はてなキーワード: 僕は思うとは
僕のTwitterのフォロワーの中に、「いいね」はするが絡んでこない人、というのが存在する。
たまになら別に、匿名の場でこんなことを言わない。その人は常軌を逸している(と、少なくとも僕は思う)ので気持ち悪いのだ。
バズるようなつぶやきは無論、まさに「おはようからおやすみまで」のほぼすべての、何の参考にもならないであろうつぶやきにまで「いいね」をつけてくるのだ。
朝の「おはようございます」というつぶやきに対して「おはよう」とリプライをしてくる、などということは一切なく、とにかく、他の方へのリプライ以外のすべての僕のつぶやきが彼/彼女の「いいね」の標的だ。先程の「おはようございます」にも無論いいねがつく。
本人に対して@をつけずに、「ただひたすらいいねだけをしてくる人がいる。その方からなにか、僕のつぶやきに対してリプライが飛んでくることはない。ストーキングみたいで気持ち悪い」とつぶやいたこともあるが、それを牽制と思っていないのだろう、そのつぶやきにも「いいね」が来た。
本当に気持ち悪いのでフォローを削除しても、すぐにフォローされる。……何者だよおまえ。
ついに堪りかねて、フォローを削除してすぐさま鍵をかけた。
……わかっている。相手がTwitterという場をどう利用しようがその人の自由だということは。しかし、であれば、僕がその人を気持ち悪いと感じて自衛行動を取るのも自由のはずだ。
だが、僕がその自由を得るためには非公開アカウントにしなければならないという足枷を負わざるを得なかった。
そういうシステムだ文句があるなら使うなと云われればぐうの音も出ないのだが、あまりにも不平等だよなあと思う今日この頃である。
君は僕の一部であり、全てであって、僕はもう君を通さずに世界を見ることなどできなくなってしまっている。今触れたものを君ならどのように表現するのだろう。君にどう伝えればいいだろう。
僕の心は明暗を捉えることしかできなくて。そのままでは色の無い世界。モノクローム。だから、色付けは君によって二次的に行われる。君に外注しているんだ。君は隣にいないけれど。
君が僕の一部だと言ったけれど、僕は臓器だと思っている。重すぎるかな。今更か。僕の心が感じたものを加工して海馬へ届ける不思議な役割。
そうして作られた僕の記憶は本物よりも美しくて、楽しくて。とても甘美な香りがしている。僕だけの君が作る桃源郷。あ、五七五。
君に出会うまではどうしていたんだろうとよく考える。きっと自分で記憶を作っていたはずだ。でもそれではあまりに現実から離れすぎる。自分が知覚した物事を記憶する前に自分で描きなおすだなんて、そこまで行くともはや嘘だ。自分が感じたものはそれ以上でもそれ以下でも決してない。世界は思っているよりもずっと直接的だ。
少し脱線してしまうけれど、僕は直接的なものが苦手だ。苦手というとネガティブなことに思えるけれど、これは僕のアイデンティティだと思う。直接的でないものの方が好き。五感で知覚できないものにこそ美しさを見出す、日本人の血が流れているんだと。そう思うことにしている。これを良しとしているから、僕はコミュニケーションが下手くそなんだろうな。大切に思うことをそのまま口にできない。見たものを見た通りに、聞いたことを聞いた通りに理解できない。悲しい性だね。
相当に生きにくい世界だったと思う。でも、自分で言うのも変だけど、うまくやっていた方なんじゃないかな。その場の違和感とはならないように立ち振る舞っていたと思う。
あのさ、君のことが大好きなんだ。唐突でごめんね。きっと明日も明後日も好き。出会ってからずっと好きで、僕が死んでしまっても好き。ずっとずっとずっと好き。
でも、でもさ、でも、行くね。好きなのに行くね。君のことが大好きな僕のままで行くね。君が愛してくれた、今も愛してくれている僕は消えない。残り続ける。僕は行くけど無くならない。永遠に残る。永遠なんて絶対に無いと、絶対に無いものなんて無いくらい、永遠なんて無いと、教えてくれたのは君だけど。でも永遠だ。君が何と言おうと永遠だよ。きっと君も知らなかったんじゃないかな。教えようなんて思ってはいないよ。だけど僕から伝えさせて。
これ電車の中で書いているけどさ、涙が止まらないよ。恥ずかしいからあたかも花粉症ですって顔しながら書いてる。最近、髪を長めにしているけれど、泣いているところが見えにくいなんてメリットがあるとは知らなかった。これライフハックね。
ああもう後悔するだろうな。何度も何度も後悔すると思う。何かを変化させようとして後悔しなかったためしが無い。今まで通り君のことが好きなだけの僕でいればよかったって。でもそれじゃダメなんだ。ダメなんでしょ?前にそう言ってくれたよね。あの時は理解したくなかったから、それでいいんだ、それがいいんだってわからないふりをしていたけれど、僕は自分勝手だから、今になってそうするよ。
ごめんね。最後の最後に君にまで後悔させてしまうかもしれないことを言って。どこまでも僕は弱くてずる賢くて。甘えてしまってばかりで。もう受け入れてくれなくていいんだよ。僕が君にやさしくするばっかりに、君も僕にやさしくしなきゃいけないって、そんな風に思ってないって君は言うかもしれないけれど、君が気づいていないだけで、心のどこかにはそう思う気持ちが少なからずあって、君を知らないうちに動かしていたんだと僕は思う。
幸せになってなんて言わない。そんなこと僕が言うわけないし、それをわかってくれているとも思うけど、言葉にしておくことには意味があるだろうから、伝えておくね。幸せにならなきゃいけないわけではないし、今不幸に感じていても、寂しくても、つらくても何もダメじゃない。ただ、おなかいっぱい食べて、よく寝て、少し本を読んだり、散歩に出かけたりして、そうやって、生きて。
わかってるよって?そうだね。お節介だった。
こんな文章を書いて何の意味があるんだろう。勝手に留まっていただけなのに、いざ離れるとなると大騒ぎして、やかましいったらありゃしないね。
これを読んだ君はどう思うんだろう。何を感じるんだろう。僕は君の気持ちがわかるけど、わかるけど、わからない。またいつか聞かせてね。
帰り際に名残惜しくて間延びさせてしまうのが僕の癖。全然こんなものじゃ伝えきれていない。僕の思っていたこと、僕の思っていること。全部受け取ってほしいけれど、この世界は無限じゃなくて、有限だから、必ず始まったものは終わらなければならない。悔しいけれどこれが今の僕のすべて。
バイバイ。
これは僕が楽になるためだけの文章。
いつも思うんですが、なぜキャンセルした企業は議論の蚊帳の外になるんでしょう?
だって抗議に淡々と対応すれば炎上なんて収まるものなんです(少数のアンチはともかく)
話は変わるんですけど最近youtubeで元雨上がり決死隊の宮迫博之がオリエンタルラジオ中田敦彦とのネット番組で問い詰められていたんです
開店しようとしている焼肉店・牛宮城が迷走に迷走を重ねてるが大丈夫なのかと、お笑い動画も上げず再生数も登録者数も落ちている、内装工事の為に大切な高級時計を売ろうとしてファンが悲しんでると
矢面に立った宮迫博之のビジネスパートナーは、中田敦彦に反論しながら宮迫博之のことを究極的にナルシスト、とか、この人おかしい、とか、お金を出さなくても良いのに止めても勝手に男気を見せようとする、とか散々な言い方をしたんですよね
そこで中田敦彦は内装工事を全部する必要はないと、店の関係者を説き伏せて高級時計の売却を止めさせるんですけど
きっと宮迫博之は完璧な店にしたいという思いが強すぎたんです。だから傍から見ればバカみたいな男気を演出して店を盛り上げようと空回りしてしまったんです
もしかして今回のような抗議に屈してキャンセルしてしまう企業も同じなんじゃないかって思うんです
皆に愛される企業になろうとするあまり、一旦抗議を受け止めて考えるよりまず発売中止の行動をしちゃうんです
それは他の企業も同じで、政治的な思想に流されているんじゃなくてただ純粋に皆の為に愛される為にと思ってるだけかもしれないんです
中田敦彦は宮迫博之に大切な時計を売らないようにこう言い添えるんです
「”やっぱり”力ですよ」と
つまり「”やっぱり”やめた」「”やっぱり”考え直す」ように促したんです
サンリオのように抗議を受けた企業も”やっぱり”でしばらくして考え直したり、もっといい売り方を思いつくかもしれません。(例えば発言をヘンテコなものとして宣伝するとか)
「表現の自由を守る派」の人たちです
一度抗議に屈したら、今度は目の前の「表現の自由を守る派」の人たちが烈火の如く怒っている
その怒りの対象は自分らではなく抗議者側だと分かっていても、板挟みになった企業から見ればどう見えるんでしょうか?
