https://mala.hateblo.jp/entry/2011/12/14/121139
個人的に銘文だと思っているmala氏の「はてな使ったら負けかなと思っている2011」が書かれてからおよそ10年が経った。
たしか当時はネットが危険な場所から健全な場所へとイメージが変わりつつある頃だったと記憶している。
はてなも湿っぽいイメージのはてなダイアリー(個人の感想です)から明るい陽キャのはてなブログへと転換を図り、その5年後には上場を果たす。
石の下でグネグネしていたネット諸氏は、少しづつ陽の光が当たり始めた場所に居心地の悪さを感じ始めていたのではないだろうか。
自身も石の下の一匹であった僕もまた居心地の悪さを感じた一人であり、mala氏の文章の文末に吐き捨てるかのように書かれた『大多数の人にとってインターネットは安全なものであり続けている。すべての人々が、ネットを通じたトラブルや揉め事に巻き込まれますように。』に喰らってしまった。
mala氏の呪詛が通じたのかは分からないが、多くの人にとってインターネットがより安全な場所になりつつある今、所謂「ネットを通じたトラブルや揉め事に巻き込まれた」人もまた少なくない。
毎日ネットで誰かが誰かに噛み付いており、モニターから飛び出して直に人間を殴りに行く者までいる。
ツイッターではしょっちゅう訴訟が起こされたり、訴訟をするぞと脅したり、訴訟を失敗して笑われたりしている。(10年前の皆さんはこんなにも訴訟が身近になると思っただろうか?)
気がつけばネット越しにお財布からお金を盗まれていて、誰かが炎上して辞職するニュースを見ながら振り返ると、後ろでは自ら火の中に飛び込むYouTuberがいる。
ネット炎上に(無自覚も含め)加害者として加担する人を含めればほぼ「すべての人々が」巻き込まれていると言って差し支えないだろう。
いい時代になった。
しかしそんなリスキーな時代なのにも関わらず、個人の匿名性はほぼなくなりつつある。
ここで言う匿名性とは、セキュリティ的なあれこれではなく「アバターと個人を切り離す」行為のことだ。
少し前、SNSがインフラ的な役割を担うようになった頃、多くの人がネット上の影響力や人間関係などが資産的な価値を持つと考え始めた。
実際、これらはリアルな金銭的な価値や、承認欲求を満たすアイテムとして、非常に高いレートで取引でき、将来性まである事がわかってしまった。
これらの資産を現実に持ってくるには、もちろんネット上のアバターと現実の個人を紐付けなければいけない。
普段は大事にしまっていて時折箱を覗いて満足する、そんな昔の玩具に法外な買取価格が付くかもしれないのだ。
ネット上の分人と現実世界の個人が紐付けば、ネット上のいざこざは現実世界に流れ込んできてしまうのは当たり前なのだが、それに直面したのは数年後。
そんな感じで、僕たちは貴重な匿名性を自ら放棄してお金とか自尊心だとか、まあそれ以外にも色々と便利なサービスを甘受して満足して暮らしましたとさ。
そんなわけで、おわかりだろうか、はてな匿名ダイアリーは数少ない残された大地である。
僕は文学に詳しくは無いし、文学のカテゴライズにはもっと詳しくない。
しかしぼくがかんがえるさいきょうのネット文学的な想いはぼんやりとある。
一番の条件は、書いた人が現実の人に紐つかないということだ。
誰かに結びついてしまえばもうそれはネット文学でなく、その人の文章になってしまう、そんな気がする。
誰が書いたのかがあやふやな文章、知っている人が読めば一発で属性が特定できそうな個性豊かな文章にもかかわらず、著者を知っている人は絶対読むことが無いであろう場所にひっそりと書かれており、物知りなネットの知り合いからリンクで送られてきたそれを開くと、改行や句読点の位置はまるでデタラメ、熱量だけで押し切られた5万字にも及ぶ文章は文句なく面白く「しかしこの文章読みにくいなー」「段落くらい分けろや」と文句を言いながらも一気に読み切ってしまう。
締切が近い仕事で深夜にシコシコと作業をしている時に、何の予告もなく突然そんな文章と出会い頭に衝突して朝まで全然仕事にならない、そんなのが理想のネット文学との出会いである。
昔はそんな文章にぶつかる事が多々あった。
テキストサイトという名の万国博覧会、ブログブームの中で一般の日記に交じる電波日記・怪文章、エログロナンセンス絶望の世界、2ちゃんねるのコピペ、そいういった無数の砂の中から時折砂金のような文章が落ちていたりした。
多くの文章は一期一会で、心と記憶に余韻を残しつつまた砂の中に消えていった。
いやいや昔話はやめよう。
ネット文学が現実と紐ついてほしくないというのは僕だけだろうか。
もちろん、ネット上の優れた才能が現実に結びついて報酬を得られるのは喜ばしいことだ。
しかしそのサイクルが非常に早く、システム化され、なんなら最初から最後までの筋道が出来てしまっている事が多い今日では、現実と紐つかない文章にこそネット文学としての煌めきがあると僕は思う。
ネットと現実の結びつきがより強固になった今、ネットでしか読めない文章、ネットでしか評価されない(あるいは評価もされない)文章というものはこの先ますます読めなくなってくる。