たぶん見ると思う

小説ロザリオで読むの秋田

アインラット編が1番

アニメ版の第二期辺りから やたらセミヌード的なもの

ユイのそんな恰好描写する必要がある?

みたいな感じで、すこし萎え

ライトノベルってこういうものだしな

フルダイブ環境はすごくいと思う

映画AR戦闘

あの感じだと現実マップを被せているだけみたいで

無理を感じる

今後の情報を見て金払って見るか判断したい

ハリウッド実写版・・・・あぁ、

2016-10-02

努力をしない物語努力をする物語みたいな前提に物申したい

ライトノベルの話に関係なく、タイトルの様な前提がある気がするが疑問に思う

努力尊いものであるが、それは現実において努力をしている人に向けられるべき賛美であって

物語の中で努力が描かれているか尊いというのは何か違う気がする

努力が描かれた物語を消費するだけで、本人が現実努力をしなければまったく無意味だし

なんら現実的メッセージもなくただ努力を賛美するだけの作品ならば、今風の言い方をすればそれは「努力ポルノ」でしょ

大体昔話の主人公とか見ると努力してるやつほとんどいないじゃん

わらしべ長者なんか最たるものだし

一寸法師欠点と思われた身体的特徴を生かして勝利する話だし

桃太郎動物を黍団子で買収して勝利する話だし、黍団子を作ったのはババアだし

三年寝太郎普段評価されないやつが俺TUEEするもうラノベの原型みたいなとこあるし

物語価値面白さにおいて「主人公努力した」って要素って必須でもなんでもないよね

思うに努力描写をありたがる人って自分以外の人は努力してないと思ってるんじゃない?

努力したうえで他人に負けて「自分はこんなに努力してるのにー!」ってルサンチマンから努力が結果を結ぶ物語を欲してるだけなんじゃないのかな?

でも現実にはみんな何かしら努力してて、その上でいろんな要素が絡み合って結果を生み出すわけで

だのに努力に拘泥するのは視野が狭いというかすごく独りよがりな考えなんじゃないかと思うんだよね

2016-10-01

http://anond.hatelabo.jp/20160928171836

昔の漫画等の作品と、今の漫画ライトノベル関連の物語は、肌感覚で「違う」って感じるけど具体的に何が違うかと問われれば答えるのは難しいよね

箇条書きメソッドにしてみると共通点も多いし。

結局批判する側としては主人公性格気持ち悪いんかな

一人称自分語りが多いし

ラノベ努力描写を嫌ってないのは主に成人だけなのでは?

ラノベ業界大手企業社長川上量生氏が垂れ流したラノベに関する偏見・虚偽・流言について

http://kazenotori.hatenablog.com/entry/2016/09/29/212207

友情! 努力! 勝利が熱い! 努力ライトノベル9選!

http://tsundoku-diary.scriptlife.jp/entry/2016/09/30/225449

最近ラノベトレンドはむしろ努力をする物語」だと知らない人

http://anond.hatelabo.jp/20161001123657

単純に素朴な疑問なんだけど、努力描写あってもいいよ!って言ってる人たちって、

そもそもラノベマーケティングターゲット年齢層に入ってるの?

ラノベの作者も結局はおっさんなわけで、今時の学生感性持ってるわけじゃないしさ

学生の人たちの意見こそ知りたいところなんだけど

最近ラノベトレンドはむしろ努力をする物語」だと知らない人

 例えば、ライトノベルの分野で言うと、今は売れるための絶対方法があるんです。

――軽いタッチで描かれた、若年層向きの小説ですね。

 ライトノベル主人公努力しちゃダメなんです。読む側が自分投影できなくなるからです。ヒロインは都合よく向こうからやってくる。超能力などの能力は、いつのまにか勝手に身についている。今のライトノベルの多くが、そういう設定で書かれていますよ。

――恋人能力努力して勝ち取るのではなく、何もしなくても、いつの間にか恋人能力を手に入れているという設定でないと売れないということですか。その努力過程こそが、今までは物語の根幹だったはずなのに。

 そうです。今は努力できる立派な人物主人公だと、読む側が気後れして感情移入できないんですよ。主人公は読者と同じ等身大人間。そして、主人公に都合のいい物語を求める傾向が進んできた。文学世界でもそうなってきていると思います

 

http://www.yomiuri.co.jp/yolon/ichiran/20160923-OYT8T50010.html

散々話題になってるけど、ちょっと驚いたね。あまり時代錯誤すぎて。

しかに「主人公努力しちゃダメ」論、聞いたことあるよ。2ちゃんねるとかまとめブログコメント欄とかでよく見る。

けどその認識って、あまり時代遅れっていうか、昨今のライトノベル情勢について、言い訳のしようがない勘違いがあってさ。

だって、今この時代――2016年ラノベ業界って、「努力しちゃダメ」どころかむしろその反動カウンター時代突入してるんだから

とりあえず、まずこの辺を見てほしい。

好きなライトノベル投票しよう!! - ラノベサイトが選ぶおすすめライトノベル

http://lightnovel.jp/best/

これはネットラノベ読みがみんなで投票してその半期ごとのベストライトノベルを決めるっていう企画で、

参加サイト数はブログTwitter含めて296個とそこまで多くはないけど、積極的ライトノベルを読んでいるいわば「最先端の層」にいる人たちが作ってるランキングだ。

ちなみに俺は2016年上期にランクインしてるもののうち、まあ全部は読んでないんだけど、上位の4作品は全部読んでる。

そこでまず、言わせてもらう。

これは、川上さんにとって、とても残念な発表なんだけど、その上位4作品のうち、なんと、3作品が。3作品が、だよ。

「ちゃんと努力する」ってことを、大きなテーマとして掲げてる物語なんだ。

あーあ、やっちゃった、って感じだろ?