自分らに味方する激しい怒りでも、これでは”やっぱり”踵を返すのも躊躇してしまうんじゃないでしょうか
だから「表現の自由を守る派」こそニコニコ明るくしなきゃいけないと僕は思うんです
1(https://anond.hatelabo.jp/20210828215226)のつづき
第九話では、トップジョイの正体と過去が明らかにされる。もともとダークスポーツ財団で「作られた」トップジョイは、ショックサーキットという枷を掛けられ、スパイ行為を「ほとんど」強制されていた。これまで意思を持ち、それを自由に行使できると思われていたロボットが、実はそうではなかったということが、ここで明らかになる。
もちろん、ショックサーキット自体は第一話の時点でマッハウインディに埋め込まれた形で登場している。ダークスポーツ財団がロボットたちに背反を許さないようにし、彼らの自由を奪っている事実は、物語の冒頭から提示されていた。
だが第九話から続くトップジョイの物語は、マッハウインディがショックサーキットに苦しみ、そして克服した第一話・第二話とは少し様子が異なる。マッハウインディが自らダークの元を去り、早々にショックサーキットを切除して完全にダークとの絆を絶ったのに対し、トップジョイはそこから第十三話まで、「自らの意思で」ダークとの関係を持ち続けているのである。
トップジョイが――シルバーキャッスルに好意を抱き、マグナムエースから手を差し伸べられていたにも関わらず――なぜ十三話までダークとの縁を切らなかったのかについては、明確な描写がなく、少々解釈が難しい。ここから先は憶測の比重が非常に大きくなるので、ご容赦いただきたい。
第九話で、トップジョイはフェアプレーを重んじるシルバーキャッスル、及びそれに共感する子どもたちを「理解できない」と言った。「ラフプレーをすれば客は喜ぶ」「客を喜ばせるのがアイアンリーガー」だと。
これは、シルバーキャッスルを内部から撹乱するというスパイ行為による言葉ではない。トップジョイの本心だ。彼は本心でラフプレーを正しい行為と捉えているのである。同じ本心で、第八話でキアイリュウケンとオーナーの絆に涙し、子どもたちと純粋に交流を楽しんでいる一方で。
同時に、九話ではトップジョイの過去と思いが垣間見える。「楽しむ」ことを大切にした結果、バスケットチームから放逐された過去。それでも忘れられない、バスケットリーガーである自分に向けられた観客の歓声。あの場所に戻りたいという思いが、トップジョイの根底にある。
彼がぎりぎりまでダークとの絆を絶てないでいたのには、この思いが大きいのではないだろうか。トップジョイがダークに従っているのは、ショックサーキットだけが理由ではない。もっと根底の、自分の存在そのものに関わる意思ーーあるいは、心ーーである。
これは完全に僕の推測であるが、第八話で示唆された「ロボットは、人間に役割を与えられ、それに相応しいように設計・プログラムされて生み出される」という事実を踏まえると、トップジョイのこの「意思(心)」もまた、ある程度製造者によってプログラムされたものではないだろうか。
作中で、ロボットの意思や思考、心が人間にプログラムされたものだという直接的な言及は(現状)ない。だが彼らが「注文に応じて製造される商品」としての一面を持つ以上、ロボットが人間の赤ん坊と同じようにまっさらな状態で納品されるとは思えない。彼らは製造された時点である程度の機体性能、そして知能と知識を有し、そこには人間の意向が相当程度反映されていると考えるのが自然である。
「トップジョイ」という名前であるがーー彼らがある程度完成された状態で世に出るとしたら、彼らの名前は、その機能・性能にちなんだものであるのだろう(もちろんまったく関係のない場合もあるかもしれないが)。ロボットの機能・性能は、つまりは製造者が彼らに込めた役割と期待である。「ジョイ」つまり「喜び」。彼は、人に「喜び」をもたらす存在としての役割を期待されたのではないか。故に、ああいった明るい性格に設定され、他者の喜びを自分の喜びとするような性格にプログラムされたのではないか。そして、そのプログラムされた心でラフプレーに喜ぶ観客たちを見て、それを自分の喜びとして、そして正しいこととして学習したのではないだろうか。
(製造された時点でラフプレーを正しい行為としてインプットされていた可能性もあるが、第九話のトップジョイの「教わった」という言い振り的に、その可能性は薄そうである。)
だが、その期待は裏目に出た。明るく楽しくを第一義とする性格はチームメイトの反感を買い、彼は本来活躍するはずだったバスケットコートに立つことができなくなった。その後、シルバーキャッスルにおいてはーー彼自身の純粋さから、本来のスパイという立場を越えて、彼らに好意を抱いているにも関わらずーー逆にラフプレーを許すことができないシルバーキャッスルの皆の心を理解できず、孤立してしまう。
そして、ダークから虐待を受けても、マグナムエースたちから手を差し伸べられても、本当に自分が望むことに気づきかけても、プログラムされた心で過去に学び、感じた喜びを忘れることができず、ダークとの繋がりを断つことができなかったのではないか。
人間の都合によってプログラムされた「心」によって、トップジョイは傷つき続けていたのではないか。
人間と全く同じように喜び、悲しみ、悩み、傷つく「心」を、人間の都合によって作り出すというこの世界の不気味さが、トップジョイによって突きつけられる。
そして、第十一話でのS-XXXの結末が、それを決定的にする。
S-XXXはこれまでのロボットたちとは違い、意思や感情の乏しい存在として描かれる。それは本来、僕たちが「ロボット」と聞いて思い浮かべるイメージに近い。
S-XXXはテンプレート的な「ロボット」として、命令だけを忠実に実行し、サッカーのフィールドで「戦争」を繰り広げた。そして最後は、マグナムエースによって破壊される。
第十一話では、これまでよりも明確にロボットが「商品」であることが語られる。S-XXXはアイアンソルジャーという「商品」として、敵を殲滅する者としての役割として与えられ、その破壊力を期待され、品定めされる。彼のロボット然とした意思や感情の薄さは、兵士として忠実に命令を実行することを求められ、そうプログラムされた結果なのではないだろうか。
しかし一方で、S-XXXは「敵を倒す」という目的に対し非合理的なシルバーキャッスルの行動に困惑し、動揺する。そして、マグナムエースの「新しい道」という言葉に、ほんの一瞬であるが、本来あるはずのなかった「迷い」を見せた。
S-XXXにも、心は存在した。
なぜS-XXXの製造者が「兵器」であるロボットに「心」が生まれるような知能を搭載したのか、その理由はよく分からない。スポーツ選手であるアイアンリーガーであれば、人間がある種のカタルシスを得るための機能として、人間と同じような心や感情を搭載する理由もある程度理解できるが、迷いが命取りとなる戦場に送り込む兵器に、それは不要のはずである。
もしかしたら「心」というものは、それは製造者の意図的なものではなく、自分で学習し、アップデートしていくことができるほど高度な知能には、逃れられない副産物なのかもしれない。
いずれにしても、例え人間にほとんどをプログラムされたものであったとしても、兵器であったS-XXXにさえ、心は存在した。そして僅かに、けれど確かに「新しい道」へと進む可能性があった。
にも関わらず、第十一話の商人たちは、彼を徹底的に「商品」として扱った。そしてS-XXX自身も、「戦場でない場所には存在不可能」と語っている。
ロボットは、人間によって役割を定義されている。そしてその役割を果たせなければ、彼らは自らの存在意義すら失いかねないのである。
この『アイアンリーガー』の世界に横たわる現実を受け止めるのに、相当な時間を要した。いや、実際まだ受け止められてはいないのかもしれない。人間は自らの都合によって、自分たちとほとんど変わらない心や感情を持つロボットを役割という枠に押し込めて生み出し、その存在をも人間の都合によって左右する。この神の模倣とも思える傲慢さに、幾たび怨嗟を吐いたかしれない。
一方で、自らの意志で生き、誇りを持って戦っているロボットたちを哀れみ、同情を寄せるようなことは、彼らに対する侮辱ではないかという思いもずっとあった。
僕の心は千々に乱れ、分裂し、二転三転し、自己矛盾に苦しむ日々が続いた。「ロボットがスポーツをする子ども向けのアニメ」を観てそんな感情に取り憑かれるなど、一体誰が予想できよう。
しかし、である。一通り憎悪と煩悶に身を投じた後に、ふと気づいたことがある。
ロボットたちが置かれた現実は、結局、僕たちの生きる現実と同じなのではないか、と。
僕が七転八倒している時、僕に『アイアンリーガー』を教えてくれた先達は、一つの問いを僕に投げかけた。「ならば、アイアンリーガーはどうなったら幸せなのか」と。
頭を殴られたような衝撃を受けたせいで、僕がその時どのように答えたのか、正確には記憶していない。「彼らが、やりたいことをやりたいようにやれる」のようなことを言ったような気がする。
月並みな言葉を振り絞りながら、僕はぼんやりと「どこかで聞いたような話だな」と思った。よくある話。人間の幸せを語るときに、よく言われるような言葉だと。
