はてなキーワード: ポテンヒットとは
発展途上国で起業して6年。ある程度軌道に乗って、のんびり南国生活を楽しんでいましたが、今回日本に帰国して、再就職することに決めました。再就職先も決まり、これから住んでいる国に帰り、手仕舞い準備をします。海外移住&事業の成功を得た後になぜ帰国を選んだか。そんなことをつらつら書いていきます。
海外移住は英語かなんかの言語ができれば簡単です。ただ日本語しか喋れないし、他の言語を習得しようという気持ちがない人は海外移住は辞めた方がいいでしょう。起業は需要と供給を理解すれば、そんな難しいものではありません。大富豪を目指してホームランを狙うのは難しいですが、コツコツポテンヒットや内野安打を確実に積み重ねていくのは簡単です。
自分が必死に働かなくても、生計が立つようになると、人は腐ります。家でダラダラnetflixやyoutube。銀行口座にお金はたまるから、それで飲みにいく生活。そんな生活を数年続けると飽きます。それを目指してやってきたのに、実際に手に入れると本当につまらないものでした。
素晴らしい経営者はさらに発展を望むんでしょう。『お金じゃない、社会的貢献のために!』私はそんな意識高くなかったでした。生活に十分な収入があれば、もうそれで満足。
私は30代になったばかり。残りの人生死ぬまで、時間を浪費するのは厳しい。それだけでなく、人生の目的がなさすぎて自殺も考えました。生きる目的がないというのは思った以上に病みます。妻も子もいるし、好き勝手幸せな生活を送っているのに、死を考えました。これまで辛い時にはそんなこと一切考えなかったのに。
このままではまずい。大きく方向転換しなくては。ということでこれまで散々ディスっていた雇われの身に戻ることにしました。収入は減るし労働時間は増えるし、踏んだり蹴ったりだけど、人生を終わらすより健康的かな。これまでゴミクズ野郎だったので、夫婦&家族関係最悪だったけど、再就職をすると話とちょっと関係も改善に向かう模様。
15歳くらいからずっと漫画を書いていて、忙しくて書けないときも、書いてて上手くいかないな~と思うときもあった。
プロを目指したことも、プロになりたかったこともない。ただ漫画を書くのが好きで、一次創作も二次創作も書いた。
絵はそれほど上手くないし華やかでもないけれど、時々ポテンヒットみたいに評価されることもあった。
自分でも自分にとっては面白いものを書いていると思っていたし、人気者にはなれないかもしれないけど面白いと言ってくれる人がいて、それだけで満足だった。
書くこと自体が楽しかったし、書かずにはいられない!という気持ちがあった。
自分の身の上のことも、ちょっとした妄想も脳内では漫画で再生されて、それを書き起こしたかった。
きっかけはあるのかもしれない。以前と比べてフランクに評価を受けられなくなったこと、好きな同人作家が筆を置いたこと、好きな漫画が終わってしまったこと。
でもそんなことはこれまでもあったし、それで漫画に対する気持ちがなくなることはなかった。
でも一年くらい前から急に書きたいものがなくなり、こんな手間を掛けて書くことの何が楽しいんだと思うようになり、これまで書いたものがゴミに見えるようになった。
もうゴミにしか見えないし、楽しかった頃の気持ちを思い出せないのでもう全部消してしまえばいいんだけど、あれほど楽しかった気持ちが消えてしまったこと自体がかなしい。自分が漫画を書いていた10数年はまったく無意味だったんだとわかっているのにそのことがかなしい。
いつかまた漫画を書きたいと思う日が来るんだろうか。
という「個別論ではなく全体論」ということなので、身バレもないだろうしそのへんに絞ったレスをしてみたいと思います。
ああ、一個上のP付きっす。
その前に軽く触れると、自分は出版系のIP管理からアニメにもゲームにもアプリっぽいのの制作にもPで参加したことが有るという立場の増田です。なので、アニメにそこまで肩入れした擁護はないので、そのへんは差っ引いてくださいませ。
まず
という点なんだけど、それは概ね事実としてある。アニメは制作さえ決めれば空中爆発率は低いし、動く絵としてものは出来上がってくる。
それは「完成して出て来る」ってのを至上命題として業態/業務か出来上がってるからっていう部分がまず第一に大きいです。
だって予告して、放送枠取ってそこにV(=動画)が到着しなかったら放映できないでしょう? 良くも悪くも「タイトな締切に間に合わせてでっち上げる」ことが常態化しているし、そのためにいろんな仕組みが整備されている。深夜まで作業するのも常識になってたりもする……。ゲームやサービスみたいに「クオリティのために延期」というのが「ない」って言う前提で動いているんですね(総集編っていうのは、だからこそ本来例外だし、やばいわけっす)。
でもそれは前提であって「完成する理由」にはなっても「そこそこまともになる理由」ではないですよね。「そこそこまともになる理由」は、個人的には以下の2点があると考えています。
ゲームとかマンガとかWebサービスなんかに比べて、アニメは制作スケジュールとかチームの規模感みたいなものの前例が豊富で強いです。12話1クールを作る人数はこれくらい、必要な役職はこう、時間はこれくらいかかる、そのためのお金はこれくらい。
そういう規模感がはっきりしてる。
だって1シーズン数十本も作ってるんだから、そりゃ数字もつみ重なる。
プロジェクトハンドリングはたしかに属人性が高いけれど、こういう数字まで共有されていないわけではないです。むしろ、一般常識化しすぎてて話題にすらならないほど強固に存在します。そこから外れた作品が皆無というはなしじゃなくて、その規模感から外れるにしろ「規模感という地図を持っている」ことに大きな意味が有るって話です。