この段階で、「主人公努力しちゃダメ」なんて、少なくとも2016年には時代遅れだってことがわかるじゃんか。

ちなみにその3作品っていうのが、「りゅうおうのおしごと!」「最果てのパラディン」「弱キャラ友崎くん」の3つな。

1位の「りゅうおうのおしごと!」は別の記事http://anond.hatelabo.jp/20160928053429)で語られてたからここで語るまでもなく。

じゃあ残りの「最果てのパラディン」「弱キャラ友崎くん」になるけど、まずは後者の方に、典型的なシーンがあるから抜粋する。

負け犬の遠吠えって言ったのよ。リア充みたいな人生は嫌い? リア充人生を送ったことがないのに? バカみたい。なんで嫌いだってわかるのよ? リア充の楽しさを味わった上で、でもそれは楽しくない、って言うなら筋は通ってるわ。けど、あなたは味わったことない。だったらそんなのただの酸っぱい葡萄負け犬の遠吠えね」

(中略)

「私はね、負けたくせに努力せず、それを正当化する奴が一番嫌いなのよ」

これは「弱キャラ友崎くん」の序盤のシーンで、ヒロイン日南葵が主人公に言い放つ言葉なんだけど、このセリフ以降、

この作品根底には常にこの考え方が通底してる。この物語主人公は、ここから表情筋を鍛える」「人と話す話題を暗記する」みたいな

クソみたいに地味な努力を積み重ねていって、リア充を目指して人生攻略していく。マスクを付けて、その下を常に笑顔でいることで、根暗っぽい表情を消したり、

単語カードに人と話す話題を書いて暗記して、雑談を得意にしたり。とにかくそんな感じの話で、総じて言えば「努力賛歌」だ。

そして重要なのはこれがきちんと、いま、注目されて、売れている、ということ。

言うまでもなく、「主人公努力しちゃダメ」論の真逆だよな?

 

さてさて、それだけじゃない。お次は「最果てのパラディン」だ。

この作品はいわゆる「なろう」から書籍化した「なろう小説」で、例に漏れ主人公ウィル現実世界から世界へ「転生」する。

しか重要なのは、「転生」によって生まれ主人公モチベーションだ。

どうしようもなく曖昧で、混濁した生を送り。その靄のなかで、そのまま死んだ。

なぜだか、じわりと涙が滲んだ。こらえようとして、唇を引き結ぶけれど、それでも涙はぽろぽろとこぼれてきた。

(中略)

失敗してもいい。無様でもいい。泥にまみれてもいい。

僕は、今度こそ。今度こそ、生きるんだ。この世界で、生きるんだ!

こんなふうに、今までニート(?)として曖昧暮らしてきた自分を恥じ、「今度こそちゃんと生きる」ことを心に誓う。

そして、前世知識、というアドバンテージはありながらも、地道な剣術練習、魔術の練習を繰り返し、

大きなドラマを乗り越えながらも旅に出る、という物語を、なんとまるまる1巻を使って描く。

0歳から主人公が成人するまで、地道に筋肉を鍛えたり、座学を受けたり。もちろんそれが物語にはなってるんだけど、

1冊ほぼ半分が「特訓」の描写であると言っていい。特訓はキツイことだけど、「ちゃんと生きる」だめに、そこから逃げない。そんな話だ。

そしてこれももちろん売れてる。となると、おかしな話になってきましたね。

これも言うまでもなく、「主人公努力しちゃダメ」論の真逆なのにな?

ちなみに、上記の抜粋シーンはいずれも、1巻の50P以内に出てくる。

こういう価値観が、そもそもの前提として物語られてるってことがそこからもわかるよな?

 

さて、つまりだ。

積極的ライトノベルを読んでいるいわば「最先端の層」にいる人たちが作ってる2016年上期のランキングの、

上位4作品のうち「りゅうおうのおしごと!」「最果てのパラディン」「弱キャラ友崎くん」の3つが、

明らかに意図を持って「努力」のシーンを丁寧に描いているってことになる。しかも、どれもちゃんと売れてるんだ。

川上さんはそれでも、「売れるため」には「ライトノベル主人公努力しちゃダメ」なんて言えるのか? って話だよ。

取材記事文章の中身やニュアンスについて文句を言われても困る」なんて言い訳にすらなってない。

だって、これはもうニュアンスってレベルの話じゃない。むしろ逆、いま「売れるため」には「ライトノベル主人公努力しないとダメ」なんだから

 

と、そういう話。

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