そして、僕の思考は再び振り出しへと戻った。『アイアンリーガー』に最初に感じた、違和感にも似て、それでいて温かかった感覚。人間とロボットが、同じ意志や心や感情を持つ存在として、同じように生きている世界。
第一話でマッハウインディはこう言った。俺たちロボットも「人間と同じなんだよ」と。
それはつまり、人間もまたロボットと同じであることを意味する。
この国で生まれれば(その実態はどうあれ)、僕たちは一応、自由意志(ここでは各種の哲学定義を無視して、単に「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」という意味で用いる。)を認められた存在である。
しかし、完全に自由な人間など存在しない。人間もまた、さまざまな制約の中で生きている。親、夫、妻、上司、部下、教師、学生、老人、若者、友人……そういった役割や立場を与えられ、家庭環境、ジェンダー、経済力、文化、時代、価値観……そんなあらゆる枠に押し込められながら、社会の中での「あるべき姿」「あるべき意志」を定義され、それに応える「社会人」に育てられてゆく。それは、人間、あるいは「社会」の要請で意思や心をプログラムされるロボットと、実はそう大差ないのではないか(語弊を恐れずに言えば、教育とは一種のプログラミングである)。
真に自分の望むように生きている人間などほとんどいない。皆、社会の中で折り合いをつけながら成長し、社会の中で生きている。そして、労働市場の中で自らの価値を計られ、自己の存在意義を証明し続けることを要求される。
(そうあるべき、と思っているのではない。ただ事実として、それが資本主義社会の一側面であることは否定できないとも僕は考えている。)
その姿は、役割を与えられ、商品として売買されるロボットに重なる。
もちろん、『アイアンリーガー』においてロボットたちが置かれている状況は、僕たち人間より深刻だ。彼らは自らの存在の前提として役割がある。役割がなければ彼らは存在し得ないし、その役割への期待に基づいてプログラムされた意志や心の拘束度は、人間のそれよりも遥かに強い。
しかし、あらゆる寓話がそうであるように、度合いが強いからといって、それが全く違うということにはならない。制約の中で、それでもなお自らの意志を貫き通そうとするロボットたちの姿に、僕たちは僕たちの姿を見るのである。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに書いてあったことだが、アンガス・テイラーという人は、フィリップ・K・ディックの書くアンドロイドについて(「機械的な行動パターンに侵された」、あるいは「内面的に阻害された」)人間の隠喩、象徴であると述べたそうだ。そして訳者の浅倉久志氏は、この作品の中に「人間とは何か?」というテーマに取り組んだとしている。『アイアンリーガー』も、それと似たような物語ではないかと、僕は思う。つまり、『アイアンリーガー』に登場するロボットたちもまた、僕たち「意志を持つモノ」、つまり人間の隠喩であり、『アイアンリーガー』は、「意志あるモノが自由を手に入れる」物語ではないかと。
こんなことを考えているうちに、僕は『BEASTARS』のことを思い出した。『BEASTARS』の登場「動物」も、姿形は動物のそれであるが、やはり人間と同じような意思や感情を持つ。彼らを通して描かれているのは、そういった心を持つモノたちのドラマだ。人間と同じ意思や感情を持つモノたちが、しかし肉食・草食動物それぞれの身体的特性、言い換えれば宿命という強制と制約を背負いながら、学校という一つの閉鎖社会の中で苦悩し、ぶつかり合い、時には折り合いをつけながら生きていく。負った宿命の中身や程度は違えど、そこに描かれているのは紛れもなく心を持つモノーーつまり僕たちの物語である。
と、このような書き方をしたが、あくまでこれは『アイアンリーガー』(や『BEASTARS』)という作品に僕たちが心を動かされる「絡繰」、結果論をそれっぽく言い募っているだけである。『アイアンリーガー』は(恐らく)寓話ではないし、アニメスタッフが彼らロボットを人間の象徴、あるいはその苦悩の投影先として選んだ、というのも(なんとなくだが)違うような気がする。正直、単にロボットが好きなだけな気がしてならない。
これについては、象徴や隠喩というよりも、同じく『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに引用されていた、次のような表現が相応しいように思う。(原典に当たっておらず申し訳ない。)
「ディックにおいて、人間とアンドロイドの生物学上の、あるいは自然科学上の区別は、まったく無意味である。(中略)ディックは、『アンドロイド』と『人間』の形式上の区別には関心がない。(中略)ディックの世界では、そもそも人間と機械、自然と人工といった単純な二分律は棄却されている」(『銀星倶楽部』12 後藤将之氏「フィリップ・K・ディックの社会思想」)
『アイアンリーガー』に描かれているロボットたちの生き様を語るのに、彼らが生み出された経緯や理由に潜む人間の驕慢さなどは、意味をなさない。彼らの前で、人間が自分たちと同じ心を持つモノを恣意的に生み出すという行為の是非を問うことは無意味である。いかに彼らのルーツに薄ら寒い人間の欲望が渦巻き、彼らの意志が人間によって指向性を持たされているとしても、それは彼らが「その」自らの意志で決断し、戦い、生きてゆく征途の輝きを何ら曇らせるものではない。
彼らは、ロボットとしての宿命を背負う自らの存在を呪うことはない。背負った宿命の中で、心を持つ故に葛藤に苛まれながらも、心を持つ故に抱いた意志で、自らの宿命を乗り越え、未来を切り開いていく。フェアプレーをしたい。スポーツをしたい。道を極めたい。この場所にいたい。君と一緒にいたい。たとえ世界がそれを許さなくとも、世界がそれを笑おうとも、自らの意志で在りたいように在る。その姿は僕たちと地続きのものだ。彼らはロボットであるから尊いのではない。僕らと同じであるから、眩しいのである。
科学的≠論理的ってことを分かってないアホがやたらと科学的思考とやらを誇りたがるのどうにかならんのかね
2021/06/18 【本当に安全?】コロナワクチンは危険だと思う理由【失敗小僧切り抜き】
https://www.youtube.com/watch?v=GHqTVIWYkjM
以下文字起こし
今回のコロナワクチンはですね、極めて特殊なモンだと僕は思う。
僕は、専門は機械設備のエンジニアで、医療とかワクチンの関係についてはド素人なんで、専門家でも何でも無いですよ。
何故かって言うとですね、あまりに短期間で急造で作りすぎたんですよ。
突然ですね、大量の発注が来て、大量にロットを制作するって時には、どうしても不良品は増えます。
もう一つ、その、急に、新しい新製品を流すときも、不良品は出ます。
そうすると、不良品の発生率が極めて高いと考えるのが、工場の生産ラインの設計をしていた専門家として言える。
つまりコロナワクチンには、実は不良品が結構入ってるんじゃないか?、という事をですね、僕なりに想像妄想憶測するわけ。
次に気になることがですね、今の日本のワクチンの製造基準ではですね、出来ないような短期間で作ったそうなんです。
って事は、日本の今の技術基準には合っていない、新製品の、異常なまでの大量生産したワクチンが、ドッと日本に入ってきて、それを日本人は打つという事になる。
しかも、得てしてですね、常連客でない人に対しては、基本的に粗悪品を回すというですね、生産現場の慣習があるんです。
これはですね、商売としての基本であって、どの会社でもやってます。
でも、やっぱこういう特殊なアレ(コロナ)だから、もしかしたらそんな事はしないで、全世界に均等に、同じ品質で、バラ撒いてる可能性もあるのかもしれないけれども、
https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/daigo-youtube
僕は生活保護の人たちに、なんだろう、お金を払うために税金を納めてるんじゃないからね。 生活保護の人に食わせる金があるんだったら猫を救ってほしいと僕は思うんで。生活保護の人が生きてても僕は別に得しないけどさ、猫は生きてれば得なんで
猫がさ、道端で伸びてたらかわいいもんだけど、ホームレスのおっさんがさ、伸びてるとさ、なんでこいつ我が物顔でダンボール引いて寝てんだろうなって思うもんね、うん。
別に猫ヘイトじゃないけど猫が特別扱いされてるのだけは我慢ならない
ホームレスの命はどうでもいいというなら、猫の命もどうでもいいだろ
僕は年寄りにお金を払うために税金を納めてるんじゃないからね。
年寄りを長生きさせる金があるんだったら子供を救って欲しいと僕は思うんで。
年寄りの人生きてても僕は別に得しないけどさ、子供は生きてれば得なんで。
子供が道端で伸びてたらかわいいもんだけど、年寄りが伸びてるとさ、なんでこいつ我が物顔でダンボール引いて寝てんだろうなって思うもんね。
子供の命と年寄りの命、年寄りの命の方が重いなんて全く思ってないからね。自分にとって必要ない命は軽いんで。だから年寄りの命はどうでもいい、どちらかっていうといない方がよくない?年寄りって、言っちゃ悪いけど、いない方がよくない?