(特に工夫をしようと思わなければ)アニメ制作のバジェットは、穴埋め式のテンプレートみたいなもので、記入欄にスタジオ名とかスタッフ名を入れていけばチン!と出てくるようなものです。「スケジュール遅延による予算の倍増!?」みたいなトラブルは少ないです(劇場版では聞きます)。
製作工程自体も(何か変わったことをしようとしなければ)概ね予定通りに進みます。アニメ制作において制作の遅れは作画スタッフの不調とか、確保してたスタッフがうまく稼働できてないとかであって「技術的困難があって見込みが外れた」みたいな事例は少数です。そういう意味では製作期間も読みやすい部類に入ります。
アニメに比べれば、ゲームやWebサービスや新製品開発は、闇の中を手探りで地図もなしにうろついているようなものに見えます。逆にそちらからアニメを見れば、一度作ったもののテクスチャ張替えをして類似商品を量産しているようなものです。
この構造はクオリティコントロールの意味では強いです。要するに初期予算を部門ごとに配分して、それを話数で割って、出来ることはできるし、出来ないことは出来ないって話だからです。これがそのまま職人的な監督のこだわりに対する手綱にもなってます。だって、ここでそのお金つかっちゃうと、こっちが足りないですよね? 無理ですよね? と説得が出来るからですね。
個別の現場の話で言えば、それをやりくりとか、追加予算をひねり出すとかもPの仕事だけど、前提として上記みたいな構図が有るのはハンドリング面では楽ができる要素です。
という指摘に対する返答が今回の中心なんだけど、「まとも率」ってなんだろう? って言う問が答えのヒントです。
すごく大雑把な話をすると、アニメには(というかコンテンツ制作には)2種類の方向性があって、それは「外れるかもしれないけれどバットを思い切り振り回していこう、当たればホームランだぞ!(はずれれば三振だが)」というのと、「とりあえず進塁打めざしましょ、コケそうになっても最低限くさいバントして大コケはしないように(でもその打法でホームランは出ない)」の2種です。
どっちがいいというものじゃないですが、とにかくそういうふたつの考え方があります。全てのPは例外なく今手がけている作品をどちらにするか考えます。
もちろん現実にはもうちょっと細かいです。たとえば、ある作品は全体的には手堅くバント狙いなんだけど、音楽だけは超ゴリゴリのインディーズ起用でギャンブル、とかもあります。声優だけ豪華! とかも。無名だけど実力があって伸びそうなスタッフを中心部に据える冒険というのもあります。とにかくあらゆる判断において「大当たりを狙って強振」か「手堅く固める」の判断があります。
ここからが非常に夢のない話になるのですけれど、アニメは(とくに地上波の週刊アニメでは)どちらかというと「手堅く小ヒット狙い」なメディアなんです。だから「最低ラインでもまとも率が高い」という結果になっています。
なぜか?
理由は様々にあるんですが、本質的には生存戦略としてそれが(一応の全体認識としては)有利だからです。
あらゆる面で革新的で挑戦を行ってフルスィングをしていくと、三振討ち死に率が高い。ホームラン率3%で三振60%で残りがポテンヒットみたいな印象です。しかもこのフルスィングは、そもそも予算を大きく要求しておいてこういう結果になることが多い。
そこへいくと、小ヒット狙いのコンパクトスィングは、35%三振(=赤字)40%バント34%ヒットで、実はホームランも1%くらいは出るかなー? みたいな構造です。
もちろん、安全性と飛距離の両立ができる企画があればいいですが、それはとても難しいことがもうわかっているので、企画の全体も、細部もジャッジしてどちらかに振っていかなければならないです。
アニメの場合は、しかもその判断を製作委員会(もしくはそれに準ずる意思決定機関)で合意しなければならない。多人数での合意なので、どうしても「安全策」が採用されがちです。
(余談だけれど、監督業の一番尊敬できる部分は、そういう安全への堕落に対して『いいや、今回はこういうチャレンジをする。僕等にはその力があるはずだ!』という果敢なジャッジをして、それに向かって猛進してみんなを引っ張れる部分だと思います)
夢も希望もないけれどこの「集団判断による安全策への流れ」がアニメにおいて「どれもそれなりに見れる作品になる理由」です。
もちろんそういう安全策ばかりでは1作品の勝った負けたに終止してしまうために、どこかでは冒険もしなければならないです。また、円盤の売上という一面的な勝敗判断以外にも判断基準はあります。
それはたとえば、社内への技術蓄積(この作品を作ったので3Dエフェクトの技術が社内に蓄積された)とか、スタッフの成長の舞台としての作品とかいう視点です。ファンの人が思っているよりもアニメスタジオはずっとそういうお金以外のことを気にして運営されてます(お金を信用してないとも言える)。
まあ、冷めた話をすれば、巨大な予算と巨大な人数をかけた企画において、夢物語なホームラン狙いが抑制されるのは当たり前の話です。バブル期のゲーム業界とか、アメリカンドリーム次代のハリウッドが異常だっただけで、億超えの規模動かしてれば慎重な方が当然です。
ライトノベルとアニメの相性が良いのはそこで、ライトノベルは個人制作でそれはつまりかかった予算が非常に小さいジャンルです。予算が非常に小さいということそのものが直接関係するわけではなくて、そういう個人制作小規模ジャンルであれば、(ある意味非常に無謀な)挑戦ができるということだからです。
他にも色々触れるべき点は有るかもしれないけれど、暇なので書いてみた「アニメの制作フローにQCのヒントが有るのでは?」に対してのお返事でした。思いつくままに適当に書いたので誤字脱字とか、文章の乱れとかあったらごめんなさい。