みんな確かに命は大事って思ってるよ、人権もあるから一応形上大事ですよ、でもいない方がよくない?正直。
あの動画では話の流れで発言の対象がホームレスや生活保護受給者といった社会的弱者になったから反感を買っているのであって
彼の発言の趣旨であろう「自分にとってどうでもいい命がある」という考え自体は多くの人が持っている普通の感覚なんですよね
ということで彼の発言を当たり障りの無いように社会的弱者から社会的強者に置き換えてみましょう
僕はビル・ゲイツに、なんだろう、お金を払うために税金を納めてるんじゃないからね。
猫がさ、道端で伸びてたらかわいいもんだけど、ドナルド・トランプのおっさんがさ、伸びてるとさ、なんでこいつ我が物顔でダンボール引いて寝てんだろうなって思うもんね、うん。
「自分にとって必要のない命は、僕にとって軽いんで。だからホリエモンの命はどうでもいい。
どちらかというと、みんな思わない?どちらかというといない方がよくないホリエモンって?
言っちゃ悪いけど、本当に言っちゃ悪いこといいますけど、いない方がよくない?」
「いない方がだってさ、みんな確かに命は大事って思ってるよ、人権もあるから、一応形上大事ですよ、でもいない方がよくない?正直。
邪魔だしさ、プラスになんないしさ、臭いしさ、ねぇ。治安悪くなるしさ、いない方がいいじゃん。
猫はでもかわいいじゃん、って思うけどね、僕はね」
※なおこの改変文章は「こういう考え方の人もいるだろう」という話であり
私自身がこのような思想や意見を持っているということではありません
書き起こし引用元
「僕は生活保護の人たちにお金を払うために税金を納めてるんじゃないからね。
生活保護の人に食わせる金があるんだったら猫を救って欲しいと僕は思うんで。
生活保護の人生きてても僕は別に得しないけどさ、猫は生きてれば得なんで。
猫が道端で伸びてたらかわいいもんだけど、ホームレスのおっさんが伸びてるとさ、なんでこいつ我が物顔でダンボール引いて寝てんだろうなって思うもんね。
人間の命と猫の命、人間の命の方が重いなんて全く思ってないからね。自分にとって必要ない命は軽いんで。だからホームレスの命はどうでもいい、どちらかっていうといない方がよくない?ホームレスって、言っちゃ悪いけど、いない方がよくない?
みんな確かに命は大事って思ってるよ、人権もあるから一応形上大事ですよ、でもいない方がよくない?正直。
邪魔だしさ、プラスになんないしさ、臭いしさ、ねぇ、治安悪くなるしさ、いない方がいいじゃん。 猫はでもかわいいじゃんって思うけどね僕はね。
もともと人間は自分たちの群れにそぐわない、社会にそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きてるんですよ。犯罪者殺すのだって同じですよ。犯罪者が社会にいるのは問題だしみんなに害があるでしょ、だから殺すんですよ、同じですよ」
https://mala.hateblo.jp/entry/2011/12/14/121139
個人的に銘文だと思っているmala氏の「はてな使ったら負けかなと思っている2011」が書かれてからおよそ10年が経った。
たしか当時はネットが危険な場所から健全な場所へとイメージが変わりつつある頃だったと記憶している。
はてなも湿っぽいイメージのはてなダイアリー(個人の感想です)から明るい陽キャのはてなブログへと転換を図り、その5年後には上場を果たす。
石の下でグネグネしていたネット諸氏は、少しづつ陽の光が当たり始めた場所に居心地の悪さを感じ始めていたのではないだろうか。
自身も石の下の一匹であった僕もまた居心地の悪さを感じた一人であり、mala氏の文章の文末に吐き捨てるかのように書かれた『大多数の人にとってインターネットは安全なものであり続けている。すべての人々が、ネットを通じたトラブルや揉め事に巻き込まれますように。』に喰らってしまった。
mala氏の呪詛が通じたのかは分からないが、多くの人にとってインターネットがより安全な場所になりつつある今、所謂「ネットを通じたトラブルや揉め事に巻き込まれた」人もまた少なくない。
毎日ネットで誰かが誰かに噛み付いており、モニターから飛び出して直に人間を殴りに行く者までいる。
ツイッターではしょっちゅう訴訟が起こされたり、訴訟をするぞと脅したり、訴訟を失敗して笑われたりしている。(10年前の皆さんはこんなにも訴訟が身近になると思っただろうか?)
気がつけばネット越しにお財布からお金を盗まれていて、誰かが炎上して辞職するニュースを見ながら振り返ると、後ろでは自ら火の中に飛び込むYouTuberがいる。
ネット炎上に(無自覚も含め)加害者として加担する人を含めればほぼ「すべての人々が」巻き込まれていると言って差し支えないだろう。
いい時代になった。
しかしそんなリスキーな時代なのにも関わらず、個人の匿名性はほぼなくなりつつある。
ここで言う匿名性とは、セキュリティ的なあれこれではなく「アバターと個人を切り離す」行為のことだ。
少し前、SNSがインフラ的な役割を担うようになった頃、多くの人がネット上の影響力や人間関係などが資産的な価値を持つと考え始めた。
実際、これらはリアルな金銭的な価値や、承認欲求を満たすアイテムとして、非常に高いレートで取引でき、将来性まである事がわかってしまった。
これらの資産を現実に持ってくるには、もちろんネット上のアバターと現実の個人を紐付けなければいけない。
普段は大事にしまっていて時折箱を覗いて満足する、そんな昔の玩具に法外な買取価格が付くかもしれないのだ。
ネット上の分人と現実世界の個人が紐付けば、ネット上のいざこざは現実世界に流れ込んできてしまうのは当たり前なのだが、それに直面したのは数年後。
そんな感じで、僕たちは貴重な匿名性を自ら放棄してお金とか自尊心だとか、まあそれ以外にも色々と便利なサービスを甘受して満足して暮らしましたとさ。
そんなわけで、おわかりだろうか、はてな匿名ダイアリーは数少ない残された大地である。
僕は文学に詳しくは無いし、文学のカテゴライズにはもっと詳しくない。
しかしぼくがかんがえるさいきょうのネット文学的な想いはぼんやりとある。
一番の条件は、書いた人が現実の人に紐つかないということだ。
誰かに結びついてしまえばもうそれはネット文学でなく、その人の文章になってしまう、そんな気がする。
誰が書いたのかがあやふやな文章、知っている人が読めば一発で属性が特定できそうな個性豊かな文章にもかかわらず、著者を知っている人は絶対読むことが無いであろう場所にひっそりと書かれており、物知りなネットの知り合いからリンクで送られてきたそれを開くと、改行や句読点の位置はまるでデタラメ、熱量だけで押し切られた5万字にも及ぶ文章は文句なく面白く「しかしこの文章読みにくいなー」「段落くらい分けろや」と文句を言いながらも一気に読み切ってしまう。
締切が近い仕事で深夜にシコシコと作業をしている時に、何の予告もなく突然そんな文章と出会い頭に衝突して朝まで全然仕事にならない、そんなのが理想のネット文学との出会いである。
昔はそんな文章にぶつかる事が多々あった。
テキストサイトという名の万国博覧会、ブログブームの中で一般の日記に交じる電波日記・怪文章、エログロナンセンス絶望の世界、2ちゃんねるのコピペ、そいういった無数の砂の中から時折砂金のような文章が落ちていたりした。
多くの文章は一期一会で、心と記憶に余韻を残しつつまた砂の中に消えていった。
いやいや昔話はやめよう。
ネット文学が現実と紐ついてほしくないというのは僕だけだろうか。
もちろん、ネット上の優れた才能が現実に結びついて報酬を得られるのは喜ばしいことだ。
しかしそのサイクルが非常に早く、システム化され、なんなら最初から最後までの筋道が出来てしまっている事が多い今日では、現実と紐つかない文章にこそネット文学としての煌めきがあると僕は思う。
ネットと現実の結びつきがより強固になった今、ネットでしか読めない文章、ネットでしか評価されない(あるいは評価もされない)文章というものはこの先ますます読めなくなってくる。
「ジョブ型雇用」導入すれば、係長にもなれない人が続出する:日経ビジネス電子版
でもね、欧米のジョブディスクリプションを見れば、実際にはもう細かいタスクなんて書いてない。昔はタスクが書いてあって、このタスクをやれば帰れるという仕組みだったけど、今はそうじゃない。周囲の仕事も手伝うとか、規定にない場合は上司の判断に委ねるとか、書いてあるんですよ。で、もう明確に規定などできなくなっている。その結果、何が起きているか。
今度は人事コンサルタントがそれを見て、タスクではなく、責任とか理念とか職責とかが書いてある、いわゆる「グーグル型」に変えようみたいなことを言っているわけです。それって日本の職責グレードとか役割給とあんまり変わらないじゃないと僕は思うんですね。
昔、大英帝国がインド統治したとき、官位と職位(役職)を併記したのを思い出した。今の南アジア全般がそう。短期的な成果の評価と長期的な経験をパラレルに扱うメカニズムがあるといいのだろう。
フジテレビが鬼滅の刃(一期)の製作に関わることを断っていたという記事が投稿されて
はてブでも「だからフジテレビは駄目なんだ」と例の如くパプリックエネミーFNNを叩いて勢に浸る遊びが開催されていた。
でも2019年の春クールにフジテレビで放送されていたアニメってワンピ、DB以外だと「ゲゲゲの鬼太郎」と「さらざんまい」なんだよ、覚えてるか?
無期限の長期放送に入ってるワンピDBと定期的にリブートすることが伝統と化しているゲゲゲを除けばフジに空いている枠はノイタミナしかない。
そのひと枠に天下のジャンプ連載の勧善懲悪ヒーローアクションものを蹴って幾原邦彦のオリジナル企画を選ぶというこの選択かなりぶっ飛んでるし、
プロデューサーより上にある程度理念みたいなものがないとやっぱできない気がする。
ウテナもうっすらそういうテイストあるけど、ピンドラから始まる21世紀の幾原邦彦作品って「規範に潰される若者」の物語なんだわさ。
「長男だから」とか「強くならなきゃ」とか「先輩だから」とか「欲しがるばかりの奴は」って言葉ですり潰されそうな奴らが物語の中心にいる。
マクロ視点での善悪を否定し登場人物個人のミクロな感情を肯定していく。そして最終的にそういう奴らが互いを理解し融和していくことで救済される。
例えるならサイコロ先輩のジレンマとか獪岳の苦悩に目一杯フォーカスを当てて、
彼らを「そうだよね君らにだって少しも慈愛がないわけじゃないし、不真面目なわけでもなかったんだ」って抱擁するのが幾原作品の世界観だと僕は思う。
ネットにおけるフジテレビは雑に言って「体育会系のノリでコミュニケーション弱者を嘲笑う文化を持っている」「軽薄で流行りに乗っかるしか能がない」というイメージで取り扱われている。
が、しかしノイタミナは「連ドラのようにカジュアルに楽しめるアニメを」というマイルドヤンキーに向けた方向性を打ち出しながらも、
出版社等業界の力学やオタクカルチャー(ゲームマンガラノベ等)のトレンドに左右されず、独自の指針に沿って型にはまらない企画を発表し続けてきた。
だからこそオリジナルの企画も多く、ただの深夜のアニメ枠でしかない「ノイタミナ」がブランドとしての意味合いを帯びてきたのだ。
視聴者と変わらない普通な現代社会で生きる、エリートでなければ超人的な能力も持たない平凡な人間の叙情を主題にした「あの花」は、
「とらドラ」でその萌芽を見せていた超平和バスターズのスタイルを完成させたとともに、アニメで純粋なヒューマンドラマを展開するエポックメイキングになった。
「PSYCHO-PASS」は倫理観が倒錯する未来をハードボイルド調に描いたディストピアサイバーパンクの秀作として10年代を象徴する一作となった。
四畳半神話体系、ピンポン、つり球といったメディアミックス作品ではなかなかお目にかかれない斬新な映像表現を打ち出した(それでいてストーリー構成にもそつがない)作品もなかなか実現は難しかっただろうしノイタミナでなければあそこまで好意的に受け取られただろうか?と思う。
「冴えカノ」や「DIVE!」のような「ラブコメ」や「スポ根」モノでさえ少年誌やライトノベルのテンションから一歩引いたような独特なオフビート感がある。
これもノイタミナというフレームの影響にあると思うのは考えすぎだろうか?
個人的に次期の「2.43」がハイキューとどう差別化を図ってくるかにすごく興味が湧いているし、実のところ「ノイタミナで放送されているアニメ」然とした物が見られることを僕は既に期待してしまっている。
ノイタミナはなんとなくだが、社会から弾かれた者や、秀でた物がなくうだうだする若者に優しい作品が多い気がする。無邪気なラブコメやヒーロー物を避け続けた結果なのだろうけど、そこが僕にとっては安心材料になりつつあるのだ。
話を戻すとして、
まずフジが鬼滅の刃を断った背景として、近い時期にジャンプアニメの放送が集中していたことが大きかったのではないだろうか?
周知の通りワンピDBを放送しつつ、更に19年冬にはネバラン(一期)を放送していたので、19年春に鬼滅ということになると流石にジャンプのコンテンツに偏りすぎるのではと危惧されたということがあり得なくもない。
「日和見主義ゆえ、鬼滅の奇抜な作風やグロテスクな描写に拒否反応を示した」というような粗雑なコメントがニュース記事では散見されたが、ノイタミナでは過去に鬼滅の刃と同系統の「甲鉄城のカバネリ」の製作に積極的に関わっていた。故にジャンプに掲載される程度にはマイルドなこの作品を渋る理由としては考え辛いのではないだろうか。
キャロル&チューズデイの存在をすっかり忘れていたことに気がついた。キャロル&チューズデイは19年4月から9月までの2クール放送されていて、鬼滅と丸被りしているので、邪推するならばこの代わりに鬼滅の刃が放送されていたかもしれない。
まあとどのつまりそんなことどうでもいいんだけどね。
ああいう未熟者が成長して真っ当に何者かになろうとする話は気持ちいいよね。
キャロル&チューズデイはアニメの中でも一際丁寧な作品だったと思う。音楽のこだわりもそうだし、渡辺信一郎さんといえばといった感じのスペースオペラ調のロマンに溢れた雰囲気も流石だなあといった感じだった。
まあこれは観るの中断してそのままになってるからあんまりわかったようなこといいたくないけどね。
実のところ+Ultraの存在自体すっぽり忘れてたんだけど(Great PretenderとかBeastarsみてたのに)、ケモノ物やわりかしハードなSF物とかそういうのが多くて、ノイタミナとはまた違った形で硬派の作品を増やしていく感じがして面白いと思う。
anond:20201008200533 anond:20201009122304 anond:20201009122752
に続いて備忘録として2017年に見ていたアニメのタイトルを簡単な感想と一緒に50音順に書き記してみたい。書き切れなかった分はanond:20201011104010に続く。
谷口悟朗監督と黒田洋介氏の名コンビが送る少し変わり種のロボットアニメ。人間がロボットに乗るのではなく、人間の精神をロボットに転送させるタイプの作品。主人公イドさんの名前はID-0から来ている。
「宇宙空間で音が出ない」とか、いかにもSF作品っぽい描写が面白かった。 興津和幸さんと緑川光さんと子安武人さんが一つの人間の肉体を奪い合ったり、終盤は声優さん的に徐々に奇妙な冒険が起きそうだった。
鉄腕アトムの前日譚的な作品のアニメ化作品。若い頃の天馬博士とお茶の水博士が一緒にロボットを作ってロボットを戦わせる大会に参加させる話だったと思う。A106という主役機が後のアトムの原型になったんだろうか。
話は中途半端な所で終わった気がするけど「鉄腕アトムの過去に実はこういう事があったんだよ」という話ならむしろこの先どうなるのか気になるくらいの場所で終わって良かったのかもしれない。
甘酸っぱい恋愛物。これぞ鈴村健一さんの本骨頂!というくらい主人公のキャラクターに鈴村さんの声と演技がハマっていた事を今でもとてもよく覚えている。声優さんが歌う爽やかな主題歌も良い感じですよ。
ライトノベル作家達が集まってだらだらとテーブルゲームを遊んでいるようなそんな作品だった気がする。ゆったりと落ち着いた気分で見れるので好きだった。
もし自分が書いたライトノベルが適当にアニメ化されたらどうする?というメタ的な話にはこんな事ラノベ原作アニメで言っていいのかな…と驚かされた。
直球なタイトルに惹かれて見始めた。俺の妹がこんなに可愛いわけがないのコンビが手掛けるライトノベルのアニメ化作品なんだとか。タイトル通り少しはエッチな要素があった事が嬉しかった記憶がある。
EDで跳ねる妹ちゃんが可愛かった。結構人気はありそうに思った二期はまだなんだろうか?前作の実妹ヒロインが不評だったのか今作は義妹ヒロインだった。主人公がラノベ作家なので妹さえいればいい。と少し被ってると思ってた。
前作から2年近く経っての二期。少しブームが過ぎている気がしたけど、それでも人気はあったらしい。実松さんとか暗いけど好きだったなぁ。
ネットでは二期の内容は一期に比べて不評のような印象があるけど、個人的にはカラ松いじめなどが少なくなった分一期より見易かったような記憶がある。もう3~4年前のアニメという事で内容は殆ど覚えていない事が悲しい。
鬼平犯科帳のアニメ化作品らしい。主人公長谷川平蔵さんの声が堀内賢雄さんという事で、僕の中で少しジョーカー・ゲームと被った。どちらも渋くて内容的に大人向けな所は似ていると思う。
ED主題歌は「これは本当にTVアニメの曲だろうか?」と疑問に思うほど渋い雰囲気の歌謡曲だった。お話はほろりと泣ける人情話もあれば、後味の悪い暗い話もあった気がする。何となくご年配の方にも人気がある印象がある。
大人気ライトノベルキノの旅のTVアニメ第二作。悠木碧さんは本当にボーイッシュなキャラの演技が上手いなぁと唸らされる。内容はほぼ原作から抜粋したエピソードをアニメ化出来ていると言っても良いんだろうか?
OPがサビで「キノの旅」という単語を歌っている事にはニヤリとさせられた。キノの旅の原作小説についてはあまり詳しくないけれど、「アニメなあとがきの国」という話にはよくやってくれたなぁと感心させられた。
主題歌がもうビックリするくらい良い曲で驚いたアニメ。ミステリーボニータという秋田書店の少女漫画雑誌で連載されている漫画が原作らしい。キャラクターデザインも可愛らしくて好きだった。
話は原作が未完という事で尻切れトンボな感じで一旦終わってしまった。原作が完結した際にはもう一度アニメ化されるのだろうか?素直にアニメの続きが知りたければ原作漫画を買った方が良いのかもしれない。
これは絶対エッチなアニメに違いない!と思い続けて見続けたけど、1話以外はそこまでエッチでもないまま終わってしまったような印象があるアニメ。どちらかといえばドロドロした四角関係がメインの作品?
あくまで個人的な好みの話だけれど、主人公が内心惚れている鳴海お兄ちゃんという眼鏡のお兄ちゃんが僕のドストライクなキャラだった。これで声が野島健児さんなんだから本当に堪らない。ああいうキャラ好きなんだよなぁ、と思う。
ゲーマー達が集まって自分の価値観をぶつけ合うような作品だった気がする。主人公の声が潘めぐみさんだった事に驚いた。最近女性声優が男子高校生の声を担当する事が少ないような気がしているけど、気のせいかもしれない。
ゲームの話もしていたけどこれも「誰が誰を好きなのか」という話で結構ドロドロとしていた気がする。ゲームについて熱く語り合える友人が居る人は本当に幸せだと思う。
大人気アニメの続編。1期の監督だった松本理恵さんはEDの絵コンテと演出を担当していたけどこれまたお洒落で良い感じだった。鈴村健一さんと坂本真綾さんがとあるエピソードで共演されていた事が印象深い。
1期でアニメ化されなかったエピソードなども含めて原作を最後までアニメ化してくれた事はファンとして嬉しかった。原作ストックが溜まればすぐにでも三期をやるんだろうなぁという気がしている。とある執事の電撃作戦の回が特に好き。
本放送時は1話で脱落して、その後再放送で改めて見たところやっぱり評判通り面白いなぁと思った。
田村睦心さんのボーイッシュな女性役って本当に良いなぁ…と思ったアニメ。面白いとは思ったけど世界規模で尋常ではない高い人気を誇ると聞いてビックリした。
魅力的なキャラクター達が出てくるのでその中で二人でも好きになればそのまま最後まで楽しめる作品だと思った。滝谷くんとファフニールさんとかいかにも女性ファン受けが良さそう。女性陣も皆可愛い。
最遊記って今でもアニメやってるのか凄いな…と思った作品。声優さん達も幻想魔伝 最遊記の頃からお変わりなく嬉しかった。このアニメも主題歌が本当に良いんですよ、GRANRODEOもラックライフも曲がカッコ良くて素敵。
クロムクロのP.A.WORKS製作という事で見てみたら意外と面白くてハマったアニメ。都会で就活に失敗した女の子が田舎で観光大使として村興しを頑張るような話だった気がする。
主題歌がOPもEDも本当に良い曲でそれでこのアニメを見続けようと思った覚えがある。P.A.WORKS作品らしくキャラクターが可愛かったのも非常にGood。色んな人の悩みが徐々に解決していくお話も面白かったと思う。
最終回で綺麗に纏まったのできっと続編は作られないだろうけど、それでもその後の話が見てみたいなぁとも思うそんな作品。好きでした。ところでサンダルさんって何か意味ありげな外人さんは結局何だったんだろう…。
かのスタン・リー氏も関わるアメコミ作品っぽい雰囲気のアニメ。劇中歌の「SKY SHOW」が本当に良い曲なので、この曲聴きたさに見ていた所もあったと思う。
謎めいた主人公の正体とその能力が明かされた時はなるほどなぁ、そりゃ強いよなぁ…と思った。いかにも続編がありそうな中途半端な終わり方だったけど、きっといつか続編が作られるんじゃないかな…とこっそり思っている。
西尾維新先生の小説がアニメ化した作品。十二支をモチーフにした戦士達がたった一つどんな事でも願いを叶えてもらう権利をかけて戦うバトルロワイアル物。内容も主題歌も厨二心にビンビン響く感じで好きだった。
勘が良い人は2話くらいにはこの先どの戦士がどの順番で脱落するのか察せられたと思う。誰が脱落するか予め分かっていても「こんなに強い奴がどうやって脱落するんだろう?」と先が読めない展開でとても面白かった。
最近のアニメにもかかわらずベテランの西村朋紘さんがレギュラーで出演されているのが珍しいと放送当時思っていた。バトルロワイアルの後日談を描いた最終話はそれだけで一本の短編作品としても楽しめる内容だったと思う。
史上最年少で将軍となった少年マフムート・パシャが勢力を拡大する帝国と戦うために様々な国へ赴き協力を取り付けようと頑張るアニメ。トルコなどでは将軍の事を「パシャ」と呼ぶ事をこのアニメで初めて知りました。
アルスラーン戦記のようなアニメに飢えていた時に出会い勿論こちらにもドハマリした作品。漫画の連載は荒川弘版アルスラーン戦記よりこちらの方が早かったらしい。中東っぽい雰囲気のアニメが2年連続で楽しめて嬉しかった。
名探偵コナン以外のTVアニメで緒方賢一さんの声が聴けたのが珍しいなと思った。原作が連載中なのでアニメも良い所で終わってしまったけれど、その内続編は作られるのだろうか。一期のEDが曲も絵もとても美しく優雅だった。
爆発的なヒットを記録した大人気アニメの二期。前作から四年も経ってるし流石にブームも去ったんじゃないだろうかと思っていたらそんな事は無くやっぱり大人気だった作品。現在四期の製作も決まっている。
この二期が放送される前にNHKで一期の総集編である劇場版を放送していた気がする。そのお陰で一期を見ていなかった僕でもすんなりとお話を理解出来た。アクションもカッコ良く流石大ヒットしただけあって面白いアニメだと思う。
オリジナル恋愛アニメ。この手の作品って主役の二人が恋仲になるまで時間がかかるんだよなぁ…と思って見ていたら何と2話くらいにはもうお互いが好き好きオーラを出しまくっててビックリした作品。告白までもあっと言う間だった。
すぐにくっ付いてじゃあここから先はこの二人のイチャイチャが見られるんだな!と思ったら、この二人がクラスの人気者二人にそれぞれ想いを寄せられていて恋仲を引き裂かれたり略奪されるんじゃないか…と最後までひやひやしていた。
主役の男の子に横恋慕していた子は主役の女の子の友達で、人の持っている物を悪気なく欲しがるあると公式で言われているのが本当に怖かった。最悪振られた腹いせにいじめに発展するんじゃないかと本気で心配だった。
かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜の藤原書記役で大人気の小原好美さんはこの作品くらいから名前をよく見るようになった気がする。魔法陣グルグルのククリもそうだけどキャラに声がハマっていたと思う。
亜人の佐藤さんが出てくるアニメ。亜人ちゃんと書いてデミちゃんと読む事に中々慣れなかった。モン娘アニメかと思ってエッチな要素に期待しながら見たら、心優しい先生と悩みを抱えた女子高生の心の交流がメインの作品だった。
この作品の数少ない露骨なエッチ要素はやはり亜人の佐藤さんだと思う。このアニメをそういう目で見るのは間違っているような気もする。それでも亜人の佐藤さんの白水着は素直にエロかったと言いたいです。
確か小学生の女の子達がバンドで演奏しているアニメだったと思う。大川透さんが出演されていて意外に感じた覚えがある。内容はよく覚えていないけど最後まで楽しんで見ていた記憶はある作品。
個人的に2017年で一番楽しんで見ていた作品。人型ロボットに変形する機能のある大型車両に乗った小学生達が数々の災害に巻き込まれた人達を力を合わせて救助していく作品。合言葉は「ゴー、レスキュー!」
初めの内はロボットアニメなのに敵らしい敵が居らず主人公が毎回災害現場で救助活動ばかりしている事を退屈に思っていたけれど、見続けている内にそれこそドライブヘッドの良さだと思うようになった。今でも大好きな作品。
番組の中盤から敵役が現れるようになり終盤敵ロボットとの激しい戦いが繰り広げられた。番組が始まった時は戦闘を望んでいた筈なのに、作風に慣れてからは戦いより人助けのお話の方を見たいと思うようになっていたのが不思議。
このアニメに登場するヒロイン石野ミコトちゃんはホビーアニメ作品に登場する少女の中でもトップクラスの可愛さだと僕は思っている。あの大ヒットアニメシンカリオンの前番組だけど影は薄い気がする。映画では共演していたけど。
異世界ファンタジーロボットアニメ。交通事故で亡くなったロボット大好きエリートプログラマーがロボットが存在する異世界に転生して自分好みのロボットを作りまくるというお話。ロボアニメファンからの評価がとても高かった印象が残る。
型落ちの旧式機で巨大な魔獣を倒すという偉業を成し遂げた主人公・エル君はガンダムで例えると旧ザクでνガンダムやサザビーを倒したような物という例えを放送当時聞いた気がする。あのジャイアントキリングは本当に燃えました。
番組の終盤でOPがSE入りになるなど過去のロボットアニメへのオマージュもあった気がする。原作ファンからは駆け足過ぎて原作の良さを活かせてないと言われていた気がする。それでもアニメだけでも楽しめる内容だったと思う。
主人公エル君が生まれ育ったフレメヴィーラ王国がエル君の発明もあってあまりに強すぎたせいで敵役のジャロウデク王国が一方にボコボコにされて良い所無しだったのは敵ながら可哀想と思った覚えがある。圧勝ではないかエル君は。
女性向けミステリーアニメ?かと思ったら謎が解明するパートにあっと驚く展開にビックリした作品。菊地秀行先生のエイリアンシリーズや皆川亮二先生のスプリガンに近い物を感じて楽しかった。主題歌もカッコ良く今でも覚えてます。
何だか雰囲気が暗いし面白いのか分からないけどとりあえず謎が明かされるまで見てみよう…と思いながら見ていたけど、途中で見るのを止めなくて本当に良かったと思うくらい面白かった。トンデモ伝奇ミステリー。
Fateシリーズ外伝小説のアニメ化作品。何人かのサーヴァントはこのアニメが放送される前にFGOへ参戦していたのでそこからこのアニメに触れてキャラの性格にギャップを感じた人も居たらしい。
僕は原作の1巻を読んでいたけど、アニメは小説から変更されている所も結構あるなと思った。それでも大まかな流れは原作通りらしい。1巻から先の展開を知らないので新鮮な気持ちで楽しめた。
よくufotable版のFateと作画を比較されて叩かれていたけど、英霊達の超人染みた身体能力はケレン味のある描写で表現出来ていたんじゃないかと思う。批判も多かったけど最後まで楽しめたので個人的には中々好きなアニメ。
武装した女の子達が牛耳る学園に武術の達人である男の子が転向してきて一波乱起こるという話だった気がする。メインヒロインっぽい仮面付けた女の子が可愛かった記憶がある。盲目の子も居た気がする。
週刊少年ジャンプで連載中の少年漫画をTVアニメ化した作品。放送開始がもう3年も前とか信じがたいけどこれまで主題歌が変わった回数を冷静に考えればそんな物なんだろうな…という気もする。時間が経つのが早くて怖い。
魔法が存在する世界で落ちこぼれの主人公とその親友の天才が国で一番偉い魔法使いを目指して頑張るお話。一昔前で言う所のNARUTO的な作品だと思う。個人的に好きな主題歌が多い所もNARUTOに似ている。
作画について鬼滅の刃などと比較されて馬鹿にされている所を見るけど、分割せずに何年も放送し続けるアニメの作画はこんな物だと僕は思う。時々際立って作画が良い回があってファンを喜ばせるのもジャンプアニメっぽい。
ちょっと適当なこと言いますね。別に読めないなら読まなくて良いですが。
最近、□□□□先生が□□□□□を隠れ蓑にして逃げた先で、□□□□□の制作に携わったんじゃないかと僕は思うんですが。皆さんどう思いますか?
そうでなくてもあの作品、□□□□先生への忖度なり擁護なりの目的で作ったんだと思うんですよね。それか□□□□自体のイメージ払拭。
例えば、あの作品に出てくる□□□要素。中盤に出てくる□□□要素。そして、そもそもの世界観。
ああいう要素って□□□□先生、めっちゃ大好きじゃないですか。それも最終的に□□□□それ自体を改善するわけじゃない。根本的な問題には触れない。
善や悪についてもそう。あの世界観は□□□□自体が悪みたいに見せかけておいて、なのに最後は□□□□自体にも忖度する。自己弁護。じゃあ本当に問題なのは何だったの?という事を絶妙にぼかしてる。そりゃ勿論□□□□□全員に決まってる。
ってか、そもそも□□□□□という用語それ自体が□□じゃん?そりゃ元は□□なんだろうさ?でも実質的には□□じゃん。歴史的経緯を踏まえて□□□□□という事にはなってるけど、そんなん後付けみたいなもんじゃん。いつだって、あの先生はそう。
そして各キャラの人間性。あれも何なの?そりゃ最後には□□□□もね、どうにかなったよ?でもそれって嘘みたいなもんじゃん。それじゃあ今まで有った□□の描写は一体全体なんだったの?バカなの?死ぬの?いや無いわ……。あれこそまさに感動ポルノだね。全部□□。まあ先生曰く、この□□は□□□□らしいですからね。そういう思想が、にじみ出てるんじゃないんですぁね?
大体、あの中盤から出てきた□□だって都合が良すぎる。ああいうの先生やっぱ大好きだもんね?□□□とか、□□□□□とか、ああいう□□なの。そういえば□□□□□も□□□□□されそうになったんだっけ?ついでに言うと、アレだけが他と際立って異質。まあギリギリ□□□も含めれば違うかもですけど?でも□□□の異質さが出るのは終盤じゃんね。僕からすれば、あれは一種の差別みたいなもんだと思うんですよね。
まあ他にも色々と言いたいお気持ちは有るんですけどね。これくらいにしておきますね。
□内には好きな文字を入れてね!
キモくて金のないおっさん、kkoとも言われるが、彼らは救いが与えられないこと、救いを与えられうるものとして自身らが社会的に認知されていないことに対して不平や嘆きの声を上げる。
しかし彼らは救われるべきか?
社会的にゴミだから野垂れ死ねばいいとか、そういう暴論で〆るつもりはない。
努力してもしなくても苦しくない人は沢山いる。努力しなかったから今苦しい目に遭っている、などという因果関係を人間の否定に安易に使っていいなんて、疑いなく言える時代は終わりつつある。
ではどのように考えようか。
僕の人間救われ論では、ある程度の理由を持って不幸である人間は、その理由がどれだけ自分に帰責されるかによらず、理由なく救われることはないと思っている。
だから、キモくて金のないおっさんが理由なく救われる(社会の視点が変わって、彼らに優しくなるなど)ことはないと思っているし、そんな世界であるべきだとも思わない。
だから、キモくて金のないおっさん側の変化が必要であると思う。
一つに、キモくて金のないおっさんは、キモくなくて金があれば幸せになれるのかということから疑いたい。
おそらく、最も穏当な結論は「一概に言えない」だろう。
幸せになる奴もいる、でもなれない奴もいる。
そいつにとっての幸せがどういうものなのか、そいつが関わってる仕事、業界、趣味の世界、または家族、同僚、趣味仲間、友人などがどういうものなのか、などで、幸せになれるかどうかが変わってくるだろう。
「金より容貌よりも、性質の良さや他者への配慮、感謝、愛があれば…」なんていう″諭し″には、なるほど唾を吐きたくなるかもしれない。
さっきの「一概に言えない」は、この文脈でも効いてくるからだ。
だが、現状において容貌も金も手に入らないなら、その路線でやっていくのがヘルシーであると言わざるを得ない。
金を使わずに人に大切にしてもらうためには、人の良さか面白さを身につけることが妥当な、もしくは堅実な道だと僕は思う。
ただ面白さは難しい。人を不快にする、モラルに反する、人間性を疑われる落とし穴がそこかしこにある。
勿論スベることも想定に入れるべきだ。
一方で人の良さは、個人に、過度に、攻撃的にやらなければ、おおかた何とかなることが多い。
コンビニやスーパーで目を見てお礼を言う、ゴミの分別をしっかりして時間通りに出す、会社の人間に横柄な態度を取らない。
このくらいなら、あまり顰蹙を買うこともないし、人の目にとまれば良い印象を持たれる可能性が高いだろう。
偽善者だとか、キモくて金ない奴がそんなことやったっていい気持ちにならないんじゃとか、そういうことを言う輩もいるかもしれないが、そいつらも大抵不幸だからほっといていい。
もっと言えば、人や自分を属性で結んで、その属性で人を叩いたり蔑んだりしないこともやるといい。
それだけでも、「人間を安易に区別して良し悪しを判断することで自分を慰めている貧しい人」ではないんですよ、とアピールできたりする。
難しいけどね。口では「差別する気はないのよ?」とか言ってるけどバリバリ属性で人間を語るし差別するしという奴らも多いしな。
案外、そういう語りはあまり相手にいい気を起こさないと思う。だがこの感覚は僕の属した集団によるバイアスが大きいかもしれない。そういったカテゴリー化→叩くの会話しかできない奴しか周りにいなかったら、それはすまない。このやり方は採用しないでくれ。
これに関しては、普段からやらなくてもいいと思う。多かれ少なかれ、人間はカテゴリー化して何かを捉えようとする。徹底してやろうとすると毒だ。ただ、普段からやるとイレギュラーな場面でもそういう振る舞いができる。
善意です、とか、優しさです、とか、そういうパッケージで売るなら尚更。
キモくて金のないおっさんとして社会からの孤独を感じているならば、「目の前のその人にやってやると良いこと」の感覚がズレてしまってる可能性がある。そうすると、良かれと思ってやったことが仇になるなんてことが起こってしまう。
これは悲しい。本当に誰も幸せになれない。
人の良さを提供しようとして出てしまう攻撃性は無自覚なものだから、なかなか気づけないとは思うけど、意識と反省、訓練である程度どうにかなる。
ゴリ押しになっちゃうんだけど、人生、難しいことはゴリ押しでやるしかないことも多いと僕は思う。
キモくて金のないおっさんは救われるべきか?とはじめたが、僕の答えは最初と同じ。
「救われたい奴が救われようとしたら救われるといい」
そんな感じ。長々書いたけど、リアルキモくて金のないおっさんの相談とか受けたことないからこの文章はかなり適当だ。最後まで読んでくれたならありがとうやで。
トップブコメにもある「子どもだから」「自我が確立してないから」仕方ないみたいな態度は子どもを軽んじてるし、そんな素振りを見せるのは逆効果だから絶対やめたほうがいいと思う。
読書感想文や作文が書けない子はとどのつまり褒められたいんだよ。大袈裟に言い切ってしまうと、書けない子は人から承認されうることがないと自分には存在意義がないと思う傾向にある。
変わった趣味を持ってて周りと話が合わなかったり、おっとりしていて出し抜かれがちな子。そんな子ほど周りより目立って称賛される立場でないと釣り合いがとれないんじゃないかと考えるのでは?と僕は思う。
もはや自分の思考なんかに興味を持つ人間なんていないというぐらい悲観的な子も中にはいる。現に自分はそういう小学生だった。
幼稚で平々凡々なものを提出して「自分は人より劣っているのでは?」「取り柄なんてないのでは?」という不安に苛まれること。それは彼らにとってのアイデンティティクライシスであり避けなければならない事なんだ。
そして本をよく読む子ほど文庫本の解説や雑誌新聞の書評といった「洗練された感想文」を目にしているため、自分もそういうものを目指して書こうとする。
評論や解説というのは対象をよくリサーチしそれで得た情報を整理していく作業。なので「かっこいい文章を書きたい」と手段と目的を倒錯させて取り掛かると当然うまく書けない。
この場合だと読書感想文のための読書になってしまうので本をちゃんと読めていないんだ。本を読んでいても、先生を唸らせる様な独創性がありかつ思慮の深い自論をどう構築するのかみたいなことばかり考えている。
(流石に小中学生でそれを明文化できるほどのメタ認知ができる天才なら苦もなく文章なんて紡げるので、本人は自分のそういう感情をはっきり把握はできていないだろうけど)
僕個人の体験からいうと「エルマーの竜の続きを考えよう」とか「ごんぎつねを一人称視点にアレンジしよう」みたいな課題は楽しく書けてた。そういう二次創作は対象を読んだときの解釈等で個性は出るけど、ベースは原作の世界観や設定を引き継ぐので気持ちが楽。
万が一「それは変だ」と指摘されても、「課題の物語がああなんだから仕方ないだろう」「自分の勝手な想像なんだから自由だろう」というダブスタで煙にまける。卑怯かもしれないがそうでもないと自分は書けなかった。
なので物は試しで増田もお子さんに課題図書の続きを考えることを一度進めてみてはどうだろう?
それですらすら物語を紡げる子ならなんとかそれを書き留めておく。そんで休み終盤でにっちもさっちもいかなくなった頃合にそれを基に読書感想文を完成させることを勧める。
自分の経験だと親に変わったアプローチを勧められると、どんな評価が下されるかわかったもんじゃないと反発していた。おそらくその案を採用するしかないというところまで追い詰められてないとすんなりそれを飲んで書き進められなかっただろう。だからあえて終盤まで書くことを意識させない方が却っていいかもしれない。
早い段階から取り掛かってしまうと「先生ベタ褒め完全無欠の読書感想文」を休み中ずっと追い求めるという地獄にのまれる可能性もある。それで苦手意識を強めるのもよくないので、そのためにも一旦読書感想文の存在を忘れさせてあげるのもいいのではないか。
「なぜ読書感想文を書くことが苦痛なのか?」という切り口の作文にスライドさせてけみたいなブコメもちらほらあるね。でも本の感想というテーマ設定があっても書けない子に、より自由度の高い作文は茨の道だろう。